2021.04.18
田中啓介
Lineライブ
午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
2021.04.11
鴨下 直樹
午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
先週の聖書の学びの時にみなで、今日の詩篇を読みました。私は少し別の用のために遅れてしまって終わりの方しか出ることが出来ませんでしたが、私の代わりにM長老が担当してくださいました。ずいぶん活発な意見を交わしていたようで、とても嬉しく思いました。その最後の方に、ある方がこういうことを言われました。
「この詩篇の作者は、『私は公正と義を行います』と121節などでは言っていて、自分は正しいという正義の側にいるけれども、そんなふうになれるのだろうか」と言われた方がありました。
今日の箇所を読んでいますと、そのように読めるわけです。冒頭の113節にもこう記されています。
私は、二心のある人たちを憎み、あなたのみおしえを愛します。
二心のある人たち。神様とこの世、内と外、本音と建て前、そういう者の姿と考える時に、それは自分の姿ではないかという思いになるのであって、人のことを責め立てる側に立てるのだろうかという疑問です。
先週の「ざっくり学ぶ聖書入門」で、ヨブ記を取り扱いました。ヨブ記を読んでいても、そんなところが何度も出てきます。「自分は裁かれるような悪いことをしていないのに、神はどうして私を苦しめるのか」そういうヨブの悲痛な訴えが何度もでてきます。
ヨブの友達は、そういうヨブの言葉を聞きながら、そのヨブの考え方が傲慢なのだと訴えます。そして、何か悪いことをしているからそうなったのだと、因果応報を説くのです。
ここでヨブ記の話をするつもりはないのですが、自分の正しさを訴えるという民族性というか、この時代の人々の考え方の中にそういう理解の仕方があるのかもしれません。こういう聖書を読んでいますと、時々、私たちとは感覚が少し違うと感じるのかもしれませんが、よくよく考えてみると、私たちにも人の行いを指摘したいという考え方は少なからずあるのだと思います。
ただ、この方の指摘である、「自分は正しい側にいるという視点で悪い者を退けてくださいと祈れるのだろうか」という視点は、聖書を読むときに、聖書を正しく理解するきっかけになります。素朴な疑問を持つことが、聖書が分かるということに結びついていくのです。
今、私たちはこの長い、詩篇119篇から言葉を聞き続けています。とても長い詩篇です。全部で176節もあります。そのためにこうして、細かく区切って説教しています。しかし、この詩篇は本来ひとまとまりの文章ですので、やはり、いつも全体の内容を理解する必要があります。
細かく分けていくと、この詩篇の内容が忘れられていってしまうのです。改めて、最初の1節から目を通して読んでいくと、様々な発見があります。そして、そこから見えて来る祈り手の姿というは、決して自分は正しいのだという視点にはいないということが見えてきます。主のおきての道を知りたい、自分が罪ある者として歩んでいきたくない、神の言葉に従って生きることが、どれだけ自分を救うことになるのかという祈り手の姿が見えてきます。それは、切実な祈りの言葉で、何度も何度も繰り返し語られています。
各段落の冒頭の言葉だけを拾い集めてみても、その姿はよく分かります。
1節「幸いなことよ/全き道を行く人々/主のみおしえに歩む人々。」
9節「どのようにして若い人は/自分の道を 、清く保つことができるのでしょうか。」
17節「あなたのしもべに豊かに報い 向かい、私を生かし/私があなたのみことばを守るようにしてください。」
25節「私のたましいは/ちりに打ち伏してします。みことばのとおりに私を生かしてください。」
33節主よ あなたのおきての道を教えてください。/そうすれば 、私はそれを終わりまで守ります。
このように、祈り手は必死になって神の御言葉に従いたいのだとい言う意思を明確にしているのです。
以前、聖書学び会で、M長老が、この祈り手はエレミヤのようではないかと言われたことがあります。聖書を解説する人の中にもそのように言う人もいます。
少し前の85節で「高ぶる者は私に対して穴を掘りました。/彼らはあなたのみおしえに従わないのです。」という言葉があります。
そこの箇所を読んだ時に、すぐにM長老はエレミヤのことが出て来たのです。エレミヤは穴の中に落とされて捕らえられたことが、このみ言葉を目にした時にすぐに思い浮かんで来たのです。私は、この祈り手はエレミヤのような人ではなかったかというM長老の指摘を聞いて、それ以来、この詩篇を読むときにエレミヤのような人の祈りとして読んでみるということを意識するようになりました。そうすると、不思議とこの祈り手の信仰が見えてくる気がするのです。
