2017 年 11 月 19 日

・説教 ルカの福音書15章1節-7節「迷子の羊」

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2017.11.19
子ども祝福礼拝

鴨下 直樹

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 先ほど、「せいしょのおはなし」の中で絵本を読んでいただきました。羊飼いがいなくなった羊を見つけに行った話です。ちょうど、今日の聖書の物語を絵本にしたものです。ただ、聖書と絵本がひとつ大きく違っているところがあります。それは、絵本では99匹の羊は柵の中にいれておいて、迷い出た一匹を捜しに行きました。けれども、この聖書には柵の中に入れておいたので大丈夫だとは書かれていません。

4節にこう書かれています。

あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうち一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

 ここには、「九十九匹を野原に残した」と書かれているのです。別の聖書の翻訳(岩波訳)ではもっとはっきりと「九十九匹を荒野に放っておいて」と訳されています。この話は、羊飼いが迷い出た一匹の羊を探すために九十九匹を野原に放っておいて、いなくなった一匹の羊を捜したという話しが、今日の聖書のはなしです。ちょっとびっくりするような話です。
 
 今年の夏休みに、私は書店で面白い本を見つけました。「羊飼いの暮らし」という本です。イギリスの湖水地方の羊飼いが、実際にどんな生活をしているのか、その四季の生活ぶりを綴った本です。御存知の方も多いと思いますが、今年、イギリスの湖水地方が世界遺産に登録されました。それで、脚光を浴びるようになったのがピーターラビットの作者のビアトリクス・ポターです。このビアトリクス・ポターは絵本・ピーターラビットの収益で自分の育ったこの湖水地方を購入してこの土地を守ったということが知られています。ところが、この本は、そういう湖水地方にまつわる美しいエピソードとは全く異なる、この土地に古くから生き抜いてきた羊飼いたちの実際の生活ぶりが、どれほど過酷なものであるかを紹介する本として注目を集めました。

 この本を読んで知ったのですが、この湖水地方の羊の毛はほとんど価値がないんだそうです。羊一頭の毛刈りを人に頼むとすると、日本円で180円ほどなんだそうですが、そうして一匹の羊の毛、フリースというのだそうですが、わずか70円。毛を刈れば刈るほど赤字になるというほどのようです。なんのために毛を刈るかというと病気にならないためだそうで、実際は食肉用として飼育しているということでした。というのは、この湖水地方というのは自然の厳しい環境で、ウールとして売れる羊を飼うのにはふさわしくないんだそうです。

 中でも私が大変興味深く読んだのは、羊の毛刈りの時の話です。この湖水地方の広大な土地に放牧された羊たちを、毛刈りのためすべての羊を一か所に集めるためにどういう方法をとるのかというところを、私はとても興味深く読みました。地域の羊飼いたちが一斉に集まって、チームを組んで同時に羊を集めるのだそうです。なだらかな土地の羊を集めるのは簡単な仕事なので、新米の羊飼いにやらせて、丘陵地帯の藪の多い地域はベテランのそれ専用の牧羊犬を持っている羊飼いが担当します。それはまるで軍隊の統率のような徹底した戦術を練って、一匹も見逃さないように行われるのだそうです。羊飼いは四輪バギーに乗って、それぞれの土地に合わせて訓練された牧羊犬とで行われるとても精密で大変な作業なのだということが分かってきます。そういう時に、迷子の羊が出たということは書かれていませんでしたので、そうならないように羊を集めるのだということがわかります。 (続きを読む…)

2017 年 11 月 12 日

・説教 マルコの福音書2章23-3章6節「祝福の戒め」

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2017.11.12

鴨下 直樹

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 今日の聖書の箇所はちょっと面白いところです。安息日、働いてはならないと言われていた日に、主イエスの弟子たちはうっかりなのでしょうか。麦畑に入って、麦の穂を摘んで食べてしまったという出来事が事の発端となっています。普通に考えれば悪いことをやったのは弟子たちの方です。悪いこととまではいかなくても、禁止されていた戒めを破ってしまったわけですから、注意されても仕方がないわけです。ところが、主イエスは非難されているご自分の弟子たちをかばわれたわけです。律法にも安息日に働いてはならないと記されていますから、聖書の戒めに背いた弟子というのは弁解の余地もないような気がするわけですが、主イエスはその弟子への非難を通して、そもそも律法、神の戒めとは何なのかというテーマで話をされています。それが、今日の箇所です。

