2017 年 1 月 29 日

・説教 詩篇42、43篇「谷川を慕う鹿のように」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:42

 

2017.01.29

鴨下 直樹

 
 もう何年も前のことですが、岐阜の白川郷の近くで学生会の長期キャンプに行きました。その時に渓谷を散歩したことがあります。深く切り立った谷間を苦労しながら降りていくと、本当に川とは呼べないほどの僅かな水が流れているところに出ました。その谷間を歩いていると、崖の上から勢いよく黒い塊が落ちて来ました。何かと思って身構えるとニホンカモシカでした。私はニホンカモシカをはじめて見ましたのでびっくりしました。色の黒い角の短い鹿が突然目の前に現れたのです。私もびっくりしたのですが、鹿もびっくりしたのでしょう。慌てて今降りて来たばかりの谷をまた登って行ってしまいました。時間にしてほんのわずかな間の出来事です。その時とっさに、この詩篇の冒頭の言葉を思い出しました。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」

 とても印象的な言葉で始まる詩篇です。情景をよく描くことができます。私は目の前で起こった出来事を見ながら、水を求めて谷を降りて来た鹿も、まさにここに書かれているように命がけなのだということを思い知らされました。あの谷間に降りていけばそこには必ず水がある。鹿が身の危険を冒してまでもそうせずにいられないのは、生きるのに水が必要不可欠だからです。そして、私たちにもまさにそのように、神が必要なのだということに気づかされるのです。

 けれども、普段、私たちはそれほどまでに神を求めなくても何となく生きていけるということを繰り返しているうちに、どこかで、神はいつでもそこにあって、自分が必要になったらいつでも神を呼び出せるなどと考えてしまっているのかもしれません。そんなことを考えさせられる詩篇です。

 この詩篇42篇の前に第二巻と書かれています。詩篇はここから新しい巻物になります。そして、この詩篇第二巻はエロヒーム詩篇と呼ばれています。エロヒームというのは「神」というヘブル語です。第一巻は主の御名である「ヤハウェ」という言葉で主が語られていたのですが、ここでは「神」という名前に抽象化されているわけです。この42篇と43篇はもともとひとつの詩篇であったと考えられますので今日はまとめてここから主のみ言葉を聞きたいと思います。この詩篇の表題は「コラの子たちのマスキール」。どうも、このコラの子というのは神殿の礼拝で賛美を歌う役割を担っていたようで、「マスキール」というのは「教訓歌」というような意味があります。しかし、内容は非常にダビデの詩篇のような特徴があります。私はダビデによるものではないかと感じます。

 この詩篇の詩人はどうも大きな悲しみの中にいたようです。3節には「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。」と言っています。子供の頃には泣き虫だと言われたことがある人もいるかもしれませんが、大人になるにつれて人はだんだん泣かなくなります。できるかぎり泣かないですごせるように生きているわけです。泣かないで生活できるということはある意味ではとても幸いなことです。ですから私たちにとって「昼も夜も涙が私の食べ物」というような経験はあまり味わうことはないかもしれません。けれども、この言葉に言い表されているような心の渇きということは理解できるのではないかと思います。 (続きを読む…)

2017 年 1 月 22 日

・説教 詩篇37篇「比較からの自由」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:23

 

2017.01.22

鴨下 直樹

 
 毎年、新しい年を迎えますとカレンダーを新しくします。何人かの方は星野富弘さんのカレンダーを使っておられる方もおられると思います。星野富弘さんは、もともと中学校の体育教師でしたが、指導中の事故で頸椎を損傷し、体が不自由になってしまいました。動かせるのはごくわずかです。ところが、体の自由が奪われてから、彼は口に筆をくわえて絵や詩を書き始めます。そして、その絵や詩は多くの人の心を慰める作品としてとても親しまれています。この星野富弘さんがまだ入院して間もなく、同じ怪我で入院した中学生のター坊という少年と出会います。そのことが星野さんの本の中に記されています。星野さんは、このター坊のことをずいぶんかわいがっていたようで、ター坊の回復のために祈る気持ちでいたそうです。そして奇跡的にター坊が回復して、腕や足が動くようになります。

