・説教 詩篇11篇「直ぐな人は御顔を仰ぎ見る」
2022.09.11
鴨下直樹
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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
以前、この芥見教会の祈祷会でレビ記の学びをしたことがあります。聖書通読をしていますと、創世記から読み始めた方の多くがこのレビ記で止まってしまうことが多いようです。レビ記は難しいという印象を持つようです。けれども、このレビ記が分かってくるようになると、聖書がかなり読めるようになります。
このレビ記のまとめが書かれているのが26章です。ここは、「祝福と呪い」というテーマで書かれています。神様の戒めを守るものは祝福に与り、神様の戒めをないがしろにするならば、呪われる。そういった内容です。
昨日、東海聖書神学塾で、このレビ記の学びの最後の講義を行いました。そこで、講義を聞いていた方が、この26章を学んでこんな質問をしました。
「これは、因果応報ではないのですか?」というのです。
よく、私の説教の中で、「聖書の神は因果応報の神ではない」という発言をします。これは、私だけではなくて、多くの牧師がそのように語るのだと思います。けれども、実際に聖書を読んでみると、このレビ記26章にあるような、どうしても、因果応報というテーマで書かれているような箇所にでくわすことになります。
良いことを行えば祝福される。悪いことをすれば裁きにあう。一般的な言葉で言えばバチが当たるというわけです。そうするとこれは因果応報ではないか? そんな思いを持つのです。みなさんも、そのように感じることがないでしょうか?
その方の質問はそこで終わりませんでした。さらに、こんなことを言われたのです。
「でも、クリスチャンとしてちゃんとやっているはずなのに、自分の身に災いが降りかかってくることが沢山あって、どうしてもモヤモヤしてしまうのです」そう言われました。
その方はがんを患って抗がん剤治療でかなり苦しんだようです。今はがんからは癒されたようですが、その後もずっと体調が悪くて日常生活に支障が出ています。私は何か神様を怒らせるようなことをしただろうか。ちゃんと信仰生活しているはずなのに、どうしてなのだろう。どうして、こんなに辛いことばかりが身に降りかかってくるのだろう。そんな悩みを感じているのです。
私たちも、そういった思いを持つ方があると思います。そして、なかなかこのモヤモヤがすっきりしないのです。
私は、その時にこの方にこんなことを言いました。 (続きを読む…)