2018 年 6 月 17 日

・説教 イザヤ書64章8節「あなたは私たちの父、私たちの陶器師」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:35

2018.06.17

鴨下 直樹

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 もう、少し前のことになりますが、ある方からこんな質問をされたことがあります。「お祈りする時に、天のお父様と聞きますが、どうして神さまのことをお父さんと言うのですか? お母さんではダメなのですか?」。その質問の後で、色々なことを話しました。話していく中で、こんな質問が出て来ました。お父さんというのは、人によってイメージが違うと言うのです。もし、お父さんについて、いい印象を持っていなかったらお祈りをする気持ちになれないんじゃないか。そうなるくらいなら母なる神さまでもいいし、どんなイメージでもいいんじゃないか。そんな話になりました。

 私がまだ青年だったころ、教会にずっと通っていた中学生の男の子がいました。この男の子が高校生になったときに、教会で主の祈りの話をしたことがあります。その時に、お祈りの時に、主イエスは天のお父様とお祈りされた。私たちも、主イエスを信じることによって、神の子どもとされる。だから、私たちは主イエスと同じように、神の子どもとされるので、主イエスが「天の父よ」と祈られたように、私たちも「天の父よ」と祈るんだという話をしました。すると、この高校生が、びっくりした声をだして、「えー、ぼく今まで、天のお父さまというのは、死んだおじいちゃんのことだと思っていた」と言ったので、私は反対に驚いてしまいました。もう3年ほど教会に通って来ていたのに、ずっと死んだおじいちゃんにお祈りしていたのかと知ってショックを受けました。でも、確かに聞いたことがなければ分からないのかもしれません。

 今日は、父の日です。そして、いつも第三週は伝道礼拝の時を持っています。この時はできるだけ、分かりやすい話をしたいと思っています。それで、今日はこの「父なる神」について考えてみたいのです。 (続きを読む…)

2018 年 6 月 10 日

・説教 マルコの福音書7章31ー37節「エパタ―神の言葉が聞こえてくる―」

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2018.06.10

鴨下 直樹

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 先週の月曜日から水曜日までJEAと言いますが、日本福音連盟の総会が行われました。福音派と呼ばれている教会や教団の代表者が集まって総会を行うのです。今回の総会では、5年後の伝道会議の会場が東海地区に決まりました。

 この総会に先立って、東海地区のこれまでの取り組みについて報告する時間がありました。私は東海聖書神学塾の働きについて紹介して欲しいということでしたので、神学塾の働きについて紹介しました。この東海地区というのは、私たちが所属しています福音派の教会が良い協力関係を長年築き上げて、宣教協力をしてきましたし、また地元の奉仕者を育てるための機関として神学塾がその役割を担ってきました。こういうこれまでの東海地区の働きを知ってもらって、その翌日の総会で5年後の会場が決議されたわけです。

 今回、3日間の総会で、その他にも様々なJEAとしての取り組みも紹介されましたが、その中で何度も何度も語られた言葉の中に、「次世代」という言葉があります。今、日本中の教会で、次の世代、特に若い人に福音が届かないという共通した危機意識があるようです。日本の教会の将来はこの次世代に、若い人たちに福音が届いていくのかどうか、それが大きな課題となっているのです。

 私自身は、福音が届きにくくなっているその背後に、スマートフォンの普及があると考えています。スマートフォンの普及によって、人々の、特に若い人々の生活が大きく変わりました。電話や音楽や写真がいつでも手軽に楽しめるということもありますが、それ以外にも、例えば本の購入にしてもテレビ番組や映画なども、今はこのスマートフォンで自分の好きなものを簡単に選ぶことができます。 (続きを読む…)

2018 年 6 月 3 日

・説教 マルコの福音書7章24-30節「柔らかい心を持って」

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2018.06.03

鴨下 直樹

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 今日の聖書の箇所は私たちには少し新鮮なというか、新しいイエス像を描かせるものではないかと思います。24節にこう記されています。「イエスは立ち上がり、そこからツロの地方に行かれた。誰にも知られなくないと思っておられた」とあります。

