「説教音声」カテゴリーアーカイブ

・説教 創世記18章1-15節「主にとって不可能なこと?」

2020.02.09

鴨下 直樹

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 前回の17章でアブラハムは99歳、妻のサラは89歳。この時に主なる神はアブラハムに、来年の今ごろサラから子どもが生まれると語られました。今日の箇所はその続きと言いますか、今度はアブラハムだけでなくサラにもこの知らせが伝えられたことが書かれています。

 この頃、アブラハムたちはマムレの樫の木のふもとで暮らしています。ここに住み始めてもう長いこと時間がたっています。ロトと別れた時から、聖書で言えば13章の時から、アブラハムはこのマムレの樫の木のところで生活しています。このマムレというのは14章でアブラハムがエラムの王ケドルラオメルの連合軍と戦った時に、アブラハムと盟約を結んでいた人物で、一緒に戦って勝利を得ています。つまり、アブラハムは神から土地を与えられる約束をいただいていても、なおも、マムレの所有する土地を間借りするような状態で、ここまで過ごしていたということです。

 アブラハムにとってマムレの樫の木のふもとはもう住み慣れた地です。そこで落ち着いた生活をしていたところで、3人の旅人が日の暑い時間帯に、アブラハムの天幕のそばを通りかかったのです。

 この三人の旅人は主なる神ご自身でした。「主は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた」と1節に書かれています。これは、主がわざわざアブラハムに会われるために、出向いて行かれたということです。17章と内容が同じですから、創世記では時々そのような書き方になりますが、アブラハムに語られた出来事と、サラにも語られたというように書き方を分けて書いているのかもしれません。それは、あのクリスマスの出来事の時と同じように、マリヤに御使いが受胎告知されただけでなくて、夫のヨセフにも語りかけられたことと似ています。

 主はアブラハムに寄り添われて、その信仰を導かれるように、ここではサラに対しても同じように、サラの信仰をも導いてくださるお方なのです。

 しかし、もちろん、アブラハムは主がわざわざ自分に会うためにこられていることは知らなかったはずです。アブラハムは、普段からこのように旅人を持てなしていたのか、あるいは、この旅人からただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、はっきりしたことは書かれておりませんから分かりませんけれども、精一杯のおもてなしをいたします。

 今年、オリンピックがあります。その時に「お・も・て・な・し」という言葉が日本の心を表す言葉として紹介されていましたが、アブラハムのおもてなしは、おもてなし文化のあるという私たちの予想を超えるおもてなしです。

 少し余談ですけれども、日本に毎年ドイツから一年の短期宣教師たちがもう何十年も前から来ていますけれども、彼らに聞くと日本で家に招かれたことがないと口をそろえて言います。そんなことを考えると、私たちは「おもてなし」という文化を持っていると言えるのかどうか、怪しい気がしています。人を自分の家に迎えるという気持ちよりも、掃除がめんどくさいとか、きっと他の人がやるからいいとか、そこまで親しくないとか考えるわけで、相手の気持ちよりも、自分の事情が優先されているのではないかということを考えさせられます。ところが、アブラハムはそうではありませんでした。

 まず、「三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作りなさい」と6節にあります。先週、「55プラス」の集会に28名もの方々が参加されたそうです。そこではいつもマレーネ先生がパン菓子というか、ケーキを焼いてくださっています。これは本当におもてなしの心だと思います。それが魅力でたくさんの近隣の方々が教会を訪ねてくれているのだと思いますが、30人分のケーキを焼くのに必要な小麦粉はせいぜい2リットルくらいでしょうか?焼いたこともない私が偉そうに言うことではありませんが、23リットルものケーキを焼かされたサラはかなり大変であったことは想像するに難しくありません。

 それだけではなくて、子牛を一頭屠ります。もう大盤振る舞いです。それに凝乳と牛乳を準備します。「凝乳」というのは、チーズかヨーグルトかと思いますが、ドイツには「クワーク」というパンに載せて食べるヨーグルトとチーズの間みたいなのがあります。そんなイメージでしょうか。ドイツのルター訳ではどうなっているかと思ってみてみたら、「バターとミルク」となっていました。パンにあわせるものですから、バターの方が合いそうな気がしますが、どうだったのでしょうか。

