今月の礼拝予定(2016年5月)

5月1日 復活節第六主日

主日主題: 祈れ<ロガーテ>
聖餐式礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨハネの福音書21章15-25節
説教:「主の愛に生きる」 鴨下直樹牧師
子ども:「大臣になるヨセフ」 鴨下愛
聖餐式

午後:役員会

5月8日 復活節第七主日

主日主題: 聞いて下さい<エクサウディ>
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: エペソ1章15-23節
説教:「栄光の富」 鴨下直樹牧師
子ども:「兄弟をゆるしたヨセフ」 河合和世

午後:聖歌隊練習、礼拝の学び

5月15日 聖霊降臨祭

主日主題: ペンテコステ
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: エペソ2章1-10節
説教:「恵みによって主に生かされて」 鴨下直樹牧師
子ども:「モーセの誕生」 鴨下愛

午後:礼拝準備会、礼拝予定確認会、手話講座

5月22日 三位一体祭

主日主題: 三位一体
合同礼拝: 午前10時30分
聖書: (未定)
説教:ギデオン協会会員
子ども:「モーセの召命」 鴨下愛

午後:女性会

5月29日 三位一体後第一主日

主日主題: 教会
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: エペソ2章11-22節
説教:「イエス・キリストを土台として」 鴨下直樹牧師
子ども:「過越し」 村上進

午後:各部会、聖歌隊練習

子どもと親のプログラム(5月のご案内)

  • Mama’s cafe
    ...5月24日(火)朝10:00~12:00
    (毎月第4火曜日、参加費:300円…デザート&飲み物)
  • こひつじクラブ (乳幼児と親)
    ...5月10日(火)朝10:30~12:00
    (毎月第2火曜日、参加費:親子で200円)
  • ハレルヤちびっこ (3歳以上~就学前の子どもと親)
    ...5月14日(土)朝10:30~12:00
    (毎月第2土曜日、参加費:親子で200円)
  • サタデージョイ(小学生)
    ...5月14日、21日、28日(土)朝10:00~11:30 参加無料
  • 中高生のクラブ 芥見JC
    ...5月21日(土)夕 18:00
    (毎月第3土曜日、参加費:200円…夕食付)

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・説教 ヨハネの福音書21章1-14節「153匹の魚と共に」

 

2016.04.24

鴨下 直樹

 
 今からちょうど10日前の4月14日、木曜の夜から発生した熊本地震のために今、多くの人々が避難所での生活を強いられています。震度5以上の地震はすでに14回を数えます。今でも9万人を超える人々が避難していますが、これから被害が増える可能性も否定はできません。毎日何度も鳴り響く地震警報のアラート音。次にどのくらいの地震がくるのかも分からないわけですから、その恐怖たるやはかり知れません。私の幼馴染みも金曜からこちらを出まして、この週末にできるかぎり色々な物資を運びたいと熊本に向かいました。連日テレビにくぎ付けになってこの地震の被害の大きさについて考えさせられています。そこでいつもわたし自身考えさせられるのは人のいのちの重さについてです。

 今、私は名古屋にあります東海聖書神学塾で聖書解釈学という授業を教えています。その最初に加藤常昭先生の書かれた「聖書の読み方」という本を一緒に読みます。この本は今からもう50年以上も前に書かれたものですけれども、今なお読み継がれるべき内容の本だと思っています。この本の第1章で、聖書の読み方について書いているのですけれども、その最後のところで、自分のいのちの重みを知ることが聖書を読むことなのだということを書いておられます。つまり、聖書を読むということは、キリストを知ることです。聖書を読んでいくうちに分かってくるのは、この聖書が記しているキリストというお方は、私たちのために自分のいのちを捨ててくださった。そのことが分かるようになると、わたしのいのちの重さは、キリストのいのちの重さと同じなのだということを知ることになるのだと、加藤先生は書いておられるのです。

 マタイの福音書の16章25節と26節にこういう言葉があります。主イエスが弟子たちに語りかけられた言葉です。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

