・説教 ローマ人への手紙1章18-25節「真理を阻むことなく」
2021.06.20
鴨下 直樹
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パウロの記したこの手紙は、この前の部分までが導入部分だとすると、ここからがいよいよ手紙の内容に入っていきます。
全体の枠組みのはなしをすると、ここから3章の20節までで、不義とは何か、罪とは何かということが語られています。
特に、今日読んだところには、こういう言葉が記されています。
神の怒りが天から啓示されている
よく、教会の学び会などでも質問としてでてくるのですが、旧約聖書の神様はとても厳しい神様で、新約聖書になると愛の神様になる。どうして、こんなに神様のイメージが変わるのでしょうか?という質問が出ることがあります。
確かに、聖書を読んでいますと、特に旧約聖書を読むと、そのように思えるほど厳しい神様のお姿が何度となく出てきますので、神様は厳しいという印象を持つということはよく分かります。
今週の、水曜日と、木曜日に私たち同盟福音キリスト教会は牧師たちの研修会をいたしました。例年は、長野県の「のぞみの村」という教団の宿泊施設がありますので、そこまで出かけて行って、牧師、宣教師たちがみな顔を合わせて、研修の時を持つのですが、今年はコロナのためにそれが出来ません。それで、オンラインで研修会を行いました。
今年のテーマは「ジャンルを大切にして聖書を読む」という学びをいたしました。というのは、昨年もお招きしようとしていて、できなかったのですが、教団の稲沢教会の渡辺先生が、そのタイトルの本を最近だされましたので、この本を牧師たちみんなで一緒に学んだのです。
そこで、渡辺先生が語られたのは、聖書の中にはさまざまなジャンルの文章があり、そのジャンルごとに、聖書の読み方が違うんですよという話です。
たとえば、私たちの日常でも、色んなジャンルの文章があります。新聞とか、日記とか、小説とか、会社の報告書とか、回覧板で回って来るお知らせとか、実に色々あります。その文章の目的にしたがって、それをどういう書き方にするかというのは、異なってきます。
それと同じように、聖書の中身というのは、詩とか、法律とか、歴史の記録とか、預言とか、たとえ話とか、実にいろんなジャンルの文章が混在しています。その、それぞれの文章の特徴と、その文章にふさわしい読み方を、意識して聖書を読みましょうということを、二日間かけて学んだわけです。
それで、先ほどの話に戻ると、旧約聖書には、神さまが厳しいというイメージを持つということですが、このジャンルという考え方からすると、まず、旧約聖書の冒頭は律法の書です。これは、法律なので、全部命令形の文章になっています。神様の命令なので、問答無用です。返事は、「ハイ分かりました」しか期待していません。だから、当然、書き方は厳しいわけです。
その次は歴史書です。この歴史書というのは、誰かの主観ではなくて、事実だけをたんたんと記していきます。どういう問題が起こって、それに対して、人間はどうしたか、神は何と言われたかという客観的な報告です。そうすると、そこには、読み手への気持ちの配慮なんてありませんから、やはり厳しく感じるという部分があるということになります。
一方で、今日の場合は手紙です。パウロがローマの教会にあてて書いた手紙ですから、そこには読み手が想像されていますので、律法の書とか、歴史書とは異なる書き方がなされています。そういう意味では、同じ聖書の文章ですけれども、読んだ時のイメージがかなり違うということになります。
これが、旧約聖書と新約聖書を読んだ時に起こるズレの一つの原因です。
もう一つは、いつもお話ししていますが、「漸進的啓示」というものです。これについては簡単にだけお話しすると、神さまは、幼子に向けては、分からせるために厳しく語りますが、ある程度分かるようになってきた大人には、大人の語り方をします。啓示の仕方が漸進しているわけです。どんどん進展していくので、その違いから、旧約は厳しいけれども新約は優しいという錯覚を感じるわけです。
ただ、今日の箇所は新約聖書ですが、とても厳しい箇所です。ここには錯覚とか、印象ではなくて、はっきりと、「神の怒り」と書かれています。
神は怒っておられるということが、はっきり書かれています。新約聖書だから愛だけなのだということではないのです。
