miki のすべての投稿

・説教 詩篇31篇 「我が霊を御手にゆだねます」

2013.3.10

鴨下 直樹

この詩篇は実に豊かな内容も持つ詩篇です。特に有名な箇所は、説教題にもしました五節の「私のたましいを御手にゆだねます。」という言葉です。これは、主イエスが十字架の上で最後に語られた言葉として知られる言葉です。ダビデの祈りとされるこの言葉を、主イエスの生涯の最後にお語りになられたということからしても、この言葉の持つ意味の重要さがおわかりいただけるのではないかと思います。死の直前に口にする主イエスの言葉が、この詩篇だったのです。今朝はこの実に豊かな内容を持つ詩篇から主のみことばを聴きたいと思います。

明日で、東北で起こった大震災から二年がたちます。連日、テレビでもそのような報道がなされています。教会の暦がレント、受難節を迎えていることもあって、私たちはどうしても、この季節に様々な問いを持ちます。その大きな問いの一つは「神よどうして」という問いなのではないかと思うのです。 続きを読む ・説教 詩篇31篇 「我が霊を御手にゆだねます」

・説教 詩篇25篇 「主よ私の魂はあなたを仰いでいます」

2013.3.3

鴨下 直樹

先日の祈り会でこんな質問がでました。詩篇の祈りというのはかなり正直に祈っていて、こんなことまで祈っていいのかというような祈り、例えば、自分は正しいのだとか、敵を滅ぼしてくださいというような祈りは、祈りとしてどうなのでしょうかと、尋ねられました。これは、詩篇を読む人であれば誰もが一度は心に浮かんでくる問いなのではないかと思います。詩篇の中にある祈りというのはどうも教科書のお手本のようにできるような祈りばかりではないのです。かなり率直に祈っています。こんな祈りをしたら神様はお怒りになられるのではないかと思えるものも少なくないのです。
これは詩篇に限った事ではありませんけれども、聖書は人間の心の片隅に浮かぶような思いも、あるいは、本当は隠しておいたほうがよい罪もそのまま記されています。この聖書にはありのままの人間の姿が描き出されています。ですから、祈りにおいても、いや、祈りにおいてこそ、人間の心の内面がよく表されるということが言えると思います。

この詩篇の二十五篇には表題に「ダビデによる」とありますから、ダビデの手によるものと考えられています。このダビデの祈りとして、冒頭に「私が恥を見ないようにしてください」という祈りが、二節と二十節に出てきます。ダビデだけではありません。人は誰でもそうですが、恥をかかされるということが好きではありません。人前で非難されるとか、辱められたという経験を一度すると、なかなか赦すこともできなくなってしまいます。ですから、人前に出る時にはできるかぎりきちっとした服装をして、身なりを整えて出かけます。この恥というのは、周りの人々の中で面目を保つという意味があります。しかし、この詩篇はこのように始まります。

主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。わが神。私は、あなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにしてください。私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。

一節と二節です。主を見上げて主に信頼している人が望んでいるのは、自分が恥をかかないことだというわけです。最初の質問に立ちかえるなら、この祈りもまたずいぶん身勝手な祈りということになるかもしれません。
神様を信頼していると言いながら、すぐに自分の面目を保って下さいと祈っているのです。神を信頼しているのか、自分のことをまず第一に考えているのかというような祈り始めです。けれども、この祈りにはそう祈るだけの理由があるようです。 続きを読む ・説教 詩篇25篇 「主よ私の魂はあなたを仰いでいます」

・説教 ガラテヤ人への手紙5章16-26節 「自由への戦い」

2013.1.27

鴨下 直樹

今日の説教題を「自由への戦い」としました。今日の十六節からの聖書箇所には自由という言葉はありませんので、なぜこんな題をと思う方があるかもしれませんが、その前の十三節から自由についてパウロが語っているからです。ですから本当でしたら今日は十三節からにするべきだったかもしれません。
この「自由」という言葉は色々なものを連想させます。自由と言った時に連想するのは、多くの場合、自分の願いが満たされること、自分がまさに自由に、気ままに生きることができる時であろうと思います。けれども、私たちがキリスト者としてこのテーマから連想する自由のイメージは、もしかすると、信仰に生きるために欲望を我慢して不自由を強いられることが信仰的な生き方で、それを聖書は御霊に生きると言っていると理解してしまうことがあるかもしれません。
このような考え方を禁欲主義といいます。禁欲主義などという言葉を使いますと、自分はそんな堅苦しく考えていないと思うかもしれませんが、信仰に生きるというのは、禁欲的な生活を強いられるというイメージを持っている人は意外に多いと思います。今日の箇所は私たちが信仰者としてどのような自由に召されているのかを考えてみたいと思います。