114節
あなたは私の隠れ場 、私の盾。
私はあなたのみことばを待ち望みます。
祈り手はここで、そう祈っています。
ここで、この詩篇の祈り手は、明確な敵の姿が見えています。そして、その敵から主が私を守ってくださるお方だということを、みことばからよく知っているのです。それはエレミヤの姿とも重なるようにも思えます。ただ、こうやって聖書を読んでいきますと、確かにエレミヤには明確な敵がいました。エレミヤの預言をないがしろにして、落とし穴まで掘って語らせないようにしようとした人たちがいたのです。
そこで、考えるのです。確かに、エレミヤには明確な敵の姿がありました。しかし、現代に生きる私たち信仰者の敵とは何でしょうか? 誰なのでしょうか? 私たちはいったい何と戦っているのでしょうか。そんなことを考えさせられます。
116節と117節でこう祈っています。
あなたのみことばのとおりに、
私を支え 、生かしてください。
私の望みのことで
私を辱めないようにしてください。
私を支えてください。
そうれば私は救われ 絶えずあなたのおきてを
見つめることができます。
私の敵とは何だろうか。何から救われることをも願っているのでしょうか。そう考える時に、今の私には一つの答えしか出てきません。それは、「私の敵は、私だ」ということです。この箇所を読んでいると、改めて、気づかされるのです。主の御前で、自分自身を恥じるしかないことに。この詩篇の祈り手のように、人をさばけるような立場に自分がいないことを意識せざるを得ないのです。
人をさばくどころか、反対にどんどん怠惰になっていく自分の姿に気づくのです。毎日毎日、それなりに生活して、それなりに事が進んで行くうちに、ああ、これでうまく行くんだからこれでいいのだと考えてしまっている自分の姿に直面させられるのです。
113節
私は 二心のある人たちを憎み
あなたのみ教えを愛します。
ここを読むと、私はそう祈れるのか。自分に二心があるのではないのか。「あなたのみ教えを愛します」と言えるのか。自分は主のみ教えを損なっているのではないのか。そんなふうに思えて仕方ないのです。
だから、最初にお話しした、祈祷会で「祈り手が人をさばける立場に自分を置けるのだろうか」と、発言された時に、私自身もハッと気づかされたのです。この祈り手と自分は、同じところに立っているのではない。そのことを認めざるを得ないのです。
119節にこう書かれています。
あなたは 、地の上のすべての悪しき者を
金かすのように 取り除かれます。
面白い言葉です。金属加工をしておられるY長老が面白がられりそうな言葉です。金属を加工するときに、金かすが出でます。今ならばそれは捨てられてしまうのでしょう。けれども、その金かすはきっとこの時代にはもう一度炉に入れられて、金属になったるのでしょうか。あまり詳しくないのですが、そのくらいの想像はできます。
神にとって、悪しき者は金かすのように削り取られ、捨てられて、やがて熱い火の中に投げ入れられる。それが、私たちの姿なのかもしれません。
祈り手は、もちろんそうではない神の側につく者として祈っているのですが、今の私に迫ってくるのは、そうして裁かれる者の姿です。
120節
私の肉はあなたへの恐れで震えています。
私はあなたのさばきを恐れています。
神の側にいる者だとしても、主への恐れを持ち続けているのです。神は、悪しき者を金かすのようにするということが、よく分かるからです。
だからこそ、116節、117節のような祈りになるのです。
あなたのみことばのとおりに
私を支え 生かしてください。
私の望みのことで
私を辱めないようにしてください。
私を支えてください。
そうれば私は救われ
絶えずあなたのおきてを
見つめることができます。
あなたのみことばのとおりに、私を支え、生かしてください。
これは、私たちの切なる祈りです。神の言葉のとおりに生きていない。けれども、主のみ言葉のとおりに生きたいのです。そのために私を支え、私を生かしてください。これが、私たちに共通する祈りの姿だと思うのです。
この願いは、自分の弱さと戦っている小さな信仰者でも、エレミヤのような主の傍らで語ろうとする預言者であっても共通する祈りの姿です。
この祈り手は1217節からこう祈っています。
私は公正と義を行います。
私を虐げる者どもに 私を委ねないでください。
あなたのしもべの幸いの保証人となってください。
高ぶる者が私を虐げないようにしてください。
祈り手は、願うのです。敵が、私を支配することが無いようにと。そして、私の幸いの保証人になって欲しいと。