 ここで、パリサイ人たちが主イエスの弟子たちを非難した時、主イエスが何と答えられたか。この主イエスのお答も、とても興味深いものでした。かつて、ダビデがサウル王から逃げていた時のことです。ダビデは祭司のところを訪ねて、律法では祭司しか口にすることが許されていなかったパンを、いただいていきます。26節に、アビヤタルが大祭司のころと書かれていますが、聖書を読んでみますと気づくのは、実際はアヒメレクです。聖書を記す時に覚え違いをしたのかもしれません。いずれにしても、祭司しか食べることの許されていなかったパンを祭司アヒメレクはダビデに与えます。この時のことを主イエスはここで語られて、だから主イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を食べてもいいのだという理由にしたわけです。

 おそらく、これを聞いていたパリサイ人はこの主イエスの答を聞いて、口をポカーンとあけていたのではなかったかと私には思えるわけです。というのは、このダビデのケースは全くの例外として、困った緊急の事態の場合は、律法よりも緊急の事情が優先されるというケースとして当時の律法学者たちには理解されていたのです。けれども、主イエスの弟子たちは緊急でもなんでもないわけです。むしろ、あまりよく考えもしないで麦畑に入って行って食べたわけですから、この主イエスのお言葉は、普通の感覚からすると、この状況ではふさわしくないわけです。しかし、わざわざこう答えられたということは、主イエスには明確な意図があるはずです。主イエスはここで何を気付かせようとしておられるのでしょうか。

 今日の説教題を「祝福の戒め」としました。少し説教題に違和感を覚えるかもしれません。「戒め」という言葉と「祝福」という言葉は合わないように感じるわけです。何でもそうですが、決まりごとが一つできると、本当のその決まりごとの意味は忘れられてしまって、その決まり事は自分を束縛するもののように感じるわけです。たとえば、体調を整えるために塩分の取り過ぎは良くないので、塩分を控えるとなるとたちどころに不自由に感じます。今まで何でもおいしく感じたものが、塩味を薄めた食べ物を残念に思う気持ちが出てくるわけです。決まり事というのは、本来その人のためになるためにあるはずなのに、決まりごとが、戒めが出来た途端、人を縛り付けるものとなってしまうのです。そして、塩分の濃いものを食べるのが自由だと思って塩分の濃い食事をとっても、喜べるかというと、実際自分の体に良くないし、かえって罪悪感が伴うことになるわけです。戒めに縛られるのも不自由ですが、戒めを破るのも不自由さを感じてしまうのです。
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2017 年 10 月 29 日

・説教 マルコの福音書2章18-22節「新しい喜びの生活」

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2017.10.29

鴨下 直樹

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 先週、私のところ一冊の本が送られてきました。「泥の好きなつばめ」というタイトルで辻恵美子さんの書かれたものです。サブタイトルとして、「細見綾子の俳句鑑賞」と書かれていました。いつも、親しみをこめて恵美子さんと呼ばせていただいているのですが、毎月、芥見教会では、「ぶどう木の句会」という俳句の会を、恵美子さんが指導してくださっています。私自身、俳句をつくることが出来ないのですが、いつも会に出させていただくと、俳句をどう読むのか、鑑賞するというのが正式の言い方なのでしょうか、そんなことも分からない程度の俳句の知識なのですが、恵美子さんの鑑賞を聞くのがとても面白くて、楽しませていただいております。ですから、私がこの恵美子さんの書かれた本について何かコメントをする立場にはないのですが、読み始めたらとまらなくなるくらい面白いのです。

 私は細見綾子という人を知りません。いつも、恵美子さんの言葉を通して、恵美子さんの先生なのだということくらいしか知りません。この本は、細見綾子という俳人が生前つくられた俳句を、恵美子さんがどう読み取ったのか、どう鑑賞したのかということが書かれているものです。本のはじめに「泥の好きなつばめ」という章があります。どこかでなされた講演を文字に起こしたものだと思いますが、恵美子さんの細見綾子の俳句鑑賞という文章が載せられています。ここを読むと、まるでNHKの朝のドラマにでもなりそうな細見綾子という人となりが記されていて、この人が折々に作った俳句のことが紹介されています。