 読んだ印象からすると、これまでの流れの中で、主イエスはもうちょっと人と会いたくない気持ちになられて、誰も自分のことを知らない外国に足を延ばされたわけです。このあたりだと、ちょっと下呂にでも温泉旅行に行こうかというような感覚であったかもしれません。主イエスも人に会いたくないと思われるようなところがあるのだということに、私たちは親近感を覚えるかもしれません。あるいは、意外性を感じるかもしれません。

 けれども、これまでのマルコの福音書を読んでいきますと、主イエスの弟子たちはどうもあまりパッとしないのです。五つのパンと二匹の魚の奇跡のときも何も感じることもなく、向かい風の湖の試練でも、主イエスの願いは届かず、この前のパリサイ人や律法学者たちとけがれについて議論した時も、弟子たちは何の話を主イエスがしておられるのかさっぱりつかめていないのです。このあまりの弟子たちの不甲斐なさと、自分の願いばかりを押し付けて来る群集、そして議論を吹っかけて来るパリサイ人や律法学者たち。ちょっと疲れた。静かなところに行って休みたい。そんな雰囲気を読み取ることができます。

 ところが、主イエスにはそんな時間が与えられるべくもなく、一人の女の人がやって来ます。彼女は幼い娘を持つ母親で、娘は汚れた霊につかれている。どんな状態なのかは分かりませんが、最後のところでは「床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていた」と記されていますので、何かの病気に冒されていたのを「汚れた霊につかれていた」と表現しているのかもしれません。この小さな病の娘を持つ母親は、主イエスに娘の回復を願いに来るのです。

 このツロという地域は、主イエスたちのことばと同じアラム語を話す人も多い地域でしたので、会話も問題なかったようです。ところが、この人は「ギリシア人」とあります。ギリシャ語を使う人ということです。生まれはシリア・フェニキアとありますので、ツロという町のある地域をさす地域名です。つまり、生粋のこの地域の人は、アラム語は話せないというのは珍しいことではないわけです。

 ここで興味深いのは、主イエスはこの母親の願いにこのようにお答えになられました。27節です。

「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」

このように主イエスは言われたのです。 (続きを読む…)

2018 年 5 月 20 日

・ペンテコステ礼拝説教 使徒の働き2章1-13節「聖霊が注がれる時」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:48

2018.05.20

鴨下 直樹

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 今日はペンテコステと呼ばれる主の日です。クリスマスやイースターは今ではその意味を多くの人が知っています。この二つの大きなお祝いの日と並んで三大祭と数えられているのがこのペンテコステ、聖霊降臨祭です。この日は、聖霊が与えられた日、そして、教会が誕生したという二つのことを覚える日です。

 ところが、この「聖霊」というのがよく分からないという方が案外多いのです。先ほど、子どもたちと一緒に「聖書のおはなし」を聞きました。ずいぶん丁寧に、この「聖霊」の働きについて説明してくださったので、少し整理できたのではないかと思います。

 今日の聖書でも、この聖霊の性質について大事なことがいくつか書かれています。少し、聖書の箇所をみてみるとこのように書かれていました。

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると、天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。

 ここで、聖霊のことが「激しい風」と表現されています。この聖霊のことを風と表現するのは、実はこの聖霊の性質についてよくあらわしています。「風」というのは見ることはできませんが、感じることができます。そこに動きがあるからです。神の霊である聖霊も、見えないから分からないと感じるかもしれませんが、風のように、そこに動きがあるので分かるわけです。聖霊というのは、動き、働きです。じっと動かないで何も起こらないというのではなくて、聖霊はその働きを通して、その存在を感じることができるのです。

 この聖霊の働きというのはこれまでのイスラエルの人々の信仰から大きな変化をもたらしました。その天地を創造されたまことの神のお働きが、聖霊によって、まるで風が吹いているかのように、しかも激しい風のように吹き付けることによって、神の働きを感じることができるようになったのです。

 しかも、この2節ではこの「風」は「響きが起こった」とあります。この聖霊の働きは、「響き」となって「音」となって人に理解されたというのです。この神の霊による働きかけは、壁にさえぎられると感じることができなくなってしまうというのではなくて、響きとして、音としても聞き取ることができた。つまり、誰もがこの聖霊の働きを知ることができるということがここで表現されていたわけです。