私たちの敵とは何でしょう。私たちを神から引き離そうとするものはなんでしょう。自分自身のどんな思いが私の敵となっているのでしょう。私たちはそのことをしっかりと見据えなければなりません。主が幸いの保証人となってくださる。そうだとすれば、主の願う幸いを知らなければなりません。自分の願う幸いではないのです。主の願う幸いです。この自分の願う幸い、この願いが私たちを神の願いから引き離してしまう、私たちの敵となり得るのです。
126節ではこう祈っています。
今こそ主が事をなさる時です。
彼らはあなたのみおしえを破りました。
今こそ、神の介入がなされるべきだ。私の敵は、主のみおしえを破ったのだから。そう祈っています。厳しい祈りです。激しい祈りです。律法を破る、神の約束を踏みにじる。その時、神が介入なさるべきだという祈りです。
とても人間的な願いです。不正を行えば暴かれるべきだとい言うのです。神のさばきが行われるべきだというのです。
しかし、ヨブ記にもあります。ヨブもそう語ったのですが、この世界には不正をする者が満ちていて、その者は裁かれることもなく楽しそうに生きている。かえって貧しい者、虐げられている者がも、特に顧みられることもないままにいるではないか。そんなヨブの叫びがあります。それも、一つの見方です。
単純に、悪いことをしたものが、裁かれ、虐げられているものに、主の目が注がれるという、善悪がはっきりと分かるほど、単純な世界に私たちは生きていないのです。けれども、この祈りのように神が裁いてくださるかどうかは分からなくても、そう祈ることがゆるされているのです。神の義が行われて欲しい。それが、神の前に誠実に生きようと願う者の祈りの姿でもあるのです。
悪い者が裁かれ、誠実な者が祝福される。そんな世界ならなんと分かりやすいことでしょう。しかし、私たちが生きている世界は実に複雑なのです。ただ、はっきりしていることがあるのです。そして、この祈り手はそのことを切に祈り求めています。二つの祈りです。
1つは、118や119節にあるように、主のみことばに耳を傾けない者を、主は退けられるということ、悪しき者は金かすのように取り除かれるということです。
そして、もう一つは127節にあるように、主の仰せは金よりも、純金よりも価値があるのだということです。
結局のところ、この世界で幸いに生きられるかどうかは、主の言葉に価値を見出すかどうかにかかっているということです。
神の言葉か、それ以外か。この、それ以外のものが、私たちを支配しそうになるのだとすれば、それは、神の敵となるのです。しかし、神の言葉の中に、幸いがあるのです。この言葉、神の言葉が、どれだけ人を幸せにするのか、神の言葉にどれほどの価値があるのか、この祈り手はよく知っているのです。
この祈り手は、この詩篇119篇の中で、何度も何度も自分の弱さを口にします。自分が虐げられていること、自分が打たれ倒れこんでしまっていること、敵に狙われていること、悲しみに呑飲み込事まれてしまっていること。この詩篇119篇を読んでいくと、いくつもそういう言葉を見つけ出すことが出来ます。
神は、自分の罪を言い表すもの、自分の弱さを知る者、自分を主の前にさらけ出し、自分を隠そうとすることをやめる者に、主は語りかけてくださるお方なのです。まさに、そのような弱さの中で、人は神の言葉を聞き、神と出会っていくのです。
主は隠れ家となってくださるお方です。主は盾となってくださるお方です。主はみことばの通りに生かし、支えてくださるお方なのです。
そういう主を知ること、主との出会いが、神のことばの中にはあるのです。
お祈りをいたします。
2021.04.04
鴨下 直樹
午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
イースターおめでとうございます。今日は、主がよみがえられたことを共に喜ぶイースター礼拝です。このイースターの礼拝で、洗礼入会式と、転入会式を行うことができるのはとても幸いです。
このコロナ禍にあって、どこの教会もそうだと思いますが、なかなか伝道が思うようにできません。いわゆる伝道的な集会はことごとく休会となっています。そんな中で、55プラスに集っておられたMさんが、信仰告白をし、洗礼を受けることになりました。今、この場にはおられませんが、55プラスをはじめられたマレーネ先生もとても喜んでおられると思います。
55プラスというのは、毎月一度ですが、55歳以上の方が集いまして、マレーネ先生が作ってくださるドイツのお菓子とコーヒーなどをいただきながら、テーブルごとに座られた方々と、しばらく歓談を楽しんだ後で、一人ずつ毎回異なるテーマが与えられていて、そのテーマについて参加された方々が自由にお話をするという集いです。そして、最後にマレーネ先生がその時のテーマに基づいた聖書の話をしておられました。
