2022 年 10 月 30 日

・説教 ヨナ書4章1-11節「あわれみ深い神」

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2022.10.30

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今日の説教題を「あわれみ深い神」としました。説教題としてはこれでいいと思っていますが、ヨナの側面も入れるとすれば「不愉快なヨナとあわれみ深い神」とした方が良かったのかもしれません。

 このすぐ前の3章10節で、神はわざわいを思い直されたと書かれています。このヨナ書に記されている神の姿は、この説教題にあるように「あわれみ深い神」で貫かれています。
このお方は、ニネベの民に対しても、ヨナに対してもあわれみ深いお方としてご自身を示しておられます。

 さて、その主に対して、今日の4章は冒頭でこう記しています。

ところが、このことはヨナを非常に不愉快にした。ヨナは怒って、に祈った。

 あわれみ深い神の御前で、ヨナは、非常に不愉快になり、怒って、祈ったのです。この言葉を読むと、ヨナの預言者としての資質に疑問を投げかけたくなります。主の御言葉を預かる者が、あわれみを示される主に対して、非常に不愉快になって、怒って、祈るということがあっていいのでしょうか。

 ここを読むと、主はこんな感情をむき出しにしているヨナさえも受け入れて、その祈りを聞いてくださっています。

 2節に続いてこう記されています。

ああ、よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。

 ヨナははじめからすべて分かっていたというのです。だから逃げた。神様の命令に従いたくなかった。それは、主があわれみ深いお方だから。情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かでわざわいを思い直される主。あなたはそのようなお方だから、私はあなたの命令に聞き従いたくはなかったと言ったのです。

 ヨナは、深い海の底にいた時も、魚の腹の中で祈った時も、ニネベの町で説教していた時も、ヨナは内心、ニネベの人たちは滅びてしまえばよいとずうっと考えていたのだと、ここに来て告白するのです。

 ヨナは、主が本当にいつくしみ深い方であることを、よく理解していました。その信仰に間違いはありません。けれども、自分としては、あわれみ深い神さまのなさることを、認めることができないのです。

 そして、続いてこう言うのです。3節。「ですから、よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです」と。

 神様のお考えである、アッシリアの首都ニネベの人たちを救い出そうとされるあなたのお考えに、私は同意することができません。これが、ヨナの結論です。

 ヨナは、イエスマンではない。自分の信念に合わない時は、相手が誰であろうとも、言いたいことは言う。神のお考えであったとしても、私はNoと言わせていただきます。そして、自分のいのちをその代わりに犠牲にする覚悟もありますというのです。

 幕府に逆らう赤穂浪士か、はたまた長州藩の桂小五郎や、薩摩藩の西郷隆盛かと言えば聞こえはいいのかもしれません。イスラエルの正義が守られるためなら、たとえ神であっても物申すという姿は、立派といえば立派です。しかし、このヨナの話は決して美談ではないのです。神の御心が、あわれみ深さがこれほど明らかに示されているのに、そして、ヨナは預言者であるのに、主の言葉に同意することができないのです。

 この時、主はこう答えられます。4節です。

あなたは当然であるかのように怒るのか。

 ヨナはこの主の言葉をいったいどのように受け止めたのでしょうか。とても、興味深いことですが、ヨナはこの主の言葉を受けて、何を考えたのか都の東側に向かい、仮小屋を建てて、これから何が起こるか見極めようとしたと書かれています。ヨナの頭の中がどうなっているのか分かりませんが、ヨナはきっと自分の言い分を神は受け入れて下さって、ニネベを滅ぼされるはずだと信じたということなのでしょうか。

 さて、このようなヨナに対して主はどうなさったのでしょうか? 6節をお読みします。

神であるは一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして、ヨナの不機嫌を直そうとされた。ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ。

 私たちは、この続きもすぐに読めるわけで、この後どうなったか知っていますが、この出来事は、神様の優しさなのか、意地悪さなのかと思うかもしれません。ですが、ヨナにとってはとても嬉しい出来事だったはずです。

 というのは、ヨナとしては、神様は自分の言い分を受け入れてくださったと確信したのではないかと思うのです。高みの見物を決め込もうとしたヨナに対して、神はその仮小屋を特等席にしてくださったわけです。あっという間に、唐胡麻の枝が伸びてきて日陰をつくったとなれば、きっとこの後、神はこのニネベを自分が語ったように、またたくまに滅ぼしてくださるに違いないと信じることができたのです。

 ところが、神はヨナに対してまさに「飴とムチ」をお与えになられます。その翌日には、たちどころに唐胡麻が枯れていき、熱い東風が吹き込んだのです。

 ここに、「備えた」という言葉が三度繰り返されています。神は、備えられるお方であるということが、示されています。「主の山に備えがある」、「アドナイ・イルエ」という言葉が、創世記の22章14節にあります。アブラハムが息子イサクをささげようとした時に、神がそれをやめさせて代わりに雄羊を備えられました。その場所のことを「アドナイ・イルエ」、「主の山には備えがある」と呼んだのです。

 ここに、救いを備えておられる神のご性質が表されています。まさに、ここでも神は備えられるお方として、ご自身を描き出しておられます。これは、ヨナ書1章の17節で、海に投げ込まれた時にも、「主は大きな魚を備えて」と記されていて、備えられる主のことが記されています。

 主が私たちに救いを示される時には、神は備えておられるという御業を通して、ご自身の救いの御業を行われます。それは、あわれみ深い神が、ご自身の御手を持って介入なさるお方であることを示しています。

