2017 年 2 月 26 日

・説教 詩篇62篇「私の魂は黙って主を待ち望む」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 19:06

 

2017.02.26

鴨下 直樹

 
 牧師館の裏に小さな庭があります。毎年、春が来るまえに花の苗を植え替えます。日当たりがあまりよくないので、何を植えてもほとんどうまくいきません。雑草さえ生えないような庭です。ところが、その庭にほとんど唯一といってよいのですが毎年花をさかせてくれるのがクリスマスローズです。

 私は、クリスマスローズというのは、クリスマスの季節に咲くということなのかと思っていたのですが、咲き始めるのは冬も終わる頃です。何を植えてもうまくいかないのですが、クリスマスローズだけは綺麗に咲いてくれます。昨年は苗があまりにも大きくなり過ぎたので「株分け」というのを行いました。ところが、今年は、一つだけ花が咲きそうですが、株分けした他の株はほとんど咲きそうにありません。何かがうまくいかなかったのでしょうか。花を咲かせるというのはこんなに難しいことなのかと改めて思わされています。きっとあとは肥料をやって、水やりをして、じっと待つことが大事なのかもしれません。

 今週も詩篇です。詩篇には色々な詩篇があり、花のように、その違いを楽しむことができます。今日の詩篇62篇は、これまで取り扱ってきた詩篇とは少し内容が異なっています。これまで紹介して来た詩篇は、祈り手が祈っても、神は応えてくださらないという、神の沈黙ということが語られている詩篇が多かったように思います。

 最近、カトリック作家遠藤周作の「沈黙」がハリウッドで映画化されました。「サイレンス」というタイトルです。もうご覧になった方もあると思います。この映画の舞台はキリシタンの弾圧がテーマになっています。踏み絵を踏むかどうか。踏み絵を踏むということは信仰を捨てることになる。そういう信仰の危機的な状況の中でも神は沈黙を貫かれたことが一つの背景になっています。詳しい内容は映画を見ていただいたらと思いますのでここではお話しませんが、詩篇の中にもこういう神の沈黙というテーマは何度も記されています。

 しかし、この詩篇は神が沈黙しておられるのではなくて、黙るのは自分の方です。しかも、詩篇の内容を見ても分かりますが、黙ってやり過ごせるような状況にこの祈り手は置かれてはいませんでした。この詩篇は「ダビデの賛歌」と表題があるように、ダビデの生涯のどこかの場面で祈られた祈りということを想定することができます。3節に「おまえたちはいつまでひとりの人を襲うのか」とありますから、多数から追われているような場面を思い描くことができます。ダビデの生涯は、イスラエルの最初の王であったサウルにいのちを狙われ続けていました。晩年には自分の息子アブシャロムからもいのちを狙われて追われることになりました。この詩篇がダビデのいつの時代のことをさしているのか分かりませんが、ダビデの生涯はいつも、多くの人にいのちを狙われるような状況にいたわけです。
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2017 年 2 月 19 日

・説教 詩篇102篇「悩める者の祈り」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 19:03

 

2017.02.19

鴨下 直樹

 
 以前、車で根尾のキャンプ場まで行った時のことです。ふと、いつもと違う道を走ったら近道ができるのではないかと思いつきました。今はカーナビを見ればそんなことは起こりませんが、このまままっすぐ行けば近道なのではないかという勘がときどき働きます。

 みなさんも、そういった経験があるのではないでしょうか。私はその道をどんどん前に前に進んで行ったのですが、どんどん道が狭くなり、林の中に入りこんでしまって、結局行き止まりになってしまいました。途中まではわくわくしながら、新しい発見かと期待をするのですが、結果は散々です。あまりにも道が狭かったために、何百メートルも林の中をバックしなければなりませんでした。途中で間違ったと気づいたら、引き返してもとの道に戻るべきですが、そういう時は、行けるのではないかという思い込みが、健全な判断を鈍らせてしまうのです。

 今日の詩篇102篇は七つの悔い改めの詩篇といわれる詩篇の一つです。けれども、さきほどお聞きになられて分かるように、この詩篇には悔い改めの言葉はありません。「悔い改め」というのは、間違って進んでいた方向を改めて正しい方向に進みだすということです。そういう意味では、この詩篇は途中から正しい方向に向かい始めていますから、確かに悔い改めの詩篇であるということが言えるのだと思います。