Mさんは、そこでマレーネ先生が語られるメッセージを聞くうちに聖書に関心を持つようになって、インターネットで聖書の学びをされたそうです。
聖書が何を語っているのかという事に、少しずつ心がひかれていったのです。
今日、転入会されるSさんも、クリスチャンの友人が与えられて、そこから教会に集うようになり、やはり礼拝で語られる説教に心惹かれるようになって信仰に導かれた方です。
今日の詩篇119篇の105節に、こういうみことばがあります。
あなたのみことばは 私の足のともしび
私の道の光です。
おそらく、この詩篇119篇の中で最も有名なみ言葉といっていいと思います。Mさんも、Sさんも、自分の歩むべき人生の道の光として、聖書の光が必要だという事に気づかされていったのだと思います。これからの人生の道を示す指標として、その道を照らす光は聖書なのだということを知ったのです。
暗い森の中を歩くという経験は、今の日本ではあまりないのかもしれません。けれども、想像することはできると思います。森を歩いていて進む方向が分からなくなるのは、太陽の位置が分からなくなってしまうからです。そうなると、自分がどちらの方向に進んだらいいのか分からなくなることがあります。よく知った森の道ならまだ大丈夫なのかもしれませんが、見知らぬ土地であればなおさらです。そんな道を進んでいる時に、民家の光が見えてきたらもうそれはホッとするに違いありません。自分の進んで来た方向は間違いではなかったということが分かる時でもあります。
みことばは私の足のともしび、それは足元を照らす光でありながら、私たちに安心感をあたえるものでもあるのです。 (続きを読む…)
2021.04.02
鴨下 直樹
十字架の上で主イエスが語られた、「十字架の七つの言葉」と言われるものがあります。
最初の言葉は主イエスが十字架につけられた時に兵士たちに言われた言葉です。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
ルカの福音書23章34節です。
二番目の言葉は、一緒に十字架につけられて悔い改めた強盗に言われた言葉、
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
ルカの福音書23章43節です。
三番目は、弟子のヨハネに母マリヤの事を頼んだところです。
「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」
そして、ヨハネに対しては
「ご覧なさい。あなたの母です」
と言われました。ヨハネの福音書19章の26節と27節です。
そして、四番目が今日の個所です。それが
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
です。
その後の五番目は死の直前に言われた言葉で
「わたしは渇く」
というヨハネの福音書19章28節のみことばです。
そして、六番目が、その後の言葉で
「完了した」
と続く30節のみことばです。
最後の言葉は、ルカの福音書23章46節にある
「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」
という言葉です。
こうして見ると、マタイは、主イエスの十字架の七つの言葉の中でも、この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」という言葉だけを選んでいるということに気づかされます。
少しマタイの福音書で、この場面がどのように記されているか見てみたいと思います。
まず、45節にこう記されています。
さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。
三時間に及ぶ闇です。先週、黄砂が中国から飛んできて、なんとなくですが、空が白くなっていたことに気づいた方も少なくないかもしれません。けれども、自然現象で視界が悪くなったとしても、遠くの山が見えなくなるというようなくらいで、闇とまではいきません。以前、金環日食というのがありましたけれども、あの時、この地域は天気が悪くてあまり見えませんでしたが、綺麗に指輪のように太陽の光を月が隠してしまったことがありましたが、その時に、それほど印象に残る出来事とはなりませんでした。それでは太陽が完全に月に隠れる皆既日食というのは、どんなくらいなのかと思ってネットで見てみたのですが、空全体はほとんど変わらないようです。特別なグラスをかざして、太陽を直接見ると分かるという程度です。
何も、別にここでこの時の闇を科学的に解説したいわけではないのですが、マタイがここで伝えようとしているのは、主イエスが十字架にかけられた時、闇が支配していたということです。
