・説教 「過ぎ越しの成就ーキリスト」
本日はギデオン協会岐阜支部に所属している草野勝男兄(改革派那加教会教会員)が説教をして下さいました。
そして、ギデオン協会の働きがどのようにされているかの証しも一緒にして下さいました。
本日はギデオン協会岐阜支部に所属している草野勝男兄(改革派那加教会教会員)が説教をして下さいました。
そして、ギデオン協会の働きがどのようにされているかの証しも一緒にして下さいました。
2013.5.19
鴨下 直樹
今日はペンテコステです。教会に聖霊が与えられたことを祝う日ですが、この日は教会の誕生日などと言われる日でもあります。私たちの教会の歩みはここから始まったということができるのです。
今日特にこの礼拝で考えてみたいと思っていることは、教会はどのように歩んでいくのかということです。このペンテコステの日が教会のスタートでした。これまでは、主の弟子たちの集まりというのはユダヤ教の中の一部という見方でしか見られていませんでした。けれども、このペンテコステ以降、教会ははっきりとユダヤ教の分派ではなくて、まさに、主はこの教会を建て上げるために、これまでの歩みを備えてきてくださったのだということが、この世界に示されたのです。そのために、不可欠なのは何かというとこの日、私たちに与えられた聖霊です。
この日、何が起こったのか。そのことはこの使徒の働き2章の1-4節に記されています。
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
この日、集まっていた人々の上に分かれた舌のような炎がひとりひとりにとどまって、どうなったかといいますと、他国のことばで話し出したのでした。私ごとですけれども、私たちがドイツに行った時に、最初の一年の間、特に心に覚えたのはこの聖書の言葉でした。私たちにも聖霊が与えられているのだから、どうして、ドイツ語をたちどころに全てを理解して話せるようにならないのかと。言葉の壁にぶちあたるたびに、この聖書の言葉に羨ましさを覚えました。もちろん、これは、単に外国語が話せるようになったということなのではなくて、すべての国の人々に福音を語ることができるようにされたという、ひとつの大きなしるしの出来事です。 (続きを読む…)
2013.5.12
鴨下 直樹
今日は復活節の第六番目の主の日です。この日は、「エクサウディ」、「聞いてください」という名前のつけられた主の日で、この詩篇二十七篇七節が読まれます。この御言葉が今朝与えられているというのはやはりとても意味深いことです。
教会の暦ではこの次の日曜にはいよいよペンテコステを迎えます。ペンテコステというのは、教会に主イエスが約束された聖霊が与えられたことを祝う日です。イースターから五十日目がこのペンテコステです。四十日目、ちょうど先週の金曜日ですが、この日は昇天日です。弟子たちと共に過ごされたよみがえりの主が天に帰って行かれた日でした。主イエスはもう一度来てくださるとの約束をして、天に帰っていかれたのです。今朝は、主イエスが弟子たちから去られた後の主の日で、また、ペンテコステを前にした主の日です。ここで、この「聞いてください、主よ」という御言葉が与えられているのです。
聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。
と七節にあります。この言葉が今朝の中心的な御言葉です。
この詩篇の詩人は表題にダビデと記されています。ですからダビデの祈りと考えられるのですが、この詩篇全体の内容を見てみますと、ちょうどこの七節から突然内容が大きく変わります。
一節から六節までは光と喜びに満ち溢れた深い神さまへの信頼の祈りです。
「主は、私の光、私の救い。」という大変美しい祈りの呼びかけからはじまります。そして、主の確かな救いの中にいる喜びを心から賛美しています。それで、この詩篇は詩篇の中でも最も美しい詩篇の一つに数えられることもあるほどです。ところが、七節から事態は一気に変わります。 (続きを読む…)
2013.5.5
鴨下 直樹
復活節の第六主日、この日は「ロガーテ」という名前がつけられています。「祈れ」と言われる日です。しかも、今日は五月五日子どもの日です。子どもの日に祈れという主の日を迎えているのですけれども、考えてみますと、祈りは子どもでもできる簡単なことと言うこともできます。
もう今からずいぶん前のことで私が神学生をしていた頃、「かみさまへのてがみ」という本が詩人の谷川俊太郎さんの訳で出版されました。これはもともとはアメリカのものです。子どもたちが神さまに宛てて書いた手紙が紹介されており、そこに谷川さんの翻訳が添えられているものです。
子どもが神さまへ宛てて書いた手紙です。最初はこんな手紙で始まります。「かみさま、ぼくも なかまに いれてよ。 あなたのともだち ハービーより」
紹介したい内容が沢山ありますが、少しだけ紹介します。
「かみさま あなたは きりんを ほんとに あんなふうに つくりたかったの? それとも あれは 何かの まちがいですか? ノーマ」
「かみさま ちかごろ あたらしい どうぶつを はつめいしないのは なぜなの? いまいるのは ふるいの ばっかりだよ。 ジョニィ」
「かみさま どうせ わたしの のぞみが わかってるんなら どうして おいのりも しなきゃならないの? でも あなたが 気分いいなら わたし するわよ。 スー」
素朴な神さまへの疑問を手紙につづっているのが良く分かると思います。神さまへの手紙というのは、そのまま神さまへの祈りと言い換えてもいいと思いますが、不思議なものです。手紙にしてみると、具体的になるようです。私たちも祈る時に、一度神に書いてみるといいのかもしれません。まさに、神さまに宛てて書く手紙のようにです。子どものように素直な気持ちで、どんなことでも祈ることができる。それが、祈りの素晴らしさでもあります。