カール・バルトという神学者はこの18節から32節までの解説の部分に「夜」というテーマをつけました。夜が明けて、光を見るためには、その夜の暗さをよく知る必要があるということです。
この前のところで、語られているのは「神の義」です。
「福音には神の義が啓示されて」いるとこの前の17節で語られています。神は、人を救いたいと願っておられるお方です。でも、その救いの中に招かれるためには、自分がどれだけ、神の義とは遠いところにいるのかということを知らなければなりません。
それで、パウロはここから、人に対して神は義であるがゆえに怒っておられると語り始めているのです。
神の怒りはどこから来るのでしょうか?パウロはそれを「天から」と語っています。「天」、それは、神の御座のあるところです。神の支配される世界です。その神のご支配の眼差しで、この地を見る時に、この世界は不義に満ちているというのです。
この不義のさまを24節と25節ではこう言っています。
そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。
彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
今日の礼拝の後で、伝道部主催の「伝道の学び」を行おうとしています。そこで、お話ししようと思っているのですが、「なぜ日本でキリスト教は広まらないか」ということについて、みなさんと一緒に考えてみたいと思っています。
一週間前のことですけれども、私は、JEAの総会に出席してきました。これは日本福音同盟と言いまして、日本の福音派の教会が所属している大きな教会の交わりです。全国で何千という教会がこれに加盟しております。今コロナのために、ほとんどはオンラインでの開催となったのですが、その総会に出席しました。2023年に日本伝道会議という大きな会議が行われます。今度の開催は東海地区が担当で、会場は岐阜です。私はその会場の担当を受け持っているということもあって、打ち合わせするために、参加いたしました。
このJEAには様々な委員会があります。その中で、社会委員会という会が昨年、青山学院大学の宗教主事である森島豊先生を講師にお招きして、「なぜ日本でキリスト教は広まらないのか」という講演をいたしました。私は残念ながらこの講演には参加しておりませんが、先日の総会で、この講演の報告書を手に入れることができました。それで、その報告書をもとに、皆さんにも、ここでされた内容について、午後、お話ししたいと考えているわけです。
ここで、「神の真理を偽りと取り替え」とパウロは語っています。その一つの例をお話ししたいと思っているのですが、教会には「抵抗権」という考え方があります。
これは、たとえば、国に立てられる王様がいます。その王様の上には神様がおられるという考え方が西洋のキリスト教国にはあります。ですから、王様は、聖書の教えに反することを、その国で行うことができないわけです。もし、王様が、聖書の教えに反することを命じるとすれば、教会も、その国の民も、これに抵抗することができるという考え方です。
キリスト教が日本に入った時に、そのことにいち早く気づいた人がいます。それが豊臣秀吉です。秀吉が朝鮮出兵で長崎を訪れた際に、夜、伽をさせる女の子を家臣が探しに行き、十代の女の子たちを見つけます。そこで、「関白様の命令なので、今夜関白様のところに行くように」と命じたわけです。ところが、その少女たちは「行きません」と断ります。話を聞いてみると、その女の子たちはキリシタンだったというわけです。
それで、秀吉はそのことに怒って、その晩のうちに、「キリシタン追放令」というのを出したというのです。これは、それまで、国の権威である関白に逆らう人が誰もいなかったのに、キリスト教を信じると、王にも逆らうようになるということに気づいて、この教えは恐ろしいと考えたということです。
この後のことは、午後にお話ししますけれども、日本にキリスト教が入って来たときに、この抵抗権というものをなくさないとダメだと考えた政府は、天皇制は日本においては宗教の上にあるもの、これは「文化」なので、この下に宗教があるという理解なら、キリスト教を認めるという条件付きの信教の自由を認めます。だから、日本がペリーによって開国して、信教の自由を認めた後も、キリスト教は弾圧され続けたわけです。天皇が一番上なので、その下にある権威は認めないのです。それは国民にあらず、非国民ということで迫害をしたのです。
