2019 年 11 月 3 日

・説教 テサロニケ人への手紙第一 4章1-8節「愛と平和と寛容と」

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2019.11.03

鴨下 直樹

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 今日の説教題を「愛と平和と寛容と」としました。題を見て、「喜びと祈りと感謝と」の間違いではないかと思われた方が何人もおられると思います。今日の箇所はテサロニケの手紙の中で最も有名なこの言葉があるところです。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。

 この言葉を、ご自分の愛唱聖句としておられる方もたくさんおみえになると思います。祈祷会に来られている方の中でもお二人の方がこの言葉を選んでいると話してくださっておりました。このみ言葉は、このテサロニケの手紙の中でも、もっとも印象深い言葉として、多くの人の心をひきつけます。けれども、まず今日は、この聖句が書かれている12節から22節に何が書かれているのかということにまず目を止めたいと思います。

 ここに書かれているのは、キリスト者の態度が書かれています。まず、教会に立てられて、労苦し、指導し、訓戒している人たちに対する態度が書かれています。みなさんはすぐに牧師のことをイメージするかもしれません。テサロニケの教会にはこの時、パウロやテモテといった指導者はおりませんでした。その時立てられた長老や執事たちということになるかもしれません。いずれにしても、この後の時代になって、教会には立てられている人と、信徒と言われる人々が登場することになります。「その人たちを重んじ、その働きのゆえに愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい」と書かれています。愛をもって尊敬する。そのことが教会の平和を作ると言っているのです。尊敬することができなくなると、平和はなくなってしまいます。それは、教会の中に限ったことではありません。職場でも地域でも、友人関係でも家族でも同じです。

 ここのところを新改訳聖書は「この上ない尊敬」と訳しました。これはちょっとギリシャ語では面白い言葉が使われていて、岩波の翻訳では「あなたがたが(諾い)〈うべない〉認めるように」と訳されていました。この「うべない」という言葉はかっこ書きなのですが、わたしはこの「うべなう」という日本語を使ったことがないので、意味を調べてみますと「願いや要求を引き受ける。同意する」とあって二番目の意味には「服従する」と書かれていました。

 この言葉は「認める」という言葉に前に「満ち溢れる」という意味の言葉の「ヒュペリエクペリスー」という言葉が使われています。この言葉のもとの言葉である「ペリセウオー」という言葉は「満ち溢れる」という意味で、その強調系が「ヒュペリペリセウオー」という言葉ですが、さらにその言葉を強調して「ヒュペリエクペリスー」という言葉で強調しているのです。これを今度の新改訳は「この上もない」と訳しました。ただ、この言葉はその後の「認める」という言葉にかかると理解すると「尊敬する」という訳になりました。この間には愛するという言葉ありますから、この愛するという言葉にかかると理解すると、「心から愛し敬いなさい」という翻訳にもなります。そう訳したのが、今度出た協会共同訳の翻訳です。岩波の「うべない認めるようにお願いする」という翻訳でもわかるように、これはただならぬ認め方だということが雰囲気として伝わるのではないでしょうか。

「この上もない愛に満ち溢れて受け入れる」ということが、この言葉の意味です。ここで大きな意味を持っているのは愛です。私たちがものすごく頑張って受け入れる努力をする、必死に認めていくということではなくて、この上もない大きな愛をもって受け入れていくということです。それは、教会に立てられている人も、そのような愛に満たされながら、労苦し、指導し、訓戒していく勤めを主から託されているということになります。ですから、執事や、長老、牧師、宣教師のために祈っていただきたいし、そうやって、教会の平和が築き上げられていくということを、心にとめていただきたいのです。

 これは、その後に書かれている14節と15節の勧めも同じです。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい

とあります。兄弟たちとありますから、これは教会の人々みなに語られた言葉です。教会にはいろいろな人がいます。怠惰な者、小心な者、弱い者、そういう人たちに寛容であるように、それこそ、愛を持って受け入れることをここでも、求めているのです。これは、自分は弱い人だとか、自分は怠惰な部類に入るかということではなくて、誰もが、このどれかに入ることだってあるわけです。だから、みながお互いに、お互いの弱さを受け入れあっていく、すべての人に対してそれぞれが寛容であるようにとパウロは勧めるのです。

