2018 年 1 月 28 日

・説教 マルコの福音書5章1-20節「心の底から変えられて」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 15:58

2018.01.28

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 今日は少し長い聖書の箇所です。特にこの箇所には、「汚れた霊につかれた人」が出て来ます。しかも、その人は墓場に住んでいるというのです。墓場というのは、今日でいう霊園のような墓石が並んでいるところを想像しますが、そうではありません。横穴の洞窟です。そういう穴蔵に当時の人々は亡骸を収めて墓としていたのです。この人はそういうところを住処としていたというのです。ちょっと普通ではないなという気がします。

 ここに記されている「汚れた霊につかれる」あるいは、「悪霊につかれる」などいう言葉を耳にすると、ちょっとおどろおどろしいものを想像してしまいます。けれども、この「汚れた霊につかれる」というのはどういう状態にある人なのでしょうか。何か特別な精神的な状態に置かれているということなのでしょうか。

 実は、この箇所には幾つかの、日本の牧師のした説教があります。それを読みながら、全く対照的な考察をしているものを見つけました。一人の牧師は、この人は社会から締め出されてしまって墓場に追いやられてしまったというように、この人のことを理解しようとします。社会が、周りの人々が、この人を墓場まで追い込んだのではないかと考えるのです。

 また、もう一人の説教者は正反対のことを考えます。この人は仕事に失敗し、住む家を失った。けれども、プライドだけはあったので、惨めな自分の姿を人前にさらすことのないように墓場に住み着いたのだろうと考えるのです。いずれにしてもこういうことは、墓場に行くことはなくても、私たちにも理解できる部分があるのではないかと思います。私たちでも、もう人に疲れて誰も知らない世界に抜け出したいというような望みを持つことがあるのです。現実逃避などと言われるけれども、そうしなければやっていられないような気持ちになることがある。そこまではいかなくても、追い詰められるとどこかで気楽に息抜きをしたいという思いに至ることは、誰にだってあるのだと思うのです。この聖書の時代というのは車のない時代です。他の民族のところに出かけると命が危ない。そういう中で、誰も普段は来ることのない墓場で生活するというようなことは、この時代に生きた人の選択肢となりえたのではないかということは、想像するに難しいことではない気がするのです。

 この二つの説教が語るように、周りの人がこの人を追い込んだということも考えられるでしょう。あるいは、自分が人を避けて墓場に住むことを選んだ。どちらもありそうなことです。けれども、回りの人の眼差しが優しくなったら、社会が変わったら、こういうことはなくなるのでしょうか。あるいは、自分がプライドさえ捨てればそれで問題は解決するのでしょうか。事柄はそんなに簡単ではないと思うのです。というのは、私たちが生きている世界というのは、悪の支配、悪い支配と言った方がイメージしやすいかもしれません。そういうものがいたるところにあるのです。この聖書に出て来る「汚れた霊につかれた人」というのは、何か特別な問題を抱えている人というよりも、「悪の支配」、悪い習慣、悪い人の支配、そういったもののもとで生きる人の姿と言ってもいいわけです。つまり、神に支配されないで生きる生活というのは、いつも、この汚れた霊に支配される生活と結びついているのです。

 1節にこう記されています。

こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。

湖の向こうのゲラサ人の地というのは、「他民族の土地」ということです。「異教の神の地」、つまり、イスラエルの神の支配の外にある世界ということです。 (続きを読む…)

2018 年 1 月 21 日

・説教 創世記1章26-28節「神のかたちに」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:08

2018.01.21

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 今日は、ファミリー礼拝です。毎月第三週に、ファミリー礼拝を行うことにしています。いつも続きで聞いている福音書から離れまして、このときは、できるだけ分かりやすく聖書の話しをしたいと思っています。それで今朝は、聖書は人間のことを、あるいは夫婦のことをどのように記しているのかということをお話したいと思っています。今朝は創世記の天地創造のところから、お話をしたいと思います。先ほど、子どもたちといっしょに天地創造の物語を聞きました。そして、神がこの世界や動物、そして人間をどのようにお造りになられたのかを聞きました。聖書は、神が世界をお造りになられたと書いています。これが、聖書の最初のメッセージです。これは、この世界にあるものは、すべて神に造られ、神はそのお造りになられたひとつひとつに、大切な意味や役割を持たせておられるということです。