 そして、3節では

また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。

と書かれています。「炎のような舌」というのは象徴的な表現です。この表現も2節の「風のような響き」という言い方と同じようで、まず、聖霊の働きを炎で表現しています。 (続きを読む…)

2018 年 5 月 13 日

・説教 マルコの福音書7章1-23節「聖く生きる」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 20:12

2018.05.13

鴨下 直樹

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 5月も第二週を迎えました。以前、マルコの福音書から説教をしたのは3月の終わりですから、約二か月ぶりにマルコの福音書に戻ってきました。この間に色々なことがありました。先週は神田先生をお招きして説教していただきましたし、岐阜市長までもが礼拝を訪ねてくださいました。また、その前は山田長老がご自身の証を交えて説教してくださいましたし、ファミリー礼拝で避難訓練をしましたので、そういうテーマで説教をしました。また、洗礼入会式やイースター、受難日の礼拝などと毎週目まぐるしくテーマが変わってきましたので、もうマルコの福音書の話の流れが頭の中で切れてしまっている方がほとんどだと思います。

 そういう意味で言えば、このマルコの福音書の7章はこれまでの奇跡のことが書かれたまとまりが終わって、新しい段落に移るところですから、ちょうど少し内容が変わるところと言っていいと思います。

 このゴールデンウィークの始まりました時に、東海聖書神学塾主催で教会学校の教師のための研修会が行われました。今回は「子どもを知る」というテーマで二人の講演を聞きました。一人目は私の姉で小学校の教師をしています。学校の教師の現場からみて、今の子どもたちを知るという話を聞きました。この講演はとても興味深いもので、「小学生白書」という子どもたちの現状を示すアンケートのとりまとめから、今の子どもたちの生活ぶりがどうであるかということを、アンケートの表をもとに話してくれました。

 私自身、自分で姉に講演を依頼しておきながら、こんなに専門的なデーターを使って話をするのだとは思っていなかったのですが、とても興味深く聞きました。その後は、マレーネ先生が聖書の中で子どもはどのように記されているのかを丁寧に掘り下げてくださって、聖書が子どもをどう見ているのかということについて話してくださいました。どちらもとても興味深い話でした。この二人の講演を聞きながら、自分が分かっているつもりになっていることが、いかに正しい考え方をできなくさせているのかということに改めて気づかされました。

 特に、私の姉がその講演でいろんなデーターを使って子どもたちの現状を話してくれたのですが、例えば子どもの睡眠時間のデーターを見ると、子どもは平均で朝の6時半に起きるということが分かるわけです。そういうデーターを見ると、うちの子は今6時に起きているのですが、平均より少し早く起きるのは、学校が遠いから仕方がないことかな、などと思うわけです。ところが、姉はそういうデーターをはじめの時間で、ざっと説明してみせた後で、もう一度、そのデーターの細かな点に焦点を当てて話し始めました。

 例えば、その表で朝の5時半以前にすでに起きている子どもは全学年平均で8.8%もいるというようなことを話すわけです。学年によっては11.5%の子どもがすでに5時半に起きている。どういう理由があるのか、そんなに早く起きていて授業中に眠くならないのだろうかと話して、今度はでは何時に寝るのかというデーターを説明します。すると、平均の就寝時間は夜10時なのですが、夜11時半以降に寝る子供も8.8%いる。では10時以降に寝る子どもは何をしているのかというと、そのデーターによると、テレビを見ているとか、インターネットをしているとか、ゲームをやっているという子どもが合わせると55%いる。つまり、平均の中からは見えてこない、さまざまな子どもを取り巻く環境というのがあって、睡眠が足りていない子どもたちが一定数いるということに目をとめる必要があるというわけです。

 子どもは早寝早起きがいいということは誰もが分かるのですが、そうできない環境というのがあって、そのことを理解していないと色々な失敗をしてしまう。目の前に起こっている現象だけでなくて、その背景に何があるのかということをしっかりと見極めることが求められるということなのだと思うのです。 (続きを読む…)

