2016 年 9 月 26 日

子ども祝福式のご案内

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:09

子ども祝福式のご案内

いつも教会の各子どもと親の集いに参加くださり、とても嬉しいです。
皆様との出会いを心から感謝しています。

さて日本では、子どもたちのすこやかな成長を願う、宮参りや七五三等の慣習がありますが、教会では毎年、全年齢の子どもたちの人生の上に、唯一の天地創造の神様からの祝福を祈るという習慣があります。

毎年、秋も深まる頃の日曜日、子ども祝福式を礼拝の中で行っており、特に子ども達の健やかな成長と、救い主イエス・キリストの豊かな祝福をお祈りします。

プログラムは、礼拝式に加え、こども賛美歌、聖書のお話、子ども達の祝福の祈りなどがあります。(お祈りの後に、素敵なプレゼントもあります。)
ぜひ、ご家族の年間の行事に加えていただいて、共にお祈りできたら幸いです。

聖書のことば 主イエスキリストのことば
「子どもたちを、わたしのところへ来させなさい。
神の国はこのような者たちのものです。」

10月30日(日)

朝10時半〜12時頃まで

会場:芥見キリスト教会礼拝堂にて

 

  • ※対象:乳幼児から小学生まで(ご家族で、祖父母様もどうぞ!)教会は はじめて…の方も歓迎!
  • ※平服で結構です。また、礼拝中にいつもの献金の時間がありますが、自由です。他に祈祷料など一切必要ありません。
  • ※申し込み:プレゼントの準備がありますので、前日までにお子様のお名前と年齢をお知らせくださいませ。
    ⇒お申込みフォーム
    電話: 058-243-5798
    担当:鴨下愛まで

 
 

この記事に関する

2016 年 9 月 25 日

・説教 詩篇8篇「神の威光は天と地に」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:32

 

2016.09.25

鴨下 直樹

  
 先日、私が関わっております名古屋にあります東海聖書神学塾の教師会が行われました。教師の一人が「漱石、芥川、太宰と聖書」というテーマの発題をしてくださいました。とても、興味深い講演でした。その先生が最後の方でこんなことを言われました。聖書の神を語るために文学者たちの持つ役割は小さくないと。この話の後で質疑の時間がありました。私たちの教会の古川長老が興味深い質問をしてくださいました。古川長老は今、神学校でキリスト教美術を教えてくださっていますので、教師会に参加してくださっているのです。

 それはこういった質問でした。聖書の中には、神と出会った人たちが、表現できないような神の美というようなものに触れて心動かされている部分があるけれども、教会ではこの美ということにあまり関心がないように思うと言われました。その古川さんの意見を受けて神学塾の理事長の河野先生がこう言われたのです。河野先生がアメリカの神学校で学んでいた時に、その時の実践神学の先生が、神の性質は「真、善、美」というけれども、この真理と善、義しさということは教会で語られているけれども、美という観点は今日までおろそかにされている。このことが現代の教会の課題だと言われたと言っておられました。私自身、この古川さんと河野先生の意見を聞くまで、礼拝の中でどのようにしてこの神の性質である美というものを表現できるのかということについて、あまり考えて来なかったという気がしています。けれども、たしかに聖書にはいたるところに、この神の美という視点が語られています。

 今日の説教の題を「神の威光は天と地に」としました。1節には「あなたはご威光を天に置かれました」と書かれていますから、まずは神の威光、栄光は天に示されていると書かれています。しかも、つづいて「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって力を打ち建てられました」と書かれています。この言葉は実はとても複雑な言葉でかかれていますが、幼子や乳飲み子たちを通して、神の威光は天に示されているということです。

 赤ちゃんや、幼子の言葉というのは、まだちゃんと表現することができません。何かを伝えたくて、それこそ顔を真っ赤にして泣き続けます。母親は、必死にその幼子の気持ちを受けとめようとします。この詩篇を作った人は、私たちが神の偉大さを言い表そうとしても、それは赤ちゃんの泣き声や、幼子の言葉に等しいということをよく理解しています。