 ところが、そこから星野さんの気持ちの中に変化が生まれます。そのことがある本の中に書かれています。こんな言葉です。「私は心の中でどうしようもない寂しさが芽生えてくるのを認めないわけにはいかなかった。みじめなことだけれど、それはター坊への嫉妬であった。神に祈るような気持であれほどター坊の回復を願っていた私なのに、奇跡のようにター坊のからだが動き始めたときから、ター坊を見つめる私の目には、小さな影ができてしまった。『喜べ。ター坊の回復を、一点の曇りなく喜べ。お前はそれほどみみっちい男ではないはずだ。』私は叫ぶように自分に言い聞かせた。」

 同じ病を抱えながら、ある人は癒され、ある人は癒されない。心の中に複雑な気持ちが生まれます。それは、人と自分を比較するところから始まります。人と比較することから生じる悩み、苦しみ、これは、私たちが誰もが毎日のように味わう経験です。

 今日の詩篇は少し長い詩篇です。二節ずつ区切られていまして、ひとまとまりの詩篇というよりも、箴言のような散文的な文章が続いています。これはアルファベットの詩篇で二節ずつ頭文字がアルファベット順に並んでいる詩篇です。しかも、内容は先生がまるで教えているかのような響きがあります。そして内容を見てみますと、「悪者」と「正しい者」との対比です。比較しているわけです。しかも、この詩篇を読んで気づくのは、「悪者」、つまり「神を敬わない者」は栄えているという現実が突き付けられているわけです。神を信じているものが、成功して、神を信じていないものがうまくいっていないというのなら話は分かりやすいのですが、ここではそうではありません。

 冒頭にこう記されています。

悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対して妬みを起こすな。

このような言葉を聞いて、素直に、納得できるでしょうか。先日も祈祷会である方が、改まって、「悪いことをしてくる人に対して腹を立ててはいけないんでしょうか?」と尋ねられました。みなさんはどう思われるでしょうか。 (続きを読む…)

2017 年 1 月 15 日

・説教 詩篇36篇「あなたの恵みは天にあり」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:25

 

2017.01.15

鴨下 直樹

 
「罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない」という言葉で、この詩篇ははじめられています。「悪者」と言う言葉がこの詩篇の冒頭に出てきます。「悪人」と聞くと、「物凄く悪い奴」とすぐに頭の中で置き換えてしまいがちですが、「神を敬わない者」という意味の言葉です。罪が人の心に語りかけると書かれています。「神のことなんか考えなくていい」と。神など恐れなくてもよい。どうせ神などいないのだから。何をやったって誰にもわかりっこないのだから。ひょっとすると私たちは毎日、色々な生活の場面でそういう心の葛藤を感じているのかもしれません。あるいは、そんな声も気にならないほどに、神に心を向けないことが当たり前になってしまっているかもしれません。

 この詩篇は、冒頭で、まさに人の罪の本質に目を向けさせています。2節の言葉は少し翻訳が難しいために分かりにくい言葉になっていますが、他の聖書、新共同訳聖書では

自分の目に自分を偽っているから、自分の悪を認めることも、それを憎むこともできない。

となっています。自分の罪に気付かなくなってしまっている。もう当たり前になってしまっていて、自分の悪い部分に気づかなくなってしまう。ここに、罪の恐ろしさが描き出されています。自分の心を偽りすぎて、無感覚になってしまうというのです。

 先週、成人式が各地で行われました。毎年、ニュースになるのは、新成人たちが各地で起こした「悪ノリ」と言ったらいいのでしょうか。お酒を飲んで、酔っぱらって注目を集めようとして、警察に取り押さえられるニュースが毎年毎年、変わることなく繰り返されます。お酒を飲んで、気持ちが大きくなって、だんだん悪いことをしている自覚がなくなっていく。まさに、それに似ているのかもしれません。

