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・説教 マタイの福音書22章23-33節 「生ける者の神」

2012.4.29

鴨下 直樹

先週、私はある一冊の本を読んで過ごしました。それは、精神科医で作家でもある加賀乙彦さんが最近出版された『科学と宗教と死』という小さな本です。小さな本ですけれども、この加賀さんの自伝と言ってもいいような内容の書物です。自分が医師としてどのように生き、作家としてどう生きたか。特に、「死」という問題に生涯向かい合ってきた人ですから、死をめぐるいくつもの言葉が載せられています。
この本を読みながら、木曜に近くにありますキリスト教の老人ホームを訪れ、そこでイースターのテーマで短い説教をしてきました。大変印象的な体験となりました。そして昨日、執事であるKさんのお母さんが倒れたという知らせを受けました。
この一週間、死ということを心にとめ続けてきた一週間だったと言っていいと思います。

そのように、この一週間ずっと死ということを考えながら、この今朝与えられている御言葉を読み続けてきたのです。それは、私にとって特別な体験となりました。ここで語られていることも、「死」の問題です。
「人は死と向き合うとどうなるか。」 続きを読む ・説教 マタイの福音書22章23-33節 「生ける者の神」

・説教 マタイの福音書22章15-22節 「あなたは一体何者か?」

2012.4.15

鴨下 直樹

先日、車の中であるラジオ番組を聞きました。東京大学情報学環教授の姜尚中(カンサンジュン)さんの番組です。この方は昨年までNHKの日曜美術館という番組の司会もやってこられた方です。日曜の朝九時から十時までという時間ですから見たことのある方は少ないかもしれません。この方はもともと政治学が専門なのですけれども、そういう番組を任されるほどこの方は美術というものに深い関わりを持ってこられました。この方がキリスト者であるということはあまり知られておりませんけれども、信仰に生きておられる方です。この姜尚中さんが昨年末に『あなたは誰?、わたしはここにいる』という小さな本を書かれました。このラジオはこの本についてのインタビューだったのですが、大変心動かされる内容でした。

 これは姜尚中さんがまだ二十代の後半の時、これから自分が何をしていいかわからないでいた時にドイツに行ったんだそうです。南ドイツのミュンヘンにあるアルテ・ピナコテークという美術館を訪れます。そこで、一枚の絵との出会いが姜さんの人生を決定的に変えたと言います。その絵はアルブレヒト・デュラーの自画像ですけれども、この絵はデュラー自身、二十八の時に描いたものです。姜さんはこの絵を見ていて、この絵から問いかけられているような気がしたのだそうです。「あなたは一体何者のか。」と。「私はここにいる。あなたはどこに立っているのか。」とデュラーに問いかけられながらも、その絵から深い慰めを受けたといいます。今、将来どうしていいかまだ分からないでいる自分の生き方もゆるされているような気がしたと、そのラジオのインタビューの中で答えておられました。

 私たちはそのように自分自身が何者であるかということを自分自身に問う時に、私たちはどのように答えを見つけ出すのでしょう。

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・説教 マタイの福音書22章1-14節 「神からの招待」

2012.4.8
イースター礼拝

鴨下 直樹

イースターおめでとうございます。このイースターの礼拝を子どもたちと一緒にお祝いすることができることを嬉しく思います。この朝私たちに与えられている聖書もまた、祝いの場面です。結婚の祝いの場面です。しかもそのお祝いは、王さまからの直々の招待だというのです。王子が結婚をするというので、その祝いの場に招待されるというのですから、これは誰もが心待ちにし楽しんで出かけるところでしょう。
ところが、今日の話は少し変わっています。そのような王の結婚の宴に招いておいた人々が「来たがらなかった。」というのです。食事に期待できないからでしょうか。あるいは、王さまのことが嫌いだからでしょうか。王さまのことが嫌いでも、生涯に一度あるかどうかの王の宴会ですから、参加しておいても損はないと思うところですが、招かれた人々は畑仕事や商売に出かけて行ってしまいます。それどころか、ある人たちはこの祝宴に招いてくれた王のしもべを殺してしまったとさえ書かれています。
しかも、話はそれだけではありません。招いた人々が誰も来ないので、今度は大通りに出かけて行って出会った者を誰でもいいからこの祝宴に招くようにとしもべに伝え、片っぱしから宴会に招いたのだというのです。それで話が終わればいいのですけれど、今度はそのようにして招かれた人の中に、婚礼の礼服を来ていない人が一人いたといいます。そして、この人を縛り上げて外に出してしまったというのです。