 赤子や幼い者が神を褒めたたえているのに、自分が力強いと思い込んでしまっている者は、神に敵対し、自分が何者かであるかのごとく振舞っている。それは、なんと神の前に愚かしいことなのだろうか。この詩篇の作者はそのように歌っているのです。

 ある詩篇の解説者はこの詩篇は夜の礼拝の時に歌われた歌ではないかと言っています。夜の礼拝というのがあったかどうか、私には分かりませんが、レビ記を見ると祭司たちは朝まで神への献げ物の火を焚き続けることが書かれています。そのように、夜にも神への献げ物が行われたことを考えると、その献げ物を携えてきた人が夜に、幕屋や神殿で空を見上げながら礼拝をしたということは、あり得たと思います。

 今のように、夜に外にでても何も星がみえないというような時代ではありません。大気汚染もなかったでしょうし、街頭の明かりもない時代ですからそのころの夜の星空は想像を絶する美しさだったことでしょう。冒頭に、神の美の御業を、自分たちの信仰の言葉で表現する、それが詩篇でした。この時代の信仰者たちは、今の私たちには想像できないほどの紙の美しい御業の数々を見、また経験していました。ですから、とうぜん、それは信仰の言葉となって出てきたのです。 (続きを読む…)

2016 年 9 月 11 日

・説教 詩篇2篇「王なるメシア・救い主」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:23

 

2016.09.11

鴨下 直樹

 
9月5日の月曜日北朝鮮が日本海に向けて中距離弾道ミサイルを発射しました。日本と中国の首相が会談をしている時間にあわせてのことでした。このミサイルは1000キロちゃんと計算して飛ばしているのだそうで、あと2,300キロメートル距離を延ばすことはもはや何の問題もないことだとニュースで報道されていました。そして、9日(金)、今度は北朝鮮がまた核実験を行いました。
 そういう中で、私たちはこの詩篇のみ言葉を聞いています。「なぜ国々は騒ぎたち、国民はむなしくつぶやくのか。」

 この詩篇第2篇は「王の即位の詩篇」といわれる詩篇です。この詩篇は詩篇第一巻と言われる2篇から41篇の巻頭詩です。特に、この第一巻はダビデの詩が収められています。その中で、この詩篇第2篇は、王たちが即位をする時に歌われたとする詩篇を巻頭詩として置いています。また、新約聖書でも、あとでお話しますけれども、この詩篇はダビデのものであると書いています。それほど、ダビデと結びついていると考えられたわけです。

 この詩篇はイスラエルの王が即位する時に使われたと考えられていますが、この二節に「油注がれた者」という言葉が出てきます。これがヘブル語でメシアという言葉です。当時、王として任職を受けるためには祭司によって油注ぎを受けて、それによって王として任命されていました。このメシアというヘブル語が、ギリシャ語になるとキリストという言葉になります。つまり、ここで王として即位する油注がれた者のことを、メシアあるいはキリストと言ってきたのです。

 聖書の中で油を注がれた王の即位について書かれているのは、初代の王サウルと、ダビデです。それ以外にはダビデの息子のソロモンとヨアシュという王様の四人だけです。けれども、これらの王が即位をした時にはこの詩篇2篇が用いられたということは、はっきりと書かれているわけではありません。けれども、この詩篇は王が即位をするときに問題になる一つの出来事が背景となっています。それは、前の王が亡くなって、次の王が即位する時というのは、言ってみれば国家の危機です。そうしますと、近隣の諸国やこれまで、権力によって従属させられてきた民族などはこの時とばかりに反旗を翻すわけです。これが、この詩篇の背景にあるのです。

 何かきっかけを見つけると近隣諸国が騒ぎたち、この時とばかりに攻撃をしかけてくるというのは、今日にはじまったわけではなくて、今から何千年も昔、この詩篇の記された時代から今日にいたるまで続いていることです。新しい王が立てられるというのは、国としてはお祝いムードの嬉しい時ということになるのでしょうけれども、それは同時に、その国の危機を表していたわけです。

3節の「さあ、彼のかせを打ち砕き、彼の綱を、解き捨てよう」というのは、今言ったようなこれまで従属関係にあった諸民族や諸国が今こそ反旗を翻す時だと言っているということを表しているわけです。 (続きを読む…)

