2020 年 7 月 12 日

・説教 ダニエル書3章24-26節「信仰によって生きる生き方」舛田忠興長老

Filed under: ライブ配信,礼拝説教 — susumu @ 07:28

2020.07.12

舛田 忠興

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2020 年 7 月 5 日

・説教 ローマ人への手紙10章9-11節「主の救い」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:20

2020.07.05

鴨下 直樹

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 あまり気づいていなかったのですが、どうも私はこれまで何度かこの箇所から説教をしているようです。それはいつも洗礼式の時の聖書箇所として、ここを選んでいるからです。それには、理由があります。きっと何度もお話をしているのだと思いますが、この箇所は私自身が、洗礼を受ける決断をした時に与えられた聖書箇所なのです。

 私のことを話して恐縮ですが、私は牧師家庭に生まれました。父は大衆伝道者としていろいろな教会で説教をすることがあったために、子どもの頃から遊園地には行ったことがほとんどありませんが、伝道集会にはよく連れられて行きました。

 実は、このコロナの自粛期間中、子どもの頃や若い時に聞いた説教者たちの本を集めまして、あの頃どうしてその説教を喜んで聞くことができたのか、思い起こすことができました。私が子どもや学生だった当時、伝道集会やキャンプに参加しますと、いつも「救いの証し」という、その人がどのように信仰に導かれたのかを証しするという習慣がありました。そこで私は、いろんな人の証しを聞くうちに、証しにはひとつのパターンがあることが分かって来ました。どうも、聞いているとみんな、洗礼を受ける前まではひどく罪深い生活をしていて、教会に行って、説教を聞き、福音を受け入れると、人生が180度変わったという証しを誰もがすることが分かってきたわけです。

 そういう話を、子どもの頃から何度も何度も聞いているうちに、私は「ああ、クリスチャンになるためには、一度悪いことをする人にならないといけないのか」と考えるようになっていました。ですから、子どもの頃や、学生の頃というのは、クリスチャンホームで育った私は、自分の中にある罪ということがよく分かりませんでしたので、自分はまだ当分の間クリスチャンにはなれないのだ、まだ自分は洗礼を受けるのにふさわしくないのだと考えるようになっていたのです。そして私は、いつの間にか、クリスチャンになる日がある時、ビックウェーブのように突然訪れるのだと考えるようになっていったのです。

 ところがです。当時中学二年生だった私は、夜寝る前になると父がやって来まして聖書を読んで祈るという、家庭礼拝の習慣がありました。今時、中学生までそんなことをする親はいないのではないかと思います。その家庭礼拝の中で、父はその日に限って、かなりしつこくいろいろな箇所の聖書を開いて話し始めたのです。子どもながらに、今日はしつこいなと思ったのですが、その時、突然ビックウェーブが訪れたわけです。

 その時、父が読んだたくさんの聖書箇所の一つが、このローマ人への手紙10章と9節と10節です。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 この御言葉を聞いた時に、「あれ?」と思ったのです。
「イエスを主と告白する」
「うん、大丈夫。」
「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」
「うん、信じている。そんだけ?それなら信じてる」
そう思ったのです。それで、「お父さん、僕イエス様のこと信じてるよ」と話したのです。不思議に泣いていました。

 いつの間にか、クリスチャンになるというのは、ちゃんと聖書を全部読んでからとか、もっとふさわしくなってからとか、罪を犯してそれを赦してもらいたいと思うようになってからとか、そういうものが、条件であるかのように考えこんでしまっていたのです。
 けれども、ここにはそんなことは何にも書かれていません。

「イエスは主である」。私にとって、私のとても大切なかけがえのない方として、そして、主イエスは十字架で私たちのために死なれ、私たちを新しくするためによみがえられたお方なのだということを信じることができる。そのことを告白することができる。それが信仰なのだということが、私はこの時に分かったのです。 (続きを読む…)

2020 年 6 月 28 日

・説教 コリント人への手紙第一 3章5-9節「使命か実績か」マレーネ・シュトラスブルガー

Filed under: ライブ配信 — susumu @ 06:43

2020.06.28

マレーネ・シュトラスブルガー

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2020 年 6 月 21 日

・説教 ローマ人への手紙1章16節「私は福音を恥としない!」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:55