2018 年 4 月 22 日

・説教 申命記 4章32―40節 「避難と訓練」

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2018.04.22

鴨下 直樹

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 今日はファミリー礼拝です。この礼拝の後で、避難訓練を行います。とても短絡的と思われるかもしれませんが、そういうこともあって、今日の説教題を「避難と訓練」としました。

 私ごとで始めて恐縮ですが、私が小学校四年生の夏休みの時に、家が火事になってしまいました。第一発見者は私です。今から思うと、いつ火事になってもおかしくなかったような建物だったのだと思います。一階の風呂釜の炊き出し口の周りを覆っていたトタンの下にあった断熱材に火が引火してしまったのです。トタンの下の断熱材が炊き出し口の火の出ているところにむき出しに出ていたんだそうです。ガス窯から出ている炎が断熱材に引火して、その火が一階の風呂場の壁を燃やして、二階にあった台所にまで燃え広がりました。

 その時、私たち家族はリビングでくつろいでいました。となりの台所から何やら物音が聞こえてくるので、私と母が様子を見に行きました。台所の扉を開けると、すでに火が屋根にまで届いているのが見えました。すぐに「火事だ」と大騒ぎをして、兄弟たちも、みんな一目散で外まで逃げました。後で気づいてみると、兄弟の中で私だけが靴を履いていて、他の兄弟はみな裸足です。自分でも落ち着いていたものだと思います。子どもの頃から保育園や小学校でしていた避難訓練の賜物なのかもしれません。あっという間に火は家を呑み込みまして、二階の住宅部分は全焼してしまいました。ですから、火事なんて起こらないから避難訓練なんてどうでもいいと考えたことはありません。子どもであったとしても慌てないで落ち着いて行動するというのは日ごろの訓練の賜物なのだと思います。

 火事が起こる。地震が起こる。何か、とても大変なことが起こって、別のところに避難しなくてはならなくなる。私の場合はその後、父方の祖父母の家で残りの夏休みを過ごしました。その後、教会の隣にあった、かつて宣教師の住んでいた家にしばらく住んだことを覚えています。避難したところでの生活というのは、そういう意味で言えば一時的なのでしょうし、そこからまた新しい生活というのを作り直していかなければなりません。

 今日のファミリー礼拝のために簡単な案内が作ってあって、そこには今日のテーマは「私たちの避難場所」と書かれていました。そういう言葉をみると、困ったときの一時的な待避所のようなイメージを持ってしまうなと思いました。困ったことが起こると少しだけ、そこで避難させてもらって、また落ち着いたら元の生活に戻る。ひょっとすると、教会という場所をそのような場所と考えてしまいやすいかもしれません。毎日の生活からちょっと環境を変えて、一時的にここに避難して、また私たちの生活をしていく。けれども、そういう一時的な逃げ場所のようなものというのは、ある時は必要かもしれませんが、そうなると、困ったときだけ、神さまにちょっと出て来ていただいて助けてもらって、でも、普段の生活には神さまなんてそんなに必要ないというようなことにもなりかねません。 (続きを読む…)

2018 年 4 月 8 日

・説教 ローマ人への手紙10章9-11節「主を信じる信仰」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:36

2018.04.08

鴨下 直樹

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なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることはない。」(新改訳2017訳)

 さきほどYさんの洗礼入会式を行いました。洗礼式の時に、五つの誓約をいたします。
「あなたは天地の造り主、生けるまことの神のみを信じますか。」「あなたは、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われていることを確信しますか。」そのように尋ねていきます。そうしますと、「信じます」「確信します」と答えるわけです。すでに洗礼を受けておられる方はみなそのようになさったと思います。

 それは、先ほど読みました聖書の言葉を土台にしていると言っていいと思います。「人は心で信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とあるように、心に信じて、告白することが大事なのです。

 では、心に何を信じるのかというと、「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じる」ということです。先週私たちは礼拝でイースターをお祝いしました。主イエスがよみがえられたことをお祝いしているわけです。ところが、先週の説教でもお話しましたが、死んだ人がよみがえるなどいうことは、ちょっと信じられないような話です。実際、ルカの福音書の最初の記述は、誰も信じられなかったと書かれているわけです。けれども、考えてみると、復活のことだけではなくて、聖書に書かれていること、特に主イエスが私たちにしてくださったことは信じられないようなことばかりです。
 
