2015 年 4 月 19 日

・説教 ヨハネの福音書11章27-44節 「私たちの傍らに立たれる主」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:19

 

2014.4.19

 鴨下 直樹

 
 先週、私たちはMさんのご家族と共に山口県の岩国に行ってまいりました。Mさんの結婚式のためです。私は中国地方に行くことが普段ありませんので、景色を非常に楽しんできました。土曜日が結婚式でしたが、前日リハーサルがありましたので、朝早くから家族で車で出かけました。途中早く着きそうでしたので広島でおりまして、雨が降っておりましたが、少しだけ広島に行き、広島焼きを食べて、海沿いの道を走りながら岩国に向いました。途中で宮島という有名らしい場所を通りましたけれども、きれいな景色はそこからフェリーにのってということでしたので、あきらめました。

 夜に、岩国の聖書宣教教会に着いたのですが、行ってみて分かったのですが、海のすぐそばの教会です。教会の方は海辺の防波堤沿いに車を止めるというくらい、海の近くで驚きました。それと同時に、Mさんは今まで山に囲まれた岐阜にいたわけですけれども、これからは海の近くで生活することになるのかと、少し心配になりました。きっと、これまでとは全く違う生活がそこにあるに違いないと思ったからです。

 そして、教会はメソジスト教会です。私たちにはあまりなじみのない教会ですが、ジョン・ウェスレイの教会の伝統に生きている教会です。ジョン・ウェスレイと言っても誰の事だか良く分からないかもしれませんし、メソジスト教会というのもなじみがない。そういう方は、昔NHKでやっておりましたテレビドラマの「大草原の小さな家」を想像してくださるといいと思います。行ってみてわかったのですけれども、今でもまさにそのままの教会を形成しようとしています。テレビも見たことのない方は児童文学ですけれども小説になっておりますので、是非、読んでいただきたいと思います。

 私はアメリカ人の司式の結婚式は初めてでしたし、メソジストの司式も初めてでしたので、興味深い結婚式でした。以前、婚約式に賛美をしてくださったご夫妻です。ミラー先生が英語で説教して、奥様もアメリカ人ですけれどもキョウコ先生と呼ばれていましたが、このキョウコ先生の通訳で説教が行われました。キョウコ先生が通訳をしながら説教の途中で何度も涙ぐみながらMさんに語りかけていたのがとても印象的でした。本当に、心から結婚する二人を祝っているのだということが伝わってきました。私はこのアメリカ人の牧師夫妻を見ながら、この方々は本当にMさんの傍らに立って支えようとしておられるのだということをとても強く感じて、とても嬉しい気持ちになりました。

 さて、今日の聖書箇所をお聞きになられて、少しこれまでの主イエスのイメージと違う印象を持たれた方があるかもしれません。ここに描かれている主イエスはとても感情的に見えます。 (続きを読む…)

2015 年 4 月 5 日

ヨハネの福音書11章17-27節 「よみがえりの主」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 22:57

 

2014.4.5

 鴨下 直樹

 

イースターの朝を迎えました。先ほど、この礼拝に先立って朝食を共に頂いて聖餐の時を持ちました。主のよみがえりの朝を、共にみなで喜び、また祝いたいと願ったからです。イースターは主の復活を祝う日です。それは、主イエスがよみがえられたので嬉しいというだけにとどまらず、主イエスが死に勝利されたことが、喜びの知らせそのものだからです。

このイースターの朝、私たちに与えられているのはラザロのよみがえりの出来事です。今日は先週に引き続いてヨハネの福音書の第11章17節以下です。もちろん、本来は1節からラザロのことが記されておりますので、1節から読んだほうが適切だと思います。

先週もお話ししましたが、ラザロはマリヤとマルタの兄弟だとここに記されています。しかも、ここではラザロのことを「あなたが愛しておられる者」と書かれています。愛する者が病に倒れ、その知らせを聞きながらも主はなおもそこに二日とどまられました。そして、今日のところで、主がラザロのところを訪られたのはこの17節を見ますと「ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた」と記されています。 (続きを読む…)

