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・説教 マタイの福音書11章7-19節 「主の備えを見よ」

 

鴨下直樹

2011.5.1

 

 先日の29日に、名古屋の一麦教会で私の関わっております東海聖書神学塾が主催してCS教師研修会が行われました。講演をしてくださっのは、神学塾の塾長であり、説教学の教師でもある河野勇一先生です。テーマは「福音を聴き語るために」というもので、教会学校の教師たちが説教するためにどのように備えるかということをお話くださいました。そして、この講演は本当に素晴らしい講演でした。

 その講演の最初に河野先生がこんな話をなさいました。字のない絵本と言いまして、昔からよく教会でつかわれる福音を語る教材があります。四つの色をつかって福音を語るという昔かある一つの福音の語り方があります。最初に黒色を見せまして、罪の説明から始めるわけです。あなたの心の中に、人を憎む思い、赦せない心がありませんか、そういう思いは罪ですと始まるのです。一般に言われることですけれも、教会に来るとすぐに語られるのが「罪」という言葉です。けれども、私たちが日常に使う罪という言葉は、何か犯罪を犯したという場合に使いますから、罪があるなどと言われても、言いたいことがなかなか伝わりません。聖書というのは、そもそも、イスラエルの民、もしくは教会に向けた書かれたものですから、神の救いを知っている人々を前提に語りかけられていると言われたのです。そうすると、神の救いを知っているにも関わらず、神から離れる、神に背く、そのことが罪であると聖書は語っているので、いきなりあなたは罪びとですよと、語りかけるのは問題ではないかという問題提起をなさいました。そして、神がどのように私たち人間をおつくりになり、どのように生きることを願っておられるかを語ることが重要だという話をなさったのです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書11章7-19節 「主の備えを見よ」

・説教 マタイの福音書11章1-6節 「待つべきお方は誰か」

 

鴨下直樹

2011.4.10

 

 

 受難節もすでに第五主日を迎えました。来週は教会の暦で受難週を迎えます。それにともない前々から伝道部が準備をしておりましたマタイの受難曲のコンサートを行います。もちろん全曲を行うことはできませんから、聖書朗読とコラールの部分を教会の執事である赤塚さんが指揮をしているnCA(ノアーコールアー)という合唱団をお招きして合唱をしてもらうことにしています。

 私たちの教会でもこのように、この受難節の期間にコンサートをし、受難日には受難日礼拝を行いますけれども、こうして主イエスの十字架までの苦しみの歩みをさまざまな形で思い起こそうとしているのです。毎年毎年、このレントを迎える度に、主イエスの苦難の意味を私たちはその度に思い起こすのです。主の苦しみは、そのようにして私たちの心の中に刻みつけておかなければならないほど大切なことだからです。

 

 私たちも日常の生活の中で苦しみの意味について考えることがあるでしょう。私たちが苦しみにあう時にそこで考える苦しみの意味というのは、多くの場合、これは何かの刑罰ではないかとか、何かの代償で、今自分はこのような苦しみを受けているのではないかと考えることが多いのではないかと思います。しかし、自分が味わっている苦しみの経験がに意味が見いだせなかったり、不当な苦しみであると考えると、私たちはそのような苦しみに耐え抜く力が出てこなくなってしまうのです。やっていられないという気持ちになってしまうのです。そのようにしてやっていられないという考えに一度支配されますと、あとはそこから逃げ出すことばかりを考えるようになります。苦しみの意味を問うということは、ただいたずらに自分を苦しめるということになりかねません。ですから、私たちはこの受難節の間、もう一度、どのようにキリストの苦しみを私たちは心に刻みつけることができるのかを、しっかりと考える必要があると思います。 続きを読む ・説教 マタイの福音書11章1-6節 「待つべきお方は誰か」

・説教 マタイの福音書10章34章-42節 「自分の十字架を負って」

 鴨下直樹

2011.4.2

 

 

今、私たちはキリストの苦しみを覚える受難節を迎えています。今年の受難節は特にさまざまな苦しみの意味を考えさせられます。未だに私たちは放射能の恐怖のもとで生活しています。そういう中で、四月を迎えました。新年度が始まります。それに伴って、新しい不安を抱えている人々もいます。仕事の部署が変わるとか、新しい生活が始まるということもあるでしょう。新しい年度を迎える期待と不安の中で、私たちは受難節を過ごしているのです。キリストの苦しみを思いながら歩んでいるのです。

