・説教 創世記31章17-55節「巣立つヤコブに」
2020.10.04
鴨下 直樹
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Lineライブ
午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
10月に入りました。このコロナ禍にありながら、私の生活はこの一週間で一気にいろいろと変わり始めています。今、新しく何かが始まろうとしていることを感じています。
先日、JEAの宣教フォーラムが行われました。JEAというのは日本福音連盟の略ですが、いわゆる私たちが所属しております福音派と呼ばれている教会が、宣教について考える研修の時を持ったのです。今回は、例年ですとどこか一つの所に全国から集まりまして、会議や講演が行われるのですが、今回はオンライン会議という方法で行われました。200名ほどの牧師たちが参加しました。ここで主に語られたのは、このコロナ禍の状況で、日本の教会は今何が問われているのかというテーマの講演がいくつもなされました。
先週行われた私たちの教団の日の集いでもそうですが「ピンチはチャンス」という言葉をいろいろなところで耳にします。この機会を、どのように積極的な意義としてとらえるのかという事が、様々な方面から語られていて、とても面白いと思いました。
その中で主に語られていたのは、このオンラインで礼拝を配信したり、在宅でオンライン会議などができるようになったことで、さまざまな可能性が広がるということです。そのことに、積極的な意味を見出していこうということです。
このフォーラムの中で、ある牧師は、その時の発題の中で、「身体性」というテーマの話をされていて、教会の集いに来ないと、身体性が損なわれているのか、オンラインのモニター越しであっても、そこにも身体性を見出すことができるのかという問いかけがなされました。
簡単に言うと、教会に何らかの事情で来ることが難しい人がモニター越しで礼拝を捧げることを、教会に来ていることと同じように考えることができるのかどうかということを話されたわけです。
その発題の時に、質疑の時間がありまして、その講演をされた先生にこんな問いかけがなされました。
「オンラインになると、聖餐式ができなくなる。そのことについてどう考えますか?」
という問いかけです。この講師の発言の急所を突く質問でした。その時に、その発題をした先生は、今の自分個人の考え方はという限定的な言い方でしたけれども、「聖餐は、象徴なのだという考え方が強くなっている」と答えられました。
この発言はとても大きな意味をもっているのですが、要するに聖餐がなくても、オンラインの参加であっても、その画面の前にはその人がいるのだから、それでいいのではないかということです。
今後、この考え方が主流になっていくのかどうかは、全く分かりません。私個人としてはそうならないことを願っています。
というのは、このフォーラムで別の講師の方が発題をなさった時にも、同様の質疑があり、その時にそれに答えられた吉川直美先生、この方は聖契神学校で霊性の神学を教えておられる先生ですが、その質問に答えて、こんなことを言われました。今、教会は聖餐が出来ない、愛餐と言われる食事が一緒にできない。交わりができない。ロシア正教会などでは聖なる口づけという習慣ができなくなっているし、カトリック教会では亡くなった方にする終油という、油を注いでお別れをするということができなくなっている。それは、愛するという具体的な行為が教会から奪われているということだという話をなさったのです。これは、今さかんに言われているソーシャルディスタンス、人との身体的な距離を取る必要があるということの中で起きてきたことですが、人との距離をとらなくてはいけないという流れの中で、具体的な愛の業が失われてしまっている。そのことを問われたのです。
私は、この方の話を聞きながら、まさにそのことこそが、このフォーラムで考えられるべきテーマだったのではないかと感じました。
そして、先週から、私が関わっております名古屋の東海聖書神学塾の講義が始まりました。名古屋まで様々な事情で来られない方がありますので、対面の講義と同時進行で、オンライン配信もすることになりました。なれない高齢の先生が多いために、事務の方々は大変な一日でした。
私はその中で、説教学基礎という講義を教えています。昨日は、最初の講義でしたので、まずその導入、イントロダクション的な話をいたしました。そこで、そのフォーラムで考えさせられている話をいたしました。
今、愛の行為が教会から奪われている。これが私たちが抱えている課題だというのです。そして、実は、それは教会だけではない、私たちの世界が抱えている大問題です。人と、身体的な距離を取らなければならないということは、人の愛や優しさ、思いやりというものが感じにくい、まさに人との距離が出来てしまって生きにくい社会を生きているわけです。
けれども、教会は愛の業が奪われて何もできないと言っていていいのだろうか? オンラインのその向こうに、その人の体があるので、オンラインでいろいろなことができる。そこに可能性がある。それは、一面ではそうだと思うのです。けれども、その可能性をどこに見出すか。このことこそが、重要なのではないか。 (続きを読む…)