 しかし、ヨナはこの神の備えられた出来事を受け入れることができませんでした。熱い太陽が照り付けると、ヨナは弱り果て、自分の死を願うのです。「私は生きているより死んだほうがましだ」と言うのです。

 ここまで来るとヨナが真剣に、まさに命がけで腹を立てているのだということが分かります。私たちには、このヨナのことが滑稽にさえ映ります。しかし、当のヨナは真剣なのです。自分のいのちをかけてもいいと思えるほどの真剣さで、神に訴えているのです。

 そのヨナの訴えとは、ニネベの人をお救いになろうという神の気が知れないということです。

 あの人たちはどうしようもない人なのだ。救う価値もないほどの悪党で、あんな人々は滅んでしまえばよいと、ヨナはまじめに思っているのです。そのためなら、自分が死んでもいいとさえ思っているのです。

 ヨナが抱えているのは、これまでの神の示してこられた真実が、ニネベの人が救われることで、神の威厳が失われると考えているのです。言ってみれば、神になり代わって抗議しているくらいのつもりがヨナにはあるのです。

 ヨナがここまで怒りたくなるほど、ヨナは神がこれからなそうとしておられることが気に入りません。すると、そのヨナに主はこう答えられます。

 10節と11節です。

あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。
ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。

 そして、この答えでヨナ書は終わっています。ヨナがどうなったのか結論が書かれていないのです。ヨナがこの神のメッセージを受け止めることができたのか、受け止められなかったのか分かりません。私たちは、この結末を想像する以外にないのです。

 けれども、ヨナ書はこう記すことで、これは私たちの物語でもあること私たちに問いかけています。あなたのニネベは誰か? という問いです。主は、その人をも赦したし、あわれみを示したいと思っておられるのだという、メッセージなのです。

 私たちは、ここから何を受け取るのでしょうか?

 木曜日の祈祷会の時に、出席されている皆さんに質問してみました。「もし、みなさんが、このヨナ書の続きの5章を書くとしたらどんな風に書きますか?」という質問です。

 私が最初に聞いたのは、小説を出版されたこともあるKさんです。するとKさんは、「神様は、ここでヨナに一度もちゃんとその理由を説明していないのです。なぜ、異邦人のニネベを赦そうと思うのか。その理由をヨナは神様に求めたのではないか。」そんな答えが返ってきました。なるほど、そういう結末も考えられるかもしれません。

 すると、別の方がこう言われました。「わしは韓国ドラマが好きでね。ハッピーエンドがいい。だから、最後にヨナはニネベの国の人たちと握手でも交わしながら、エンドロールが流れるような終わり方がいい」と言われました。

 他の方は、「きっとこのヨナのような人はもう変わらないんですよ。だから、このまま腹を立てながら終わったのではないか」と言われました。「きっとどこかの酒場に行って、飲んだくれながら愚痴をこぼして、挙句の果てには預言者を首になったかもしれないね」と、他の方が続けて言いました。また別の方は「神様が救われたニネベの人々や家畜を、後で改めて見て、ヨナは神様が救おうとしたのはこういうことだったのかと、その意味が分かったのかもしれない」と言われました。昨年洗礼を受けられた方は「やっぱりヨナは悔い改めたんだと思います」と答えてくださいました。

 実にいろんなその後の話を考えられるものだと、皆さんの話を聞きながらとても面白く思いました。本当に、教会のみなさんとお話をしていると、さまざまな考えがあることが分かってとても楽しいです。

 家に戻ってから妻とその話をしました。そしたら、妻はハリウッドバージョンなら、「そのヨナに神様が新しいミッションを与えて、次に続くような雰囲気のエンディングも面白い」とか、ディズニー風なら「最後にニネベの人たちと救われたお祝いのパーティーをしていて、そこで納得できないでいるヨナに、綺麗な女の人が近づいて来て、一緒に踊りましょと誘って、踊ることで、何とかこの救いを喜ぶことができるようになる」というパターンもできるなんていうアイデアも出してくれました。

 ここにおられるみなさんに聞いたら、他にもいくつものエンディングをイメージすることができるのかもしれません。

 ハッピーエンドも、バットエンドも想像することはできます。ただ、私たちは、あわれみ深い神様の物語を、バットエンドで終わらせることはできません。そして、そうしないためには、私たち自身がこの神様からのメッセージをどう受け止めるかが重要です。

 私たちには、赦せない人がいるでしょうか。こんな人はどうなってもいいと思う人があるかもしれません。このヨナ書を通して主が私たちに一貫して示しておられるのは、主はあわれみ深いお方であるということです。そして、これは、私に対してだけではなく、私たちの嫌いな人、苦手な人に対しても、あわれみ深いお方であられるということです。

 12万人もいるからとか、たくさんいるからというのではなくて、たとえ一人であっても、主はその人を救いたいのです。敵であるニネベの人をも、主は救い出したいと願っておられるのです。

 先ほど、私たちは洗礼式入会式を行いました。昨年はMさんで、今年はそのご主人が信仰の告白をしました。教会で行っている55プラスという集会に来られるようになって、教会の皆さんの姿を見て、自分も主を知りたいと思うようになったのです。そして、その福音が今度はご主人にも届いたのです。主は、このように私たち、一人ひとりが滅びてしまうのではなく、救いを知って喜んで生活できるようになることを望んでおられるのです。

 私たちも、この主を私たちの周りの人々にお知らせし、私たち自身のニネベの人とも、共に救いに与ることができるように祈っていきたいのです。

 お祈りをいたします。

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