「説教音声」カテゴリーアーカイブ

・説教 ローマ人への手紙9章6-13節「私たちのための神の計画」

2022.02.13

鴨下直樹

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 今日は、いつもと礼拝の様子がかなり違っています。いつもですと、目の前にみなさんが座っていて、皆さんの顔を見ながら説教をするのですが、今日は私の目の前に誰もいません。

 今回、急遽この礼拝をオンラインだけで行うということにしました。詳しいことはお話しませんけれども、新型コロナウィルスの影響で、今日はそうした方がよいと判断したからです。

 昨日の時点でそう決めておりました。いつも礼拝堂に来られている方は、自分の部屋でモニターを見ながらする礼拝というのに違和感を覚える方もあるかもしれません。あるいは、いつもオンラインの礼拝の参加の方は、zoomの画面に沢山の顔が並んでいるのを嬉しく思われるかもしれません。

 ただ、不思議なものですけれども、昨日今日の礼拝の準備をしながら、誰も教会に来ないのかと思うと、説教の準備になかなか力が入りません。説教を聞く、みなさんの顔を思い浮かべることができないというのは、こういうことなのかと、今さらながら感じています。

 パウロはこの手紙を書くのに、手紙を受け取る人たちの顔を知らないで書いているはずです。そう思うと、私も変な言い訳はできないなと思います。誰が聞いているかも、分からないのに、これだけの内容の手紙を書くことができるというのは、改めて凄いことだと感心します。

 特に、この9章から11章というのは、ユダヤ人たちの救いについて語っているところです。ローマの人たちにあてた手紙で、パウロが自分の同胞であるユダヤ人たちも、神から忘れられているわけではないと語る。どんな思いだったのだろうと考えます。ローマの人たちがどんな顔をして聞くことを想像したのだろうかと思うのです。

 8章までで、パウロは情熱的な思いで神の愛について高らかに宣言しました。この神の愛は、ユダヤ人に対しても、今も向けられ続けているのだということを知らせたい思いがあるのです。それを聞いたローマの人がどう思うかということよりも、神がどのようなお方であるのかを伝えることの方を、重要視したのではないか、と個人的に思います。神は、不従順なユダヤ人であっても捨てられる事はないのだと伝えることが、結果的に神を信じるということの意味を明らかにするからです。

 パウロはここでこれまでユダヤ人と書いてきた言葉を、この9章に入って「イスラエル」と言い換えています。イスラエルというのは、バビロン捕囚までの神の民を指します。捕囚の後は、捕囚の前にすでに北イスラエルと南ユダに分かれますが、帰還の後は北イスラエルは神の歴史からは姿を消していきます。そこからはもっぱらユダヤ人という言い方がなされます。けれども、パウロはここで、わざわざ「イスラエル」という言葉を使って、神の約束の民のことを、もう一度語ろうとしているのです。

 そこでまず、パウロは、「神のことばは無効になったわけではありません」と6節で語っています。神に対して不従順であったイスラエルに与えた約束を、神は無効にしたわけではないのだというのです。

 その後に続く言葉が「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです」と記されているのです。

 パウロがここで語ろうとしているのは、少し説明するのに苦しいところがあります。一方で、イスラエルは神の約束の民なので、イスラエルは神の救いにあずかるということを語りたいわけです。けれども、パウロは先の4章でも語っていますが、アブラハムの子孫だからという理由で救われるのではなくて、「信仰による義」と語っています。 続きを読む ・説教 ローマ人への手紙9章6-13節「私たちのための神の計画」

・説教 ローマ人への手紙9章1-5節「大きな悲しみと痛みを越えて」

2022.02.06

鴨下直樹

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 ローマ人への手紙も、今日から9章に入ります。この9章から、また新しいテーマで語られています。

 パウロはこの前のところで、神の愛を高らかに宣言しました。神の愛は、主イエスを信じて神の子どもとされ、義と認められた者を絶対に見捨てることはない。これが、神の愛の姿です。パウロが語る福音です。主イエスに贖われ神のものとされている人たちは、神に見捨てられることはない。これが8章の終わりでパウロが語ったことでした。

 ただ、パウロには大きな悲しみがありました。パウロはこの8章の最後の言葉を、痛みを抱えながら宣言したのです。というのは、神の民であるイスラエルのことを、ユダヤ人たちのことを、当然考えなければならないからです。