この朝は、祈るということについて、一緒に少し考えてみたいと思います。 (続きを読む…)
2013.4.28
鴨下 直樹
復活節の第四主日を迎えました。今日は「カンターテ」、「歌え」と言われる主の日です。それで、この主の日には詩篇の九十八篇の一節が読まれるのです。
新しい歌を主に歌え。
冒頭にそのようにあります。
このカンターテと言われる主の日の強調点は「歌え」です。復活の喜びに生きるものは歌え、と命令されているのです。「歌う」というのは、私たちの生活の中でもそうですけれども、思わず歌ってしまうという時があるとしたら、それは心の中に喜びがある時でしょう。悲しい気持ちでいる時に歌うことはできません。「歌え」と命令することができるのは、歌いたくなるような喜びに支配されているからです。主の復活というのは、単なる生命として歌えるようになることなのだと言われているのではないのです。そうではなくて、歌い出したくなるような事実に包まれているから、その事実は心から溢れだしてくる喜びではないか、思わず歌いだしたくなることではないか。だから歌おう、心から主に向かって歌おうではないかという招きなのです。
みなさんの日常の生活の中に鼻歌を歌うということがどれほどあるでしょうか。 (続きを読む…)
本日はフィリピンで牧師をしておられるアラナス・インマヌエル師が礼拝説教をして下さいました。
そして、アラナス師の奥様で、以前同盟福音の元フィリピン宣教師であったルツ子師(旧姓 後藤)がフィリピン教会報告の証しをして下さいました。
2013.4.14
鴨下 直樹
主の復活をお祝いする第三週目を迎えました。私たちの教会では前に七本の燭台を並べて、一つずつともし火を灯しております。今朝は三つのともし火がついております。この復活節の第三主日をラテン語で「ミゼリコルディアス・ドミニ」と言います。今朝の詩篇の三十三篇の五節の言葉からとられています。五節にはこのように記されています。
主は正義と公正を愛される。地は主の恵みに満ちている。
このラテン語の「ミゼリコルディアス」という言葉は「慈しみ」と訳される言葉です。それで、この日曜は「主の慈しみ」という名前の日曜日として、主の復活の第三週目につけられました。ところが、この「慈しみ」という言葉が新改訳聖書にはありません。新改訳聖書では「恵み」と訳されているからです。新共同訳聖書をお読みしますと、このようになっています。「主は恵みの業と裁きを愛し、地は主の慈しみで満ちている」。
この「恵み」と訳された言葉が「慈しみ」と訳されていたことに気づかれたと思います。初めからこのような説明の言葉で始めるのはあまり良くないと思いますけれども、この言葉が「恵み」とも「慈しみ」とも訳すことのできる言葉であるということがお分かりいただけるのではないかと思います。この言葉の元の言葉はへブル語で「ヘセド」と言います。これは旧約聖書の中に頻繁に使われている言葉で、やはり新改訳聖書では「恵み」と訳すことが多く、新共同訳では「慈しみ」と訳されることの多い言葉です。
実は、いつもですと礼拝の説教は講解説教と言いまして、ひとつの書物を順に学ぶ説教の方法をとっていますけれども、今年のイースターは教会暦で読むことになっている聖書を順に学んでみたいと考えています。 (続きを読む…)
2012.3.24
鴨下 直樹
今日から教会の暦で受難週を迎えます。主イエスが十字架に架けられた週。エルサレムに主がお入りになられて、十字架につけられ殺されてしまわれる週を迎えました。そして、私たちはともに、この主イエスが十字架の上で叫ばれたことば「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というあのマタイの福音書第二十七章四十六節のもとになった詩篇第二十二篇のみことばに耳を傾けています。
以前も礼拝で紹介しましたが、岩手県の気仙地方で医者をしておられる山浦玄嗣(はるつぐ)さんが、気仙地方の言葉で聖書を翻訳しました。ケセン語訳聖書と言われるものです。今はすべてが津波に流されてしまいまして、津波から残って出て来た水をかぶってしまった本も全て完売して手にいれることが出来なくなっています。けれども、文春新書で『イエスの言葉』という小さな本が出ました。これはこの山浦さんのケセン語のエッセンスをご自身の言葉で解説していますから、とても面白く、このケセン語訳の聖書の雰囲気を少し味わうことができるようになっています。
この本の最後にちょうど今日の聖書の言葉が紹介されています。山浦さんが訳したケセン語ではこうなります。 (続きを読む…)
2013.3.10
鴨下 直樹
この詩篇は実に豊かな内容も持つ詩篇です。特に有名な箇所は、説教題にもしました五節の「私のたましいを御手にゆだねます。」という言葉です。これは、主イエスが十字架の上で最後に語られた言葉として知られる言葉です。ダビデの祈りとされるこの言葉を、主イエスの生涯の最後にお語りになられたということからしても、この言葉の持つ意味の重要さがおわかりいただけるのではないかと思います。死の直前に口にする主イエスの言葉が、この詩篇だったのです。今朝はこの実に豊かな内容を持つ詩篇から主のみことばを聴きたいと思います。
明日で、東北で起こった大震災から二年がたちます。連日、テレビでもそのような報道がなされています。教会の暦がレント、受難節を迎えていることもあって、私たちはどうしても、この季節に様々な問いを持ちます。その大きな問いの一つは「神よどうして」という問いなのではないかと思うのです。 (続きを読む…)
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