 サラはパンの準備、しもべは子牛をほふって大忙し、アブラハムも8節には「彼自身は木の下で給仕をしていた」とありますから、もう一族上げての「お・も・て・な・し」です。 続きを読む ・説教 創世記18章1-15節「主にとって不可能なこと?」

・説教 創世記17章15-27節「ノー! アブラハム」

2020.02.02

鴨下 直樹

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 みなさんが誰かに話を聞いてもらいたくて一所懸命話をする。ところが、聞いているはずの相手が、鼻で笑っている。そんな場面が私たちの日常でも時折起こるでしょうか。ちゃんと自分の話を聞いてくれていないと思ったとたん、自分が今話した内容が軽く扱われたような気がして空しくなる。悲しくなる。がっかりする。そんな経験をしたことが誰しもあると思います。

 この創世記、17章で主はアブラハムの反応も待たずに、まくし立てるかのように話し続けておられます。アブラハムが多くの国民の父となるという契約を結ぶこと。そのために名前をアブラムからアブラハムに変えること。そして、割礼を施すこと。そこまでが前回の箇所です。主の言葉はそれでとぎれることなく、今度は妻サライの名前もサライからサラに変えるようにと語り続けます。もう、一方的です。99歳になったアブラハムに、神はここぞとばかりに語りかけておられるのです。ここに、主なる神の情熱的なお姿を見ることができます。

 しかも22節を読みますとこう書かれています。

神はアブラハムと語り終えると、彼のもとから上って行かれた。

 えっ? 上って行かれたってことは、下りてこられていたってこと? という疑問符が付きますが、そういうことなのでしょう。神は天から降りてこられていて、アブラハムと顔を合わせて語っておられるのです。それが、どういう姿であったのか、人としての姿をおとりになったのか、御使いのお姿なのか、それとも、光の中から、あるいはモーセの時のように火の中から語りかけられたのかは、書かれていないので分かりません。けれども、この書き方の中に、神のただならぬ情熱のようなものを感じ取ることができます。

 前のめりになって語りかけておられる神。そう表現してもいいと思います。ここで主は満を持して、アブラハムに語っておられるのです。

 一方、アブラハムの方はどうかというと、前回もお話ししました、イシュマエルの出来事の後、13年もの間、何の神からの働きかけもない時間を過ごしています。もっといえば、ハガルとイシュマエルの出来事を通して、アブラハムは神からの直接の働きかけはないわけですから、もっと長い間、あの星空談義の後からここまでの間、アブラハムは神からの御声を聞いたことは書かれておりません。

 忘れたこところに突然現れて、何だかとてもいいことをたくさん話してくれるけれども、こっちの気持ちはどうなのだとアブラハムが思っていたとしても不思議ではありません。

 主なる神が前のめりになっておられるのとは正反対に、アブラハムは引いてしまっています。この主の語りかけのことばをアブラハムは受け止められません。
17節

アブラハムはひれ伏して、笑った。

 ここにそのように記されています。悲しい響きです。アブラハムに一所懸命に語りかけておられる主が、この時どのような思いになられたことでしょうか。神に対してこの態度をとるとは、とても畏れ多いことです。主が、前のめりになって語っておられるのに、アブラハムの心は冷めてしまっているのです。受け止められないのです。笑うしかないのです。

 これが、この17章で描かれているアブラハムの最初の反応です。 続きを読む ・説教 創世記17章15-27節「ノー! アブラハム」

・説教 創世記17章1-14節「99歳からの新スタート」

2020.01.26

鴨下 直樹

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 毎週、すこしずつですがこうして創世記のみ言葉を聴き続けています。みなさんが、毎週この続きの説教を聞くことを楽しみにしてくださっているといいなと思っています。私は、一週間の間に、創世記のさまざまな翻訳の聖書に目を通し、解説している注解書や説教集を読みます。特に、創世記は優れた内容の本がたくさんありますので、少なくても20~30冊の本に目を通します。そうやって準備をするのは、ここに書かれていることがどういうことなのかをできるかぎり理解したいと願うからです。そうすることによって、神はここで何をなさろうとしておられるのかをつかみ取ることができるわけです。けれども、いつも時間が足りない、もっと知りたい、もっと深く掘り下げたいと願いながら、一週間がすぐに過ぎていってしまいます。

