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・説教 コリント人への手紙第二 12章9節 「弱さの中で発揮される神の力」

 

2012.1.1

元旦礼拝説教

鴨下直樹 

 

ローズンゲンによる2012年の年間聖句 

イエス・キリストは言われる「わたしの力は、弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」

                       Ⅱコリント 12章9節

新改訳

主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

 

 

 

 

 

 2012年、今年の年間聖句はコリント人への手紙第二 十二章九節の言葉です。

イエス・キリストは言われる「わたしの力は、弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。

 

 新しい年にあたって、私たちが聴く最初の御言葉が弱さについて語られていることに、私たちは心を止めましょう。

 この朝、礼拝に集われる時に、「よし、今年こそは!」と、一念発起して何がしらの決意を秘めて来られた人にとってすれば、出鼻をくじかれたような思いのする御言葉であると言うこともできるかもしれません。けれども、この言葉は今の私たちに最もふさわしい御言葉であると言うことができると思います。

 私たちが生活している社会は今、力を失った社会であるということができます。ありとあらゆる分野で、力が失われています。政治も経済も、その力を発揮することができないまま、新しい年を迎え私たちは今大きな不安の中に立たされています。また、昨年の三月十一日、東北地方を起こった大地震を通して誰もが人間の無力さを思い知らされています。

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・説教 マタイの福音書14章22-36節 「恐れに立ち向かわれる主」

 

 

2011.8.28

 鴨下直樹

 

 今、信徒交流月間ということで、毎週行なわれている祈祷会で信徒の方々が色々な話をしてくださっています。今年はほとんどの会に参加することができていますけれども、本当に毎週大変楽しみにしています。先々週のことですけれども、医師をしているTさんがお話くださいました。この方は外科医をしていまして、腫瘍が専門です。そうすると、どうしても死を目の当たりにしている方々と関わることになります。そこで、ひとりのキリスト者の医師として、死にある患者に対して自分がどういう思いで接することができるかということをお話くださいました。

 死と向かい合うというのは、誰もが避けては通れない道です。その中でTさんは、多くの癌患者が初めは非常に激しい抵抗を見せるけれども、誰もがしばらくすると、どこか腹が据わってくるようで、自分の与えられた命の時間を受け止めて行くのだということをお話し下さいました。これは私には非常に興味深いことでした。その人の中で何かが起こるというのです。Tさんはその人の中で何が起こっているのか聞いてみたいけれども、なかなかそれはできないということでした。 続きを読む ・説教 マタイの福音書14章22-36節 「恐れに立ち向かわれる主」

・説教 マタイの福音書14章13-21節 「貧しい食卓の幸い」

 

2011.8.21

 鴨下直樹

 

 今お聞きしましたこのマタイの福音書の物語は「五千人の給食」と呼ばれて非常に多くの人々に親しまれている出来事です。福音書のなかにはいくつもの奇跡物語が記されていますけれども、十字架と復活の出来事と同じように、この物語だけはすべての四つの福音書に記されています。

 それは、それだけ、この出来事が人々の心に残ったということでしょうし、また、この出来事の持つ魅力は多くの人々の慰めになったのだろうと思います。

 

 五つのパンと二匹の魚で男の数だけで五千人の人々が食べて満腹したという奇跡の物語です。多くの人々はこの物語にさまざまな魅力を感じてきました。その中でも特に代表的なものは、このような奇跡を通して神様はその時の必要を満たしてくださるお方だというように理解されることが多いのです。あるいは、少ししか持っていなくても、神様の手によれば何倍にも祝福されて増えるという理解です。

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・説教 マタイの福音書14章1-12節 「喜びの食卓の中の悲しみ」

 

 

2011.8.14

 鴨下直樹

 

 今朝、私たちに与えられている聖書の個所は多くの画家たちによって描きだされ、あるいは、戯曲やオペラの映画などのテーマにもなっている良く知られた物語です。そこではこの少女の名前「サロメ」というテーマがつけられることがほとんどです。

 ところが、すでにお気づきの方も多いと思いますけれども、今お聞きになられた聖書の中には、この「サロメ」という名前は一度も出てきておりません。これは、マタイの福音書のみならず、他の福音書にも記されていないのです。けれども、このヘロデヤの娘の名前はサロメであるということは、もはや誰もが知っています。といいますのは、この時代の歴史学者のヨセフォスが、このバプテスマのヨハネの殉教の物語をずいぶん詳しくその歴史書の中で記しているからです。そこに、このヘロデヤの娘の名前がサロメであったということがはっきり記されているのです。