2020.06.21

鴨下 直樹

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「私は福音を恥としません。」

 パウロはここで「私は福音を恥ずかしいとは思わない」と語っています。どうも、ローマの教会の人々の中に福音を恥とするということが、あったのでしょう。だから、パウロはこう語る必要がありました。それはどういうことかと言うと、主イエスはローマの手で十字架にかけられた男だ。そんな十字架刑にかけられるような犯罪者のことを信じているのかという声があったということです。

 今日の箇所の少し前の14節からこの16節までを読んでみます。

 私はギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

 パウロは、ローマに住んでいるギリシア人に手紙を書き、このローマの人たちに福音を伝えたいと願っていました。ところが、ローマの人は、ローマ人ではない他の人たちのことを全部ひとくくりに「未開人」と呼んでいたようです。未だ開拓されていない地の人というわけですから、完全に上から目線です。もっとも、そう言えるほどの栄華がローマにはあったのです。

 そんな華やかな都に憧れて、世界中から人が集まってきます。珍しいものが運び込まれてきます。ローマにいれば、それだけで世界を知ることができたわけです。そのローマの人たちに、主イエス・キリストを語ろうとするときに、ポンテオ・ピラトによって十字架につけられたユダヤ人の話にが、ローマ人の心を惹きつける魅力がどのくらいあったのかということは、想像するよりありません。

 この頃、パウロはまだローマを訪れてはいませんでしたが、ローマにすでに教会が出来ていたようですから、各地でキリスト者になった人々がローマに福音を届け、ローマの中にも主イエスを信じる人の集まりが出来ていたようです。それは、とてもすごいことですが、パウロはさらに多くの人に福音を届けたいと願ったのは当然のことでしょう。けれども、最初から主イエスの十字架の話をすると、それ以上聞く必要はない、そんな恥ずかしい人物の話になど聞く耳を持たないといった人がいたのは、想像に難くありません。

 そして、教会の人々もまた、そのような主イエスの福音をローマの人々に語ることに恥ずかしさがあったのかもしれません。それは、ローマの人たちであれば経験的にもよく分かるのです。それは、私たちでも、同じことが言えるかもしれません。

 先日、教会でこの説教に先立ちまして、聖書の学び会で、この箇所を一緒に読みました。その時に、福音そのものを恥とは思わないけれども、福音にふさわしい生き方ができていない自分を恥じるという思いがあると、多くの方が口をそろえて言われました。それは、私たちが誰もが抱く思いであるかもしれません。

 聖書が語ることは素晴らしい、神の恵みも本当に素晴らしい内容だと思う。けれども、それを人に語ろうとするときに、「じゃあ、あなたはその福音にふさわしい生き方ができているのですか?」と問われると、自分はその福音にふさわしい生き方はできていないと、自分を恥じる思いというのが出てくるのです。 (続きを読む…)

2020 年 6 月 14 日

・説教 エゼキエル書16章6節「生きよ!」

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2020.06.14

鴨下 直樹

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 6月に入って、この長い間続いた新型コロナによる外出制限が少しずつ解除されはじめています。この期間、私たちはステイホームといって、外に出ないようにということが言われてきました。

 家に留まっていることが全く苦痛ではない人にとっては、とても良い時間になったのではないかと思います。けれども、一方で、その期間孤独と向き合い続けなければならなかった人もあると思います。先日も買い物で近くのイオンに行きましたが、思っていたより人が少なくて、まだまだ、沢山の人が外出を控えているのだということを目の当たりにしました。

 外出できない、人と会えない期間が長く続きますと、人によってはどこかで自分は世界から取り残されて独りぼっちであるかのような、そんな思いを持つ方もあるのではないかと思うのです。