 パウロは異邦人に福音を語るように神から召しを受けました。パウロはもともと、ユダヤ人です。そして、キリスト者たちを迫害するほど、ユダヤ人たちが律法を大切にして生きるその生き方に誇りを覚えていた者の一人です。そのパウロは、主イエスと出会い、神の御心を知ります。神は、ユダヤ人だけでなく、すべての人を救いたいと願っておられることを知ったのです。そして、そのために神は、御子主イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架につけ、よみがえらせたことを知りました。それで、パウロは異邦人たちに、ユダヤ人を苦しめているローマの人々にさえ、福音を届けて、主イエスを信じるようになって欲しいと願う様になりました。パウロは回心した後、三度にわたって伝道旅行をします。パウロの伝道は成功して各地に教会が生まれます。異邦人たちがどんどん救われる姿をパウロは見て来たのです。

 そのようにして福音がローマにまで届けられて、ローマに教会が誕生します。そのローマの人々に、パウロはこの手紙を通して神の愛を高らかに宣言しました。神は、あなたがたを決して見捨てるようなことはなさらない。神は、あなたがたの味方。どんなことが起ころうとも、神の愛から引き離されることはないと。

 そうすると、その言葉はまるでブーメランのように自分自身に跳ね返ってきます。その言葉は本当か?パウロの同胞であるユダヤ人を見て、本当にそんなことが宣言できるか? 不信仰なユダヤ人、不従順なユダヤ人は神から見捨てられ、バビロンに支配され、アッシリアに侵略され、ギリシャ、ローマに支配されてしまっているのではないか。今や、神の約束の地であるイスラエルの土地すらも、ローマの支配のもとにあり、エルサレムにある教会もローマの顔色を窺っているのではないのか。そんな中で本当に、神はあなたがたを見捨てない、絶対大丈夫なんてことを言えるのか。言って大丈夫なのか。

 神の愛の宣言は、ユダヤ人にとっては痛みを伴う言葉でしかないのです。

 パウロはこのローマ人への手紙の9章から11章までの3章で、ひたすらこのテーマを扱います。テーマは、神の愛は、不従順な者でも本当に見捨てることはないのか、です。神はイスラエル人をどうなさるのか。それが、この3章のパウロのテーマです。

 この9章から11章までは、言ってみればこのローマ書の中で話がそれた、いわゆる脱線したテーマの話といえるかもしれません。ユダヤ人の救いというテーマはローマの人たちが聞きたかったテーマではないともいえます。けれども、この3章で扱っているテーマは、私たちにとっては、すぐに神の御心から離れてしまう弱さを持つ私たちにとっては、必要不可欠な箇所ということができます。

私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。

 1節と2節でパウロはこのように語っています。

 パウロはずっとこの悲しみを抱えながら伝道してきたのです。自分の伝道で異邦人が救われていく度に、なぜ自分の同胞であるイスラエル人は回心しないのか。そういう悲しみです。

 この悲しみと同じ思いを多くの親は経験します。自分の子どもがどうして信仰に生きようとしないのか。子どもの頃は教会に行っていたのに。一緒に聖書を読み、お祈りもしたのに。今はまるで教会に行こうともしないし、聖書を開きもしない。息子は、娘は、夫は、妻はこの先どうなるのか。私の兄弟は、家族は、友達はどうなのか。

 不従順に対して、私たちはどう考え、どう祈り備えるのか。パウロと同じように、私たちも言うのです。

私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。

 この痛みを知らない者はおそらくいないでしょう。愛を抱くものは、私たちの愛する家族が、愛する者が、神に対して不服従であることを、自らの痛みとするのではないでしょうか。 続きを読む ・説教 ローマ人への手紙9章1-5節「大きな悲しみと痛みを越えて」

・説教 ローマ人への手紙8章35-39節「切り離されることのない神の愛」

2022.01.30

鴨下直樹

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 いよいよローマ書8章の結びのところまで来ました。このローマ人への手紙の8章31節から39節までのところで、パウロは神が味方であるということを3つのことで語っています。

 その最初の部分は前回の聖書箇所の31節から34節までのところです。ここでは、神が味方でいてくださるということの内面が語られていました。神が味方でいてくださるということは、誰も私たちに敵対できない、誰も訴える者はいない、誰も罪ありとする者はいないのだと断言するのです。神が味方でいてくださるという時に、私たちが不安―自分の信仰ではだめなのではないか。私は神に認められていないのではないか―そういう私たちの心の中の不安に対して、神は私たちのそのような不安を持つ時にも味方でいてくださるとパウロは語ったのです。神は私たちに敵対しないし、訴えることもないし、罪あるとすることもない。それが、神から与えられている救いなのだとパウロは宣言したのです。

 このパウロの美しい神の恵みを語る言葉は、これで終わりませんでした。もう一つのことがこの35節から語られています。それは、私たちを神の愛から引き離す外側の要因、外的な要因で神から引き離されてしまうことについて語ったのです。