 先日も、洗礼を受ける方のための学びの時に、もう一度聖書が語っていることを簡単に説明しました。神がこの天地を造られたこと。そして、人間が神の思いに逆らって自分勝手に生きたために、楽園から追い出された事。そして、神はその後、次々に信仰の導き手を与えて、神の御心に応えて生きることが大事なのだということを示してこられました。けれども、神の民は神の心に従って生きようとはしません。それで、神は天からご自身が人の姿でこの世界に来られて、神の心に生きるというのはどういうことかを、自ら示そうとされました。それが、主イエス・キリストです。主イエスがどう生きられたのかというと、簡単に説明してしまえば、神を愛することと、人を愛して生きるということでした。それなのに、人は、主イエスを十字架につけてしまったのです。

 学びの中でも、こんな質問が出てきました。どうして、主イエスが十字架にかけられたことが、自分と関係あるのですか、という質問です。もっともな質問です。 (続きを読む…)

2018 年 4 月 1 日

・説教 ルカの福音書24章1-12節「イースターの朝」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 22:22

2018.04.01

鴨下 直樹

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 イースターおめでとうございます。復活の主の祝福が皆さんの上にありますよう祈ります。

 例年のように、イースターの朝、私たちはともに集まって賛美と祈りをささげ、一緒に朝食をいただきました。ようやく暖かくなってきて、外で過ごすことも楽しくなってきました。ここ数年でしょうか。スーパーのお菓子売り場に行きますと、イースターのパッケージのものを簡単に見つけることができるようになりました。少しでもイースターが多くの人の目に留まるようになることはいいことだと思います。

 イースターってなに?と少し興味をもって検索しますと、すぐに、イエス・キリストの復活をお祝いする日ということを見つけることができます。けれども、ここでちょっと考える人は、死んだ人がよみがえったの?という疑問が出てくるわけです。死んだ人が生き返るなどということは古今東西例がありません。そして、人がよみがえったという歴史的な記述もないのです。ただ、聖書の中には書かれているわけです。そして、それが、今日みなさんと読んでいる箇所です。

 特に、以前からお話していたように、今日から新改訳2017を使うことにしましたので、まだこれまでの聖書をお持ちの方は、ぜひ注意深く読み比べてくださればと思います。

 人がよみがえるというのは、どういうことなのでしょうか。このルカの福音書はこの復活の出来事の第一発見者となったのは女の弟子たちであったということを書いています。しかも、内容を読んでみるとこう書かれています。2017年訳で1節から4節まで読んでみたいと思います。

週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。見ると、石が墓からわきに転がされていた。そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。そのため途方に暮れていると・・・。

 まず、そう書かれています。この短い言葉で色々なことが分かります。主イエスが亡くなったのが金曜日です。土曜日は安息日ですから、当時のユダヤ人たちは安息日に働くことができませんでしたので、埋葬の備えをすることができなかったようです。それで、週が明ける日曜の朝早くに女の弟子たちは遺体に香油を塗って埋葬の準備をするために墓を訪ねたのです。ところが、墓の石、これは日本のような墓石ではなくて、洞窟のお墓ですから、大きな丸い石で蓋をされていたのです。その石が転がされていて、行って見ると遺体がなくて、途方に暮れていたと書かれているわけです。

 そして、この何でもないような記述、主イエスの復活を告げる聖書の記述が、歴史家たちに、これは本当のことだろうと思わせるに十分な証拠となったのでした。 (続きを読む…)

2018 年 3 月 30 日

・受難日礼拝説教 ルカの福音書23章44-49節「いのちを委ねる」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 22:09

2018.03.30

鴨下 直樹

 今日は、受難日。主イエスが十字架につけられたことを覚える日です。そして、主イエスの生涯の頂点とも言えるものなのです。主イエスの人生の頂点、それは主イエスが十字架につけられて殺されるという出来事なのだということは、とても不思議です。

