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今月の礼拝予定(2017年9月)

9月3日 三位一体後第12主日

主日主題: 宣教
聖餐式礼拝: 午前10時30分
聖書: テモテへの手紙第二 1章6-8節
説教:ドイツ・アライアンスミッション代表 トーマス・シェヒ師
子ども:「ダビデ王~振り返り」村上進
聖餐式

午後:役員会

9月10日 三位一体後第13主日

主日主題: ファミリー礼拝「聖書が語る愛」
合同礼拝: 午前10時30分
聖書: コリント人への手紙第二 2章10節
説教:「聖書が語る愛」 鴨下直樹牧師
子ども:(合同)

午後:聖歌隊練習(14時~)、手話講座(15時~)

9月17日 三位一体後第14主日

主日主題: 癒し
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書1章29-39節
説教:「シモンの思い」 鴨下直樹牧師
子ども:「ダビデ、神の箱をエルサレムに運ぶ」鴨下愛

午後:礼拝準備会/月間予定確認会

9月24日 三位一体後第15主日

主日主題: 教団の日「憧れ」
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書1章40-45節
説教:「憧れを失わず」 鴨下直樹牧師
子ども:「ソロモンの知恵」河合和世

午後:教団の日(於:岐阜教会)

・説教 マルコの福音書1章21-28節「礼拝の起源」

2017.08.13

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 先週の11日にデイキャンプが根尾山荘で行われました。今回、教団の教会全体に案内を出したのがはじめてということもあったのですが、スタッフ合わせて90名の参加者がありました。芥見からも沢山の方が参加してくださり、また、助けていただいてとても感謝でした。キャンプの間、雨も時々パラパラと降りましたが、予定通り何とかバーベキューはすることができました。残念ながらその後で雨が降り始めてしまいましたので、キャンプファイヤーは食堂で行いました。

 ですからもちろん、火はないわけですが、そういう気持ちで、最後の集会を行ったわけです。けれども、子どもたちを合わせて90人というのはなかなかの人数です。Oさんが手品をしてくださり、Mさんが司会をしてくださり、とても楽しい時となりました。このキャンプファイヤーの最後に伊藤牧師が「礼拝」をテーマにメッセージをしてくださいました。そこで、あるカトリックの司祭の言葉を紹介してくれました。「礼拝とは遊びである」。その司祭は礼拝のことをこう表現したというのです。伊藤牧師のメッセージを聞く中でそれがどういう意味なのかが少しずつ分かって来たのですが、それは、「夢中になるほど楽しいこと」という意味だったようです。

 礼拝は夢中になるほど楽しい。そんな言葉を聞くと、ちょっと首をかしげたくなるかもしれません。それはどういうことなのでしょうか。今日の聖書の箇所にその答えがあります。今日の聖書は、主イエスが最初に会堂を訪れたことが記されている箇所です。その様子を少し注意深く見て見たいと思います。

それから一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。

と21節にあります。「一行」というのは主イエスと弟子たちのことです。主イエスの弟子となったばかりの人たちがこの中に含まれていたはずです。主イエスとともに歩むようになって最初の安息日を迎えました。

 安息日というのは、この時代のイスラエルの人々にとってとても大切な日でした。仕事を休んでその日は、会堂に行って聖書の教えを聞く日、それが安息日の過ごし方と考えられていました。弟子になったばかりのシモンやアンデレ、ヨハネやヤコブがその前の週までどのように過ごしていたかは分かりません。ただ、この日は主イエスと一緒に会堂に出かけます。そして、おそらくそこで初めて聖書を解説する主イエスの説教というのを聞いたのです。
続きを読む ・説教 マルコの福音書1章21-28節「礼拝の起源」

・説教 マルコの福音書1章16-20節「漁師イエス」

 

2017.08.06

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 いつも、夏になりますと、私たちの教会では信徒交流月間ということで、水曜日と木曜日の祈祷会の時に、信徒の方々が証をするときとなっています。今年も、水曜日にはTさん、木曜日にはYさんがそれぞれ証しをしてくださいました。両方合わせて20名以上の方々が出席くださいました。

 水曜日にTさんは、イザヤ書52章7節の「良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことよ」のみことばから、誰もが自分に福音を伝えてくださった人がいるはずというところから話してくださいました。お話を聞きながら、改めて、自分に福音を届けてくれた人は誰だっただろうかと思いだしながら、またお話を聞いた後で、自由に語りあう機会を持ちました。木曜日のYさんは、ご自分の若いときから今に至るまでの信仰の経緯をお話しくださいました。この日もまたその後で、みなさんYさんの証に刺激されて、自分はどのように信仰に至ったかという話しをしてくださいました。

 救いの証というのは、人によってはもう何回か聞かせていただいた方もありますけれども、何度聞いても、自分がどのように救いに導かれたのかという話しを聞く時というのは、嬉しい時です。そして、毎回思わされるのは、誰もがみなそうですけれども、主イエスとの出会いを通して、変えられていくのだということを改めて覚えさせられるのです。

