2015 年 1 月 18 日

・説教 ヨハネの福音書8章48-59節 「栄光を与える父」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:58

2015.01.18

鴨下 直樹

神戸の震災から20年がたちました。この震災の時、わたしは神学生で岡崎教会に住み込みながら、教会実習をしていた時です。地震の夜、もう夜の12時を回る頃でしたけれども、宣教師のベルンス先生と、何ができるかと話し合いました。そして、同盟福音の教会に献金の依頼をして、集めたお金で救援物資を調達して、神戸に運ぶことを決めました。夜中に全教会にファックスを流しました。翌日、礼拝後に各教会から集まった献金の金額を報告してもらいまして、そのお金をもとに救援物資を買い集めます。地元のパン工場や、薬局も協力してくれたためにパン5000食、食糧、衣料品、衣類、考えられるものを教会員で手分けして買い、トラックに載せて、教会の方々が神戸に向かいました。最初は一日だけのつもりが、次々にお金が集まり、ボランティアが集まり、何ヶ月かにわたって、ボランティアと物資を送るシステムができました。私も、二回目の物資の配達と数日のボランティアをしてきました。行先は、あの倒れた高速道路のすぐ先の芦屋です。

当時、神学生の私は岡崎の日曜日の説教の奉仕にあたっていました。一緒に行ったのは当時芥見教会の神学生だった井上さんです。できるかぎりギリギリの時間まで神戸にいたために、戻って来たのは土曜日の夜中で、結局説教の準備をする時間が全くもてませんでした。帰りの車の中で、そのことを井上さんにお話しすると、井上さんも芥見で礼拝説教にあたっているとのことで、二人で勝手に明日の礼拝はそれぞれ交代して、私が芥見教会で、井上さんが岡崎で、以前した説教をするということになりました。実は、わたしはその時が初めて芥見教会に来た時でした。ですから、わたしは芥見で初めて説教に来てから、ちょうど20年たったのだと思い起こしておりました。20年前、廃墟同然であったあの神戸も今ではそんなことを感じさせないほど美しい街になりました。

20年という年月が過ぎるのを早く感じるとともに、それだけの年月を通って、先週成人を迎えた方もあります。先週成人式を迎えた方は、あの神戸の震災の時を知らないのかと、そのこともまたとても不思議に思うのです。 (続きを読む…)

2015 年 1 月 11 日

・説教 ヨハネの福音書8章31-47節 「あなたに自由を与えるもの」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:29

2015.01.11

鴨下 直樹

2015年を迎えまして一週間がたちました。私事で恐縮ですがこの一週間とても目まぐるしく一週間を過ごしました。週明けから教団の役員会に出席いたしまして、水曜日の夜には娘が救急で病院に運ばれました。そのために祈祷会を急きょ休会にしまして、病院に行っておりました。幸い大変なことになりませんでしたけれども、その後で体調がなかなかもどらなかったのですが、今は「はしか」で全身に発疹が出ております。木曜は祈祷会をいたしまして、翌日の金曜に名古屋の神学塾で入塾説明会の準備と来年度のまた新しいカリキュラムの作成をしておりまして、夜遅く戻り、昨日は朝、新しく家を建てられる方の定礎式をしまして、その午後には招待されておりましたコンサートに行き、まるっきり説教の準備をする時間を取ることができません。何か言い訳じみた言葉で説教を始めているのですけれども、今週の説教題を「あなたに自由を与えるもの」としました。自分自身でその言葉を思い返しながら、自分に与えられている自由とは何かということを考えさせられる一週間となりました。

今日の説教の箇所は本来でしたら38節で区切るのが一般的ですが、あろうことか47節まで選びました。いつも説教の時はできるだけ丁寧にそれぞれの節を追うようにして説教をしているつもりですけれども、昨年の暮れから今年にかけて、丁寧に聖書の解き明かしに時間をかけることができておりません。先週も半ば強引に年間聖句の説教を織り込みました。ですから、このヨハネの福音書の8章の話についていくことが難しく感じておられる方があるかもしれません。それはお許しいただきたいと思います。今日も、長い箇所を選んでおりますけれども、丁寧にここから解くことはできません。

