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・説教 ヨハネの福音書18章28-40節「真理とは何ですか?」

 

2016.02.21

鴨下 直樹

 
 受難節を迎えています。この季節、私たちは主イエスの苦難の姿を心にとめながら、主イエスの苦しみの意味を考える時間があたえられています。そして、今日私たちに与えられている聖書の言葉は、私たちが主イエスの姿を心に刻むためにもとても重要な箇所だということができると思います。

 この主イエスのピラトによる裁判の箇所は18章28節から19章16節までです。本当はもう少し丁寧にみ言葉を心にとめたいのですが、二回に分けてここから主の言葉を聞きたいと思います。さっそく今日の28節にとても興味深いことが記されています。

さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは過越しの食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった。

と書かれています。

 ここは、ヨハネの福音書特有の皮肉のこもった書き方がされているのですが、そもそも、過越しの食事を食べるために異邦人の家に入ってはいけないというような戒めは聖書にはありません。けれども、どうも、当時のユダヤ人たち、特に律法学者たちは、律法を完全に守るために、さらに細かい細則を作っていました。そういう自分たちで決めた決まり事を守るために、ユダヤ人宗教指導者たちは、主イエスの裁判を求めてローマの総督ピラトの官邸まで連れて行ったのですが、自分たちは汚れるので入らないというようなことをしたようです。殺してはならないという戒めについては目をつぶっておいて、本来戒めでもなんでもない細かい決まりは守ろうとするという、このユダヤ人指導者たちの姿をヨハネはここで皮肉をもって描いているわけです。

 それで、実に面倒くさいことだったと思いますけれども、ローマ総督のピラトの方からこのユダヤ人たちと対話をするために外に出向いて、ユダヤ人たちと会話をするという場面がはじめに記されています。
 ここでピラトはユダヤ人たちに尋ねます。「悪い人だから連れて来たんでしょう。なぜ、自分たちで裁かないのか」と問いかけています。ユダヤ人指導者たちは、「自分たちでは死刑にする権限がありません」と答えます。もちろん、そんなことはないわけです。主イエスの時代、「石打ち」という言ってみればリンチのようなやり方で、ユダヤ人たちは罪を犯した者を殺してきた事実があります。これは、ローマの手で主イエスを殺させる方が、自分たちはローマに逆らう気持ちはないのだというアピールにも使えるわけですし、自分たちの手も汚さなくて済むという考えが彼らにはありました。32節はそれこそが、イエスのことばの成就だという書き方をしています。

 さて、そこで、次の33節からの場面ではピラトと主イエスとの対話の場面に移ります。この対話にいたって、この裁判にさほど関心も示していなかったピラトが主イエスの言葉に引き込まれていく姿が描き出されています。ピラトは尋ねます。「あなたはユダヤ人の王ですか。」すると、主イエスは「それはあなたがそう思うのですか、誰かからそう聞いたからですか」とピラトに反対に問いかけます。ピラトにしてみれば、何をいっているんだという感じであったに違いありません。「わたしはユダヤ人ではないのだから、私には関係ないことだ、いったい何をしてここに連れられてきたのだ」とピラトは問い返します。
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・説教 ヨハネの福音書18章12-27節「アンナスの尋問と主の弟子ペテロ」

 

2016.2.14

鴨下 直樹

 
 今週からレントに入ります。また私たちはこの礼拝にまさにレントにふさわしい聖書の箇所を聞きました。主イエスの裁判が行われるところです。主イエスが弟子のユダの裏切りによって捕えられ、裁判にかけられます。今日のところはローマの裁判というよりも、ユダヤ人たちによる裁判と言ったらいいでしょうか、尋問というべきかもしれませんけれども、アンナスによる取り調べをうけるところです。

 先週の木曜日、前任の浅野牧師のお子さん、Y君の記念会が行われました。亡くなって10年を今年で迎えました。私はその時ドイツにおりましたので葬儀にでることはできませんでした。浅野先生たち家族がY君を支えられた生活は本当に厳しいものだったのだろうと想像します。また、教会のみなさんも、そのために祈り支えてこられたのだろうと思います。この記念会で浅野先生がコリント人への手紙第二、第四章16―17節のみ言葉を紹介してくださいました。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

