2021 年 4 月 25 日

・説教 詩篇119篇129-144節「み言葉の戸が開かれると」

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2021.04.25

鴨下 直樹

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 今日の130節にこういう言葉があります。

みことばの戸が開くと 光が差し
浅はかな者に悟りを与えます。

 この詩篇119篇の中でも有名な言葉の一つです。このみことばが言おうとしていることは明らかです。聖書が分かるという経験は、まさに今まで真っ暗だったところが光に照らされていくという経験です。浅はかな考えが正されて、ものの道理が見えるようになるわけです。

 この130節のみことばは聖書が分かるということの意味を語っています。ある牧師は、「分かって分かる」と言いました。どうしても、聖書は頭では分かるんだけれども、なかなかその本当の意味というか、心にまで落ちてこないという経験は誰もがしているのではないかと思います。けれども、みことばが開かれて、そこに光が当てられると、その分かって分からないという部分が、分かって分かるようになるのです。

 では、その聖書の分からなさ、分からないという部分というのは、いったいどこになるのでしょうか。何が私たちの腑に落ちることを妨げているのでしょうか。色々なことがその背後には考えられます。

 今、私は名古屋の東海聖書神学塾で、「聖書解釈学」という講義を教えています。聖書をどう読むのか、その基本的な学びです。その学びの最初に、私は加藤常昭先生の書かれた『聖書の読み方』という本をテキストにして、講義のはじめの数回ですが、みんなで読んでいます。

 この本の中で、加藤先生が映画を見る時のことを例にあげて語っているところがあります。そこでは聖書の読み方のコツを語っています。泳ぎがうまくなかった加藤先生が、学校で一番早く泳げるようになったのは、泳ぎのコツをつかんだからだと言っています。ここで、その文章を少し紹介してみたいと思います。

「第一に、聖書の正しい読み方が身についていなければいけないということでしょう。速く泳げるようになるコツは、正しい泳ぎ方でなければならないのは当然です。聖書にはふさわしい読み方があるはずです。
ある人が映画をつくります。デザイナーが見に行って登場人物のデザインに感心したり、腹を立てたりしました。音楽好きの人は主題歌を一生懸命おぼえてきました。絵描きは色彩感覚の野暮なことでがっかりして、この映画はくだらないと言いました。外国の会話が上手になりたい学生は目をつぶって発音をできるだけ正確に聞きとろうとしました。
みんなそれなりに理由のあることでしょう。しかしそれだけで終わるのなら、だれもその映画を見たことになりません。はじめから見当ちがいだったのです。」

 そんなことを言っています。自分の楽しみたいように映画を見るということでは、映画をちゃんと見たことにならないわけです。それと同じように、聖書を読むときのコツというのも、まず、自分の興味から読み始めるのではないということです。当たり前と言えば当たり前のことなのですが、案外私たちが聖書を読もうとするときに、何かその一日の目標になる標語のような言葉を探してみたり、行動指針のようなものを探して聖書を読むということをしてしまいがちです。けれども、そのような自分の都合で聖書を読むということが、聖書が分からないという原因であるということに気づかされます。

 その本の中に、加藤先生が太宰治のことを紹介している文章があります。太宰治が死ぬ少し前に書いた「如是我聞」(にょぜがもん)という文章です。これは外国を旅した人が書く旅日記のことを語っている文章です。
 これも少し紹介してみたいと思います。

「私には不思議でならぬのだが、いはゆる『洋行』した学者のいはゆる『洋行の思い出』とでも言ったような文章を拝見するに、いやに、みな、うれしそうなのである。うれしいはずがないと私には確信せられる。・・・私は、かねがね、あの田舎の中学生女学生の団体で東京見物の旅行の姿などに、悲惨を感じてゐる。
 醜い顔の東洋人。けちくさい苦学生。赤毛布(あかげっと)(あかげっとというのは、上着のかわりに赤い布団を羽織って外に出たという、田舎者を揶揄する言葉のようです)。オラア・オツタマゲタ。きたない歯。日本には汽車がありますの? 送金延着への絶えざる不安。その憂鬱と屈辱と、孤独と、それをどの『洋行者』が書いてゐたらう。・・・
 みじめな生活をして来たんだ。さうして、いまも、みじめな人間になってゐるのだ。隠すなよ」

 これは、加藤先生の文章ではなくて、太宰治が外国に行った人の経験談を読むときのことを、ここで語っています。少し時代を感じる文章ですが、言おうとしていることはよく分かると思います。では、なぜ、加藤先生が、聖書の読み方を教える本の中で、この太宰治のことを言っているのでしょうか。外国に行った旅行記のようなものを書いても、その人の姿が見えてこない。楽しかったことや美しかった景色のことは、書かれていても自分のことが書かれていない。そんな自分の存在を無視したかのような文章が、自分をごまかしているのではないかという指摘です。それと同じように、聖書を読んでも、そこに自分のことを読み取っていかなければ聖書を読んだことにはならないということです。

 そこで加藤先生はこんなことを言っています。

「自分のことをしばらく捨てて聖書を読んでみるということは、聖書そのものがゆるさないのです。しかもこういうことが案外多いのです。」

 自分自身を聖書の中に読まないと、聖書は読めないのです。自分と関係なしに聖書を読んでも、それは聖書を読んだことにはならないのです。聖書というのは、私たちと深くかかわってきます。この聖書の中に、私たちのあるべき姿が示されているからです。 (続きを読む…)