ただ、今日の聖書の箇所に「真理はあなたがたを自由にします」というとてもよく知られた箇所が出てまいります。キリスト教系の大学にこの言葉を記しているところはいくつもありますし、それこそ国会図書館にもこの言葉を少し変えた言葉が掲げられております。多くの人の心に留まる言葉がここで語られているのです。真理を知ることこそが、私たちに自由をあたえるのだと、大学での学びに励んだり、読書に励みながら、そうした努力が私たちに自由を与えるのだと、広く受け止められています。それは、とても大切なことです。

そこで、主イエスがなぜそのような今でも多くの人の心をとらえている言葉をお語りになられたのか、少し見て見たいと思います。 (続きを読む…)

2015 年 1 月 4 日

・説教 ヨハネの福音書8章21-30節  「互いに受け入れないながら」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:22

2015.1.4

鴨下 直樹

2015年のためのローズンゲンによる年間聖句

「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」(ローマ人への手紙15章7節 新改訳)

新しい年を迎えました。先日の元旦礼拝で私たちは今年の年間聖句のみ言葉から説教を聞いています。先日の元旦礼拝の後で、二人の長老からある提案がなされました。もう一度、今度の4日の礼拝に同じ聖書箇所から説教して欲しいという提案です。一年の間、この年間聖句を心にとめるためにも必要だというのです。また、F長老は、同じ説教というよりも別の視点も含まれればなおよいと言われました。みなさんもご存知のとおり、教会の月間予定と共に配られております礼拝細目で一月の礼拝の説教者と説教題、讃美歌、奉仕者などは前もってすでに印刷して告知されております。ですから、一週説教をずらしますと、讃美歌から何から何までずれてしまいますので大変なことです。ですから、予定を簡単に変更することはできません。ただ、同時に長老方が言われることも大変大切なことだと思っておりますので、できるかぎり、年間聖句も心に留めつつ、今日はこの私たちに与えられているみ言葉に耳を傾けたいと思います。

しかし、そうは言うものの、実は今日私たちに与えられているヨハネの福音書の聖書箇所というのは分かりやすい箇所ではありません。何度か申し上げておりますように、わたしはあまりこのヨハネの福音書を得意としておりません。言い訳じみたことを新年早々に言うことをお許し願いたいのですが、話の筋を読み解くことも簡単ではないのです。実は、長老方が「元旦説教をこの礼拝でも」と言われた時に、元旦と同じ説教をしてよいのであれば渡りに船と、思ったくらいです。もちろんそういうわけにもいきませんから、少しこのヨハネの福音書の内容を見て見たいと思います。 (続きを読む…)

2015 年 1 月 1 日

・説教 ローマ人への手紙15章7節 「神の栄光のために」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 15:45

2015.1.1

元旦礼拝説教

鴨下 直樹

2015年のためのローズンゲンによる年間聖句

「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」(新改訳)

ドイツのヘルンフーと兄弟団が発行しております、ローズンゲンという、日ごとに読む聖書をローズング、くじ、で毎日の言葉を選びまして、それを毎日の生活の支えとしている本があります。毎年、私たちの教会では、このローズンゲンによって選ばれた年間聖句を、私たちに与えられた一年のみ言葉として心に留めるようにしています。

教会の年間聖句には教会のスローガンになるようなみ言葉を長老会なり、役員会で選んでもいいのではないかと思われる方もあるかもしれません。これは、私の考えでもありますが、誰か個人の願いや意図で教会を形成するのではなくて、み言葉が私たちの信仰の支えとなり、み言葉によって教会を建て上げたいと願っております。それは長老方も理解してくださっていると思っていますが、そのために、長老会が今年はみなさんにこういう人になっていただきたいので、この聖書を選びましょうなどと選ぶようなことをしないようにしているのです。ですから、毎週の礼拝説教も講解説教といいますけれども、毎週聖書を順番に学び続けているのも、それと同じ理由なのです。牧師が、自分が取り上げたいテーマを毎週選んで、牧師の話したいこと、気になっていることを説教しないようにと考えているのです。これには色々な考え方がありますから、あくまでも私が考えていることであって、他の牧師もみなそうすべきであると考えているわけではありません。けれどもこのことは、長老や執事、みなさんにも理解をしていただいていると思っています。