 この細見綾子という方は明治40年に丹波で生まれた方です。若い時にほんとうに苦労されたようで、十三で父親を亡くしますが、母親の尽力でその後、東京の日本女子大に入ります。卒業して医者と結婚しますが、その夫が二年で結核のため亡くなってしまいます。その後、やむなく故郷の丹波にもどりますが、今度は三か月後に母親を亡くし、その四か月後には自分も肋膜炎を患ってしまいます。そういう中で俳句と出会って俳句をつくるようになったのだそうです。この時、まだ22歳です。私が面白いと思うのは、そういう中で、俳句が作られていって、その俳句の鑑賞というのはどうやるのかというと、その俳句が作られた時の細見綾子という人の生活がどうであったか、そのころ何をしていたのか、どういう状況の中で生まれた俳句なのかを丁寧に解説していくわけです。たとえば、こんな俳句があります。

ふだん着でふだんの心桃の花

 昭和13年。31歳の時の俳句だそうです。そうすると、解説で、この時は療養のために大阪に出て来ている時、きっとこの当時のふだん着というのは木綿縞じゃないでしょうか、などいうことが書かれていて、その頃住んでいた池田というところに桃畑が一面にあってそれを読んだ句で、心が躍っているのが分かると書かれています。
 どんな状況で、どんな場所で、どんな気持ちでこの俳句を作ったのかということを、読み取っていくわけです。たった17音という短い言葉なのに、意外にもいろんなことが分かってくるのだということに驚きを覚えます。 (続きを読む…)

2017 年 10 月 22 日

・説教 マルコの福音書 2章13-17節「主イエスが見ておられるもの」

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2017.10.22

鴨下 直樹

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 少し間が空いてしまいましたが、今日からまたマルコの福音書のみことばを聞きたいと思います。この2章に入って5つの論争の出来事が記されているという話しをいたしました。今日は、2つ目の論争が記されているところです。けれども、ただ、主イエスが誰かと論争したというのではなくて、その前の13節と14節のところで、まず取税人のレビの召命の出来事が記されています。ですから、まずその所をみることから始めたいと思います。13節にこう記されています。

イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群集がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。

 ここに「また湖のほとりに出て行かれた」とあります。「また」ということは前にも行ったことがあるわけです。この前に湖に行ったと記されていますのは、シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネという漁師をしている弟子たちをお招きになった時です。そして、ここで主は再び、カペナウムの町から湖の方に出て来られたわけです。すでに、この湖の漁師であった人々が主イエスの弟子になって、カペナウムの町ではもうすっかりこの主の弟子たちのことは人々に知られていたはずですから、大勢の人々が主イエスのところにやってきたのもよく分かることです。そんな大勢の人々が主イエスの教えを聞く中で、主イエスの眼差しは一人の人に向けられていました。それが、アルパヨの子レビという収税人です。

 収税人というのは、当時のイスラエルはローマに支配されていたので、そのローマが通行税をかけるわけです。昔日本にあった関所のようなものを考えていただくといいと思います。その関所を通過する時に、荷物に税金をかけます。たいてい、こういう仕事はローマ人がやるのではなくて、地元の人間を雇って行います。ここに出てまいりますレビも、その名前から、ユダヤ人であったことがよく分かります。しかも、レビというのは本来神殿に仕える祭司の家系のことをレビ人といいます。そういう神様にお仕えしていた家系の名前を持つ人が、ローマのために、同胞であるユダヤ人から税金を取る仕事についていたのです。ですから、この取税人という仕事は同胞のユダヤ人たちから嫌われる仕事だったわけです。

 私たちでも、それこそ今日は衆議院選挙の投票日ですが、消費税を10%に上げるなどという話が出ています。いつの時代もそうですけれども、沢山税金をとられて喜ぶ人はあまりおりません。ですから、当時のイスラエルの人々はこういう人、ローマのために税金を取り立てるような人たちのことも「罪人」というくくりにひとまとめにして軽蔑していたわけです。

 ところが、主イエスは人々から「罪人」とみられて嫌われているようなレビをご覧になられて、「わたしについて来なさい。」とお招きになられたわけです。人々が「罪人」として軽蔑している人を、主イエスは他の人と同じようには見られないで、全く別の目で人をご覧になられているということがここに書かれているわけです。

 そうすると、このレビはこの主イエスの招きに対して「立ち上がって従った」と書かれています。レビのどこをご覧になられたのか書かれていませんので、いろいろ想像するしかないわけですが、野球のドラフトのように、将来有望な弟子になるに違いないと思って招かれたのでしょうか。そうであった可能性も否定できませんが、おそらく、その人そのものの中に光るものを見出したとか、隠れた才能を見出されたというよりは、むしろ、そこに主イエスの性質があらわされているのです。