2021 年 4 月 18 日

・説教 コリント第一 15章14節「イエス復活!」田中啓介

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2021.04.18

田中啓介

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2021 年 4 月 11 日

・説教 詩篇119篇113-128節「あなたのみことばのとおりに」

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2021.04.11

鴨下 直樹

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 先週の聖書の学びの時にみなで、今日の詩篇を読みました。私は少し別の用のために遅れてしまって終わりの方しか出ることが出来ませんでしたが、私の代わりにM長老が担当してくださいました。ずいぶん活発な意見を交わしていたようで、とても嬉しく思いました。その最後の方に、ある方がこういうことを言われました。

 「この詩篇の作者は、『私は公正と義を行います』と121節などでは言っていて、自分は正しいという正義の側にいるけれども、そんなふうになれるのだろうか」と言われた方がありました。

 今日の箇所を読んでいますと、そのように読めるわけです。冒頭の113節にもこう記されています。

私は、二心のある人たちを憎み、あなたのみおしえを愛します。

 二心のある人たち。神様とこの世、内と外、本音と建て前、そういう者の姿と考える時に、それは自分の姿ではないかという思いになるのであって、人のことを責め立てる側に立てるのだろうかという疑問です。

 先週の「ざっくり学ぶ聖書入門」で、ヨブ記を取り扱いました。ヨブ記を読んでいても、そんなところが何度も出てきます。「自分は裁かれるような悪いことをしていないのに、神はどうして私を苦しめるのか」そういうヨブの悲痛な訴えが何度もでてきます。

 ヨブの友達は、そういうヨブの言葉を聞きながら、そのヨブの考え方が傲慢なのだと訴えます。そして、何か悪いことをしているからそうなったのだと、因果応報を説くのです。

 ここでヨブ記の話をするつもりはないのですが、自分の正しさを訴えるという民族性というか、この時代の人々の考え方の中にそういう理解の仕方があるのかもしれません。こういう聖書を読んでいますと、時々、私たちとは感覚が少し違うと感じるのかもしれませんが、よくよく考えてみると、私たちにも人の行いを指摘したいという考え方は少なからずあるのだと思います。

 ただ、この方の指摘である、「自分は正しい側にいるという視点で悪い者を退けてくださいと祈れるのだろうか」という視点は、聖書を読むときに、聖書を正しく理解するきっかけになります。素朴な疑問を持つことが、聖書が分かるということに結びついていくのです。

今、私たちはこの長い、詩篇119篇から言葉を聞き続けています。とても長い詩篇です。全部で176節もあります。そのためにこうして、細かく区切って説教しています。しかし、この詩篇は本来ひとまとまりの文章ですので、やはり、いつも全体の内容を理解する必要があります。

 細かく分けていくと、この詩篇の内容が忘れられていってしまうのです。改めて、最初の1節から目を通して読んでいくと、様々な発見があります。そして、そこから見えて来る祈り手の姿というは、決して自分は正しいのだという視点にはいないということが見えてきます。主のおきての道を知りたい、自分が罪ある者として歩んでいきたくない、神の言葉に従って生きることが、どれだけ自分を救うことになるのかという祈り手の姿が見えてきます。それは、切実な祈りの言葉で、何度も何度も繰り返し語られています。

 各段落の冒頭の言葉だけを拾い集めてみても、その姿はよく分かります。

1節「幸いなことよ/全き道を行く人々/主のみおしえに歩む人々。」
9節「どのようにして若い人は/自分の道を 、清く保つことができるのでしょうか。」
17節「あなたのしもべに豊かに報い 向かい、私を生かし/私があなたのみことばを守るようにしてください。」
25節「私のたましいは/ちりに打ち伏してします。みことばのとおりに私を生かしてください。」
33節主よ あなたのおきての道を教えてください。/そうすれば 、私はそれを終わりまで守ります。

 このように、祈り手は必死になって神の御言葉に従いたいのだとい言う意思を明確にしているのです。

 以前、聖書学び会で、M長老が、この祈り手はエレミヤのようではないかと言われたことがあります。聖書を解説する人の中にもそのように言う人もいます。
少し前の85節で「高ぶる者は私に対して穴を掘りました。/彼らはあなたのみおしえに従わないのです。」という言葉があります。

 そこの箇所を読んだ時に、すぐにM長老はエレミヤのことが出て来たのです。エレミヤは穴の中に落とされて捕らえられたことが、このみ言葉を目にした時にすぐに思い浮かんで来たのです。私は、この祈り手はエレミヤのような人ではなかったかというM長老の指摘を聞いて、それ以来、この詩篇を読むときにエレミヤのような人の祈りとして読んでみるということを意識するようになりました。そうすると、不思議とこの祈り手の信仰が見えてくる気がするのです。

114節

あなたは私の隠れ場 、私の盾。
私はあなたのみことばを待ち望みます。

 祈り手はここで、そう祈っています。

 ここで、この詩篇の祈り手は、明確な敵の姿が見えています。そして、その敵から主が私を守ってくださるお方だということを、みことばからよく知っているのです。それはエレミヤの姿とも重なるようにも思えます。ただ、こうやって聖書を読んでいきますと、確かにエレミヤには明確な敵がいました。エレミヤの預言をないがしろにして、落とし穴まで掘って語らせないようにしようとした人たちがいたのです。