 私は長い間、教団の学生の担当牧師をしていました。といっても今から15年以上の前のことですから、今の学生たちとは少し違うのかもしれません。学生たちと膝を突き合わせて話してみると、時折出てくるのは、自分の自信のなさ、それは信仰のことだけではなくて、勉強のこと、運動のこと、容姿のこと、家族のこと、あれもこれも、みんな自分はだめだという劣等感を抱いてしまっている学生が少なくありませんでした。そういう複雑な思いの中で、進路をどうするかについて決めなければならないわけですから、そこで嫌でも、自分のポジションというものが突き付けられます。そして、さらに自信をなくしていくということが起こってしまいます。

 大人になりますと、不思議なもので、経験的になんとかなるということを覚えていきます。自分と向き合わなくても、何とかなるという経験をしていくことで、自分と向き合わずに生きていくすべを身に着けてしまいます。

 その時期のことを「アイデンティティ・クライシス」なんていう言い方をすることがあります。何も、英語なんか使わなくてもいいのかもしれませんけれども、「人生の危機」と言ったらいいのでしょうか。自分自身の存在が問われているという危機感と向かい合う必要が出てくるわけです。

 私たちは、シンデレラの物語をよく知っています。父を亡くしてしまったシンデレラは父親の再婚相手の母親と、その子どもたちによって、まるで家政婦のように下働きを命じられてしまいます。ところが、お城からの舞踏会の知らせがあった時に、魔法使いの助けによって、綺麗なドレスを与えられて、カボチャの馬車に乗って、お城の舞踏会に参加するのです。そして、そこで王子に見染められる話です。

 自分の現実である悲惨さから、自分の本当の価値を王子によって回復される、まさに、シンデレラ・ストーリーです。

 今日の聖書の話は、まさに、聖書の中に記されたシンデレラ・ストーリーが、このエゼキエル書の16章の1節から14節です。

 物語はいたってシンプルです。ある家庭に、一人の赤ちゃんが生まれます。女の赤ちゃんです。普通であれば、生まれたばかりの赤ちゃんは、へその緒を切られ、産湯につかり、綺麗な布でふき取られて、布にくるまれて母親の腕に抱かれるのです。けれども、この時の状況はそんなご時世ではありませんでした。男であればまだ跡継ぎとして、あるいは家族の支えになったのでしょうが、女の子では食い扶持が増えるだけです。それで、その赤ちゃんは、生まれたままの、それこそ血まみれの状態で捨てられてしまうのです。そして、誰ひとりとして、そんな赤ちゃんを代わりに育てようとする人もなかったのです。

 ところが、そこに王様が通りかかります。その王様が、その赤ちゃんを見つけるなり、言った言葉が、今日読んだ聖書箇所です。 (続きを読む…)

2020 年 6 月 7 日

・説教 ローマ人への手紙2章11節「えこひいき?」

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2020.06.07

鴨下 直樹

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「神にはえこひいきがないからです。」

 今日の聖書にはそのように書かれています。「えこひいき」という言葉は、私たちにいろんな連想をさせます。

 以前、ドイツにおりました時に、平日の「ユングシャー」と呼ばれる子ども集会のお手伝いをしておりました。ドイツの学校はほぼ午前中で終わります。学校が終わってから、塾にいくという習慣もありませんから、子どもたちは午後のびのび生活しています。それで、教会では平日に子どもたちを集めまして、子どもの集会を持つのですが、その多くの時間ゲームをして過ごします。ゲームといってもビデオゲームではなくて、体を使ってする様々なゲームです。

 そのゲームをしていた時に、ひとりのスタッフが、小さな子どもや、あまりそのゲームが得意ではない子どもに対して、少しルールを緩めて、沢山点数がとれるようにしてやったのです。すると、それを見ていた子どもたちが一斉に「アンフェアー!」と叫び出しました。

 私はその姿をみながら、ああこういう時は「アンフェアー」と言うんだと言葉を覚えて喜んでいたのですが、子どもたちの顔は真剣そのものです。そして、日本の子どもならなんて言うんだろうと想像してみたのです。岐阜の方言なら「ずるやげー」とか「ずりーげー」とか言うのかもしれません。あるいは「ひいきやん」、「えこひいき」と言うのかもしれません。