なぜ、こんな前置きからはじめたかと言いますと、今年の年間聖句として選ばれている聖書の言葉をご覧になって、「あれ、牧師は私に対して日頃思っていることをこの聖句に込めたのではないか」と思ってほしくないからです。けれども、この年間聖句は、実際に私たちが一年の間心に留め続けるみ言葉として、大切なのではないかと、長老会でも話し合いました。特に、今年は各部会で、毎回この年間聖句からお互いにみ言葉の分かち合いの時間を持って、このみ言葉に特に耳を傾けるようにしようということを決めました。

そういう意味でも、このみ言葉を、私たちは、自分に与えられたみ言葉としてこの一年耳を傾けていければと願っています。 (続きを読む…)

2014 年 12 月 28 日

・説教 ガラテヤ2章20-21節 「パウロの生涯に示された神の恵み」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:42

本日は舛田忠興執事が礼拝説教で奨励をして下さいました。

2014 年 12 月 21 日

・説教 ヨハネの福音書8章12-20節 「いのちの光」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 14:14

2014.12.21

クリスマス礼拝説教

鴨下 直樹

先ほど洗礼入会式が行われ、今朝洗礼を受けられたIさんの証を聞きました。Iさんは今中学三年生です。学校でのこと、そこで思い悩んできたこと、苦しんできたこと、そして信仰がその生活の支えとなったことを証ししてくれました。ある方が本の中で書いておりましたけれども、中学生というのは人生の中で最も厳しい時期です。誰もがこの時期の厳しさを経験されてきたと思います。それまでの人生経験も、考え方もまだ大人になるための途中の段階で、身に降りかかってくることはそれゆえに難しい時期を過ごさなければなりません。同級生もまた大人としてふるまうことが出来ないのです。みんなが同じ弱さを持ちながら、けれども、ひとりひとり成長の度合いも違います。一人一人の環境も違うために起こる問題というのもあります。大人になる間に忘れていってしまうのですが、それはとても厳しい時期です。Iさんは高校を山形にある基督教独立学園に入学することが決まっていますが、高校の入学試験の面接の時に、校長先生から「そういう厳しい経験をしながら、君は神様を恨まなかったのか」と尋ねられたのだそうです。すると、「そういう風に考えたことはありません。私はそこから教えられたこともたくさんあるのです」と答えたのだそうで、その答えに先生も驚かれたのだそうです。私はその話を聞きながら、見事な信仰の言葉だと思いました。自分の抱えている困難を、ただ、辛かったのだ、苦しかったのだと嘆くのではなくて、そこから気付いたこと、教えられたこともある、それは私にとって悪いことばかりとは言えないと明確に答えることができる。まさに、そこに神様の支えがあったのだと思わざるを得ないのです。

今日の聖書の箇所は、主イエスが「わたしは世の光です」と宣言なさったところです。人生にはさまざまな闇が存在します。学生の時、仕事をしている時、家族の中にいる時でさえ、人は闇を抱えています。誰にも話すことのできない悲しみがあります。孤独の闇があります。理解してもらえない闇もあれば、人を傷つけてしまったという闇もあるのです。

今日はクリスマスです。クリスマスの喜びを共に覚えながら礼拝の時を持ち、また、先ほど洗礼入会式をいたしました。クリスマスは、闇の世界に光が灯されたことを祝う時です。そして、まさに、ヨハネの福音書のみ言葉を順番に聞き続けてきながら、この朝、主イエスの言葉、「わたしは世の光です」という言葉を私たちは聞いているのです。闇の世界に、主イエスによって光がもたらされた。これがクリスマスの喜び、すべての闇を感じている人にもたらされた喜びの光なのです。 (続きを読む…)

2014 年 12 月 14 日

・説教 ヨハネの福音書7章53-8章11節 「主イエスへの挑戦」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:01

2014.12.14

鴨下 直樹

先ほど司式者が読みました今日の聖書の箇所をお読みになりながら、みなさん、少し不思議な思いを抱かれたのではないかと思います。今日の聖書の箇所は鉤かっこでくくられているのです。これは何だろうと思いながら、読まれる聖書に目を留められたのではないかと思います。これには少し説明が必要だと思いますので、最初にそのことをお話しします。