 「罪」というのは、私たち、すべての人間の心の奥底に潜んでいます。そして、何度も何度も繰り返していくうちに、悪いことをしているという意識がなくなって、自分の罪を認めることができなくなってしまうのです。あるいは、みんなもやっていることだからという思いが働いて、普通に考えたらやってはいけないことなのにブレーキがかからなくなってしまう。お酒の力をかりて、自分勝手に振る舞うことをよしとしてしまう。ついうっかり、ということもあると思います。私たちは毎日、この悪の思いとの葛藤があります。けれども、その葛藤もブレーキが利かなくなってしまうとどんどんエスカレートしていってしまいます。3節の後半にはこう記されています。

彼は知恵を得ることも、善を行うこともやめてしまっている。

悪いことだと分かっていたはずなのに、いつのまにか知恵ある行動にでることができず、正しいことも行わず、気づくと表面を取り繕うことに心を向ける。この詩篇の冒頭の言葉は、私たちに罪とは何かということをするどく問いかけています。 (続きを読む…)

2017 年 1 月 8 日

・説教 詩篇27篇「主は私の光」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:23

 

2017.01.08

鴨下 直樹

 
 この詩篇は二つの大きく異なる内容が組み合わさった詩篇です。前半の1節から6節は「信頼の歌」とも言える神への信頼を讃える内容ですが、7節からの後半は全く逆の「嘆きの歌」となっています。神は沈黙したまま応えてくださらない。そのために、全く異なる二つの詩篇が時間の経過とともに間違って一つにされてしまったのではないかと考える人もいます。

 けれども、私たちの信仰の歩みは、まさに同じようです。ある時は心から神を信頼して神を讃えたい気持ちでいるのに、次の瞬間にはもう神がどこかにいってしまっているように感じてしまうことがあります。以前、神学校で神学生がこんな会話をしていたことがあります。「クリスチャンホームで育った神学生は、何があっても神がいなくなったりしないのに、そうではない自分は時々神がいなくなってしまうことがある。その違いは埋めようがない。」と話していました。私はクリスチャンホームで育ちましたから、その神学生の言いたいことが完全には理解できませんでしたが、言おうとしていることは分かる気がします。ひとたび、神に対する疑いの思いに捉われてしまうと、神なんかいないのではないかとさえ、思いたくなるということなのだと思うのです。0か100か。そんなふうに考えてしまうような弱さが、私たちにはあるのかもしれません。

 この詩篇27篇はとても美しいことばで始まっています。

主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。

 神を「光」という言葉で言い表す。それはよく考えてみると、聖書の冒頭から、そのように記されています。神は光を造り出されるお方です。「神は光です」と言い表したときに、そこには神がすべてのものを明らかにし、照り輝かせてくださって希望と温かさを与えてくださる。この神の「光」という性質そのものが「救い」なのだと言い表しています。とても、美しい信仰の言葉です。
(続きを読む…)

2017 年 1 月 1 日

・説教 エゼキエル書36章26節「新しい心、新しい霊」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:26

 

2107.01.01

鴨下 直樹

 
 2017年を迎えました。今年、私たちに与えられている年間聖句はエゼキエル書36章26節のみ言葉です。

わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。

 このみ言葉はドイツにありますヘルンフート兄弟団という教会が『ローズンゲン』という日々のみ言葉の冊子がこの一年のためのみ言葉として選んだものです。ドイツのヘルンフート教会が自分たちのために作ったもので、このローズンゲンが作られるようになってもう300年近い歴史があります。そして、今では世界中のクリスチャンたちがこのローズンゲンを使うようになりまして、今では50を超える言語で翻訳されているそうです。