 聖書のお話をする前に少しだけ大事なことをお話しておきたいと思います。実は、今日お話する聖書の言葉は、同じ新改訳聖書をお持ちの方でも、以前の第二版と少し前に出されました第三版では大きく異なっています。教会に置いてある聖書もこの第二版と第三版があります。また、昨年改定された新改訳2017も、翻訳が多少異なっています。ですから、私がここでお読みする聖書とみなさんのお持ちの聖書の言葉が少し違っているかもしれませんが、どの聖書をお持ちでも、大きく内容が異なっているわけではありませんので、安心してお聞きください。

 私は第二版という一番古い翻訳の聖書を使っていますので、第二版で読んでいきます。少し違っている方もあると思いますが、意味は同じですのでそのままお聞きくださればと思います。26節にこう記されています。

そして、神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」

 そのように記されています。
(続きを読む…)

2018 年 1 月 14 日

・説教 マルコの福音書4章35節―41節「なぜ私だけ苦しむのか」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:15

2018.01.14

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 今日の説教題はひと月も前に自分でつけたものです。まだ、聖書を丁寧に読んだわけでもないのに、説教題をつけるというのは時々無理があると感じているのですが、どうしてこういう題をその時付けたのだろうかと考えさせられています。

 自分のことを話して恐縮なのですが、この一週間は私にとって心苦しい一週間を過ごしました。大きな岩が私の頭の上にのしかかっていて取れそうもないのです。水曜日の祈祷会のまえにSさんが、「仕事に行く時に気が重くなる時がある」と話してくださいました。「とても気持ちが重たくなって眠れなくなったとしても、私たちはお祈りすることができるので、そういう時はお祈りして、神様に委ねて出かけるようにしています。」その言葉を私自身に言われている言葉のように聞きながら、そういう時いつも祈る祈りの言葉を呟きます。

 「マイゴット、マイオール」「わが神、わが全てよ」。アッシジの修道士フランチェスコの祈りです。まるで念仏を唱えるかのように、ぶつぶつと同じ言葉を繰り返します。「わが神、わが全てよ。わが神、わが全てよ。私の神、主よ、あなたは私の全てです。私のすべてのあなたのものですから、あなたに委ねます。」心からそう祈ることができるようになるまで、何度も、何度も祈ります。

 「なぜ、私だけが苦しむのか」。私たちはこのように叫びたくなる思いを持つことがあります。何故こんなことが起こるのか。主はこのことをおゆるしになっている。残念ながら、私たちは毎日平和で、安全が保障されているところで生きることができるわけではありません。

 今日の聖書の箇所はまさに、そのような弟子たちの叫びが記されています。 (続きを読む…)

2018 年 1 月 7 日

・説教 マルコの福音書4章26-34節「寝ている間に働かれる主」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 14:31

2018.01.07

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 新しい年を迎えました。新年というのは不思議なもので、何か新しいことを一年の間やり通そうと決意したい気持ちになります。今年こそは、こうありたい。私たちはそのように考えて生きています。それは、こう言い換えることもできます。成長したいと願っているのだと。

 さて、お正月に実家に行きましたら、10年前、ドイツから日本に帰って来た時の写真を見せられました。ドイツにいる間に体重が8キロほど増えて帰ってきたのですが、今と比べるとずいぶん痩せているのです。どうも、この10年の間にさらに8キロほど増えたようです。それで、今年は少し体重を落とそうと決意しました。すでに一週間がたちましたが、体重はさらに少し・・・

 今日の聖書は、主イエスがなさったたとえばなしです。いろいろなたとえ話をなさった最後の二つです。26節から29節の部分のたとえ話はひとりでに成長する種のたとえばなしと言われています。私のお腹と同じように、ひとりでに成長するわけです。

