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・説教 「神を待ち望め」 詩篇42篇、43篇

本日は、子ども祝福礼拝でした。

鴨下直樹

今日は先ほど、子どもの祝福の祈りをいたしました。芥見教会では毎年この季節になりますと、子どもの祝福を祈る礼拝をしています。そのためにこの礼拝には子どもたちの姿がいつも以上に見られます。

この子どもの祝福礼拝で共に聞きたいと思った御言葉がこの詩篇第42篇と43篇です。この詩篇は本来二篇が一つの詩篇であったと考えられています。ここには三度にわたって「神を待ち望め」という言葉が繰り返されています。今日、私がこの礼拝にお集いになったみなさんに知ってほしいことは、この言葉に尽きるのです。神に期待し続ける心を、いつまでも忘れないでいただきたいということです。

先週の金曜日、はじめて山田さんのお宅で家庭集会をいたしました。その集会の最初に山田さんは「家の教会というものを大事にしていきたい」と言われました。それぞれの所に立てられている家は、主の教会であるということを忘れないでいたいということです。パウロの伝道も、多くはそれぞれの家庭を教会としてきました。ですから、言ってみれば各家庭が教会であるという理解は、教会が誕生した時の最初の姿であったということができます。それぞれの家庭の中で、主が働いておられるということを覚えることは本当に大事なことです。家庭のなかで主に期待する心が常に育っていくからです。 続きを読む ・説教 「神を待ち望め」 詩篇42篇、43篇

・説教 「言葉にならないものを聞き、見えないものを見る信仰」 詩篇19篇

鴨下直樹

⇒ 音声を聞く(MP3)

 昨日のことです。毎月第一土曜日には、教会で「ぶどうの木」という句会が行われています。昨日は牧師をしておりました私の父である鴨下わたるも参加いたしまして、短く御言葉から説教をいたしました。「見えないものと、見えること」という題で、ヘブル書11章1節の「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」と、3節の「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」という御言葉から話されました。その句会で、江崎成則(しげのり)先生という名古屋から指導に来てくださっておられる方が、この説教を聞いたあとに、興味深い話をしてくださいました。「いま、信仰は見えないものを見ることだと話をしてくださったけれども、俳句でもまったく同じことで、句に詠まれた、見えないものをいかに詠むかということが、私には一番興味のあるところだ」と言われたのです。句の中で全部を語ってしまわないで、そこにある見えないものを詠むことが俳句の楽しみということなのでしょう。私はこの江崎先生のお話を聞きながら、まさに今日の詩篇を読む楽しみもそこにあると思わされました。

 

 この詩篇19篇は詩篇の中でも良く知られた箇所です。特に、最初の1節の言葉に、多くの人が心惹かれるようです。 続きを読む ・説教 「言葉にならないものを聞き、見えないものを見る信仰」 詩篇19篇

新会堂3周年感謝祭のお知らせ!!

 

どなたでもどうぞ☆
どなたでもどうぞ☆

11月3日(火・祝日)

午前の部 10:30~12:00

午後の部 13:30~15:00

芥見キリスト教会で「新会堂3周年感謝祭」を開催します!!

 

《全て無料》

昔懐かしい唱歌(もみじ、赤とんぼなど)や賛美歌をみんなで唱う会♪

おいしい手作りケーキやコーヒー・紅茶を満喫できるカフェコーナー

エプロンのあちこちからお人形が出てくるエプロンシアター(もちろん全て手作り☆)

パッチワークや俳句などを展示したコーナー

イベント盛りだくさん!!

 

どなたでも自由にお越し下さい☆お子様も大歓迎!!

→ちらし(pdfファイル)はこちら

・説教 「羊飼いなる主イエス」 詩篇23篇

鴨下直樹

 この朝は召天者記念礼拝です。この日は教会の暦では昔から「諸聖徒の日」と言ってきました。特にカトリック教会の伝統ということになりますが、それぞれの日には聖何々の日というのが一年の間全ての日に定められています。この日には、それぞれの聖人の亡くなった日を祝うという習慣があります。その中でも有名なのは、聖バレンタインの日であるとか、聖ニコラウスの日というのがあります。この聖ニコラウスの日というのは、一般ではサンタクロースの日と言われている日で、これは12月25日と考えられているようですけれども、本当は12月6日だったと思います。

 私がドイツの神学校におりました時に、毎年この日になりますと、聖ニコラウスの祭りを神学生たちと共にお祝い致しました。学生たちは夕食を食べ終わった頃ぞろぞろと寮から出てきまして、みんなの手には「ファッケル」と呼ばれる「たいまつ」を持って、神学校の教授や先生たちの家を訪ねます。そこで、聖ニコラウスの歌をみんなで歌いますと、先生たちが学生たちにお菓子などを渡してくれるのです。本当は子どもの習慣なんですけれども、学生も先生たちもこの日になりますと本当に楽しんでいました。

 そのように、古くからある教会の暦では、毎日が誰かの聖人の日として割り当てられておりました。けれどもあまりにも多くなってしまったということもあって、「全聖徒の日」としてまとめてお祝いしようということになりました。そしてこの日が「諸聖徒の日」と呼ばれるようになったのです。