 サロメという名前は、へブル語のシャロームという名前に由来する言葉です。平和という名前なのです。しかも、ここでは少女であると記されています。十代の半ばであっただろうと考えられています。十五、六歳の平和という名前の少女です。そのような名前を持つ少女がここで、「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言ったと言うだけでも確かに人の心をひきつけるものがあるのかもしれません。そして、この考えられないような非日常的な出来事に、多くの人々が想像力を掻き立てたのです。

 そのような想像力は、最後にはまだ少女であったこのサロメがバプテスマのヨハネを愛していたのではなかったかというところまで膨らんで行きます。そして、その愛が叶わないのであれば、首を求めるものによってまでして、自分のものにしようとしたという、女の恐ろしいばかりの愛の執念というモチーフが多くの芸術家のかっこうの題材になったのでした。 続きを読む ・説教 マタイの福音書14章1-12節 「喜びの食卓の中の悲しみ」

・説教 マタイの福音書13章53-58節 「味わい見よ、神の御言葉を!」

 

 

2011.7.31

 鴨下直樹

 

 

 今日、私たちに与えられている聖書の個所には大変有名な言葉があります。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、自分の家族の間だけです。」

 この「預言者は自分の郷里では敬われない」という言葉は色々なところで使われました。例えば牧師が、自分の故郷で伝道すると言う時には、必ずと言ってもいいほど引用されます。「イエス様だってできなかったんだから、自分にできるはずがない」と言うのです。

 

 私が神学生のころに、比較宗教学という授業がありました。その中で、当時世間を騒がせていた宗教団体、無差別殺人を企てるような反社会的な宗教のグループがありまして、その教祖の書いた物をレポートするという課題がありました。それで、その教祖の書いた本を手にとって読んだのですけれども、どうしてこんな稚拙な文章しか書けないような人物のところに、多くの学歴の高い人々が虜になったのか良く分からいくらいでした。

 その本の中にはいくつもの聖書の言葉を引用しています。その中でも特に印象をもったのが、この「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、自分の家族の間だけです」という言葉を用いて、自分は自分の故郷にいくと、敬われていないのだと述べて、だから自分はメシヤなのだという論理で書き記しているのです。故郷の人や、家族と言うのは、本当の自分のことを分かってくれないのだ、見抜けないのだというのです。メシヤにはそのような苦しみがあるのだと言っているのです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書13章53-58節 「味わい見よ、神の御言葉を!」

・説教 マタイの福音書12章1-8節 「真の安息を与えてくださる主イエス」

 鴨下直樹

2011.05.15

 

 

 先週の水曜日と木曜日の聖書学び会の時に、妻の愛が御言葉を語りました。聖書の個所は出エジプト記第二十章八節から十一節までの「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」という十戒のところからです。私が言うのもなんですが、大変良い御言葉の解き明かしでした。スイスの神学者ヴァルター・リュティーが書きました「あなたの日曜日」という小さな書物があります。その本を手掛かりに、ここで語られていることを、自分なりに語りなおしたのです。

 この本については何度か教会でも紹介しております。最初に記されているエッセーは次のような言葉で始まります。

「月曜日の朝の野らで働く丈夫な馬は声高くいななきます。一週間の作業がはじまるこの最初の日には、馬具をつけてもらう間ももどかしげに、せかせかと落ち着きません。やがて、いつもよりさっさと納屋から駆け出すと、ぐいぐい綱を引っ張っていきます。 私たち人間もまた、月曜日の朝はいつもと違うようです。一週間を通して、月曜日の朝ほど、職場への道がつらく感じられる朝はありません。」そんな語り出しです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書12章1-8節 「真の安息を与えてくださる主イエス」

・説教 マタイ10章16-23節 「言葉を与えてくださる神」

 

 

2011.3.13

鴨下直樹

 

 

 先日の金曜日、午後三時、大きな地震が日本を襲いました。非常に長い揺れが続きました。いつも、大きな地震が起こる時というのは、被害の大きさが後になればなるほど大きくなります。はじめのうちの報道を見ながら、この程度の被害で済んだのかと安心していると、次々に続報が報じられ、被害の甚大さが次第に明らかになってきます。東日本巨大地震という名前が付けられたこの地震は、日を重ねるごとに被害の大きさが明らかになってきます。おそらく、みなさんもテレビに釘づけになりながら、家族や知人のことを心配しておられるのではないかと思うのです。

 今、私たちは主からどのような御言葉を聴き取るべきなのでしょうか。私は何度も、何度も、今朝の説教の聖書箇所を変更するべきではないかと悩みました。私たちが今、直面している問題と、今朝私たちに与えられている御言葉との間に、大きな隔たりを感じたのです。