35節から37節をお読みします。

だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊とみなされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。

 自分の心の中から出てくる不安、心配という問題ではなくて、自分の外側からくる攻撃があります。信仰に生きることをやめさせよう、諦めさせようとする要因があります。パウロはここでそのリストを七つあげました。パウロはこのリストの内容のことをコリント人への手紙の中でも同じように取り上げて語っています。このリストはその一つ一つが、大変厳しいもので、パウロ自身これまでの伝道の旅の中で何度も経験してきたことでした。ただ、これまで語って来たことの中で、このところで一つだけ増えているものがあります。それが、最後の「剣」です。

 パウロは先の6つの迫害の内容をすでにこれまでの伝道で経験してきました。そこに新たに「剣」が加えられています。これは、コリントまでの伝道の中で経験した後で、「剣」を突き付けられるような経験をパウロがしてきたという意味であるかもしれません。あるいは、別のことも考えられます。

 私は、このローマ書の説教の準備する中で、実に沢山の本に目を通します。その中でも必ずと言ってもいいほど目を通すのは、カトリックの聖書学者でワルケンホーストという方の書いた解説です。この方は非常に深い言語洞察に富んでいる方です。このワルケンホーストは、「剣」についてはこれまでパウロが経験したことではなく、将来に向けてのことを語っていると解説しています。パウロがそこで考えているのは殉教の死だというのです。

 それで、続く36節で詩篇44篇22節からの引用があります。「あなたのために 私たちは休みなく殺され 屠られる羊と見なされています。」詩篇にも、こう書かれている。私たちにはやがて、死が訪れる。剣による死がおとずれる。それでも、私たちは「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」との宣言が続くのだというのです。

 私はこのワルケンホーストの理解に同意します。

 殺されるような経験をすることがある。文字通り、主イエスはそうでした。神の愛と真実を示した主イエスは、神に愛されたお方です。このお方ほど、神の愛に応えて生きた方はほかにはありませんでした。そこに、剣がもたらされるのです。殉教の死を味わうことがあり得るのです。パウロは自分ではまだ経験していないことですけれども、そのことを頭の中にちゃんと置きながら、ここで神の愛を語っているのです。神が味方でいてくださることの意味を語っているのです。 続きを読む ・説教 ローマ人への手紙8章35-39節「切り離されることのない神の愛」

・説教 ローマ人への手紙8章31-34節「絶対大丈夫!」

2022.01.23

鴨下直樹

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 いよいよ、私たちはローマ書の最も美しい文章に耳を傾けることになりました。すべてのローマ書を説教しようと志す者は、この31節から39節までのところを語りたくて、ローマ書を選ぶのだと私は思います。

 ここには、福音が集約されています。

では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか

 パウロはここまでで、すでに福音について語りつくしています。これ以上言うことがないほど福音を語ったのです。そのことを踏まえて、畳みかけるように語り始めます。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう

 神が私たちの味方でいてくださるのだと、パウロは高らかに宣言します。これが、福音の要約です。神は、私たちの味方でいてくださいます。だから、もう敵などは存在しないのですとさえ言うのです。

 翻(ひるがえ)って考えてみると、神の敵とは一体誰でしょうか。誰が、神に敵対しているのでしょう。それは、私たちです。私たちが神に敵対していたのです。神の望むことを行わず、神を悲しませ、神の福音をないがしろにし続けてきました。この神の敵であった私たちのために、その被害者であられた神ご自身の方から、和解の手が差し伸べられました。もう、争い合うのはやめようではないか。わたしには、あなたを赦す備えがある。あなたを私の側に招き入れるために最大限の譲歩をしよう。それは、あなたの身代わりとして、わたしの愛する息子を差し出すから、あなたはわたしのところに戻っておいで。そう言って、神は私たちに救いの手を差し伸べてくださったのです。

 そうして、神が味方になってくださったのです。私たちは神の陣営に引き入れられたので、もはや恐れるものは、一切、全くなくなった。これが、福音なのです。

「神が味方でいてくれるといいなぁ」という私たちの願望がここで語られているのではありません。これは、福音の最終宣言です。戦いは終わった。もう神が私たちの味方となってくださった。
 あとは「はい。嬉しいです。本当に何から何までありがとうございました」と言ってすべてが終わるのです。その後にあるのは、完全な平和、完全な自由、完全な愛の世界が待ち受けているのみです。

 もうこれ以上、何も言うことがない。福音とは、実にシンプルなものです。その後にあるのは、「アーメン」と「ハレルヤ」だけで十分です。

 しかし、パウロはその後で、もっとも美しい愛の言葉を、主の愛の御業を語り出します。
32節。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