 「フェアーではない」という言葉と「えこひいき」という言葉のニュアンスは少し違うようにも感じます。
私の持っている国語辞典で意味を調べてみると、「えこひいき」は、「自分の気にいった者だけの肩をもつこと」と書かれていました。「アンフェアー」というのは「不公平」ということです。意味は似ていますが、えこひいきという場合には判断する側の主観に強調点が置かれている感じがします。

 このパウロの手紙の「神にはえこひいきがないからです」という言葉は、神が裁きをするときの態度のことを指して言っている言葉です。つまり、この箇所のテーマは「神の裁き」です。そして、神が裁きをなさるときには、神の主観で、人をえり好みしたりはしないのだということが、ここで言われているということになります。

 考えようによっては当たり前のことなのかもしれません。神が人を裁くときに、同じ基準で判断しないとしたら、それこそ、「アンフェアー」と叫びたくなります、けれども、パウロはここで、神はそんなことをしない。公平に裁くのだと言っているのです。

 問題は、パウロはここで人を裁く場合のことを語っているのですが、私たちが人を裁くときには、どういう視点で裁きをしているのかということです。

 先日、この聖書箇所を調べるためにいくつかの本を読んでおりましたら、ある本にこんな文章が載っておりました。

以前、ある評論家が、子供の親に勧めていることがありました。
一日でいいから、自分と子供の会話を全部録音してごらんなさい。そして、一人でゆっくり録音を再生して自分の言葉を数えてごらんなさい。あなたが裁判官のように、子供に何回の判決を申し渡したか、朝起きてから寝るまでに、あなたの子供は何回被告席に座らされ、何回有罪判決を下されているか、子供の立場に身をおいて聞いてごらんなさい。その教育評論家は、更にこう問うのです。裁判官は判決を言うだけ、でもあなたは、それ以上の刑罰を子供に課していないか。

 私はこの文書を目にして、もう自分の心が痛んで痛んでしょうがないのです。本当に、一日録音した方がいいかもしれないなどと思わされます。親が子どもを叱る場合、他の方はどうか分かりませんけれども、問答無用で一方的に裁いてしまうということをしてしまいがちなのです。子どもにそうであるということは、他の人に対してもそうすることがあるわけです。 

 私たちが人を裁いてしまう場合のことを考えてみますと、子どもにするときもそうですけれども、自分が正しいという立場に身を置いて、人を裁きます。自分のもっている常識や、価値基準というものが、判断するときの材料になります。けれども、一方的に悪者にされてしまう側にも、それなりの道筋があるはずなのです。ということは、本当に人を裁くためには、その人に寄り添って、その人がどういう信念を持っていて、どういう判断をして物事を考えているのかということに、思いを馳せることがどうしても必要になるはずなのです。 (続きを読む…)

2020 年 5 月 31 日

・説教 ガラテヤ人の手紙5章13-26節「御霊によって歩む」

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2020.05.31

鴨下 直樹

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 今日の17節に、「あなたがたは願っていることができなくなります」という言葉があります。私たちはこの数か月の間、確かに願っていることができない状態がつづいていますから、この聖書の言葉をよく理解できるかもしれません。

 コロナウィルスが終息に向かいつつある中で、私たちは少しずつですけれども、自分のしたいことができるようになり始めています。外食をする。誰かと一緒に楽しい時間を過ごす。スポーツジムに行く。いろんな願いが、私たちの心の中に膨らんできています。

 今日の聖書箇所のテーマは「自由」です。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。

と13節にあります。私たちはそもそも自由に生きるように、神は私たちを召した。任命したのだと言うのです。本来は、誰かと楽しく会食をするのも、ジムに行くのも、外食するのも自由です。ただ、パウロはこう続けます。

ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

 この後で、「肉」という言葉と「霊」という言葉が反対の意味の言葉として出てきます。この「肉」というのは、人の心の中に働く自分中心の考え方のことを「肉」と呼んでいます。 

 私たちは自由に生きていいんだけれども、その自由を自分自身のために使わないで、「愛をもって互いに仕え合いなさい」とパウロは勧めているのです。

 ただ、私たちはこういう命令の言葉を見つけますと、もうさっそく「自由」ではない気分になります。なんだ、命令されてるんじゃん。命令に従うなんて自由じゃないじゃん。そんなふうに感じるのです。そして、やっぱり自分の好きなようにやりたいという思いが、頭をのぞかせるわけです。