 この聖書の箇所は、Y君が病を再発して動揺していた時に、聖書を読んでほしいと頼んだそうですけれども、読む箇所、読む箇所、そこじゃない、そこじゃないと言っていたんだそうです。ところが、このみことばを読んだとたん、「もう大丈夫」と言って落ち着きをとりもどしたのだそうです。

 まだ10歳という若さで、自分の病と闘いながら、死と向き合うというのはどういうことだったのだろうかと、改めて考えさせられました。そんなことを考えながら、今日の説教のために、この箇所を読んでいたのです。
 そうしたら、金曜日の昼に、Nさんから電話がありまして、妻のHさんが心筋梗塞で、今から救急で県病院で治療を受けるので祈って欲しいという電話をいただきました。電話をいただいてすぐ病院に向かいました。Hさんは、四か月前、祈祷会の最中に急に胸が苦しいと言って倒れられ、救急車を呼んで、治療を受けたばかりです。「大動脈解離」という、心臓から出ている大動脈という血管が縦に裂けてしまう大変な病だったのですが、治療している間に血管の傷が塞がっていきまして、その時は手術をしないでも良いということで回復したわけです。今回、また心臓ということで、とても心配しながら病院に行ったのですが、幸いにも、大事には至りませんでした。心臓の痛みを覚えたそうですが、血液をサラサラにする薬を飲んだところ、痛みは消えたのだそうで、今は原因を探りながら、薬で症状を改善できるように調べているということでした。
 思わぬ事態というのは、どこか遠いところにあるのではなくて、本当に私たちの日常というのは、常に死と隣り合わせのところにいるのだということを、改めて認識させられています。 続きを読む ・説教 ヨハネの福音書18章12-27節「アンナスの尋問と主の弟子ペテロ」

・説教 ヨハネの福音書18章1-11節「誰を捜しているのか」

 

2016.02.07

鴨下 直樹

 
 私事で始めて恐縮ですが、みなさんは散歩をされることがあるでしょうか。私は長い間飼っていた犬が死んでからすっかり散歩をしなくなってしまいました。けれども、まだドイツにおりました時は、必ず一日、小一時間犬と一緒に散歩に出かけました。私の住んでいた村はオーバディルフェンという小さな村です。人口も1000人いるかどうかというような村で、家の通りを500メートルも歩きますとすぐに森に入ります。毎日、ほぼ同じ道を、ドイツ語の単語帳片手に午後3時頃から歩き始めるというのが日課でした。今でも、その時のことを時々思い出して、懐かしく思う時があります。

 主イエスもまたエルサレムにおられた時に、いつも決まったコースを歩きながら祈りに出かけられたようです。弟子たちであれば、みなその道を知っていました。弟子たちにとってその道は特別な道です。ケデロンという、冬の間だけ水が流れて川になった谷がありまして、その川筋にそってオリーブ山と言われる所へとつながる道です。ヨハネはそのことをここでしっかりと記録しています。特別な思いがあったのでしょう。あるいは、その弟子たちにとって特別な場所が、裏切り者のユダによって汚されてしまったのだという悲しい気持ちが込められているのかもしれません。
 ユダはそこに一隊の兵士たちと、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れてきています。数百人というものものしい人数で、夜だったのでしょう、たいまつと、おのおの武器をもってその道に集まって来ているのです。

 今日のこの箇所は主イエスが逮捕されたところが記されています。新共同訳聖書ではここに小見出しがついていまして、「裏切られ、逮捕される」と書かれています。聖書を読み進めていくなかで、読む人にショックを与える箇所と言えます。けれども、聖書を読む時にとても大事なことは、このヨハネの福音書はまさに、人々がショックを受けるところで、何を語っているかということです。

 先日も、ニュースで有名な野球選手が覚せい剤で逮捕されたというニュースが報道されました。そうしますと、いたるところで、あの人は昔からちょっと問題があったというような発言がどこからともなく飛び出してきまして、もうそんなことばかりが報道で取り上げられます。捕まえられる人間というのは、どこかに問題をかかえている弱い人間なのだと、それまでとはまるで手の平を返したような言葉で一斉に攻撃を始めます。
 私たちはそういう人間の弱さを見ると、まるで鬼の首を取ったかのように、突如として攻撃的になります。不快だと感じるのです。不快だと感じるので、そういう人を攻撃しながら、自分はそうではない、そういう弱い人間ではないのだとことさらに語ろうとします。

