・説教 ヨハネの福音書19章17-27節「十字架の王、イエス」

 

2016.03.13

鴨下 直樹

 
 先週の金曜日に私が教えております東海聖書神学塾で理事会と、評議員会と卒業式が行われました。一昨年より、後藤喜良先生が校長になれられまして、それまで校長をしておられた河野勇一先生は神学塾の理事長になられました。朝、理事会で河野先生が短くお話しくださったのですが、とても興味深い話をしてくださいました。ホワイトボードに富士山の絵をかきまして、山頂には雲がかかっている。私たちはその山のすそ野で生活しているとすると、山の上の雲の上をぐるっと赤色のペンで丸い円を描きまして、この山の上のこの部分が聖書の語る信仰の世界ですと言われました。そうすると、私たちはついつい、この山の上の世界のことを、この地上の生活の方にそれを持ち込んできて、聖書は私たちの生活にどう役に立つのかというように考えてしまいます。けれども、大切なことは、聖書の語る信仰の世界を、自分たちの生活に持ち込むのではなくて、この裾野に生きている私たちが、どうしたら、この山の上の世界に引き上げることができるか。そのことが大事なのだということを言われました。

 この河野先生という方は、名古屋の神学塾で教理を教えてくださる先生で、説教を教えてくださる先生でもあります。私も、神学生の時に、この河野先生から教理や説教を学ばせていただきました。とても短く、とても簡単な説明ですけれども、信仰の本筋をとても分かりやすく、絵で描きながらお話しくださったので、私自身、改めてこのような簡単な説明の仕方ができるのだと、とても教えられました。

 今日の箇所は、主イエスが十字架におかかりになられるところです。今日は17節から27節のところですが、ここにはいくつかのことが記されています。はじめの17節から22節は主イエスがご自分で十字架を担がれてゴルゴタへ行かれ、そこで、「ユダヤ人の王」と書かれた罪状書きが掲げられ、十字架につけられたところです。その後、23節と24節では、主イエスを十字架につけるときに、兵士たちが主イエスの着物を分け合い、下着もくじを引いて分けたという出来事が書かれています。これは、詩篇22篇18節の成就だとされています。そして、最後の部分は、25節から27節ですが、読み方によって人数が変わって来ますけれども、4人の女の弟子たちが主の十字架のそばにいて、主イエスの母マリヤのことを、主の愛された弟子にゆだねたということが記されています。

 最初にも言いましたけれども、私たちはこの主イエスの十字架の箇所を読む時に、この聖書の箇所は私の生活にどのような意味を持つだろうかとつい考えて読んでしまいます。そして、ここから、色々な意味を見つけ出そうと努力します。けれども、まずなによりも大事なことは、ここで語られているのは何かということに、素直に心を向けることです。

 はじめの場面にまず目を向けたいと思うのですが、17節にこう記されています。

イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。

とあります。主イエスは十字架に磔にされてしまいます。それこそ、雲の上の生活と、この富士山のすそ野の生活とがぶつかり合って、天上の生活、信仰の敗北という出来事がおこっているかのように見えているところです。ですから、そのように理解して聖書を読みますと、ああ、聖書に書かれている神の世界というのは結局人間たちの罪にやぶれて、主イエスは殺されてしまわれた。だとすると、神の言葉は、信仰の生活というのはこの世に敗北するような弱いものなのだということになります。

