2013 年 12 月 22 日

・説教 ヨハネの福音書1章1-14節 「人となられた神の言葉」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 22:24

 

2013.12.22

 

 鴨下 直樹

 私ごとで恐縮ですけれども、私たちがドイツで生活を始めました時に、最初の一年間はドイツの語学学校に毎日通い続けました。ドイツで生活をはじめて一週間くらいたったころでしょうか。朝、学校に行くバスに揺られながらドイツの町並みを眺めておりました。ドイツで生活しているのだという実感を覚えながら、急に何とも言えない恐怖が私を襲いました。ほとんどドイツ語もできないまま、もう三十六歳だったと思いますが、この年で本当にやっていけるのだろうかという心配が私の心をとても暗い気持ちにしたことを今でも忘れることができません。

 言葉が通じないというのは何ともいえない恐怖です。しかも、何年もその地で生活するのです。この先どうなるのかという見通しがまったくつかないのです。言葉が通じるようになるという経験は、それから毎日少しづつ味わうことになります。本当に、一歩、一歩、とても地道な事の繰り返しです。毎日、犬の散歩をする時に単語カードを持って行きまして、一日に十の単語を覚える。覚えたつもりで翌日、前の単語を見て見ると五つ忘れている。そういうことの繰り返しをしながら、何年もかけてやっと片言の言葉が通じるようになっていきました。

 

 ことばの神、主は、この神のことばは人に届かなくなってしまっている現実をどれほど嘆かれたのだろうかと思います。神が意図していること、意思していることが、人にまったく届かない。それどころか、耳を傾けようともしないで、神のことばを無視しつづけるこの世界を、神はどれほど嘆かれたのだろうかと思うのです。それで、大きな決意をして、このことばの神であられる主は、人となることにした。

 十四節に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」と記されています。これが、クリスマスの出来事です。これを難しい言葉で、「受肉」と言います。新改訳聖書をお持ちの方は、この十四節の「人」という言葉の横に※印がついておりまして、欄外の注に「別訳『肉』」と書かれているのを見つけることができると思います。ことばが肉体をとったと書かれているのです。ことばが人間となったということです。学校であれば、「これ、テストにでるところです」と言わなければならないほど大切なことです。

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とはどういうことなのでしょうか。 (続きを読む…)

2013 年 12 月 15 日

・説教 ルカの福音書1章46―56節 「マリヤから学べること」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:15

 

本日はマレーネ・シュトラスブルガー師が説教をして下さいました。

2013 年 12 月 8 日

・説教 ヨハネの福音書1章1-8節 「いのちの光」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:33

 

2013.12.8

 

 鴨下 直樹

 先週からヨハネの福音書の御言葉をともに聞き始めました。先週も、ヨハネの説教をするのは覚悟がいるのだということをお話ししました。どんな覚悟が必要になるのかと言いますと、、ヨハネについて書かれた文献は非常にすぐれたものが幾つもあります。そうすると、できるかぎりそれらの本には目を通しておかなければなりません。どれもやさしいものばかりではありません。難解なものもあります。昨日も妻に、まだ読むべきものが全部読めていないと話しましたら、そんな小難しい話をしなくてもいい、と言われてしまいました。そうです。難しいものをずっと読んでおりますと、あの本も素晴らしい、この本も素晴らしいということになって、色々と盛り込んで行くうちに何の話だかすっかり分からなくなってしまうということが起こります。ですから、自分の頭の中には入れておく必要はありますけれども、それらを全部ここでみなさんに聞いてもらおうとすれば大変なことになってしまいます。ですから、そういった数々の本を読むということは覚悟のいることですけれども、同時にとても豊かな時間でもあります。色々な、豊かなことばとの出会いをそこで味わうことができるからです。

 今日の説教の箇所は一節から八節としました。本来であれば一節から十八節とすべきです。十八節までがひとつのまとまりになっています。しかも、この十八節までの部分には実に豊かな内容があるために、どうやって区切ったらいいのかということがすでに大きな問題でもあります。どの学者も、あるいは説教者もそのことで苦心しています。特に、今日のところはヨハネが登場してくるところです。十五節にもこのヨハネの言葉が出て来ますから、当然、十五節についても一緒に取り扱う必要がありますが、今日は主に、八節までに焦点を当てて話したいと思います。 (続きを読む…)

2013 年 12 月 1 日

・説教 ヨハネの福音書1章1-5節 「はじめにことばがあった」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:19

 

2013.12.1

鴨下 直樹

 