 そこで、考えるのです。確かに、エレミヤには明確な敵の姿がありました。しかし、現代に生きる私たち信仰者の敵とは何でしょうか? 誰なのでしょうか? 私たちはいったい何と戦っているのでしょうか。そんなことを考えさせられます。

116節と117節でこう祈っています。

あなたのみことばのとおりに、
私を支え 、生かしてください。
私の望みのことで
私を辱めないようにしてください。
私を支えてください。
そうれば私は救われ 絶えずあなたのおきてを
見つめることができます。

 私の敵とは何だろうか。何から救われることをも願っているのでしょうか。そう考える時に、今の私には一つの答えしか出てきません。それは、「私の敵は、私だ」ということです。この箇所を読んでいると、改めて、気づかされるのです。主の御前で、自分自身を恥じるしかないことに。この詩篇の祈り手のように、人をさばけるような立場に自分がいないことを意識せざるを得ないのです。

 人をさばくどころか、反対にどんどん怠惰になっていく自分の姿に気づくのです。毎日毎日、それなりに生活して、それなりに事が進んで行くうちに、ああ、これでうまく行くんだからこれでいいのだと考えてしまっている自分の姿に直面させられるのです。

113節

私は 二心のある人たちを憎み
あなたのみ教えを愛します。

 ここを読むと、私はそう祈れるのか。自分に二心があるのではないのか。「あなたのみ教えを愛します」と言えるのか。自分は主のみ教えを損なっているのではないのか。そんなふうに思えて仕方ないのです。

 だから、最初にお話しした、祈祷会で「祈り手が人をさばける立場に自分を置けるのだろうか」と、発言された時に、私自身もハッと気づかされたのです。この祈り手と自分は、同じところに立っているのではない。そのことを認めざるを得ないのです。

119節にこう書かれています。

あなたは 、地の上のすべての悪しき者を
金かすのように 取り除かれます。

 面白い言葉です。金属加工をしておられるY長老が面白がられりそうな言葉です。金属を加工するときに、金かすが出でます。今ならばそれは捨てられてしまうのでしょう。けれども、その金かすはきっとこの時代にはもう一度炉に入れられて、金属になったるのでしょうか。あまり詳しくないのですが、そのくらいの想像はできます。

 神にとって、悪しき者は金かすのように削り取られ、捨てられて、やがて熱い火の中に投げ入れられる。それが、私たちの姿なのかもしれません。

 祈り手は、もちろんそうではない神の側につく者として祈っているのですが、今の私に迫ってくるのは、そうして裁かれる者の姿です。

120節

私の肉はあなたへの恐れで震えています。
私はあなたのさばきを恐れています。

 神の側にいる者だとしても、主への恐れを持ち続けているのです。神は、悪しき者を金かすのようにするということが、よく分かるからです。

 だからこそ、116節、117節のような祈りになるのです。

あなたのみことばのとおりに
私を支え 生かしてください。
私の望みのことで
私を辱めないようにしてください。
私を支えてください。
そうれば私は救われ
絶えずあなたのおきてを
見つめることができます。

あなたのみことばのとおりに、私を支え、生かしてください。

 これは、私たちの切なる祈りです。神の言葉のとおりに生きていない。けれども、主のみ言葉のとおりに生きたいのです。そのために私を支え、私を生かしてください。これが、私たちに共通する祈りの姿だと思うのです。

 この願いは、自分の弱さと戦っている小さな信仰者でも、エレミヤのような主の傍らで語ろうとする預言者であっても共通する祈りの姿です。

 この祈り手は1217節からこう祈っています。

私は公正と義を行います。
私を虐げる者どもに 私を委ねないでください。
あなたのしもべの幸いの保証人となってください。
高ぶる者が私を虐げないようにしてください。

 祈り手は、願うのです。敵が、私を支配することが無いようにと。そして、私の幸いの保証人になって欲しいと。

 私たちの敵とは何でしょう。私たちを神から引き離そうとするものはなんでしょう。自分自身のどんな思いが私の敵となっているのでしょう。私たちはそのことをしっかりと見据えなければなりません。主が幸いの保証人となってくださる。そうだとすれば、主の願う幸いを知らなければなりません。自分の願う幸いではないのです。主の願う幸いです。この自分の願う幸い、この願いが私たちを神の願いから引き離してしまう、私たちの敵となり得るのです。

 126節ではこう祈っています。

今こそ主が事をなさる時です。
彼らはあなたのみおしえを破りました。

 今こそ、神の介入がなされるべきだ。私の敵は、主のみおしえを破ったのだから。そう祈っています。厳しい祈りです。激しい祈りです。律法を破る、神の約束を踏みにじる。その時、神が介入なさるべきだという祈りです。

 とても人間的な願いです。不正を行えば暴かれるべきだとい言うのです。神のさばきが行われるべきだというのです。

 しかし、ヨブ記にもあります。ヨブもそう語ったのですが、この世界には不正をする者が満ちていて、その者は裁かれることもなく楽しそうに生きている。かえって貧しい者、虐げられている者がも、特に顧みられることもないままにいるではないか。そんなヨブの叫びがあります。それも、一つの見方です。

