2018 年 5 月 20 日

・ペンテコステ礼拝説教 使徒の働き2章1-13節「聖霊が注がれる時」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:48

2018.05.20

鴨下 直樹

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 今日はペンテコステと呼ばれる主の日です。クリスマスやイースターは今ではその意味を多くの人が知っています。この二つの大きなお祝いの日と並んで三大祭と数えられているのがこのペンテコステ、聖霊降臨祭です。この日は、聖霊が与えられた日、そして、教会が誕生したという二つのことを覚える日です。

 ところが、この「聖霊」というのがよく分からないという方が案外多いのです。先ほど、子どもたちと一緒に「聖書のおはなし」を聞きました。ずいぶん丁寧に、この「聖霊」の働きについて説明してくださったので、少し整理できたのではないかと思います。

 今日の聖書でも、この聖霊の性質について大事なことがいくつか書かれています。少し、聖書の箇所をみてみるとこのように書かれていました。

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると、天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。

 ここで、聖霊のことが「激しい風」と表現されています。この聖霊のことを風と表現するのは、実はこの聖霊の性質についてよくあらわしています。「風」というのは見ることはできませんが、感じることができます。そこに動きがあるからです。神の霊である聖霊も、見えないから分からないと感じるかもしれませんが、風のように、そこに動きがあるので分かるわけです。聖霊というのは、動き、働きです。じっと動かないで何も起こらないというのではなくて、聖霊はその働きを通して、その存在を感じることができるのです。

 この聖霊の働きというのはこれまでのイスラエルの人々の信仰から大きな変化をもたらしました。その天地を創造されたまことの神のお働きが、聖霊によって、まるで風が吹いているかのように、しかも激しい風のように吹き付けることによって、神の働きを感じることができるようになったのです。

 しかも、この2節ではこの「風」は「響きが起こった」とあります。この聖霊の働きは、「響き」となって「音」となって人に理解されたというのです。この神の霊による働きかけは、壁にさえぎられると感じることができなくなってしまうというのではなくて、響きとして、音としても聞き取ることができた。つまり、誰もがこの聖霊の働きを知ることができるということがここで表現されていたわけです。

 そして、3節では

また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。

と書かれています。「炎のような舌」というのは象徴的な表現です。この表現も2節の「風のような響き」という言い方と同じようで、まず、聖霊の働きを炎で表現しています。 (続きを読む…)

2018 年 5 月 13 日

・説教 マルコの福音書7章1-23節「聖く生きる」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 20:12

2018.05.13

鴨下 直樹

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 5月も第二週を迎えました。以前、マルコの福音書から説教をしたのは3月の終わりですから、約二か月ぶりにマルコの福音書に戻ってきました。この間に色々なことがありました。先週は神田先生をお招きして説教していただきましたし、岐阜市長までもが礼拝を訪ねてくださいました。また、その前は山田長老がご自身の証を交えて説教してくださいましたし、ファミリー礼拝で避難訓練をしましたので、そういうテーマで説教をしました。また、洗礼入会式やイースター、受難日の礼拝などと毎週目まぐるしくテーマが変わってきましたので、もうマルコの福音書の話の流れが頭の中で切れてしまっている方がほとんどだと思います。

 そういう意味で言えば、このマルコの福音書の7章はこれまでの奇跡のことが書かれたまとまりが終わって、新しい段落に移るところですから、ちょうど少し内容が変わるところと言っていいと思います。

 このゴールデンウィークの始まりました時に、東海聖書神学塾主催で教会学校の教師のための研修会が行われました。今回は「子どもを知る」というテーマで二人の講演を聞きました。一人目は私の姉で小学校の教師をしています。学校の教師の現場からみて、今の子どもたちを知るという話を聞きました。この講演はとても興味深いもので、「小学生白書」という子どもたちの現状を示すアンケートのとりまとめから、今の子どもたちの生活ぶりがどうであるかということを、アンケートの表をもとに話してくれました。