 しかし、このヨハネの福音書をみていますと、ここで捕えられようとしている主イエスの姿はちょっと異なります。4節よみますと、主イエスの方から、出てこられて「誰をさがすのか」と問いかけられているのです。そして、5節と6節を見てみますとこのように記されています。 続きを読む ・説教 ヨハネの福音書18章1-11節「誰を捜しているのか」

今月の礼拝予定(2016年2月)

2月7日 降誕節第七主日

主日主題: 自由
聖餐式礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨハネの福音書18章1-11節
説教:「誰を捜しているのか」 鴨下直樹牧師
聖餐式

午後:聖歌隊練習(礼拝後すぐ)、役員会

2月14日 降誕節第八主日

主日主題: 信仰
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨハネの福音書18章12-27節
説教:「主の弟子ペテロと大祭司カヤパ」 鴨下直樹牧師

午後:2016年度教会総会

2月21日 降誕節第九主日

主日主題: 真理
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨハネの福音書18章28-40節
説教:「真理とは何ですか?」 鴨下直樹牧師

午後:礼拝準備会、礼拝細目確認会、東海教会献堂式

2月28日 降誕節第十主日

主日主題: 神の国
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: (未定)
説教:川村江弥 師

午後:聖歌隊練習(礼拝後すぐ)、各部会、川村師と共に愛餐会

・説教 エペソ人への手紙1章3-14節「みこころの奥義(ミステリー)」

 

2016.01.31

鴨下 直樹

 
 昨年の10月から東海聖書神学塾で説教学を教えることになりました。どのように説教をするのか、教会で聖書を語る奉仕をしている方は少なくありません。私たちの教会でも役員はほぼ一年に一度ほど説教をします。あるいは、教会で子どもたちに聖書を語る教師もみことばをどのように語るのかしっかりと学ぶ必要があります。今、神学塾で九人の方々が受講しているのですが、ルカの福音書の第十五章、いわゆる放蕩息子と言われているところからの説教演習をしています。先日で3回目になりますが、すでに七人の方から同じ箇所の説教を聞き続けているわけです。説教を聞いた後で、それぞれに批評しあうのですが、私は最後にどこが良くて、どこが悪いのかということを分析して、できるかぎり本人がしたいと思った意図をつかみとってやりながら、その人が伝えたいと思っていることがどうしたら効果的に伝えられるのか解説をします。

 そのなかで、説教を作成する前にも注意をするのですが、文章のセンテンスは短くすること。原稿に書くのであれば、一つの文章で一行半までにおさまるようにまとめるよう指導します。私がいつも気をつけていることでもあります。一つの文章の中に、いくつもいくつも言いたいことを入れ込みますと、聞いている方はもう何を聞いているのかさっぱり分からなくなってしまうのです。

 実は、このエペソ人への手紙にもその問題があります。これはエペソなどの小アジアの教会で回覧された手紙です。おそらく、礼拝の時に、今の説教の代わりのようにしてそのまま朗読されたと考えられます。ところが、この文章が少しまずい。今日は予定を変更して3節から14節までとしましたけれども、実は、この3節から14節までが一つのまとまった文章なのです。14節にきてようやく文章の最後に「。」(句点)が付くのです。日本語の翻訳は、さすがにそのまま訳しますともう訳が分かりませんので、何度も何度も文章を短く区切っています。

 この長い一つの文章の中には神の選びについて、罪の赦しについて、そしてみこころの奥義についてが書かれています。しかも、その一つの文章の中には「私たちは」という主語も入っていれば、「神は」という文章もあります。13節からは「あながたがは」という主語まで出て来ますから、もう翻訳する方は大変です。翻訳をする方はみんな苦労しながら、パウロの言いたい意味をつかみ取って、まぁこういうことが言いたいのだろうと推測をしながら、文章を切り分けていく作業をしているわけです。そのおかげもあって私たちもその書かれた文書を何となくこういう意味かなと理解することができるわけですが、すっきりしない部分も残るわけです。ですが、安心してください。この手紙の意味が分からないとしても、みなさんの理解力がないからでも、翻訳者が悪いわけでもなくて、もともとの文章が分かりにくいからなのです。