 この詩篇も先週の詩篇77篇と構造はとてもよく似ています。内容も似ていると言ってもいいと思います。1節から11節までの前半部分は、祈り手が深い悩みのなかで嘆きの言葉を発する嘆きの詩篇です。後半の12節から最後までの部分は一転して、神への賛美となっています。 (続きを読む…)

2017 年 2 月 12 日

・説教 詩篇77篇「思い起こせ主の業を」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:09

 

2017.02.12

鴨下 直樹

 
 私たちの教会に「ぶどうの木」という俳句の会があります。この句会で以前、俳句には大きな俳句というものと、小さな俳句というものがあることを聞きました。五七五の短い言葉なのに、大きな俳句と小さな俳句というものに分類されるというのは、私にとってはとても興味深い話しでした。ところが、指導してくださっているMさんに聞いてみると、とてもよく分かるのです。俳句の内容が何を物語っているかといことで大きな俳句とか、小さな俳句という言い方になるというのです。

 この詩篇77篇は、そういう意味でいえば小さな詩篇です。偉大な神を高らかにほめたたえる詩篇というよりは、自己中心的な詩篇といってもいいかもしれません。大きな詩篇というよりは、普通の人の祈りなのです。もっと言うと、私たちが日常する祈りと似ているかもしれません。この詩篇の内容を全体的に見てみますと前半の部分は神に向かって祈りをささげます。ところが、祈りながら嘆きの言葉が繰り返されていくのです。

 1節と2節はこう始まります。

私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。苦難の日に、私は神を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。

祈りのはじめは神に向かって祈り始めます。けれども、神の慰めを求めて祈ったけれども、神は答えてくださらないので慰めを求めることを諦めてしまいます。そして、3節にはこうあります。

私は神を思い起こして嘆き、思いを潜めて、私の霊は衰え果てる。

 ここに「思い起こす」という言葉があります。「思い出す」という意味の言葉です。何を思い出したのでしょうか。この祈り手は「思い起こす」と言いながら、自分の内面を見つめ始めていきます。そして嘆き始めるのです。つづく4節にはこうあります。

「あなたは私のまぶたを閉じさせない。私の心は乱れて、もの言うこともできない。」

 この祈り手は、あまりにも不安で、不安で眠れなくなっていると言うのです。「神は私を眠らせてくれない、もう疲れ果てて何も言うことができないほどだ」と言っているのです。そうやって、不安の中で神に祈りながら、この祈り手はさらに自分の内面へと向かっていきます。それが、「思い起こす」という言葉にあらわれています。5節。

私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した。

こうやって祈り手はどんどん自分の内面を見つめつづけていくのです。

 私たちの日ごとの祈りの中で、私たちも何度も、何度もそういう祈りを繰り返すことがあると思います。主に向かって祈り始めたら、だんだん何を祈っていたのかよく分からなくなってしまって、気が付いたら自分のことばかり考えてしまうということがあると思います。立派な祈りをしたいと思いながら祈り始めたのに、気づくと心はどんどん内向きになっているのです。 (続きを読む…)

2017 年 2 月 5 日

・説教 詩篇138篇「心を尽くして感謝する」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:57

 

2017.02.05

鴨下 直樹

 
 この詩篇は「ダビデによる」というタイトルがついています。この旧約聖書のもっとも古い翻訳で紀元前にすでに作られていた70人訳聖書とよばれるギリシャ語の翻訳の聖書があります。そこには、このタイトルは「ダビデ、ゼカリヤとハガイ」となっています。つまり、ダビデの詩篇がバビロンからの捕囚が終わって帰還してきたときに読まれた詩篇ということになるわけです。
 そうしますと、この詩篇の意味が少し整理することができます。1節にこうあります。

私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめ歌います。

 ここに「天使たち」という言葉がでてきます。新改訳聖書は下に注が出ていまして「あるいは『神々』」となっています。かつてのバビロンには都の大通りに「ベル」と「ネボ」という神々の像が置かれていて、やがてそれが荷台に載せられて取り除かれたという記録がイザヤ書46章に書かれています。けれども、今はこのバビロンの都からエルサレムに帰って来て、神殿で礼拝をささげるようになりました。その様子がここで歌われているのです。そして、そのテーマは「感謝」です。まさに、今おかれている自分の状況を思い起こしながら神に感謝をささげているのです。

