・説教 ローマ人への手紙1章16-17節「福音を恥とすることなく」
2021.06.13
鴨下 直樹
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パウロはここで福音について語り始めます。
福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
「福音」というのは、信じるすべての人に救いをもたらす神の力だというのです。
先週、あるニュースを読んでおりましたら、岐阜県の池田町に工場のある塩野義製薬が、新型コロナウィルスの治療薬を開発しているというニュースが出ておりました。それによると、新しい変異株にも対応できる薬を作ろうとしているということでした。
今の世界の中にあって、こんな治療薬が完成したら、それはある意味では福音です。信じるすべての人に救いをもたらすものとなるでしょう。そういうものが完成したら、同じ岐阜県民として、誇りをもって、この薬をいろんな方にお勧めすることができるようになると思います。いかがでしょうか?
福音というのは、良い知らせです。しかもその知らせをもたらされた人に救いを与える力が、そこにはあるのです。大事なことは、そこでも「信じる」ということが不可欠です。
それがどれほどすばらしいものでも、信じて受け取られることがなければ、何もないのと同じです。そのためには、この知らせを届ける人が必要です。
だからこそ、パウロは、この福音を届けることこそが、私の負い目、責任なのだとこの前のところで語っているのです。
そして、この人を救うことのできる神の力である福音を届けることを恥とは思わないとパウロはここで言っています。
振り返ってみて、私たちは、私たちが受け取った福音をパウロのように大胆に証しできるのだろうか、ということを考えてみたいのです。
家族に聖書を勧める、教会に集うことを勧める時に、そこに躊躇させるさまざまな要因があるとすると、それは何かということです。
福音を伝えることを難しいと感じる理由はいくつかあると思います。まず、私が思いつくのは、相手に対する配慮です。相手の家族の宗教だとか、その人が大事にしているものを考えると、なかなか勧めづらいということがあると思います。
その次に浮かんでくるのは、自分自身に対することです。なかなか、福音のように生きているとは言い難いので、人に勧めるのには躊躇するということもあるのだと思います。
それ以外に考えられるのは、せっかく自分の居場所になっているところに、他の人に入って来て欲しくないということもあるのかもしれません。
ただ、そうやって理由を考えていって見えてくるのは、その福音を伝えにくいと感じるさまざまな理由が、福音とは直接関係のないものばかりだということに気づくのです。
それは、こういうふうに言い換えることもできると思うのですが、それはお勧めする商品の魅力がまだ十分わかっているとは言えないということです。
たとえば、健康食品で、考えてみたいのですが、ある時、そこに集まっていた人達に、何かお勧めの健康食品がありますか? と質問したことがあります。そうすると、みなさん、次々に、さまざまなものを紹介してくれました。案外、沢山の人がそういうものを使っているんだと分かって驚きました。
そういう時、その商品の何がどう凄くて、どうお得なのかということを、皆さん熱弁してくださいます。きっとここで皆さんにお尋ねしても、同じようなことになるのではないかと想像します。
自分が使っていて本当にいいと思ったものは、声を大にしてでもお勧めしたくなるものです。それは、自分がその商品の効果を経験して知っているからです。
それと、同じことが福音についても言えるはずなのですいかがでしょうか? もし、なかなかそうなり難いのだとすると、原因は福音そのものの、効果というか、効き目みたいなものの実感があまりないということから来ているのでしょうか。
ある宗教学者は、お金が儲かるか、病気が治る、この二点を説明できればその宗教は成功すると語ったというのを、以前ある本で読んだことがあります。いわゆるご利益です。
ただ、私たちは、聖書が語る福音というのは、ご利益ではないということを聞きます。だから、人に語りにくいのでしょうか。
もう一度、ここには何が書かれているかというと、「救いをもたらす神の力」と書かれています。
「救い」と、ここにあります。この救いというのが、なかなか曲者なわけです。というのは、人によって期待する「救い」が違っています。そして、さっきの宗教学者の話で言えば、多くの人は「お金が増えることと、病気が治ること」を救いとして期待しているということなのでしょう。もし、そうであれば、そのことを強くお勧めすることはできませんので、伝えにくいという結果にならざるを得ません。
つまり、最初からボタンを掛け違っている可能性があるわけです。
聖書が語る「救い」というのは、死からの救い、神との和解、そして生きる意味の回復という三つの点にまとめることができます。
問題は、この三つのことが、なかなかリアリティーを感じることが出来ないでいるということなのだと思うのです。
パウロはこのことを次の17節でこのように語りました。
福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
パウロはここで、「救い」のことを「神の義」という言い方をしました。この言葉もまた観念的な言葉なので、なかなかイメージしにくい言葉です。そして、教会は長い間、この聖書が語る神の義ということを、間違って理解してきました。
この「義人は信仰によって生きる」という言葉を、「正しい人は、信仰によって生きる」と理解してきたわけです。その場合の正しい人というのは、「神から合格をいただいた義人は」という意味で理解してきました。
先日の祈祷会でもお話ししたのですが、娘の学校で、定期的に漢字テストというのが行われます。50問出されるのですが、80点が合格で、80点が取れないと、何度も何度も追試験を受けなければなりません。私が小学校4年生の時はそんなものは中学に行くまでありませんでしたが、今は小学校から完全に漢字を覚えさせようとするようです。
