2022 年 5 月 8 日

・説教 ローマ人への手紙12章3-8節「一つのからだなる教会」

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2022.05.08

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 最近、いろいろなところで言われる言葉があります。「芥見キリスト教会っていろんな賜物を持っている方がいるんですね」

 私自身本当にそう思います。みなさんのことをひとりひとり自慢して回りたいくらいです。

 先週、私は一冊の本を頂きました。Fさんの「詩集 大地青春」という農民文学賞を取られた時の本が、出版されたということでした。実は、その少し前にもOさんがご自分の俳句集をまとめられたものを頂きました。また、先日Kさんの小説「あなたはどこにいるのか」が春秋社から出たばかりです。

 俳句の先生がおられたり、画家がおられたり、指揮者がおられたり、先生と呼ばれる人が数多くおられます。あるいは、新しいものを開発されて注目される方があったりして、紹介しきれないほどユニークな方々ばかりです。私たちはお互いのユニークさについてお互いに喜び合うことができます。

 けれども、その一方で、自分にはそんな賜物はないのでと思われる方もあるのではないかと思うのです。

 私がこの教会に着任した時、すぐにみなさんのところを家庭訪問させていただいたことがあります。その時に、教会に来られなくなった方のところを訪ねると、その方がこんなことを言われました。「この教会は立派な方ばかりで、教会に行くと自分には何もないので、教会に行くのが苦しくなります」。

 私はこの方の言葉を忘れることができません。人とつい比較してしまう。そして、人をうらやんだり、自己憐憫に陥ってしまったりすることがある。それも、私たちの一つの姿であると言わなければなりません。

 パウロはこのローマ書の12章で、具体的な私たちの信仰の歩みのことを語っていきます。そこで、自分を神にささげて生きることが礼拝だと勧め、神の御心を知って新しく生きるように求めました。そこで、パウロは続いてこう言ったのです。3節です。

私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。

 パウロはここで具体的なことを語り出します。「あなたがた一人ひとりに言います」というのは、教会の一人ひとりにという意味です。教会に生きる私たちに、みな同じように言っておきたいのは、「思うべき限度を超えて思い上がってはいけません」と続くのです。

 そう聞くと、少し私たちは肩透かしを食らったような思いになるかもしれません。思い上がれるほど、自惚れてはいない。むしろ、自分はダメだなと思う方が多いので、この言葉はあまりピンとこないという思いがあるかもしれません。

 もちろん、これは個人差があるかもしれません。私は時々「鴨下先生って変に自信がありますよね」と言われることがあります。「変に」ってなんだ? と思わなくもありません。ただ、そういう見方をすれば、思い上がっているタイプの人間に私は分類されるかもしれません。あるいは、その反対で、自分のような人間はダメでという思いになる方も少なくないと思います。

 ここに、「神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて」という言葉が続きます。どういう意味か、いろんな理解があるようですが、「神が各自に分け与えた」とありますから、神が私たちの教会の一人ひとりに分けてくださったという意味です。一つのものをみんなで分けあっているわけです。その分けられた量りに応じて、「慎み深く考えなさい」と勧めているのです。岩波訳の聖書では「慎み深さに導く思いを持つべきである」となっています。

 その「慎み深さ」って何かということになるわけですが、カトリックのフランシスコ会訳では「自分を評価し、程よく見積もるようにしなさい」と訳されています。

 つまりここでパウロが言っているのは、高慢になるなということと同時に、一人ひとりに賜物が分け与えられているので、自分を軽く見積もるような、正しく評価できない自己卑下ということをも、戒めているということなのです。

 高慢になるのでもなく、自己卑下するのでもなく、私たちは一人ひとりが互いに神から与えられたものがあるので、それを正しく受け止めるようにとパウロはここで勧めているのです。

 そのことを一つのたとえで表現しているのが、4節と5節の言葉です。

一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。

 ここでも、パウロは、私たち一人ひとりが集まって教会なのであって、教会に集う私たちは、誰かが高慢でもいけないし、だれかが自己卑下するような性質のものなのではなくて、私たちはみんなでひとつのからだなのだと言うのです。

 一人ひとりには違う役割があって、それぞれがそれこそ誰かの言葉にあるように「みんな違ってみんないい」という働きをしているというのです。これを、パウロはコリント人への手紙でも同じことを言っていますが、パウロの教会理解の大切な部分を表していると言えます。教会の急所ともいえる部分なのです。 (続きを読む…)

2022 年 5 月 1 日

・説教 ローマ人への手紙12章1-2節「心を新たに」

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2022.05.01

鴨下直樹

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この世と調子を合わせてはいけません

 この言葉を読むだけで、いろいろと頭の中で思いが浮かんできます。もちろん、パウロがここで言おうとしていることは、それほど難しいことではありません。私たちは、この世に調子を合わせることが、どれだけ信仰の歩みにとって危険を伴っているか理解しているからです。ただ、問題は程度問題です。「どこまでが良くて、どこからがダメなのか」

