・説教 「ワン モア チャンス を与える神」
2022.10.23
鴨下直樹
⇒ 説教音声の再生はこちら
Lineライブ
午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
今日は、ヨナ書の3章です。主によって三日三晩、魚の腹の中で守られたヨナは、陸地に吐き出されてからどうなったのでしょうか。
よく、絵本などではニネベの海岸にでも打ち上げられたかのように描かれているものがありますが、ニネベの町は内陸の町です。
今日の1節にこう記されています。
再びヨナに次のような主のことばがあった。
この1節の冒頭の言葉に「再び」とあります。今日の説教のほとんどが、この「再び」という言葉の持つ意味を考えることになると思います。
聖書を読んでみますと、この言葉は、特に何も感じることのない言葉のように響くかもしれません。しかし、この「再び語り掛けられる主」にこそ、主の愛と恵みが満ちているということができるのではないでしょうか?
主の御顔を避けて逃げたヨナの心はかなり頑なです。前回の2章の祈りも「及第点の祈り」と言いました。ヨナは、主の愛の心をつかむことができないでいます。確かに、ヨナの心は主に向かっています。ヨナは主を愛しています。それは間違いありません。けれども、「親の心子知らず」という諺が、まさにこのヨナには当てはまります。主の深い愛、敵をも愛される主の愛の大きさを、ヨナは理解することができないのです。そのために、反旗を翻して主の御顔を避けて、遠い地に向かったヨナは、嵐に遭い、くじ引きの結果海に投げ入れられて、再び陸地に立たされるのです。
さて、そこからヨナの第二章がはじまります。そこで、聖書は「再びヨナに次のような主のことばがあった。」と記すのです。
前のことはまるで気にも留めていないかのように、主はヨナに語り掛けたのです。
聖書の神は、失敗を許さないお方ではないのです。そして、この主は、失敗した時に、「何でこんなことをしてしまったのか!」と問いただされることもしません。まるで、何事もなかったかのようにヨナに「再び」語り掛けるのです。
神は、ワンチャンスしか与えない神ではなく、ワン モア チャンスの神であると、ある日本の伝道者が語った説教を聞いたことがあります。青年時代の私の心に深く刻まれた言葉となりました。私たちの主の前に、私たちは失敗を恐れなくても良いのです。
今という時代に生きている私たちは、人生一度きり、その人生を失敗しないようにというのが、この世の知恵として語られています。
一度犯した過ちは、後になって明らかになる。その恐ろしさを私たちはよく知っています。最近のニュースになる出来事はみなそんなニュースばかりです。かつて、ある宗教団体に肩入れした政治家が、何人も明らかにされて、国会で追及されています。SNSで何の気なしにつぶやいた言葉が、炎上して、そこからその人が世間から攻撃されるというニュースは毎日のように語られています。すぐ終わると思った戦争もなかなか終わりを迎えません。
一度、道を踏み外すと、それは思いもよらない結果になって、自分の身に降りかかって来る。この世界は、道を踏み外した人に対して寛容な世の中ではありません。断罪し、追及して、人の目にさらして、この世界から抹殺しようというのが、この愛のない世界の一つの姿です。それは、間違いないことです。だから、人々は周りの顔色を恐れ、他人を信頼せず、できるだけ人間関係を小さくして、人に迷惑をかけないように、誰からも何かを言われないように、最小限の自由を求めて、小さく生きる。それが、この世界の賢い生き方であるかのようになってしまっています。
しかしです。それが、私たちキリスト者の歩みであっていいというのでしょうか。かつて、宗教改革者ルターはこう言いました。「大胆に罪を犯せ。そして、それに気づいたら、大胆に悔い改めよ」と。
ルターは私たちが主にある信仰によって自由な者とされていることを教えてくれます。人の顔色を見ながらびくびくして生きることは、主が与えてくださる救いの喜びの歩みではありません。
主は、大失敗をしたヨナに「再び」語り掛けてくださるお方なのです。
私たちが、失言した時、人を裏切った時、大きな失敗をした時、その相手に対して気まずさが生まれます。その気まずさを乗り越えるのは、簡単なことではありません。ヨナが、海に投げ出されてから、陸地に吐き出されるまでの間、神は沈黙したままです。ヨナのことを知っているのはあの大きな魚だけです。
そのヨナが陸地に吐き出された時、主はヨナに再び声をかけられます。2節です。
「立ってあの大きな都ニネベに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ。」
ここに、主の忖度はありません。前に、それが嫌で逃げたんだから、今度はもう少しミッションを簡単にしてくれればいいのにと、私たちは思うかもしれません。しかし、主は気まずさを感じていたであろうヨナに対して何事もなかったかのようにして、もう一度語り掛け、使命を与えられるのです。
私たちの神、主は、ワン モア チャンスを与える神なのです。
さて、それでどうなったのでしょうか?