光がなくなってしまったのです。一切の希望が見出せなくなった。そして、その時に、主イエスはこの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれたのです。「わが神 わが神 どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という詩篇22篇の一節の言葉を、自分の叫びの言葉として語られたのでした。
十字架の七つの言葉の中でも、この言葉は四番目、つまり一番中心にくる言葉です。この言葉の中に、主イエスの十字架の意味が詰まっていると言えます。 (続きを読む…)
主日主題: 十字架
聖餐式礼拝: 午後19時00分
聖書: マタイの福音書27章32-50節/詩篇22篇1節
説教:「わが神、わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか」鴨下直樹牧師
主日主題: 光
聖餐式礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: 詩篇119篇97-112節
説教:「あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光」鴨下直樹牧師
礼拝後:役員会
主日主題: 信仰
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: 詩篇119篇113-128節
説教:「あなたのみことばのとおりに」鴨下直樹牧師
礼拝後:礼拝準備会/月間予定確認
主日主題: 恵み
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: Iコリント15章14節
説教:「イエス復活!」田中啓介師
主日主題: み言葉
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: 詩篇119篇129-144節
説教:「み言葉の戸が開かれると」鴨下直樹牧師
午後:役員研修会@可児教会
2021.03.28
鴨下 直樹
午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
今週から受難週に入ります。金曜日には受難日を迎えます。今、詩篇119篇のみことばを順に聞き続けていますが、今週はまさに受難週にふさわしい箇所といえるみことばが私たちには与えられています。
冒頭の二節にこう記されています。81節と82節です。
私のたましいは あなたの救いを慕って
絶え入るばかりです。
私はあなたのみことばを待ち望んでいます。
私の目は あなたのみことばを慕って
絶え入るばかりです。
私は言います。
「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」 と。
同じような言葉が二回繰り返されていますが、少し内容が違っています。そして、その違っているところに目を留めると、この祈り手の背後にあるものが見えるようになってきます。
祈り手は、魂から、その存在の奥底から主の救いを求めています。そして、その救いを求めると言っている言葉を、その後で、「あなたのみことばを待ち望んでいます」と言い換えています。
つまり、救いが自分にもたらされるというのは、みことばのことだと言っているわけです。続いて記されているところに目を向けると、「私のたましい」と最初の81節にあったのが、「私の目」と言い換えていることに気が付きます。私の目がみことばを慕っているのです。
つまり、祈り手は、みことばを目にすることができないような状況に、長い間置かれているということが分かるのです。聖書がない。みことばを目にすることができない。そういうみことばに対する飢え渇きを、祈り手は覚えているのです。
礼拝で手話通訳をしてくださっていました、K兄が年末に脳溢血で倒れて、今も病院で入院生活が続いています。それは、本当に寂しいことです。今、必死にリハビリを励んでおられます。
もう、一月ほど前でしょうか。妻のLINEにK兄から短い文章が届きました。そのメッセージに「みことば」と書かれていました。
まだ、なかなか自由がきかない手で、必死に送った文章です。みことばが欲しいということなのでしょう。それから、教会のみなさんも、K兄にいろんなみことばを送ってくださっているようで、本当に嬉しい思いがしています。しかし、特にK兄がまさにみことばを慕い求めている姿に、感動を覚えるのです。
もう入院されて三カ月たつのですが、オンラインの礼拝もできていないかもしれないと思いまして、先週から礼拝説教の原稿を送るようにしました。そうしたら、「よぶきもほしい」という返信が来ました。全部ひらがなです。