 この基準は、みなそれぞれが心の中に持たなくてはなりません。そして、それがもっとも難しいことです。

 現代社会と、聖書の時代とはかなり生活習慣が違います。何十年か前は、クリスチャンはトランプや映画もダメだと考えた時代がありました。特に、「敬虔主義」といいますが、福音派の教会のルーツには、「クリスチャンは敬虔に歩むべきだ」という考え方が強くあったのです。その中には禁酒禁煙というものも含まれています。

 みなさんの中の多くの世代の方々は、何度も、その教えを耳にしたことがあると思います。そして、誰かが教会で良くないと言われている行為をすると、こぞってその人を裁くということが起こったのです。

 一方で、性的な誘惑に関していうと、現代はさらに誘惑の多い時代になりました。不貞を働くことさえも、罪ではないというような世の中の流れがあるなかで、インターネットやメディアではセクシャルなテーマを扱うコンテンツはすぐに簡単に見つけ出すことができます。

 あるいは、もっと進んでLGBTQと言いますがレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、Qはクイアと言って「不思議なとか、風変りな」という意味があるそうです。あるいは、クエスチョニング「性的少数者」のことを含めて、これらの頭文字でLGBTQを認めていこうという流れも出てきています。

 「この世と調子をあわせてはいけません」という言葉の中に意味されるものは、実に多くのテーマが含まれています。そして、簡単に白黒つけることの難しいテーマであることを私たちは知っています。

 ですから、ここでもそんなに踏み込まないでさらっと「みなさん、分かるでしょ。何がいいたいかは」と言って、次に進むことも簡単にできることですが、やはり避けて通ることのできるテーマとはしないで、考え方は理解できるようにしておくのがよいと私は思います。

 私たちは、「この世」に生きています。この世界の外側から眺めているのではなくて、どっぷりとこの世界に浸かって生きています。

 ここで「調子をあわせてはいけません」という言葉があります。少しこの言葉のニュアンスを他の聖書の翻訳で掴んでみたいと思います。新共同訳聖書は「この世に倣ってはなりません」となっています。「倣う」「真似をする」と訳しました。また、さらに新しくなった協会共同訳も同じ翻訳です。では岩波訳ではどうなっているかというと「あなたがたはこの世と同じ姿かたちにさせられてはならない」としました。またカトリックのフランシスコ会訳だと「自分をこの世に同化させてはならない」となっています。

 もともとの言葉は簡単に言うと「型にはまる」という意味になります。この世の型にはめられていく姿を、描き出しています。流行を追い求める。それは、現代人の一つの生活の姿です。自分なりにおしゃれをしたい、常に最先端でありたい、時代についていかないとと思っている。気が付くと、世の中の型にはめられてしまっているというのです。

 いや、もう私たちはそういう最先端というものからはすでにほど遠い世界に生きているという思いもあるかもしれません。そうであったとして、この世の型というものがやはりそこにも影を落としているのです。

 毎日の生活を振り返ってみると、さまざまなテーマがあることに気が付きます。どこの病院がいいのか。どんな薬がいいのか。健康食品はどれがいいのか。便利な車は何か。もう、そういうものから解放されたと思ったとしても、はやりこの世と調子を合わせている自分の姿に気づかされることになります。

 問題は、それらの一つ一つは直接的に罪と結びついてはいないということです。けれども、そのようなものを、楽な生活というものを追い求めていく先にキリストの姿は見えてこないのです。

 ここまで来ると、この言葉の意味するところが見えてきます。「この世」と「主イエス」を対比させているわけです。キリストのようになろうとしていくのか、この世界と一つになっていこうとしているのかということです。 (続きを読む…)

2022 年 4 月 24 日

・説教 ヨハネの福音書1章43ー51節「芥見から何の良いものが出るだろうか…」

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2022.04.24

舛田友太郎

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証詞「会堂建設の恵み」下斗米利男


説教「芥見から何の良いものが出るだろうか…」舛田友太郎


 

2022 年 4 月 17 日

・説教 ローマ人への手紙12章1-2節「神に喜ばれる礼拝」

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2022.04.17

鴨下直樹

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 イースターおめでとうございます!

 この主のよみがえりを記念するイースターの礼拝に、こうしてみなさんと顔を合わせて礼拝することができることを感謝します。

 今日はこの後で、聖餐を行います。四月の第一主日の礼拝にも聖餐を祝いました。そして、先週の聖金曜日と呼ばれる、受難日の礼拝でも聖餐をいたしました。今日の礼拝でも聖餐をいたします。一か月に三度も聖餐をすることを、驚かれる方もあるかもしれません。本当なら、毎週の礼拝におこなっても良いくらいだと私は思っていますが、今日も私たちは聖餐の食卓に招かれています。