 そして、また、「悪に対して悪で返さないように」ということを勧めるのです。「やられたらやり返す」、少し前に流行ったドラマの言葉だと「倍返し」という言葉がありました。そういう発言をすることが認められるような社会に私たちは生きています。けれども、それをやっていたら、この世界には憎しみだけが膨らみ続けてしまいます。主は私たちにそのように生きることを求めてはおられないのです。 (続きを読む…)

2019 年 10 月 20 日

・説教 テサロニケ人への手紙第一 4章13-18節「主にある望み」

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2019.10.20

鴨下 直樹

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 今、私たちは第一テサロニケ人への手紙からみ言葉を聞いています。このテサロニケ人への手紙の大きな特徴は、「再臨」というテーマが取り上げられていることです。けれども、この「再臨」というテーマを私たちはあまり大きなテーマとしてとらえていないところがあります。というのは、主イエスが再び来られるというこの聖書のメッセージを私たちはどのように受け止めてよいのか、よく分からないところがあるからです。

 けれども、このテーマは親しい人が死を迎える時にどうなるのかということと深く結びついています。そして、ここでパウロはまさに、このテーマを語っているということを、まずしっかりと理解する必要があるのだと思います。

 今日の箇所を読んでいますと、どうも、テサロニケの教会で予想外の出来事が起こったことが読み取れます。それは、まさに再臨がテーマの出来事です。テサロニケの人々もパウロたち最初の教会の人々も、主イエスが来られるという、再臨を待ち望んでいたのですが、テサロニケの教会の仲間の誰かが亡くなったようです。それで、教会の中に動揺が広がっていたようなのです。主イエスがすぐにも来てくださる、まもなく再臨があると考えていたら、その間に教会の中から召される人が出てしまったのです。そのために、いったいこの人はどうなってしまうのだろうかという不安が教会の中に広がったのです。

 今、私たちはこの初代の教会の時代から2000年ほど後の時代に生きていますから、当時の教会の人々のこのような切迫したような感覚というのはなかなか感じられません。けれども、そういうことがあっただろうなということは、想像できると思います。

 10日ほど前のことですが、ある牧師と話をしていましたら、その牧師の前任の牧師は、召された人は今、眠りの状態にあると教会の葬儀で説教しておられたのだそうです。それは、おそらく、このテサロニケの手紙の、まさにこの箇所に書かれていることを受けて、話されたのだろうと言っておられました。ところが、葬儀の時に、そのような話をなされたので、教会の人々や家族の人たちが、そうするとどこに希望があるのか分からないと感じて、とても不安に感じているということでした。

 この話を聞きながら、確かに同盟福音でも死後にどうなるのかということについて、「信仰基準解説書」にもそれほどきちんと書かれているわけでもありませんから、いろんな考えをもっておられる牧師もあるかなと、改めて気づかされました。みなさんの中にも、これまで教えられた先生によって、いろんなことを聞いておられるかもしれません。

 ここに書かれている「眠っている」という表現は、後になってイメージとして死後に一時的な待合所のようなところがあるのではないかという考えが生まれてくるきっかけとなりました。それが、カトリックの「煉獄」という考え方に結びついていったわけです。

 パウロがここで「眠っている」という表現を使ったのは、「イエスにあって眠った人」とあるように、今その人は主イエスのうちに入れられているという理解があるからです。「イエスにあって」というのは「主イエスの中にある」という書き方をします。その人はもう死と区別されているので、「眠っている」という表現を使っているわけです。ですから、本来、ここで語ろうとしているのは、死後の世界に、どこか冷凍室のようなところがあって、そこで氷漬けにされているということではないのです。 (続きを読む…)