 先ほど、年間聖句のカードをみなさんにお配りしました。とても色鮮やかなものですが、この年間聖句のカードを、ドイツでは何種類ものカードを作っているのですが、インターネットで見ることができます。見てみると、実にさまざまなイメージのカードがあります。「新しい心、新しい霊」というのをどのようにイメージするか、そのイメージの豊かさがそのまま様々な種類のカードに表れているような気がしました。私たちの教会のカードは鳩とハートがイメージされています。鳩とハート。韻を踏んでいますが、音までは絵に現わそうとしたわけではないと思います。もう一枚の黄色のカードは青く塗られた人の中を、赤色の人が歩きだしているイメージです。おそらく、神様から新しい心と霊を与えられて、今から歩み出そうとしているイメージなのだと思います。

 神様が私たちに新しい心と、新しい霊を下さるというのは、いろいろなイメージで受け止められます。この聖書のみ言葉が、私たちに与えられている年間聖句だと知って、みなさんもいろんなイメージを持たれたと思います。新しい心を与えられるという場合に、連想するのは、心を入れ替えて新しくスタートするというようなイメージがあるかもしれません。それこそ、この新しい年を迎えるにあたって、今年は新しい気持ちで、新しいことにチャレンジしたい。これまでの自分を反省しつつ、心を入れ替えて新しく歩みだそうとする。そう考えると、このみ言葉は元旦に読むみ言葉としてはとても適した聖書の箇所と言えます。神が新しい心を下さる。それはどんな心なのでしょうか。私たちのイメージは豊かに膨らみます。

 問題は霊の方です。心の方は、自分で心を入れ替えるという言い方ができますからある程度イメージを抱きやすいと思います。けれども、自分の霊を新しくするという言い方はできません。そうすると、自分の力で何とかするというようにはいかなくなります。新しい霊をいただく。それはどういうことなのでしょうか。
(続きを読む…)

2016 年 12 月 25 日

・説教 マタイの福音書2章1-12節「クリスマスの贈り物」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:31

 

2016.12.25

鴨下 直樹

 
 クリスマスおめでとうございます!今日はクリスマスです。主イエスのお誕生をお祝いする日です。今朝は、この礼拝に何人かの子供たちも一緒に集っています。私が想像するに、子どもたちの何人かは、きっと今、心ここにあらずだと思うのです。今朝、クリスマスのプレゼントを頂いて、頭の中はそのことでいっぱいになっていると思うのです。プレゼントを頂くというのはとても嬉しいものです。

 クリスマスに、私たちは互いにプレゼントを贈り合います。プレゼントを贈るときには相手に何が喜ばれるかをまず考える事でしょう。そのこと自体がまず愛のなせる業と言ってもいいかもしれません。子どもを喜ばせたい。プレゼントを贈る人に喜んでほしい。それは、あわただしい毎日の中に彩りを添えることになるのです。自分自身にも、そしてプレゼントを贈る相手にもです。だからきっと、このクリスマスの季節に、たとえ出費がかさむとしても、みな喜んでプレゼントを贈り合うのでしょう。

 その人が欲しいものを考える。相手が喜ぶことを考える。その時に必要なのは想像力です。かつて、ある哲学者が「愛することは想像力を持つことである」と言いました。相手のために何が必要か考える。私たちの贈り合うクリスマスのプレゼントにはそうした愛が詰まっているわけです。

 クリスマスの贈り物。聖書に記されているのは東方の博士たちがクリスマスにお生まれになられた御子イエスに贈った贈り物です。この博士たちは東の国で、新しい王が生まれたという星を見つけて、お祝いに駆けつけたのです。はじめに当時ローマ帝国のもとガリラヤ地方の領主であったヘロデ王を訪れます。

 このヘロデは大きな建築物を造らせて、エルサレムの神殿も再建しているまさに「大王」として知られた王でした。ですから博士たちは、そのヘロデ大王に贈っても恥ずかしくないものとして「贈り物」を準備したはずです。ところが、ヘロデ大王はユダヤに新しい王が生まれたという事実を知りませんでした。ヘロデは文献を調べさせると旧約聖書ミカ書5章2節の言葉を発見します。それが、この6節に記されています。「ベツレヘムからイスラエルを治める支配者がでる」。博士たちはその知らせを聞いて、ベツレヘムを訪ねるのです。
(続きを読む…)