 ところが、説教題を見ますと、「言葉を与えてくださる神」という題がつけられています。ひと月も前につけた説教題です。けれども、この言葉を与えてくださる神という説教題をつけながら、今朝、私には言葉が与えられていないので、ここから説教するのは止めにして、他の箇所から説教するということは、この主に対して説教者のとるべき立場ではないと考えさせられました。この説教題に、私自身大きな励ましを受けながら、今朝は、私たちに与えられているこの御言葉に耳を傾けていきたいと思います。 続きを読む ・説教 マタイ10章16-23節 「言葉を与えてくださる神」

・説教 マタイの福音書10章1-15節 「平和を告げる者」

 

2011.3.6

 鴨下直樹

 

今週の金曜の事です。私が関わっております名古屋の神学塾で入塾試験が行われました。今年から教務のお仕事を手伝うことになりまして、試験官をいたしました。待合室で、試験の前に何やらメモを取り出しまして、勉強をしています。ちゃんと聖書の書簡を順番に覚えているか、十二弟子の名前が言えるかというようなことを前もって勉強して来ているようです。

さて、十二弟子の名前と言われて、みなさんはすぐに名前がでてくるでしょうか。そんなの簡単と初めて見てながら、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネと威勢よく名前が飛び出してくるかもしれません。そこまでは大丈夫です。マタイ、トマス、ユダとあとはこれまで聞いたことのある名前を何とか思い出しながら言い終えた後で、えーと、マルコとルカなどというように出てくることが意外に多いのです。もちろんマルコもルカも十二弟子の名前ではありません。ヤコブは二人いるのかとか、シモンは何人いるかなどと考え始めるともう分けが分からなくなる。

十二弟子の中には有名な名前もあれば、それほど知られていない名前もあるかもしれません。いつか、この十二弟子を一人ずつ取り上げながら説教しても面白いかななどと思うことがあります。それほど、この十二弟子というのは個性豊かな人々の集まりでした。 続きを読む ・説教 マタイの福音書10章1-15節 「平和を告げる者」

・説教 マタイの福音書9章35-38節 「収穫の主」

 

鴨下直樹 

2011.2.27

 

 

 今年の秋に教会の伝道集会を計画しています。今年は芥見教会の宣教開始三十周年の年ですから、できるかぎり多くの人々に教会を知っていただきたいと願いながら、松居直さんをお招きしたいと考えています。この方は福音館という絵本の会社を造られた方で、子どもに言葉を届けるために絵本を通して、子どもたちが生きた言葉に触れることを願っておられる方です。もう八十を超えておられ、絵本の世界では知らない人はいないという方ですから、私のようなものが松居さんなどと言うのは本当は相応しくないだろうと思います。ちゃんと先生と呼んだ方がいいのかもしれません。

 この月曜日の朝のことですけれども、電話が鳴りました。月曜日の電話というのは、あまり進んで出る気にならないのです。本来は牧師の休みの日ですから、それでもかかってくるということは、何かあったか、急な要件が入るかということが多いので、私も何となく低い声で電話口に出ました。すると、「松居です」と言うのです。私には松居という名前の知り合いはおりませんので、すぐにどの松居さんか分かったのですが、あわてて声を整えまして、できるかぎりしゃんとした声で応対しなければと思いつつ緊張しながら電話にでました。自然に自分の姿勢がよくなっているのが分かるほどでした。何を話したかと言いますと、今年の9月末に私たちの教会に来てくださると言うことでした。本当に嬉しく思っています。まだ、半年先のことですけれども、良く準備をしながらこの地域のよい伝道の機会にしたいと願っています。 続きを読む ・説教 マタイの福音書9章35-38節 「収穫の主」

・説教 マタイの福音書9章27-34節 「頑なな心と向き合われる主」

鴨下直樹

2011.2.20

このマタイの福音書の八章と九章というのは、主イエスが生き生きと人々の中に入って行かれて伝道をなさった姿がしるされているところです。前回もお話ししましたけれども、ここには全部で十の奇跡が記されています。そのように、数多くの奇跡を行いますと、私たちがそこで想像するのはさまざまな称賛の言葉で終わるのが普通だと考えます。ところが、このマタイの福音書は、数々の奇跡を見たパリサイ人たちの言葉を結びの言葉として、こう言わせています。

「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。

そのように三十四節に記されています。一般的な感覚から言えばおかしいのではないかと感じるところですけれども、マタイはそのように描いたのです。主イエスが素晴らしい言葉を語り、素晴らしい奇跡を起こし、人々が驚くにつれ、どんどんと人々が集まってきて、救われるようになった。こうして最初の教会と言うのは大盛況だったのだと、聖書は記しておりません。むしろその逆です。人々の心はますます頑なになり、ついには、このお方を十字架につけて殺してしまったのだと言うのです。そして、事実そのようになったのです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書9章27-34節 「頑なな心と向き合われる主」