2019 年 10 月 13 日

・説教 テサロニケ人への手紙第一 4章9-12節「クリスチャンの品格」

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2019.10.13

鴨下 直樹

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 先週末からこの土日にかけて過去にないくらいの大型台風が接近しているという報道がされています。各地でもさまざまな甚大な被害が出てしまったようです。これからもっと被害の実情が分かってくるのだと思います。この岐阜はというと、幸いあまり大きな被害は出ませんでした。もちろんそのことはとてもうれしいことなのですが、なんとなく肩透かしをくらったように感じるということもあるのではないでしょうか。

 私たちは、勝手なものですけれども、甚大な被害を被ることは避けたいと思っているわけですが、普段の日常生活に、ちょっとしたハラハラやドキドキを求めているところがあるのかもしれません。

 それと同じようなことかもしれませんが、信仰も同じように考えてしまうことがあるのかもしれません。何かそれこそ大事件でも自分の身に降りかかってくれば、自分の信仰もそれを機会に劇的な変化を遂げるかもしれないというような幻想を描いてしまうこともあるのです。それくらい、ふつうの毎日ということに飽きてしまうということが起こりうるのです。

 先週の火曜日のことです。名古屋教会で牧師をしておられた小林秀臣先生の息子さんから電話がありました。秀臣先生が亡くなられたという知らせでした。秀臣先生は私が以前在職した教会の長老をしておられた方で、仕事を退職されてから名古屋の神学塾で学ばれて牧師になられた方です。牧師を退職されてからは隣の可児教会のメンバーになっておられたのですが、火曜日に亡くなられました。たまたま、可児教会の牧師である脊戸先生が、可児のワイゲル宣教師のドイツでの結婚式に出るためにドイツに行っておられて留守だったために、急遽私が葬儀の司式をすることになったのです。

 「秀臣さん」、いつも、そのように呼んでいましたので、そう呼ばせていただきたいと思いますが、昨年ご自分で本を出されました。言ってみれば自伝のようなものです。自分の人生の折々に書き留めて来たものを一つにまとめて本にされたのです。その本には、本当に自然な家族への言葉であったり、家族のことを書き綴った言葉であったり、あるいは長年高校の先生だとか、学校の校長として働いておられたので、その時に書き記してきたものなどが書かれています。その本の名前は「おもしろ人生、おもしろ聖書人生」というタイトルです。

 書店にならべたらあまり売れそうにないタイトルかもしれませんが、自分の人生を面白がっている一人のクリスチャンの姿を見ることが出来ます。

 今日の聖書、4章1節に、今度出ました協会共同訳では「現に歩んでいるように、これからもますます歩み続けなさい」と書かれています。私たちの持っている新改訳2017では「現にそう歩んでいうるのですから、ますますそうしてください」となっています。

 今歩んでいる信仰の歩みをそのまま続けるようにということを、ここでパウロは語っているわけです。

 人生にはいろいろなことが起こります。劇的な出来事が起こることもありますが、多くの場合は、それほど劇的ではない日常を歩む場合が多いのだと思います。その時に、自分の人生を、「おもしろ人生」と呼ぶことができるということは、そこに信仰がしっかりと身についた生き方だと思うのです。 (続きを読む…)

2019 年 10 月 6 日

・説教 テサロニケ人への手紙第一 4章1-8節「神に喜ばれる歩み」

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2019.10.06

鴨下 直樹

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 10月に入りました。私がかかわっております名古屋の東海聖書神学塾でも、先週から講義がはじまりました。講義と講義の間に10分ほどですけれども、休憩の時間があります。その時に、ひとりの塾生が私にこんな質問を投げかけてきました。「先生は牧師家庭で育ってみえると思うのですが、どうやって神様から離れないでいられたのか、その秘訣があれば教えてほしい」というのです。というのは、理由があって、その方の教会には学生たちが何人も教会に来るのだけれども、しばらくすると来なくなってしまう。自分は社会に出てから信仰をもったので、学生時代に信仰を持つということの大変さがよく分からないというのです。

 私は、その質問に少し困りながら、「私の教会でも若い人が教会から離れてしまう現実があるので、もし、その秘訣が分かっていたら自分でもやっていると思うんですが、なかなか難しいですね」と答えました。そう答えながら、こう続けました。「でも、学生であって、大人であっても、教会に来続けて、神様から離れないでいられるということは、みんな同じところを通っているんじゃないでしょうか」と答えました。