 主イエスが死ぬ時、全地が暗くなったということがここに記されています。日蝕がおこったのではないかとか、砂嵐のせいで暗くなったのではないかとか、色々な説明がありますが、どれも確かなものではありません。ただ、旧約聖書の中には、神のさばきの時に暗闇がおとずれることが色々な箇所で書かれています。ただ、私たちは「神のさばき」という言葉を聞くと、罰される立場で考えてしまいますから、恐怖感しか感じられません。けれども、神のさばきというのは、神の愛がみえるようになるということです。

 たとえば、親が子どもを叱るときのことを考えてくださるとよく分かると思います。怒られる子どもの立場からすれば、親が怒り出すと震え上がるほど怖いのかもしれません。けれども、それは同時に子どものことを愛している親の思いが、そこには込められているわけです。もちろん、人間の親は完全ではありませんから、嫌なことがあってつい子どもに当たってしまうというようなこともあると思います。けれども、この世を愛しておられる神は、八つ当たりのような怒りを人に示しめされることはありません。「神のさばき」というのは、ただ、ひたすらに人を愛してくださっていることがここで示されることになるのです。

 それで、45節で

太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。

とあります。普通に聖書を読んでいるとあまり意味が分からないのでつい読み飛ばしてしまうところですが、この言葉はとても大切な意味が秘められています。神殿というのは、一番奥に至聖所という部屋があります。その部屋を隔てているのが幕です。そして、この幕の内側には大祭司しか入ることが出来ません。 (続きを読む…)

2018 年 3 月 25 日

・説教 マルコの福音書6章45-56節「嵐の夜に」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 13:49

2018.03.25

鴨下 直樹

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 今日の箇所も、奇跡をあつかう出来事が記されています。奇跡というのは「しるし」という言い方をすることがあります。私は以前、神学生の頃に地質調査のアルバイトをしたことがあります。地質調査というのは、家を建てる前に、その家の地盤の強度を調べるわけです。そうやって、地盤の強度が足りないとセメントと土を混ぜる地盤改良という工事をしたり、あるいは杭を打ち込む杭打ち工事をすることになるわけです。そういう仕事はまた別の人たちがするわけですが、時々、この地盤改良の工事の現場監督に行かされることがありました。アルバイトが現場監督なんてやっていいのかと思いましたが、行ってみるとその時はそれほど難しい仕事ではありませんでした。

 ショベルカーなどの重機が入るわけですが、現場監督の仕事は、その重機が土を掘る時に、掘ってはいけない場所、たとえば下にガス管があるとか、水道管が埋まっている場所を図面で調べて、赤色のスプレー缶で地面にバツ印のしるしをつけていくわけです。そうすると、重機に乗っている人は、ここは掘ってはいけない場所というのを「しるし」を見て分かるわけです。

 なんで、こんな話をしているかというと、「しるし」というのは、「しるし」自体にはそれほど意味はなくて、その「しるし」の指しているものが大事だということなのです。つまり、奇跡そのものに意味があるのではなくて、その奇跡は何を表しているかということの方が大事だということです。

 それで、今日の聖書を見てみたいと思うのですが、今日の聖書は、こういう言葉から始まっています。

それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ・・・

と記されています。

 今日の、キーワードはこの「強いて」という言葉です。新改訳2017では、「無理やり」となっています。この「強いて」とか「無理やり」というのは、本人は望んでいないことを強制的にさせたということです。この箇所を、地図を見ながら読んでみると、見えて来ることがあります。それは「ベツサイダに行かせ」とありますが、ベツサイダはガリラヤ湖の10時の方向にある町です。ところが、最後に着いたのは「ゲネサレ」の地です。このゲネサレというのは3時の方向にある町ですから、湖の正反対にあるわけです。

 つまり、ベツサイダに向かわなければならなかったから、舟は向かい風で進めなかったわけで、風に流されて行けば、ゲネサレには簡単に着けたわけです。そういうことが分かると、この「強いて」という言葉の中身が分かってくるわけです。向かい風なのに、その方向に行かなければならないように主イエスは弟子たちに命令したわけです。 (続きを読む…)

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