 単純に、悪いことをしたものが、裁かれ、虐げられているものに、主の目が注がれるという、善悪がはっきりと分かるほど、単純な世界に私たちは生きていないのです。けれども、この祈りのように神が裁いてくださるかどうかは分からなくても、そう祈ることがゆるされているのです。神の義が行われて欲しい。それが、神の前に誠実に生きようと願う者の祈りの姿でもあるのです。

 悪い者が裁かれ、誠実な者が祝福される。そんな世界ならなんと分かりやすいことでしょう。しかし、私たちが生きている世界は実に複雑なのです。ただ、はっきりしていることがあるのです。そして、この祈り手はそのことを切に祈り求めています。二つの祈りです。

 1つは、118や119節にあるように、主のみことばに耳を傾けない者を、主は退けられるということ、悪しき者は金かすのように取り除かれるということです。
 そして、もう一つは127節にあるように、主の仰せは金よりも、純金よりも価値があるのだということです。

 結局のところ、この世界で幸いに生きられるかどうかは、主の言葉に価値を見出すかどうかにかかっているということです。

 神の言葉か、それ以外か。この、それ以外のものが、私たちを支配しそうになるのだとすれば、それは、神の敵となるのです。しかし、神の言葉の中に、幸いがあるのです。この言葉、神の言葉が、どれだけ人を幸せにするのか、神の言葉にどれほどの価値があるのか、この祈り手はよく知っているのです。

 この祈り手は、この詩篇119篇の中で、何度も何度も自分の弱さを口にします。自分が虐げられていること、自分が打たれ倒れこんでしまっていること、敵に狙われていること、悲しみに呑飲み込事まれてしまっていること。この詩篇119篇を読んでいくと、いくつもそういう言葉を見つけ出すことが出来ます。

 神は、自分の罪を言い表すもの、自分の弱さを知る者、自分を主の前にさらけ出し、自分を隠そうとすることをやめる者に、主は語りかけてくださるお方なのです。まさに、そのような弱さの中で、人は神の言葉を聞き、神と出会っていくのです。

 主は隠れ家となってくださるお方です。主は盾となってくださるお方です。主はみことばの通りに生かし、支えてくださるお方なのです。

 そういう主を知ること、主との出会いが、神のことばの中にはあるのです。

お祈りをいたします。

2021 年 4 月 4 日

・説教 詩篇119篇97-112節「あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 04:47

2021.04.04

鴨下 直樹

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 イースターおめでとうございます。今日は、主がよみがえられたことを共に喜ぶイースター礼拝です。このイースターの礼拝で、洗礼入会式と、転入会式を行うことができるのはとても幸いです。

 このコロナ禍にあって、どこの教会もそうだと思いますが、なかなか伝道が思うようにできません。いわゆる伝道的な集会はことごとく休会となっています。そんな中で、55プラスに集っておられたMさんが、信仰告白をし、洗礼を受けることになりました。今、この場にはおられませんが、55プラスをはじめられたマレーネ先生もとても喜んでおられると思います。

 55プラスというのは、毎月一度ですが、55歳以上の方が集いまして、マレーネ先生が作ってくださるドイツのお菓子とコーヒーなどをいただきながら、テーブルごとに座られた方々と、しばらく歓談を楽しんだ後で、一人ずつ毎回異なるテーマが与えられていて、そのテーマについて参加された方々が自由にお話をするという集いです。そして、最後にマレーネ先生がその時のテーマに基づいた聖書の話をしておられました。

 Mさんは、そこでマレーネ先生が語られるメッセージを聞くうちに聖書に関心を持つようになって、インターネットで聖書の学びをされたそうです。

 聖書が何を語っているのかという事に、少しずつ心がひかれていったのです。

 今日、転入会されるSさんも、クリスチャンの友人が与えられて、そこから教会に集うようになり、やはり礼拝で語られる説教に心惹かれるようになって信仰に導かれた方です。

 今日の詩篇119篇の105節に、こういうみことばがあります。

あなたのみことばは 私の足のともしび
私の道の光です。

 おそらく、この詩篇119篇の中で最も有名なみ言葉といっていいと思います。Mさんも、Sさんも、自分の歩むべき人生の道の光として、聖書の光が必要だという事に気づかされていったのだと思います。これからの人生の道を示す指標として、その道を照らす光は聖書なのだということを知ったのです。

 暗い森の中を歩くという経験は、今の日本ではあまりないのかもしれません。けれども、想像することはできると思います。森を歩いていて進む方向が分からなくなるのは、太陽の位置が分からなくなってしまうからです。そうなると、自分がどちらの方向に進んだらいいのか分からなくなることがあります。よく知った森の道ならまだ大丈夫なのかもしれませんが、見知らぬ土地であればなおさらです。そんな道を進んでいる時に、民家の光が見えてきたらもうそれはホッとするに違いありません。自分の進んで来た方向は間違いではなかったということが分かる時でもあります。

 みことばは私の足のともしび、それは足元を照らす光でありながら、私たちに安心感をあたえるものでもあるのです。 (続きを読む…)

2021 年 4 月 2 日

・受難日礼拝説教「わが神、わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」マタイの福音書27章32-50節/詩篇22篇1節

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 20:45

2021.04.02

鴨下 直樹

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 十字架の上で主イエスが語られた、「十字架の七つの言葉」と言われるものがあります。

 最初の言葉は主イエスが十字架につけられた時に兵士たちに言われた言葉です。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