2016 年 9 月 4 日

・説教 詩篇1篇「幸せな歩み」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:17

 

2016.09.04

鴨下 直樹

 
 今日から詩篇のみ言葉をともに聞きたいと思っています。改めて、自分の書斎の本を手にしながら、詩篇に関する本を一番沢山持っていることに気が付きました。詩篇というのは、じつにさまざまな作者がいます。言ってみれば、讃美歌集であるとか、祈祷集です。ですから、一人の人が全部一気に書いたというのではなくて、長い歩みの中でどこかで覚えられたり、聞いたりしてきたものをこうして一つに誰かがまとめたのです。

 その多くは祈りと賛美です。ですから、これは神が人間に語りかけられた言葉というのではなくて、あるいは、教会のために書き記したのでもなくて、完全な個人の信仰が歌われているということができます。それぞれの生活の中から、悩みの中から、苦しみの中から生まれてきた、祈りと神への深い信仰とを言い表した言葉が、ここにはあります。ですから、人は詩篇の言葉に共感したり、あるいは、その独特の信仰の表現に驚いたりしながら、この詩篇に愛着を感じる人が沢山いるのではないかと思います。

 そして、おそらくこの詩篇1篇は、そのすべてをまとめた人が、冒頭にこの詩篇を書き記しました。この150篇からなる詩篇の冒頭にふさわしい、いってみればそのすべての前書きとして、あるいは序文として、この詩篇を記したのです。

 この詩篇は「幸いなことよ」という言葉からはじまっています。この言葉はヘブル語で「アシュレ」という言葉ですが、幸いの度合いだとかを表している言葉ではなくて、祝福の宣言の言葉なのだそうです。つまり、ここで言っている幸いというのは、神が祝福してくださるという事実の宣言なのです。そして、この神の祝福の宣言は、主の教え、これは、もともとはヘブル語で「トーラー」と言って普段は「律法」と訳されている言葉ですが、この主の律法をいつも口ずさんでいる者に与えられると宣言しています。

 神の律法、神の戒め、それはそのまま聖書と言い換えてもいいと思いますが、聖書の言葉をいつも口にしている人は祝福される。それが、詩篇全体を通して語っていることだと言おうとしているのです。 (続きを読む…)

2016 年 8 月 14 日

・説教 エペソ人への手紙 6章10-24節「神の武具を身に着けて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:42

 

2016.08.14

鴨下 直樹

 
 エペソ人への手紙をはじめから順に聞き続けて来ました。今日で、最後の箇所になりました。この10節にはこう記されています。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

「終わりに言います」とありますから、パウロはここで手紙を締めくくろうとしているわけです。しかし、ここで語られているところは、非常に豊かな内容のある手紙の言葉です。それで、この箇所からだけでも一冊の本が書けてしまうほど、豊かな内容があります。けれども、「終わりに」とありますから、今日のところで終わりになるようにしたいと思います。

 このエペソの手紙は教会の手紙と言われます。教会の歩みは、ひとりひとりがキリストのように歩むことです。そして、最後にパウロはここで三つのことを語りながらそのまとめとして、キリストのように歩むために生じる信仰の戦いについて語っています。

 エペソ人への手紙はその最後に信仰には戦いがあるということを書いているわけです。信仰生活には実際にさまざまな戦いがあります。どのように信仰を証ししていくかという戦いもあるでしょう。あるいは、罪との葛藤もあるかもしれません。あるいは、信仰に生きるということ自体が戦いになることもあるのだと思います。パウロはこの手紙で、キリスト者のひとりひとりの生活が教会の歩みそのものなのだということを語りながら、最後に

主にあってその大能の力によって強められなさい。

とまず勧めています。これが最初の第一の勧めです。

 「強められなさい」というのは命令形の受動態で書かれているからです。「強めていただきなさい」というわけです。神様に強めていただいて、信仰の戦いを戦うのだということを、最後に確認しようとしているのです。というのは、信仰の戦いというのは、自分の力でするものではないからです。それで、ここでも「主にあって」と言っているのです。 (続きを読む…)