 パウロはここで、神が味方でいてくださるというのは、口から出まかせで言っているのではない、ちゃんと根拠があるというのです。それは、主イエスが私たちのために与えられたという事実だとここで言うのです。

 神は、私たち神の敵対者を得るために、最愛の御子を私たちに与えてくださいました。これ以上のことがあるだろうか。神はそこまでして私たちを神の側に招き入れてくださったのだから、それが証拠だというのです。これこそが、神の恵みの証拠だというのです。

 もちろん、神が味方でいてくださるということは、私たちから完全に苦しみや困難がなくなるという意味ではありません。神が味方でいてくださるので心強いのですが、続く35節からは「苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣」というような言葉が列挙されています。これらのものが私たちに襲いかかってくることがあるのです。38節にもあります。「死、いのち、御使い、支配者たち、今あるもの、後に来るもの、力あるもの、高いところにあるもの、深いところにあるもの」。そういう、私たちの脅威になり得るものは、なおも存在し続けます。でも、確かな事実は変わらないのです。その事実とは、神が私たちの味方でいてくださるという事実です。

 私たちの不安や悲しみの大きな部分は、誰にもこの苦しみや悲しみは理解されないと考えてしまうところにあります。考えてみれば、この考え方も自分の悲しみを絶対化しすぎているのです。ですが、そういう考えに支配されてしまうことはとてもつらいことです。とても悲しいことです。

 けれども神はすべての悲しみを知っておられる。私たちのことを全部知っておられる。なぜなら、私の内におられる聖霊の祈りを聞いておられるからです。そのすべてのことを知っておられる神が、私たちの味方でいてくださる。こんなに、嬉しいことはないのです。こんなに安心できることはないのです。 続きを読む ・説教 ローマ人への手紙8章31-34節「絶対大丈夫!」

・説教 ローマ人への手紙8章28-30節「御子のかたちと同じ姿に」

2022.01.16

鴨下直樹

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神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

 この言葉ほど、多くの人に希望を与えたみ言葉はありません。このみ言葉は「すべてのことがともに働いて益となる」と言っています。簡単に言うと、何をやってもうまくいくということです。私自身も、この聖書のみ言葉を、神学生の時から自分の最も好きなみ言葉に選んできたという経験があります。今思い返してみても、やはり、「すべてのことが共に働いて益となる」というこの言葉に魅力を感じていたと思います。

 けれども、改めて考えてみると、この聖書の言葉はそういう私たちにとって都合の良いことが書かれているのでしょうか。

 少しこの箇所の前の所に何が書かれていたのかを、もう一度思い起こしてみたいと思います。この前に書かれていたのは、三つの「うめき」が記されていました。被造物のうめき、私たちのうめき、そして御霊のうめきです。主は、この三つ、三者のうめきを聞いておられ、弱い私たちのためにとりなしてくださるお方であると語られていました。

 私たちにとって本当に必要なものを主は知っておられるのです。その流れで、「神を愛する人々」と今日の箇所が続くのです。

「神を愛する人」というのは、神に望みを抱いている人のことです。困難の中にあって神が最善をなしてくださると信じる者のことです。つまり、この神を愛する人というのは、キリスト者のことです。ここで言うキリスト者というのは、自分の願うことを叶えて欲しい人という意味ではありません。キリストのものとなっている人という意味です。もっといえば、神のご計画に身をゆだねている人のことです。

 もう一度、この28節を読んでみましょう。今日のところにはこうあります。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

 このみ言葉が語ろうとしているのは、私たちが最初にイメージする、何があってもうまくいくということとは正反対の意味で記されていることが良く分かります。ここで言われているのは、私たちの願い事を、なんでも神がすべてのことを働かせてうまい具合にしてくださるという意味ではなくて、神のご計画に信頼している者は、まさにその神のご計画が働いて、それは神にとって最善がなされることを私たちは知っているという意味です。

 神のご計画は、私たちの思いや願いを超えて、神にとってすべてのことが益となるようにしてくださっているのだということを、私たちは知っている、信じていると言っているのです。

 先週、私は教会の皆様に何度も祈りの課題をお願いしました。みなさんも心を痛めながら祈って来られた一週間であったと思います。月曜に葬儀がありました。そして、水曜と、昨日、教会員のお父様が亡くなられたというお知らせをいたしました。その知らせにもある方が、神のご計画は私たちには理解できないけれどもと書いてくださった方がありました。書かれたのはTさんです。Tさんのお父さんは福島県の郡山で牧師をしておられます。このT牧師は長い間がんと闘ってこられる中で牧会を続けて来られました。今もう末期というところまで来ております。Tさんは医者ということもあって、家族で相談して最期の時になるかもしれないということで、この週末家族で郡山まで会いに行かれています。