 今日は、主に7節以降のところの内容に注目してみたいと思っているのですが、7節でパウロは、キリストの血による罪の赦しのことを神の恵みだと言っています。そして、8節では、この罪の赦しの恵みは、神が知恵と思慮深さをもって、この恵みを分からせてくださると言っているわけです。
 そこまできますと私などは安心するわけです。ああ、パウロの文章は理解できなくても、神の知恵と思慮深さでもって、この難しいパウロの理屈もすべてそっくりまとめて分からせてくださると言っているのです。 続きを読む ・説教 エペソ人への手紙1章3-14節「みこころの奥義(ミステリー)」

・説教 エペソ人への手紙1章1-6節「キリストのうちに選ばれて」

 

2016.1.17

鴨下 直樹

 
 芥見教会は今日で宣教を開始して35周年目を迎えます。35年前、ストルツ先生によってこの芥見の地で宣教が開始されました。ストルツ先生は、この芥見の前は古知野教会で伝道しておられました。当時古知野でストルツ先生からドイツ語を学んでいたA兄に、ストルツ先生と一緒にこの芥見の地を見にきて、ここで伝道をはじめることになったという話を聞きました。私の父はこのストルツ先生と一緒に同盟福音の開拓期を一緒に伝道してきたので、私は子供の頃からよくストルツ先生の名前を聞いていましたし、以前いた教会もストルツ先生の開拓された古知野教会でした。この芥見教会に来た時も、ストルツ先生の開拓をされた教会で、不思議な神様の導きを感じています。

 ドイツにおりました時も、日本に戻ったら芥見で牧師になるという話をストルツ先生にお話ししましたら、ストルツ先生ご夫妻がとても喜んでくださったことを私は忘れることが出来ません。そのような不思議な縁があることを何か運命じみたものとして理解することもできるのかもしれませんが、私としては不思議な神様の導きだと感じています。

 これまでヨハネの福音書から連続して講解説教をしてまいりました。アドヴェントからは、すこしヨハネを離れましてクリスマスに関する箇所から説教しまして、新年は年間聖句、また教団の五か年計画の箇所と説教してきました。ですから、今日からまたヨハネに戻ると思っておられた方々がおられると思いますけれども、今日からエペソ人への手紙からみ言葉を聞きたいと思っています。というのは、ヨハネの福音書は最後の受難の箇所を残すのみになりまして、イースターの時にちょうどヨハネの福音書20章から説教したいと考えていますので、逆算して2月からまたヨハネに戻ります。イースターの後はエペソ人への手紙の説教を考えておりますので、今月は少し先だってこのエペソ人への手紙の冒頭からみ言葉を聞きたいと思っています。

 エペソ人への手紙はパウロが教会についての教えを書いた手紙として知られている箇所ですが、実はいくつかよく分からないところがあります。たとえば、この「エペソ」あての手紙ということになっているのですが、一番古い年代の写本にはどれもエペソという名前が書かれていません。あとで、エペソと書き足されたことが分かっていますので、直接エペソの教会宛に書かれたのかどうかは、今となってははっきり分からないのです。ただ、どうもこの手紙はエペソのありました小アジアと呼ばれていた地域に宛て書かれた手紙であることは間違いないようですから、エペソの教会にも当然読まれることを想定して書かれました。

 また、最近の聖書学というのはすごいと感心するんですが、このエペソ人への手紙で使われている用語が、他のパウロが書いた手紙の用語の使い方と著しく異なっているため、パウロが書いたのではないのではないかと考えられるようになったわけです。ただ、どの聖書学者もそうはいってもパウロの信仰がここで書かれているには違いないので、パウロの弟子がパウロに代わって書いたのではないかなどと考えられています。いずれにしても、私は手紙の著者をパウロとして語っても何も問題ないわけですから、著者をパウロとして説教したいと思っていますのでご理解いただきたいと思います。

 また、この手紙は牢獄に捕えられている時に書かれた獄中書簡であると言われてきました。3章1節や4章1節で、パウロは自分のことを「囚人」と言っています。獄につながれているというのは、どういう状況なのか、今日と同じような状況であったのかどうか、それもなかなか想像することは難しいのですが、捕えられて思うように行きたい所にいくことができず、常に監視されるような中で、パウロに出来ることといえば主を賛美すること、そして、これまで以上に深い思索をする時間が持てたということでもあります。そういったパウロの状況がこの手紙を書かせたと言えます。 続きを読む ・説教 エペソ人への手紙1章1-6節「キリストのうちに選ばれて」