そして、今朝、私たちはここで「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです」という御言葉を聞き、つづいて語られている「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」とのみ言葉を聞くのです。

思わずため息をつきたくなるような御言葉です。ゆったりとした気持ちで、落ち着いた気持ちになりたいと思いながら聞ける御言葉ではありません。私たちの生き方そのものを問いかけざるを得ない、厳しい言葉です。そして、この言葉の前に私たちは今、立たされているのです。

 

 このみ言葉を前にして、私たちの心の中に浮かんでくる思いは、「なぜ」という思いであるかもしれません。キリストは平和の君と呼ばれるお方ではなかったのか。キリストが十字架を負ってくださるお方なのではなかったか。それなのに、なぜ、平和ではなく、剣をもたらすと言われるのか。なぜ、自分の十字架を負えと言われるのか。ここで語られている主イエスの言葉は、主を信じる信仰に生きようと願って来た者にとっては、どうしても考えざるを得ない言葉です。問わざるを得ません。なぜ、ここで主イエスはこのように語っておられるのか。

 そうです。今、私たちはこの言葉の前に、もう一度、平和の意味を考えてみなければなりません。そして、十字架の意味をも考えてみなければなりません。 続きを読む ・説教 マタイの福音書10章34章-42節 「自分の十字架を負って」

特別伝道礼拝「私たちをひとつに結ぶキリスト賛歌」ピリピ人への手紙 2章1-11節

加藤 常昭

キリスト者になるということは讃美歌を覚えるということです。「歌う存在」という言葉があります。存在そのものが歌を歌い始めるのです。生きていることは、歌うことだと言うことすらできるようになる。

私の信仰は多くの方たちの感化によって養われてまいりましたけれども、何といっても最初に私に信仰の感化を与えたのは母です。母は徳川御三家のひとつに仕えておりました。奥女中の女中頭というのです。しばらく前にNHKの大河ドラマに「篤姫」というのが登場いたしまして、そこに徳川家の昔、といってもそんなに遠くはない、明治維新のころの姿が描き出されました。やたら重たそうな着物を着た女中たちが登場しました。その時代からそんなに時も立っていない徳川家に仕えた母も、あんな恰好をしていたのかしら、とちょっと心配になったぐらいですが、まあもちろんそんなことはなかったと思いますけれども、徳川家の御三家のひとつに仕えていたのです。女中頭というのですから、ただの女中ではなくて「頭」だというので、少しは偉いのかと思っていたら、「なに、女中頭なんてたくさんいたから」と言って笑っておりました。けれども、主人の家の家族に近いところで働いていたようです。

母はそのおかげで信仰に導かれたのです。東京飯田橋駅の近くに富士見町教会というのがありますが、この富士見町教会を建設いたしましたのは旧日本基督教会の植村正久という牧師でした。この人は旗本の息子なのです。そのせいだっただろうと言われておりますけれども、徳川家に特別な関心を持っておりました。ただ徳川家だけではなかったようですけれども、貴族伝道、あるいは華族伝道と言って、そういう家に伝道師を派遣して一生懸命一種の家庭集会をやったのです。徳川御三家の殿様が洗礼を受ける、ということまではいかなかったようですけれども、かなりの感化を与えたようでして、私の子どものころには、その徳川家で、クリスマスの大きなツリーを囲んだ家族の写真を見たこともあります。

殿様は洗礼を受けなくても、仕えている人たちに感化が及びまして、随分多くの人たちがキリスト者になって、母もその一人でありました。とにかく讃美歌が好きでした。台所でも歌を歌っている。特に私ども子どもの心に残っておりますのは、子どもをお風呂に入れまして、一緒に入ってくれることもありますけれど、多くの場合は子どもたちだけをお風呂に入れておいて、母は焚口に座りまして、昔の風呂ですから薪をくべるのです。薪を入れて湯の加減を聞きながら讃美歌を歌っているのです。私はお風呂の湯の中につかりながら、母が細い声で讃美歌を歌っていたのをよく思い出します。母は昔の女性のことですから、習ったことといえば「謡」だとか「清本」だとか「長唄」だとか、そんな、こっちから言うと、「そんな」と言いたくなるようなものばかりを習っているものですから、讃美歌に妙なこぶしがつくのです。ちょっと真似が出来ないようなこぶしをつけて歌うのです。けれども、今から考えるとやはり母の歌う歌というのが、子どもたちの心に沁み入ったと思います。
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特別伝道礼拝「あなたの居場所」ピリピ人への手紙3章2-11節