 ここに面白い表現があります。27節です。

夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。

 この冒頭に「夜は寝て、朝は起き」と記されています。今度の2017年訳ではこう訳されました。

夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちます。

 私たちは、朝晩…という表現や、朝昼…という言い方をすると思いますが、聖書は反対です。夜に日が暮れると一日が始まったと考えるので、こういう書き方が出てくるわけです。これは、ただ、言葉の順番が入れ替わっているということだけではないと思います。私たちは夜になると今日一日起こった出来事を思いながら、眠ることによってリセットして、朝、新しい一日を迎えると考えて生活すると思います。ですから、夜眠られないということが起こったりするわけです。ところが、聖書の時代の人々の生活はそうではないのです。一日が終わって、新しい一日が始まったと考えながら眠りにつく。眠りから一日が始まるのです。ここの部分は、聖書が特にそれを強調しているのではなくて、ごく当然のことのように「夜は寝て、朝は起き」という書き方をしているのです。 (続きを読む…)

2018 年 1 月 1 日

・説教 ヨハネの黙示録21章6節b「ただでくださる」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:56

2018.01.01

鴨下 直樹

 今日、私たちに与えられている2018年のローズンゲンの聖句はこういう言葉です。

「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる」

 新しく訳された2017年訳ではこうなっています。「わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。」
 「ただで」とそう記されています。「ただより高いものはない」なんて言います。よく街頭でテッシュを配っています。外国人はびっくりするようです。私の知っている宣教師は大きな紙袋をもっていって、「ただならここにたくさん入れて欲しい」と言って頼んだのだそうで、テッシュを配っているアルバイトの子は喜んで沢山入れてくれたのだそうです。もちろん、そんなことはあまりないわけで、たいていの場合、テッシュを受け取るとアンケートに協力して欲しいとか、ドリンクサーバーを買って欲しいと勧められます。あぶないのは、子ども向きの風船を配っているところです。子どもは喜んで貰いに行くのですが、そのかわりにアンケートを書かされたり、英会話の教材を勧められたりするわけで、「ただより高いものはない」ということを実感することになります。

 「ただで」という言葉はそのようになかなか良いイメージとは結びつきません。ただイコール悪いものというイメージさえあります。しかも、ここでくれると言っているのは水です。日本では水はただです。昔は「ひねるとジャー」なんて言ったそうですが、蛇口をひねると美味しい水がジャーっと、どれだけでも出て来ます。特に、岐阜は水の美味しい地域ですからお金を払わなくてもおいしい水を飲むことができるというのはごく自然のこと、日常的なことです。

 今では、井戸に水を汲みに行くこともなく、川から水を汲んで来て、ごみをこして、それを一度沸騰させて、さましてようやく飲めるようになるなどという手間はありません。そのために、一層この聖書の言葉の持つ意味が分かりにくくなっていると思います。

 水、とくに聖書の書かれた地域、イスラエルやその周辺の地域の生活というのは、まさに水はいのちを繋ぐ水でした。雨が降らないということは、そのまま死を連想させます。「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」というこの約束の言葉は、とても大きな意味をもった慰めの約束の言葉であることを、私たちは知る必要があります。 (続きを読む…)

2017 年 12 月 31 日

・説教 マルコの福音書4章21-25節「光の中へ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:48

2017.12.31

鴨下 直樹

 今日は大晦日ですが、教会の暦では今日が降誕節第一主日、主イエスの誕生を覚える主の日です。先日少し買い物に出かけたのですが、年末ということもあって、お店には物凄い人であふれかえっていました。もちろん、クリスマスの商品は隅に追いやれて、安売りされていて、真ん中にはお正月のものが並びます。今年も一年が終わるのだという実感がわいてきます。

 でも、少しほっとするのは、クリスマスのイルミネーションの明かりは、すぐに片づけないで、そのまま夜の街を彩っているところが多い気がします。暗く、寒い夜に明かりの持つ力を誰もが認めているのではないかと思うのです。暗い寒い冬の夜空に輝く明かりは、冬にもたらされる風物詩となっています。