2016 年 12 月 18 日

・説教 詩篇25篇「慈しみ深い主」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:20

 

2016.12.18

鴨下 直樹

 
 今、司式者の読まれたこの詩篇をお聞きになって、少し重苦しい言葉が並んでいるとお感じになられたかもしれません。あるいは、内容が少し難しいと感じられたかもしれません。けれども、同時にいくつもの言葉が心にとまったのではないでしょうか。実は、この詩篇はアルファアベットの詩篇という、とても変わった形式で書かれています。各節の冒頭の言葉をアルファベット順に並べて書き記しているわけです。そうしますと、当然、表現できる内容というのは非常に限定された言葉遣いを選び取らなくてはなりません。けれども、読んでみて気づくのは、とても限られた言葉を選んで書き記しているとは感じさせないほど豊かな祈りとなっています。

 この詩篇は全体としてはとても重苦しい内容になっています。このような詩篇を嘆きの詩篇と言います。また表題に「ダビデによる」とあります。この詩の祈り手がダビデであることをよく表している詩篇だと言えます。というのは、この祈り手は、「敵」に苦しめられて「道」を探し求めているからです。ダビデは常に敵のただ中で生きた人だと言えます。

 この詩篇はこういう祈りの言葉ではじまります。

主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。

1節です。今、年末を迎えています。年末というのは、一年間を振り返る時です。一年間、それぞれの歩みがどのように支えられて来たか。そうすると、色々なことに気が付きます。その時は気が付かなくても、ああ、ここでも、ここでも主が私たちの一年の生活を支えてくださって、ここまで歩んで来られたのだということに目が留まります。その時、天を仰いで、主に祈るのです。

 エルンスト・バルラハというドイツの彫刻家がいます。素朴でありながら力強い作品をつくる彫刻家です。このバルラハの作品に「ベットラー(Bettler auf Krücken)」という作品があります。日本語にすると「杖をついた乞食」という名前でしょうか。両腕に松葉づえを抱えながら上を向いている男の作品です。私はドイツの色々なまちでこの作品をみました。すくなくとも4箇所、それぞれまったく違う場所でみました。いたるところで見かけるという事は、多くの人々に愛されている作品だということです。その多くはレプリカなのだそうです。この作品をみるとすぐに思い出すのは宗教改革者ルターの言葉で「私は乞食である、それは確かなことである」というものです。自分には何もない、何も持たない者であっても神を仰ぐことはできる。そして、神を仰ぐことこそが、人間に求められていることだと言っていいと思うのです。 (続きを読む…)

2016 年 12 月 11 日

・説教 詩篇85篇「恵みとまことは互いに出会い」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:54

 

2016.12.11

鴨下 直樹

 
 「思ってたんとちがう」朝のNHKの子ども番組の時間にそんなコーナーがありました。ふだんあたりまえに思い込んでいるものが、全然違うものだったという短いコーナーの映像番組です。薬だと思ってみていたら実はネジだったとか、そんな映像です。私たちの生活にも、時々そういったことが起こります。おいしそうだと思って買ったケーキが、思っていたほどではなかった。そんな程度のことは毎日のことなのかもしれません。けれども、もっと大切なこと、たとえば会社に勤めるとか、あるいは、結婚するというようなことになると、まぁ思っていたのと違うけれども仕方がないとはいきません。それで、そういう人選の大事な選択をする場合には、よく見極めて、よく考えて、ある程度大丈夫かどうかを知りたいと思うわけです。

 今日の詩篇の背景にはバビロン捕囚の帰還というこれまで、ここでも何度もお話して来た背景があります。バビロン帝国に支配されながら、新しくペルシャの王になったキュロスという王さまは、イスラエルの民が自分たちの母国に帰ることを許可します。それで、イスラエルの人々はこの神様の取り扱いに、非常に喜んで希望をもって故郷に帰ってきたのです。