 自由の難しさはそこにあります。命令されてやるのか、自主的にやるのか。どっちがいいのかということになります。今回のコロナの対応について日本のやり方は、「命令しないが、自主的にお願いします」というスタンスでした。そして、見事にそれをやってのけたことを、世界中の国々が驚いています。もちろん命令されてやるよりも、自主的に判断してやる方がいいに決まっているのです。けれどもほとんどの場合はうまくいかないわけで、それで世界中が驚いているのです。そもそも命令されるというのは、その人がちゃんとできないと思っているからです。 (続きを読む…)

2020 年 5 月 24 日

・説教 創世記25章27-34節「何に価値を見出すか」

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2020.05.24

鴨下 直樹

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 ドイツにいた時のことです。最後の半年間私はある町の教会でインターンとしての実習を受けることになりました。その教会の牧師は日本でも宣教師として働いたことのあるクノッペル先生の教会です。当時、まだ青年だった私はこのクノッペル先生ととても仲がよくて、良い時間を過ごしていましたので、このインターンの期間はとてもよい実習の時となりました。

 この牧師の書斎の机の上にいつもひとつの石ころが置いてありました。遠くから見ているだけでは特に変わった石には見えません。ごつごつした黒っぽい石です。私自身は、石ころにとてもロマンを感じます。これは、どこにあった石なのか、どんな歴史を経て来たのか、何万年前からあるのか、そんな想像力を掻き立てられます。あるとき、私がクノッペル先生に、この石はなんですかと質問してみました。すると、クノッペル先生は顔を輝かせて、まるでその質問を私がするのを待っていたとばかりに、その石について語り始めました。最初に見せてくれたのは、その石の後ろにライトを当てて、よく見るように言われました。すると、なんとその石の後ろに置かれた光を通して見てみると、その石の中に水が溜まっているのが見えるのです。そして、この石の中の水はいつからここに閉じ込められていて、何万年前の水かと想像するとわくわくするという話を聞かせてくれたのです。

 何となく、この人は私と同じタイプの人間なんだと共感できた一瞬でした。もちろん、何の興味もない人からすれば、それはただの石ころでしかないのですが、ちょっと関心を向けると、そこにはとてつもないドラマがあることが分かります。一見、何の変哲もない石に見えても、そこに秘められたドラマに価値を見出すこともできるわけです。

 今日の聖書は、エサウとヤコブの兄弟のある一日の出来事が記されています。読みようによっては、何の意味も感じられないような出来事なのかもしれません。弟が作っていたレンズ豆の煮物を、兄が食べたいと言った時の小さな会話。それだけのことです。けれども、小さな出来事の中に、聖書は実に大きなテーマを取り扱おうとしています。
 それは神の選びと委棄の物語です。「委棄」(いき)という言葉はあまり普段使わない言葉です。委ねられたものを放棄するということです。つまり、この場合、長男としての権利を、エサウは放棄したということです。

 私は五人兄弟の二番目で、長男です。上に姉がおり、下に、弟が二人と、妹が一人います。子どもの頃、まだ小学生の頃のことです。弟は、この話が気に入ったのか、時々神様は弟を祝福するというテーマの話を私にしていました。私は弟になったことがありませんでしたので、兄の持つ価値ということに、あまり興味がありませんでした。もっとも、姉はそうではなかったようで、兄弟げんかがはじまると、その責任を問われるのはいつも姉でしたからずいぶん悩んだのだと思います。そう意味では、私は気楽な二番目の長男だったわけです。けれども、たとえば、おやつを兄弟と分けるというような場合になれば、長男の権利を発動して、大きなものを取ることができましたので、長男のありがたみをそれなりに満喫していたのだと思います。けれども、弟からしてみれば、いつもいい方を兄である私がかっさらって行くわけですから、面白くなかったのでしょう。そんなこともあって、この聖書の物語にことさらに興味を覚えたのかもしれません。