 今日の箇所もそうです。いよいよ、ここからは、主イエスの伝道の姿が具体的に記されているところです。そして、ここで何が書かれているかというと、シモン、アンデレという漁師であった兄弟と、またヤコブとヨハネという漁師の兄弟が主イエスの弟子になったということが記されているわけです。伝道の旅を始めるにあたって、主イエスは、まず初めに、一緒に旅をする仲間をお集めになられたわけです。
続きを読む ・説教 マルコの福音書1章16-20節「漁師イエス」

今月の礼拝予定(2017年8月)

8月6日 三位一体後第8主日

主日主題: 漁(すなど)る
聖餐式礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書1章16-20節
説教:「漁師イエス」 鴨下直樹牧師
子ども:「エペソでの宣教」鴨下愛
聖餐式

午後:役員会

8月13日 三位一体後第9主日

主日主題: 礼拝
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書1章21-28節
説教:「礼拝の起源」 鴨下直樹牧師
子ども:「ローマへ」鴨下愛

午後:愛餐会(流しそうめん)、聖歌隊練習(14時~)、手話講座(15時~)

8月20日 三位一体後第10主日

主日主題: 聖
公同礼拝: 午前10時30分
聖書:
説教:川村江弥師
子ども:合同

午後:

8月27日 三位一体後第11主日

主日主題: 創り主
合同礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨナ書2章8-10節
説教:「宣教の港」 田中啓介師
子ども:合同

午後:

・説教 マルコの福音書1章14-15節「時が満ちた!」

 

2017.07.23

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 私たちが聖書を読む時に、いくつもの驚きを発見します。私自身、今水曜日と木曜日の祈祷会で、このマルコの福音書を先立って一緒に読み進めています。そこでは礼拝ではほとんど語れない細かな所まで丁寧に学びながら、みなさんと一緒に考える時を持っています。そこでとても嬉しく思うのは、参加しておられるみなさんが本当によく聖書を理解する力を持っているということです。ところが、そうやってとても丁寧に聖書を学びながらも、このための説教の原稿を整える時には、さらにその時の何倍もの驚きを発見するのです。ですから、祈祷会で学んだとおりに説教するということには不思議とならないわけです。それほどに、聖書の言葉には深みがあるのです。

 ここで、「ヨハネが捕えられて後」と書かれています。何故ヨハネが捕えられることになったのか。その経緯についてはマルコの福音書の6章まで待たなければなりません。けれども、ヨハネはこの時代、非常に大きな影響力をもっていました。6章を読みますと、ヘロデ王自身、「ヨハネを恐れて保護を加えていた」と書かれているほどです。ただ、荒野で騒ぎ立てている薄汚れた預言者というようなことではなかったのです。

 そのヨハネが捕えられる。たいていの場合、そこで何を考えるのでしょうか。ヘロデに一目お置かれていたヨハネでさえ捕えられてしまうのであるなら、逃げた方がいいのではないかと考えるのが普通です。ですから、つづいて記されています「イエスはガリラヤに行き」という言葉をそのように理解した人たちが少なくなかったのです。主イエスはヨハネが捕えられて、自分も危ないと思って、ガリラヤ、つまり自分の故郷に帰った。そうして、故郷で人知れず、こっそり伝道を始められた・・・。マルコの福音書の書き方はそのように読まれても仕方がないような書き方です。あまりにも、説明不足なのです。けれども、そのように読んでしまうと、どうしてもつづく主イエスの言葉の響きが暗くなってしまいますから、そうは読めないわけです。
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子育て支援プログラム「ノーバディズパーフェクト」開催のお知らせ

2017_NP

  • 2017年 9月6日~10月11日
    午前10:00~12:00
    (全6回、毎週水曜日)
  • 参加費: 無料
    (茶菓代のみ 1回につき200円)
  • 託児あり(子育て経験ママボランティアが、
    生後4ヶ月のお子さんからお預かりします)
  • 定員: 10名
    ※申込締切 8月末まで
  • 進行: NPジャパン認定ファシリテータ(NPO法人子ども家庭リソースセンター所属)
    山田 茜/鴨下 愛

・説教 マルコの福音書1章12-13節「荒野に立つ主」

2017.07.16

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 今年は、宗教改革500年の記念の時です。それで、私たちの教会では今年の10月に4日間に及ぶ、連続講演会を計画しています。先週そのチラシができました。本当に、よいチラシが出来たと思っています。宗教改革とは何か、それが、私たちにどのような救いをもたらしたのか、宗教改革の祝福は今の私たちの生活にどんな影響を与えているのか、様々な視点や切り口で6人の講師から話を聞きたいとおもっています。

 明日、私が教えております東海聖書神学塾で、毎年この海の日に、古本のみのいちを開催しています。どういうわけか、私がその担当をしているのですが、ただ、古書を買うためだけに名古屋まで出て行きたくないので、何か講演をしてほしいと頼まれて、昨年から一時間ほど、講演の時を持っています。それで、明日は、宗教改革者ルターについて、お話をしたいと思っています。それで、先日もキリスト教書店に行きまして、何か良い本はないかと探していましたら、今年、宗教改革記念と合わせて「ルター自伝」という小さな本が復刊しておりました。思わず買いそうになったのですが、この本をすでに持っていることを思い出して、買わずに帰りました。時々、こうやって、すでに持っているのと同じ本を買ってしまうことがあるので、そういう本を古本のみのいちに出すわけです。いかに自分の書庫の管理ができていないかということでもあるかもしれません。

