・説教 マルコの福音書10章35-45節「土台のある人生」
2018.12.09
鴨下 直樹
先週、教団役員会で武豊教会を尋ねました。教会の前に、もみの木のクリスマスツリーが置かれていました。今年から武豊で牧会されているベルンス先生に聞くと、根の上の部分から切り落とした生のもみの木でした。プラスチックのものと比べるとやはり生のもみの木は雰囲気があって一段と綺麗に見えます。ただ、根がありませんので、しばらくすると枯れてしまいます。このクリスマスの季節だけ使うことを考えればそれで充分です。それで、この時期になると、切り倒してきたもみの木が売られているわけです。けれど、ひと月ほどは持つようですが、何か月かすれば枯れてきてしまうので、少し残念というか、もったいない気がします。今日は、「土台のある人生」という説教題にしました。土台がない、根がない人生ということについて考えてみたいと思います。
今日の聖書の箇所は主イエスの弟子であるヤコブとヨハネの言葉からはじまります。
「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」
主イエスの2度目の受難予告の後の出来事です。主イエスがここで、自分が殺されるという話をしているのに、その後で出てくる質問としてはちょっとどうかと思う質問がここで出されています。33節で、主イエスは受難の予告をされたときに、エルサレムに上って行くという話をしています。昨年、冬のオリンピックで良い成績を収めた選手のパレードの様子を何度かテレビで見たことがありました。何万人という人が集まって、金メダルをとった選手を一目見よう、またお祝いの声をかけようと集まってくるのです。その時の歓声の大きさ、人の集まり、それはもうまさに大群衆というような人の群れが生まれます。主イエスがエルサレムを訪れる。今ほど人口の多い時代ではありませんから、何十万人というような人がエルサレムに集まることはないと思いますが、それでもかなりの人の群れがエルサレムに集まるのです。それほど、主イエスは当時の人々の注目を集めていました。大祭司や律法学者が妬みを引き起こすほどの人気ぶりだったのです。
弟子たちは、そんなことを想像したのかもしれません。あるいは、これは私の想像が行き過ぎているのかもしれません。ただ、殺されるという話を聞いて、ならば今のうちにお願いできることはしておこうということだったのかもしれません。いずれにしても、ヤコブとヨハネは、自分たちの願い事をかなえていただきたいというものでした。兄弟二人で申し出たわけですから、このタイミングで思いついたということではなくて、前からお願いしたいと考えていたということでしょう。
主イエスにかなえてほしい願い事がある。それは、よく考えてみれば、特に珍しいことでもないでしょう。私たちには実にさまざまな願いがあります。病気が治るように祈ることもあります。無くしてしまった財布が見つかるように祈ることもあるでしょう。遠くに住んでいる家族のために祈ることもあります。ですから、このヤコブとヨハネの申し出を私たちは簡単に場違いなひどい願いだと決めつけてしまうことはできないと思うのです。
そして、主イエスはこの二人の願い事に対してこう言われました。
「何をしてほしいのですか。」