私は名古屋にあります東海聖書神学塾で新約聖書緒論という授業を受け持っています。そこで、最初に新約聖書の成り立ちについて教えるのですけれども、聖書は沢山の写本が発見されていますが、一つもオリジナルの聖書は発見されておりません。発見された写本の古いものでも約四世紀に書かれたものです。写本といいますのは、昔は印刷技術がありませんでしたから、大切な書物は書き写して広まっていきます。あるいは、何度も読んでいるうちにボロボロになってしまいますので、何人もの写字生と呼ばれる人が書き移すわけです。そうしますと、少しずつですけれども誤字や、後でわかったことを書き加えていったりしまうので、全く同じ写本というものも存在しないわけです。それで、聖書の研究科はできるかぎり聖書のオリジナルに近いものを見つける作業をいたします。そこで、発見された数々の写本を比較しながら、より古い時代の写本に書かれたものがオリジナルに近いだろうということで、「本文」(ほんもん)を確定していく作業をします。これを本文批評といいます。

そういう聖書研究の結果、今日の箇所は古い代表的な写本には入れられていないので、これはヨハネの福音書には最初は書かれていなくて、後の時代になって書き足らされたものであることがはっきりしてきたのです。それで、この箇所は他の聖書の箇所と同じように扱うことはできないのではないかと考えて、鉤かっこの中に入れられるようになったわけです。ですが、もうこの箇所は長い間、ヨハネの福音書として親しまれてきました。そして、この箇所をヨハネの福音書に残しておくか、外すべきかということをその後の教会会議で決定いたしまして、聖書の中にそのまま残されることになったのです。

今日の聖書の内容はそれほど複雑な話ではありません。姦淫の罪の犯した女が連れてこられます。旧約聖書のレビ記20章10節にこういう戒めがあります。 (続きを読む…)

2014 年 12 月 7 日

・説教 ヨハネの福音書7章40-52節 「この方がキリストなのか?」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:51

2014.12.7

鴨下 直樹

先週の金曜日に私とマレーネ先生が教えております東海聖書神学塾のクリスマス会が行われました。今年一番早いクリスマスの祝いをいたしました。毎年のことのようですけれども、ずいぶん神学生たちもリラックスをしながら、楽しい催しを準備しておりました。クリスマスというのは、主イエスの降誕をお祝いするのですから、どのようにお祝いすることが、主のお生まれを祝うことになるのか。キリストを祝うのにふさわしい祝い方というものがあるのではないかと改めて考えさせられました。私は例年参加しておりませんでしたので、本当に20年ぶりに神学塾のクリスマス会に出席したのですが、礼拝をした後で、食事会になります。ゲームをしたり、讃美歌をうたったり、劇をしたりと、ずいぶん賑やかに楽しんでいたのですが、最後に降誕劇をいたしました。その劇はところどころセリフを面白おかしくしていたまではまだよかったのですけれども、だんだん悪ふざけが過ぎていきまして、ふざけすぎた劇になってしまったのです。

クリスマスというのは、「キリスト」という言葉と礼拝するという言葉の「マス」が一つになった言葉です。キリストを礼拝するという意味です。そこでは、当然キリストがどういうお方なのかということを知ることはとても大切です。そういうもっとも大切なことを教える神学校で、他のテーマでユーモアを交えるならいざ知らず、キリストの降誕劇を神学生たちがふざけていたのでは、キリストを知る礼拝は成り立たないと私は思うのです。キリストがあまりにも小さくなってしまっているのです。

今、ヨハネの福音書のみ言葉を順に聞き続けています。先週は、「わたしが生ける水だ」と主イエスが仮庵の祭りの最後に宣言なさったところから話しました。聖書には、実にたくさんの箇所で、この人々の渇きを癒す、生ける水のことが語られてきたのだということも、ずいぶん丁寧に話しました。その主イエスの言葉を聞いていた祭りの人々は、この主イエスの宣言をどのように聞き取ったのか。その反応が書かれているのが今日のところです。