 私が牧師になったばかりの頃のことですが、江南市の教会の牧師として赴任したばかりのころに、東京で一つの葬儀がありました。ちょうど引き継ぎ期間だったということもあって、前任の明田勝利先生が葬儀を行いました。私はほとんどカバン持ちのようにしてついていったのですけれども、その葬儀会場で明田先生が説教をしました。正確にではありませんが、こんな内容の説教でした。
「人のいのちは全世界よりも尊いと言います。私たちはこの世界に生きていながら、一人のいのちの重さはかけがえのないものであるということを知っています。家族であればなおさらです。しかし、そのいのちが失われてしまった時に、それほどにかけがえない価値のあるいのちに対して、私たちは何をすることもできません。しかし、神の御子主イエス・キリストはまさに、この全世界よりも尊いいのちそのものとして私たちに与えられました。この全世界よりも尊いいのちであるイエス・キリストのいのちをもってしか、私たちはこの私たちの尊いいのちを支えることできないと信じているのです。」

 私は、牧師になったばかりでしたけれども、私はキリスト教の葬儀というのはこうやってやるのだということを知りました。この説教にとても感動し、また、自分が牧師であることに誇りを持ちました。私たちの主イエス・キリストは、わたしたちのいのちを尊んでくださる。人のいのちの重さを知っておられるお方です。今、熊本で起こっている大きな災害を通して失われたいのちもまた、主イエスは軽んじてはおられません。だからこそ、私たちもまたこのために祈るのです。 続きを読む ・説教 ヨハネの福音書21章1-14節「153匹の魚と共に」

熊本地震 被災者支援募金のお願い

芥見キリスト教会では、4月14日から16日にかけて発生した熊本地震で被害に遭われた方を支援するため、募金活動を始めました。
募金は「日本国際飢餓対策機構」を通じて送金します。

日本国際飢餓対策機構のインターネット募金のリンクから、直接送金頂いても結構です。クレジットカード、コンビニ支払いも可能です。

祈りをあわせましょう。

・説教 ヨハネの福音書20章24-31節「疑いの人トマスの信仰」

 

2016.04.10

鴨下 直樹

 
 ヨハネの福音書の説教をはじめまして二年半がたちました。そして、今日、ようやくこの聖書の箇所にたどり着きました。といいいますのは、私は聖書の中の人物で、もっとも心惹かれるのがこのトマスです。この箇所を読むたびに、私は心から、このトマスがいてくれて良かったと思うのです。
トマスというのは、これまでのヨハネの福音書の中で出て来ましたけれども、率直にものを言う人です。今日のところでもそうですけれども、他の弟子たちはよみがえりの主イエスと出会った。しかし、トマスはその場に居合わせませんでした。25節にはこう書かれています。

それで、ほかの弟子たちが彼に『私たちは主を見た。』と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

 よみがえりの主と出会った弟子たちが集まっているところ、それは、もう教会と言ってもいいでしょう。言ってみればできたばかりの教会の中で、「私は決して信じない」という言葉を口にしたのが、主イエスのお選びになられた十二人の弟子たちの中にいたのです。他の弟子たちからしてみれば約三年間、同じ釜の飯を食べてきた信仰の仲間、主イエスの弟子です。その自分たちの言うことが信じられないと言われてしまうのですから心中穏やかではなかったのではないかと想像するのです。けれども、ここに教会の姿があるのだとも思います。

 先週、洗礼入会式を行いました。その前からその方々と信仰入門クラスという学びの時を持っています。今のところ、私は洗礼を受ける人たちのすべての学びをしてきました。信仰の学びをしませんか、聖書のまなびをしませんかと言って、はじめのうちは色々な聖書の疑問について尋ねます。はじめは多くの方がそうですけれども、聖書の色々な言葉に戸惑います。色々な質問が出て来ます。みなさん、同じように「はい、信じます」という具合にはいきません。学びをし、礼拝にお集いになられて、また、持つようになった疑問を投げかけられます。そういう姿は、この最初の時から今に至るまで続いているのです。私はここに、素直に信じられないで、頑として首を縦に振ろうとしなかったトマスがいてくれて本当にありがたいと思うのです。それは、牧師としてそう思うというこころもありますけれども、何よりも、わたし自身の姿がここにあると思うのです。 続きを読む ・説教 ヨハネの福音書20章24-31節「疑いの人トマスの信仰」