 一方で、アブラハムは前回の箇所の終わりで86歳であったと書かれていまして、ここでは99歳です。この13年の間のことを、聖書は何も記していません。言葉に記すことのできない時間を過ごしているわけです。ハガルから生まれたイシュマエルが跡取りではないと聞かされながら、子どもが日に日に育っていくのを、アブラハムはどんな思いで育てたのでしょうか。13年という時間は、とても長いのです。一週間、この前のところから今日の箇所までをゆるされる時間の中で、できるかぎり理解しようとする努力に比べて、アブラハムがここで味わった理解したいと願いながら、何の答えも、言葉もないそのような13年の重みというのはどんなものなのか、想像する他ありません。

 私たちは、教会でこうして毎週、順に聖書の言葉に聞いていくことができるわけですが、そこから神さまはどういうお方か、信仰に生きるということはどういうことなのかを考えることができます。私たちは、アブラハムはあまり立派ではなかったのではないかとか、もっと他の選択がなかったかとか、好きなことを言えるわけですが、それもこれも、私たちはすべての結末を知っているから言えるだけのことで、実際にその期間を経験したわけでありませんので、アブラハムの本当の苦しみというのは理解し得ないのです。

 1節をお読みします。

さて、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」

 主はここで、ご自身のことを「わたしは全能の神である」と言われたと書かれています。「エル・シャダイ」という名前です。前回のところで「エル・ロイ」、「見ておられる神」という主なる神様のことが語られています。それと、同じように、ここで主はご自分の方から、自分は「エル・シャダイ」という神であると言われたわけです。

 ここで、この「エル・シャダイ」という神の御名を「全能の神」と訳しております。ところがこの「エル・シャダイ」という言葉の意味ですけれども、この「シャダイ」という言葉はどの本を読んでも意味が分からない言葉だと書かれています。意味が分からない言葉なのに、どうして「全能」なのかと言うと、まだ紀元前の話ですが、ギリシャがへブル語の聖書をギリシャ語に翻訳した70人訳聖書といわれる、旧約聖書の最初のギリシャ語翻訳がなされます。この70人訳ギリシャ語聖書がこの「シャダイ」という言葉を、「全能」と訳したのです。 続きを読む ・説教 創世記17章1-14節「99歳からの新スタート」

・説教 創世記14章1-24節「天と地を造られた方、主に誓う」

2020.01.05

鴨下 直樹

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 新しい年を迎えて、私たちはまた創世記からみ言葉を聴こうとしています。この創世記第14章というのは、創世記の中でも最も難解な個所と言っていいと思います。ところが、興味深いことに、日本の歴史小説が好きな牧師たちはこの箇所を、まるで新年からはじまるNHKの大河ドラマのように、アブラハムの時代小説さながらに説教する人も少なくありません。というのは、ここでのテーマは戦争です。聖書の中にでてくる最初の戦争の出来事がここに記されているわけです。そして、それゆえに、この箇所は「聖書は戦争をどうとらえているのか」ということを考えるきっかけになるものと言えるかもしれません。

 朝日選書から『キリスト教は戦争好きか』というタイトルの本が出ているようで、こういうタイトルに多くの方が関心を寄せているようです。確かに、この箇所もそうですが、戦争そのものをテーマにしている聖書箇所はいくつもあります。そして、この箇所もアブラムが、結果的には戦争に自ら加わり、甥のロト救出作戦を決行しているわけです。こういう箇所を私たちはどのように理解したら良いのでしょうか。