 この詩篇を正しく理解するために、大切なのはこの2節の部分です。

私はあなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたの恵みとまことをあなたの御名に感謝します。

とあります。
 今、この詩人は神の御前で礼拝をささげているのです。この時代の礼拝というのは、神殿でささげものを捧げるという礼拝でした。その大切な部分は神への感謝です。神が、生活の中で守り、支え、導いてくださることに感謝をささげるのです。まさに、礼拝をささげるために神の御前にでるのです。

 私たちも礼拝を捧げにやってまいります。しかし、ひょっとすると私たちの礼拝は、神に感謝をささげ、自分を捧げるということよりも、み言葉を聞いて、神に恵みをいただくためにやってくるということに強調点があるのかもしれません。もちろん、礼拝というのはそのどちらの要素もあるのです。

 この四月から、私は名古屋の東海聖書神学塾で15年ぶりに礼拝学を教えることになりました。礼拝とは何をすることなのかということを学ぶのです。そのために講義のノートを整理しながら改めて気づかされることがいくつかあります。

 特に、旧約聖書で礼拝を表す言葉は3つあります。ひとつは「シャーハー」という言葉で「拝む」とか「地にひれ伏す」という意味の言葉です。もう一つは「アバード」で、これは「仕える」とか「奉仕する」という言葉です。もうひとつは「カーハール」という言葉で「集まる」とか「出会う」という意味の言葉です。どの言葉もそうですが、神に対してどういう態度をとるのかということが言われていることが分かります。礼拝というのは、徹底的に自分本位ではなくて、神を神とする行為をいうわけです。
 この2節の「ひれ伏し」という言葉は「シャーハー」という言葉です。神を恐れ、自分を捧げるために、地にひれ伏すわけです。そうすることによって、神は神であられるということを明らかにしたのです。そこでは、この世にある、ありとあらゆる神々のようではなく、主こそがまことの神であられることを、礼拝の態度で明らかにしたのです。

 興味深いのは、そのように礼拝をささげるとどうなるのかということが3節に書かれています。 (続きを読む…)

2017 年 1 月 29 日

・説教 詩篇42、43篇「谷川を慕う鹿のように」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:42

 

2017.01.29

鴨下 直樹

 
 もう何年も前のことですが、岐阜の白川郷の近くで学生会の長期キャンプに行きました。その時に渓谷を散歩したことがあります。深く切り立った谷間を苦労しながら降りていくと、本当に川とは呼べないほどの僅かな水が流れているところに出ました。その谷間を歩いていると、崖の上から勢いよく黒い塊が落ちて来ました。何かと思って身構えるとニホンカモシカでした。私はニホンカモシカをはじめて見ましたのでびっくりしました。色の黒い角の短い鹿が突然目の前に現れたのです。私もびっくりしたのですが、鹿もびっくりしたのでしょう。慌てて今降りて来たばかりの谷をまた登って行ってしまいました。時間にしてほんのわずかな間の出来事です。その時とっさに、この詩篇の冒頭の言葉を思い出しました。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」

 とても印象的な言葉で始まる詩篇です。情景をよく描くことができます。私は目の前で起こった出来事を見ながら、水を求めて谷を降りて来た鹿も、まさにここに書かれているように命がけなのだということを思い知らされました。あの谷間に降りていけばそこには必ず水がある。鹿が身の危険を冒してまでもそうせずにいられないのは、生きるのに水が必要不可欠だからです。そして、私たちにもまさにそのように、神が必要なのだということに気づかされるのです。

 けれども、普段、私たちはそれほどまでに神を求めなくても何となく生きていけるということを繰り返しているうちに、どこかで、神はいつでもそこにあって、自分が必要になったらいつでも神を呼び出せるなどと考えてしまっているのかもしれません。そんなことを考えさせられる詩篇です。

 この詩篇42篇の前に第二巻と書かれています。詩篇はここから新しい巻物になります。そして、この詩篇第二巻はエロヒーム詩篇と呼ばれています。エロヒームというのは「神」というヘブル語です。第一巻は主の御名である「ヤハウェ」という言葉で主が語られていたのですが、ここでは「神」という名前に抽象化されているわけです。この42篇と43篇はもともとひとつの詩篇であったと考えられますので今日はまとめてここから主のみ言葉を聞きたいと思います。この詩篇の表題は「コラの子たちのマスキール」。どうも、このコラの子というのは神殿の礼拝で賛美を歌う役割を担っていたようで、「マスキール」というのは「教訓歌」というような意味があります。しかし、内容は非常にダビデの詩篇のような特徴があります。私はダビデによるものではないかと感じます。

