・説教 マタイの福音書6章25-34節 「空の鳥をよく見よ」
本日は古川秀昭長老が説教をして下さいました。
2014.6.22
鴨下 直樹
先週の金曜日の朝7時からワールドカップの第二戦、日本対ギリシャ戦をやっておりました。テレビにくぎ付けになりながら、一所懸命応援している私を妻が後ろから見て、こうつぶやきました。「あなた、まさか、日本が勝つようにお祈りしてないでしょうねぇ」と。
私の白熱した応援ぶりに、祈らずにはいられないような勢いを私から感じたのでしょう。けれども、私はおもわずおかしくて笑ってしまいました。「いくらなんでもそれはしない」と。ただ、その話を聞きながら、もう何年も前の2002年ワールドカップの時のことを思い起こしました。ドイツとブラジルの決勝戦の試合が始まる前に、ブラジルの選手たちがお祈りをしている姿がテレビに映し出されました。その後で、ドイツの選手にカメラが向けられますと、ドイツの選手の中でもそこで祈っている選手がおりました。その試合は、牧師の研修会で御代田にいた時、他の牧師たちとドイツ人の宣教師たちと一緒に見ておりましたので、その時の光景が私の頭の中に深く印象づけられました。その時、私はどっちの祈りを神様はきかれるんだろうかと、思ったものです。結果的にはその時ブラジルが勝ちまして、その時のゴールキーパーのオリバー・カーンがなんとも言えない悔しそうに一人ゴールにたたずむ映像がとても印象的でした。
日本を応援している私と違って、実際に試合をする選手たちにしてみれば、祈りたい心境になるのかもしれませんが、そういう祈りの不思議さといいますか、なんとも奇妙な気持ちは拭い去ることはできません。
私も、洗礼の準備のための学びの中で、祈りについて教えます。まず、何を祈ってもいいのだと教えます。どんなことでも、神様の御前に自分の心を注ぎだしたらいいと教えます。けれども、それと同時に、神様が祈りをかなえてくださるかどうかは、神様の問題なので、それで祈りを聞いて下さらなかったとしても、神様に不信感を持たないでくださいと教えます。
今日の聖書の箇所は、そのことと深く関わっている箇所です。今日のところはヨハネの福音書に記されている奇跡の出来事の二つ目です。場所はガリラヤのカナです。最初に婚礼の奇跡をおこなわれたのと同じ場所です。けれども、ヨハネはそれに先立って、主イエスはガリラヤに行かれたという記事と同時に、主イエスご自身が、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と言っておられたと、44節に書かれています。ところが、そのご自分の郷里であるガリラヤで人々は主イエスを歓迎したと続く45節に書かれていまして、そのガリラヤで役人の息子の病を癒されて、53節では「彼自身と彼の家の者がみな信じた」と書かれています。
そう読んでいきますと、気になることが出てきます。人は、主イエスが言われた「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と言われたのはどういう意味なのかということです。もう一つは、ここまでの流れの中で、主イエスを「信じる」ということが、この役人の信仰をどう描いているのかということです。
はじめに、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」という主イエスの言葉はどういう意味で書かれているのかということから考えてみたいと思います。 (続きを読む…)
2014.6.15
鴨下 直樹
先週の金曜日からサッカーのワールドカップが始まりました。しかも今ちょうどこの礼拝の時間に、日本の初戦で、コートジボワールとの試合が行われています。私は時間を見たときに、今朝の7時からだと勘違いしておりまして、ほっとしていたのですけれども、先週、礼拝中が試合時間だということに気づきまして、かなりがっかりしました。みなさんがご存じかどうかわかりませんが、私は大のサッカー好きです。今週も説教の準備をしながら、なかなか聖書に集中出来ませんでした。そもそも、礼拝に来る人はいるのだろうかと思ったくらいです。もちろん、みんながサッカー好きとは限りませんし、礼拝を大事にしておられるので、数名は来られていない方があるかもしれませんが、今日もこうしてともに礼拝をしております。
そこで、ひとつお願いがあります。礼拝中は携帯電話などで、試合の途中経過を見ないようにしてください。もちろん、神様に心を向けてほしいからですけれども、誰かが少しでも礼拝中にニヤリとしたり、あるいは、絶望的な顔をしている方がありますと、私も気になって仕方がなくなってしまいますので、よろしくお願いします。そして、礼拝が終わっても、私に結果を教えないでください。後で録画を見る楽しみがなくなりますので。やはり、ひとづてに試合結果を聞くよりも、自分でどきどきしながら見たほうが面白いと思うのです。まず、このことを話しておくと、私も安心してみ言葉に集中することができます。
さて、今日の聖書は、先週から続いておりますサマリヤの女と主イエスとの対話の残りの部分です。今日のところも、内容は前回のところの続きですから、その流れを少し頭に覚えておいていただくと、今日の部分がより理解しやすいと思います。
