秋の楽しいキリスト教美術講座「シャガール」

好評の楽しいキリスト教美術講座

秋のテーマは「シャガール」です。

名画の背景にある聖書の人物のことや信仰を知る事によって、

作品をより太のシック深く鑑賞しようと5年前から始めました。

レオナルド・ダヴィンチ、ミケランジェロ、レンブラント、ミレーを取り上げ、

今年は20世紀を代表する2人の宗教画家です。春は「ルオー」

そして、この秋は「愛と色彩の画家 シャガール」です。

日時:2011年10月2日(日)

午後2時〜3時半

話:古川 秀昭(岐阜県美術館館長/芥見キリスト教会教会員)

聴講無料(資料代のみ200円)

お申し込み:教会まで

電話:058−243−5798 FAX:058−241−8625

(資料準備の関係で前日までにお申し込み下さい)

説教:マタイの福音書15章29-39節 「神の言葉の世界へ」

2011.9.25

鴨下直樹

先週と日曜日から月曜日にかけてこの芥見教会のキャンプが行なわれました。今年の年間聖句であるローマ人への手紙十二章二十一節の「悪に負けてはいけません。かえって善を持って悪に打ち勝ちなさい」という御言葉をもう一度思い出しながら、この御言葉について一緒に考えてみたいと言う試みでした。

教会の教育部の方々が大変良く準備をしてくださって、予想外に豊かなキャンプとなりました。予想外になどと言われると、準備をした方々は何事かと思われるかもしれませんけれども、本当にいくつもの興味深いテーマでこの御言葉をみんなで味わうことができたと思っています。と言いますのは、こういうテーマを掲げて誰かが発題を頼まれてしますと、多くの場合当たり障りの話をして終わってしまうことが多いと思います。ところが、誰もが例外なしに、そこで話された発言はこの御言葉に深く根差した意見ばかりでした。

この御言葉をめぐって実にさまざまな発題がなされました。“悪に負けないためのそれぞれの信仰の戦いの姿について”お話し下さった方もおります。“私たちの行いではなくて、主は心の中の動機を問われるのではないか”“復讐の心のまま祈ると言うことはどういうことか”“怒りの感情、裁きの感情というものは聖書ではどのように考えられているのか”“そもそも悪と言うのは自分にとって悪いことなのか”本当に実にさまざまなことをこの御言葉から促されてそれぞれ語り合いました。退屈するなどという暇はないほどです。目の前に出されていたお茶菓子に誰も手をつけないほど、真剣な語り合いが行なわれました。本当に皆が毎日どれほど真剣に御言葉と共に歩んでいるか良く分かりました。 続きを読む 説教:マタイの福音書15章29-39節 「神の言葉の世界へ」

ノーバディズ・パーフェクト in 岐阜/芥見 Ⅲシーズン開催!

岐阜市、美濃加茂市、関市、各務ケ原市、可児市、美濃市の皆さん

ノーバディーズ・パーフェクトプログラムをご存知ですか?

完璧な親はいない「わたしのままでいい!」

NP(ノーバディズ・パーフェクト)in 岐阜

〜カナダから届いた子育て支援プログラム〜

日程:11月2日〜12月14日 毎週水曜日(11/23はお休み)

全6回 ※↑お詫び:第一報と日にちが変わりました。

対象: 0歳~就学前の子どもと暮らす親

※参加している間(2時間)お子さんは別室にてお預かりします

定員: 10名(先着順) ※しめ切り: 10月22日

参加費: 無料/茶菓代のみ 1200円(1回につき200円)

進行: NPファシリテーター  山田 茜・鴨下愛


(詳しくはチラシ画像をクリックしてご覧下さい)↓↓↓

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※表イラスト転載元:子育て応援隊 ココネットあおもり様より

説教:マタイの福音書15章21-28節 「りっぱと主に言われた祈り」

2011.9.18

鴨下 直樹

 先週の水曜日と木曜日の祈祷会の時に、長い間アメリカで牧師として働いてこられた田中啓介牧師から「仏教と信仰」というテーマでお話くださいました。実は私もその時まで知らなかったのですけれども、この田中牧師は岐阜の高山に陣屋というところがありますけれども、そのすぐ近くにあります大きなお寺の息子として青年時代までを過ごしたということでした。そして、アメリカにわたって信仰を持ち、牧師になった。ところが、アメリカに住んでいる多くの日本人たちが日本に住んでいる日本人以上に仏教を熱心に信じる姿をみながら、必然的に仏教についてもう一度学びなおす必要があったのだそうです。それは良く分かることです。先週も、実に明確に仏教について、特に、ブッタが教えて信仰について教えてくださいました。