・説教 マルコの福音書12章28-34節「次世代のために献身する」-同盟福音キリスト教会五か年計画の聖句より

 

2016.1.10

鴨下 直樹

 
 昨年の11月に教団総会が行われました。そこで、2016年から2020年までの教団五か年計画について決議されました。そこで、私たち同盟福音キリスト教会は、「次世代のために献身する」をテーマにこれから五年間歩んでいくことを決めました。そして、今日の聖書の箇所はそこで取り上げられた箇所です。

 2015年の11月総会にこの「次世代のために献身する」というスローガンが打ち立てられました。そして、総会資料にはこういう説明文がつけられていました。少し読みたいと思います。

マルコの福音書12章28-34節を選びましたのは、私たちのすべての献身の根源が、神様の最も大切な命令にあると思ったからです。「イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。この二つより大事な命令は、ほかにありません。」愛の神様でなければ、愛の命令はできません。愛することは献身することです。神様のご命令に立ち返り、神様ご自身と隣人(次世代)への愛の献身を深め、広げていきましょう。

そのように書かれています。

 私たちの教団は今年で宣教60年を迎えます。私たちの同盟福音キリスト教会は、開拓の教会も合わせて27教会、約1000人の教会員がいます。これでもここ十年の間、教会の人数はほとんど増えていません。そして、この間に経済的に維持することが難しい教会の数はどんどん増え続けています。幸いなことに、これまで教会で牧師として働く献身者は多く与えられてきましたので、いま現在牧師が不足しているということにはなっていません。退職を迎えた牧師たちの協力もあって教会の働きはつづけられています。

 私たちは普段、この芥見教会に集っていますし、他の教会のことをさほど気にとめることもないと思いますが、実は私たちの教団はすこし変わっているのです。私たちはこの27の教会すべて合わせて一つの教会というように考えています。ですから、昨年三月、芥見教会の駐車場のための土地を購入することを決めましたが、それは、教団全体の総会で決議されています。普段、あまり周りの教会のことを考えていないのですが、本当はとても大切なことなのです。芥見教会のことだけを考えてみるだけも大変なことなのですが、この教会は経済的に、駐車場の土地を購入できても、整備するお金がいまのところ足りないという問題はありますが、全体的にはとてもバランスのとれた状態です。けれども、教団全体のことを考えると、5年後、10年後、大丈夫とは言えません。というのは、子供や若い人たちが教会の中からどんどん減ってしまっているからです。

 それで、私たち同盟福音キリスト教会は今年から「次世代のために献身する」というテーマを掲げて、これからどのような教会であろうとしているのか、一緒に考え、祈り、そして、献身していきましょうとお勧めしていくことにしたのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書12章28-34節「次世代のために献身する」-同盟福音キリスト教会五か年計画の聖句より

・新年礼拝説教 イザヤ書66章13節「慰めの福音」

 

2016.01.03

鴨下 直樹

 
2016年 ローズンゲンによる年間聖句

「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」 イザヤ66:13(新共同訳)

 2016年、今年私たちに与えられている年間聖句はこの言葉です。「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」。神が与えてくださる慰め、これは神が私たちに語りかけてくださるみ言葉です。

 このみ言葉を、もう三か月ほど前のことになるでしょうか、長老会で、2016年の年間聖句はこの言葉になったと話しました。すると、そこで返ってきたのは、「慰め」という言葉の持つイメージはあまり良いものとはいえないのではないか、神が慰めてくださるということがどういう意味なのか、今の人にはあまりピンとこないのではないかと言われました。実は、私ははじめ、この長老たちの言葉が、何を言われているのかよく分かりませんでした。私にとって、「福音」イコール「慰め」とすぐに結びついていますし、これまでの礼拝の説教でもそうですけれども、神の慰めを語ることが自分の使命だと思っているところがあります。ですから、慰めが福音というのはあまり分からないのではないかという長老の指摘に、少し驚きました。

 けれども、長老方の話を聞くうちに、色々なことに気づかされました。というのは、この世で「慰め」という言葉が使われる場合、「気休め」と言ったらいいでしょうか、とりあえず自分の心の平安を保つことを慰めと考えている場合がそれほど多いのだということを改めて気づかせられたのです。 続きを読む ・新年礼拝説教 イザヤ書66章13節「慰めの福音」

今月の礼拝予定(2016年1月)