 この詩篇の詩人はどうも大きな悲しみの中にいたようです。3節には「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。」と言っています。子供の頃には泣き虫だと言われたことがある人もいるかもしれませんが、大人になるにつれて人はだんだん泣かなくなります。できるかぎり泣かないですごせるように生きているわけです。泣かないで生活できるということはある意味ではとても幸いなことです。ですから私たちにとって「昼も夜も涙が私の食べ物」というような経験はあまり味わうことはないかもしれません。けれども、この言葉に言い表されているような心の渇きということは理解できるのではないかと思います。 (続きを読む…)

2017 年 1 月 22 日

・説教 詩篇37篇「比較からの自由」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:23

 

2017.01.22

鴨下 直樹

 
 毎年、新しい年を迎えますとカレンダーを新しくします。何人かの方は星野富弘さんのカレンダーを使っておられる方もおられると思います。星野富弘さんは、もともと中学校の体育教師でしたが、指導中の事故で頸椎を損傷し、体が不自由になってしまいました。動かせるのはごくわずかです。ところが、体の自由が奪われてから、彼は口に筆をくわえて絵や詩を書き始めます。そして、その絵や詩は多くの人の心を慰める作品としてとても親しまれています。この星野富弘さんがまだ入院して間もなく、同じ怪我で入院した中学生のター坊という少年と出会います。そのことが星野さんの本の中に記されています。星野さんは、このター坊のことをずいぶんかわいがっていたようで、ター坊の回復のために祈る気持ちでいたそうです。そして奇跡的にター坊が回復して、腕や足が動くようになります。

 ところが、そこから星野さんの気持ちの中に変化が生まれます。そのことがある本の中に書かれています。こんな言葉です。「私は心の中でどうしようもない寂しさが芽生えてくるのを認めないわけにはいかなかった。みじめなことだけれど、それはター坊への嫉妬であった。神に祈るような気持であれほどター坊の回復を願っていた私なのに、奇跡のようにター坊のからだが動き始めたときから、ター坊を見つめる私の目には、小さな影ができてしまった。『喜べ。ター坊の回復を、一点の曇りなく喜べ。お前はそれほどみみっちい男ではないはずだ。』私は叫ぶように自分に言い聞かせた。」

 同じ病を抱えながら、ある人は癒され、ある人は癒されない。心の中に複雑な気持ちが生まれます。それは、人と自分を比較するところから始まります。人と比較することから生じる悩み、苦しみ、これは、私たちが誰もが毎日のように味わう経験です。

 今日の詩篇は少し長い詩篇です。二節ずつ区切られていまして、ひとまとまりの詩篇というよりも、箴言のような散文的な文章が続いています。これはアルファベットの詩篇で二節ずつ頭文字がアルファベット順に並んでいる詩篇です。しかも、内容は先生がまるで教えているかのような響きがあります。そして内容を見てみますと、「悪者」と「正しい者」との対比です。比較しているわけです。しかも、この詩篇を読んで気づくのは、「悪者」、つまり「神を敬わない者」は栄えているという現実が突き付けられているわけです。神を信じているものが、成功して、神を信じていないものがうまくいっていないというのなら話は分かりやすいのですが、ここではそうではありません。

 冒頭にこう記されています。

悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対して妬みを起こすな。

このような言葉を聞いて、素直に、納得できるでしょうか。先日も祈祷会である方が、改まって、「悪いことをしてくる人に対して腹を立ててはいけないんでしょうか?」と尋ねられました。みなさんはどう思われるでしょうか。 (続きを読む…)

2017 年 1 月 15 日

・説教 詩篇36篇「あなたの恵みは天にあり」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:25

 

2017.01.15

鴨下 直樹

 
「罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない」という言葉で、この詩篇ははじめられています。「悪者」と言う言葉がこの詩篇の冒頭に出てきます。「悪人」と聞くと、「物凄く悪い奴」とすぐに頭の中で置き換えてしまいがちですが、「神を敬わない者」という意味の言葉です。罪が人の心に語りかけると書かれています。「神のことなんか考えなくていい」と。神など恐れなくてもよい。どうせ神などいないのだから。何をやったって誰にもわかりっこないのだから。ひょっとすると私たちは毎日、色々な生活の場面でそういう心の葛藤を感じているのかもしれません。あるいは、そんな声も気にならないほどに、神に心を向けないことが当たり前になってしまっているかもしれません。