・説教 ヨハネの福音書20章19-23節「新しく生きる者とされて」

 

2016.04.03

鴨下 直樹

 
 今日は、説教に先立ちまして、二人の方々の洗礼入会式がとり行われました。洗礼をすでに受けられた方にとっては、洗礼式というのは、洗礼を受けられる方への喜びを感じる時であると同時に、自分の洗礼の時の想いを新たにする時でもあると思います。今日の説教題を「新しく生きる者とされて」としました。

 復活節の第二番目の主の日には名前がつけられていまして「クアジ・モド・ゲニティ」といいます。新しく生まれると書いて日本語では「新生」という日です。まさに、この日に、二人の方が洗礼を受けられて新しく生きる者とされたことを嬉しく思います。洗礼式というのは、まさに、この水の中で古い自分は死んで、新しく生きる者とされたことを明らかにする時です。

 先週、教団の学生キャンプが行われました。そこには50名を超える若い学生の方々が参加していまして、私はとても嬉しい気持ちになりました。教団全体で、「次世代への献身」という課題をもってこの五年間を歩んでいきたいと思っているところで、多くの学生たちがキャンプに参加しているのをみて、嬉しい気持ちでいるのです。そこで、私は最終日に「礼拝」についてメッセージしてほしいということでした。以前、私は教団の学生会担当の牧師でしたので、学生たちといつも向き合ってきましたけれども、教団の学生キャンプに参加したのは、12年ぶりです。ドイツに行くときに学生会の働きを終えて以来でした。いつも、芥見の教会では学生たちに話していますけれども、普段関係を持っていない学生たちに説教をして言葉が届くのか、少し自信がなかったのです。けれども、とても学生たちが喜んで説教を聞いてくれて嬉しく思いました。テーマは「礼拝」です。中学生、高校生の時に、それまでは、親に連れられて何となく教会に行っているわけですけれども、少しづつ大人に近づいていくにつれて、親の信仰ではなくて、自分の信仰の歩みということをどうしても考えるようになります。そこで、実にたくさんの学生たちが礼拝の喜びを見出せなくて、教会から離れてしまうということが起こってしまうわけです。

 私はそこで、「礼拝」というのは何のためにあるのかということについて、まず話をしました。というよりも、人間は礼拝をするために生きているのだということを語りました。人間として生きるということは、礼拝をするということと同じです。礼拝をしないということは、人間をやめるということです。いくつかのキーワードを上げて説教をしたのですが、礼拝という言葉にはいくつかの言葉がありますけれども、その中のひとつに「ラトレイア」というギリシャ語があります。ローマ書12章1節に書かれている「礼拝する」と訳されている言葉です。この言葉はとても面白い言葉で、「ラオス」、「民」という言葉と「エルゴン」、「仕事」という言葉の合成語です。つまり、礼拝というのは、民の仕事、奉仕であるというわけです。神の民は礼拝をするのが仕事なのです。けれども、私たちが安息日に礼拝をするために、神はそれに先だって六日間かかってこの世界をお造りになられて、すべてを備えてくださいました。人間は何も働かないで、最初にしたのが安息日を迎えるということだったのです。神は、私たちがこの世界で生きる前にすべてのものを創造して、整えてくださって、そうして、人間は礼拝をすることによって、人間の業をはじめたのです。 続きを読む ・説教 ヨハネの福音書20章19-23節「新しく生きる者とされて」

今月の礼拝予定(2016年4月)