 神の言葉は弱い。ある意味ではそうなのかもしれません。神の言葉であられる主イエス・キリストもここで十字架に磔にされてしまっているのです。けれども、興味深いのは、このヨハネの福音書は他の福音書のように、主イエスは弱々しく、十字架を担いでゴルゴタに行けそうにないほどに弱られていたので、クレネ人のシモンに助けてもらったというようことは書いてはいないのです。十字架のところで、主イエスをさげすむ群集たちの言葉もありません。劇的といえるような描写はほとんどはぶかれてしまっていまして、静かな十字架のお姿が記されているといってもいいかもしれません。ただ、ここでは主イエスは自ら十字架を背負ってゴルゴタに行かれた。そのことだけで十分です。
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イースター・ファミリー礼拝のご案内

easter

イースターは『復活祭』という意味です。
人の罪の贖いのために十字架で死なれたキリストが、
新しいいのちを私たちに与えるため、
三日目によみがえった事を記念するものです。
いのちの希望を与えてくださった喜びの朝、
ごいっしょに、イースター礼拝(お祝い)をしませんか?
欧米では子ども達にとっても楽しみなイースター!
ぜひクリスマスと共に ご家族で嬉しい日として
覚えていただけると幸いです。

日時 3月27日(日)午前10時30分~12時

  • 乳幼児連れのご家族、はじめての方も大歓迎です!
  • 手話通訳、筆記通訳あります。
  • 貸し出しの聖書と賛美歌があります。
  • 服装は自由です。
  • 主への感謝をあらわす自由献金の時間があります
    (参加費はありません。)。

午後は、イースター祝会をいたします。教会員が各自 腕をふるった
お料理を持ち合うビュッフェスタイルの昼食会です。
ご招待ですので、お気軽に礼拝後の楽しい交わりにご参加ください。
きれいなイースターたまご探しなどの楽しいイベントもあります

子どもと親のプログラム(3月のご案内)

子どもと親のプログラム(3月のご案内)

  • Mama’s cafe
    ...3月22日(火)朝10:00~12:00
  • こひつじクラブ (乳幼児と親)
    ...3月8日(火)朝10:30~12:00
    (毎月第2火曜日、参加費:親子で200円)
  • ハレルヤちびっこ (3歳以上~就学前の子どもと親)
    ...3月12日(土)朝10:30~12:00
    (毎月第2土曜日、参加費:親子で200円)
  • サタデージョイ(小学生)
    ...3月5日、12日、19日(土)朝10:00~11:30
    3月26日~4月9日は休会
  • 中高生のクラブ 芥見JC
    ...3月26日(土)夕 18:00
    (毎月第4土曜日)

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・説教 ヨハネの福音書 19章1-16節「そして、王は十字架へ」

 

2016.03.06

鴨下 直樹

 
 「エッケ・ホモ」というラテン語があります。ずいぶん、有名になった言葉です。オランダの画家、レンブラントも、19世紀から20世紀のフランスの画家ルオーも、この「エッケ・ホモ」という題のついた作品を描いています。今日の聖書の言葉で言うと、5節にある「さあ、この人です」という言葉です。

 今日の箇所を少し振り返ってみたいのですが、ピラトは、主イエスを裁きにかけています。ピラトはユダヤ人ではありません。この裁きが始まったときには、ピラトは主イエスにほとんど関心を示していませんでした。けれども、主イエスと語りあっているうちに、主イエスの言葉に引き込まれていってしまいました。そして、前章の18章の最後では、ユダヤ人の過越しの祭りの時にひとりの囚人を釈放する習慣があったことから、イエスを釈放するよう提案をします。ところが、この場にいたユダヤ人たちは強盗のバラバの釈放を要求します。

 ピラトはそれで何をしたのかというのが、今日の19章ですが、「イエスを捕えてむち打ちにした。」とまず1節に記されています。もう今から何年前でしょうか、俳優のメル・ギブソンが監督をした「パッション」という映画が上映されました。この主イエスの受難の出来事を描いた作品です。見られた方も多いと思いますが、私にはこの映画の中で、十字架よりも、ほとんどこのむち打ちの場面の生々しさだけが印象に残りました。あまり、見ることを他の人に薦めたいとも思えないほどの過激な描写です。しかし、このところの解説を読んでいますと、あの場面は過激な演出ではなかったのかもしれないと思う記事がいくつも出て来ます。どうも、このむち打ちというのは、むち打ちで痛めつけることによって十字架に磔(はりつけ)にされた時に早く死ぬことができるための慈悲行為だったというのです。