 少し余談になりますけれども、昨日はハロウィンと呼ばれる日でした。これも、本当はお化けのようなカボチャを飾る祝いの日ではありません。 続きを読む ・説教 「羊飼いなる主イエス」 詩篇23篇

・説教 「ご聖霊について」

本日は、名古屋市にある神の倉教会のベルナス・カーステン宣教師が礼拝説教をしてくださいました。

 

今日の説教はご聖霊についてです。クリスチャンの信仰のためにとても大切なことですが、分かりやすいテーマではありません。聖書はたくさんの箇所で、ご聖霊について語っています。旧約聖書と新約聖書の両方に、神様のみたまについての記事があります。 

創世記1章2節には「神の霊が水の上にうごいていた」と書いてあります。

また、旧約聖書はダビデについて、次のように書いています。

「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。」(サムエル記第一16章13節)。 

たぶん、みなさんはご聖霊についての記事を聖書のあちこちで読むことがあるでしょう。しかし、「それらは、ご聖霊はだれだろうか」とか「ご聖霊の目的はなんだろうか」という疑問にはなかなか答えてくれないでしょう。 

クリスチャンの信仰の基本的な真理は、三位一体の教えです。

聖書の神様はお一人で、はっきり、ちがう三つの別個の人格が認められます:父なる神様、御子イエス様とご聖霊です。 父なる神様、御子イエス様とご聖霊を特徴によって、わけることはできません。三位一体の神様のみ心と個性はお一人です。三位一体の神様には父なる神様、御子イエス様とご聖霊が存在しておられますが、言葉で全てのことを説明することはできません。しかし私から見て、父なる神様と御子イエス様はご聖霊より分かりやすいテーマだと思います。 

父なる神様はこの世を創造して下さった方です。人間は自分のお父さんを思い出すことによって、父なる神様を想像することができます。もちろん、それ以上に、聖書の神様はとてもよいお父さんです。

御子イエス様は私たちの罪のために死んで下った方です。主イエス様はこの世に住んでおられました。人間になって、人間の生活をされました。ですから、私たち人間はイエス様をも想像することができます。

では、ご聖霊とは、いったいだれでしょうか?  続きを読む ・説教 「ご聖霊について」

・説教 「新しい創造」 ガラテヤ人への手紙6章11節-18節

鴨下直樹

 私たちは半年にわたり、創世記の御言葉を聞き続けてきました。この朝は、これまでの創世記の前半を振り返りながら、もう一度、御言葉に耳を傾けたいと思います。

 それで、この朝私たちに与えられている聖書のテキストは、パウロがガラテヤの人たちに宛てた手紙の最後の部分で語られている「大事なのは新しい創造です」という言葉です。新共同訳の聖書では「大切なのは、新しく創造されることです」となっている言葉です。

 何度もお話しておりますけれども、今、水曜日と木曜日の祈祷会で「パウロ伝」を学び続けております。先回は、パウロが三度の伝道を終えた後エルサレムに戻りまして、そこでユダヤ人たちに捕えられてしまうところまでを学びました。使徒の働きの21章27節から36節に、その時の出来事が記されています。

 パウロは、アンテオケの教会からつかわされ、イスラエルにありますシリアから、キリキア、パンフリア、ガラテヤを通ってピリピやテサロニケのある海の向こうのマケドニヤ、さらにコリントやアテネなどのあるアカヤ地方、そして、エペソ、コロサイなどのあるアジアなどのローマの属州を次々にわたって伝道いたします。その期間にいくつもの教会を建て上げて行きました。これらの国々は、もちろんイスラエル人たちの国ではありませんから、ユダヤ人たちが異邦人と呼んだ人々に福音を語り続けていったのです。そこで、パウロはこの異邦人たちに対しては、ユダヤ人のように、聖書の戒めに従って生きるのではなく、主イエスへの信仰に生きることが大切だと語り続けていきました。

 ところが、パウロが伝道すると必ずそこに、ユダヤ人のパウロの教えに反対する人々が現れます。この人々はエルサレムの教会で信仰をもった人々も中にはいたのでしょう。このユダヤ人のキリスト者たちというのは、パウロは、モーセの律法を軽んじていると、常につきまとってまいりまして、パウロの伝道の妨害をするのです。 続きを読む ・説教 「新しい創造」 ガラテヤ人への手紙6章11節-18節

・説教 「神の選び」 創世記11章10節-32節/エペソ人への手紙1章3節-14節

鴨下直樹

 私たちはともに、創世記から主の御言葉を聞き続けてまいりましたけれども、その創世記の学びも今朝で最後になります。創世記からの説教の初めにお話ししたように、創世記は大きく分けると二つに分けられます。この1章から11章までの歴史以前と呼ばれる部分と、12章からはじまる信仰の歴史の部分とにです。そして、今朝がその前半部分の最後にあたるわけです。