 そのために、まず、この背景を理解するところからはじめてみましょう。いろいろなカタカナの地名や王様の名前が次々にでてきますので、その時点でもう理解するのを放棄したくなりますが、まず、理解するために大事なのは「ケドルラオメル」というこの時代に非常に力を持っていた王がいたと言うことをまず理解してくださるだけで、ずいぶん、すっきりしてきます。このケドルラオメルは、簡単に言うとチグリスやユーフラテスの地域、つまりメソポタミアの地域の王様で、どんどんと勢力を拡大していました。そして、アブラハムの時代には、アブラハム、この時はまだ名前はアブラムですが、アブラムの住んでいたアモリ人の地や、甥のロトが移り住んでいったソドムとか、ゴモラと言った地方までも支配していたのです。ところが、ある時、このソドムとゴモラの王たちが反旗を翻したわけです。このクーデターは成功すれば良かったわけですが、旗色が悪くなるだけでなくて、ソドムの王などは、土地の利があるはずなのに、自分の方が、シディムの谷の瀝青(れきせい・アスファルト)の穴に落ちてしまうていたらくです。そして、他の王様たちも逃げ出してしまいます。

 この出来事がアブラハムにとってどんな意味をもったのかというと、続く12節を読むと、「また彼らは、アブラムの甥のロトとその財産も奪って行った」と書かれています。この知らせがアブラムにもたらされたのでした。

 さて、そこでアブラムはどうするかということが問題になるわけです。創世記の9章6節にはすでにこういう言葉が記されています。

人の血を流すものは、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。

 ここを読むと、神は戦争や、人の血を流すことを戒めておられることは明らかです。しかし、前回の13章の13節には「ソドムの人々は邪悪で、主に対して甚だしく罪深い者たちであった」とも書かれています。

 そして、さらにアブラムはその地に移り住んで行ったロトのしもべたちといさかいを起こして、別々に住むことになったわけですから、考えようによっては「ほら見たことか。神様がロトをお裁きになったに違いない。だから助けにいく必要なんてない」という結論をだしても、何の不思議でもありません。

 原則的に考えても、アブラムがこの戦争に首をつっこむ理由はないのは明らかです。そして、このまま「ロトたちはこのようにして滅ぼされてしまいました」と書かれている方が、聖書を読む者としてはよほどすっきりと理解できるに違いないのです。

 ところが、アブラムは次の14節によると、「彼の家で生まれて訓練された者三百十八人を引き連れて、ダンまで追跡した」と書かれていますから、彼らと戦ったということが分かります。 続きを読む ・説教 創世記14章1-24節「天と地を造られた方、主に誓う」

・クリスマス礼拝説教 マタイの福音書11章2-6節「別の方を待つべきか」

2019.12.22

鴨下 直樹

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 アドヴェントクランツに四本目の灯が灯りました。いよいよクリスマスです。不思議なもので、クリスマスというのは、クリスチャンであろうとなかろうと、何かしらの期待を抱くようで、町中が何かしらの期待に満ちた雰囲気を作り出します。子どもたちはどんなプレゼントをもらえるのかと期待を膨らませます。若い人は何か素敵な出来事が起こるのではないかという淡い期待を持つのでしょうか。何かいいことがあるというような期待は、その後も年齢を重ねたとしても心の中から消えるものではありません。

 けれども、それと同時に期待が膨らみすぎるとその後の反動もまた大きなものになります。期待したとおりに事が進まないと心が折れてしまいます。そして、いつしか心が堅くなってしまい、あまり期待しなくなるということも起こってしまうのです。そうしないと、傷ついてしまう自分の心を守ることができません。どこかで期待を持ちながら、でも、そんな期待は無駄であるかのような、そんな思いもまたどこかで感じるのがクリスマスなのかもしれません。

 聖書は昔から期待する心を人々の心に育てようとする書物です。憧れとか、期待とか、望みというものを、恵みとか、慈しみとか、信仰という言葉で言い表しているのです。聖書の大切な、そして、中心的なメッセージの一つは待ち望む心を持ち続けることです。

 さきほどの「聖書の話」で、妻がクリスマスに起こった一つの出来事を話してくれました。聞いたところ、元ネタがあるのだそうで、昔アメリカかどこかのドラマであんな話を見たことがあることを思い出したのだそうです。ある家族がイブに親戚のところに飛行機で行くはずだったのが、大雪のために空港で一夜を明かさなくてはならなくなってしまったのです。それで、空港でクリスマス・イブを過ごさなければならないという残念な事態に子どもたちは悲しんでいるのですが、その姿を見た父親が、本当のクリスマスはまさにこんな感じだったのではないかと、クリスマスの物語を話して聞かせるのです。