 私自身、自分で姉に講演を依頼しておきながら、こんなに専門的なデーターを使って話をするのだとは思っていなかったのですが、とても興味深く聞きました。その後は、マレーネ先生が聖書の中で子どもはどのように記されているのかを丁寧に掘り下げてくださって、聖書が子どもをどう見ているのかということについて話してくださいました。どちらもとても興味深い話でした。この二人の講演を聞きながら、自分が分かっているつもりになっていることが、いかに正しい考え方をできなくさせているのかということに改めて気づかされました。

 特に、私の姉がその講演でいろんなデーターを使って子どもたちの現状を話してくれたのですが、例えば子どもの睡眠時間のデーターを見ると、子どもは平均で朝の6時半に起きるということが分かるわけです。そういうデーターを見ると、うちの子は今6時に起きているのですが、平均より少し早く起きるのは、学校が遠いから仕方がないことかな、などと思うわけです。ところが、姉はそういうデーターをはじめの時間で、ざっと説明してみせた後で、もう一度、そのデーターの細かな点に焦点を当てて話し始めました。

 例えば、その表で朝の5時半以前にすでに起きている子どもは全学年平均で8.8%もいるというようなことを話すわけです。学年によっては11.5%の子どもがすでに5時半に起きている。どういう理由があるのか、そんなに早く起きていて授業中に眠くならないのだろうかと話して、今度はでは何時に寝るのかというデーターを説明します。すると、平均の就寝時間は夜10時なのですが、夜11時半以降に寝る子供も8.8%いる。では10時以降に寝る子どもは何をしているのかというと、そのデーターによると、テレビを見ているとか、インターネットをしているとか、ゲームをやっているという子どもが合わせると55%いる。つまり、平均の中からは見えてこない、さまざまな子どもを取り巻く環境というのがあって、睡眠が足りていない子どもたちが一定数いるということに目をとめる必要があるというわけです。

 子どもは早寝早起きがいいということは誰もが分かるのですが、そうできない環境というのがあって、そのことを理解していないと色々な失敗をしてしまう。目の前に起こっている現象だけでなくて、その背景に何があるのかということをしっかりと見極めることが求められるということなのだと思うのです。 (続きを読む…)

2018 年 4 月 22 日

・説教 申命記 4章32―40節 「避難と訓練」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 12:57

2018.04.22

鴨下 直樹

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 今日はファミリー礼拝です。この礼拝の後で、避難訓練を行います。とても短絡的と思われるかもしれませんが、そういうこともあって、今日の説教題を「避難と訓練」としました。

 私ごとで始めて恐縮ですが、私が小学校四年生の夏休みの時に、家が火事になってしまいました。第一発見者は私です。今から思うと、いつ火事になってもおかしくなかったような建物だったのだと思います。一階の風呂釜の炊き出し口の周りを覆っていたトタンの下にあった断熱材に火が引火してしまったのです。トタンの下の断熱材が炊き出し口の火の出ているところにむき出しに出ていたんだそうです。ガス窯から出ている炎が断熱材に引火して、その火が一階の風呂場の壁を燃やして、二階にあった台所にまで燃え広がりました。

 その時、私たち家族はリビングでくつろいでいました。となりの台所から何やら物音が聞こえてくるので、私と母が様子を見に行きました。台所の扉を開けると、すでに火が屋根にまで届いているのが見えました。すぐに「火事だ」と大騒ぎをして、兄弟たちも、みんな一目散で外まで逃げました。後で気づいてみると、兄弟の中で私だけが靴を履いていて、他の兄弟はみな裸足です。自分でも落ち着いていたものだと思います。子どもの頃から保育園や小学校でしていた避難訓練の賜物なのかもしれません。あっという間に火は家を呑み込みまして、二階の住宅部分は全焼してしまいました。ですから、火事なんて起こらないから避難訓練なんてどうでもいいと考えたことはありません。子どもであったとしても慌てないで落ち着いて行動するというのは日ごろの訓練の賜物なのだと思います。