私は今、「自由に召される」と言いました。召されるという言葉は、たとえば牧師になるために神学校にいくように召されたなどという使い方をしますから、何か特別な召命を受けた人のことと考えてしまうかもしれません。しかし、パウロはこの十三節で「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。」と書いています。召すというのはそのために任命するということです。神は私たちが自由に生きるように任命してくださったのだというのです。

けれども私たちが信仰に生きる時、この自由によって与えられる喜びが失われていることに気づくことがあるのではないかと思います。教会に来始めた頃、聖書の話に興味をもって礼拝に来ていた時は喜んで来ていたのだけれども、信仰に生きるようになって、洗礼を受けていつのまにか、喜びが心の中に感じられなくなってしまって、何となくの義務感や、人付き合いから来る責任感の方が大きくなってきてしまうということがあるようです。これは残念なことです。いくら残念と言っても、簡単に喜びを取り戻すことができなくなっていくと、それは深刻な問題です。
今日の聖書の箇所は私たちが失いそうになってしまいがちな、この信仰の喜びに深く根差す自由はどこから来るのかということを、パウロは教えようとしているのです。

パウロは今朝のところでこう言っています。 続きを読む ・説教 ガラテヤ人への手紙5章16-26節 「自由への戦い」

・説教 ガラテヤ人への手紙5章2ー15節 「愛によって働く信仰」

2013.1.20

鴨下 直樹

先ほど、詩篇の五十一篇を聞きました。「ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」との表題がついています。イスラエルの王ダビデが、自分の部下ウリヤの妻バテ・シェバと姦淫の罪を犯します。そして、部下のウリヤを戦争のもっとも激しい所に送り出して殺してしまうという出来事が起こりました。今日流の言葉で言えば不倫です。そして、それが殺人事件に発展したのです。しかし、ダビデは王さまです。自分のしたことをうまく隠すこともできれば、それを攻め立てる人もおりません。この出来事の書かれているサムエル記第二の第十一章、十二章を見てみますと、ダビデはその出来事を隠そうとはしていても、悪びれている様子はありません。けれども、預言者ナタンがダビデを訪ねて来て、このダビデの罪を臆することなく指摘します。その時にダビデが悔い改めた祈りが、この詩篇五十一篇です。
ダビデの時代というのは、罪の赦しのために犠牲を捧げることが律法に定められていました。けれども、ダビデはこの詩篇の中で、自分の罪に目をとめながら神は本当は犠牲を捧げることを願っているのではなく、心から悔い改めることを求めているのではないかと気づきます。それが、この詩篇の祈りの中で現れているのです。

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

十節。そして、

たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

と十六節、十七節にあります。
ダビデはこの詩篇で、自分には母親から生まれた時から罪があるのだとの自覚を告白し、その罪から完全にきよめられるためには全焼のいけにえを捧げることによって罪が赦されるのではなくて、神によって新しい存在にされることだとの結論に達します。パウロの時代から約千年も前の出来事です。

人が罪からきよめられるために必要なことは、律法の規定のとおり全焼のいけにえを捧げることか、それとも、神によってきよめられることか。 続きを読む ・説教 ガラテヤ人への手紙5章2ー15節 「愛によって働く信仰」

・説教 ガラテヤ人への手紙4章12-20節  「パウロの願い」

2013.1.6

鴨下 直樹

今日の説教の題を「パウロの願い」としました。それは今日の聖書の冒頭の言葉、「お願いです。兄弟たち。私のようになってください。」という十二節の言葉からとりました。もっと色々な題をつけることができると思います。いつも単純な題しかつけられないのですが、今日の聖書が語っているのは、パウロのこの言葉につきるのです。

お願いです。兄弟たち。私のようになってください。

しかし、よく考えてみますと、私たちは普段そのように誰かに言うことができるでしょうか。たとえば、昨年のクリスマスに洗礼式がありまして、洗礼を受けられた方に教保という人がつきます。新しい信仰の歩みの支えとなるように役員会でよく祈りながら教保をつけるのです。教えを保つと書きます。その教保が新しく教会員となった方に、「なに、心配することはないのです。私のように生きたらよいのです」と言えるかということです。そんなことを言うと、誰かの教保をしておられる方はびっくりしてしまうかもしれません。「私はそんな立派なキリスト者ではない」と言いたくなるのではないかと思うのです。