 学生だけが、教会を離れやすいということではない気がするのです。というのは、だれもがそうですけれども、何かのきっかけで神さまから離れてしまうスキというようなものに直面させられているのではないかと思うのです。いかがでしょうか。

 そんなことを考えながら、ふと今日の聖書の箇所を改めて読むと、今日のテーマはまさに、そのことだと考えさせられるのです。その時に、パウロはどうアドヴァイスしたのか、それが、このテサロニケ人への手紙の第四章の内容だと言っていいと思うのです。

 ここでパウロが使っている言葉の中に「歩み続ける」という言葉があります。1節です。新改訳2017の1節の後半にこの言葉がでてきますが、そこでは「現にそうしているのですから、ますますそうしてください」と記されています。新共同訳では「その歩みを今後もさらに続けてください」となっています。この度、新共同訳の方も新しい翻訳がでまして、協会共同訳といいますが、こちらの翻訳では「これからもますます歩み続けなさい」と訳されています。

 「歩み続ける」というのは、その道、つまり信仰の道を進み続けていくということです。途中で脇道に逸れてしまったり、引き返したりしないということです。けれども、この「歩み続ける」というのは、言うのは簡単なことですけれども、実際は大変なことです。自分の進んでいる道が正しいか不安になることもあるでしょう。ほかの道の方がよさそうに思えることもあるし、いつも歩みやすい舗装された道ならいいわけですけれども、時には試練の道、いばらの道を通るということもあるわけです。 (続きを読む…)

2019 年 9 月 29 日

・説教 テサロニケ人への手紙第一3章11-13節「パウロの祈り」

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2019.09.29

鴨下 直樹

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 今日の箇所はパウロの祈りです。前回少し長い箇所を取り扱いましたが、今日はまた短い箇所で、この3節に記されたパウロの祈りに目をとめてみたいと思います。

 祈り、これは主が私たちに与えてくださった最大の贈り物の一つです。この天地を創造し、今もすべてを支配しておられるお方が、私という一人と直接向き合ってくださる、それが祈りです。けれども、どうも私たちは祈りを一方通行なものと感じ、相手が見えないと思い込んでしまいます。そうすると、わがままな祈りをしてしまいがちになるのです。そういうこともあってか、祈りがなかなか深まりません。祈りが喜びとならず、どう祈っていいか分からないと感じている方が少なくないのです。

 今、私は古川家の家庭集会で、聖書の中にある祈りをひとつずつ取り上げて、聖書の祈りを学ぶことを通して、私たちの祈りがもっと豊かになるといいなと願っています。そういう意味では、今朝こうしてみなさんと共に聖書の祈り、パウロの祈りに耳を傾けてみることはとても大切な機会になると思っています。

 「祈り」と言ったときに、私たちがどうしても多くの言葉を費やすのは「願いごとの祈り」です。ひょっとすると、祈りというのは、お願い事をすることだと思っている方もあるかもしれません。そこで、もう一度考えてみたいと思うのですが、まず、祈りは神との交わりです。

 ちょっと想像してみていただくといいかもしれません。みなさんの子どもさんでも、親でも、友人でも誰でもいいのですが、誰かと話をする。その時に会話を楽しむことが出来ると、それはとても良い時間を過ごすことができたということになると思います。ところが、その時に、相手から一方的にお願い事だけをされるとしたらどうでしょうか。

 「ちょっとあなたにお願いしたいことがあるんだけれども、もう少しあの人と話すときには、あの人が喜ぶことを話してもらえないか」とか、「私に関して言うと、もう少し私に親切にしてほしいし、私がもっと健康でいられるように気にかけてほしいし、最近○○さんが苦手なので、ちょっと何とかしてほしい」と続いて、挙句の果てに、「ちょっとお金に困っているので、貸してほしいんじゃなくて、少し多めにいただけないだろうか。車も買い替えたいし、医療費もかかって困るので・・・」

