・説教 創世記1章1ー4節 「光よ。あれ」
本日は小澤昌弘執事が礼拝説教で証をして下さいました。
2012.11.18
鴨下 直樹
今日は子どもの祝福を祈る主の日です。それで、今朝は、聖書の中に記されている子どを祝福した出来事の箇所から一緒にしばらく考えたいと思います。
今日の聖書の箇所は少し事情が複雑です。イサクは年をとりいつ死ぬかもしれないという思いの中で、神から与えられている祝福を、長男のエサウに与えたいと考えています。言ってみれば、それが年老いたイサクの死への備えでした。ここに、長男エサウを愛する父親の思いが描かれています。
ところが、イサクの妻リベカは別のことを考えています。弟のヤコブが神からの祝福を受けるべきだと考えているのです。しかも、聖書を読んでいると非常に複雑なのですが、神からの大切な祝福を、イサクはイサクでひそかにエサウに与えようと、妻のリベカもまたイサクに内緒で、年老いた夫イサクを出し抜く方法を考えているのです。
夫と妻が、子どものことで別のことを考えている。しかも、それぞれに異なった息子を大事にしようとしている。それはとても悲しい出来事です。けれども、この両親に共通する思いがあります。それは、父イサクに与えられていた神の祝福を、子どもにも受け継がせたいと考えていたということです。自分の子どもにはどうしても神の祝福を受け継がせたいと願う親の思い。私たちはなによりもまず、この朝、このことを一緒に考えてみる必要があります。私たちはそのように願っているのかということです。自分が信仰に生きたように、子どもも信仰に生きて欲しいと願っているかということです。そして、それを何としてでも与えたいと願っているかということです。
今日の聖書は見方によれば夫婦のゆがみを描いているかのように思えますが、聖書はそのことには少しも興味がありません。むしろ、この両親がどれほど真剣に子どもに祝福を受け継がせたいと考えていたかということに関心が向けられています。けれども内容を見てみると、ありそうもないことですが、妻のリベカはそうとうずる賢い方法を用いて、年老いた夫イサクを出し抜いて、自分の愛する息子ヤコブに祝福を受け継がせることに成功します。この奇妙な物語を、私たちはどのように理解したらよいのでしょうか。 (続きを読む…)
鴨下直樹
私事で始めて大変恐縮なのですが、今週でドイツから帰国して一年が経ちました。時々、こんな質問を受けることがあります。 「日本に戻って来て何か違いがありますか?」というものです。その度に、私は心の中で思うのは、「日本は言葉が通じるからいい」という思いです。まだ、私たちがドイツで生活し始めて間もない頃の事ですけれども、通っていた教会のお年寄りの方々が、言葉がまだあまりできない私たちに向かってこう言ったことがあります。「バベルの塔のせいで言葉が通じなくなってしまったのは残念ね。だけど、天国では十分に話し合うことができるから楽しみだわ。」と。 もちろん、三年半という期間ドイツに住んでおりましたので、最後の方はだいぶ苦労もしなくなってきましたけれども、十分とは言えません。けれども、言葉が通じるという経験は、本当に大きな喜びとなりました。 ですから、こうして日本語でお互いにストレスなく話すことができることは、私にとって本当にありがたい事です。けれども、同じ日本語を使いながら、普段からよく話していても、言葉が通じるとは言えないということも同時に考えさせられています。 (続きを読む…)
本日は、芥見キリスト教会員 下斗米利男兄と舛田忠興兄が奨励をして下さいました。
下斗米利男
私たちは『食事すること』を生きていくために、あるいは生活の一部として、また楽しみとして当然のようにおこなっています。
そして食事はただ何かを食べる栄養補給だけでなく、非常に多面的な意味を持っていると思います。なかでも食事のもつ社会的意味は大変重要で社会化の根本的要素の一つあると思います。私たちが食べ物を口にするまでには多くの工程があり労苦が伴います。まず食材の手当てから始まって複雑な手順で料理をして、綺麗に盛り付けてようやく口に入ります。