 私たちには、何が神の最善か分からないところがあります。私たちの願いはいつも、神がすべてを働かせてくださって、病んでいる人を癒してくださって、もう一度健康が回復されることです。それ以外にはないとさえ思うのです。

 けれども、パウロは語るのです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

 私たちには分からないことがある。このことも知ったうえで、しかし神はこの不安も、心配も、悲しみも全部含めてすべてのことが神にとって益となるということを信頼することができるようにされているのです。

 ではその「神のご計画」というのはどういうものなのでしょうか。 続きを読む ・説教 ローマ人への手紙8章28-30節「御子のかたちと同じ姿に」

・説教 ローマ人への手紙8章26-27節「私たちの心を探られる方」

2022.01.09

鴨下直樹

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 私が、神学生の時のことです。ある祈りと出会いました。それは、デンマークの哲学者で、キリスト者でもあるキェルケゴールの祈りです。昨日、その本を探したのですが、見つかりませんでしたので、正確な言葉ではないのですが、こんな内容の祈りです。

「私の罪をお赦しください、と私たちは祈ります。そして、罪を犯すことがないようにお助けくださいと祈ります。けれども、私たちはあなたに罪を犯しているのに、あやまる当人に、もう罪を犯さないようにお助けくださいと、助けまで強要しています。あなたはそんな私たちの身勝手な祈りを我慢して聞いておられます」

 祈りはまだ続くのですが、そんな内容の祈りです。私はその祈りを知って衝撃を受けました。この人は、本当に神の御前で祈っている人だと思ったのです。

 私たちの日ごとの祈りの多くは、形式ばった祈りです。何をどう祈るか、もう決まっています。食前の祈り、仕事に行く前の祈り、寝る前の祈り。生活の中に、祈りがあることはとても大切なことですが、その祈りの多くは、ほとんど無意識的に口から出てくる、言ってみれば心のない言葉の羅列になる場合があります。
 そして、日ごとの悔い改めの祈りさえも、形式的な祈りになってしまうことがしばしばです。

 私がまだ子どものころ、祈ることを覚えたばかりの頃です。寝る前に、日ごとの悔い改めの祈りをするようになりました。

「天のお父様、私の今日一日の犯した罪をお赦しください。アーメン」

 実に、シンプルな祈りです。それは毎日、毎日、呪文のように繰り返されていました。そう祈れば、その一日に犯した罪はリセットされると思っていました。すると、ある日、父が私に言いました。「そのお祈りは、神様の前に本当にごめんなさいという気持ちが込められているのか。心からの悔い改めでないのならやめなさい。聞いておられる神様はどんな思いでその祈りを聞いておられるか」

 その時から、神様が祈りをどのような思いで聞いておられるのかを意識するようになりました。

「神に苦労をかける祈り」預言者イザヤはイザヤ書43章でそう表現しました。

 私たちは、祈りで悩まない人はいないと思います。どう祈るのがいいのかよく分からないまま、自分の祈りに自信がないまま、手探りで祈る習慣を身に付けようとしているのだと思います。

 祈りの正解を探そうとするのはとても困難です。聖書の中には実にたくさんの祈りの実例が記されています。実は、私は明日、私がかかわっている東海聖書神学塾のオープンセミナーと、入塾説明会の責任を持っておりまして、そこで二回の祈りの講演をする予定でした。旧約聖書の祈りと、新約聖書の祈りという二回の講演です。ですが、明日急遽ある方の葬儀を行うことになったために、その講演をすることができなくなってしまいました。また、どこかでお話しする機会があればと思っていますが、その一部だけを簡単に紹介したいと思います。

 聖書の中には、実にさまざまな祈りが登場します。旧約聖書の祈りは特にユニークなものが多いのですが、例えば、アブラハムのとりなしの祈りがあります。神が、甥のロトが住んでいるソドムとゴモラを滅ぼされる時に、50人の正しい人がいたら、それでも滅ぼされるのですかと問いかけて、そこから10人の正しい人がいたら救ってほしい願いまでの交渉をする場面があります。これを祈りと言っていいかという考えもあるかもしれませんが、これは、旧約聖書に記された代表的な祈りの姿です。 続きを読む ・説教 ローマ人への手紙8章26-27節「私たちの心を探られる方」

・説教 ヨハネの福音書6章37節「喜んで迎えるお方」

2022.01.02

鴨下直樹

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2022年 ローズンゲンによる年間聖句
「わたしのもとに来る者を、わたしは決して追い出したりはしません」