 この詩篇の冒頭の1節から3節にはそのこと記されています。

主よ。あなたは御国に恵みを施し、ヤコブの捕らわれ人を、お返しになりました。

と1節にあります。ヤコブの捕らわれ人というのは、イスラエル人たちのことです。こうして、自分たちの国に帰って来た。それは、本当に大きな喜びと希望を胸に抱えてのことだったと思います。2節にこう続きます。

あなたは、み民の咎を赦し、彼らをすべての罪を、おおわれました。

ここに、主の行われた救いの御業が語られています。主はこれまで神に逆らい続け、ついには神に裁かれてバビロンの手に落ちてしまったイスラエルの罪をお許しくださったとあります。特に、興味深いのはこの2節の後半に記されている「彼らのすべての罪を、おおわれました」という言葉です。この「覆う」という言葉はカバーするという言葉です。
(続きを読む…)

2016 年 12 月 4 日

・説教 詩篇96篇「確かに主は来られる」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:02

 

2016.12.4

鴨下 直樹

 
 先週、私たちの教団の総会が行われました。今回の教団総会で話し合われたのは、教団のシステムの見直しについてです。これまで、私たちの同盟福音キリスト教会が60年間にわたって同じ規則のもとで宣教をし続けて来ました。けれども、教会の数が少なかった時にはうまく機能していても、時間の流れにより教会数の増加に伴って同じ規則で進み続けることは難しくなってきてしまいました。ご存知のように、私たちの教会は包括法人という形態をとっています。多くの教会のように、それぞれの教会が宗教法人格を持っている独立した教会ではなく、私たちは26の教会で一つの教会であるという考え方をしています。これは、私たちの教会の特徴ともいえるのですが、みんなでとにかく協力して支えあっていく教会ということが強調されてきたわけです。そのために、新しい開拓教会がはじまれば、教団の教会全体でトラクト配布の応援に行ったり、あるいは、どこかの教会が経済的に厳しくなれば、まわりの教会が援助するという形で、教会形成がなされてきました。そのためには、共通の教会理解が必要ですし、他の教会とともに成長していくということが念頭におかれていました。それは、本当に素晴らしい考え方ですし、これからも、その良い部分は残し続けていきたいと考えています。

 けれども、時代が進むとともに大きな組織は小回りが利かず、何か小さな問題が起こっても全体で話し合って決めて行かなければなりませんので、小さなことをきめるのにも時間がかかってしまいます。また、ここ数年、それぞれの教会の伝道が難しくなっています。教会に新しい人が繋がりにくくなり、それにともなって財政的に厳しい教会も少なくありません。

 ではどうすればいいかということになるわけですが、これは、それぞれの教会が宣教していくという当たり前のことに力を入れることができるようするシステムをもう一度作り直すことが必要です。教団全体行事のために使う時間をできるだけ簡素化して、それぞれの地域にたてられている教会がもう一度積極的に伝道することができるように変わらなければなりません。それで、今回の総会で「宣教ネットワーク制」というシステムに変えていこうということが決められたわけです。そして、近隣の2つ3つくらいの教会で協力しあいながら、それぞれの地域に伝道することができるようにするシステムに変えることが、この総会で決議されました。私たちの芥見教会は、可児教会と群馬県にある下仁田教会とが同じグループということになりました。この三つの教会で人の交流を盛んにしながら、それぞれの教会に集っておられる方々が積極的にその人の賜物や能力を発揮して、伝道のためにお互いにより協力できるようにと願ってのことです。もちろん、これから、どうなるかはまだ誰にも分かりませんが、新しく変えられるシステムに期待しつつ、歩んでいきたいと願います。