 そのお話の中で私が特に面白く聞いたのは、日本の仏教に限らず、人が祈る時に何を祈るのかということをお話になりました。祈りの内容を大きく分けると、家族が無事であること、病気や災いから守られること、お金の必要が満たされることの三つだと言われました。家内安全、無病息災、商売繁盛というわけです。その話をなさりながら田中牧師が問われたことのは、この三つの祈りの祈りと私たちの祈りのどこが違うかということでした。私たちも同じように祈っているのではないかということを問いかけられたのです。 続きを読む 説教:マタイの福音書15章21-28節 「りっぱと主に言われた祈り」

説教:マタイの福音書 15章1-20節  「神の言葉によって」

2011.9.11

鴨下直樹

「食事をする前には手を洗いましょう」と私たちは小さな時から聞かされています。大事なことです。今から何年か前のことですけれども、夏に学生の長期キャンプというのを行なっていました。マレーネ先生と共に、二十名ほどの学生たちを連れて色々なところに出かけました。そこで、二週間ほどのキャンプをするのです。その年は割合に近いところ、岐阜県の白川郷でキャンプを行ないました。いつもは北海道とか、沖ノ島というような遠い所に出かけますから帰りの準備をするのは大変なのですけれども、白川郷はそれほど遠くありません。それで、キャンプが終わる最後の昼食はバーべキューをして帰ることになったのです。もちろん、みな楽しく食事をしまして、車に乗り合わせて高速道路を走って帰ります。すると、私のお腹の調子が良くない。すぐにお腹が痛くなってしまってトイレに立ち寄ります。パーキングを出て少し走るとまたお腹が痛くなる。私が何度もトイレに走る姿を学生たちはずいぶんと楽しそうに見ていました。誰かが「食中毒ではないか?」と言いだします。食事の準備をしたマレーネ先生としてはそんなことは聞き逃せません。そんなに変なものを出したつもりはないというわけです。すると、別の学生が言うのです。「いや、鴨下先生だけは手を洗わないで食べていた」と。

家に帰ってすぐに病院に行きましたら、残念ながら本当に食中毒ということでした。他の誰もなっていないのに、私だけです。食事をする前に手を洗うというのがどれだけ大事なことなのかを身を持って体験することになったわけです。

しかし、この聖書の物語を読んで慰められるのは、食事の際に手を洗わなかったのは、主イエスの弟子たちだけでのことではなかったようです。どうも主イエスも手を洗っておられなかったのです。主イエスが手を洗っておられたとすれば、その弟子たちも当然手を洗ったはずです。そうしますと、手を洗わなかった私としては少し慰められるところです。 続きを読む 説教:マタイの福音書 15章1-20節  「神の言葉によって」

・説教 マタイの福音書14章22-36節 「恐れに立ち向かわれる主」

 

 

2011.8.28

 鴨下直樹

 

 今、信徒交流月間ということで、毎週行なわれている祈祷会で信徒の方々が色々な話をしてくださっています。今年はほとんどの会に参加することができていますけれども、本当に毎週大変楽しみにしています。先々週のことですけれども、医師をしているTさんがお話くださいました。この方は外科医をしていまして、腫瘍が専門です。そうすると、どうしても死を目の当たりにしている方々と関わることになります。そこで、ひとりのキリスト者の医師として、死にある患者に対して自分がどういう思いで接することができるかということをお話くださいました。

 死と向かい合うというのは、誰もが避けては通れない道です。その中でTさんは、多くの癌患者が初めは非常に激しい抵抗を見せるけれども、誰もがしばらくすると、どこか腹が据わってくるようで、自分の与えられた命の時間を受け止めて行くのだということをお話し下さいました。これは私には非常に興味深いことでした。その人の中で何かが起こるというのです。Tさんはその人の中で何が起こっているのか聞いてみたいけれども、なかなかそれはできないということでした。 続きを読む ・説教 マタイの福音書14章22-36節 「恐れに立ち向かわれる主」

・説教 マタイの福音書14章13-21節 「貧しい食卓の幸い」

 

2011.8.21

 鴨下直樹

 

 今お聞きしましたこのマタイの福音書の物語は「五千人の給食」と呼ばれて非常に多くの人々に親しまれている出来事です。福音書のなかにはいくつもの奇跡物語が記されていますけれども、十字架と復活の出来事と同じように、この物語だけはすべての四つの福音書に記されています。