 こういう会話をずっと繰り返していて、その会話が相手にとって楽しい時間になるかと考えてみる必要があるわけです。話を聞いている相手の方は、ほとんど拷問のような時間でしかないわけです。それでも、毎日毎日、その話を我慢して聴いていてくださるとしたら、それはもうただひたすら忍耐と愛ということでしかないと思うのです。

 普通誰かと会話をするときには、ちゃんと相手のことを考えて話します。相手がどういう人で、その人の何を知ることができたら自分はうれしい気持ちになるのか。自分の何を知ってほしいと思っているのか。会話はキャッチボールですから、自分の球を投げるだけではなくて、相手のボールも受け止める必要があるのです。私たちは普段、誰かと会話をするときは、そういうことを自然に気を付けながら話しをすると思うのです。ところが、相手が神様に変わったとたん、こういう当たり前のことは頭から吹っ飛んでしまって、まるで石打ちの刑のように、自分の願いを込めた石を、ひたすら相手にぶつけ続けているのだとしたら、そこに祈りの祝福などないのだということに気づく必要があるのです。

 そんなことを少し覚えながら、今日の祈りを見てみると、パウロはこの箇所の前のところで、こう言っています。10節です。

私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。

 「あなたがたのことを夜昼、祈っている」と口にしたとたん、パウロはもう次の11節から祈り始めているわけです。 (続きを読む…)

2019 年 9 月 22 日

・説教 テサロニケ人への手紙第一 2章13-3章10節「愛することの実際」

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2019.09.22

鴨下 直樹

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 みなさんはラブレターを書いたことがあるでしょうか。もうずいぶん昔に書いたという記憶がかすかに残っている方もあるかもしれません。あるいは、もう大昔すぎてそんなことも忘れてしまっているという方も多いかもしれません。私はご存じの通り筆まめではありませんので、ほとんど手紙を書きません。ほんとうならここで、妻から昔こんな手紙をもらいましたと、出せばいいのかもしれませんが、そういう手紙を持ってさえいません。これは少し言い訳ですが、結婚してからこれまでに6~7回は引っ越しをしていますから、そのたびに、古いものから少しずつ荷物が減っていくわけです。最近の若い人は全部、ラインという携帯の中のアプリで終わらせてしまうようですから、もっと残っていないのかもしれません。

 先週、私たちは群馬県の下仁田教会に行きました。その時、古川さんが小学6年生の時に竹でしょうか、それを削ったものと墨で描いたアルブレヒト・デューラーのうさぎの模写を昭子さんにプレゼントして、それが今も残っているという話をしてもりあがりました。それは手紙ではないわけですけれども、当時の少年であった古川さんのさわやかな愛情がそこに見える気がしています。

 人に手紙を書くという時にどうしても考えるのは、その手紙を読む人のことです。パウロはテサロニケの人々のことを心にとめながら手紙を書いているわけですから、読む人たちのことをよく考えているわけです。しかも、パウロたち一行はこのテサロニケであまり長い間伝道することができませんでした。この町で伝道したときに起こった暴動のために、逃げるようにして、この町を去らなければならなかったわけです。パウロたちがこのテサロニケに留まっていられたのは数か月と考えられています。まだできたばかりの教会で、聖書のことも十分に教えることができなかったことが、ずっと引っかかっているのです。ですから、この手紙を読むと、少しよそよそしいと感じてしまうほどに、テサロニケの人たちに配慮しているパウロ言葉づかいに、私たちは少し驚くのです。

 本当は13節から16節は先週説教する予定のところでしたが、急遽下仁田教会に行くことになったために、今日は少し長い箇所になっています。ここでパウロはテサロニケの人々のことを思い出しながら、感謝しています。

「あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。」

と13節で語っています。

 そして、このテサロニケの人々がどれほど苦しいところを通らされているかを気遣っています。そして、2章の終わりのところ17節からは、自分がいかにテサロニケに人々と引き離されてしまったことを残念に思いながら、何度も何度もテサロニケの町に行こうとしたのだということを書いています。18節では「私パウロは何度も行こうとしました」とさえ書いています。普通、手紙の中で自分の名前を書く、「私パウロは」なんていう書き方はしないわけですけれども、思わずそう言わないではいられないほど、「私パウロ」は、そのことを残念に思っているというのです。けれども、その後では、テサロニケの教会の人々に向かって、こう語ります。19節です。