 火事が起こる。地震が起こる。何か、とても大変なことが起こって、別のところに避難しなくてはならなくなる。私の場合はその後、父方の祖父母の家で残りの夏休みを過ごしました。その後、教会の隣にあった、かつて宣教師の住んでいた家にしばらく住んだことを覚えています。避難したところでの生活というのは、そういう意味で言えば一時的なのでしょうし、そこからまた新しい生活というのを作り直していかなければなりません。

 今日のファミリー礼拝のために簡単な案内が作ってあって、そこには今日のテーマは「私たちの避難場所」と書かれていました。そういう言葉をみると、困ったときの一時的な待避所のようなイメージを持ってしまうなと思いました。困ったことが起こると少しだけ、そこで避難させてもらって、また落ち着いたら元の生活に戻る。ひょっとすると、教会という場所をそのような場所と考えてしまいやすいかもしれません。毎日の生活からちょっと環境を変えて、一時的にここに避難して、また私たちの生活をしていく。けれども、そういう一時的な逃げ場所のようなものというのは、ある時は必要かもしれませんが、そうなると、困ったときだけ、神さまにちょっと出て来ていただいて助けてもらって、でも、普段の生活には神さまなんてそんなに必要ないというようなことにもなりかねません。 (続きを読む…)

2018 年 4 月 8 日

・説教 ローマ人への手紙10章9-11節「主を信じる信仰」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:36

2018.04.08

鴨下 直樹

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なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることはない。」(新改訳2017訳)

 さきほどYさんの洗礼入会式を行いました。洗礼式の時に、五つの誓約をいたします。
「あなたは天地の造り主、生けるまことの神のみを信じますか。」「あなたは、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われていることを確信しますか。」そのように尋ねていきます。そうしますと、「信じます」「確信します」と答えるわけです。すでに洗礼を受けておられる方はみなそのようになさったと思います。

 それは、先ほど読みました聖書の言葉を土台にしていると言っていいと思います。「人は心で信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とあるように、心に信じて、告白することが大事なのです。

 では、心に何を信じるのかというと、「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じる」ということです。先週私たちは礼拝でイースターをお祝いしました。主イエスがよみがえられたことをお祝いしているわけです。ところが、先週の説教でもお話しましたが、死んだ人がよみがえるなどいうことは、ちょっと信じられないような話です。実際、ルカの福音書の最初の記述は、誰も信じられなかったと書かれているわけです。けれども、考えてみると、復活のことだけではなくて、聖書に書かれていること、特に主イエスが私たちにしてくださったことは信じられないようなことばかりです。
 
 先日も、洗礼を受ける方のための学びの時に、もう一度聖書が語っていることを簡単に説明しました。神がこの天地を造られたこと。そして、人間が神の思いに逆らって自分勝手に生きたために、楽園から追い出された事。そして、神はその後、次々に信仰の導き手を与えて、神の御心に応えて生きることが大事なのだということを示してこられました。けれども、神の民は神の心に従って生きようとはしません。それで、神は天からご自身が人の姿でこの世界に来られて、神の心に生きるというのはどういうことかを、自ら示そうとされました。それが、主イエス・キリストです。主イエスがどう生きられたのかというと、簡単に説明してしまえば、神を愛することと、人を愛して生きるということでした。それなのに、人は、主イエスを十字架につけてしまったのです。

 学びの中でも、こんな質問が出てきました。どうして、主イエスが十字架にかけられたことが、自分と関係あるのですか、という質問です。もっともな質問です。 (続きを読む…)

2018 年 4 月 1 日

・説教 ルカの福音書24章1-12節「イースターの朝」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 22:22

2018.04.01

鴨下 直樹

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 イースターおめでとうございます。復活の主の祝福が皆さんの上にありますよう祈ります。