2016 年 8 月 7 日

・説教 エペソ人への手紙 6章1-9節「家庭の倫理、職場の倫理」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:25

 

2016.08.07

鴨下 直樹

 
 私たちの教会では毎日「聖書のまばたき」というみ言葉の配信サービスを行っています。配信サービスなどというと、少し大げさかもしれませんけれども、教育部の執事のKさんが毎日、み言葉や、さまざまな信仰の言葉を一つ選んでメールで送って下さっています。今、60名ほどの方が受け取っておられるのだそうです。毎日、実にユニークな取り組みですけれども、暗証聖句になるようなみ言葉が贈られてくるときもあれば、讃美歌の一節や、キリスト者の残した言葉が送られてくるときもあります。

 その中で先週一つの変わった聖書の言葉が送られてきました。「彼女は言った。いけません兄上。乱暴してはいけません。イスラエルでは、こんなことはしません。こんな愚かなことはしないでください。」という第二サムエル記13章の言葉です。さすがに驚かれた方も多いと思います。「何だこれは?」と思って聖書を開けられた方が少なからずあると思います。私も実は少し驚いたのですが、Kさんの意図としてはそうやって驚いて聖書を読んでもらいたいという意図があるんだそうです。この箇所はダビデの子どもたちの出来事ですが、ダビデには何人かの妻がおりまして、アブシャロムという後でダビデに反旗を翻す息子がおります。その妹のタマルに異母兄のアムロンが乱暴を働いてしまう出来事の箇所です。

 ある方が、私のところにまいりまして、あれはどういう聖書の箇所なのかと尋ねられましたので、私が今のようなことを簡単に説明いたしました。すると、聖書にはなんで、そういう人間のどろどろとした出来事が書いてあるのかと質問を受けました。みなさんもご存知の通り、このダビデを取り上げてみてもそうですし、先ほど「聖書のお話し」で語られたサムソンとデリラの出来事もそうかもしれません。聖書は人間の醜い姿をありのまま記しています。特にダビデの子育てといったらいいでしょうか、親子関係というのは、あまり手本になるようなものではありません。聖書人物から学ぶ親子関係というような本はあまり見かけないわけですが、それほど、理想的な親子像というものを聖書は記していません。むしろ、多くが失敗ばかりしていると言っていいと思います。その質問をしてくださった方にもその時にお話したのですけれども、聖書は人のあるがままの姿を正直に描きながら、それでも主はそのような罪深いものを憐れんでくださって神の民としてくださるということが書かれていると言えます。 (続きを読む…)

2016 年 7 月 31 日

・説教 エペソ人への手紙 5章21-33節「互いに仕えあう喜び」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 17:16

 

2016.07.31

鴨下 直樹

 
 今日の箇所を楽しみにして今朝、教会におみえになられた方があるかもしれません。今日の箇所は結婚式などでもよく語られる聖書の箇所です。「妻たちよ、夫に従いなさい」と書かれたこのみ言葉は、多くの場合、何か不条理なことが書かれているとお感じになる方が多いようです。それで、何とか納得のいく説明を聞けるのではないかと思って楽しみに来られた方があると思うのです。もうすでに、何人かの方からそのように聞きました。そして、多くの方は、心のどこかで、「そんなはずはない」と思っておられる気がするのです。私のかん違いであればそれは幸いです。
 この時代に、聖書は、「妻は夫に従うように」と書いている、なんというナンセンスなという思いがある。きっとそれは、生活の中でなかなか納得しづらい場面が多く見られるからなのだろうと推察いたします。しかも、最初に出て来ますので、余計にその理不尽さが際立つのかもしれません。

 新改訳聖書は残念ながら段組みを変えてしまっているのですが、本来この箇所は21節から読まれるべきです。21節にはこう書かれています。

キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

まず、パウロはそのように言いました。パウロはこの21節から6章9節までで、夫婦について、親子について、そして奴隷についてどのような関わりで歩むべきかについて記しています。夫婦、親子、奴隷という関わりを語るうえで、まず、その前提としてこの21節をこう語りました。「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」