- ヨハネの福音書6章37節

 
 今年、私たちに与えられている年間聖句はこのみ言葉です。

わたしのもとに来る者を、わたしは決して追い出したりはしません

 これは、ヨハネの福音書で主イエスが語られた最初の説教の中心的な部分の言葉です。ここで、主イエスが語られたのは「わたしはいのちのパンです」と語られました。この主イエスの自己啓示のメッセージとして、「わたしのもとに来る者を、わたしは決して追い出したりしません」と語られたのです。

 新改訳2017では「追い出したりはしません」となっていますが、以前の新改訳では「決して捨てません」と訳されていました。この「捨てない」という言葉は、この6章のはじめに、5つのパンと2匹の魚で大勢の人のお腹がいっぱいになった出来事と結びついています。その時に残ったパンのことを、主は「一つも無駄にならないように」と言われました。6章12節です。ここも、以前の翻訳では「一つも無駄に捨てないように」と訳されていて、同じ言葉だということが分かるようになっていました。今回の2017年度版ではそのことが分かりにくいのですが、実はこの2つの言葉は深く結びついています。

 主イエスは、先の奇跡を行われたときに、5000人の人々のおなかを満たされました。その時に余ったパン切れを「一つも無駄に捨てないように」と戒めておられるのです。もう役割を終え、お腹が満たされれば見向きもされなくなってしまうパンに対して、主はその余ったパンは大事なものだと言っておられるのです。そして、今日のところでは、主イエスのところに来た者を、もう価値がないから捨ててしまうということはないというメッセージとして語られているのです。

 私たちの主は「追い返さないお方」なのです。「余っている」「余分である」「今必要ない」とは思わないお方です。目先のことだけを考えて、私たちを受け入れてくださったのではないのです。それはつまり、「いつも受け入れてくださるお方」ということです。

 私たちが生かされているこの世界は、どんどん切り捨てていく世界です。いらなくなったもの、無駄なものは捨てて身軽になっていこうという世界です。そういう世界は、エリートだけが必要とされる、価値あるものだけが認められる、弱者に厳しい社会です。

 しかし、主はそうではないのです。主の前に「余ったもの」は存在しません。それはパンも人も同じ。主はそのすべての「もの」を、父から与えられたものとして受け入れてくださるお方なのです。
続きを読む ・説教 ヨハネの福音書6章37節「喜んで迎えるお方」

・説教 ローマ人への手紙8章12-25節「待ち望む信仰」

2021.12.26

鴨下直樹

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 今、ローマ人への手紙の第8章から主のみ言葉を聞き続けています。今日は主に18節から25節のみ言葉に耳を傾けていきたいと願っています。けれども、聖書箇所は12節からにしました。聖書の箇所が飛び飛びになっていますので、少し内容を整理した方がいいと思ったからです。それで、この8章の全体像をまず見てみたいと思います、

 ローマ人への手紙の8章ですが、ここには神の救いの業が語られています。ここには、たくさんのキーワードが出てきます。「罪」「死」「律法」「肉」「霊」「御霊」いろんな言葉が繰り返されています。

 まずこの8章で、パウロの言おうとしていることを整理して考えてみたいと思います。ここでパウロは、「罪に支配されているために、人は死に支配されるようになってしまった」というところから始めました。まずそこから考えてみましょう。

 分かりやすく、電化製品が故障したときにあてはめて考えてみると分かりやすくなるかと思います。ただ、先に断っておきたいのは、物事を簡単に説明すると、ある程度は説明できますが、すべての部分を丁寧に説明できるわけではないということは、理解していただきたいと思います。

  1. まず、故障かな?と思ったらどうするかです。このままでは本当に壊れてしまうので、「取扱説明書」でちゃんと機能しているか、あるいは問題がどこにあるか確認します。それが神から与えられた「律法」の役割です。
  2. 「取扱説明書」を読むと、問題点が分かります。どうも、「取扱説明書」によると、ハードの部分は問題ないけれども、ソフトの部分が壊れてしまっているようです。私たちの体は問題ないのですが、「霊」の部分、神様の願いを受け取る部分がどうやら故障している状態だということです。これを「肉」の状態とここで説明しています。
  3. そうすると、今度は、製造元のメーカーに問い合わせると、原因と解決策を教えてくれます。サポートセンターによれば、「霊」の部分が壊れているので、新しい「聖霊」をインストールして、最新の状態に更新すれば問題が解決することが分かりました。これで、問題が解決すれば、治った、救われたということになるわけです。
  4. この「聖霊」によって、私たちの「霊」が最善の状態になった時に、製造元である神様は、「検品終了、合格」という品質保証をしてくれます。それが「神の子」と認められるということです。