 例年のように、イースターの朝、私たちはともに集まって賛美と祈りをささげ、一緒に朝食をいただきました。ようやく暖かくなってきて、外で過ごすことも楽しくなってきました。ここ数年でしょうか。スーパーのお菓子売り場に行きますと、イースターのパッケージのものを簡単に見つけることができるようになりました。少しでもイースターが多くの人の目に留まるようになることはいいことだと思います。

 イースターってなに?と少し興味をもって検索しますと、すぐに、イエス・キリストの復活をお祝いする日ということを見つけることができます。けれども、ここでちょっと考える人は、死んだ人がよみがえったの?という疑問が出てくるわけです。死んだ人が生き返るなどということは古今東西例がありません。そして、人がよみがえったという歴史的な記述もないのです。ただ、聖書の中には書かれているわけです。そして、それが、今日みなさんと読んでいる箇所です。

 特に、以前からお話していたように、今日から新改訳2017を使うことにしましたので、まだこれまでの聖書をお持ちの方は、ぜひ注意深く読み比べてくださればと思います。

 人がよみがえるというのは、どういうことなのでしょうか。このルカの福音書はこの復活の出来事の第一発見者となったのは女の弟子たちであったということを書いています。しかも、内容を読んでみるとこう書かれています。2017年訳で1節から4節まで読んでみたいと思います。

週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。見ると、石が墓からわきに転がされていた。そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。そのため途方に暮れていると・・・。

 まず、そう書かれています。この短い言葉で色々なことが分かります。主イエスが亡くなったのが金曜日です。土曜日は安息日ですから、当時のユダヤ人たちは安息日に働くことができませんでしたので、埋葬の備えをすることができなかったようです。それで、週が明ける日曜の朝早くに女の弟子たちは遺体に香油を塗って埋葬の準備をするために墓を訪ねたのです。ところが、墓の石、これは日本のような墓石ではなくて、洞窟のお墓ですから、大きな丸い石で蓋をされていたのです。その石が転がされていて、行って見ると遺体がなくて、途方に暮れていたと書かれているわけです。

 そして、この何でもないような記述、主イエスの復活を告げる聖書の記述が、歴史家たちに、これは本当のことだろうと思わせるに十分な証拠となったのでした。 (続きを読む…)

2018 年 3 月 25 日

・説教 マルコの福音書6章45-56節「嵐の夜に」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 13:49

2018.03.25

鴨下 直樹

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 今日の箇所も、奇跡をあつかう出来事が記されています。奇跡というのは「しるし」という言い方をすることがあります。私は以前、神学生の頃に地質調査のアルバイトをしたことがあります。地質調査というのは、家を建てる前に、その家の地盤の強度を調べるわけです。そうやって、地盤の強度が足りないとセメントと土を混ぜる地盤改良という工事をしたり、あるいは杭を打ち込む杭打ち工事をすることになるわけです。そういう仕事はまた別の人たちがするわけですが、時々、この地盤改良の工事の現場監督に行かされることがありました。アルバイトが現場監督なんてやっていいのかと思いましたが、行ってみるとその時はそれほど難しい仕事ではありませんでした。

 ショベルカーなどの重機が入るわけですが、現場監督の仕事は、その重機が土を掘る時に、掘ってはいけない場所、たとえば下にガス管があるとか、水道管が埋まっている場所を図面で調べて、赤色のスプレー缶で地面にバツ印のしるしをつけていくわけです。そうすると、重機に乗っている人は、ここは掘ってはいけない場所というのを「しるし」を見て分かるわけです。

 なんで、こんな話をしているかというと、「しるし」というのは、「しるし」自体にはそれほど意味はなくて、その「しるし」の指しているものが大事だということなのです。つまり、奇跡そのものに意味があるのではなくて、その奇跡は何を表しているかということの方が大事だということです。