私たちは、「私のようになってください」などと言えるのは、よほど立派な人間でないと言えることではないとまず考えるのではないでしょうか。実際、そんなに軽々しく言える言葉ではないのです。しかし、パウロはここでそれこそ確信をもって語っています。もちろん口先だけの言葉ではなかったはずです。心からそう願っていたに違いないのです。
私たちが言うことができるとしたらどうでしょう。前任の後藤先生の書かれた『キリスト教Q&A21』という本があります。この本はこれまで洗礼を受ける方のテキストにしてきたということもあって、今もそれを使って洗礼の方の学びをしています。その中にもでてきますけれども、後藤先生自身、洗礼を受けたときに誰かにこう言われたそうです。「人間をみてはいけません。キリストを見ることが大事です。」と。人が何をしたとか、何をしなかったとかそういうところにいつも目を向けていると、腹が立ったりします。けれども、主イエスを見つめていれば、そういうことから回避できるというのです。後藤先生自身、そのアドバイスはとても役にたったと書いておられます。

パウロが、「私のようになってください」と言っているのは、自分は立派なキリスト者で、私を手本にすると良いという意味で言っているのでしょうか。パウロはこのすぐ後で「私もあなたがたのようになったのですから」と言っています。これは、どういうことなのでしょうか。 続きを読む ・説教 ガラテヤ人への手紙4章12-20節  「パウロの願い」

・元旦礼拝 ヘブル人への手紙13章14節 「永遠の都を求めて」

2013.1.1

鴨下 直樹

<ローズンゲンの年間聖句>

わたしたちはこの地上に永続する都をもっておらず、来るべき都を探し求めているのです。

ヘブライの信徒への手紙13章14節  新共同訳

私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。

ヘブル人への手紙13章14節 新改訳

2013年を迎え、今朝、私たちは元旦礼拝の時を持っています。そこで、年間聖句から御言葉を聞くことになっています。今年、私たちに与えられているのが、このヘブル人への手紙13章14節のみ言葉です。
「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」
私たちは、この新しい年に、私たちがもとめているのはこの地上の都ではないのだという、はっきりした否定の言葉を聞いています。私たちが求めているのは、この地上にあるものではないのだとこの御言葉は宣言しています。新年に聞く御言葉としては少し驚くかもしれません。私たちは、この地上での生活が少しでも善くなれば、少しでも幸いな生き方ができればと考えています。けれども、私たちが求めているのは、この地上の生活なのではなくて、この後に来る永遠の都での生き方なのだというのです。

そのことを考えるのに、私たちがまず考えなければならないのは、私たちの生活から考えるのを止めるということです。私たちの生活を土台にして考えるのではなく、まず、イエス・キリストは何をなさったのかということを考えてみることが大事です。 続きを読む ・元旦礼拝 ヘブル人への手紙13章14節 「永遠の都を求めて」

・説教 ガラテヤ人への手紙4章1-11節 「解放の言葉」

2012.12.30

鴨下 直樹

クリスマスを迎え、今朝は降誕後第一主日です。教会の暦ではクリスマスを覚えて祝う主の日です。私たちは年末ということもあって、もうクリスマスの気持ちはすっかり抜けて、新年を迎えるための準備をしておられる方々も多いかと思います。私も先週三日間のお休みをいただきました。と言ってもどこかに出かけたというわけではなくて、念願の大掃除をいたしました。牧師室などは何年ぶりかで綺麗になりました。これで気持ちよく新年を迎えられるという思いが私にもあります。けれども、教会の暦ではクリスマスです。不思議な気持ちになるかもしれません。それは、クリスマスはもう終わってしまったことと考えてしまうので、今朝の礼拝ではクリスマスのお祝いなのですよ、と言われてもあまりピンとこないのかもしれません。

今、礼拝ではこのガラテヤ人の手紙を順に学んでいます。そして、不思議にも、ちょうどクリスマスの出来事がここにも記されているのです。四節にこうあります。

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

神が定められた時、それがクリスマスでした。その神が定めたクリスマスの時に、神はイエス・キリストをこの世に生まれさせ、イエス・キリストもこの世界の律法、つまり法律のもとに生きる者とされましたと書かれています。ここに一つの大切なクリスマスの意味が記されています。クリスマスというのは、天におられた神であられたお方がこの地に来られて、この世界のルールに従う存在となったのが、クリスマスの意味だということができるわけです。
そして、神がなぜそんなことをなさったのかというと、続く五節で、

これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

となっています。大変、興味深い説明をパウロはここでしています。神の御子であられる主イエスがこの世界のルール、きまりに従うのは、私たちがそこから解放されて神の子とされるためだというのです。