「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったい誰でしょうか。あなたがたではありませんか。」

そんな言葉まで飛び出してくるのです。 (続きを読む…)

2019 年 9 月 1 日

・説教 テサロニケ人への手紙第一 2章1-12節「愛に生きる福音」

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2019.09.01

鴨下 直樹

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 パウロはテサロニケの教会の人たちに手紙を書き送っています。この第二章でパウロは、今まで自分がどのような思いや状況の中で、テサロニケで伝道してきたのかを想い起してもらおうと言葉をつづっています。そして、ここから分かるのは、パウロがテサロニケに来る前のピリピの教会でどれだけ大変な思いをしたのかということがよく分かる言葉です。このピリピでパウロと一緒に伝道していたシラスは投獄されてしまいます。その後、地震が起こって牢の扉が開いてしまうのですが、パウロと一緒にいた囚人たちも逃げなかったのです。その時のことがきっかけで、この時の看守の家族が信仰に入ったということが使徒の働きの16章に記されています。

 そういう中でパウロたちはテサロニケの町へ向かったのです。このことを語ることによって、パウロがどれほどの思いを込めてテサロニケで伝道したのかが伝わることを願ったのです。けれども、それは、テサロニケの人々を喜ばせるためではなく、「神に喜んでいただこうとして、語っているのです」と4節で語っています。この手紙を聞いている人たちからすると、自分たちのためではないと言われているわけですから、聞いた時には耳を疑いたくなる人も出たかもしれません。けれども、パウロはあくまでも神に誠実でありたいと思って伝道しているのだということをここで、躓かれてしまうことも恐れないで語っているのです。
 8節にはこうも書かれています。

あなたがたがをいとおしく思い、神の福音だけでなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。

 私は二週間の間、教会を留守にしておりました。今日は久しぶりにみなさんと顔を合わせることができてとてもうれしく思っています。私は11日の礼拝の後、12日の月曜から15日の木曜まで中津川にあります長老教会のキャンプ場で、中学生や高校生と4日間ともに過ごしながら、そこでみ言葉を語る機会が与えられました。長い間学生伝道をしてきましたが、もうここ何年も学生たちのキャンプで説教をする機会がありませんでしたから、とてもわくわくしながら出かけました。 (続きを読む…)

2019 年 8 月 11 日

・説教 テサロニケ人への手紙第一 1章1-10節「神に愛されている兄弟たち」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 13:00

2019.08.11

鴨下 直樹

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 先週、私はいつもとは少し違う一週間を過ごしました。というのは、明日から木曜日まで長老教会の主催する学生キャンプの講師を頼まれまして、そのための説教の準備のためにほとんどの時間を費やしました。おそらく、一週間の間で5つの説教を作るというのははじめての経験だったと思いますが、なんとか5つの説教を書き上げることができました。

 と言っても、礼拝の説教とは少し違っていて、このキャンプにはテーマがあります。そのテーマに基づいて説教をつくるわけで、いわゆるテーマ説教とか、主題説教と言います。

 長老教会の先生と何度か連絡をしあいながら、どんなことを狙っているのかお聞きしながら、説教の準備をするわけで、私がこれまでしてきた説教をところどころ取り入れながらの準備でしたので、礼拝説教の準備よりは少し時間が短くてすんだというところがあります。このキャンプのテーマは「Stage of the Lord」というテーマでした。「私たちの人生は主が備えてくださったもの」そんなことを願っているということでした。

 こういう英語がでてくると、分かったような分からないような気持ちになる方もあるかもしれませんが、いつもの聖書の言葉でいうと「神の国に生きる」とか「神の御支配の中で生きる」ということと同じことだと言っていいと思います。そして、このことは福音の中身ともいえるわけです。学生たちに、神の国に生きるというよりも、もう少し具体的なイメージのある言葉で伝えようということなのでしょう。神が私たちの人生のステージを備えていてくださる。そういうテーマでキャンプの中で4回のメッセージをしようと思っているわけです。