 それで、今日の聖書を見てみたいと思うのですが、今日の聖書は、こういう言葉から始まっています。

それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ・・・

と記されています。

 今日の、キーワードはこの「強いて」という言葉です。新改訳2017では、「無理やり」となっています。この「強いて」とか「無理やり」というのは、本人は望んでいないことを強制的にさせたということです。この箇所を、地図を見ながら読んでみると、見えて来ることがあります。それは「ベツサイダに行かせ」とありますが、ベツサイダはガリラヤ湖の10時の方向にある町です。ところが、最後に着いたのは「ゲネサレ」の地です。このゲネサレというのは3時の方向にある町ですから、湖の正反対にあるわけです。

 つまり、ベツサイダに向かわなければならなかったから、舟は向かい風で進めなかったわけで、風に流されて行けば、ゲネサレには簡単に着けたわけです。そういうことが分かると、この「強いて」という言葉の中身が分かってくるわけです。向かい風なのに、その方向に行かなければならないように主イエスは弟子たちに命令したわけです。 (続きを読む…)

2018 年 3 月 18 日

・説教 ルカの福音書23章33-43節「十字架の意味」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:34

2018.03.18

鴨下 直樹

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 今日は、ファミリー礼拝ということで多くのご家族の方々が子どもと一緒に礼拝に集ってきておられて嬉しく思っています。今、教会の暦ではレントという主イエスの十字架の来住を偲ぶ季節を迎えています。そして、4月1日にはイースター、主の復活をお祝いする日を迎えるわけです。

 今日は、「十字架の意味」という題で少しの間お話をしたいと思っています。教会には十字架がかけられています。私たちの教会も、三角錐のかたちをしている建物ですが、その頂点のところに十字架が掲げられています。今でこそ、十字架はアクセサリーになっていたりすることもあって、あまりネガティブな印象がなくなっていますが。もともとは死刑の方法です。

 先日のニュースで、何年も前に大きな社会問題になったある宗教団体のリーダーたちが、刑の執行のために場所を移されたということが報道されていました。人が処刑にされるという話は、あまり嬉しい知らせではありません。けれども、教会では主イエスの処刑の出来事をこうして教会で語り、主イエスの十字架の死とは、一体何だったのかということについて語りつづけているわけです。それは、私たちにとって、この世界の人々にとって、とても大きな意味をもつ出来事であったことを語りつづけているのです。

 特に今日、先ほど司式者の方が読んでくださったルカの福音書の出来事は、三本の十字架の出来事です。主イエスの他に、二人の犯罪人が十字架にはりつけにされていたことが記されています。

 特に、この34節に十字架の上で主イエスが祈った祈りが記されています。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

主イエスがそのように祈ったということがここで記されています。

 新しい聖書翻訳の2017年訳をお持ちの方は注のところに少し詳しい説明が書いてあります。そこには「多くの有力な写本にはこの部分を欠いている」と書かれています。今日は、ここでこのことを詳しく説明する時間はありませんが、おそらくこの祈りの言葉はもともとはなかったのではないかと、今は考えられているわけです。けれども、これまでの聖書にはこの言葉は記されてきました。確かな伝承としてこの祈りは記録されているので、この祈りを鉤かっこで括ったり、削除しないで、このまま残されているのです。それは、それだけ、この主イエスの祈りが大きな意味をもつことを認めているからです。 (続きを読む…)

2018 年 3 月 11 日

・説教 マルコの福音書6章33-40節「見るべきところ」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:37

2018.03.11

鴨下 直樹

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 今日、私たちに与えられている聖書の箇所は五つのパンと二匹の魚で男の人だけで五千人の人々がお腹いっぱいになったというところです。五千人の給食などと言われるところで、聖書の四つの福音書のすべてに書かれている出来事です。どの福音書にも書かれているということは、それだけこの出来事が人々の心を捉えたということでしょう。