 今日、私たちに与えられている聖書は、主イエスがお語りになったたとえばなしです。明かりの話しです。

あかりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。

 そのように21節に記されています。原文では「あかりが来る」と書かれています。でも、あかりは自分では来ることが出来ないので、翻訳としては誰かが持って来るという訳し方がされています。

 先週の礼拝で燭火礼拝を行いました。礼拝堂の中を聖歌隊が、あかりを携えて歌いながら前に進みまして、クリスマスの讃美歌を歌い、そのあとで暗くした部屋のみなさんのところに明かりをともして回りました。おそらく、座っていた方々は「明かりが自分のところに来た」と感じられたのではないかと思います。誰が持ってきたかというよりも、暗い中で明かりが自分のところにやって来る。そう感じるわけです。それは、まさにクリスマスの知らせそのものです。暗い世界に主イエスがお生まれになる。光がもたらされる。それこそがクリスマスの知らせです。

 主イエスはこのたとえ話を神の国を知らせるためのたとえ話となさいました。神の国、神の支配というのは、暗い所にいる人のところに明かりがもたらされるようにしてくるようなものだということです。そうやってもたらされた明かりを、隠すようなことがあるだろうかと主イエスはおっしゃっているのです。というのは、明かりを隠すということが起こり得たからです。 (続きを読む…)

2017 年 12 月 24 日

・説教 ルカの福音書2章1-20節「クリスマスの主役は誰?」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:58

2017.12.24

鴨下 直樹

 昨日、子どもの通っている幼稚園のクリスマス祝会が行われました。年長組は、毎年クリスマスのページェントを行うことになっています。劇と歌でクリスマスの物語を演じるのです。十数人の子どもたちですが、小さな学年の時から上の子どもが演じるのを見ながら、私はマリアをやりたい。天使をやりたい。東の国の博士をやりたいと、いろいろ子どもなりに夢をふくらませているのです。でも、自分のやりたい役に、何人も希望者がでると残念ながら、自分が希望していない役であっても受け入れなければなりません。

 そんな時に、娘がこんなことを言いました。「クリスマスの主役はマリアさんでしょ」と言うのです。確かに子どものページェントでは特に女の子には人気のある役ですから、そう考えても不思議ではないのですが、でも、主役となるとどうでしょうか。単純に言えば、この日誕生されたイエスさまが主役ということになるかもしれません。けれども、イエスさまはここではセリフもありませんし、主役というには少し寂しい気もします。

 クリスマスには様々な人が登場します。マリアにヨセフ、東方の博士たち、羊飼い、天使ガブリエル、荒野で賛美をする天使たち、ヘロデ王に、ヘロデに仕える学者、宿屋の主人。クリスマスの劇をするならそのくらいでしょうか。誰が主役なのか。そんなことを問うまでもないほどに、それぞれにドラマがあります。

 先ほど、短いスキットをしていただきました。マリアとヨセフが住民登録のために故郷であるベツレヘムを訪れました。マリアは身重になっていて、そこにいる間に月が満ちたとありますから、お腹ももう大きかったことでしょう。妊婦でありながらナザレからベツレヘムまで旅をしているのです。距離にして約120キロ。その長い距離をロバに乗ったでしょうか。身重のマリアが夫に支えられて旅をする。それだけでもかなりのドラマです。そうやってようやく着いたベツレヘムでは、どこも部屋がいっぱいで、断らなければならない宿屋の主人にも現実的な問題があったと思います。泊めることができませんと断ったのも、決して意地悪ではなかったでしょう。けれども断った相手は妊婦です。実際問題として部屋は他の人で埋まってしまっているのです。どうしようもなかったのです。