主イエスは、当時ユダヤ人たちが関わることを避けていたサマリヤ人の女に、水を飲ませてくださいと対話を始められました。そして、この女性の心の渇きに気付かさせられました。昼間に、誰にも会わないように井戸に出てきたこの人は、主イエスとの対話の中で、自分が本当に求めていたものに気付かされました。つまり、自分のことを本当に理解してくださるお方であるお方、主イエス・キリストとお会いしたのです。
今日のところは、その後の出来事です。 (続きを読む…)
2014.6.8
鴨下 直樹
先週の月曜日にJEAの総会に出席してまいりました。JEAというのは日本福音同盟と言いまして、日本の福音派と呼ばれる教会の交わりがあります。この福音派の教会の各教団の代表者が集まりまして、毎年総会を行います。この期間に、色々な教派の牧師たちと食事の時や会議の間に対話をする機会があり、とても楽しい三日間を過ごしてまいりました。毎回の食事の度に初めてお会いする先生方とお話をします。どこから来られましたか。どういう教団ですか。特に、みな牧師たちですから、もう長い友人であったかのように話し込みます。時々、あまりにも仲が良いので、もうだいぶ前からの知り合いなのですか?と尋ねますと、いいえ、昨日の昼に一緒に食事をしましたという返事が返ってくるのです。
この教会でも先日も55プラスという集会がありました。私は参加しておりませんけれども、賑やかな声が私の部屋まで聞こえてきます。多くの人が、心を開いて話をしたいという願いをもっているのだということが良く分かります。
今日の聖書は、主イエスとサマリヤの女が対話をしているところです。とても、長い対話です。今日は26節で切りましたけれども、まだまだ対話は続いていて38節まで続いているのです。私の手元にあるいくつかの説教集を見てみますと、1節から38節までのこの部分から4回から5回の説教をしています。何回にも分けたくなるほど、豊かな内容があるのです。
1節から4節の部分は、前回の3章の終わりのところのバプテスマのヨハネの弟子たちとヨハネの出来事が記されておりましたが、主イエスがバプテスマを授けておられたことが、パリサイ人の耳に入ったので、主イエスはまたガリラヤへ、つまりまたご自分の故郷の方へ足を向けられました。そこに行く途中、サマリヤというところを通らなければならなかったとこの4章の冒頭に記されておりまして、このサマリヤの女との対話の場面設定がなされています。地理的な都合であったのか、あるいはヨハネの福音書の内容的な都合であったのか、さまざまな意見がありますけれども、いずれにしても、主イエスはサマリヤの町を通って行かれます。
そこで、どうしてもこのサマリヤという土地のことをあらかじめ少し説明しておく必要があります。 (続きを読む…)
2014.6.1
鴨下 直樹
先週の月曜日から火曜日まで岐阜県キリスト教連合会の総会が高山の古川教会で行われました。岐阜県のすべての教会、カトリックから日本基督教団、ルーテル教会、ペンテコステ派、福音派の教会すべての教会が協力をして、岐阜県にある二つの教会に教誨師を送っております。そのための総会が行われました。大変楽しい二日間を過ごしました。そこで、ともに何度か聖書から福音を聞くときがあったのですが、一人の先生が、各自の聖書で構わないのでみんなで聖書を輪読していきましょうと言いました。それで、それぞれ新改訳、新共同訳、文語訳、口語訳の聖書をばらばらに読みました。一体、何を読んだのだろうというほど不思議な時間でしたけれども、興味深い経験となりました。
みなさんがご自分で聖書をお読みになるときに、他の聖書と比べながら読むということをされることがあるでしょうか。今日、私たちに与えられています聖書は、短い箇所ですけれども、実に様々な議論がなされるところです。他の聖書と読み比べてみますと気が付くことなのですが、今日の箇所は特に、この新改訳聖書では鉤かっこの中にいれていません。というのは、他の聖書では鉤かっこがついて書かれている聖書がたくさんあるのです。つまり、それはどういうことかと言いますと、新改訳聖書の場合は、今日のこの部分は洗礼者ヨハネの言葉ではないと理解しているということです。けれども、新共同訳聖書をお持ちの方は、この部分は鉤かっこでくくられております。この部分はヨハネの言葉だと理解しているからです。そのほか、ドイツ語の聖書もほとんどこの部分はヨハネの言葉だと理解しています。
なぜ、こんな少し小難しい話から始めたのかと言いますと、 (続きを読む…)
2014.5.25
鴨下 直樹