 その準備を終えて、このテサロニケ人への手紙の第一を読み始めたわけですけれども、なんだか、この4回のメッセージの続きを書いているようなそんな気持ちになっています。

 今日からパウロがテサロニケに宛てた手紙をともに耳を傾けていきたいと思っているわけですが、パウロのテサロニケでの伝道については先週少しお話しいたしました。このテサロニケという町の近くにはアテネとかコリントという有名な町があります。もっともアテネとコリントは隣のアカイア州ですが、テサロニケはマケドニア州にあります。このテサロニケは州都ですから、この地域のもっとも大きな町であったといえるわけです。パウロはこのテサロニケで一か月から半年の間だったでしょうか、その期間に伝道をしましたが、最後は半ば夜逃げのようにして、この町を離れなくてはなりませんでした。それで、このできたばかりの教会のために手紙を書きました。それが、このテサロニケ人への手紙第一です。
 1節にこう書き始めました。

パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたにありますように。

 この手紙を書いた時に、シルワノとテモテが一緒でした。シルワノというのは、使徒の働きでは「シラス」と書かれている人です。どうもこのシルワノというのはラテン語の言い方のようです。この三人はテサロニケの町で伝道して、福音を語りました。そして、そこで語られた福音を聞いて、信じた人々がいたわけです。

 それで、パウロはこの手紙でこの信じた人たちのことをこう言いました。

「神に愛されている兄弟たち、私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています」

4節です。
 たくさんいるテサロニケの中でも、福音を聞いて信じた人たちがいる。その人たちは「神に愛されている人、神に選ばれた人」なのだと言ったのです。多くの人がいるなかで、たくさんの人が福音の言葉を聞いたわけです。その中から信仰に生きるようになったというのは、神様に愛されているから、神様に特別に選ばれているからだとパウロは言ったのです。 (続きを読む…)

2019 年 8 月 4 日

・説教 使徒の働き17章1-10節「パウロのテサロニケ伝道」

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2019.08.04

鴨下 直樹

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 今日から、ともにパウロがテサロニケに書いた手紙からみ言葉を聴いていこうとしています。そのために、今日は、パウロのテサロニケ伝道がどのように行われたのかが書かれている使徒の働きの17章の1節から10節までのところに目を向けてみようと思っています。もっとも、本来は9節で区切られています。けれども、この10節に大事なことが書かれていますので、読んだ印象としては中途半端ですけれども10節までを選びました。今日は、このところからみ言葉を聴いていきたいと思っています。

 パウロがテサロニケで伝道したのは第二次伝道旅行の時です。その前にはピリピで伝道しています。ところが、ピリピでの伝道の半ばで投獄されてしまい、そのあと釈放されます。そしてテサロニケにやってきたわけです。ところが、今お読みしましたように、テサロニケでもあまり長い間伝道できませんでした。ここには三回の安息日にわたって、ユダヤ人の会堂、つまりシナゴグと呼ばれるところで、伝道したと書かれています。そうするとわずか20日程度の伝道であったということになります。もっとも、この時のパウロの伝道でテサロニケに教会が生まれます。その時生まれた教会にパウロは手紙を書いているわけですから、実際に20日程度だけしかテサロニケにいなかったどうかは分かりません。会堂で伝道した期間が3週にわたってということであって、もう少し長く留まったのではないかということも考えられます。パウロがこのテサロニケの町でどれくらいの期間伝道できたのか明確なことは分かりません。

 パウロはピリピ人への手紙の中でテサロニケでの伝道のことを書いていますが、その4章の16節で、「テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。」と書いています。この箇所をそのまま素直に読むと、二度にわたってピリピの教会から支援を受けているわけですから、3週間の間に二度支援が送られてくることもあり得るとは思いますけれども、もう少し長くとどまっていたのではないかと考えられています。パウロのテサロニケの伝道期間についてはいろいろな意見がありますが、半年くらいはテサロニケにいたのではないかという考え方もあります。もちろん、はっきりしたことはこれ以上書かれていないので、分かりませんけれども、ひと月から数か月という短い期間に、パウロはテサロニケで伝道をし、そこで教会が生まれたということは間違いなさそうです。 (続きを読む…)