 この「互いに仕える」ということがすべての前提です。今日、この礼拝の後で、ここ数年の間に洗礼を受けられた方々と、教保とで昼食を共にとりながら、交わりの時を持とうと思っています。主イエスを信じて洗礼を受けて、どう生活が変わったのか、それぞれ分かち合うことができればと思っています。キリスト者となって、生活がどう変わるのかというと、まさにそこで問われるのは、私たちがどのように人に仕えるようになったのかということに尽きると思うのです。夫婦の間で、親子の間で、あるいは仕事場で、私たちはキリスト者となって、仕える者となったのかが問われるのです。 (続きを読む…)

2016 年 7 月 24 日

・説教 エペソ人への手紙5章1-21節「神にならう者として」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 16:08

 

2016.07.24

鴨下 直樹

 
 今日は、5章1節から21節までを説教の箇所としました。少し前に説教の予定を変えたためです。この教会ではひと月前から説教箇所や讃美歌をすでに選んで配付しております。讃美歌なども、その説教箇所にあわせているために、説教の予定を変えてしまいますと単純に一週分ずらせばいいというわけにはいきません。本当は、今日は1節から5節で、次が6から21節という具合になるのですが、実は、その分け方もあとで考えるとすっきりはしていません。ご存知の通り、手紙というのは、当時はそのまま初めから最後までまとめて教会で朗読されました。今のように部分部分を細切れにしていたわけではないのです。ですから、5節までを分けて、6節から21節にするか、もう少し細かく分ける場合は、6-14節と15節から21節を分けるということもできると思います。ただ、ここでは同じテーマが何度も繰り返されて語られていますので、今日は1節から21節まででみ言葉を語りたいと思います。

 少し、前置きが長くなってしまいましたが、この1節から21節までの間には似たような言葉が何度も何度も繰り返されています。1節では

ですから、愛されている子どもらしく、神にならうものとなりなさい。

とあります。この1節の言葉はとても重要なテーマで、ここからは「神にならうものとなる」というのはどういう歩みをすることなのかということが、繰り返されているわけです。それで、3節では「聖徒にふさわしく」とか、8節では「光の子どもらしく歩みなさい」とありますし、15節でも「賢い人のように歩んでいるかどうか」という言葉が続いています。少しずつニュアンスがちがっていますけれども、言おうとしていることはみなこの1節の「神にならう者となりなさい」ということに結びついてくるわけです。

 3節と4節では「聖徒にふさわしい」生き方とは何かを語っていますが、そこでは「不品行」というような言葉に表されている性にまつわる罪と「むさぼり」として語られている金銭にまつわる罪のことが注意されています。これは、現代にはじまったことではないということですけれども、人は罪を犯す時に、性における罪と金銭をむさぼることの罪にあらわれてくる。そして、そのような生き方をするのは聖徒にふさわしい生き方ではないとパウロはここで注意しています。それこそが、偶像礼拝なのだとパウロは言うのです。ここにパウロのすぐれた宗教理解が表されています。 (続きを読む…)

2016 年 7 月 17 日

・説教 エペソ人への手紙4章17-5章2節「新しい人を身につけて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:57

 

2016.07.17

鴨下 直樹

 
 クリスチャンになる前と、クリスチャンになった後と、私たちの生活はどのように変わるのでしょうか。洗礼を受けられた方は、ひょっとすると、自ら水をくぐって出た瞬間から新しい自分になることをイメージしていて、なかなかイメージ通りの急激な変化が起こらないことでがっかりしたという経験をお持ちの方があるかもしれません。パウロはここのところから、クリスチャンになるとどう変わるのかということを書いています。

 先日の聖書学び会で、こんな質問がありました。「先生は以前の説教で、良いと思って話した言葉であってもそれで相手が傷ついたり、躓いてしまったりしてしまうことがある、と言われたけれども、ではどうしたらいいのか」と尋ねられました。実に的を得た質問だと思います。自分はその人のために良かれと思って話したことばで、相手が傷ついてしまう。どうしようもないではないか、というわけです。この前の箇所の言葉、たとえば15節に「愛をもって真理を語り」とあります。自分としては愛をもって真実に話したつもりの事が、相手に躓きを与えてしまう場合があるとすると、何も話せなくなってしまうという恐れが生まれてくるわけです。