 しかも、この後で、続く2節と3節を見てみますと、

また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。彼らはイエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。

と書かれています。この兵士たちの嘲笑は言ってみれば非公式に行われたものですけれども、ヨハネはこうして、主イエスが王としてさげすまれたことを描いています。

 そこで、ピラトが言った言葉が4節です。

ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」

 ピラトがここで何をしたいかはもう明らかです。ここにいるユダヤ人宗教指導者たちは、イエスが、ユダヤ人の王であると言っていることを問題にして、ローマ皇帝への反逆者であると訴えているけれども、この鞭打たれ、ぼろぼろにされたこの哀れな男が、ローマに反逆しようとしている者にみえるのか? と問いかけているのです。そこで、言った言葉、「エッケ・ホモ」、「この人を見なさい」という言葉だったのです。 続きを読む ・説教 ヨハネの福音書 19章1-16節「そして、王は十字架へ」

今月の礼拝予定(2016年3月)

3月6日 受難節第四主日

主日主題: 十字架
聖餐式礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨハネの福音書19章1-16節
説教:「そして、王は十字架へ」 鴨下直樹牧師
聖餐式

午後:聖歌隊練習(礼拝後すぐ)、役員会

3月13日 受難節第五主日

主日主題: 王
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨハネの福音書19章17-27節
説教:「十字架の王、主イエス」 鴨下直樹牧師

午後:聖歌隊練習

3月20日 受難節第六主日

主日主題: 死
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨハネの福音書19章28-37節
説教:「完了した!」 鴨下直樹牧師

午後:礼拝準備会、礼拝予定確認会

3月25日(金) 受難日

主題: 埋葬
聖餐礼拝: 午後19時30分
聖書: ヨハネの福音書19章38-42節
説教:「主イエスの葬り」 鴨下直樹牧師

3月27日 復活祭

主日主題: よみがえり
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨハネの福音書20章1-18節
説教:「よみがえりの主とお会いして」 鴨下直樹牧師

午後:イースター祝会(持ち寄り昼食会)

・説教 ヨハネの福音書18章28-40節「真理とは何ですか?」

 

2016.02.21

鴨下 直樹

 
 受難節を迎えています。この季節、私たちは主イエスの苦難の姿を心にとめながら、主イエスの苦しみの意味を考える時間があたえられています。そして、今日私たちに与えられている聖書の言葉は、私たちが主イエスの姿を心に刻むためにもとても重要な箇所だということができると思います。

 この主イエスのピラトによる裁判の箇所は18章28節から19章16節までです。本当はもう少し丁寧にみ言葉を心にとめたいのですが、二回に分けてここから主の言葉を聞きたいと思います。さっそく今日の28節にとても興味深いことが記されています。

さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは過越しの食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった。

と書かれています。

 ここは、ヨハネの福音書特有の皮肉のこもった書き方がされているのですが、そもそも、過越しの食事を食べるために異邦人の家に入ってはいけないというような戒めは聖書にはありません。けれども、どうも、当時のユダヤ人たち、特に律法学者たちは、律法を完全に守るために、さらに細かい細則を作っていました。そういう自分たちで決めた決まり事を守るために、ユダヤ人宗教指導者たちは、主イエスの裁判を求めてローマの総督ピラトの官邸まで連れて行ったのですが、自分たちは汚れるので入らないというようなことをしたようです。殺してはならないという戒めについては目をつぶっておいて、本来戒めでもなんでもない細かい決まりは守ろうとするという、このユダヤ人指導者たちの姿をヨハネはここで皮肉をもって描いているわけです。