 子どもたちが思い描いたクリスマスはこんなはずではなかったのです。けれども、主イエスはまさにそんな日に、お生まれになったのではないか。身重のマリヤはまさか家畜小屋で出産をすることになるなんて思っていなかったはずです。生まれたばかりの赤ちゃんを飼葉桶に寝かせるなんてことを想像もしていなかったはずなのです。クリスマスの物語というのは、はじめから期待外れの出来事であったということができそうです。

 今日の聖書の箇所はバプテスマのヨハネが牢に捕らえられていた時に、自分の弟子を通して、主イエスに問い合わせをした言葉がここに書かれています。

「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」

 「私が期待をしているのはあなたでいいのですか」という問いかけです。バプテスマのヨハネでさえ、そのような疑問を抱いたというのです。ヨハネは来るべきお方の先ぶれとして神から遣わされました。そのヨハネは、この時、総督のヘロデ・アンテパスの罪を指摘したために投獄され、まさに殺されようとしていたのです。
 聖書に約束され、イスラエルの人々が長い間待ち望んできた救い主が来られたはずなのに、その期待した主イエスの働きはヨハネがイメージしていたものと大きくかけ離れていたので、がっかりしたのだということを、ここから想像できます。

(待つべき方は)あなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。

 何とも悲しい響きがここにはあります。
「こんなクリスマスを期待してたんじゃない。」
「こんなはずではなかった。もっとうまく行くはずだったんだ。」
「私が望んでいたものは、もっと別のものだった。」

 こんな叫びが私たちの周りではあふれています。そして、その言葉は時として私たちの口からも出てくる言葉です。 続きを読む ・クリスマス礼拝説教 マタイの福音書11章2-6節「別の方を待つべきか」

・説教 創世記13章1-18節「神からの約束」

2019.12.15

鴨下 直樹

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 アブラハムの生涯から、み言葉を聞き続けております。今日で三回目になります。この前の12章は、言ってみればアブラハムの弱さが描き出されていました。ところが、今日の箇所では、前回のアブラハムの姿は影を潜めます。自分が生きながらえるために、妻を妹と言ってエジプトのファラオに差し出した執着ともいえる姿はもうないのです。

 エジプトから戻ったアブラムはここでさらに多くの富を得たことが記されています。そのことだけでも、私たちは心のどこかにひっかかる思いがあります。妻を取り戻したときに、アブラムがザアカイのようにエジプトの王から与えられた財産を放棄するような姿であれば、多少は失敗を挽回できる気がするのですが、そうでもないのです。しかも、この時に得た富、財産で、今度は親戚である甥のロトと争いが生じてしまったということが書かれているのです。

 もちろん、ここを読むと、アブラムはまずベテルでまた礼拝をささげたということが書かれていまして、アブラムの信仰者らしい姿を見ることができます。けれども、この13章は明らかに、この時のアブラムとロトとのトラブルに焦点を合わせています。

 一難去ってまた一難。そんな人の生きざまがここにはとてもリアルに描き出されています。ようやく神の約束の地であるカナンに戻ってきたのですが、そこは静かで落ち着いた老後の生活が待っているというようなことではないのです。

 礼拝をしていたら、神さまを中心にした生活をしていたら、なんでもことがうまくいく。私たちはついそんなことを想像してしまうのですが、実際にはそんなことはありません。神様を礼拝する生活をしていても、トラブルは起こります。私たちは罪の世界の中に身を置いて生きているのです。相手がクリスチャンではないから、トラブルが起こるというわけでもありません。
 私たちの歩みも、このアブラムの歩みも、深く重なり合う部分があるような気がします。そういう意味で、アブラハムの生涯というのは、多くの信仰者たちの心を惹きつけて来たのかもしれません。