  今日、礼拝においでになって、「あれ?」と思われた方があるかもしれません。私たちの教会では今十戒の御言葉を聞き続けております。それが、今月から礼拝説教がヨハネの福音書になっているからです。先週お配りした教会の予定表にもそのことがすでに書かれておりましたが、十戒の説教を途中でやめてしまって、鴨下牧師は何を考えているのだろうと思われた方が少なからずあるだろうと思います。ご安心ください。十戒は来年また続けて学ぶ予定にしております。実は、十戒の説教を始める前にすでにヨハネの福音書から講解をすることを決めておりました。始めるのはぜひ、アドヴァントからにしたいと思っておりました。アドヴェントというのは、ほとんどの方はご存知かと思いますけれども、クリスマスを迎える四週間前からの季節のことをアドヴェントと言います。そして、教会の暦ではここから一年が新しくなります。このアドヴェントからヨハネの福音書の説教をはじめようと決めていたのですけれども、ピリピが終わった時点で数回間があいてしまいます。それで、その間に十戒の説教をしたのです。来年また十戒を最後までして、この十二月はこのヨハネの福音書の第一章一節から十八節までを何回かに分けて、御言葉を聞きたいと思っています。 (続きを読む…)

2013 年 11 月 24 日

・説教 第Ⅰテサロニケ5章16ー18節 「試練の中で恵みは溢れた」 

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:51
 
本日は、舛田友太郞神学生が奉仕している深谷福音自由教会の鈴木弘司先生が、説教の奉仕と報告をして下さいました。
 

2013 年 11 月 17 日

・説教 出エジプト記20章8-11節 「第四戒 聖なる日とする」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 11:49

 

2013.11.17

鴨下 直樹

 

 もう少し前のことになりますけれども、スイスの説教者でヴァルター・リュティの書いた「あなたの日曜日」というエッセーが翻訳されました。日曜日の礼拝の祝福についてあらゆる事柄がその中で考察されているとてもユニークな読み物です。以前紹介したことがありますので覚えておられる方もあると思います。その時にもお話ししたと思いますが、この本の冒頭で月曜日に野良に出かける農耕馬のことが書かれています。こんなはなしです。農耕馬は月曜日になると、早く馬具をつけてもらいたくて、せかせかとしながら、納屋から出されると、綱をぐいぐいひっぱっていきます。ところが、人間は月曜の朝を迎えると、冷え切ったモーターをやっと動かすように重たい足取りで出かけて行きます。そこでリュティは書いています。「どうしても考えないわけにはいきません。なぜ馬はあのように月曜の朝、元気いっぱいに蹄で地面をガリガリかくのに、私たち人間は冴えない気持ちで同じ朝を思い、不機嫌な気持ちと戦わなくてはならないのか。どうして農耕馬には日曜日が実にはっきりした祝福になっているのに、今日の私たちにとっては日曜日がますます厄介なものとなっているのでしょうか。結局、馬には秘儀が分かっており、私たちには分からなくなっているということなのでしょうか」。こんな風にこの本ははじまっていきます。

 リュティーがこの本の中で問いかけていることは、私たちにとってとても切実な問いです。馬は月曜日が待ち遠しくて仕方がないのに、私たちは月曜日は気が重くなってしまっているという現実があるからです。私たちにとって日曜日が祝福となっていないならば、私たちの一週間は、私たちの働きもまた、気を重たいものとなってしまいます。では、日曜日の祝福の秘密とはいったいどこにあるのでしょうか。 (続きを読む…)

2013 年 11 月 10 日

・説教 出エジプト記20章7節 「主の御名を呼ぶ」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 11:26

 

2013.11.10

鴨下 直樹

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかれない。

 

 今日は十戒の第三の戒め、「主の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めです。

 みなさんの中にもご経験のある方がおられるかと思いますが、自分がいない場所で、自分の名前が使われるという経験がおありになるのではないでしょうか。「たしか、あの人があの時にこう言っていた」、「これはなになにさんの言っていたことだけれども」、「なになにさんも参加すると聞いたので、私も参加したんだけれどもなぜいないのか」。色々な状況があると思いますけれども、自分の名前が正しく使われていればいいのですけれども、まったく身に覚えのないこと、あるいは悪意をもって使われているとすればいい気持ちはしません。そんな話が耳に入ってきますと、自分の名前を出して話をした人に対して嫌な気持ちをもつことになってしまうことがあります。この第三の戒めが戒めていることは、まさにこのことです。

 名前が正しく用いられていないということは、はじめにその意図はなかったとしても、結果として自分の名前が軽んじていると感じてしまいます。まして、その名前が神さまの名前だというのですから、これはよほど注意深くする必要があります。 (続きを読む…)