2015 年 4 月 3 日

・説教 ヨハネの福音書13章1-15節 「残すところなく示された愛」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:40

 

2015.4.3

 鴨下 直樹

 

今日、この受難日に私たちは「洗足」と言われる出来事の箇所を聞いています。今年の元旦礼拝で今年の年間聖句のカードをお配りしました。そこにこの「洗足」の絵が描かれております。今年、私たちが一年をかけて心に刻もうとしている主イエスのお姿が、ここに描かれています。元旦礼拝で今年一年私たちに与えられた言葉として心にとめているのはローマ人への手紙15章7節です。

キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。

私たちはこの一年、ほかの人を受け入れることを心にとめて一年の歩みをしています。けれども、互いに受け入れあうということは簡単なことではないことを、もうすでに毎日のように味わっておられることと思います。夫婦であっても、子どもであっても、あるいは親であっても受け入れることの難しさを覚えます。いや、むしろ家族であればあるほど、受け入れることの困難さを覚えるというところがあります。というのは、家族というのは、こうであってほしいという、私たちの願いが一番強く出るところだからです。もっと自分を理解してほしい、もっとああして欲しい、こうして欲しいと、私たちは身近な者に対して強い願いを抱きます。

「キリストが神の栄光のために私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい」というこのみ言葉を、ほかの言葉で言いかえるとすると、それは「愛すること」と言い換えることができると思います。愛することは、受け入れることです。愛することはゆるすことです。

 

今日、この受難日の礼拝に、私たちは主イエスが弟子たちの足を洗ってくださった物語を聞いています。主イエスは足を洗うことを通して私たちに愛を示してくださいました。

1節にこう書かれています。 (続きを読む…)

2015 年 3 月 29 日

・説教 ヨハネの福音書11章1-16節 「死で終わらない生」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:52

 

2015.3.29

 鴨下 直樹

 

先ほど洗礼入会式を行いました。先ほど、洗礼式に先立って、今日洗礼を受けられたYさんの証を聞きました。ご存知のように、Yさんのご両親はキリスト者です。その中で、どのように育ったのか、ありのままを話してくださいました。とても勇気のいったことだと思います。ご両親はキリスト者であると言っても、お母さんが洗礼を受けられたのは5年前のことです。先ほどの証の中にもありましたけれども、お酒のために体を壊して、このままでは命までも危ないというところまでいってしまいました。そして、家族の祈りの中で病床で洗礼を受けました。けれども、その後も様々な施設や病院、友人の家を転々として、ついに、洗礼を受けてからこの教会で一緒に礼拝を捧げることはできませんでした。そして、昨年の夏、病のために亡くなりました。亡くなる前のことですけれども、体調がすぐれないと時折電話でお話ししました。そのたびに、Yさんが優しいと涙ぐんで話してくれました。そして、よく電話口で一緒に祈りました。

Yさんが洗礼を希望されて、そのための学びをしている時に、わたしは一つの質問をしました。いつ、洗礼を受けたいと思うようになったのですかと尋ねたのです。すると、「お母さんが洗礼を受けたときから思うようになった」との答えが返って来ました。実は、私はその時、正直驚きました。お母さんのMさんが一番大変な時だったからです。けれども、同時に、Mさんは、自分の人生のもっとも厳しい時に、自分の人生を主イエスに託したから、そのことが心に残ったということだったのかと思い納得しました。

 

今日から、教会の暦で受難節を迎えます。主イエスが十字架にかけられて死なれた一週間を迎えます。そういう意味では私たちは一年の教会の歩みの中で、最も深く死について考える一週間を迎えます。 (続きを読む…)

2015 年 3 月 22 日

・説教 ヨハネの福音書10章31-42節 「殺意の中で」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 16:16