 神の選びなどというときもそうです。私たちがクリスチャンになったのは、きっと神様が私の隠れた才能を見ぬいておられて、だから、私をクリスチャンになるようにしてくださったと考えると、なんだかちょっとうれしい気持ちになるわけですが、主イエスの回りにいた人々のことを考えてみると、決してそうではなかったということが分かるわけです。

 主イエスの弟子となった人々を見ても、もっと優秀な人はいくらでもいたと思います。この人は後々すごい人物になるということで、主の弟子として召されるのだとしたら、もう少し他の選択肢はあったはずです。けれども、まさにこの弟子たちから見て分かるように、小さな者に目をとめられるということこそが、主イエスの眼差し、視点なのです。

 そのことを示すように、この後の15節から17節でパリサイ派の律法学者たちが登場してまいります。この時、レビは、主イエスが自分を招いてくださったことがとても嬉しかったのでしょう。同じような取税人仲間、あるいは「罪人」と人々からレッテルを張られている人たちを、主イエスと一緒に食事に招いたのです。その時に、聖書に書かれていることを忠実に行おうとしていたパリサイ派と呼ばれる人たちの律法学者が、主イエスに対して疑問を投げかけたのです。16節にこう書かれています。

なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。

 パリサイ派の律法学者は聖書に記されている神の戒めをきちんと守り行おうとしている正しい人です。ひょっとすると、このパリサイ派の人も主イエスの語る言葉に喜んで耳を傾けていたのかもしれません。心惹かれる教えがあったのだと思うのです。そうやって、主イエスの教えを聞くのを喜んでいると、目の前に、違和感を覚える光景を目にしたのです。つまり、パリサイ派の人たちは普段、「罪人」と呼んで関わりを避けている町の悪い人、神さまの律法、聖書に対して真剣に生きようとしているとは思えない人たちと、主イエスが一緒に食事をしているのを見て面白くないと思ったのです。そして、ここから、このパリサイ派の律法学者と主イエスとの論争が起こるわけです。

 私たちが聖書を読む時にパリサイ派とか、律法学者という言葉を見つけますと、私たちはすぐに、ほとんど自動的に、「あっ、この人たちは悪い人だ」と考えます。「神様のことを悲しませる人だ」と考えるわけです。ですから、この後で主イエスが語られる「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」という言葉を聞くと、どこかで胸がすっとするような、意地悪な人をやっつける水戸黄門の印籠が出てきたような気持でつい読んでしまうのではないかと思うのです。

 これは、こういう話です。教会のみなさんとバスを借りてリンゴ狩りに行きました。バスを降りると、みんなで喜んでリンゴ園に入っていきました。同時に何台かのバスが到着したので、リンゴ園の方が、少しお待ちくださいと声をかけて、後から来たバスのお客さんに対応しています。すると、後から来たバスの人たちがまだ係の人の説明が始まる前に、勝手にリンゴを取って食べ始めてしまいます。長老や、執事の方々がこれはよくないと思って、後から来た人に注意します。「今、係の人がちょっと待って欲しいと言って席を外しているので、まだリンゴを食べてはだめです。少し係の人が来るまで待ってください」。ところが、この人たちは人の忠告も聞かないで、リンゴを次々にもいで食べ始めます。後から来た人たちも、もう食べてもいいのだと思って次々に食べ始めてしまって、芥見教会の人たちだけが注意を聞いて食べないで待っていたのです。その時に、イエスさまが登場します。そうすると、芥見教会の人たちの前を通り過ぎて行って、リンゴを食べてしまっている悪い人たちと一緒にお弁当を開いて食べながら楽しそうに語りあっている。これは、そういう話なのです。

 おそらく、まじめな芥見教会のみなさんはとても複雑な気持ちになるのではないでしょうか。気の短い方だと、イエスさまのところに直接文句を言いに行く人もいるかもしれません。「リンゴを食べないで我慢していた私たちの前を通り過ぎて行ってしまうとは何事ですか。ちゃんと待っていたのは私たちの方です」とイエスさまに言うと、イエスさまは私たちにこう言うのです。