 この詩篇は、冒頭で、まさに人の罪の本質に目を向けさせています。2節の言葉は少し翻訳が難しいために分かりにくい言葉になっていますが、他の聖書、新共同訳聖書では

自分の目に自分を偽っているから、自分の悪を認めることも、それを憎むこともできない。

となっています。自分の罪に気付かなくなってしまっている。もう当たり前になってしまっていて、自分の悪い部分に気づかなくなってしまう。ここに、罪の恐ろしさが描き出されています。自分の心を偽りすぎて、無感覚になってしまうというのです。

 先週、成人式が各地で行われました。毎年、ニュースになるのは、新成人たちが各地で起こした「悪ノリ」と言ったらいいのでしょうか。お酒を飲んで、酔っぱらって注目を集めようとして、警察に取り押さえられるニュースが毎年毎年、変わることなく繰り返されます。お酒を飲んで、気持ちが大きくなって、だんだん悪いことをしている自覚がなくなっていく。まさに、それに似ているのかもしれません。

 「罪」というのは、私たち、すべての人間の心の奥底に潜んでいます。そして、何度も何度も繰り返していくうちに、悪いことをしているという意識がなくなって、自分の罪を認めることができなくなってしまうのです。あるいは、みんなもやっていることだからという思いが働いて、普通に考えたらやってはいけないことなのにブレーキがかからなくなってしまう。お酒の力をかりて、自分勝手に振る舞うことをよしとしてしまう。ついうっかり、ということもあると思います。私たちは毎日、この悪の思いとの葛藤があります。けれども、その葛藤もブレーキが利かなくなってしまうとどんどんエスカレートしていってしまいます。3節の後半にはこう記されています。

彼は知恵を得ることも、善を行うこともやめてしまっている。

悪いことだと分かっていたはずなのに、いつのまにか知恵ある行動にでることができず、正しいことも行わず、気づくと表面を取り繕うことに心を向ける。この詩篇の冒頭の言葉は、私たちに罪とは何かということをするどく問いかけています。 (続きを読む…)

2017 年 1 月 8 日

・説教 詩篇27篇「主は私の光」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:23

 

2017.01.08

鴨下 直樹

 
 この詩篇は二つの大きく異なる内容が組み合わさった詩篇です。前半の1節から6節は「信頼の歌」とも言える神への信頼を讃える内容ですが、7節からの後半は全く逆の「嘆きの歌」となっています。神は沈黙したまま応えてくださらない。そのために、全く異なる二つの詩篇が時間の経過とともに間違って一つにされてしまったのではないかと考える人もいます。

 けれども、私たちの信仰の歩みは、まさに同じようです。ある時は心から神を信頼して神を讃えたい気持ちでいるのに、次の瞬間にはもう神がどこかにいってしまっているように感じてしまうことがあります。以前、神学校で神学生がこんな会話をしていたことがあります。「クリスチャンホームで育った神学生は、何があっても神がいなくなったりしないのに、そうではない自分は時々神がいなくなってしまうことがある。その違いは埋めようがない。」と話していました。私はクリスチャンホームで育ちましたから、その神学生の言いたいことが完全には理解できませんでしたが、言おうとしていることは分かる気がします。ひとたび、神に対する疑いの思いに捉われてしまうと、神なんかいないのではないかとさえ、思いたくなるということなのだと思うのです。0か100か。そんなふうに考えてしまうような弱さが、私たちにはあるのかもしれません。

 この詩篇27篇はとても美しいことばで始まっています。

主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。

 神を「光」という言葉で言い表す。それはよく考えてみると、聖書の冒頭から、そのように記されています。神は光を造り出されるお方です。「神は光です」と言い表したときに、そこには神がすべてのものを明らかにし、照り輝かせてくださって希望と温かさを与えてくださる。この神の「光」という性質そのものが「救い」なのだと言い表しています。とても、美しい信仰の言葉です。
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2017 年 1 月 1 日

・説教 エゼキエル書36章26節「新しい心、新しい霊」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:26

 

2107.01.01

鴨下 直樹

 
 2017年を迎えました。今年、私たちに与えられている年間聖句はエゼキエル書36章26節のみ言葉です。

わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。

 このみ言葉はドイツにありますヘルンフート兄弟団という教会が『ローズンゲン』という日々のみ言葉の冊子がこの一年のためのみ言葉として選んだものです。ドイツのヘルンフート教会が自分たちのために作ったもので、このローズンゲンが作られるようになってもう300年近い歴史があります。そして、今では世界中のクリスチャンたちがこのローズンゲンを使うようになりまして、今では50を超える言語で翻訳されているそうです。