 それで、実に面倒くさいことだったと思いますけれども、ローマ総督のピラトの方からこのユダヤ人たちと対話をするために外に出向いて、ユダヤ人たちと会話をするという場面がはじめに記されています。
 ここでピラトはユダヤ人たちに尋ねます。「悪い人だから連れて来たんでしょう。なぜ、自分たちで裁かないのか」と問いかけています。ユダヤ人指導者たちは、「自分たちでは死刑にする権限がありません」と答えます。もちろん、そんなことはないわけです。主イエスの時代、「石打ち」という言ってみればリンチのようなやり方で、ユダヤ人たちは罪を犯した者を殺してきた事実があります。これは、ローマの手で主イエスを殺させる方が、自分たちはローマに逆らう気持ちはないのだというアピールにも使えるわけですし、自分たちの手も汚さなくて済むという考えが彼らにはありました。32節はそれこそが、イエスのことばの成就だという書き方をしています。

 さて、そこで、次の33節からの場面ではピラトと主イエスとの対話の場面に移ります。この対話にいたって、この裁判にさほど関心も示していなかったピラトが主イエスの言葉に引き込まれていく姿が描き出されています。ピラトは尋ねます。「あなたはユダヤ人の王ですか。」すると、主イエスは「それはあなたがそう思うのですか、誰かからそう聞いたからですか」とピラトに反対に問いかけます。ピラトにしてみれば、何をいっているんだという感じであったに違いありません。「わたしはユダヤ人ではないのだから、私には関係ないことだ、いったい何をしてここに連れられてきたのだ」とピラトは問い返します。
続きを読む ・説教 ヨハネの福音書18章28-40節「真理とは何ですか?」

・説教 ヨハネの福音書18章12-27節「アンナスの尋問と主の弟子ペテロ」

 

2016.2.14

鴨下 直樹

 
 今週からレントに入ります。また私たちはこの礼拝にまさにレントにふさわしい聖書の箇所を聞きました。主イエスの裁判が行われるところです。主イエスが弟子のユダの裏切りによって捕えられ、裁判にかけられます。今日のところはローマの裁判というよりも、ユダヤ人たちによる裁判と言ったらいいでしょうか、尋問というべきかもしれませんけれども、アンナスによる取り調べをうけるところです。

 先週の木曜日、前任の浅野牧師のお子さん、Y君の記念会が行われました。亡くなって10年を今年で迎えました。私はその時ドイツにおりましたので葬儀にでることはできませんでした。浅野先生たち家族がY君を支えられた生活は本当に厳しいものだったのだろうと想像します。また、教会のみなさんも、そのために祈り支えてこられたのだろうと思います。この記念会で浅野先生がコリント人への手紙第二、第四章16―17節のみ言葉を紹介してくださいました。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

 この聖書の箇所は、Y君が病を再発して動揺していた時に、聖書を読んでほしいと頼んだそうですけれども、読む箇所、読む箇所、そこじゃない、そこじゃないと言っていたんだそうです。ところが、このみことばを読んだとたん、「もう大丈夫」と言って落ち着きをとりもどしたのだそうです。

 まだ10歳という若さで、自分の病と闘いながら、死と向き合うというのはどういうことだったのだろうかと、改めて考えさせられました。そんなことを考えながら、今日の説教のために、この箇所を読んでいたのです。
 そうしたら、金曜日の昼に、Nさんから電話がありまして、妻のHさんが心筋梗塞で、今から救急で県病院で治療を受けるので祈って欲しいという電話をいただきました。電話をいただいてすぐ病院に向かいました。Hさんは、四か月前、祈祷会の最中に急に胸が苦しいと言って倒れられ、救急車を呼んで、治療を受けたばかりです。「大動脈解離」という、心臓から出ている大動脈という血管が縦に裂けてしまう大変な病だったのですが、治療している間に血管の傷が塞がっていきまして、その時は手術をしないでも良いということで回復したわけです。今回、また心臓ということで、とても心配しながら病院に行ったのですが、幸いにも、大事には至りませんでした。心臓の痛みを覚えたそうですが、血液をサラサラにする薬を飲んだところ、痛みは消えたのだそうで、今は原因を探りながら、薬で症状を改善できるように調べているということでした。
 思わぬ事態というのは、どこか遠いところにあるのではなくて、本当に私たちの日常というのは、常に死と隣り合わせのところにいるのだということを、改めて認識させられています。 続きを読む ・説教 ヨハネの福音書18章12-27節「アンナスの尋問と主の弟子ペテロ」