先週、予定でヨブ記の話をするのを知っていて、その原稿も送ってほしいと言われたのです。残念ながら、先週はヨブ記をすることができなかったので、ヨブ記の原稿を送っていないのですが、本当にみことばを慕い求めているのだということが伝わってきます。みことばが、困難な生活の中で、心の支えになるということをK兄は知っているのです。
この詩篇の祈り手はバビロンにいるのでしょうか。神殿もない、みことばもない、自分たちに残されているのはユダヤ人であることを示す割礼だけというような状況にあって、みことばに対する飢え渇きを覚えているのです。
そして、「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」と主に訴えているのです。いつ、みことばが聞けるのですかという訴えです。 (続きを読む…)
2021.03.21
鴨下 直樹
午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
詩篇119篇の71節にこういう言葉がありました。
苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。
それにより 私はあなたのおきてを学びました。
苦しみの経験というのはできればしない方がいいに決まっています。しかし、この詩篇の祈り手は、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」と言えることを経験したのでした。苦しみによって、神のおきてを学ぶことができたのだと言っているのです。神のおきて、神のお考えを学ぶということは、それほどに重要な意味を持っているというのです。
ただ、私たちにとって、何か悪いことが身に降りかかると、それにはどんな意味があるのだろうかと、その意味を何かしら信仰にからめて読み取ろうという気持ちというのは、私たちに少なからずあると思います。けれども、多くの場合、そこに意味を見つけ出すことはできないという事がほとんどです。すべてのことに、何か意味を見つけようとしたり、どれもこれも、神さまのせいだと考え始めると、きっと私たちは信仰の歩みをすることが困難になってしまうのではないでしょうか。
今日の詩篇は、そのことを考えるきっかけにもなりそうな箇所だと言えるかもしれません。
先週の〈ざっくり学ぶ聖書入門〉で「エステル記」を学びました。このエステル記に記されているエステルがした経験というのは、まさに、このみ言葉に記されているような経験だったということができるのかもしれません。
ペルシャのクセルクセス王の時代の出来事です。王妃ワシュティがクセルクセスの宴席に呼ばれたのですが、自分は見世物ではないと出席を拒みます。それでこの王妃は退けられてしまい、新しい王妃が選ばれることになります。そこで王妃に選ばれたのがエステルでした。エステルはユダヤ人でしたが、そのことを隠していました。ある時、新しく大臣に就任したハマンは、門番でエステルの育ての親であるモルデカイが自分を敬わないことに腹を立て、ユダヤ人虐殺の命令を、クセルクセス王に出させてしまいます。その命令のためにユダヤ人は、断食をして悲しみます。その時に、エステルの育ての親であるモルデカイは、エステルに、自分は王妃だから助かると考えるのではなくて、この時のために王妃に選ばれたのかもしれない。だから、王にこの計画を中止するように頼みなさいと告げます。しかし、この時代の王妃というのは、勝手に王の所に近づくことはできませんでした。許可なく近づくと、殺されてしまうこともあり得たのです。それで、ユダヤ人たちに、三日間断食して、自分のために祈ってほしいとエステルはみんなにお願いします。そして、その結果、ユダヤ人たちもエステルも助かるという経験をするのです。
苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。
それにより 私はあなたのおきてを学びました。
エステルは同胞のユダヤ人たちが、皆殺しにあうかもしれないという危険を経験し、自分がそれを取りやめるよう王に求めたら自分が殺されるかもしれないという危険の中で、その計画を取りやめるよう王に求めます。そういう経験が、「私にとって幸せ」とは、なかなか言えるものではありません。しかし、すべてが終わってみると、まさにそのことのゆえに神のおきてが明らかになるということがあるのです。
ただ、多くの場合、苦しみの意味という事を考えると、そんなに簡単にはいきません。聖書の出来事になるようなことと、自分の日常のこととは同じだとは考えにくいのです。 (続きを読む…)
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