 聖書にはたくさんの奇跡の出来事が記されています。けれども、聖書の描く奇跡というのは、主イエスがこんなにすごいことができるということを強調するために記されてはいません。これまでの奇跡の記述も、奇跡は起こったが分かったのは癒された当の本人か、弟子たちだけに限られていました。けれども、ここでは一度に五千人以上の人たちがこの出来事を目の当たりにしたのです。ところが、このマルコの福音書は、この出来事の記述を後半に描きながら、とても簡潔な報告でまとめています。むしろ、他にテーマがあると言っているかのようです。

 マルコの福音書はここで派遣された十二弟子たちが戻って来て、それぞれの伝道の結果を報告するところから記しています。そして、31節にこう記されています。

そこで、イエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。

 今週の火曜日のことです。この教会で教団役員会を行いました。朝9時から始まりまして、昼食に1時間休憩がありますが、夜の9時すぎまで話し合いをしました。その日、ある方が電話をしてくださっていたのですが、結局折り返しの電話をできたのは夜10時過ぎてからです。芥見が会場だったので、私はすぐに家に帰れるわけですが、他の先生方は家に着くのは12時近くです。みなさんでも、働いておられる方は、残業で夜遅くになってようやく家に帰り着く方も少なくないと思います。そういう時に、この箇所を読みますと、少し慰められる気がするのではないでしょうか。

「さあ、あなたがたで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」この主イエスの言葉を聞くだけでも、ああ、この方は分かってくださっているなぁという気になるわけです。主イエスはここで働いてきた弟子たちを労わってくださろうとしておられます。他の誰でもない、主が私のことを気にかけてくださっているのかと考えるだけで、充分という気持ちになるのかもしれません。しかしこの出来事は、これがすべてのきっかけとなっています。つづいて、こう書かれています。 (続きを読む…)

2018 年 3 月 4 日

・説教 マルコの福音書6章14-29節「神の言葉の確かさ」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 12:39

2018.03.04

鴨下 直樹

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 今日のところには色々な人の名前がでてまいります。ヘロデ、そして、ヘロデの妻ヘロデヤ、そして踊りを踊ったヘロデヤの娘、バプテスマのヨハネ。出て来る四人に共通しているのは、ここに出てくる人たちの不幸がここで語られているということです。誰一人として喜んでいる人はいないのです。この箇所は初めから終わりまで重たい空気が漂っています。

 ヘロデ王がここで登場します。聖書の中には色々なヘロデが出て来ますので少し整理してみたいと思います。ここで「ヘロデ王」と書かれていますけれども、正確には王ではなくて、日本で言うと知事のような立場で、その地方の領主です。正式の名前はヘロデ・アンティパスと言います。ベツレヘムで嬰児虐殺をしたのは彼の父、ヘロデ大王です。ヘロデ・アンティパスの息子ヘロデ・アグリッパは使徒の働き12章でキリスト教会に迫害を加える人となる。罪にまみれた家族と言ってもいいわけです。親子三代にわたって聖書に登場しながら、このヘロデ一族がしたのは「神のことばを抹殺しようとした」と言っていいと思います。

 バプテスマのヨハネはヘロデに悔い改めを語りました。というのは、ヘロデは自分の兄弟であるピリポの妻をとりあげて、自分の妻としていたのです。姦淫の罪を公然と行い、自分の権力で周りの声を押し殺して来たのです。けれども、バプテスマのヨハネは恐れることなく、誤りは神の前に認められないのだと悔い改めを求めたのです。ヨハネはヘロデの権力を恐れませんでした。そして、自分の語るべきことをしっかりと語ったのです。

 今日の箇所の前のところでは、主イエスが弟子たちを遣わしたということが書かれていました。主イエスの弟子たちが語るのも悔い改めです。神の思いに逆らって、自分を正当化して生きることは間違っているのだということを語るよう、主イエスに遣わされたのです。そして、ここでは、まさに主イエスの弟子たちからしてみれば先輩であるヨハネは、そのために殺されることになったということが書かれているわけです。そして、今日のところでは、そのようにして主イエスが働き始めた時に、主イエスの働きはまるでバプテスマのヨハネのようであるという噂がたったということが記されているのです。 (続きを読む…)