「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」

 こういう話を聞いて、納得して「ああ、さすがイエス様はちがうなぁ、慰められるなぁ」と考える人がどのくらいいるでしょうか。もし、こんなことが私たちの目の前で起こったとしたら、「もう次の週からまじめにやるのはやめよう」ということにならないでしょうか。もう教会に行くのをやめにしようと思う方が出るかもしれません。けれども、ここで主イエスがしておられることはそういうことなのです。

 私たちは、パリサイ派とか律法学者と聞くと、すぐに、悪い人たちで神様を悲しませている人だと考えてしまいますが、この出来事の中で、パリサイ派の律法学者は何か間違ったことをやったでしょうか。何も、変なこと、神さまを悲しませるようなことはしていないのです。けれども、こういう話しの中でこそ、主イエスがどのようなお方なのか、何をなさろうとしておられるのかが、よく分かるのです。

 人は誰でも、正しいことが行われることを求めます。ずるいことをすることが良いことだと考えている人は多くありません。だから、悪いことをする人を見ると、心を痛め、あるいは敵意や憎しみを覚えます。

 自分はきちんと聖書に従って生きて来たという人にしてみれば、ここで、主イエスのしておられることはむちゃくちゃなことに映るわけです。明らかに「罪人」、神さまの教えに逆らっている人に対して、主イエスは正しい人を通り過ぎてでも、この罪人と差別されている人たちの方に心を向けておられるのです。

 もちろん、主イエスは神を悲しませることをこのままどんどん続けていいと思っておられるわけではないのです。でも、誰かが、その罪人のところに入って行って、何が悪いことなのか教える人がいないかぎり、この人たちは自分の誤りに気づくチャンスさえないままなのです。だから、主イエスは、自分が誤解されることも恐れないで、この取税人や、町の人たちから罪人と呼ばれている人たちの友となるために、自分が非難されることを覚悟の上で、その人たちを招こうとなさるお方なのです。

 主イエスの示される愛というのは、正しいことをやった人を良くやったねと褒めてあげる愛ではなくて、ちゃんと出来ない人の中に入って行って、あなたはちゃんとできるようになるのだからね、とその人に寄り添って語りかける愛なのです。

 不思議なもので、私たちは、はじめは自分もちゃんとできませんでした。私を助けてくださいと思いながら主イエスに近づいても、いつの間にか、自分よりもできない人を見つける。自分よりも神さまのことを悲しませる人を見つけるとあの人はあんなに悪い人だと言いつけたくなる。そうやって、自分の正しさを主張しようとしてしまうのです。しかし、私たちがみあげなければならないのは、主のお姿です。主イエスはどうなさったのかであって、私たちがどれほどちゃんとできているかということではないのです。

 私もレビです。私もレビと同じで、神さまを悲しませるような生き方をしてきました。けれども、主イエスが私を招いてくださるのであれば、私も主に従って行きたいですと、このレビのように、主の招きに応えて生きる事を、主は私たちに求められているのです。

 お祈りをいたします。

2017 年 10 月 1 日

・説教 マルコの福音書2章1-12節「隔ての壁を打ち破り」

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2017.10.01

鴨下 直樹

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 いよいよ10月を迎えました。私たちは今から500年前にドイツで起きた出来事のことを覚えながら、今月4日間におよぶ宗教改革記念連続講演会のために今、備えています。このために素晴らしいチラシをつくり、今年のはじめからプロジェクトチームを作って話し合いを重ねて、準備してきました。一人でも多くの人に福音を知っていただきたい。主イエスと出会っていただきたい。私たちはそのように祈り求めながら6万枚のチラシを配ろうとしています。まさに、人々と教会との間に立ちふさがっている壁を何とか打ち破りたいとの情熱をもって、そのために祈っているわけです。

 また、あさっての10月3日は、マレーネ先生とAさんの誕生日ですが、東西ドイツの壁が破られてドイツが再統一した記念の日です。もう、統一されて27年を迎えようとしています。私は、今から20年ほど前にもドイツを訪ねる機会がありまして、その時旧東ドイツを訪ねた時のことを今でもよく覚えています。そのころのドイツは、まだ貧しかった東ドイツを受け入れたことで経済が落ち込んでしまい、経済的に苦しい時でした。観光地であっても、町の中心はすぐに綺麗になったのですが、一歩外に出るとまだ壁が崩れたままで、なんとなくくすんだ色の町という印象が強くて、町の中心と郊外のギャップの大きさに驚いたものです。そういう中で、少しずつ落ち着いて来たと思ったら今度は大勢の難民の受け入れです。けれども、壁が崩壊したことによって、人々はこの国に期待を抱きながらやってくる。そして、苦しい中にも、多くの人々を受け入れようとしているこの国の根底には、500年前の宗教改革の出来事があるのだと思わずにはいられないのです。