これは、今日に至るまで、この国を支配している考え方の一つです。だから、この国では世界中で使う「人権」という思想が通用しない、天皇のもとで、みな民は平等であるということを「人権」と呼んでいるというわけです。午後にお話しすることを短くまとめるとそういうことになります。こういった内容のことを、この森島先生が講演されたわけです。
神が、この天地を創造されました。それは人ではありません。聖書が語る真理を、この世界は、さまざまな方法で別のものに変えてしまっているのです。この神の上にある権威などというものは、本当は存在しないのです。
18節をもう一度お読みします。
というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
不義というのは、神の義、神の義しさを認めないということです。そういう人は不敬虔になる。それが、態度になって表れるというのです。
神の義、神が人間に対して求めておられることが分からないと、それは、自分の本当の姿が見えないということになります。自分の本当の価値を知ることが出来ないからです。
そのためにまず必要なことは、神を知るということです。もっと分かりやすく言うと、光の明るさを知るということです。日中、光がありますと、すべてのものを見ることができます。それが、どういう形をしていて、どんな機能があって、どういうものなのかということが分かります。すべてのことが明らかになります。
それと同じように、神さまはこの世界に神様のお考えで、すべてのものを備えてくださったので、この世界にあるすべてのものを見るだけでも、光の神のお考えがよく分かるというわけです。それが、20節に書かれていることです。
でも、私たちはこの世界にあるすべてのものを見ても、その背後にどんなお考えがあるのかということが分からない。それこそ、夜の中に置かれているのと同じで、見えているようで、見えていない状態になってしまっているということです。
ちょっと簡単なイメージでお話しすると、こういうことです。ある人が、あなたのために素敵なディナーを準備してくれたとします。美しく部屋を整えて、テーブルセッティングも完璧で、お皿一つ一つも調和がとれていて、もちろん、そこに完璧な食事が並んでいます。素敵な音楽がながれて、相手はとてもそれにふさわしい服装をしています。
ところが、その素敵なディナーの席に、パジャマを着て入って行き、いきなりテレビをつけて、食べ物も、その人の方を全然見ないで、ボロボロとこぼしながらご飯を食べたとしたらどうなるかということです。
その食事を用意した人はカンカンになって怒って、もうここから出て行けと暗闇の中に追い出してしまうでしょう。
ここに書かれていることはそういうことです。神が備えて下さった完璧なディナーの雰囲気を台無しにする、そこには、その招いた人の気持ちが完全に表れているから、言い訳の余地はないんです。神様は、あなたがこのテーブルの席にふさわしい人だと思って招いているのに、それを台無しにしたあなたは、神さまのことも、自分自身のことも分かっていないですよね!ということです。
私たちに与えられている神の義の世界というのは、完全に調和のとれたすばらしいディナーの席のようなものです。料理も飲み物も、雰囲気もすべてがパーフェクトです。そして、そこに私が座るのはふさわしいと思っていてくださるのです。それが、福音です。
けれども、そのすばらしい席で、相手の気持ちを踏みにじって、ステテコ姿で現れたら、いや、自分はこれが一番楽だからとか、自分はテレビをいつも見ていたいのでとか、足を上げて、ぼりぼりかきむしりながら食事をし始めたら、こんな失礼なことはないのです。
それが、ここでいう、「不義とか不敬虔」と言われている言葉の意味です。
どちらが正しい反応なのかは、一目瞭然です。そして、それはどちらを選びますか?という話でもないのです。もう、本当は一択しかないのです。
最後の25節にこうあります。
造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
私たちの造り主であるお方は、私たちに神の義の世界を創造して、そこに私たちを招きたいと願っておられるのです。このお方のその心を、私たちは受け取りたいのです。そして、私たちのことを、そのように見ていてくださる主ご自身を、心からほめたたえたいのです。
お祈りをいたします。