 先ほど、年間聖句のカードをみなさんにお配りしました。とても色鮮やかなものですが、この年間聖句のカードを、ドイツでは何種類ものカードを作っているのですが、インターネットで見ることができます。見てみると、実にさまざまなイメージのカードがあります。「新しい心、新しい霊」というのをどのようにイメージするか、そのイメージの豊かさがそのまま様々な種類のカードに表れているような気がしました。私たちの教会のカードは鳩とハートがイメージされています。鳩とハート。韻を踏んでいますが、音までは絵に現わそうとしたわけではないと思います。もう一枚の黄色のカードは青く塗られた人の中を、赤色の人が歩きだしているイメージです。おそらく、神様から新しい心と霊を与えられて、今から歩み出そうとしているイメージなのだと思います。

 神様が私たちに新しい心と、新しい霊を下さるというのは、いろいろなイメージで受け止められます。この聖書のみ言葉が、私たちに与えられている年間聖句だと知って、みなさんもいろんなイメージを持たれたと思います。新しい心を与えられるという場合に、連想するのは、心を入れ替えて新しくスタートするというようなイメージがあるかもしれません。それこそ、この新しい年を迎えるにあたって、今年は新しい気持ちで、新しいことにチャレンジしたい。これまでの自分を反省しつつ、心を入れ替えて新しく歩みだそうとする。そう考えると、このみ言葉は元旦に読むみ言葉としてはとても適した聖書の箇所と言えます。神が新しい心を下さる。それはどんな心なのでしょうか。私たちのイメージは豊かに膨らみます。

 問題は霊の方です。心の方は、自分で心を入れ替えるという言い方ができますからある程度イメージを抱きやすいと思います。けれども、自分の霊を新しくするという言い方はできません。そうすると、自分の力で何とかするというようにはいかなくなります。新しい霊をいただく。それはどういうことなのでしょうか。
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2016 年 12 月 25 日

・説教 マタイの福音書2章1-12節「クリスマスの贈り物」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:31

 

2016.12.25

鴨下 直樹

 
 クリスマスおめでとうございます!今日はクリスマスです。主イエスのお誕生をお祝いする日です。今朝は、この礼拝に何人かの子供たちも一緒に集っています。私が想像するに、子どもたちの何人かは、きっと今、心ここにあらずだと思うのです。今朝、クリスマスのプレゼントを頂いて、頭の中はそのことでいっぱいになっていると思うのです。プレゼントを頂くというのはとても嬉しいものです。

 クリスマスに、私たちは互いにプレゼントを贈り合います。プレゼントを贈るときには相手に何が喜ばれるかをまず考える事でしょう。そのこと自体がまず愛のなせる業と言ってもいいかもしれません。子どもを喜ばせたい。プレゼントを贈る人に喜んでほしい。それは、あわただしい毎日の中に彩りを添えることになるのです。自分自身にも、そしてプレゼントを贈る相手にもです。だからきっと、このクリスマスの季節に、たとえ出費がかさむとしても、みな喜んでプレゼントを贈り合うのでしょう。

 その人が欲しいものを考える。相手が喜ぶことを考える。その時に必要なのは想像力です。かつて、ある哲学者が「愛することは想像力を持つことである」と言いました。相手のために何が必要か考える。私たちの贈り合うクリスマスのプレゼントにはそうした愛が詰まっているわけです。

 クリスマスの贈り物。聖書に記されているのは東方の博士たちがクリスマスにお生まれになられた御子イエスに贈った贈り物です。この博士たちは東の国で、新しい王が生まれたという星を見つけて、お祝いに駆けつけたのです。はじめに当時ローマ帝国のもとガリラヤ地方の領主であったヘロデ王を訪れます。

 このヘロデは大きな建築物を造らせて、エルサレムの神殿も再建しているまさに「大王」として知られた王でした。ですから博士たちは、そのヘロデ大王に贈っても恥ずかしくないものとして「贈り物」を準備したはずです。ところが、ヘロデ大王はユダヤに新しい王が生まれたという事実を知りませんでした。ヘロデは文献を調べさせると旧約聖書ミカ書5章2節の言葉を発見します。それが、この6節に記されています。「ベツレヘムからイスラエルを治める支配者がでる」。博士たちはその知らせを聞いて、ベツレヘムを訪ねるのです。
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