 それは、それだけ、この出来事が人々の心に残ったということでしょうし、また、この出来事の持つ魅力は多くの人々の慰めになったのだろうと思います。

 

 五つのパンと二匹の魚で男の数だけで五千人の人々が食べて満腹したという奇跡の物語です。多くの人々はこの物語にさまざまな魅力を感じてきました。その中でも特に代表的なものは、このような奇跡を通して神様はその時の必要を満たしてくださるお方だというように理解されることが多いのです。あるいは、少ししか持っていなくても、神様の手によれば何倍にも祝福されて増えるという理解です。

  続きを読む ・説教 マタイの福音書14章13-21節 「貧しい食卓の幸い」

・説教 マタイの福音書14章1-12節 「喜びの食卓の中の悲しみ」

 

 

2011.8.14

 鴨下直樹

 

 今朝、私たちに与えられている聖書の個所は多くの画家たちによって描きだされ、あるいは、戯曲やオペラの映画などのテーマにもなっている良く知られた物語です。そこではこの少女の名前「サロメ」というテーマがつけられることがほとんどです。

 ところが、すでにお気づきの方も多いと思いますけれども、今お聞きになられた聖書の中には、この「サロメ」という名前は一度も出てきておりません。これは、マタイの福音書のみならず、他の福音書にも記されていないのです。けれども、このヘロデヤの娘の名前はサロメであるということは、もはや誰もが知っています。といいますのは、この時代の歴史学者のヨセフォスが、このバプテスマのヨハネの殉教の物語をずいぶん詳しくその歴史書の中で記しているからです。そこに、このヘロデヤの娘の名前がサロメであったということがはっきり記されているのです。

 サロメという名前は、へブル語のシャロームという名前に由来する言葉です。平和という名前なのです。しかも、ここでは少女であると記されています。十代の半ばであっただろうと考えられています。十五、六歳の平和という名前の少女です。そのような名前を持つ少女がここで、「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言ったと言うだけでも確かに人の心をひきつけるものがあるのかもしれません。そして、この考えられないような非日常的な出来事に、多くの人々が想像力を掻き立てたのです。

 そのような想像力は、最後にはまだ少女であったこのサロメがバプテスマのヨハネを愛していたのではなかったかというところまで膨らんで行きます。そして、その愛が叶わないのであれば、首を求めるものによってまでして、自分のものにしようとしたという、女の恐ろしいばかりの愛の執念というモチーフが多くの芸術家のかっこうの題材になったのでした。 続きを読む ・説教 マタイの福音書14章1-12節 「喜びの食卓の中の悲しみ」

特別伝道講演会 講演:松居 直 氏

「宣教30周年記念 特別伝道講演会」〜真実のことばと出会うために〜

福音館書店の創立者のお一人でもあられる、松居直先生をお招きしお話を聞きます。

みなさんは、絵本を読んでもらいましたか?

また、お子さんに絵本を読んでやっていますか?

私たちは「ことばを食べて」育ちました。

美味しいことばを、栄養のあることばを、食べましたか?

あなたを生かす、真実のことばを「聞いて」いますか?

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・説教 マタイの福音書13章53-58節 「味わい見よ、神の御言葉を!」

 

 

2011.7.31

 鴨下直樹

 

 

 今日、私たちに与えられている聖書の個所には大変有名な言葉があります。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、自分の家族の間だけです。」

 この「預言者は自分の郷里では敬われない」という言葉は色々なところで使われました。例えば牧師が、自分の故郷で伝道すると言う時には、必ずと言ってもいいほど引用されます。「イエス様だってできなかったんだから、自分にできるはずがない」と言うのです。

 

 私が神学生のころに、比較宗教学という授業がありました。その中で、当時世間を騒がせていた宗教団体、無差別殺人を企てるような反社会的な宗教のグループがありまして、その教祖の書いた物をレポートするという課題がありました。それで、その教祖の書いた本を手にとって読んだのですけれども、どうしてこんな稚拙な文章しか書けないような人物のところに、多くの学歴の高い人々が虜になったのか良く分からいくらいでした。

 その本の中にはいくつもの聖書の言葉を引用しています。その中でも特に印象をもったのが、この「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、自分の家族の間だけです」という言葉を用いて、自分は自分の故郷にいくと、敬われていないのだと述べて、だから自分はメシヤなのだという論理で書き記しているのです。故郷の人や、家族と言うのは、本当の自分のことを分かってくれないのだ、見抜けないのだというのです。メシヤにはそのような苦しみがあるのだと言っているのです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書13章53-58節 「味わい見よ、神の御言葉を!」