ルカの福音書23章34節です。

 二番目の言葉は、一緒に十字架につけられて悔い改めた強盗に言われた言葉、

「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

ルカの福音書23章43節です。

 三番目は、弟子のヨハネに母マリヤの事を頼んだところです。

「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」

そして、ヨハネに対しては

「ご覧なさい。あなたの母です」

と言われました。ヨハネの福音書19章の26節と27節です。

 そして、四番目が今日の個所です。それが

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」

です。

 その後の五番目は死の直前に言われた言葉で

「わたしは渇く」

というヨハネの福音書19章28節のみことばです。

 そして、六番目が、その後の言葉で

「完了した」

と続く30節のみことばです。

 最後の言葉は、ルカの福音書23章46節にある

「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」

という言葉です。

 こうして見ると、マタイは、主イエスの十字架の七つの言葉の中でも、この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」という言葉だけを選んでいるということに気づかされます。

 少しマタイの福音書で、この場面がどのように記されているか見てみたいと思います。
まず、45節にこう記されています。

さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。

 三時間に及ぶ闇です。先週、黄砂が中国から飛んできて、なんとなくですが、空が白くなっていたことに気づいた方も少なくないかもしれません。けれども、自然現象で視界が悪くなったとしても、遠くの山が見えなくなるというようなくらいで、闇とまではいきません。以前、金環日食というのがありましたけれども、あの時、この地域は天気が悪くてあまり見えませんでしたが、綺麗に指輪のように太陽の光を月が隠してしまったことがありましたが、その時に、それほど印象に残る出来事とはなりませんでした。それでは太陽が完全に月に隠れる皆既日食というのは、どんなくらいなのかと思ってネットで見てみたのですが、空全体はほとんど変わらないようです。特別なグラスをかざして、太陽を直接見ると分かるという程度です。

 何も、別にここでこの時の闇を科学的に解説したいわけではないのですが、マタイがここで伝えようとしているのは、主イエスが十字架にかけられた時、闇が支配していたということです。

 光がなくなってしまったのです。一切の希望が見出せなくなった。そして、その時に、主イエスはこの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれたのです。「わが神 わが神 どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という詩篇22篇の一節の言葉を、自分の叫びの言葉として語られたのでした。

 十字架の七つの言葉の中でも、この言葉は四番目、つまり一番中心にくる言葉です。この言葉の中に、主イエスの十字架の意味が詰まっていると言えます。 (続きを読む…)

2021 年 3 月 28 日

・説教 詩篇119篇81-96節「みことばを慕い求めて」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:24

2021.03.28

鴨下 直樹

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 今週から受難週に入ります。金曜日には受難日を迎えます。今、詩篇119篇のみことばを順に聞き続けていますが、今週はまさに受難週にふさわしい箇所といえるみことばが私たちには与えられています。

冒頭の二節にこう記されています。81節と82節です。

私のたましいは あなたの救いを慕って
絶え入るばかりです。
私はあなたのみことばを待ち望んでいます。
私の目は あなたのみことばを慕って
絶え入るばかりです。
私は言います。
「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」 と。

 同じような言葉が二回繰り返されていますが、少し内容が違っています。そして、その違っているところに目を留めると、この祈り手の背後にあるものが見えるようになってきます。

 祈り手は、魂から、その存在の奥底から主の救いを求めています。そして、その救いを求めると言っている言葉を、その後で、「あなたのみことばを待ち望んでいます」と言い換えています。

 つまり、救いが自分にもたらされるというのは、みことばのことだと言っているわけです。続いて記されているところに目を向けると、「私のたましい」と最初の81節にあったのが、「私の目」と言い換えていることに気が付きます。私の目がみことばを慕っているのです。

 つまり、祈り手は、みことばを目にすることができないような状況に、長い間置かれているということが分かるのです。聖書がない。みことばを目にすることができない。そういうみことばに対する飢え渇きを、祈り手は覚えているのです。

 礼拝で手話通訳をしてくださっていました、K兄が年末に脳溢血で倒れて、今も病院で入院生活が続いています。それは、本当に寂しいことです。今、必死にリハビリを励んでおられます。

 もう、一月ほど前でしょうか。妻のLINEにK兄から短い文章が届きました。そのメッセージに「みことば」と書かれていました。
 まだ、なかなか自由がきかない手で、必死に送った文章です。みことばが欲しいということなのでしょう。それから、教会のみなさんも、K兄にいろんなみことばを送ってくださっているようで、本当に嬉しい思いがしています。しかし、特にK兄がまさにみことばを慕い求めている姿に、感動を覚えるのです。

 もう入院されて三カ月たつのですが、オンラインの礼拝もできていないかもしれないと思いまして、先週から礼拝説教の原稿を送るようにしました。そうしたら、「よぶきもほしい」という返信が来ました。全部ひらがなです。

 先週、予定でヨブ記の話をするのを知っていて、その原稿も送ってほしいと言われたのです。残念ながら、先週はヨブ記をすることができなかったので、ヨブ記の原稿を送っていないのですが、本当にみことばを慕い求めているのだということが伝わってきます。みことばが、困難な生活の中で、心の支えになるということをK兄は知っているのです。

 この詩篇の祈り手はバビロンにいるのでしょうか。神殿もない、みことばもない、自分たちに残されているのはユダヤ人であることを示す割礼だけというような状況にあって、みことばに対する飢え渇きを覚えているのです。
 そして、「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」と主に訴えているのです。いつ、みことばが聞けるのですかという訴えです。 (続きを読む…)