 私たちの人生にも何度ともなく、トラブルが生じます。多くの場合は、自分の力でなんとかしているのだと思いますが、時には自分の力ではどうにもできないようなトラブルを抱えてしまう場合もあります。

 ここでアブラムに起こったトラブルは、アブラムが持っている財産をめぐるトラブルでした。6節には「所有するものが多すぎて、一緒に住めなかったのである」と書かれています。

 持っているものが少なすぎて、貧しすぎて奪い合いになるというのではないのです。持っているものがありすぎてもまたトラブルになるとここには書かれています。お金持ちになったことがないから、そんなことはよく分からないという方も、私を含めて多いと思いますが、実際にそういうことが起こるわけです。この場合、「天幕を所有していた」と5節にありますから、アブラムとロトたちの生活が遊牧民のような生活であったことが分かります。羊や牛を飼う生活です。家畜に餌をやるためには、次々に緑を求めて移動し続けていかなくてはならないのです。当然、水の問題も出てきます。そんな中で、アブラムの牧者たちとロトの牧者たちとが争いをはじめてしまったのです。きっとはじめのうちは話し合いで解決してきたのでしょうけれども、状況は改善されません。そうすると、やはり別々に生活をするということを選び取らなくてはなりません。 続きを読む ・説教 創世記13章1-18節「神からの約束」

・幼児祝福式礼拝 説教 テサロニケ人への手紙第一 4章13-18節「非常に良い」

2019.11.17

鴨下 直樹

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おわび

機材の不具合のため、この説教のテキスト原稿はありません。また音声も会衆席から録音されたもので、やや聞き取りづらい部分ある事をお詫び申し上げます。

・(召天者記念礼拝)説教 テサロニケ人への手紙第一 4章9-12節「主と共に生きる」

2019.11.10

鴨下 直樹

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 今日は召天者記念礼拝です。そのために、今朝はご家族を天に送った方々とこうしてともに集いながら礼拝の時を持っています。そして、聖書が死について何を語っているのか、あるいは、聖書が語っている救いとは何かということに耳を傾けながら、私たちもまた自分の備えとなればと願っています。

 今日の聖書の特に大切なことが書かれているのは10節です。

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。

 目覚めていても、眠っていても主と共に生きるということが、ここで語られています。少しだけ説明すると、この目覚めていても、眠っていてもという表現は、まさに一日中主と共に生きているということでもありますが、もう一つの意味は、「眠っている」という言い方は「すでに死を迎えていたとしても」という意味です。今、礼拝でこのテサロニケ人への手紙第一からみ言葉を聞き続けています。この前のところですでに出てきていますが、パウロは主イエスの十字架と復活によって支えられている人が死を迎えたときに、もうすでに死に支配されていないのだということを表現するために、「眠っている」という表現を使っています。つまり、生きている時も、死んでいる時も、主と共に生きるようになるために、主は私たちのために十字架の上で死んでくださったのだということを書いているのです。

今日、私たちはすでに死を迎えた方々、パウロの言葉で言えば眠っている人のことを心にとめながら礼拝をしています。この方々は、今、死に支配されているのではなく、主と共に生きるようにされているということを、この聖書は語っているのです。

 ここに、聖書が語る慰めがあります。これが、聖書の約束です。主イエスは生きている時も、死を迎えたとしても、その人と共に生きてくださるために十字架にかけられ、その人を復活のいのちで支配してくださるので、今、主と共に生きているのだということを私たちは信じることができるのです。

 そして、パウロはこの手紙を通して語り掛けているのは、天に送った家族のことではなく、今この地上で生かされている者たち、私たちの方に目を向けさせます。
 1節と2節です。

兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。主の日は、盗人がやって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。

 ここに「その時とその時期」とか「主の日」と書かれているのは何の日かというと、聖書が語り続けている再臨の時です。「再臨」というのは、主イエスがもう一度この世界に来られる日のことです。この日のことはいろんな言い方があります。「世の終わりの時」とか「終末」という言い方をすることもあります。「裁きの日」とか「大審判の日」などという表現をすることもあります。主イエスがもう一度この地に来られる日、この日、再臨の時になると、この世界は神の裁きがあると聖書は書いています。それで、何とも言えないような恐怖を煽り立てるような言い方をすることがあるわけです。 続きを読む ・(召天者記念礼拝)説教 テサロニケ人への手紙第一 4章9-12節「主と共に生きる」