2018 年 2 月 25 日

・説教 マルコの福音書6章6節-13節「主に遣わされて」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:51

2018.02.25

鴨下 直樹

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 今、私たちは「レント」と呼ばれている、主イエスの十字架の苦しみを受けられた期間を覚える季節を迎えています。主イエスはどのような苦しみを受けられたのか、そこのことを覚えようというわけです。けれども、私たちが主イエスの受けられた苦しみを理解しようと思っても、それは簡単なことではありません。不当な裁判を受けたり、鞭で打たれたり、十字架刑にされるということは、話では理解できたとしても、どこかで自分とは関係のない出来事だと考えてしまいます。私たちはあまり、そのような極端な試練を経験するということはないのです。けれども、聖書を読む時に、主イエスがその歩みの中で受けられた困難というのがどういうものであったのかを知ることはできます。

 今日、私たちに与えられている箇所は十二弟子の派遣と言われるところです。主イエスは御自分の弟子たちを二人ずつ組みにして、伝道に遣わされました。その際、弟子たちを送り出す時に心がけることは何かということが記されています。

 まず、7節から分かることは「ふたりずつ」ということと、「権威をお与えになった」ということです。二人ずつというのは、一人で行くなということです。一人で出かけて行って挫けてしまうと、もうそれで働くことができなくなってしまいますから、支えてくれる人が必要なのだというわけです。そして、「権威をお与えになった」とあります。どんな権威かというと、「汚れた霊を追い出す権威」と書かれています。私たちは、汚れた霊などという言葉を聞くと、どんなことかといろいろ考えてしまいます。昔の人は悪霊につかれた人が今よりも沢山いたのだろうかという考えも浮かんでくるかもしれません。

 けれども、以前、汚れた霊に支配されていたレギオンの時にも話しましたが、レギオンのような極端な場合もありますが、神の霊に支配されていない人、つまり罪人は誰もがこの汚れた霊の支配のもとに生きているわけです。クリスチャンになっても、私たちがこの罪と決別するということは簡単なことではありません。主イエスは、ご自分の遣わされた弟子たちに、人をこの罪から、汚れた霊から、自由にするための権威を与えて遣わされたということなのです。主イエスの弟子は、人を罪から解放するためにキリストの権威を与えられて遣わされるのです。というのは、主イエスの弟子であったとしても、罪と無関係ではありません。その罪人が、人の罪のことをとやかく言えるのかということになると、もう何もできません。けれども、そのような力のない、弱さを持っている弟子たちに、主イエスは御自分の権威を与えられて、私の権威によって語りなさい、人と向かい合いなさい、と言われたのです。

 宗教改革者ルターが説教をする前にした祈りというのがあります。その祈りは、まず、自分の罪を赦してください。自分の罪が妨げとなって神に近づくことができなくならないようにと祈りました。自分も罪を犯す弱さがある。そういうものが人に悔い改めを勧めるのだとすると、まず、そのまえに自分の罪を、自分の汚れを清くしていただかなくてはならないと考えてそのように祈ったのです。悔い改めていない者が、悔い改めについて語ることはできないので、祈ったのです。ルターは説教を語る前に常にそのように祈ったのです。このルターの祈りは、それ以来すべてのみ言葉を語る者の祈りとなりました。

 私自身、まだ神学生として学んでいた時のことです。イギリスの大説教者と呼ばれているロイドジョンズの本を読んだ時に、そこにこんな言葉が書かれていました。「望むと望まないとに関わらず、いつでも私たちの生活ぶりが、まず最初の説教者の発言者となる。私たちの唇が私たちの生活以上のことを語っても、それは無益である」。 (続きを読む…)

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