 この「ルター自伝」というのは、ルターが自分で自伝を書いたというより、「卓上語録」と日本語では言いますけれども、ルターがテーブルを囲んで仲間たちと談話をした会話が記録されていました。その中から、自伝と言えるエピソードを集めて編集されたものです。この本の中に、「誘惑」という項目があります。ルターが修道士の頃に、この誘惑といつも戦っていたのは大変よく知られた話です。まだ、修道士のころですから、カトリックの信仰に生きていた時です。カトリックには今でもそうですけれども、「告解」とい、罪を告白して教会の中につくられた小さな部屋のなかで、「聴く罪」と書きます、「聴罪師」に罪を聞いてもらうわけです。

 ルターは恩師であったシュタウピッツ博士と呼んでいる人に、何度も告解をしていました。ルターが誘惑と感じていたのは何かというと、性的なことではなくて、「自分の罪を裁かれるのは神である、ならば、神は罪人の敵ではないか」という疑問がいつも頭に思い浮かぶからでした。そのつど、シュタウピッツは、「そんなことで悩んでいるのはお前だけだ」といつもルターをあしらい続けていました。シュタウピッツがどう応えてもルターは納得することができません。それでも、ルターは来る日も、来る日も同じ誘惑を感じるたびに、シュタウピッツに告解をすると、ついに、シュタウピッツはこう答えます。「あなたは愚か者だ。神があなたに怒っているのではなく、あなたが神を怒っているのだ」と。ルターはこの言葉によって、それまでのカトリック教会の教えに対して怒りを覚えていたことの気づきとなっていったのでした。
続きを読む ・説教 マルコの福音書1章12-13節「荒野に立つ主」

・説教 マルコの福音書1章9-11節「主イエスの洗礼、私たちの洗礼」

2017.07.09

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 先週の木曜日から今日まで名古屋にあります東海聖書神学塾の塾生の方々が伝道実習ということで、この芥見教会にきてくださっています。先ほども神学生の方々が、「聖書のおはなし」と、証しをしてくださいました。今日までの四日間、教会のさまざまな集会で奉仕してくださり、また、教会に集っておられる方々と交わりの時をもってまいりました。昨日もある方が、キャンプをしているみたいで楽しいと言ってくださいましたが、本当に楽しいひと時となっていて感謝です。金曜日の夜は、長良川の鵜飼いを何人かの方々と、神学生たちと一緒に観ることが出来ました。とても良い天気で、岸辺に皆で座りながら、鵜飼を観ながら、お弁当を食べて、楽しいひと時となりました。今は、鵜飼のシーズンですから大勢の観光の方々も船に乗って鵜飼い見学をしたり、私たちと同じように岸から鵜飼を見学しておられる方もおられました。長良川の岸辺で、こんなに綺麗に鵜飼が観られるのだということを、私は知りませんでした。もう、岐阜に来て10年目を迎えようとしていますけれども、改めて岐阜というのは良い街だなぁと知らされた思いです。

 そんな長良川の余韻にひたりながら、今日出てきますヨルダン川はどんなところだったのだろうと色々と想像してみました。ヨルダン川と言っても長い川です。このマルコの福音書でも、他の福音書でもそうですけれども、ここで洗礼を授けていたバプテスマのヨハネが、ヨルダン川のどこで授けていたのかまでは書いていません。今は便利になりまして、インターネットの地図で、今の様子を航空写真でみることができます。ヨルダン川の周辺はどこをみても緑が豊かですから、きっと、当時も水が豊かな川であったのかと想像することはできます。ただ、バプテスマのヨハネは「荒野に現れた」と4節にありますから、緑豊かな森というようなところではなくて、豊かな水の流れている荒野の地区だったのでしょう。岐阜のように観光地になっているわけでもありませんが、その荒野の川に、当時大勢の人々が集まって来て、ヨハネから洗礼を受けました。その時の様子は長良川のように山に囲まれているわけではなかったと思いますけれども、大勢の人たちが集まって来るなかで、洗礼を受けている姿というのは、きっと鵜飼いを観るよりも感動的な光景であったのではないかと想像することができるわけです。

 先週もお話ししましたけれども、このバプテスマのヨハネの授けた洗礼は罪の悔い改めのバプテスマということですから、多くの人々は、真剣に自分の生き方について何とかしたいと考えていたということです。そして、ヨハネの言葉に耳を傾けて、洗礼を受けたのです。自分の人生を変えたい、新しくしたい。そのような人の思いは真剣であるはずです。マルコは、この福音書に主イエスを登場させるに先立って、そのように真剣に生きることを考えていた人たちがいたことを書き記すことから始めました。そして、イザヤの預言の言葉に応えるように、神はその道をこの世界にお示しくださったのだとまず初めに書いたのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書1章9-11節「主イエスの洗礼、私たちの洗礼」