 少し前置きが長くなりましたが、この詩篇も、イスラエルがこれから新しい時代に移るところで、主に新しい期待をもって作られた詩篇です。以前詩篇の第98篇から説教をしましたが、今日の詩篇96篇も98篇と非常に内容が似ているところです。70人訳聖書というすでに紀元前二世紀ごろに訳された旧約聖書のギリシャ語翻訳聖書があります。これは、翻訳された旧約聖書の最も古いものとして知られていますが、この聖書は私たちが使っている旧約聖書とは少し異なる部分があります。そのおかげで少しその時代にどう読まれていたかということが分かるわけです。この70人訳聖書の詩篇第96篇には表題が付けられています。そこには、「捕囚の後、家が建てられた時、ダビデの歌」と書かれているのです。つまり、この詩篇はイスラエルの民がバビロン捕囚を経験して、その後、エルサレムに神殿が建てられた時の歌だと説明されているわけです。
(続きを読む…)

2016 年 11 月 27 日

・説教 詩篇24篇「永遠の戸よあがれ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 17:11

 

2016.11.27

鴨下 直樹

 
 今週からアドヴェントに入りました。教会の暦で新しい一年を迎えました。そして4週間のちにクリスマスを迎えます。このアドヴェントに神が私たちに主イエスを与えてくださり、私たちのことを顧みてくださっていることを共に覚える時としたいと思います。そしてまた、主は再びこの世においでくださると約束されていますから、このアドヴェントに、もう一度おいでくださり私たちの救いを成し遂げてくださるという希望を心に留めたいと思います。

 アドヴェントに入りますと、毎年、先ほども歌いました讃美歌21の「高く戸をあげよ」という讃美歌を共に歌います。これは、ドイツの讃美歌でも第1番にのっているほど、ドイツのキリスト者たちにとって深く心に刻まれている讃美歌です。この賛美は今朝私たちに与えられている詩篇24篇の後半のみ言葉がそのまま歌詞になっています。このアドヴェントの季節になるとよく歌われる賛美です。しかし、主イエスが来られることを待ち望むこのアドヴェントに、この詩篇第24篇を歌うというのはなぜなのでしょうか。

 この詩篇第24篇はダビデの賛歌という表題が掲げられています。しかし、この詩篇の内容はどうも神殿の礼拝の時に歌われた歌だと考えられます。エルサレムに神殿が作られたのはダビデの息子、ソロモンによって建設されましたから、ダビデのあとの時代です。けれども、この詩篇をダビデの賛歌と言った時に、それはどういう意味なのかという事を考えさせられます。

 ダビデの時代にはまだ礼拝、つまり祭儀は幕屋でおこなわれていたはずです。幕屋というのは、イスラエルの民がエジプトで奴隷だったときに、エジプトから出て、このカナンの国を目指して40年にもおよぶ荒野の旅の時に、神が民への約束として十の戒めを与えられ、この十戒を収めた箱を契約の箱と言いますけれども、この契約の箱を今でいうおみこしのようにしまして、イスラエルの民は常にこの契約の箱を担いで移動して、どこでも祭儀をおこなうことができる移動式の礼拝のための場を設けていました。その中心となったのが、契約の箱です。そして、この契約の箱の置かれた幕屋の一番中心部分を至聖所と呼んで、この契約の箱のあるところに、神が臨在されると、神はイスラエルの民に約束されたのでした。

 そして、ダビデの時に、契約の箱がそれまで別の場所におかれていたのですが、エルサレムに運び込ませます。それが第一歴代誌の第15章に記されています。まだ当時エルサレムには神殿はありませんでしたけれども、このことがこの詩篇の背景にあると言っていいと思います。

 少し、説明が長くなりましたけれども、この詩篇24篇は内容としてはこの契約の箱がエルサレムの神殿に運び込まれる様子を歌った歌だと考えられています。少しこの詩篇に何が書かれているのか見てみたいと思います。
(続きを読む…)

« 前ページへ次ページへ »

HTML convert time: 0.201 sec. Powered by WordPress ME