さらに、この話の最後に何が書かれているかと言いますと、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」とあるのです。選ばれる者は少ないと言ったって、追い出されたのは一人だけなのですから、謎は深まるばかりです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書22章1-14節 「神からの招待」

・説教 マタイの福音書21章33-46節 「神の国の実を結ぶ国民に」

2012.4.1

鴨下 直樹

今朝は、教会の暦で棕櫚の主日、あるいはパームサンデーと呼ばれる主の日です。そして、今週から受難週を迎えます。この蝋燭も最後の一本になりました。今日は、主イエスがエルサレムに入城なさったことを覚える日です。そして、私たちもこの一週間の出来事を引き続き、聖書から聞き続けています。聖書にはこの受難週のうちに起こった一週間の出来事を大変丁寧に記しています。今朝でマタイの福音書二十一書が終わりますけれども、二十七章に至るまでまだまだこの週に起こった出来事を聞き続けるのです。ですから、来週は教会の暦では復活節になりますが、イースターの箇所ではなくて、マタイの二十二章の御言葉を聞くことになります。
それは、講解説教というスタイルで礼拝をする教会はどこでもそのように、ひたすらに順をおって主の御言葉を聞き続けることが大切だと考えるからです。なぜかと言いますと、そうすることによって、この福音書が私たちに語ろうとしていることが良く分かるからです。
今日の箇所もエルサレムに入られてからイスラエルの指導者たちとの論争の場面です。特に、先週この指導者の祭司長や民の長老たちが主イエスに問いかけた、「あなたは何の権威でこれらのことをしておられるのですか」という問いに対して主イエスが答えておられるところです。先週すでに聞きました通り、そこで主イエスは「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。」と反対に問いかけられました。そして、その問いに答えられなかったイスラエルの指導者たちに「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われたのです。
けれどもその後で、主イエスは三つのたとえ話をなさいます。その三つともがこの権威についての問いに答えておられるわけです。すでにその一つ目は先週聞きました。そして、今朝のところでは「ぶどう園と農夫のたとえ」と言われたり、あるいは「悪いぶどう園の農夫のたとえ」などと言われる主イエスのたとえ話です。

たとえ話というのは、普通は話を分かりやすくするために用います。私も礼拝の説教の中でたびたびたとえ話を用いますけれども、時々妻などに叱られるのは、あなたのたとえ話は話が深まらないでかえって意味が狭まってしまうなどと言われます。ホントに説教を聞いておられる方には申し訳ないと思うのですけれども、そのようにたとえ話を使うというのは、実は簡単なことではありません。ちょうどぴったりくるものでないかぎり、話の筋から離れてしまうことがあるからです。
しかし、主イエスのたとえ話というのはそうではありません。実に深いところに引き込むのです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書21章33-46節 「神の国の実を結ぶ国民に」

・説教 マタイの福音書21章23-32節 「何の権威によってか?」

2012.3.25

鴨下 直樹

安野光雅という絵本作家がおります。絵本作家というよりも画家と言ったほうが正確ですが、実に興味深い本を沢山書いておられます。この人の書いた絵本に「おおきな ものの すきな おうさま」というものがあります。ここで絵本の読み聞かせをしたいくらいですけれども、そういうわけにもいきませんので、少し絵本の内容をお話ししたいと思います。
むかしあるところに、おおきなもののすきな王さまがおりました。この王さまは何でも大きなものが好きなのです。大きなベットで休み、大きなナイフとフォークで食事をいただくといった具合で、何でもおおきなものでないと気がすみません。王さまは大きな鳥小屋をつくりますが、鳥が小さいのでみんな逃げていってしまいます。お城で釣りをしても、大きな釣り竿に大きな針をつけます。ですが、そんな大きな魚はいないので、兵隊たちが海からくじらを捕まえてきて、王さまの垂らしている糸の針に、捕まえてきたくじらのくちをくわえさせるのです。そんなある日、大きな植木鉢を用意します。そこにチューリップの球根を一つ植えます。そして、大きなチューリップがなるのを心待ちにするのです。春になってようやくこの大きな植木鉢にチューリップが咲きます。大きな植木鉢の真ん中に一つ小さなかわいいチューリップが咲いたのです。
話はこれだけです。この安野光雅さんは絵本の最後にあとがきを書きます。普通の絵本にはあとがきなんてありません。そんなものを書いてしまったら意味がないからです。ところが、この安野さんはあとがきを書く。そして、なぜこの絵本を作ろうと思ったかというきっかけを書いているのです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書21章23-32節 「何の権威によってか?」