2013 年 11 月 3 日

・説教 出エジプト記20章4-6節 「第二戒 まことの礼拝」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 22:03

2013.11.3

鴨下 直樹

今日は召天者記念礼拝ということで、これまで私たちの教会で共に礼拝を捧げて来られた方で、今は天に召されている方々のことを覚えながら礼拝をささげています。また、先月から十戒の御言葉を聞き続けておりまして、今朝はちょうど第二の戒め、「偶像を造ってはならない」という戒めの御言葉を聞こうとしています。今日私たちは礼拝の後で鳩吹苑にまいりまして、墓地礼拝を致します。そこでも、私たちは亡骸に手を合わせて礼拝するということをいたしません。この戒めに書かれていることを、そこでも覚えているのです。私たちは教会の墓の前で、もう一度主にある復活の望みを確認し、共に主の御業を思い起こしながら、主をたたえる礼拝をするのです。

先日もマレーネ先生と話していたのですけれども、ドイツの墓地では亡骸を二十五年の間、墓地を借りて家族を偲ぶことができますが、二十五年たちますとまた更地にされて、直ぐに他の家族に貸し出されるんだそうです。この背景にはもちろん、キリスト教の信仰があるのですけれども、信仰者の亡骸はすでに天にあるのだから、ある一定の期間、家族の慰めのために墓地を造るけれども、そこに永遠に留まるのではないということを意味しています。

今日の戒めは「偶像を造ってはならない」ということですけれども、五節には「それらを拝んではならない」と記されています。偶像を造ることと、拝むことがここで戒められています。ここでよく考える必要があるのは、この「偶像を造ってはならない」と言う言葉は、もともとの言葉は「刻んだ像を造ってはならない」ということです。私たちはこの戒めを読みますと、別の神を造ってはならないという意味にすぐに理解してしまいますけれども、それはすでに第一の戒めで「わたしのほかに、他の神々があってはならない」と十分に教えられていますから、「別の神をつくる」という意味でこの戒めが記されているのではないことをまず理解しておく必要があります。ですから、死んだ者を神としてはならないということも、第一の戒めですでに教えられていることなのです。

では、この「刻んだ像を造ってはならない」というのはどういう意味を持つのでしょうか。 (続きを読む…)

2013 年 10 月 27 日

・説教 出エジプト記20章3節 「自由の道標としての十戒 第一戒 『唯一の神』」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:12

2013.10.27

鴨下 直樹

今、十戒を学び始めています。今日はその第一の戒めの部分ですが、前回はこの十戒の二節の前文と言われている部分から「自由の道標としての十戒」と題して共に御言葉を聞きました。毎回の説教題にこそ入れてはいませんが、この十戒は、私たちを自由にする道標だということを常に心にとめていただきたいと思っています。それと同時に、この最初の二節の言葉は十戒の根拠となっている言葉ですから、このことを常に心にとめていただきたいのです。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

そして、今日の三節の間に「だから」という言葉を補ってもいいと思っていますけれども、

「だから」、

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

と第一に戒めが語られているのです。「あなたを救ったのはわたしだ」、「あなたに自由を与え、あなたを奴隷から解放したのはわたし。だから、あなたは他の神々を自分の神とはしないよね」と主はここで語りかけておられるのです。

すでに恵みを与えたのだから、その当然の応答として、主がこの十戒、特にこの第一の戒めを語りかけておられることがお分かり頂けると思います。前にもお話ししましたけれども、まずはじめに神であられる主が、愛してくださったのです。その愛は届いているよね。伝わっているよね。だから、他の神を愛することなんかしないよね。という、実に率直な神の愛の言葉がここに記されているのです。

この十戒は人に自由を与える道標になるのだと最初に言いました。神は、神の愛の御手の中に神の民を置くことによって、その者に自由を体験させたいと願っておられるのです。モーセに導かれたこの時のイスラエルの人々は、この神の圧倒的な愛をもうすでに味わっているのです。毎日エジプト人たちによって強制労働させられていた中から、救いを得たのです。自由を味わったのです。そしてとても興味深いのは、そのようにしてエジプトから脱出して自由を与えられたイスラエルの人々の前に、神は四十年にわたる荒野の生活を強いられたのでした。そうすると、わたし達は考えなければなりません。神が人々に与えようとしておられる自由とは、どういうものなのかということを(続きを読む…)

2013 年 10 月 20 日

・説教 コリント人への手紙第Ⅰ1章1節ー9節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 14:18

本日は後藤幸男先生が礼拝説教の奉仕をして下さいました。

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