2021 年 8 月 1 日

・説教 ローマ人への手紙3章1-8節「みことばをゆだねられた民」

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2021.08.01

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今日、私たちに与えられているみことばは、私たちの良さってどこにあるのかということです。ここで語られているのはユダヤ人のことですが、私たちの問題でもあるのです。

 みなさんの良さはどこにあるでしょうか。他の人と違って優れている点です。以前、どんぐりの背比べの話をしました。しょせん私たちはみんなどんぐりですから、大きさや出来映えの良さを比べてみても、どんぐりはどんぐりです。

 けれども、そんなことを言われてしまうと身も蓋もないわけで、それではあまりにも自分がみじめな気持ちになります。

 私たちは普段、それなりに、自分のいいところを見つけて、それを少しでも伸ばしていきたいと思うし、人から、「あなたのこういうところがいいところですね」と言われようものなら、しばらくは嬉しい気持ちになるものです。

 けれども、聖書ときたら、みんなどうせ罪人だって言うでしょ。そんな罪人が、人と比べて、やっと見つけた自分のいい部分さえも、意味がないかのようなことを言うんだとしたら、それはあまりにも辛いし、そんな神様はいやだなぁ、という気持ちを抱いても仕方がない。そんな気持ちになるのかもしれません。

 今日の説教のタイトルを「みことばをゆだねられた民」としました。今、聖書をお聞きになられて、気づかれたと思うのですが、8節までのところには答えがありません。

 ユダヤ人の優れている点は何かと言いながら、この8節までで書かれているのは、そんなに優れていないぞということです。そして、この後の9節以降から出てくるのは、ユダヤ人だけでなくて、人間はみんな優れてなどいないのだという結論に行きつくわけです。
 けれども、ここでパウロは、はじめに一つのことを挙げています。神のことばがユダヤ人にはゆだねられている。それが、ユダヤ人が他の人たちとは異なる点だと言っているのです。

 すこし、パウロがここで何を言っているのかをもう一度整理してみたいと思います。この前の2章のところで、パウロは律法が与えられていることを語っています。この律法というのが、ここで言う、「神のことば」のことです。この神のことばはユダヤ人たちに与えられていて、神の心、神の思いを、神はユダヤ人たちに託されました。ところが、今度はその律法が与えられていることで、人は誇るようになってしまったというのです。

 人間を自由にして、救うためのことばであったはずなのに、自分を誇る、自慢する道具としてしまったと、2章では語られていました。

 そこからも分かるように、私たちは人よりも自分の方がいいところがあると思うと、そこでどうしても醜くなってしまう。せっかくの自分のいいところが台無しになってしまう。そういう問題が、この2章までで語られていました。
 
 それで、今日の3章に入りました。ここでは、改めて、律法が与えられているユダヤ人とは何かということが言われています。神に期待されて、選ばれたユダヤ人ならば少しくらい何か良いところがあるでしょ? ということです。
 
 私たちはこういう聖書を読む時に、ああ、ここはユダヤ人のことが書かれているので、自分とは関係ない話だと思って読んでしまいがちです。それで、ここに出てくるユダヤ人と、自分たちは違うと、他人事のように聞いてしまうところがあるのではないでしょうか。

 自分の良さって何だろうと考えて、人よりも自分の方が秀でているところを見つけて、自分を誇りたいと思う気持ちというのは、ごくごく普通のことです。それが罪だなどと言われてしまうと、もうどこにも心の持っていき場が無くなってしまいます。

 しかも、ここでのパウロの論調は、だからみんな神の前には罪人なのだという結論に到達するわけです。理屈としては理解できるのです。けれども、それで心がついて来るかどうかは別問題です。

 パウロはこの5節でこんなことを言っています。

では、もし私たちの不義が神の義を明らかにするのなら、私たちはどのように言うべきでしょうか。私は人間的な言い方をしますが、御怒りを下す神は不義なのでしょうか。

 この言葉は宗教改革者ルターの悩みそのものでした。ルターはこう考えたのです。神様はいつも正しいお方で、私たちはどう背伸びしても正しくなれない。その完璧に正しいお方が、正しくなれない人間を裁くというのだとすると、それは、単なる嫌がらせだと。

 もちろん、この言い方は多分に私の言い方が入っていますが、ルターが言っていることはそういうことでした。

 そして、この5節が語っているのも、まさにそこのことでした。みんなそんな神様のことを嫌いになる、それこそ、不義だ、アンフェアーだと言いたくなるのです。

 さらには、7節とか8節ではこんなことが言われています。私たちが悪いことをすることで、神の正しさが見えてくるんでしょ、それなら、私たちは神様の引き立て役なんだから、どうせなら、精一杯悪いことをして、どんどん神様を引き立ててやればいいんだと考える人たちが出て来たということです。

 神の民である私たちは、どうせできないことで神の引き立て役になっているのでしょうか。そんなことではないのです。けれども、ある人はこれは不当な要求だと言って、こんな無理難題を押し付けてくる神なのだとしたら、開き直って、どんどん悪いことをやればいい。

 気持ちは分からなくもありません。けれども、それはただの開き直りでしかないのです。神様というお方は意地悪なんだから、もう真面目に生きようとするのは馬鹿らしい。意味がない。パウロが言ってるのは、そう言うことでしょと言い出したのです。

 けれども、ここでパウロが何を言おうとしているのかということを、注意深く見てみたいと思います。

 1節でこう記されています。

それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか。

 パウロはここでユダヤ人であることのメリットというか、意味は何かということを言って、その次に割礼にはどういうメリットがあるのかということを語っています。そして、このことを理解するためには2節でパウロが何と言ったのでしょうか。

あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。

 パウロはここで、第一にと言っていますが、第二も第三もでてきませんので、これは、大事なことはという意味で理解してください。

 大事なのは何かというと、「彼らは神のことばを委ねられました」と言っているのです。神はユダヤ人に神のみことばをゆだねたのだ。それが割礼なのであり、神のことば、律法なのだ。そういう大事なものを託したのだと言っているのです。

 神のことばというのは、律法のことです。彼らには神の心を知らせたということです。
ここで「ゆだねられている」という言葉があります。これはギリシャ語で「ピステウエタイ」という言葉です。そして、「真実」とか、「不真実」という言葉がこの後に出てくるんですが、真実というのは「ピスティス」という言葉です。「不真実」というのは「アピスティア」という言葉です。「不真実である」という動詞は「アピステイン」という言葉です。

 これらはみんな同じ「ピスティス」という、真実とか信仰と訳される言葉と関わっている言葉です。ゆだねるということは、真実と不真実に深くかかわるということです。

 神は律法の中で、イスラエルの民との契約について書いています。神は、イスラエルの民と約束をします。イスラエルの民はまず神から、奴隷からの救いという神の真実な業を経験します。それで、民は神に応えて、神を愛し、隣人を愛するという約束をしていくわけです。私はあなたがたを愛したので、あなたがたも神のことを愛して欲しい、その約束のしるしとして割礼をしたのです。

 ところがです。このイスラエルの民は、神の方が契約を守っているのに、真実でいてくださるのに、民は、不真実であったのです。そして、神に対して不真実だったのに、いや、自分たちには神からの約束のしるしとして割礼があるし、律法を行っているはずなので、私たちは特別扱いされているはずだと理解して、他の人を見下していってしまったのです。

 3節でこう言っています。

では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか

と。

 不真実な人間がいると、神は怒って裁いてしまうようなお方だろうかと言っています。

 人は確かに、神の心を理解できないで、勝手なことをしてしまいます。失敗もしています。そうすると、神の真実は無駄なのでしょうか。神のしてくださることも、それほど意味はないということになるのでしょうか。パウロはここで、そうではない。神はそれでも、真実なお方なのだと言っているのです。

 だから、この1節に書かれている「みことばを委ねた」というのは、神の真実さからスタートしているということです。神の真実さから始まっているので、期待された人間が不誠実だからといって、神が不誠実とはならないでしょと言っているのです。それは、この神がゆだねたという言葉のなかに、すでに入っているのだとパウロは言おうとしているのです。

 神が、人に、神のことばをゆだねたというのはどういうことなのでしょうか。それは、人を救いたいと願っておられる神なのだということを、人に伝わるようにするために、その人たちに、この神の思いを託したのだということです。この神の思い、神のことばを、私たちはこの世界に現れてくださった主イエス・キリストを通して、ようやくはっきりと知ることができるようになります。

 つまり、神から私たちにゆだねられているもの、託されたものは何かというと、主イエスのように生きるようにということなのです。神は人に、主イエスのように生きて欲しいのだという思いを人に託しておられる、ゆだねておられるのです。

 これは、今、ユダヤ人たちだけに託されているのではないのです。私たちすべての者に託されていることなのです。私たちは、主イエスのように生きるようにと、主からゆだねられているのです。

 そうだとすると、神はできもしないことを私たちに期待して、結局私たちのことを厳しく叱られるような嫌な教師のようなお方なのでしょうか。神は、できもしない難題を私たちに押し付けて、できない私たちを鼻で笑っておられるような意地悪なお方だと言えるのでしょうか。

 そんなことは決してないのです。主が、みことばを私たちに託しているのは、私たちがそれに相応しいものだと信じていてくださるからです。主は私たちに期待していてくださるお方なのです。

 確かに、期待されるとプレッシャーがかかります。それで、普段の実力を発揮することが難しいといことを、私たちはこの一週間の間に、何度もオリンピックの選手たちを見て、知らされています。

 けれども、期待されているということは悪いことなのでしょうか。決してそんなことはないのです。その人には、それができる。そういう実績があって、そのために訓練して、何度も何度も汗を流して、その期待に応えようとする。その姿は、たとえその時に期待に応えられなかったとしても、それはとても美しいものです。

 確かに、私たちは、主イエスのような完全さを残念ながら持ってはいません。主イエスはすべての神の競技で金メダルをとることがお出来になる方ですが、私たちはもし頑張れたとしても金1つとれれば上出来です。そして、そのほとんどの人は、そんな金メダルどころか、ほとんど何もできない者でしかないのです。

 それが、この後にでてくる9節以降の答えです。さほどすぐれている部分があるとは残念ながら言えないのです。

 けれどもです。そんなことは百も承知で神は、私たちに神のことばを託したのです。主イエス・キリストを託したのです。

 なぜ、神はそんな無駄と思えることをなさるのでしょう。それは、こういうことなのです。まず、真実は神から始まる。それは、徹頭徹尾、神の御業からはじまるからなのです。

 そして、だからこそ、ここにはすべてのものを可能にする力が秘められているのです。神は、私たちに期待しているのです。この神からの贈り物を受け取ることを。

 そのどんぐりは、やがて、どんぐりの木になるのです。どっちが大きいか、どっちが綺麗か、そんなことでしか自分を測れなかったような者が、立派な実をつける木になるのだということを、神は、知っておられるからなのです。

 神は、今日、私たちにこのみことばをゆだねておられるのです。

「神は真実なお方である」これこそが、今、私たちが聞くべきみ言葉なのです。

 お祈りをいたします。

 

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