2015.3.22

 鴨下 直樹

 最近、インターネットでもニュースが読めるようになりました。そのようなニュースの中にはその記事に自分の感想を書き込めることができるようになっているものを見かけます。そういったニュースの中で、最近起こった一つの殺人事件の記事を見かけました。あの中学一年生を殺害した18歳の少年の記事です。その記事によると、この18歳の少年は周りの仲間に囃し立てられて歯止めが効かなくなって殺害に及んだという内容でした。すると、それを呼んだ読者の反応が載せられていますが、どれも、この少年を死刑にすべきだという意見を書いていました。そこに、自分もそう思うという同意する意見が何万件と寄せられているのをみて、私はびっくりしてしまいました。

もちろん、この少年の反抗は短絡的なもので、人々が理解できるような同情をさそう要素は何もありません。けれども、そこで、みんなが寄ってたかって未成年の事件は刑が軽いからやはり未成年にも刑事責任を問えるようにする必要があるのではないかとか、成人であれば死刑に相当するから死刑にした方がよいなどと、みんなが裁判官にでもなったかのようにして、この事件に対してそれぞれな思いのままの意見を発信します。そこには、自分の名前が出るわけでもありませんし、また、その意見に対して「同意する」というボタンであれば誰でもその意見に投票できます。

誰もが自分の目の前で起こった不快な事件を、そんな人間はいなくなってしまえばそれで解決として結論をだす。それに対する問いかけもなければ、自分にもそういうことが起こりかねないのではないかなどという洞察もありません。私が心配になるのは、こうやって、人々はこういう自分本位な意見が載せられたニュースばかり読んでいると、どんどん自分で考える力を失っていって、ますます人の顔色を見ながら生きていくようになるのだろうかと気になって仕方がありません。

 

しかし、もちろん、それは今に始まったことではありませんでした。今日の説教題を「殺意の中で」としました。主イエスの業を見て、話を聞いていた人々が、ここでもまた、「主イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた」という言葉から始まっているのです。理由はその前に書かれています。 (続きを読む…)

2015 年 3 月 15 日

・説教 ヨハネの福音書10章22-30節 「永遠のいのちを与えるお方」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 15:57

2015.3.15

鴨下 直樹

 

先日ある方からこんな電話の相談を受けました。来年から学校で旧約聖書続編付きの聖書を使うので、それを買い求めるように言われたのだけれども、この旧約聖書続編というのはどういったものなのでしょうかというのが、その方の質問でした。この旧約聖書続編というのはいったいどういうものなのか、多くの方も気になっておられるのではないかと思います。

私たちの教会の多くの方は礼拝で新改訳聖書を使っております。中には新共同訳聖書といいますけれども、カトリックとプロテスタントの聖書の専門家が一緒に協力をして翻訳をした聖書ですが、この聖書をお使いの方もおられます。この新共同訳聖書は、今多くのミッションスクールなどで使われております。この聖書はカトリックと一緒に訳したことと関係するのですが、カトリック教会がこの旧約聖書続編と言われているものを正典と同じように扱うために、新共同訳聖書では従来の旧新訳の聖書と、それに続編を付けたものとの二種類が取り扱われています。いわゆる福音派と言われる教会、私達もこれに属しておりますけれども、普段この続編についてはまるっきり取り上げませんので、聞いたことがない方がいても不思議ではありません。

少し説明をしておきますと、旧約聖書はマラキ書で終わっています。そして、新約聖書、特に主イエスの誕生までの間、約400年間、聖書にはこの間の出来事が記されておりません。この旧約聖書の続編と言われるのは、この400年の間、それを「中間時代」といいますが、この間に記されたいくつもの書簡が収められています。特に、何か怪しげな書物が含められているという訳ではありません。この時代の資料としてむしろ非常に重要な記録がいくつもおさめられていますので、もちろん、私たちはこれを他の正典と同じようには扱いませんけれども、読む分には非常に面白いものです。

その中でも、特にマカバイ記というものがありますが、ここには、イスラエルがアレキサンドロスというマケドニアの王の支配の後に、アンティオコス・エピファネスというシリアの王がエルサレムを占拠します。この時のユダヤ人たちの戦いの記録がここに記されています。 (続きを読む…)

2015 年 3 月 8 日

・説教 ヨハネの福音書 10章7-21節  「わたしは門であり、良き羊飼いであると言われる主」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 15:06

 

2015.3.8

鴨下 直樹

 