そしてテーブルマナーがあり、食事をしながら話し合うことも重要な要素で特に家庭での食事は最も大切な空間を形成していると思います。また友人や職場での食事は『同じ釜の飯を食う』という表現で親密な関係をかもし出す役割を持ちます。そして食事の前と終わりには食前の祈り、食後の祈り(いただきます。ごちそうさま)があり聖なるものとして感謝して食事をしています。そこで聖書における食事の象徴性について考えて見ました。 (続きを読む…)
鴨下直樹
今、水曜日と木曜日の祈祷会の時に、信徒の方々が聖書の話をしてくださっております。これまでの夏の間は、教会でそのようにしてきた伝統があるようで、私自身参加して大変よい機会だと喜んでおります。普段みなさんがどのように御言葉に向かい合っているかを知る機会ですし、また、そこからの問題提起に、みなさんがどのように答えるかということも大変興味深く聞かせていただいております。
この木曜の祈祷会の話題に上ったことですけれども、聖書をどう読むかということは基本的なことですけれども、実にさまざまな意見を聞くことができて大変楽しませていただきました。そのきっかけとなりました一つは、芥見ネットという私たちの教会が毎朝登録している方々に、御言葉を携帯やパソコンにメールで届けるということをしておりまして、先週の御言葉がきっかけになりました。
そのメールにはこうありました。
「思わぬときに、滅びが彼を襲いますように。ひそかに張ったおのれの網が彼を捕え、滅びの中に彼が落ち込みますように。」詩篇35章8節
☆あなたの敵を愛しなさい。(ルカ6章27節)とは一見、ずいぶん矛盾するように思いますが… 皆さん、どう考えますか? (続きを読む…)
鴨下直樹
いよいよ、今回でノアの物語は最後になります。 これまでノアの生涯をみてまいりましたけれども、本当にノアは神と共に歩んだということが分かる素晴らしい生涯でした。けれども、今日の個所は少し違います。この最後のところでノアの失態が物語られているのです。
私は聖書を読みながら時々思うのですけれども、聖書の中に現れる信仰者の姿というのは、いつも完璧ではないなと思うのです。信仰の父と呼ばれたアブラハムにしても、旧約聖書の代表とされるモーセも、あるいはあのダビデ王ですらそうです。誰もがどこかで過ちを犯しています。聖書はそのような事柄を隠そうとはしていません。ここでも同じです。ノアは、神の目にかなうただ一人の正しい人物であったはずです。ところが、聖書はそのような正しい人ノアの失態を描くのに何の躊躇もないのです。
このことは、本当に厳しい問いを私たちに突きつけていると言わなければなりません。
どんなに立派な人物であったとしても、自分は大丈夫だとは言えないということだからです。
ノアのような信仰の模範とすべき人物であったとしても、気を許してしまうならば、人はたちどころに罪を犯してしまうのです。どれほど長生きしたとしても、どれほど長い間主と共に歩み続けたとしてもです。つまり、罪ということには定年制というものがないということです。罪は年齢に関わらず、あるいは経験に関わらず、いつでも気を引き締め続けていなければならない事柄なのです。もうここまできたから大丈夫、信仰の歩みを長く続けてきたから大丈夫とは言えないということを、私たちは心に刻みつけておかなければなりません。そういう意味で言えば、神はこのノアに有終の美というものをお与えにはならなかったのです。
しかしながら今日の聖書を読むと、私たちはノアに同情することはできます。長い生涯の歩みがありました。ノアは家族とともに箱舟を作るという大仕事をやってのけ、自分の家族だけが大洪水の中から救い出されたのです。ノアの一生は九百五十年であったと最後に書かれています。そして、洪水の後も三百五十年生きたのです。その時のことです。長い間生きてきて、その晩年にノアは今や一人の農夫として土に向かい、これを耕し、収穫の喜びを得ることができるようになりました。晩年の本当にささやかな喜びだったと言ってもいいと思います。ところが、そうして得たぶどう酒がノアを失態へとうながしてしまったのです。 (続きを読む…)
鴨下 直樹
今日、私たちの教会では新会堂三周年記念行事の第二弾として、子どもフェスティバルをいたします。そのために学校に挨拶に行って校門の前でトラクトを配り、幼稚園にポスターやチラシを置かせてもらい、またみなさんも大勢の家族や友人を誘ってくださったと思います。誰もが今日は天気になるように祈って来ました。それこそ、今日の聖書のように雨があがって虹を仰ぎ見ながら、子どもたちと一緒に時間を過ごしたいと願ってきたのです。