 あるとき、ヤコブがレンズ豆を煮ていると、兄のエサウが疲れて帰ってきます。何日も狩りに出かけてへとへとになって帰って来た。そんなことだったのかもしれません。そして、兄はちょうど料理をしていた弟に、その豆の煮物を欲しいと頼むのです。それは何でもない日常の一コマの出来事です。「いいよ」と言って差し出せばそれで済む話です。ですが、ヤコブはその時にこう言います。

「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」

31節です。 (続きを読む…)

2020 年 5 月 17 日

・説教 創世記25章19-26節「イサクとリベカの祈り」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:53

2020.05.17

鴨下 直樹

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 先週の15日、新型コロナウィルス感染拡大防止のための緊急事態宣言の解除が出されました。この岐阜県でも段階的に解除していくという指針がだされています。本当に長い期間に感じられましたが、少しずつ本来の生活を取り戻していくことができるようになればと願っています。

 特に、教会に集って礼拝ができなくなるなどということは、これまでの歴史のなかでもそれほどないことです。ですから、多くの方がまた一緒に礼拝ができる日が来るようにと祈ってこられたと思うのです。

 さて、今日のテーマは「祈り」です。イサクが祈り、またリベカも祈っています。私たちもまた祈ります。このような事態から一日も早く回復できるようにと祈ります。祈りには色々ありますが、ここに記されている祈りは、願い求めの祈りです。
 私たちはお祈りをするという時に、そのほとんどが、この願い求めの祈りだと思います。神様に願い事をする。願い求めの祈りをする。それはごく日常のことです。車に乗るとき、運転が守られるように祈る。仕事に出かける時、玄関先で短く、今日の一日の守りを祈る。家族の健康が支えられるように祈り、あるいは、他の人の病気がいやされるように祈る。私たちの祈りの生活の多くが、そのような願い求めの祈りです。そして、時折、私たちにはどうしても祈りをかなえてほしい願いがでてくることがあります。

 時々、お話しすることですけれども、私が中学3年生の時、毎日窓を開けて、天を見上げながらある祈りをしました。それは、私はあまりにも勉強をしていなくて、入学できそうな公立の高校がありませんでした。先生からも私立の受験をすすめられていましたが、我が家にはそんな経済的な余裕がありません。それで、私は一念発起しまして、その日から、毎日祈りました。「神様、どうか私の頭がよくなるようにしてください。あなたはソロモンに知恵を与えられました。私にもできるはずです。」とかなんとか言う祈りです。毎日、毎日、勉強もしないで、祈り続けました。結果、頭は全然よくなりませんでした。幸いに、何とか県下の工業高校に当時は最高の2.6倍という倍率を乗り越えて、公立ぎりぎりの高校に入ることが出来たのは、神様の憐れみだったのだと思います。なんでそんなに倍率が高かったのかよく分かりませんけれども、たぶん、そこが公立の一番下のラインという事で、受験する人が殺到したのだと思います。

 みなさんにはこんな経験があるでしょうか。私たちが祈るとき、時としてとてもわがままな祈りになってしまうことがある気がします。

 ですが、少し考えてみる必要があると思うのです。たとえば、みなさんが相手は誰でもいいのですが、誰かから、顔を合わせるたびに、「ねぇ、お願い、お願い」と願い事ばかりを頼まれたらどうでしょう。ちょっとうっとうしく感じるのではないでしょうか。そういう人と少し距離を取りたいと思うのではないでしょうか。

 よく、デパートに買い物に出かけますと、小さな子どもがおもちゃ売り場の前で泣いていて、母親が腕をひっぱったり、あるいは子どもを無視したりしている光景を目にすることがあります。私はあの光景を見るのは嫌いではありません。がんばっている親の姿を見て、どこか応援したくなる気持ちがあります。みんなそういうことを通して、願うものは何でも手に入れられるわけではないのだという事を、体験的に学んでいくわけです。