 パウロはこの手紙の中で、まず信仰に入る前、キリスト者になる前はどうであったのかということを17節から19節で丁寧に語っています。しかも、ここでは「主にあって言明し、おごそかに勧めます」と書かれています。ここに二つの言葉を重ねているのですが、「言う」という言葉と、「宣誓する」という言葉です。「宣誓」というのはもうしばらくするとオリンピックが始まりますけれども、選手たちが競技の始まる前に誓いをします。正々堂々と戦うと。そういう公に宣言するという言葉です。パウロからすればこれから私が話す言葉はそのくらいの覚悟を持って話すので厳粛な気持ちで聞いてほしいというわけです。
 それで、何を語っているのかと言いますと、「異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではならない」というのです。

 ご存知のように、この手紙の受取人は、異邦人たちでした。もともとユダヤ人であったわけではないのです。この異邦人というのはどういう人かというと、続く18節と19節ですが、

彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。

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2016 年 7 月 10 日

・説教 ローマ人への手紙 5章1-11節「神からの平安」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:09

 

2016.07.10

鴨下 直樹

 
 今日は、あらかじめお知らせしておりました聖書の箇所を改めまして、このローマ人への手紙からしばらくの間、み言葉を聞きたいと思います。
 昨日、私たちの教会でMigiwaさんをゲストにお迎えしてコンサートを行いました。とても素敵な歌声を聞かせてくださいましたし、ご自身のことも少しお証ししてくださいました。今朝も、コンサートに来られた方でしょうか、この礼拝に何人かの方々がお集いくださったことを大変うれしく思います。昨日のコンサートでMigiwaさんが学生時代に不登校になってしまったことや、過度のストレスのために声が出なくなってしまったことをお話しくださいました。そして、そういう中で神さまと出会ったこと、また神の言葉に触れて平安を持つことができるようになったこと、そして、今、この喜びを歌うことができるようになったことをお話ししてくださいました。私たちはみな、昨日、その喜びを一緒に味わうことができました。みなさんの中にはそういう話を聞かれて、少し教会に興味を持ってくださってこの礼拝に来てくださった方があるかもしれません。そして、信仰に生きるということはどういうことなのだろうかと、もし心動かされた方があるとすれば、それはとても嬉しいことです。

 しかし、「信仰に生きる」というのはどういうことなのでしょうか。実は、今日の聖書の言葉はそのことがとてもはっきりと記されているところだと言えます。特に、冒頭でこのように書かれています。

私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

これは、この手紙を書いたパウロの言葉です。パウロは、私たちは「神との平和」を与えられたと、ここで高らかに宣言しています。これは、もう、私たちは大丈夫、神が私たちを見捨てないでいてくださるというところに立たせてくださった。これが、イエス・キリストによって私たちに与えられた神の御業なのだと宣言しているのです。

 ここでパウロは「神との平和」という言葉を使いました。「平和」というのは争いのない状態を示す言葉です。しかも、この「平和」を与えてくださるのは、神です。神が人生に私たちをドキドキさせるような介入をしてくることはなくなった。そういうことを心配しなくてもよくなったのだと言っているのです。このような「神との平和」を与えられた人は、そこから「安心」を、心の安らぎを、つまり「平安」を持つことができるようになるということでもあるのです。これはただひとつのこと、つまり「信仰」ということにかかってくるのです。この「信仰」というのは、私たちがそのように信じているその心というよりも、神の「信実」と言ってもいいようなものです。この「信実」というのは、漢字で書くと、信じるという言葉と実行するという言葉の方の「信実」です。「誠実」と言ったら分かりやすいかもしれません。今、この信仰ということばを「信実」という言葉で訳したほうがいいのではないかという提案がなされているようですけれど、神が誠実でいてくださるがゆえに、私たちはこの神を信頼して信仰に生きることができるようになるということです。神はそのようなお方なので、平安に生きることができるようになるのだとパウロはここで言っているのです。 (続きを読む…)

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