 「飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」と7節にあります。ですから、昔から多くの人は、きっと宿屋の主人が可哀想に思って、家畜小屋に泊まらせたのではないかと想像しました。飼い葉おけ。つまり、家畜のえさ入れです。そこに生まれたばかりの新生児を寝かせるということは、想像しにくいのですが、せめてもの宿屋の主人の気持ちがあったのではないか。そう読み取ることができます。この聖書の時代も今とまったく変わることなく、それぞれが自分の人生を必死で生きているのです。

 クリスマスの物語というのは、そういう現実的な生活の中に、神が赤ちゃんの姿となって入ってこられたこと。そこにメッセージがあるということができます。 (続きを読む…)

2017 年 12 月 17 日

・説教 マルコの福音書4章1-20節「みことばを受け入れる祝福」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:10

2017.12.17

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 先週の金曜日で、名古屋の東海聖書神学塾の私の受け持っている今年の講義が終わりました。やっと終わったというのが正直な感想です。10月から3月までが今年の後期の講義なのですが、今、私は三つの講義を教えています。その一つに新約聖書神学という講義があります。実は、この金曜日は私の後で講義をする予定の先生がお休みになったので、急遽もう一コマやることになりまして4時間の講義をすることになりました。

 その後も2時間の講義と1時間の講義が一つずつあります。何とかやりきったという思いで一年を終えました。その新約聖書神学の講義で、この福音書に記されている「神の国」というテーマで何回か授業をします。金曜日にもその話をいたしました。4時間では終わらないほど、さまざまな意味がこの言葉には含まれています。

「神の国」というのは、このマルコの福音書の冒頭15節で、主イエスが「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」とお語りになられて、主は神の国の福音を伝えようとしておられることを私たちは聞いてきました。

 昨日、ちょうど神学校の講義で、神の国ということばを考えるために、旧約聖書の時代にこの言葉がどのような響きをもっていたのかという話をしました。4時間もお話しませんので安心して聞いてください。

 旧約聖書のイザヤ書52章7節にこういうみ言葉があります。

良い知らせを伝える者の足は、山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。

(続きを読む…)

2017 年 12 月 3 日

・説教 マルコの福音書3章20-35節「新しい家族」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 18:06

2017.12.03

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 アドヴェントの第一週を迎えました。先週、教会でも大掃除をいたしましてクリスマスツリーの飾りつけをいたしました。みなさんの家でもツリーを飾っておられる家もあるでしょうか。この季節は日に日に寒くなります。それで、家でストーブを焚いたり、こたつを入れたりして、暖かい家でくつろぐことが多くなるのではないでしょうか。家族の多い所ではどうしても暖かい部屋に人が集まって来るということが自然なのだと思います。ただ、残念なことに家にたくさんの人が集まりますと、どうしても衝突が起こりやすくなってしまいがちです。

 今日の説教の題を「新しい家族」という題にしました。携帯電話のCMの話しではありません。聖書の話しです。今日の聖書の箇所は「イエスが家に戻られると」という言葉からはじまります。「家」というと家族のいる家をイメージするのですが、読み進めていきますと「イエスの身内の者たち」が主イエスを連れ戻すために登場してきます。ですから、この「家」というのは、主イエスの実家ということではないようです。恐らくカペナウム周辺のペテロの家を指しているのだと思います。

 多くの人目を避けて家に戻って、主イエスと弟子たちはくつろぐことができたのかというと、そうではありませんでした。食事の暇もないほど大勢の人が訪れて落ち着くことができなかったのです。しかも、そこに、主イエスの身内の者、おそらく母マリヤと主イエスの兄弟たち、たとえばヤコブとかユダという聖書の後の方に記されている手紙の著者たちは主イエスの兄弟であったと書かれていますから、そういう兄弟たちがやってきて、主イエスを連れ戻そうとしたようです。理由は「気が狂ったのだ」と言う人がいたので、家族としてはこのまま放っておくと、悪い噂がどんどん広がってしまって家の恥になると考えたのでしょう。

 今日のテーマは「家」です。家というのは、くつろぐことのできる場所、生活の場所という意味が大きいのですが、その他にも色々な役割があります。家というのは家族で守っていくもの、支え合っていくものということもできるわけです。それは特に社会に対しての家族の責任、役割というものがあるわけです。その家の中で「気が狂った」という噂がたてられてしまったのがイエスです。家族は当然、必死になって火消しにやっきになります。