 ここまでが、1節から17節まででパウロが語ったことです。

 ここまでのところにいろんなことが書かれていますが、罪を犯してしまった人間が、もう一度救われて、神の子とされるのは、そういう手続きが必要ですよ、ということがここまでで、実に丁寧に書かれていることがおわかりいただけるでしょうか。

 さて、そこまで確認すると、私たちは安心して今日の18節からの部分に移れることになります。今日語られている中心的なことは何かというと、19節です。

被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。

と書かれています。唐突に「被造物」という言葉が出てきますので、私たちはこの「被造物」とは一体何のことを言い表しているんだろうかと難しく考えてしまうのですが、そのままの意味です。

 この世界を神が創造されたときに、神はその世界のすべての被造物を人間に託しました。この神が作ってくださった美しい自然も、動物も、海も魚も、何もかも、これを人間が正しく治めることが、人間に与えられた神からの最初の使命でした。ところが、人は楽園を追い出されてから、罪に支配され、「肉」に支配された状態になったために、この被造物を正しく管理することができなくなってしまいました。そういう意味では、一番の被害者は「被造物」ともいえるのです。

 それで、「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます」とパウロはここで語るのです。そして、その状態の人間が失ってしまった神の霊を取り戻すことを通して、ようやくこの世界が滅びに向かうことから解放されていくのだと言っているのです。

 21節でパウロはこう言っています。

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。

 私たち人間が、製造元である神様から合格をいただけるような、健全な状態に人間が戻った時に、この世界は再創造されていきます。神の子どもたちがちゃんと働いて良かったね、どんどんこの世界を破壊させていく、滅びの状態から、この世界そのものが癒されていくようになりますよ、というのです。

 さて、問題はここからです。22節でこう続きます。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

 ここから少し分かりにくくなります。被造物のすべてが、今に至るまで産みの苦しみをしている。23節では私たちのことを言っていますが、その私たちも「心の中でうめいています」とあります。

 では、ここで言っている世界の「被造物のうめき」とは何でしょうか? 続きを読む ・説教 ローマ人への手紙8章12-25節「待ち望む信仰」

・説教 ルカの福音書1章26-56節「あわれみ深い主への賛歌」

2021.12.19

鴨下直樹

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※ 本日の礼拝は洗礼式と聖餐式を行うため、LINEライブによる礼拝配信は、洗礼式の後から聖餐式の前までの部分のみです。
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「クリスマスおめでとうございます!」

 私たちは、クリスマスに「クリスマスおめでとうございます」と挨拶を交わします。しかし、実のところ、クリスマスの何がめでたいのか? 何のことでおめでとうと言うのか、人にとって様々な受け止め方があるように思います。

 マリアに天使が現れ「おめでとう、恵まれた方!」とみ告げを受けた時、マリアは意味が良く分からなかったはずです。許嫁のヨセフ以外の人の子どもを身ごもっているというのが、その知らせの中身だったからです。

 普通であればこの後に待ち構えているのは、ドロドロの展開と相場は決まっています。

 宗教改革者ルターはかつて「福音は奇跡というよりむしろ驚きである」と言いました。私は、このクリスマスにこの言葉の意味を深く心にとめたいと思うのです。

 私たちは、福音と聞くと、私たちの身に奇跡が起こることを期待します。クリスマスの福音は処女が身ごもったこと。この奇跡の中に福音があると考えてしまいがちなのです。けれども、マリアにもたらされた「おめでとう」の知らせの中身は、「奇跡」というよりも、むしろ「驚きの知らせ」だったのです。

 起こりえないことが、起こる。これが、マリアに告げられた知らせでした。

 私たちプロテスタント教会は、主イエスの母、マリアについてそれほど詳しく知りません。しかし、中世以降、主イエスの母マリアには七つの喜びがあったと言われるようになりました。

 その七つとは、次の七つです。

 「告知」「訪問」「誕生」そして「公現」。このはじめの四つはクリスマスにかかわることです。

 「告知」というのは「み使いがマリアに主イエスを宿すことになると告げた」ということです。「訪問」は、「マリアがその後、エリサベツを訪問したこと」です。そして、主イエスの「誕生」の後、東の国の博士の訪問を受けます。これを「公現」と言います。

 残りの3つは、主イエスが12歳になった時に家族で「神殿を訪問」した時の喜び。そして、「復活」主イエスが十字架の死の後によみがえったこと。そして、「マリアの被昇天」が最後に数えられています。この最後のものは、カトリック特有の考え方で、マリアが死を味わうことなく天に引き上げられたという伝説にもとづくものです。