2021 年 3 月 21 日

・説教 詩篇119篇65-80節「苦しみにあったことは私の幸せ」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:24

2021.03.21

鴨下 直樹

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 詩篇119篇の71節にこういう言葉がありました。

苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。
それにより 私はあなたのおきてを学びました。

 苦しみの経験というのはできればしない方がいいに決まっています。しかし、この詩篇の祈り手は、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」と言えることを経験したのでした。苦しみによって、神のおきてを学ぶことができたのだと言っているのです。神のおきて、神のお考えを学ぶということは、それほどに重要な意味を持っているというのです。

 ただ、私たちにとって、何か悪いことが身に降りかかると、それにはどんな意味があるのだろうかと、その意味を何かしら信仰にからめて読み取ろうという気持ちというのは、私たちに少なからずあると思います。けれども、多くの場合、そこに意味を見つけ出すことはできないという事がほとんどです。すべてのことに、何か意味を見つけようとしたり、どれもこれも、神さまのせいだと考え始めると、きっと私たちは信仰の歩みをすることが困難になってしまうのではないでしょうか。

 今日の詩篇は、そのことを考えるきっかけにもなりそうな箇所だと言えるかもしれません。

先週の〈ざっくり学ぶ聖書入門〉で「エステル記」を学びました。このエステル記に記されているエステルがした経験というのは、まさに、このみ言葉に記されているような経験だったということができるのかもしれません。

 ペルシャのクセルクセス王の時代の出来事です。王妃ワシュティがクセルクセスの宴席に呼ばれたのですが、自分は見世物ではないと出席を拒みます。それでこの王妃は退けられてしまい、新しい王妃が選ばれることになります。そこで王妃に選ばれたのがエステルでした。エステルはユダヤ人でしたが、そのことを隠していました。ある時、新しく大臣に就任したハマンは、門番でエステルの育ての親であるモルデカイが自分を敬わないことに腹を立て、ユダヤ人虐殺の命令を、クセルクセス王に出させてしまいます。その命令のためにユダヤ人は、断食をして悲しみます。その時に、エステルの育ての親であるモルデカイは、エステルに、自分は王妃だから助かると考えるのではなくて、この時のために王妃に選ばれたのかもしれない。だから、王にこの計画を中止するように頼みなさいと告げます。しかし、この時代の王妃というのは、勝手に王の所に近づくことはできませんでした。許可なく近づくと、殺されてしまうこともあり得たのです。それで、ユダヤ人たちに、三日間断食して、自分のために祈ってほしいとエステルはみんなにお願いします。そして、その結果、ユダヤ人たちもエステルも助かるという経験をするのです。

苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。
それにより 私はあなたのおきてを学びました。

 エステルは同胞のユダヤ人たちが、皆殺しにあうかもしれないという危険を経験し、自分がそれを取りやめるよう王に求めたら自分が殺されるかもしれないという危険の中で、その計画を取りやめるよう王に求めます。そういう経験が、「私にとって幸せ」とは、なかなか言えるものではありません。しかし、すべてが終わってみると、まさにそのことのゆえに神のおきてが明らかになるということがあるのです。

 ただ、多くの場合、苦しみの意味という事を考えると、そんなに簡単にはいきません。聖書の出来事になるようなことと、自分の日常のこととは同じだとは考えにくいのです。 (続きを読む…)

2021 年 3 月 14 日

・説教 詩篇119篇57-64節「主は私の受ける分」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:09

2021.03.14

鴨下 直樹

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 昨日のことです。私が関わっております、東海聖書神学塾から一通の郵便が届きました。なんだろうと思って、封を切って見ましたら、私の顔の載ったチラシが入っていました。びっくりして、すぐに封筒の中に戻しました。あまり見たいものではありません。

 実は、毎年4月から神学塾が、牧師のための継続教育のために、アドヴァンスコースというのをやっております。毎年、一人の講師を立てまして、ひと月に一回、4時間くらいの牧師のための講義をしてもらっているのです。実は、昨年も名古屋のある教会の先生にこの講師を頼んでいたのですが、コロナウィルスのために一年間、このアドヴァンスコースを開催することができませんでした。そして、今年こそはお願いできないかと思いまして、その先生にお願いしたのですが、断られてしまいました。

 それで、誰か新しい講師を探さなくてはならないのですが、今年もしばらくコロナが続くだろうということで、講座を設けてもおそらくあまり参加者がいないので、講師のなり手もいないわけです。それで、誰かが責任をとらなくてはならないということで、一番被害の少ない教務主任でもある私が選ばれたわけです。

 そのチラシに講師紹介を書く必要があるわけですが、私にはそこに書かれて華があるような立派な経歴は何もありません。優秀な学校を卒業したわけでもありませんし、本を書いたこともありません。せいぜい、趣味はキリスト教美術鑑賞と古書集め、あとは犬の散歩と書くのがやっとです。

 事務の方が私の紹介記事を見まして、「パッとしませんねぇ」と言いました。それでも、何か出てくるわけでもないので、「適当にチラシを作ってください」とお願いしましたら、私の写真を大きくしまして、「このくらいしかできませんでした」と言われました。