ヨナはどこの陸地に吐き出されたのか分かりませんが、ニネベは海岸からはかなり遠い内陸の町ですから、数週間かけてニネベにたどり着いたのでしょう。ヨナがアッシリアの首都であるニネベの町にたどり着くと、一日中町の中を歩き回って、叫びました。
「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」と。
ヨナが語ったのは、滅びの宣告です。もう少し言い方ってものがあるのではないかと私たちは思います。「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」それ以上の内容が書かれていませんので、本当にこれだけを叫んだのかもしれません。
1891年にあったこととして、こんな話があります。イギリスの捕鯨船が二隻、発見した大きなクジラを追跡していました。一隻がモリを打ち込み、もう一隻がクジラに近づいた時、その船はクジラの尾ひれに打たれて転覆してしまいます。この時、乗り組んでいた船員が、船から投げ出されました。その後クジラは無事仕留められ甲板に引き上げられます。捕獲したクジラを解体すると、お腹の中から人が見つかったのだそうです。それはいなくなった船員のジェームズ・バートレイでした。彼は見つけ出された時、気を失っていましたが、命は守られました。2週間、船長室で休んだ後、4週間後にはもう、職務に戻ることができたというのです。彼の顔や首、手足はクジラの胃液にやられて死人のように白くなっていたそうです。
そこから想像するに、三日間魚の腹の中にいたヨナも胃液でやられて体が白くなって、人から見るとすぐに何か特別な経験をした人だと分かったのかもしれません。いずれにしても、このヨナの滅びの言葉は、非常に説得力を生みました。それで、ニネベの王と大臣をはじめ多くの人々は主を信じて、悔い改めたというのです。
さて、みなさんは、この部分の話を読んでどう思うでしょうか? ニネベの人々が悔い改めたのです。
それまで、ニネベの人は非人道的なことを行って来た民族で、ヨナをはじめ多くのイスラエル人はこのアッシリアのニネベの人々を憎んできました。そういう人が、ちょっと話を聞いたくらいで、悔い改めたら、それまでしてきたことがゆるされるということで良いのでしょうか?
こんな人々は極刑に値する。滅んでしまえばよい。それが、この時代の多くの人々の考えでした。これは、現代でもそのように考える人が大勢いることからもよく分かることだと思います。そんな悪い人は、裁かれたらよい。そう人は考えるものです。
さて、この3章に何が書かれているのでしょうか? この出来事は私たちに何を言おうとしているのでしょう。
最後の10節にこう記されています。
神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。
神は、ワン モア チャンスを与えるお方です。それは、私たちにだけではなく、どんな人に対しても、そうであられるのです。
こんな人は赦されないと私たちが考える大悪党であったとしても、神はその人に対しても、ワン モア チャンスを与えたいのです。もう一度、チャンスをお与えになられるお方なのです。
「主は再び、ヨナに語りかけられた」とあるこの一節の「再び」は、すべての人に対して向けられているのです。
それはこれまで近隣の国に対して非道を行って来たニネベに対しても、この主の愛は等しく示されるのです。そして、この神の憐れみは、同じように、心の頑なな私たちにも、向けられているのです。
そこで、私たちが驚くのは、この神の愛の大きさです。神の赦しの計り知れなさです。ヨナに、この親の愛が伝わるでしょうか。理解できるようになるのでしょうか。
そうです。このヨナこそが、現代に生きている私たちと重なっているのです。主は、この聖書を通して、神がこの世界の罪深い人々に対して、寛容であられることを告げようとしておられるのです。
聖書の神は、愛の神です。赦しの神です。そして、このお方は、失敗を恐れる現代の私たちに語り掛けておられるのです。主と共にあって、大胆に生きよと。失敗を恐れるな。わたしがあなたと共にいる。たじろぐな、わたしがあなたの神だから、と私たちに語り掛けておられるのです。
人の顔色を恐れる必要はありません。未成熟なままでも、心配するには及びません。私たちの主は、私たちに、何度も何度も機会を与えられながら、神のみ思いを受け止め、主の愛に応えて生きることができるようになることを期待しておられるお方なのです。
そして、そのことに気づくならば、私たちは、周りの人が主の愛に気づくようになりますようにと祈る者へとさえ、造り変えられていくのです。
お祈りをいたしましょう。