 

受難節ではありますが、今、私たちは大きな喜びを味わっております。と言いますのは、長い間、いままでお借りしていました教会の駐車場の取得のために祈り続けておりましたけれども、この取得のための臨時総会を今日開くことができるまでに、主が導いてくださったからです。今年の1月に教団役員会がありまして、役員の先生から芥見教会の駐車場はどうなりましたかと尋ねられました。私はそのとき、奇跡でも起こらないかぎり教団の三月総会にかけられそうにありません、とお答えました。そして、2月の役員会の時も、その状況は何も変わってはいませんでした。けれども、この二週間の間に、事態は大きく変わりました。そして、今日、この後で行われる臨時総会で承認されれば、今月末に行われる教団総会に間に合わせることができるのです。大げさに、これは奇跡だと騒ぎ立てるつもりはありませんけれども、主のみわざであることに間違いないと思っています。主が、長い私たちの祈りに耳を傾けてくださり、確かに、主は私たちを導いてくださる羊飼いであられることを、私たちは経験しているのです。

今日の聖書の箇所には二つの主イエスの自己紹介がなされています。 (続きを読む…)

2015 年 3 月 1 日

・説教 ヨハネの手紙第Ⅰ 3章13ー14節 「すべては恵みです!」/讃美歌21・296番

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:48

本日はマレーネ・シュトラスブルガー師が説教をして下さいました。

2015 年 2 月 22 日

・説教 エペソ人への手紙6章10ー20節 「支配力との格闘」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:40

本日は鴨下彌先生が礼拝説教の奉仕、また、松平兄弟が国内宣教報告をして下さいました。

2015 年 2 月 15 日

・説教 ヨハネの福音書10章1-6節 「羊飼いであられる主に導かれ」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:36

2015.2.15

鴨下 直樹

私事で始めて恐縮なのですが、ドイツにおりました時に最初の一年の間、ヘッセン州のズィーゲンという町のはずれにあります小さな村で生活していました。ドイツ人の友達が私たちのための家を用意してくれたので、その友人のところから始めの一年語学学校に通いました。学校は午前中しかありませんので、午後からは学校で出された宿題をします。最初はそれこそすべての単語を調べなければ分からないという具合でしたから、宿題が終わるのに6時間かかるというような進み具合です。当然、すぐに飽きてしまいます。幸い、家の前には牧場が広がっていて、牧場の周りの森を散歩することができます。私たちは犬を連れていっておりましたので、犬と一緒に単語帳を持って毎日その牧場の間の道を小一時間散歩するというのが日課でした。

色々なところで何度も話していることですけれども、その牧場の手前側は羊が放牧されています。奥の牧場は牛です。牧場と牧場の間に小さな小道があって、散歩をする人たちはその小道を歩きます。動物はその道の方に出てこないように電線が張り巡らされておりまして、そこには常に電気が流れています。牛や羊が外に出てしまわないようになっているのです。ですから、今は羊飼いや牛飼いが一日中面倒をみているということはありません。ただ、数日ごとに、入れられている囲いの草を食べつくしてしまいます。すると、羊飼いが現れまして、羊を隣の囲いに誘導します。といっても、羊飼いは何も大変なことはなくて、羊飼いが歩いて行きますと、羊たちはぞろぞろとその羊飼いの後ろをついていきます。いつも見ていた牧場では牧羊犬もいましたけれど、ほとんど何の役にもたっていないように見えました。面白いことに、牛を移動させるときは反対で、牛飼いは手に棒を持って牛たちの一番最後から声を出して、牛のお尻を軽くその棒でたたきながら移動させます。

はじめて、この羊飼いが羊を導く姿を見たときの感動は忘れることができませんでした。聖書に書いてある通りだと思ったのです。私などが散歩の途中に羊に近寄っていっても、ある距離まで近づきますと逃げていってしまいます。後で知ったのですけれども、いつも見ている家の前の丘の牧場の羊は、友人の父親の羊だとわかったので、時々その友達に羊のことについて色々聞かせてもらうことができました。 (続きを読む…)

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