1月3日 降誕節第二主日

主日主題: 慰め
聖餐式礼拝: 午前10時30分
聖書: イザヤ書66章13節
説教:「慰めの福音」 鴨下直樹牧師
聖餐式

午後:特にありません

1月10日 降誕節第三主日

主日主題: 献身
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書12章28-34節
説教:「次世代のために献身する」 鴨下直樹牧師

午後:役員会、「餅寄り」愛餐会(お雑煮、ぜんざい)、聖歌隊練習

1月17日 降誕節第四主日

主日主題: 選び
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: エペソ人への手紙1章1-6節
説教:「キリストのうちに選ばれて」 鴨下直樹牧師

午後:礼拝細目確認会

1月24日 降誕節第五主日

主日主題: 神の奥義
合同礼拝: 午前10時30分
聖書: エペソ人への手紙1章7-14節
説教:「みこころの奥義」 鴨下直樹牧師

午後:礼拝準備会

1月31日 降誕節第六主日

主日主題: 栄光の富
合同礼拝: 午前10時30分
聖書: エペソ人への手紙1章15-23節
説教:「栄光の富」 鴨下直樹牧師

午後:各部会、聖歌隊練習

・説教 ローマ人への手紙15章7節「主の愛に生きる」―2015年 年間聖句より

 

2015.12.27

鴨下 直樹

  

「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい」 ローマ人への手紙15章7節

 この一年、元旦礼拝から私たちはこのみ言葉を聞き続けてきました。折に触れてこのみ言葉から語って来ましたし、今年は教会のキャンプでもこの箇所から二回にわたる学びの時を持ちました。役員会でもこの箇所から学びをしました。各会でもこの箇所をとりあげて分かち合いの時を持った会がいくつかあったと思います。そこでも何度かお話をしたとおもいますが、この箇所は、こういう言い方をすることがゆるされるとすれば、「クリスチャン生活の基本」を教える箇所です。キリストがまず、私たちを受け入れてくださいました。そのことがすべての土台です。このみ言葉がなかなか理解できないことがあるとすれば、おそらく、キリストが私を受け入れてくださったということが分からないからだということができます。これは、一人ひとり、どのように受け止めているかは全く異なりますし、なかなかそれはこういうものだと言葉で説明するのも難しい部分があります。というのは、受け入れられるというのは、自分の体験、経験がそれぞれの根拠となっていますので、この受け入れられるということが、その人にとってどれほど重要なことなのか、個人個人に違いがあるのです。

 また、いつもの話になって申し訳ないのですが、私の娘はこの芥見の教会で育っています。しかも、この教会は月曜をのぞいてほぼ毎日、教会に誰かが来ては、さまざまな集会がおこなわれています。娘もまだ三歳ですけれども、当然のように来られた人を受け入れますし、また教会にこられている人も娘を受け入れてくれます。そのことは、本当に私にとって感謝なことです。子育ての本を読んでいましても、今は核家族化しているので、子どもに関わる大人の数が圧倒的に少なくなり、何よりも親が自分の子育てに自信を持つことができなくなっていて、その親の不安感が、子どもに非常に大きな影響を与えているということがどの本にも書かれています。けれども、教会にはそれがありません。みんなが子どもたちを受け入れます。礼拝中、なかなか静かにできなくても、周りのひとたちが受け入れていてくださる。ですから、安心して教会に来ることができます。もちろん、親は申し訳ないという気持ちがあるでしょうし、私にもその気持ちは沢山ありますが、本当にありがたいことだと思っています。けれども、子どもを受け入れるということ一つとってみても、教会はこの世の中とは大きく異なっています。ですから、娘も受け入れられているという確信があるものですから、調子に乗って騒いでしまいます。残念ながら、自分の安心感から、逆に周りの目というのを気にしなくなってしまうことから来る別の問題が生まれてしまうわけです。けれども、それほどに確かな人の愛の中で育つということは今の世の中では当たり前のことではないのです。

 愛される、受け入れられるというのは、愛され、受け入れられることを味わうことの少ない方、孤独の中で生きている人からすればまさに奇跡のようなものです。ですから、ここでパウロが受け入れられているということを前提にしているこの聖書の言葉が、今日に生きる人々には分かりにくくなってしまうのだと言えるのかもしれません。 続きを読む ・説教 ローマ人への手紙15章7節「主の愛に生きる」―2015年 年間聖句より