 この「気が狂った」という言葉ですが、「自分の存在から外にでてしまう」という意味の言葉です。エクセステーという言葉で、この言葉から英語のエクスタシーという言葉ができました。自分の外に出てしまう。我を忘れてしまう。我を失ってしまう。そういう言葉です。家族、身内の立場から考えると、自分たちの外に出てしまった。我を忘れて恍惚状態に陥ってしまって、手に負えないところに出て行ってしまった。自分の家族の中からそういうものが出てとなった時に、家族としてはそんな恥ずかしいことは外に出さないように、もう一度自分たちの中に収めようとするわけです。だから迎えに来たわけです。

 それは子どもを持つ親としてはよく分かることだと思うのです。自分たちの理解の外に子どもが飛び出していこうとすると、必死になって、何とか手のうちに収めようと考えるのです。それは、家族を持つ者の悩みです。そして、できれば、安心して外に出て行くことが出来るようになってから、子を送り出したいと願うものです。その時、家族としてはどうやって独り立ちしようとする子どもを送り出してやることができるのか、その親としての態度がまた求められるのです。
(続きを読む…)

2017 年 11 月 26 日

・説教 マルコの福音書3章7節―19節「大衆と弟子たち」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:04

2017.11.26

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 先週の日曜日教会で子ども祝福礼拝をいたしました。その後で、少し前から気になっておりました村上進さんのお父さんの村上伸先生のお宅を訪ねて小さな聖餐の集いを持ちました。

 村上伸先生のことをあまりご存じない方も多いかもしれません。日本基督教団の安城や岡崎で伝道なさって、最後は東京の代々木上原教会で牧会をなさっておられた先生です。退職されてからは、岐阜の池田町に住まわれて、執筆活動などを続けて来られました。福音派という言葉を私はあまり使いませんけれども、福音派の中ではそれほど知られた先生ではなかったかもしれませんが、日本のキリスト教会では本当に大きな貢献をなさった先生です。

 特に、ディートリッヒ・ボンヘッファーの研究家として、さまざまな翻訳をしてくださいましたし、ドイツの色々な神学者たちの著作を日本語に訳してくださって、大きな貢献をされた先生です。少し変な言い方かもしれませんけれども、私には雲の上のような存在の先生でしたので、気軽に訪問するというようなことも、あまり考えていなかったのですが、もう長い間聖餐をされていないのではないかと、急に思い立ちまして、この日曜日の夕方にお訪ねしたのです。

 今週の木曜日、祝日の日でしたが、夕方に進さんからお電話をいただきまして、伸先生が亡くなられたと聞きました。本当に、日曜日にお会いした時にはまだ、顔色も良さそうでしたので、できるだけこれからは訪問をさせていただこうと思っていたところでしたので、本当に言葉も出ないほど驚きました。そして、昨日、葬儀をいたしました。家族の方々とごくわずかな方だけの小さな葬儀でしたが、よい葬儀であったと思います。

 その葬儀でもお話したのですが、村上先生が献身の召命を主から受けたのはまだ18歳。高校生の時です。青森の八戸という町で伝道しておられた渡辺牧師がさまざまなところを訪問する時に、伸先生は一緒に連れられていったのだそうです。そうしているうちに、自分も牧師になりたいという思いを持ったのだそうです。けれども、家は貧しくて、牧師になって食べていくことができるだろうかということが心配で、親に話すことができずに思い悩んでいた時に、天からの声を聞いたのだそうです。その声は「死ねばいい!」という声だったのだそうです。気のせいだったかもしれないけれども、確かにそう聞こえたと自伝の中に書かれていました。そして、青森から東京にでて神学の学びをして、牧師になったということでした。 (続きを読む…)

« 前ページへ次ページへ »

HTML convert time: 0.247 sec. Powered by WordPress ME