2018 年 12 月 16 日

・説教 マルコの福音書10章46-52節「何一つ持たないで」

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2018.12.16

鴨下 直樹

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 教会で長く祈られてきた祈りに、「キリエ・エレイソン」という祈りがあります。今日出てくる、「主よ、憐れんでください」というラテン語の祈りです。残念ながら、私たちはあまりこの祈りを祈る習慣がありません。讃美歌21にも、いくつかこのキリエの賛美がありますが、私たちはあまり礼拝でこの曲を歌うこともありません。ただ、礼拝の中で交読する「栄光の賛美」「グローリア」という祈りを、長い間私たちはしてきました。ここに、「主よ、私たちをあわれんでください」という、祈りの言葉が三度、繰り返されています。これが、「キリエ」と言われる祈りです。

 普段、私たちは自分を憐れな存在であると感じることがあまりないと思います。あまり、自分の恥をさらすべきではないと思いますが、11月25日の午後、天白の教会で教団の11月総会が行われました。今は、代表役員ということになっていますので、この総会のために、さまざまなことを整えて総会に臨みます。ところが、11月は本当にいろいろなことがありまして、総会の始まる直前に、総会資料のプログラムに目を通しておりましたら、最初の説教のところに、私の名前が書いてあるのです。自分でそのプログラムを準備したのですから、当然分かっているわけですが、その時まで、すっかり忘れておりました。今更バタバタにしても仕方ありませんから、腹を決めて詩篇27篇から説教しました。それは、ここでも先月説教しましたし、総会の二日前にあった葬儀もここから説教しましたので、だいぶ自由に話せます。

 ところが、私はその時の説教で、感極まってかなり感情的な説教をしてしまいました。この詩篇は、前半部分では非常に信仰的な祈りがなされていますが、後半になると、祈り手は、神を見失ってしまって「主よ、憐れんでください」という祈りになります。その説教の中で、私たちの中にもそういうことがあるという一つの例として、自分のことを話しました。朝の礼拝の前に灯油をこぼしてしまって背広が灯油まみれになってしまったこと、いろいろ思うようにならないで愚痴が出てしまうことなどを話しました。そして、後になって、反省しました。自分が憐れだなどということを、人前で説教するというのは、聞いていて気持ちがいいものではありません。人前で自分の弱さを語るということは恥ずかしいことだと思うのです。

 そんなこともあって、総会でした自分の説教を恥じていたのです。そんな中で先週、その説教を聞いたある教会の役員が、ぜひ鴨下牧師を来年の修養会で教会に招きたいという声が上がったという知らせを受けました。私としては何とも言えない複雑な気持ちになりましたが、好意的に聞いてくださった方もあることが分かって少しの慰めになりました。
私たちは、人に自分がみじめな人間だ、自分はかわいそうだなどということをあまり話したがりません。私たちにはプライドがありますし、そもそも泣き言というのは、聞いていてあまり気持ちのいいものではありません。だから、そういう感情を隠しながら、あるいは歯を食いしばりながらなんとか耐えているということがあると思います。でも、本当は大変なのに、誰にも分ってもらえないということもまた、とてもつらいものです。

 ここに、一人の人が出てきます。名をバルティマイと言います。これまでの聖書ではバルテマイとなっていました。今度の翻訳で「バルティマイ」としたのです。バルというのは、「だれだれの子」という意味です。ですから、「ティマイの子」という意味ですが、聖書の中に、十二弟子以外で、個人の名前が出てくることは珍しいことです。名前があるということは、あとで、この人は知られる人になったということでもあります。なぜ知られるようになったのか。それが、この物語を通して分かるわけです。

 バルティマイは目の見えない、物乞いをしていた人です。エリコの街の出入口で物乞いをしていたのでしょう。通りかかる人の気配を感じると手をあげたり、声をあげて、誰かが恵んでくれるのを待つのです。人の憐れみにすがって生きて来た人です。けれども、そのことが、このバルティマイにとっては最大の強みであったということができると思うのです。 (続きを読む…)

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