 そして、今日は、マリアの七つの喜びの中でも特にこのマリアの生涯に与えられた最初の「告知」の何が喜びだったのかということを、もう一度考えてみたいと思います。

 今日は、ルカの福音書の特に第1章46節以下の「マリアの賛歌」、「マグニフィカート」と呼ばれるマリアの歌の内容に心をとめようとしています。

 み使いの告知を受けて不安の中にあったマリアは、親類のエリサベツを訪問します。エリサベツもまた、子どもができないまま、高齢になっていたのに、子どもが与えられたのです。それも、マリアと同じようにみ使いに告知を受けた後の出来事でした。

 この訪問で、マリアはエリサベツを通して神に不可能はないことを確信します。エリサベツはマリアにこう言ったのです。45節です。

主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。

 この言葉に励まされ、マリアは主をほめたたえます。それが、46節以下の「マリアの賛歌」です。

私のたましいは主をあがめ、
私の霊は私の救い主である神をほめたたえます。
この卑しいはしために
目を留めてくださったからです。
ご覧ください。今から後、どの時代の人々も
私を幸いな者と呼ぶでしょう。
力ある方が、
私に大きなことをしてくださったからです。

46節から49節の途中までをお読みしました。
 すばらしい賛美です。ここでマリアは何を言おうとしていたのでしょう。マリアの不安はどのように克服されたのでしょうか。
 それが、その後の続きのことばで語られています。

その御名は聖なるもの、
主のあわれみは、代々にわたって
主を恐れる者に及びます。

 まだ続きますが、ここでマリアは「主のあわれみ」を語っているのです。 続きを読む ・説教 ルカの福音書1章26-56節「あわれみ深い主への賛歌」

・説教 ローマ人への手紙8章1-11節「御霊に従って生きる」

2021.12.12

鴨下直樹

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 いよいよ、ローマ人への手紙の8章に入りました。このローマ書の8章というのは、ローマ書の中心と言ってもいいところです。あるいは、新約聖書の中心と言ってもいいかもしれません。それほど、この部分には大切なことが、福音の中心的なことが語られています。

 パウロはこの前の7章で「律法とは何か」について語りました。そして、この8章では「キリストのもたらした救いとは何か」あるいは「御霊の働き」と言ってもいいかもしれませんが、主が私たちに与えてくださった救いとは、聖霊が与えられることなのだということが語られています。

 特に、今日はまず、ここで語られている「肉と霊」ということをお話ししたいと思います。この前のところでは、この「肉」と「霊」のことを「神の律法」と「罪の律法」とパウロは説明しています。

 パウロはここで「肉」のことを「罪」とか「死」とか「悪」と言い換えています。そこでは、神の思いに逆らわせるもののことを「肉」という言葉で表現していました。その時に、私はこの「肉」のことを「自我」とか「欲望」のことと理解してくれていいという説明をしました。

 その時に、少し言葉が足りなかったなという思いがあります。「自我」とか「欲望」というのは罪なのだろうか?という疑問が浮かんでくるからです。例えば、「欲望」の中には、色々な欲望があります。「食欲」「物欲」「性欲」「名誉欲」、色々上げることができると思います。それらのものは、「良い」とか「悪い」という判断はなかなかつきません。だから、「肉」イコール「欲」という言い方は成立しないのです。

 ただ、もう一度改めて理解していただきたいのは、パウロはここで「神の思いに逆らわせるもの」つまり「霊」に反するもののことを「肉」と呼んでいるということです。自我も、欲望も、罪も、悪もすべてそうですが、神の霊に敵対させるものを、パウロはここで「肉」と言っているのです。

 パウロはここで肉について色々な言い方で語っています。

5節「肉に従う者は肉に属することを考えます」
6節「肉の思いは死です」
7節「肉の思いは神に敵対する」
8節「肉のうちにある者は神を喜ばせることができません」

 私たちはこの罪の支配の中に置かれている、死に飲み込まれている。肉という私たちの力では抗いきれない根深い、神に逆らってしまうものがあるということを、パウロはここで念を押すように語っているのです。

 ただ、パウロがここで強調したいのは、この「肉」の手ごわさではないのです。

 この8章1節でパウロはこう言っています。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

 パウロはここから、キリストのしてくださった力強い御業を高らかに語り始めるのです。「今や、キリスト・イエスにある者が罪に支配されることは決してない」のだと断言するのです。それはなぜか。

 2節

なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。

 「肉」がどれほど手ごわい存在であったとしても、「死」がどれほど私たちを不安に陥れたとしても、「罪」がどれほど私たちの奥深くにまで書き記されていたとしても、もはやそれらは決して意味を持たないのだというのです。

 なぜなら、聖霊が、イエス・キリストにあるいのちの律法が、私たちの中の、罪の律法を書き換えたからだというのです。 続きを読む ・説教 ローマ人への手紙8章1-11節「御霊に従って生きる」