・説教 テサロニケ人への手紙第一 4章1-8節「愛と平和と寛容と」

2019.11.03

鴨下 直樹

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 今日の説教題を「愛と平和と寛容と」としました。題を見て、「喜びと祈りと感謝と」の間違いではないかと思われた方が何人もおられると思います。今日の箇所はテサロニケの手紙の中で最も有名なこの言葉があるところです。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。

 この言葉を、ご自分の愛唱聖句としておられる方もたくさんおみえになると思います。祈祷会に来られている方の中でもお二人の方がこの言葉を選んでいると話してくださっておりました。このみ言葉は、このテサロニケの手紙の中でも、もっとも印象深い言葉として、多くの人の心をひきつけます。けれども、まず今日は、この聖句が書かれている12節から22節に何が書かれているのかということにまず目を止めたいと思います。

 ここに書かれているのは、キリスト者の態度が書かれています。まず、教会に立てられて、労苦し、指導し、訓戒している人たちに対する態度が書かれています。みなさんはすぐに牧師のことをイメージするかもしれません。テサロニケの教会にはこの時、パウロやテモテといった指導者はおりませんでした。その時立てられた長老や執事たちということになるかもしれません。いずれにしても、この後の時代になって、教会には立てられている人と、信徒と言われる人々が登場することになります。「その人たちを重んじ、その働きのゆえに愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい」と書かれています。愛をもって尊敬する。そのことが教会の平和を作ると言っているのです。尊敬することができなくなると、平和はなくなってしまいます。それは、教会の中に限ったことではありません。職場でも地域でも、友人関係でも家族でも同じです。

 ここのところを新改訳聖書は「この上ない尊敬」と訳しました。これはちょっとギリシャ語では面白い言葉が使われていて、岩波の翻訳では「あなたがたが(諾い)〈うべない〉認めるように」と訳されていました。この「うべない」という言葉はかっこ書きなのですが、わたしはこの「うべなう」という日本語を使ったことがないので、意味を調べてみますと「願いや要求を引き受ける。同意する」とあって二番目の意味には「服従する」と書かれていました。

 この言葉は「認める」という言葉に前に「満ち溢れる」という意味の言葉の「ヒュペリエクペリスー」という言葉が使われています。この言葉のもとの言葉である「ペリセウオー」という言葉は「満ち溢れる」という意味で、その強調系が「ヒュペリペリセウオー」という言葉ですが、さらにその言葉を強調して「ヒュペリエクペリスー」という言葉で強調しているのです。これを今度の新改訳は「この上もない」と訳しました。ただ、この言葉はその後の「認める」という言葉にかかると理解すると「尊敬する」という訳になりました。この間には愛するという言葉ありますから、この愛するという言葉にかかると理解すると、「心から愛し敬いなさい」という翻訳にもなります。そう訳したのが、今度出た協会共同訳の翻訳です。岩波の「うべない認めるようにお願いする」という翻訳でもわかるように、これはただならぬ認め方だということが雰囲気として伝わるのではないでしょうか。

「この上もない愛に満ち溢れて受け入れる」ということが、この言葉の意味です。ここで大きな意味を持っているのは愛です。私たちがものすごく頑張って受け入れる努力をする、必死に認めていくということではなくて、この上もない大きな愛をもって受け入れていくということです。それは、教会に立てられている人も、そのような愛に満たされながら、労苦し、指導し、訓戒していく勤めを主から託されているということになります。ですから、執事や、長老、牧師、宣教師のために祈っていただきたいし、そうやって、教会の平和が築き上げられていくということを、心にとめていただきたいのです。

 これは、その後に書かれている14節と15節の勧めも同じです。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい

とあります。兄弟たちとありますから、これは教会の人々みなに語られた言葉です。教会にはいろいろな人がいます。怠惰な者、小心な者、弱い者、そういう人たちに寛容であるように、それこそ、愛を持って受け入れることをここでも、求めているのです。これは、自分は弱い人だとか、自分は怠惰な部類に入るかということではなくて、誰もが、このどれかに入ることだってあるわけです。だから、みながお互いに、お互いの弱さを受け入れあっていく、すべての人に対してそれぞれが寛容であるようにとパウロは勧めるのです。

 そして、また、「悪に対して悪で返さないように」ということを勧めるのです。「やられたらやり返す」、少し前に流行ったドラマの言葉だと「倍返し」という言葉がありました。そういう発言をすることが認められるような社会に私たちは生きています。けれども、それをやっていたら、この世界には憎しみだけが膨らみ続けてしまいます。主は私たちにそのように生きることを求めてはおられないのです。 続きを読む ・説教 テサロニケ人への手紙第一 4章1-8節「愛と平和と寛容と」

・説教 テサロニケ人への手紙第一 4章13-18節「主にある望み」

2019.10.20

鴨下 直樹

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 今、私たちは第一テサロニケ人への手紙からみ言葉を聞いています。このテサロニケ人への手紙の大きな特徴は、「再臨」というテーマが取り上げられていることです。けれども、この「再臨」というテーマを私たちはあまり大きなテーマとしてとらえていないところがあります。というのは、主イエスが再び来られるというこの聖書のメッセージを私たちはどのように受け止めてよいのか、よく分からないところがあるからです。

 けれども、このテーマは親しい人が死を迎える時にどうなるのかということと深く結びついています。そして、ここでパウロはまさに、このテーマを語っているということを、まずしっかりと理解する必要があるのだと思います。

 今日の箇所を読んでいますと、どうも、テサロニケの教会で予想外の出来事が起こったことが読み取れます。それは、まさに再臨がテーマの出来事です。テサロニケの人々もパウロたち最初の教会の人々も、主イエスが来られるという、再臨を待ち望んでいたのですが、テサロニケの教会の仲間の誰かが亡くなったようです。それで、教会の中に動揺が広がっていたようなのです。主イエスがすぐにも来てくださる、まもなく再臨があると考えていたら、その間に教会の中から召される人が出てしまったのです。そのために、いったいこの人はどうなってしまうのだろうかという不安が教会の中に広がったのです。

 今、私たちはこの初代の教会の時代から2000年ほど後の時代に生きていますから、当時の教会の人々のこのような切迫したような感覚というのはなかなか感じられません。けれども、そういうことがあっただろうなということは、想像できると思います。

 10日ほど前のことですが、ある牧師と話をしていましたら、その牧師の前任の牧師は、召された人は今、眠りの状態にあると教会の葬儀で説教しておられたのだそうです。それは、おそらく、このテサロニケの手紙の、まさにこの箇所に書かれていることを受けて、話されたのだろうと言っておられました。ところが、葬儀の時に、そのような話をなされたので、教会の人々や家族の人たちが、そうするとどこに希望があるのか分からないと感じて、とても不安に感じているということでした。

 この話を聞きながら、確かに同盟福音でも死後にどうなるのかということについて、「信仰基準解説書」にもそれほどきちんと書かれているわけでもありませんから、いろんな考えをもっておられる牧師もあるかなと、改めて気づかされました。みなさんの中にも、これまで教えられた先生によって、いろんなことを聞いておられるかもしれません。

 ここに書かれている「眠っている」という表現は、後になってイメージとして死後に一時的な待合所のようなところがあるのではないかという考えが生まれてくるきっかけとなりました。それが、カトリックの「煉獄」という考え方に結びついていったわけです。

 パウロがここで「眠っている」という表現を使ったのは、「イエスにあって眠った人」とあるように、今その人は主イエスのうちに入れられているという理解があるからです。「イエスにあって」というのは「主イエスの中にある」という書き方をします。その人はもう死と区別されているので、「眠っている」という表現を使っているわけです。ですから、本来、ここで語ろうとしているのは、死後の世界に、どこか冷凍室のようなところがあって、そこで氷漬けにされているということではないのです。 続きを読む ・説教 テサロニケ人への手紙第一 4章13-18節「主にある望み」