それは、漢字を覚えるという視点から考えればとても良いことです。覚えないままに、新しい漢字が次々出てくるわけですから、その都度ちゃんと覚えさせようという方針なのだと思います。
そうしますと、親としては、何とか追試にならないように、必死になって漢字を覚えさせます。追試になったらカッコ悪いという思いからです。そして、どうも聞いていますと、学校の休み時間にこの追試が行われるのだそうで、試験にまだ合格していない子は休み時間に遊ぶことができないのだそうです。なかなかよく考えたものです。遊びたい子どもは、何としても少しでも早く追試に合格するしかないわけです。
これと、同じように、この17節のみ言葉は、信仰の合格点をいただくことができた立派なクリスチャンは、信仰によって生きているのだと理解したわけです。カトリックの聖書フランシスコ会の解説にも「正しい人は神のおきてを忠実に守ることによって生き残る」とこの箇所の解説に書かれています。ここでは、信仰というのは、律法を忠実に守ることだと理解されているわけです。
聖書の教えをちゃんと守って80点を取ること、実際には80点どころではなくて100点を取ることなのですけれども、そういうことがここで要求されていると理解されているのです。
でも、それだとなかなか人に自信をもってお勧めすることのハードルが高くなってしまいます。「ちゃんと聖書のように生きている人は救われるんだって」となるので、それを勧めているあなたはちゃんとやっているの? と言われると、「いや、私はそれほどでもないけれど・・・」と、もごもご言わなければならなくなってしまいます。
カトリック教会では、この「神の義」を「神が人に要求されること」と理解しました。それで、宗教改革者ルターは悩むことになったわけです。常にテストで合格点を要求される神は意地悪な神ではないかと考えたのです。それなら、神の義は救いではない、苦痛でしかないと考えたのです。
100点をすぐに取れる人は問題ないのですが、100点がなかなか取れない、実際にはほとんどの人は、自分はダメだと苦しむしかなかったわけです。いつまでも、いつまでも、追試験を受けなければならない。いつまでもお昼休みに遊べないのです。
そうして、ルターは悩み始めるわけです。そして、そんな悩みの中で出会ったのが、このローマ1章17節のみ言葉でした。
ここにある神の義というのは、「信仰にはじまり、信仰に進ませる」という言葉です。これを読んだ時に、信仰によって私たちの生涯はキリストに包まれるということなのではないかと気づいたのです。これが、やがて「福音の再発見」と呼ばれる出来事となりました。ここからプロテスタント教会は生まれることになったのです。
この「信仰」という言葉は、長い間「信心」と理解されてきました。自分が信じる心のことだと考えられてきたのです。けれども、今は聖書の注に、この信仰は別訳で「真実」と書かれています。これは、私たちが信じるということではなくて、神の側が私たちに対して真実でいてくださるということだとも読めるということです。
人間から神へという、下から上へという線だけではなくて、上から下へ、神が私たちに対して真実を示してくださるというそういう意味でもあるわけです。
そうすると、この言葉はまさに、ルターが理解したように、神が私たちに対して真実にいてくださって、私たちを包み込んでくださるということが分かってくるのです。
ルターはあとで、この箇所を自分の説教の中でこう語りました。
また、こうも言っています。
と。これこそが、神の義、神の福音の力だとパウロはここで言っているのだと気づいたのです。神の義というのは、私たちの罪、足りない部分を全部包み込む、神からの恵みの贈り物であることをルターは発見したのです。
だから、私たちがちゃんとできるとか、できないとかいう私たちの性質の問題ではなくて、徹底的に神の御業なのです。
お勧めする商品そのものが素晴らしいのであって、そのお勧めする側の人間のことはそれほど問題にはならないのです。
神は真実なお方で、なかなか律法を守ることのできない者であっても、この福音そのものが素晴らしいのですねと、その福音そのものを信じて受け入れた人を、神は、「あなたは素晴らしい、あなたはもう私の目から合格だよ」と言ってくださる。それが、私たちを救いたいと願っておられる神の思いなのだということです。
この主イエスによって私たちのところにもたらされた良い知らせは、「私たちが死ぬときにその先どうなるか怯えなくても大丈夫だよ、もうあなたは私が命を与えたから、死の恐怖に呑み込まれる必要はないよ」という知らせです。
そして、神さまを無視して生きて来たので神様は私に対して怒っておられるに違いないと思えたとしても、「もうあなたとは仲直りしたから問題ない、あなたを赦している」と言ってくださるということです。
そして、更にはこの後の私たちの人生は、この素晴らしい神様から頂いた福音を喜んでいれば、自分の人生に生きがいを感じて喜んで生きていけるようになるということです。
この三つのプレゼントを、主イエスを信じた特典として、私たちにもれなく下さるということです。これほど気前の良い神の福音の1パックセットを、私たちに届けて下さっているので、私たちはこれを喜んでいただいたらいいのです。そして、あとは、このプレゼントを十分に楽しんで効果が実感できるまで使っていけばいいのです。
せっかく、私たちの主が、十字架につけられるまでして、私たちに届けてくださったのですから、このプレゼントの素晴らしさを、ぜひ、使い尽くしていっていただきたいのです。
そのために必要なのは、この福音そのものを知ることです。頂いたのですから、それをよく使ってみることです。つまり、聖書に書かれていることを受け取って、自分のものにするように歩んでみるということです。毎日、毎日、この福音に生きていくのです。
そうしたら、私たちはヘビーユーザーとして、自信を持って人にお勧めできるようになります。あるいは、まだ使い始めて少ししか経っていないけど、なかなかこれはすごいよと、今の時点でも十分にお勧めできることが見つかってくるのだと思うのです。
私たちも、パウロと同じように、ルターと同じように、福音を恥とすることなく、神の救いの力を、多くの人にお勧めしていきたいのです。
お祈りをいたします。