 そしてこの朝、私たちに与えられた御言葉はこの系図が記されたところです。この創世記にもすでにこのような系図がでてくるのは二度目になります。最初は創世記第五章にアダムからノアまでの系図が載っておりました。また、系図ではありませんけれども民族表と呼ばれるものが、10章にもありました。礼拝で聖書朗読をする方は、こういう沢山の馴染みのない名前ばかりを読まなくてはならないというのは、少し気の毒な気もしますけれども、お聞きになった皆さんも、聞きながら一体ここからどういう説教をするのかと楽しみにしておられたかもしれません。創世記第5章の系図ではアダムから始まってこの創世記に名前の出て来た、言って見れば知られた名前がありますから、まだ何とかなりそうなものだけれども、この11章の系図はテラの系図とあって、最後のアブラムの名前が出るまで何も知った名前がない。そのようなところから一体何が語り得るかと考えるのではないかと思うのです。と言いますのは、ご自分で聖書をお読みになる時にも、こういうところは何となく読むけれどもそれほど重要ではないように思えてくるからです。

 先ほど、創世記第10章の民族表の話を少ししました。この10章の21節からは、セムの家系のことが記されております。丁寧に、この11章の系図と名前を比べて読んでいくと面白いのですけれども、特に25節にこう記されています。 続きを読む ・説教 「神の選び」 創世記11章10節-32節/エペソ人への手紙1章3節-14節

・説教 「バベルの塔 ー 言葉の届く喜びー 」 創世記11章1節-9節

鴨下直樹

 私事で始めて大変恐縮なのですが、今週でドイツから帰国して一年が経ちました。時々、こんな質問を受けることがあります。 「日本に戻って来て何か違いがありますか?」というものです。その度に、私は心の中で思うのは、「日本は言葉が通じるからいい」という思いです。まだ、私たちがドイツで生活し始めて間もない頃の事ですけれども、通っていた教会のお年寄りの方々が、言葉がまだあまりできない私たちに向かってこう言ったことがあります。「バベルの塔のせいで言葉が通じなくなってしまったのは残念ね。だけど、天国では十分に話し合うことができるから楽しみだわ。」と。 もちろん、三年半という期間ドイツに住んでおりましたので、最後の方はだいぶ苦労もしなくなってきましたけれども、十分とは言えません。けれども、言葉が通じるという経験は、本当に大きな喜びとなりました。 ですから、こうして日本語でお互いにストレスなく話すことができることは、私にとって本当にありがたい事です。けれども、同じ日本語を使いながら、普段からよく話していても、言葉が通じるとは言えないということも同時に考えさせられています。 続きを読む ・説教 「バベルの塔 ー 言葉の届く喜びー 」 創世記11章1節-9節

・説教 「Gift3 心を神に注ぎだして」 ルカ福音書16章1節-18節

 

鴨下直樹

 この9月に入りましてから、Giftというテーマで三回のメッセージをしておりますけれども、今日はその最後の三度目になります。私たちは神さまからどのように大きなギフト、贈り物を頂いているかということについて御言葉から聞き続けております。

 今日は三回目ですから、少し違った角度からまたこのギフトについて考えてみたいと思っているのですけれども、私たちはこの聖書から二度にわたってどんなに素晴らしい贈り物を与えられているかを学んできました。それは、この神からの贈り物は、聖書を通して与えられるということを同時に意味していたということができます。つまり、聖書をどのように読むかということと、私たちが神様から頂いた贈り物、ギフトを用いて生きることとは非常に深く関わりあっているのです。

 

 聖書をどのように読むかということについては、主イエスがおられた時代にもさまざまな読まれ方があったようです。 続きを読む ・説教 「Gift3 心を神に注ぎだして」 ルカ福音書16章1節-18節

・説教 「Gift2 使って嬉しい贈り物」 マタイ25章14節ー30節

鴨下直樹

 先週からギフトというテーマで、私たちはどのような神からの贈り物を頂いているかについて考えてみたいと思っています。今朝はその二回目になりますけれども、一回目は「貰って嬉しい贈り物」という題をつけました。そして今朝、「使って嬉しい贈り物」という題です。プレゼントというのは、貰ったら喜ぶということはよくわかりますけれども、「使って嬉しい」というのはどういうことでしょうか。よく考えてみますと、実際に私たちが誰かにプレゼントを贈る時というのは、本当に相手のことをよく考えながら、何が喜ばれるかを考えてプレゼントを贈るのではないかと思います。そして、これを送ったら、実際に使ってもらえるかどうかを考えて贈るのではないかと思うのです。

 今回のテーマは先週もお話しましたけれども、私が青年会のキャンプに行ったときのメッセージのテーマでした。このキャンプでは、ギフトというテーマにサブタイトルとして「わかちあうよろこび」と書かれていました。このキャンプで言おうとしているギフトというのは、自分だけの物にして喜んでいるのではなくて、誰かと分かち合うんですよということを知ってもらいたいと願ったためです。けれども、少し考えてみますと、このサブタイトルは聞いて少し変だと思いませんでしたか? ギフトというのは貰って嬉しい物であって、せっかく貰ったものを他の人にあげてしまったら、プレゼントを贈ってくれた人に失礼になってしまいます。 続きを読む ・説教 「Gift2 使って嬉しい贈り物」 マタイ25章14節ー30節