加藤 常昭

今から二十三年前に「説教塾」というグループが生まれました。今は成長して正式にメンバーとなっている者は二百人を超えます。二十教派を超える説教者たち、牧師、伝道師たちが集まって色々なかたちで説教を学んでいます。明日から名古屋でその学びが四日間あります。ここの教会の鴨下先生も、もうかなり前からこの説教の学びの仲間でありまして、大変親しくさせていただいている若い、頼もしい説教者です。その先生から皆様のこと、この教会のことを何度も伺ってまいりました。今回ようやく導かれて、この日の朝の礼拝をその皆様と共に捧げることができます。
皆様も同じですけど、私は日曜日の朝が来ると、この日曜日はもう二度と戻ってこない、自分の生涯にとってかけがえのない時、その時をこのような礼拝で過ごすことができる。今すでに読まれた聖書の中に「復活に生きる」という言葉がありました。日曜日は主イエス・キリストがよみがえりになったお祝いの日です。その生命(いのち)を祝う時を、今朝は私は皆様と共に過ごすことが出来る。もう二度と帰ってこない。そして恐らく、この教会のこの場所に立って説教することもないかもしれません。その様な思いを込めまして、私は何年か前から、一つの教会の伝統に従いまして説教のはじめに、聖書の言葉によって、説教を聴く方たちに祝福の言葉を贈ることにしています。

今朝、私どもが神の言葉として聴きますのは、伝道者パウロがピリピの教会に書き送った手紙であります。その手紙の中にあります、これはしばしばキリスト教会で祝福の言葉として朗読されるものでありますが、それをここで皆様に贈ります。

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださいます。」

アーメン。(ピリピ4:4-7)。

信じること、キリスト者になること。それはどういうことだろう。色々と説明することが出来ます。今朝、司式者によって朗読されましたピリピ人への手紙の第三章の言葉はこの手紙を書いたパウロが、ある意味では珍しいことですけれども、自分の歩みについて、とても簡潔な言葉で自分の生涯を語ってくれているところです。何故、自分がキリスト者になったか。これはとても大きな変化でした。このパウロの言葉の中に、六節に、「その熱心は教会を迫害した程」とあります。パウロ、この人が聖書の中に登場してくるのは、使徒の働きと呼ばれる、教会がどのように最初の歩みを始めたか、ということを語っている書物の最初の方です。教会の指導者の一人でありましたステパノが最初の殉教者になりました。エルサレムで、教会を快く思わない人達によって捕らえられて、石で打ち殺されたのです。血を流して死んだのです。そこでパウロ、その時には「パウロ」という名前でなくて「サウロ」という言葉で、名前で記されていますけれども、サウロはステパノが殺されることに賛成したとはっきり書いてあります。人殺しに賛成したのです。キリスト者を殺すことに賛成した。それどころでないのです。ここに記されているように、その後、教会を迫害して歩いたのです。生まれたばかりのキリスト教会をぶっ潰すというグループの先頭に立ったのです。とっ捕まえて牢に放り込む、キリスト者なんか殺されてしかるべきだと思っていた人です。

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特別礼拝のお誘い

6月14日(日)
午前10時30分~

昨年末、ドイツから帰国した当教会の鴨下直樹牧師が、「ドイツ教会音楽と聖書」というテーマで初めての方にもわかりやすく、礼拝でお話をします。

どなたでもご自由にお越し下さい。 お子様も大歓迎です。

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[お問い合わせは・・・]
岐阜市芥見南山1-8-8
Tel . 058-243-5798

教会コンサートのお知らせ

6月14日(日) 14:00~
芥見キリスト教会 新会堂3周年を記念し、
犬山国際交流合唱団を招いて演奏会を開催します。

2008年にドイツ・ライプツィッヒ・トーマス教会にてバッハ墓前コラール演奏を行なった犬山国際交流合唱団(常任指揮者:赤塚 尚武)が当教会にやってきます。

入場無料です。 どなたもご自由にお越し下さい。