 ところがです。不思議なこともあるものですけれども、こと神様にお願いをするときに、私たちは時折この子どものような祈りをしてしまうことがあるのも事実です。祈ったものが与えられないと、へそを曲げたり、腹を立てたりします。でも、よく考える必要があるのです。親は、自分の子どもにでさえ、すべてのものが手に入れられるわけではないことを教えるのに、神さまは全部何でもいうことを聞いてくれると考えるのは身勝手なことなのだ、ということがそこで明らかにされている。それ以外の何物でもないのではないか。そんなことに気づくことが必要なのだと思うのです。

 さて、今日のところからイサクの物語に移っていきます。そして、聖書はここでイサクを描くのにあたって、まずこう書いています。21節です。

イサクは自分の妻のために主に祈った。彼女が不妊の女だったからである。

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2020 年 5 月 10 日

・説教 創世記25章1-18節「その後のアブラハム」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:57

2020.05.10

鴨下 直樹

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 20年ほど前のことです。当時私が牧会していた教会に、音楽をやっている20代の女の子が来るようになりました。毎週、教会に集い、よく説教に耳を傾けていました。あるとき、当時私は教団の学生や青年たちの担当していたこともあって、教団の青年の交わりに、その女性を誘いました。同世代の子たちと仲良くなれるといいなと思ったのです。ところが、彼女は、私が青年たちとはしゃいでいる姿の方に驚いたみたいで、終始、周りの青年たちに鴨下はいつもこうなのかと聞いてまわっていたのです。どうも、日曜の私の説教の姿と、青年たちと一緒に騒いでいる姿が重ならないので、そのギャップに驚いていたのです。

 その当時、わたしの普段のイメージを知っている方の教会に、礼拝説教者として呼ばれたことが何度かあったのですが、よく「先生の説教は案外普通なんですね」と言われました。暗に面白い話を期待していたようなのですが、それほどでもないので、がっかりしたようです。私としては何とも申し訳ないのと、どんなのを期待していたんだろうと、そのころはずいぶん悩みました。

 今もそれほど変わっていないのかもしれませんが、どうも私に期待しているものと、実際の私には大きなギャップがあるのかもしれません。今、目の前に人がおりませんので、こういう話を誰もいない会堂でやるのはちょっと勇気がいります。今のは一応笑うところです。

 私に限らずですが、私たちはきっとお互いにそんなところがあるのだと思います。いかがでしょうか。教会に来ている時の自分の姿が、自分のすべてではない。なんとなく、そんなギャップに苦しんでいる方もあるかもしれません。

 人にはいろいろな顔があります。人に見せてもいい姿と、人にはあまり見せたくない姿。そして、この人たちには自分のマイナスの面を見せたくないとか、あるいは、本当の自分を知られたら困るとか、そんな思いがひょっとすると、どこかにあるのかもしれません。

 今日のアブラハムの姿は、まさにそんなアブラハムの新しい一面を垣間見せるものです。というのは、アブラハムにもう一人ケトラという側女(そばめ)がいたというのです。しかも、6人も子どもがいたというのです。ちょっとこの最後にきて耳を疑いたくなる話です。今までのは一体何だったのと言いたくなります。

 私たちは何となく、聖書を順に読んでいきますから、息子のイサクがリベカと結婚したので、その後でアブラハムが再婚したようなイメージで読むのですが、どうもそういうことではないようです。100歳のアブラハムに子どもが生まれるのは難しいと言っているのに、イサクが結婚した後ということは、アブラハムは140歳を超えていることになりますから、そうやって読むのは現実的ではありません。1節に「再び妻を迎えた」とありますが、これは恐らくハガルを妻としたときと同じようにという意味なのでしょう。ですから時期としてはまだサラがいた時のことだと考えた方がよさそうです。ただ、ハガルの子、イシュマエルはアブラハムの子孫とされていませんから、ケトラの子たちも、同様にやがて「東の国に行かせた」と6節にあるように、アブラハムの子孫のようには考えられていなかったということなので、最後の最後まで物語の中心にはなりえないということで、これまで書かれていなかったということなのでしょう。

 こういうアブラハムの一面を、最後の最後に聖書はなぜ書くのかという思いになるのですが、それが聖書です。都合のいい部分だけでなく、その人となりを描くことによって、アブラハムという人物の姿を描き出しているのです。 (続きを読む…)

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