今、私たちはヨハネの福音書を順に聞き続けています。先週は不在で一週間空いてしまいましたので、少しヨハネの福音書の流れをつかみにくいと思っておられるかもしれません。また、このヨハネの福音書の構造が少し分かりにくいと感じるかもしれません。以前、聖書学者たちが、このヨハネの福音書の順番を入れ替えて内容を再構成するという試みがなされたことがあります。聖書学者たちも、順番を入れ替えないと理解できないと考えたのです。それほど、話の順序がおかしいと感じたのでしょう。しかし、最近はやはりそのまま読むほうがよいということで、落ち着いているようです。少し後ろにさがって、引いた目線で見てみますと、全体としてはそれほど複雑ではないのです。少し、このヨハネの福音書の流れを確認したいと思うのですが、2章から3章の終わりまでは一まとまりの文章になっています。この部分のテーマは、主イエスに対して、人々はどういう態度をとっているのかということです。実は、この主イエスに対する態度を四つに分けることができます。最初の部分は2章1-12節にあるカナの婚礼です。ここに、主イエスの母マリヤが、主イエスの言われることに全幅の信頼を寄せていることが記されています。主はここで、マリヤに冷たくしているように見えますけれども、マリヤの信頼に応えておられます。二番目は2章13節-35節です。主イエスがエルサレムを訪れた時に、多くのユダヤ人たちは主イエスを信じます。自分にとって価値があると判断すれば信じてもいいとする態度がここに描き出されています。そして、三つ目は3章1節から21節で、ニコデモです。二番目の代表として描かれていますけれども、主イエスに一定の価値を見出しながらも、これまでの自分の行き方とのはざ間で、一定の距離をとってしまう人が描かれています。そして、最後に、今日からのところですけれども、主イエスが大切で、自分はこのお方の前には取るに足らない者だと認めているバプテスマのヨハネが描き出されています。 (続きを読む…)
本日の礼拝は、ギデオン聖書配布協会の河合昇兄が説教とギデオンメッセージをして下さいました。
2014.5.11
鴨下 直樹
この四月から担当することになった三好教会で、亡くなられた方の記念会をするために、今日の午後から三好教会に伺うことにしています。そのこともあって、ご家族の方から電話をいただきました。その電話でこんなことを聞かれました。私は最後の挨拶の中で、「天で母と再会できることを楽しみにしています」と言いたいのですが、そう言っても大丈夫でしょうか?というのが、電話での質問でした。なぜそんなことを質問されたのかというと、その方は、以前宣教師から聞いた説教の中で、聖書には、天では娶ることも嫁ぐこともないと書かれていて、天では家族関係に縛られてはいないと聞きました。そうすると、天で、母は私のことを覚えていないのではないかと思ったら、急に、教会でこれまで良く聞いてきた、「天での再開の希望」ということが本当なのかよく分からなくなってきたのです、と言われたのです。
みなさんの中にも、お気づきの方があるかもしれませんが、私は教会で葬儀をしたり、記念会をするときに、天での再開の希望ということを話したことは一度もありません。このことは誤解を受けないように、丁寧に話す必要があると思っています。天での再会ということを、もちろん否定しません。天で再会することはあるでしょうし、天に行ったら、みんな記憶喪失になってしまって、この地上でのことを忘れてしまうというようなことはないと思います。ですから、もちろん家族の方が、天で亡くなった家族と再会することを楽しみにしていると語ることは許されるし、そこに大きな慰めがあると思います。
けれども、信仰をもって天に先立った家族との再会ということを、聖書が福音として語っているわけではありません。それは、もちろん家族にとっては大きな希望であるし、慰めです。しかしそれは、言ってみれば、豊かな福音のおまけのようなものです。主イエスを通して、永遠のいのちを与えられた、喜びの中に含まれているものですが、天での再開の希望が、福音のメインではないのです。教会で葬儀をいたしますと、私が言わなくても、必ず、長老か、執事か、あるいは親しい教会の方が、慰めの言葉として語ってくださいます。私はそのくらいでちょうどいいと思っています。 (続きを読む…)
2014.5.4
鴨下 直樹
ゴールデンウィークを迎えました。何となく休み気分になっている方も多いのかもしれませんけれども、今年はカレンダーでは29日の火曜日と、昨日の3日、土曜のみが休みなだけで、本格的にゴールデンウィークを味わうことができるのは、これからと感じておられる方も多いのではないでしょうか。私は、毎年4月29日は東海聖書神学塾のCS教師研修会が行われまして、出席してきました。今年も大変大勢のCS教師の方々が参加してくださいました。私とマレーネ先生は、午後の分科会で二時間のセミナーを行いました。私の担当したテーマは「CS教師のための聖書研究と、メッセージの作り方」です。大変大勢の方々が参加してくださいました。それほど、それぞれの教会学校の教師たちが、毎週の子どもへのメッセージの作成に苦労しているのだということがよく分かりました。
そこでもお話をしたのですけれども、聖書を読むときに、そこで何が語られているのかを意識しながら、気になったことを書き出してくださいと言いました。そして、実際に聖書を読んでいただいて、ある箇所から、気づいたこと、書き出したことを質問していきました。みなさん、とても丁寧に聖書を読んでおられるのだということが良く分かりました。
それと同じように、今日の聖書の箇所も気にして読んでいきますと、気になるところがいくつも出てきます。 (続きを読む…)
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