・説教 ヨハネの福音書18章1-11節「誰を捜しているのか」

 

2016.02.07

鴨下 直樹

 
 私事で始めて恐縮ですが、みなさんは散歩をされることがあるでしょうか。私は長い間飼っていた犬が死んでからすっかり散歩をしなくなってしまいました。けれども、まだドイツにおりました時は、必ず一日、小一時間犬と一緒に散歩に出かけました。私の住んでいた村はオーバディルフェンという小さな村です。人口も1000人いるかどうかというような村で、家の通りを500メートルも歩きますとすぐに森に入ります。毎日、ほぼ同じ道を、ドイツ語の単語帳片手に午後3時頃から歩き始めるというのが日課でした。今でも、その時のことを時々思い出して、懐かしく思う時があります。

 主イエスもまたエルサレムにおられた時に、いつも決まったコースを歩きながら祈りに出かけられたようです。弟子たちであれば、みなその道を知っていました。弟子たちにとってその道は特別な道です。ケデロンという、冬の間だけ水が流れて川になった谷がありまして、その川筋にそってオリーブ山と言われる所へとつながる道です。ヨハネはそのことをここでしっかりと記録しています。特別な思いがあったのでしょう。あるいは、その弟子たちにとって特別な場所が、裏切り者のユダによって汚されてしまったのだという悲しい気持ちが込められているのかもしれません。
 ユダはそこに一隊の兵士たちと、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れてきています。数百人というものものしい人数で、夜だったのでしょう、たいまつと、おのおの武器をもってその道に集まって来ているのです。

 今日のこの箇所は主イエスが逮捕されたところが記されています。新共同訳聖書ではここに小見出しがついていまして、「裏切られ、逮捕される」と書かれています。聖書を読み進めていくなかで、読む人にショックを与える箇所と言えます。けれども、聖書を読む時にとても大事なことは、このヨハネの福音書はまさに、人々がショックを受けるところで、何を語っているかということです。

 先日も、ニュースで有名な野球選手が覚せい剤で逮捕されたというニュースが報道されました。そうしますと、いたるところで、あの人は昔からちょっと問題があったというような発言がどこからともなく飛び出してきまして、もうそんなことばかりが報道で取り上げられます。捕まえられる人間というのは、どこかに問題をかかえている弱い人間なのだと、それまでとはまるで手の平を返したような言葉で一斉に攻撃を始めます。
 私たちはそういう人間の弱さを見ると、まるで鬼の首を取ったかのように、突如として攻撃的になります。不快だと感じるのです。不快だと感じるので、そういう人を攻撃しながら、自分はそうではない、そういう弱い人間ではないのだとことさらに語ろうとします。

 しかし、このヨハネの福音書をみていますと、ここで捕えられようとしている主イエスの姿はちょっと異なります。4節よみますと、主イエスの方から、出てこられて「誰をさがすのか」と問いかけられているのです。そして、5節と6節を見てみますとこのように記されています。 続きを読む ・説教 ヨハネの福音書18章1-11節「誰を捜しているのか」

今月の礼拝予定(2016年2月)

2月7日 降誕節第七主日

主日主題: 自由
聖餐式礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨハネの福音書18章1-11節
説教:「誰を捜しているのか」 鴨下直樹牧師
聖餐式

午後:聖歌隊練習(礼拝後すぐ)、役員会

2月14日 降誕節第八主日

主日主題: 信仰
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨハネの福音書18章12-27節
説教:「主の弟子ペテロと大祭司カヤパ」 鴨下直樹牧師