 さて、今日はマルコの福音書にしてはすこし長めの箇所を選びました。1節から5節までのところには中風の人の癒しの出来事が記されています。興味深いのは、ここで主イエスはまたカペナウムに戻って来たと書かれています。どうも、このマルコの福音書の書き方は、時間的な順番というよりは、ここで書こうとしているテーマによって、時間が前後しても同じテーマのものを集めたようです。というのはこの2章から3章の頭の部分までに5つの論争の物語がまとめられているのです。このことは少し覚えておいてくださると、この後の助けになると思います。

 この5つの論争の最初の出来事として、ここ、シモンたち主イエスの弟子たちの郷里での伝道のことが記されています。1章の終わりのところでは、主イエスはシモンの家に集まった多くの人々を残して、別の町に行ってしまわれます。自分本位な癒しの求めに応えることを主イエスは拒まれたわけです。ところが、主イエスはまた、カペナウムにやってこられたのです。ここでは、癒しのためではなく、主イエスは「みことばを話しておられた」と2節にありますから、今度は語ることが中心であったようです。しかも、この時、カペナウムの家には人が入りきれず外にあふれるほど集まったようです。そういう中で今日の出来事が起こったわけです。 (続きを読む…)

2017 年 9 月 24 日

・説教 マルコの福音書1章40-45節「憧れを見い出させる主イエス」

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2017.09.24

鴨下 直樹

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 先週火曜日、私たちの教団で長い間牧師として働いておられた後藤幸男牧師が天に召されました。水曜の夜に前夜式が行われ、木曜の午前中に葬儀が行われました。私は、水曜の前夜式に故人の思い出を語って欲しいと言われて、そこで、後藤先生との思い出を語らせていただきました。後藤先生はこの半年、自宅療養という形で、最後まで家族が寄り添いながら残りの時を過ごされたようです。私にとっては、同盟福音の初期の4人の牧師たち家族は、家族ぐるみのお交わりがあったために、大変親しくさせていただいていました。特に、私は同盟福音で最初の牧師家庭から牧師になったということもあって、後藤先生には、いつも厳しく育てていただいたと思っています。大変厳しい先生でしたので、たびたび叱られました。先日も、後藤先生の子どもたちと話していたのですが、ある兄弟は、「僕より叱られているかもしれんね」と言っていました。これは、別の見方をすれば本当に目をかけていただいていたということで、沢山愛されていたのだと改めて実感しました。

 聖書には沢山の癒しの話が記されています。けれども、前回のマルコの福音書からも明らかなように、主イエスは人の癒されたいという願いをよくご存じでしたが、癒すということにではなくて、主イエスご自身を知って欲しいということを願っておられました。病気が癒されることよりも、主イエスを知ることを大切にしておられました。ですから、大勢の人々が主イエスのところに押し寄せて来ても、主はそこに留まろうとはしないで、別の町に出かけて、ご自分のことをお知らせになりたいと願われたのでした。
 そういう意味で言えば、後藤牧師は本当に主のことをよく知っておられた方です。もちろん、癒しのために祈ったと思いますけれども、それにもまして、この主を知らせるためであれば身を粉にして伝道された方でした。そして、そのために生涯をささげたのだと言っていいのだと思います。

 さて、今日の箇所も3度目の癒しの出来事が記されているところです。お気づきの方も多いと思いますが、新改訳聖書の第三版は、これまで「らい病」と訳したところを、「ツァラアトに冒された」と訳しなおしています。これは、この「らい病」という言葉が差別用語だということが言われるようになって、それではヘブル語をそのまま使おうという一つの翻訳の新しい試みです。興味深いのは新共同訳聖書も同じように、差別用語、不快用語は使わないという基準があります。それで、旧約聖書では「重い皮膚病」と訳しました。これは、これまで「らい病」または「ハンセン氏病」と言われた病とは違って、皮膚病全体をもさす言葉なので、そういう翻訳を試みたわけです。けれども、新共同訳の新約聖書では「らい病」となっているのです。 (続きを読む…)