 そんなチラシです。ですから、まじまじと見るものでもなく、すぐに封筒に押し込めたわけです。

 別に、自分を卑下しているわけでもなんでもなくて、自分の過去を振り返って見まして、それなりに歩んできたと思っているのですが、他の人がそれを見て、うっとりするようなものは、何もありません。頑張って探しても、本を沢山集めていますと書くのが精いっぱいです。

 今日の詩篇の詩人も、ここで自分を振り返っています。私たちも時々そういうことがあるのではないでしょうか。自分の歩んできた道のりを振り返ってみる。そうすると、なにかパッとしなくて、がっかりするという思いになることはないでしょうか。もっとも、そうではなくて、今まで本当にさまざまな道のりを歩んでこられて、感慨深い思いになる方も皆さんの中には少なくないのかもしれません。

 今日の59節にこう書かれています。

私は 自分の道を顧みて
あなたのさとしの方へ足の向きを変えました。

 この詩篇の作者は自分の歩んできた人生の道のりを振り返っているのです。あるいは、61節にはこういう言葉もあります。

悪しき者の綱が私に巻き付いても
あなたのみおしえを 私は忘れませんでした。

 どうも、詩人は悪しき者たちの綱にまかれるような状況に置かれているのだということが、ここから分かって来ます。そこから見えてくるのは、やはり、この詩篇の背景には、バビロン捕囚のような状況があったと考えるべきだと思うのです。もちろん、バビロン捕囚といえば、ユダの地からバビロンに連れていかれた時は、綱にまかれていたかもしれませんが、バビロンの地ではかなり自由にふるまうことが許されていました。今でいう、鞭で打たれる奴隷のような状況を想像しがちですが、そこまで厳しいものではなかったようです。

 けれども、そうなってしまったのは、自分たちの歩んできた生き方に要因があるのは間違いないのです。それで、59節では、その自分の足の向きが、それまでは自分の向きたい方向を向いていたのを、その方向を、主の方へ、神の言葉を求める方へと、方向を変えたのだということを、ここで言おうとしているのです。

 そして、今の状況、綱にまかれるような状況であったとしても、主の教えを忘れるようなことはしないのだと言えるようになってきているのです。
 

 今日の詩篇の冒頭にこんな言葉があります。

は私への割り当てです。

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2021 年 3 月 7 日

・説教 詩篇119篇49-56節「悩みの時の私の慰め」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:58

2021.03.07

鴨下 直樹

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 『百万人の福音』というクリスチャンのための情報雑誌があります。そこで俳句のコーナーの選者をしてみえます辻恵美子さんは、皆さんもご存じですが、この芥見の教会員です。昨年、恵美子さんは、選者をされるようになって五年経ったということもあって、皆さんから投句された信仰の俳句をまとめられて、一冊の本を出されました。『合同俳句集 野の花 空の鳥』というタイトルです。とても素晴らしい句集です。この本は昨年出版されたのですが、すぐにコロナウィルスの問題が起こってしまい、なかなかこの本のことを紹介することができないまま、もう一年がたとうとしています。しかし、岐阜県の緊急事態宣言も先日解除されましたし、もういいだろうと思いまして、今日は、少しこの本のことを紹介したいと思っています。

 昨日も、「ぶどうの木句会」という句会がこの私たちの教会で行われました。この句会は毎月行われております。コロナも少し落ち着いてきましたので、今はこの集まりも再開されております。その句会でどんなことをするかといいますと、句会に集まって来る人は、その季節の俳句の季語を使った俳句を5句出します。その自分の俳句を、短冊に書きまして、一つの短冊に一句書かれているものを、人数分で分けます。そうやって配られ、自分に割り当てられた俳句を、それぞれの参加者が清記用紙という紙に書き写していきます。そうすることで、この俳句を誰が書いた俳句か筆跡を分からなくするわけです。

 一枚の清記用紙には、四句か五句の俳句が書かれているのですが、その清記用紙を、参加者に順番に回していきまして、自分が気に入った俳句を、自分の選句用紙という紙に書き写していきます。そして、その中から、出席人数によって変わるのですが、自分がいいなと思った俳句を五句とか六句と選んでいきまして、最後に発表していくのです。そして、自分が選んだ中でも一番いい俳句だと思った特選の俳句を選びます。

 こうやって、それぞれが選んだ句を司会者が読み上げる時に、その読まれた句が、自分が書いた俳句であれば、自分の俳句が読まれた人は「だれだれ」と名乗りをあげます。そこで、はじめて、その俳句を書いた人が誰か分かるようになっているのです。

 ちなみに、昨日の句会で、私が特選に選んだ俳句はこういう俳句でした。

「みちゆきの一絵一絵や春日影」

 これは辻恵美子さんの俳句でした。

 「みちゆき」というのは、先日の説教でもお話ししましたが、カトリック教会の壁に掲げられている主イエスの十字架までの道行きを描いた絵のことを指しています。おそらく、どこかのカトリックの教会を訪ねられたのでしょう。今はレントですから、まさにこのみちゆきを見ながら、主イエスの十字架の苦しみのお姿を心に刻むわけです。そうやって、一絵一絵というのは、みちゆきとして描かれた一枚一枚の絵ということですが、その絵に春の日差しが差し込んでいるというのです。

 「春日影」というのは、私も知らなかったのですが、日の光を指す季語のようです。けれども、この影という文字に私は、十字架の重さを感じました。同時に、けれども、その影は重い影を落としているのではなく、光なのだという意味だったのです。