4月3日 復活節第二主日

主日主題: 新生<クアジ・モド・ゲニティ>
聖餐式礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨハネの福音書20章19-23節
説教:「イースターの朝に」 鴨下直樹牧師
洗礼式
聖餐式

午後:受洗お祝い愛餐会、役員会

4月10日 復活節第三主日

主日主題: 慈しみ<ミゼリコルディアス・ドミニ>
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨハネの福音書19章28-37節
説教:「疑いの人トマスの信仰」 鴨下直樹牧師

午後:聖歌隊練習はお休み、納骨式

4月17日 復活節第三主日

主日主題: 喜べ<ユビラーテ>
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: ヘブル人への手紙11章8-16節
説教:「さらにすぐれた故郷」 古川秀昭長老

午後:礼拝準備会、礼拝予定確認会

4月24日 復活節第四主日

主日主題: 歌え<カンターテ>
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨハネの福音書21章1-14節
説教:「再び主とお会いして」 鴨下直樹牧師

午後:女性会、役員研修会(於:可児キリスト教会)

・説教 ヨハネの福音書 20章1-18節「よみがえりの主とお会いして」

 

2016.03.27 イースターファミリー礼拝

鴨下 直樹

 
 イースターおめでとうございます。今日は、イースター。主イエスの復活をお祝いする日です。昨年くらいからでしょうか、お店など色々なところで、このイースターという言葉を見かけるようになりました。先日も、買い物に行くと、お菓子のコーナーにイースターと書かれた特別包装のパッケージのお菓子が陳列されていて驚きました。お祭り好きな国民性もあるのかもしれませんけれども、イースターが取り上げられることは嬉しい気持ちになります。主イエスがよみがえられたことを、少しでも多くの方の耳に入るのであればそれは、素晴らしいことです。

 先ほど、聖書のおはなしで、このイースターの物語を聞きましたし、今も、このイースターの出来事の聖書を聞きました。イースターの日、ここでは「週の初めの日」という言葉から始まっていますが、この日に起こった出来事が記されています。教会では「週のはじめの日」といえば日曜日だと誰もが分かりますが、最近は、新年のために手帳やカレンダーを買おうと思って文房具屋さんに行っても、ほとんどが月曜始まりになってしまっているので、日曜が週のはじまりの日であるということは、ひょっとすると、もう多くの人はあまり気にしていないのかもしれません。

 この聖書の記されていた当時、特に、ユダヤ人たちにとって休みの日といえば土曜日です。翌日の日曜日はもう仕事がはじまる日でした。けれども、教会の人々は仕事がはじまる前、つまり夜明け前に礼拝をするようになっていたようです。それで、復活の朝の日の出来事を、ごく自然に「週の初めの日に」という言い方で書き記すようになったのです。そして、この言い回しが、いま、私たちが当たり前に日曜日は一週間の始まりの日というようになったのです。世界中で、日曜を週の始まりとするとするように決まったのは、まさに、このイースターの出来事がこの時に起こったからです。

 さて、この朝の物語には男の弟子たちの姿と、女の弟子の姿が描き出されています。とても対照的です。男の弟子たちはこの日、とてもアクティブといいましょうか、活動的です。女の弟子たちは感傷的と言えるかもしれません。 続きを読む ・説教 ヨハネの福音書 20章1-18節「よみがえりの主とお会いして」

・説教 ヨハネの福音書 19章38-42節「主イエスの葬り」

 

2016.03.25

鴨下 直樹

 
 ピエタと言われるミケランジェロの彫刻の作品があります。ローマのバチカン、サン・ピエトロ大聖堂にあります。私たちは岐阜県美術館に行きますといつでもそこにレプリカがありますので、そこで見ることができます。十字架から降ろされた主イエスの亡骸を、その母マリヤが抱いている母の悲しみを描き出しています。この日曜日の説教でも語りましたけれども、主イエスは「完了した」と言われて、その霊をお委ねになられました。この地上でなすべきすべてのことを成し遂げられた。それは、まさに、父なる神のみこころをすべて完成させて、人への愛を成し遂げられた十字架の主イエスの姿でした。そして、その亡骸をマリヤは抱きながらそこで何を思ったことでしょうか。