2017 年 9 月 17 日

・説教 マルコの福音書1章29-39節「シモンの思い」

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2017.09.17

鴨下 直樹

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 先週の月曜日から水曜日まで東海宣教会議が蒲郡で行われました。講師は世界の福音派の教会が所属している、ローザンヌ運動の総裁をしておられるマイケル・オー先生です。このオー先生は、韓国系アメリカ人で日本の名古屋で宣教師として働いておられた方です。この会議で3回の主題講演をしてくださいました。テーマは「福音」です。私が特に興味深く聞いたのは二日目の主題講演ですが、「福音は私たちを聖める」というテーマでした。いわゆる「聖化」についての説教でした。

 ひょっとすると多くの方はこの「聖化」という言葉についてあまり耳にしたことがないかもしれません。私もあまりこの言葉を強調して語る方ではありません。「聖化」というのは、「聖なる者へと変えられていく」ということです。私がよく使う言葉で言うとすれば「キリストのように変えられる」ということです。これが信仰者の成長していく過程でもあります。私があまり「聖化」という言葉を使わないのは、「聖なる者に変えられる」という言葉は、「罪を犯さなくなる」という意味に理解されてしまうことが多いからです。けれども、マイケル・オー先生はその説教で、「聖化」を「苦しみを受ける」というのとほとんど同じ意味で使っていました。このことに、私は驚きを覚えたのです。

 「『主よ、私を聖めてください』、と私が主に祈ると、すぐに試練にあうので、こう祈ることは勇気のいることだ」と語っておられました。けれども、キリストのように変えられるために、私たちは主イエスご自身が苦しまれたように、苦難を経験することを通して、キリストのように変えられていくのです。説教はとてもシンプルでした、非常に深く心に留まりました。

 さて、今日の聖書にはさまざまな苦難を経験している人たちが出て来ます。主イエスの伝道活動というのは、まさにこの苦難を味わっている人たちとの出会いと共にあるということができます。今日、マルコの福音書から説教をするのは一か月ぶりのことですから、もう忘れてしまっている方があるかもしれませんが、私たちは今、マルコの福音書から順に主イエスの福音を聞き続けています。主イエスは漁師をしていた弟子たちを四人お招きになり、まず、この漁師たちの町であったカペナウムに行かれました。親を捨てて、主イエスに従って行った弟子たちでしたが、最初に訪れたのは自分の親の住む町です。そして、安息日にまず会堂を訪れて、説教をなさり、「汚れた霊」とか「悪霊」につかれた人と書かれている人々をその霊から解放なさいました。 (続きを読む…)

2017 年 8 月 20 日

・説教 マルコの福音書1章21-28節「礼拝の起源」

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2017.08.13

鴨下 直樹

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 先週の11日にデイキャンプが根尾山荘で行われました。今回、教団の教会全体に案内を出したのがはじめてということもあったのですが、スタッフ合わせて90名の参加者がありました。芥見からも沢山の方が参加してくださり、また、助けていただいてとても感謝でした。キャンプの間、雨も時々パラパラと降りましたが、予定通り何とかバーベキューはすることができました。残念ながらその後で雨が降り始めてしまいましたので、キャンプファイヤーは食堂で行いました。

 ですからもちろん、火はないわけですが、そういう気持ちで、最後の集会を行ったわけです。けれども、子どもたちを合わせて90人というのはなかなかの人数です。Oさんが手品をしてくださり、Mさんが司会をしてくださり、とても楽しい時となりました。このキャンプファイヤーの最後に伊藤牧師が「礼拝」をテーマにメッセージをしてくださいました。そこで、あるカトリックの司祭の言葉を紹介してくれました。「礼拝とは遊びである」。その司祭は礼拝のことをこう表現したというのです。伊藤牧師のメッセージを聞く中でそれがどういう意味なのかが少しずつ分かって来たのですが、それは、「夢中になるほど楽しいこと」という意味だったようです。

 礼拝は夢中になるほど楽しい。そんな言葉を聞くと、ちょっと首をかしげたくなるかもしれません。それはどういうことなのでしょうか。今日の聖書の箇所にその答えがあります。今日の聖書は、主イエスが最初に会堂を訪れたことが記されている箇所です。その様子を少し注意深く見て見たいと思います。

それから一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。

と21節にあります。「一行」というのは主イエスと弟子たちのことです。主イエスの弟子となったばかりの人たちがこの中に含まれていたはずです。主イエスとともに歩むようになって最初の安息日を迎えました。