 私は、これはいい俳句だと思いまして、この俳句を特選に選びました。わずか17文字で、これだけのことを表現できるわけです。昨日は、他の方の俳句もたくさん見たのですが、私の心がなかなか重くて、言葉が私の中に届いてこない、そんなことを感じているなかで、この俳句は私の今の心のありかたを教えてくれるような思いで、とてもいい俳句だと思ったのです。

 俳句を選ぶというのも、なかなか難しいものです。その人がその俳句で伝えたいと思っているものが、なかなか読み取れないという読み手の想像力の貧しさもあるでしょう。季語の持つ意味の深さが分かればわかるほど、その言葉を読み取る力も付くのだと思いますし、俳句を作る時にも、自在にその季語を使えるようにもなるのだと思います。

 こういう俳句が、この「野の花 空の鳥」という本の中には満ち溢れています。一句一句とても味わい深い俳句ばかりです。芥見教会の方々の俳句も何句か載っております。ぜひ、手に取って読んでいただきたい本です。もうちょっと宣伝すると、恵美子さんから買い求めることもできますが、いのちのことば社の通販用のサイトでも取り扱っておりますので、そこから注文することもできると思います。

 今日、この牧師は俳句の話からはじめて、どうしたんだろうと思われる方もあるかもしれません。今、まさにお話したように、俳句を読み取るというのは簡単なことのようでありながら、たくさんの俳句に触れれば触れただけ、想像力が働いて、深く読み取ることができるようになると思うのです。

 なぜ、こういう話から始めたかと言うと、今日の詩篇のテーマは「悩み」です。 (続きを読む…)

2021 年 2 月 28 日

・説教 詩篇119篇41-48節「王たちの前で」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:22

2021.02.28

鴨下 直樹

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よ あなたの恵みが私にもたらされますように。

 今日の詩篇はこのような言葉からはじまっています。

 「恵み」という言葉は、聖書の中に何度も出てくるとても大切な言葉です。この言葉のヘブル語は「ヘセド」と言います。もう、何度もこの言葉について語ってきました。「慈しみ」と訳されることの多いこの言葉ですが、この言葉の中には、神のさまざまな思いが詰まっているのです。

 旧約聖書の中に、ホセア書という預言書があります。この預言者ホセアは、主に従って姦淫の女ゴメルを妻に迎えます。二人の子どもが生まれますが、ホセアはこの妻ゴメルとの関係に悩みます。何度も何度も夫を裏切り、不貞を働くのです。ホセアはこの妻のために非常に苦しむのです。しかし、主はこのホセアにこう語ります。ホセア書3章1節です。

夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。

 主は、ホセアに愛とは何かということを教えられながら、神ご自身がイスラエルの民をどのように愛しておられるのかを、妻ゴメルを愛するということを通してホセアに示そうとされました。

 そして、6章の6節にこう記されています。

わたしが喜びとするのは真実の愛。
いけにえではない。

 ここで語られている「真実の愛」と訳された言葉、この言葉が「ヘセド」です。この出来事は、今日の詩篇で恵みと訳されているヘセドという言葉の意味をよく表しています。

 カトリックの雨宮慧という聖書学者がおられます。この人は実に多くの本を書いているのですが、その雨宮慧の代表的な本で『旧約聖書のこころ』という本があります。この本は、旧約聖書を代表するさまざまな言葉の解説を丁寧にしてくれている本なのですが、この中に、ヘセドについて書いている文章があります。そこにこんなことが書かれています。

「ヘセドとは、親と子・友人同士など、人と人を結ぶきずなのことであるが、このきずなには二つの側面がある。一つは両者を結ぶ愛であり、他はその愛に対する誠実さである。」

 それぞれの関係を結ぶきずな、これがヘセドなのだと説明しています。そして、そのきずなには二つの側面があって、愛と誠実さによってあらわされるきずななのだと説明しているのです。預言者ホセアと妻ゴメルの中に生まれるきずなというのは何かというと、相手がたとえ自分を裏切ったとしても、その相手に対して誠実さで、その愛を示すのだというのです。

 ですからこのヘセドという言葉は、「慈しみとまこと」という意味だと雨宮先生は説明しています。あるいは、このホセア書に書かれているように「真実の愛」ということもできるわけです。

 また、更にはこの「ヘセド」には契約という要素が深く結びついている言葉で、ヘセドをもってする交わりのことを契約と言うのだと、雨宮先生はその本の中で説明しています。契約と言うのは約束ですから、その愛の関係は途中で途絶えることなくずっと続いていくのです。

 「主よ、あなたのヘセドがわたしにもたらされますように」これが、今日、私たちに与えられているみ言葉です。

 主の真実な愛が私にもたらされるように、主の慈しみと誠実さが、私にもたらされるように、主と私の間にあるきずなが、ちゃんと築かれていますように。そして、その言葉の後に、「あなたの救いが みことばのとおりに。」と続くのです。

 み言葉に語られているように、主のヘセドによる、慈しみによる救いが私にもたらされるようにと、ここで祈り手は願っています。神の言葉は、まさにその神との間にきずながしっかりとあって、そのきずなを結んだ関係である神の民のことを、たとえ相手が裏切るようなことがあったとしても、神は真実な愛で、私たちに救いをもたらしてくださるというのです。 (続きを読む…)

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