そして、そこで、主イエスの語られる言葉を聞いた人々の中に「この方はキリストだ」と受け止める人たちが出て来たのです。それが、今日私たちに与えられている聖書のテーマです。「この方はキリストなのか?」そのように今日の説教のタイトルを付けましたけれども、これがそのままこの箇所のテーマなのです。 (続きを読む…)

2014 年 11 月 30 日

・説教 ヨハネの福音書7章37ー39節 「生ける水の川の流れ」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 14:52

2014.11.30

鴨下 直樹

私たちの教会はこの二週間ほど目まぐるしく動いてまいりました。コンサートをいたしました。先週は礼拝後にこの教会を会場にして教団の総会を行いました。また、翌日には婚約式です。とても豊かな時間を過ごしまして、まるでお祭りのような二週間でした。お祭りの最後のクライマックスには、人々の期待が高まる瞬間があるものですが、まさに、先週の月曜日の婚約式には大勢の方が共に祝ってくださいまして、まるで結婚式のようだったとみなさん口々に言っておられました。 そのように、祭りの最後の時というのは、もっとも重要な時です。私たちも今週からいよいよアドヴェントを迎えます。教会の暦では一年の最初ということになりますけれども、いよいよ12月に入りまして、みなさんお一人おひとりの生活においても、この季節にはとても重要な意味を持っているのではないかと思います。一年を振り返る時を持つ方もあるでしょう。仕事でも、新しい年に迎えて備えなければなりません。学生は新しい学校に入るための試験であったり、準備などをいたします。新しく社会人になる方もこの中にありますけれども、そういう備えの時期でもあります。また、結婚の備えをしなければならない方もあります。そういう大切な時に、私たちはこのみ言葉が与えられています。 ヨハネの福音書7章37節です。

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

仮庵の祭りというのはユダヤ人たちにとっての大きな三つの祭りの一つ、しかも一年の最後の大きな祭りの最後です。人々の期待が高まる瞬間です。この聖書には書かれておりませんけれども、どうも、この祭りの時に、シロアムの池というのがエルサレムの都にありますが、ここから水を汲んで来まして、祭壇に注ぐという儀式を行っていたようです。おそらく、そのまさに、祭りが最高潮に達しようという時に、主イエスは大きな声で言われました。 (続きを読む…)

2014 年 11 月 23 日

・説教 マタイの福音書25章1-13節 「主にある望みに生きて」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:32

〈終末主日〉

2014.11.23

鴨下 直樹

今日は教会の暦で一年の最後、終末主日を覚えています。終末という言葉は、そのまま死を覚える、自らの終わりの時を考える時を教会はその暦の最後に覚えるようにしているのです。教会によっては、この日を収穫感謝の日として覚えるところもあります。そこでも、ただ、作物の収穫を感謝する、私たちの日ごとの生活に与えられているものを感謝するということにとどまらず、やはり、人生の最後、私たちは何を収穫することになるのかを覚えるという意味がそこにはあります。そうして、来週から教会暦のはじめに、キリストがお生まれになるために備えるアドヴェントに入っていくのです。

いつもですと、ヨハネの福音書のみ言葉を順に聞き続けておりますけれども、今朝は聖歌隊が賛美をいたしました。「起きよ、と呼ぶ声がする」という賛美です。もともとはドイツ語の賛美ですが、日本語にされたものをうたいました。この讃美歌のテキストになっているのが、先ほど司式者が読みましたマタイの福音書の25章の1節から13節のみことばです。十人の花嫁のたとえばなしと言われる箇所です。

先ほども賛美の中で「起きよ」、「起きよ」というフレーズが何度も続きました。讃美歌では「夜はあけぬ」と歌いました。「夜があけるから、起きなさい」と起こしているのです。この讃美歌はもともとドイツ語のもので、どなたが訳したのかわからないのですが、もとの歌詞には「夜は明けぬ」という言葉はありません。花婿が来るから花嫁であるエルサレムよ、起きなさいという歌詞がつづいているのです。とても、興味深いのは、花嫁をエルサレムに例えている点です。

今日の聖書の箇所を読みますと、花嫁は十人いました。たとえ話ですから、実際にこの時代の結婚は合同結婚式であったのかなどということは考える必要はないと思います。少し内容を考えてみたいと思います。 (続きを読む…)

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