 安息日というのは、この時代のイスラエルの人々にとってとても大切な日でした。仕事を休んでその日は、会堂に行って聖書の教えを聞く日、それが安息日の過ごし方と考えられていました。弟子になったばかりのシモンやアンデレ、ヨハネやヤコブがその前の週までどのように過ごしていたかは分かりません。ただ、この日は主イエスと一緒に会堂に出かけます。そして、おそらくそこで初めて聖書を解説する主イエスの説教というのを聞いたのです。
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2017 年 8 月 6 日

・説教 マルコの福音書1章16-20節「漁師イエス」

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2017.08.06

鴨下 直樹

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 いつも、夏になりますと、私たちの教会では信徒交流月間ということで、水曜日と木曜日の祈祷会の時に、信徒の方々が証をするときとなっています。今年も、水曜日にはTさん、木曜日にはYさんがそれぞれ証しをしてくださいました。両方合わせて20名以上の方々が出席くださいました。

 水曜日にTさんは、イザヤ書52章7節の「良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことよ」のみことばから、誰もが自分に福音を伝えてくださった人がいるはずというところから話してくださいました。お話を聞きながら、改めて、自分に福音を届けてくれた人は誰だっただろうかと思いだしながら、またお話を聞いた後で、自由に語りあう機会を持ちました。木曜日のYさんは、ご自分の若いときから今に至るまでの信仰の経緯をお話しくださいました。この日もまたその後で、みなさんYさんの証に刺激されて、自分はどのように信仰に至ったかという話しをしてくださいました。

 救いの証というのは、人によってはもう何回か聞かせていただいた方もありますけれども、何度聞いても、自分がどのように救いに導かれたのかという話しを聞く時というのは、嬉しい時です。そして、毎回思わされるのは、誰もがみなそうですけれども、主イエスとの出会いを通して、変えられていくのだということを改めて覚えさせられるのです。

 今日の箇所もそうです。いよいよ、ここからは、主イエスの伝道の姿が具体的に記されているところです。そして、ここで何が書かれているかというと、シモン、アンデレという漁師であった兄弟と、またヤコブとヨハネという漁師の兄弟が主イエスの弟子になったということが記されているわけです。伝道の旅を始めるにあたって、主イエスは、まず初めに、一緒に旅をする仲間をお集めになられたわけです。
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2017 年 7 月 23 日

・説教 マルコの福音書1章14-15節「時が満ちた!」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:13

 

2017.07.23

鴨下 直樹

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 私たちが聖書を読む時に、いくつもの驚きを発見します。私自身、今水曜日と木曜日の祈祷会で、このマルコの福音書を先立って一緒に読み進めています。そこでは礼拝ではほとんど語れない細かな所まで丁寧に学びながら、みなさんと一緒に考える時を持っています。そこでとても嬉しく思うのは、参加しておられるみなさんが本当によく聖書を理解する力を持っているということです。ところが、そうやってとても丁寧に聖書を学びながらも、このための説教の原稿を整える時には、さらにその時の何倍もの驚きを発見するのです。ですから、祈祷会で学んだとおりに説教するということには不思議とならないわけです。それほどに、聖書の言葉には深みがあるのです。

 ここで、「ヨハネが捕えられて後」と書かれています。何故ヨハネが捕えられることになったのか。その経緯についてはマルコの福音書の6章まで待たなければなりません。けれども、ヨハネはこの時代、非常に大きな影響力をもっていました。6章を読みますと、ヘロデ王自身、「ヨハネを恐れて保護を加えていた」と書かれているほどです。ただ、荒野で騒ぎ立てている薄汚れた預言者というようなことではなかったのです。

 そのヨハネが捕えられる。たいていの場合、そこで何を考えるのでしょうか。ヘロデに一目お置かれていたヨハネでさえ捕えられてしまうのであるなら、逃げた方がいいのではないかと考えるのが普通です。ですから、つづいて記されています「イエスはガリラヤに行き」という言葉をそのように理解した人たちが少なくなかったのです。主イエスはヨハネが捕えられて、自分も危ないと思って、ガリラヤ、つまり自分の故郷に帰った。そうして、故郷で人知れず、こっそり伝道を始められた・・・。マルコの福音書の書き方はそのように読まれても仕方がないような書き方です。あまりにも、説明不足なのです。けれども、そのように読んでしまうと、どうしてもつづく主イエスの言葉の響きが暗くなってしまいますから、そうは読めないわけです。
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