ところが、昨日から天気が悪くなってきまして、今日は天気が良くならないのではないかと多くの方が心配してくださって、昨日は何人かから電話をいただきました。それほどに祈って備えてきた集会ですから、本当に子どもたちや、その親の方々に教会の事をもっとよく知っていただきたい、伝道していきたいと願わされているのです。
この新会堂記念行事と言いますのは、この芥見教会の礼拝堂が新しく献堂して三周年がたったことを記念して行われます。そのために私たち芥見教会が一年をかけて様々な形でこの地域の方々に教会のことを伝え、伝道していきたいと願わされているのです。考えてみますと、新しい建物が建つというのは本当に特別なことです。私たちはこの新しい建物を与えられて本当に喜んでいます。新しいということは、何かこれからこれまでとは違ったことができるのではないかという希望を持っていますし、期待を込めることができるわけで、様々なことに教会として取り組んでいきたいと願わされているのです。
そのように何かを新しく始めると言う時、私たちは新鮮な思いになります。新しい職場に行く、新しい車を買う、そのような時はもちろんですけれども、新しいノートを使う時でさえ不思議な緊張感と楽しさがあります。そこには様々な期待があるのです。 今日の聖書の個所も同じです。罪の世界を神は一度洪水によって滅ぼしてしまわれて、ここから新しいことが始まろうとしているのです。 私たちでも、新しいことを始める時にはこれほどの期待を込めているのですから、神がご自身が作られたこの世界をもう一度新しく始めようと言う時には、その神の思いはどれほどだったかと思うのです。
今日の聖書の個所は少し長いところですけれども、四度、神が語りかけるところが記されています。そしてその四度とも、神が一方的に語っておられるのであって、人は一言も発してはおりません。言ってみれば、ここで神がうれしくって思わず饒舌になっておられるのです。新しい世界を神は大変お喜びになって、思わず言葉がついてでてしまっているかのようです。人は気分の良い時にはおしゃべりになると言いますが、まさに神もそのように少しおしゃべりになっておられたのかもしれません。それほどに神の喜びは大きかったということなのでしょう。あるいは、神がこの新しく始まった世界にそれほどの期待をかけておられたということなのかもしれません。 (続きを読む…)
鴨下直樹
「船」という漢字があります。「舟」というへんに「八」と「口」という字を書きます。こういう話はドイツ人などは大好きで、この漢字はノアの箱舟に由来すると言われていると説明しますと、目を輝かせて喜びます。舟にノアの家族八人がみんな入った。その入り口から家族が入ると、神が戸口を閉じられたのです。この漢字の説明はみなさんも色々なところで耳にされたことがあるだろうと思います。では、「舟」というへんに「万」という字と、「口」を書くとどう読むかご存じでしょうか? (続きを読む…)
鴨下 直樹
梅雨を迎えています。毎日毎日雨が続くと本当にいやな気持になります。私の父がかつて小さな本を書きました。「ジュニアのはこぶね」というタイトルの本です。自分が中学生の頃、雨が降って体育の授業ができなかった時に、先生が「今日はお話をしてあげます」とノアの箱舟の話をしたのだそうです。その経験がこの本のタイトルになったというわけです。若い時に聞いたノアの箱舟の話は、後になって信仰をもつようになり、聖書の物語だと知るようになって、その先生はクリスチャンであったかと気がついたようです。若い時、それも梅雨の時期に、ノアの箱舟の話を聞いた。それは父にとって衝撃的な話だったのでしょう。だから覚えていたのだろうと思うのです。
このノアの箱舟の話は、教会に長い間来ている人にとっては、懐かしい聖書物語の一つかもしれません。けれども、ここに書かれている内容は壮絶です。雨が降って、降って降り続いて、人々がすべて死に絶えてしまうまで降り続いたという話です。呑気に聞いていることなどできない話です。 (続きを読む…)
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