先週の礼拝で、クリスマスを祝いながら洗礼式を行ないました。洗礼というのは、キリスト者として新しく生まれるという意味を持っています。主イエスを信じるまでの生き方は、この世の価値観に支配されながら、みんなが考えるように自分も考えて決断するという生き方をしてきました。この世の考え方と言っても色々あります。自分の生活が第一という人もいれば、人のためになることをしたいと思っている人もいます。ですから、それらを簡単に悪いと言いきることはできませんし、それを一口に言い表すことはできないのですが、パウロはここで、「この世の幼稚な教えの下に奴隷になっていました」とはばかることなく主張します。しかも、ここで「私たちも」とパウロ自身、この世の幼稚な教えに支配されていたと言っています。ここで、パウロはそのようなこの世界の価値観を否定しているわけではありません。神の価値観に比べて幼いのだと言っているのです。 洗礼を受ける前の生き方が、この世の幼稚な教えの下で生きて来た、などと言うと、そうとう多くの人が拒否反応を示すのではないかと思います。

あの宗教改革者のルターの改心の出来事を聞いたことがあるでしょうか。 続きを読む ・説教 ガラテヤ人への手紙4章1-11節 「解放の言葉」

・説教 ルカの福音書2章1-7節 「居場所のないキリスト」

2012.12.23

鴨下 直樹

クリスマスになりますとさまざまなクリスマスに登場する人物に脚光が当てられます。主イエスの母マリヤ、天使ガブリエル、荒野にいた羊飼いたち、東の国の博士たち、そして、宿屋の主人。クリスマスの劇のことを生誕劇などと言いますけれども、かならず登場する人物たちです。けれども、宿屋の主人といいますのは、聖書を見てみますと、この「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」という記事が載っているだけです。そこから、ああ、主イエスがお生まれになられた時に宿屋にも泊ることができず、それで家畜小屋でお生まれになったのだということが分かるのです。しかし、家畜小屋とか、馬小屋と言われていますけれども、その言葉さえ聖書には出てまいりません。「飼い葉おけに寝かせた」とあるので、飼い葉おけがおかれているのは家畜小屋であろうと推測しているのです。いずれにしても、主イエスがお生まれになられたこのクリスマスの夜、世界はこの赤子を受け入れる場所さえなかったのだと聖書は記しています。これがクリスマスのはじめの出来事でした。

今日、私たちはこの礼拝でクリスマスをお祝いしております。三人の方の洗礼式が行なわれ、聖餐式がとり行われます。クリスマスの賛美を歌い、クリスマスの出来事の聖書に耳を傾けています。おそらく、みなさん今年はいいクリスマスだと思っておられるのではないかと思います。まさに、喜びの祝いです。そういう喜びの出来事の中で、私たちはこの朝、もう一度クリスマスに何が起こったのかということについて考えてみようとしているのです。 続きを読む ・説教 ルカの福音書2章1-7節 「居場所のないキリスト」

・説教 ガラテヤ人への手紙3章1-14節 「聞くことから始まる信仰」

2012.12.9

鴨下 直樹

第二アドヴェントを迎えました。先ほども賛美をいたしましたが、このアドヴェントに蝋燭を一つづつ灯します。讃美歌21の242番の「主を待ち望むアドヴェント」という賛美は、アドヴェントの日曜を迎える度に蝋燭を一つづつ灯しながら主イエスが来られる意味を思い起こさせます。「主を待ち望むアドヴェント、第二の蝋燭灯そう。主がなされたそのように、互いに助け合おう」。第二アドヴェントのところを今、そのように歌いました。この賛美は、主が何をなさったのかを思いだして、そのように互いに生きようという招きです。私たちはアドヴェントの時だけではありません。いつも主がどのようになさったのか思い起こす必要があります。
もう随分前のことですけれども、いつも説教の学びをしております説教塾というグループでお互いの説教を一つづつ集めて、説教集を出そうということになりました。まだ牧師になったばかりの時でしたけれども、私もその説教集に名前を連ねさせてもらいました。その説教集に説教塾の指導をしてくださっております加藤常昭先生が素敵なタイトルをつけてくださいました。「思い起こせキリストの真実を」というタイトルです。「キリストが何をしてくださったのかを、この説教によって思い起こそうではないか」と訴えかけているようで、よい題をつけてくださったと思っています。

今日の聖書はまさに、パウロはキリストの何を聞いて来たのかとガラテヤの教会の人々に語りかけているところです。
一節では「ああ、愚かなガラテヤ人。」と自分が築き上げた教会の人々に向かって、ついにパウロは「あなたがたは何と愚かなのだ」、「馬鹿者なのか」と語っています。いくらパウロ先生でも、言っていいことと悪いことがあると言い返したくなる人があったかもしれません。直接、相手を馬鹿者、愚か者と叱咤することはあまりいいことだとは言えません。けれども、パウロはそう言わずにはいられないほど、ガラテヤの教会の人々に語りかけたいことがあったのです。 続きを読む ・説教 ガラテヤ人への手紙3章1-14節 「聞くことから始まる信仰」