午後:2016年度教会総会

2月21日 降誕節第九主日

主日主題: 真理
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨハネの福音書18章28-40節
説教:「真理とは何ですか?」 鴨下直樹牧師

午後:礼拝準備会、礼拝細目確認会、東海教会献堂式

2月28日 降誕節第十主日

主日主題: 神の国
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: (未定)
説教:川村江弥 師

午後:聖歌隊練習(礼拝後すぐ)、各部会、川村師と共に愛餐会

・説教 エペソ人への手紙1章3-14節「みこころの奥義(ミステリー)」

 

2016.01.31

鴨下 直樹

 
 昨年の10月から東海聖書神学塾で説教学を教えることになりました。どのように説教をするのか、教会で聖書を語る奉仕をしている方は少なくありません。私たちの教会でも役員はほぼ一年に一度ほど説教をします。あるいは、教会で子どもたちに聖書を語る教師もみことばをどのように語るのかしっかりと学ぶ必要があります。今、神学塾で九人の方々が受講しているのですが、ルカの福音書の第十五章、いわゆる放蕩息子と言われているところからの説教演習をしています。先日で3回目になりますが、すでに七人の方から同じ箇所の説教を聞き続けているわけです。説教を聞いた後で、それぞれに批評しあうのですが、私は最後にどこが良くて、どこが悪いのかということを分析して、できるかぎり本人がしたいと思った意図をつかみとってやりながら、その人が伝えたいと思っていることがどうしたら効果的に伝えられるのか解説をします。

 そのなかで、説教を作成する前にも注意をするのですが、文章のセンテンスは短くすること。原稿に書くのであれば、一つの文章で一行半までにおさまるようにまとめるよう指導します。私がいつも気をつけていることでもあります。一つの文章の中に、いくつもいくつも言いたいことを入れ込みますと、聞いている方はもう何を聞いているのかさっぱり分からなくなってしまうのです。

 実は、このエペソ人への手紙にもその問題があります。これはエペソなどの小アジアの教会で回覧された手紙です。おそらく、礼拝の時に、今の説教の代わりのようにしてそのまま朗読されたと考えられます。ところが、この文章が少しまずい。今日は予定を変更して3節から14節までとしましたけれども、実は、この3節から14節までが一つのまとまった文章なのです。14節にきてようやく文章の最後に「。」(句点)が付くのです。日本語の翻訳は、さすがにそのまま訳しますともう訳が分かりませんので、何度も何度も文章を短く区切っています。

 この長い一つの文章の中には神の選びについて、罪の赦しについて、そしてみこころの奥義についてが書かれています。しかも、その一つの文章の中には「私たちは」という主語も入っていれば、「神は」という文章もあります。13節からは「あながたがは」という主語まで出て来ますから、もう翻訳する方は大変です。翻訳をする方はみんな苦労しながら、パウロの言いたい意味をつかみ取って、まぁこういうことが言いたいのだろうと推測をしながら、文章を切り分けていく作業をしているわけです。そのおかげもあって私たちもその書かれた文書を何となくこういう意味かなと理解することができるわけですが、すっきりしない部分も残るわけです。ですが、安心してください。この手紙の意味が分からないとしても、みなさんの理解力がないからでも、翻訳者が悪いわけでもなくて、もともとの文章が分かりにくいからなのです。

 今日は、主に7節以降のところの内容に注目してみたいと思っているのですが、7節でパウロは、キリストの血による罪の赦しのことを神の恵みだと言っています。そして、8節では、この罪の赦しの恵みは、神が知恵と思慮深さをもって、この恵みを分からせてくださると言っているわけです。
 そこまできますと私などは安心するわけです。ああ、パウロの文章は理解できなくても、神の知恵と思慮深さでもって、この難しいパウロの理屈もすべてそっくりまとめて分からせてくださると言っているのです。 続きを読む ・説教 エペソ人への手紙1章3-14節「みこころの奥義(ミステリー)」