2019 年 7 月 21 日

・説教 マルコの福音書16章1-8節「空虚な墓」

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2019.07.21

鴨下 直樹

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 ここにとても美しい物語があります。安息日が終わりました。当時は日が沈むと一日が終わりと考えられていました。ですから、夜から新しい日と考えたのです。主イエスが亡くなって墓に葬られてから、ここに名前の記されている3人の女の弟子たちは気が気ではありませんでした。何とか早く主イエスの埋葬された遺体に油を塗って死の備えをしたいと思っていたのです。それで、油を安息日が終わったその晩のうちに準備したのでしょう。そうして夜が明けるのを待って、墓に急いだのです。けれども、一つ大きな問題がありました。それは、主イエスの墓に転がされている大きな石のふたを動かさなければならないという問題です。

 ところが墓に行ってみると、自分たちの問題としていた墓の石が転がしてあるのです。ほっとしたかもしれません。普通なら、これで問題解決です。目の前に差し迫った問題はこれでクリアーされたわけです。ところが、墓の中に入ってみると、真っ白な衣をまとった青年が右側に見えます。そして、彼はこう告げたのです。
6節です。

「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを探しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」

 その知らせは衝撃的な内容でした。確かに墓のふたの石を転がすという差し迫った問題はあったのですが、それが解決したと思ったら、もっと大きな、そしてとてつもない問題がそこで突き付けられたのです。肝心の墓の中にあるべき主イエスの体がないというのです。

 この出来事を読んだ人はここで一気にいろんなことを考えはじめるわけです。なぜ、男の弟子たちの名前が出てこないのだろう。弟子たちは一体何をしていたのだろうということがまず気になります。その次に、この墓にいた青年ですが、天使ではなかったのかと、復活の出来事を知っている人であればそこが気になるかもしれません。そして、最後の8節まで読んでいくと、さらに気が付くのは、よみがえったはずの主イエスの姿がどこにも描かれていないということが気になるのです。そして、さらには、ここを最後まで読むと、8節にこうあります。

彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そして誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 マルコはこの大切な復活の場面を描くところで、誰がどのように変えられたかというような信仰の言葉を書かないのです。誰がどう信じたのか、どう受け止めたのかということは、最後の一文章だけを書くのにとどめています。そして、その文章というのは、「恐ろしかったからである」という言葉が書かれているだけなのです。もう少し、気の利いた言葉でまとめてくれてもよさそうなものですが、マルコは起こった出来事だけを淡々と記録しているのです。

 ですから、この福音書を読む人は、その後どうなったのか気になって仕方がありません。おそらくそういうこともあって、後になって、このマルコの福音書には、実に多くの人々がこの後の出来事を書き加えました。それが、9節以降です。けれども、聖書にはそのところはみなカッコ書きになっています。これは、明らかに後の時代に書き足されたことがわかっているので、このようになっているわけです。ですから、この9節以降についてはここで取り扱いません。8節のこの言葉で本来のマルコの福音書は終わっているのです。

 このマルコの福音書の書き方は他の福音書の書き方とはまったく異なっています。復活の主イエスと出会った時にどうであったのか、弟子たちが何を思ったのか、どう行動したのかということは、まるっきり書かれていません。ここには、その日の朝の出来事はこうでしたということが淡々と記録されているだけなのです。そして、だからこそ、このマルコの記録には真実味があるわけです。
 復活というのは、こういうことなのだということを、ここを読むと改めて考えさせられます。当たり前の出来事ではないのです。信じられない出来事です。そして、マルコはここで、3人の女の弟子たちが、逃げて、気が動転していて、誰にも何も言わなかったのだ。その理由は、彼女たちが恐ろしかったからだと書いたのです。それで、終わりです。

 しかも、原文には最後にガルという言葉で終わっています。「なぜなら」という言葉です。「なぜなら」と書きながら、そのまま終わってしまっているのです。 (続きを読む…)

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