 今日は受難日です。それで、この夜私たちは主イエスの十字架の死を覚えるためにこうして集まって礼拝を捧げています。私たちがここでするのは、まさに、このピエタに込められているように、私たちもまた主イエスの亡骸を抱えながら、主イエスの死を自分の心に刻むことです。

 死と向かい合うこと。それは、多くの人がどうしたらいいのか分からなくなるので、避けて通ろうとすることです。できるかぎり、死を生活の中で思い出さないように、考えないようにして人は生活しています。そして、まるで、死など存在しないかのように思い込むことこそが、充実した人生をおくっているかのような錯覚をしてしまいます。

 しかし、死はいつも私たちの傍らにあるのです。誰か、身近な人が亡くなると、私たちは取り乱してしまいます。それを冷静に受け止めて、自分の膝に抱えるなどということはほとんどありません。死を恐れるからです。けれども、私たちは死を恐れるのではなくて、まさに、主イエスが死を引き受けてくださったがゆえに、私たちは落ち着いて死を思うことができるはずなのです。 続きを読む ・説教 ヨハネの福音書 19章38-42節「主イエスの葬り」

・説教 ヨハネの福音書 19章28-37節「完了した!」

 

2016.03.20

鴨下 直樹

 
 今日の週報にも書かれておりますけれども、復活節の第二主日に洗礼式を予定しています。今、二人の方々が信仰の入門クラスという学びを続けています。この芥見教会では、洗礼式に先立って試問が行われます。試問というのは、口述の試験という意味があります。ですから、ちょっと言葉が厳しいので、面接とか面談にした方がいいのではないかという意見もありますけれども、いままで試問として続けてまいりました。ここで何をするかといいますと、洗礼、入会を希望する方の証を長老と執事たちで一緒にお聞きして、いくつかの質問をしながら、洗礼を受けさせてもよいかどうかを確認するのです。最近は、教保といいますけれども、この洗礼入会希望者の信仰の支え手となってくださる方も一緒に出ていただいています。私は、いつも思うのですけれども、この試問の時に行われる会話を教会員のみなさんが御一緒できればいいのにと思います。

 時折、長老や、執事から厳しい質問が出る場合があります。わずか5分から10分程度の証で、その方のことがすべて語られているわけではありません。ですから、役員の方々もできるかぎり、洗礼を受けられてからの信仰が支えられることを願って色々な質問をしたり、色々な意見を言われます。ところが、いつもそうですけれども、気が付くと役員の方々が自分がどのように信仰に至ったのか、何を悩んだのか、信仰の歩みの中で戦いになることはこういうことだという証をしはじめるのです。私は、洗礼を受ける方のことばかりでなくて、そこで、その役員方の今まで知らなかった一面を知る機会ともなるので、この時をいつもとても楽しく思うのです。

 自分の信仰の話をする。自分はどのように信仰が与えられて来たのか。どのように、教会に来るようになったのか。どう信じたのか。何を悩むのか。そこには、一人一人の生きた信仰の言葉があります。そして、そこには、必ず、主イエスとの出会いがあるのです。それは、みな違います。心に響く聖書の言葉も違います。それまでの歩みもみな違います。みな同じように、主と出会うわけではないのです。けれども、そういう言葉を聞くと、自分の味わったことのない、生きて働いておられる主の姿を知ることができるので、それはとても嬉しい時間となるのです。

 今日の箇所は、いよいよ今週から受難週に入ります。そこで、主イエスが十字架ですべてを成し遂げられて、頭をたれて、その霊をお渡しになったときの事が記されています。主イエスはその時、「完了した」と言われたと、聖書は記しています。
28節でまず「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、」と記されています。
続きを読む ・説教 ヨハネの福音書 19章28-37節「完了した!」