・説教 マタイの福音書21章18-22節 「信じて祈れば何でも与えられる?」

 2012.3.18

鴨下直樹

 

 先日、妻からこんな話を聞きました。ある教会での出来事です。一人の信徒の方が祈りのことで、一言つぶやいたのです。「私はこれまで何度も神に熱心に祈り求めてきたけれども、一度も祈りが聞かれたことがない。これはやはり、私の信仰が足りないからでしょうか。」そう言って、周りにいた人たちに質問を投げかけたのだそうです。それで、その場に居合わせた人たちがこう言った。あなたは、どれくらい真剣に祈ったのか。素直に神様のことを信じることが大事なのだと言って、この方に説得しようとしたと言うのです。その会話を聞きながら、妻は、自分が先週と先々週にここで聞いた説教の話をしてきたのだそうです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書21章18-22節 「信じて祈れば何でも与えられる?」

・説教 マタイの福音書21章12-17節 「驚くようなことをなされる主イエス」

2012.3.11

鴨下 直樹

今日、三月十一日は昨年起こったあの東日本大震災からちょうど一年を迎えることになります。私たちはこの一年の間に、実に色々な生活の変化を経験してきました。地震への恐れと、同時に放射能への恐れのためです。こういう経験をしながら私たちはこの一年の間、苦しみの意味を問い続けて来たといってもいいかもしれません。それは、個人だけでなく、国全体が同じ問いの中に、今尚立たされていると言えます。
そういう中で、私たちは教会の暦でレントを迎え、今、この苦しみの意味というものについて聖書から考えようとしています。主イエスが苦しみに耐えられたということは、私たちにとってどのような意味を持つのかということを、この時、さまざまな問いとともに考えさせられているのです。
私たちは苦しみの状況に置かれると誰もが優しい言葉を聞きたいと思う。もう一度勇気をもって立ち上がることができるような御言葉を聞きたいと思う。しかしながら、今朝私たちに与えられている言葉は、まるでそれとは正反対の言葉です。

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・説教 マタイの福音書20章1-16節 「気前のよい主人によって」

2012.2.5

鴨下 直樹

昨日、教会で毎月第一の土曜日に行なわれております、ぶどうの木という俳句の会がありました。私はこれに出席することをとても楽しみにしています。特に、昨日の句会はとても心動かされれる句がいくつもありました。特に目立ったのは赤ちゃんのことを詠んだ句が多かったことです。そして、同時に家族を亡くした悲しみを読んだ句がその隣にならんでいます。いつも句会の時は一枚の清記用紙に七句ほど記された紙が回ってきます。その中から自分が良いと思った句を手控えに書き写しながら句を選んでいくのです。二月ということもあって、節分のことを読むもの、あるいは大雪のこと、家族のこと、実に色々な日常の生活の中から見たものを切り取っていきます。ですから、当然色々な句が並ぶのです。

けれども、赤ちゃんの誕生を詠んだ句の隣に、家族を亡くした悲しみの句があることを見て、あらためて、ここに来ている人たちの様々な生活のことを考えさせられます。みなさんそれぞれに様々な生活があります。そういう生活の中の言葉を聴きながら、私は牧師として祈らざるを得ないことを覚えさせられると当時に、この人たちの心に、今日、もっとも相応しい神の言葉が響くだろうか、神の言葉がその心に届くだろうか、そう考えさせられずにはいられないのです。

マタイの福音書の御言葉を聴き続けて三年目になりました。そして、今朝から第二十章に入ります。様々な主の言葉に耳を傾けてきました。その一つ一つの言葉が、みなさん一人一人の生活を築き上げる土台になっていると、そう信じます。そして、今日の御言葉もまた、私たちにとって、本当に聞き届けるべき大事な言葉であると思っています。
これは、ぶどう園の労務者のたとえ話と呼ばれているたとえです。話自体はそれほど複雑ではありません。一度聞けばその内容は良く分かります。ぶどう園の主人が収穫の季節になったために、労務者を雇ってぶどうの収穫をさせるという話です。
けれども読んでいきますと、首をかしげたくなってくることが書かれています。 続きを読む ・説教 マタイの福音書20章1-16節 「気前のよい主人によって」