 私たちは毎週礼拝をささげています。その礼拝も、聖書に記された礼拝を考えると、ずいぶん形が変わりました。創世記に出てくる礼拝は、祭壇を築きまして、そこで神様に犠牲の供え物を捧げて火で焼いて、おささげするというのが礼拝の形でした。その後、出エジプトの頃になりますと、イスラエルは幕屋というものを作りまして、その幕屋でやはり犠牲をささげておりました。ところが、イスラエルが神にあまりにも敵対したために、イスラエルは滅亡してしまいまして、幕屋の代わりに造られていた神殿も崩壊してしまいます。こうして、近隣の国々に支配されるようになりますと、この犠牲を献げる礼拝はできなくなってしまいます。代わりに、会堂、シナゴーグと呼ばれるところで聖書の教えを聞くという、安息日の過ごし方が生まれてきます。そして、イースターの出来事が起こってからは、教会はパン裂きと言いましたが、聖餐をするために、初代の教会は安息日に代わって、主の日、つまり日曜になると聖餐をするようになっていったのです。

 ところが、そのような聖餐をする礼拝が何百年か続きましたが、宗教改革が起こってプロテスタントの教会になりますとその肝心の聖餐をしない礼拝というのが行われていくようになります。これは、宗教改革者ルターが言い出したことでもあるのですが、ルターは、それまでカトリックで定めていた7つの典礼のうち2つが大事と言って、洗礼と聖餐を典礼、神様が定められた儀式だとしました。ところが、そう言いながらプロテスタント教会ではこの典礼ではない礼拝をしているという不思議な現象が起こっているのです。

 つまり、み言葉の礼拝というのを、礼拝と呼んでいるのです。さまざまな礼拝の本がでていますが、実は、このプロテスタント教会で行っているみ言葉を聞くことを中心とする礼拝を、どう考えるのかという議論はあまり行われておりません。自然に受け入れられていったのです。

 ただ、宗教改革者ルターは、典礼の中心はキリストであり、キリストに与ることがサクラメントであり、典礼だと考えました。そして、「キリストとは神の言葉のことだ」とも言ったのです。これは『教会のバビロン捕囚』という書物の中で書いています。そして、この本が、プロテスタント教会の典礼理解の鍵になっている書物でもあります。

 それこそ、ルターやカルヴァンという宗教改革者の時代は、毎週聖餐をおこなっていたのですが、改革派教会の中からツヴィングリという指導者が出てきます。この人が、プロテスタントの聖餐はカトリックのような功徳を積む行為という理解がない、単なる記念、象徴なので、毎回行わなくてもいいのではないかと言い出して、それから、月一度の聖餐というように定着してきたわけです。

 ただ、そうすると、今やっている礼拝は何かということになってしまいます。ルターは、先ほどいいました『教会のバビロン捕囚』という本の中で、キリストに与ることが礼拝だと言いました。それは、もともとは聖餐を意味していたのですが、キリストとは神の言葉であるとルターが言った考え方が、みことばの礼拝の根底にあるということになります。つまり、みことばを聞くことが、キリストに与ることだという理解が生まれたということになるわけです。そこで、私たちがもう一度考えないといけないのは、神の言葉とは、聖書のことであるという理解は、その中には含まれていないということです。

 なぜ、こういう礼拝の話をこの説教でしたかというと、このローマ人への手紙の第12章からは、パウロがいよいよ、キリスト者の具体的な生き方の話をしているところだからです。そこで、パウロは礼拝ということを第一に語っているのです。

 礼拝というのは聖書の話を聞くことと思われる方があるかもしれません。そう考えてしまうと、私たちの具体的な毎日の生き方が、まるで見当違いなものになってしまいかねません。 (続きを読む…)

2022 年 4 月 15 日

受難日礼拝 ローマ人への手紙11章33-36節「この神に、栄光がとこしえにありますように!」

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2022.04.15

鴨下直樹

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 今、私たちはこれまでにないほど暗い時代に生かされています。ロシアとウクライナの戦争のニュースは毎日、更新され続けています。また、新型コロナウィルスの感染者の拡大は、今もなお世界に広がり続けています。

 この聖金曜日、受難日と言われるように、教会の燭台の灯火はすべて消えてしまっているのです。光がなくなった日、それがこの受難日の意味するものです。

 主イエスが十字架の上で、この世界に裁かれ、死刑にされてしまったのです。それは、まさに神の敗北のしるしであり、絶望の知らせです。

 こんなことを、一体誰が考えたのでしょう。神の御子である主イエス・キリストが人間に裁かれ、罪あるものとして、十字架の上で見世物となって殺害されたのです。

 主イエスと共に歩んで来た弟子たちは、まさに絶望したのです。外に出ることもできず、部屋の中に隠れて閉じこもることしかできなくなりました。

 福音の敗北、神の無力さの宣告、そして、死と絶望が勝利したのです。

パウロは語ります。33節。

ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいのでしょう。

 神が、この世界を創造し、人を生じさせ、アブラハムを選び、ヤコブを選び出し、イスラエルの民を守り導いてきた神の愛の御業は、主イエスの十字架の死で、一度完全な終わりを迎えたのです。

 本当に、この神は生きて働いておられるお方なのか。そのような疑問符がつけられたのが、この聖金曜日、受難日の出来事でした。

 もちろん、ここでパウロが語っているのは、第一には8-11章のテーマであるユダヤ人の救いのことです。そして、第二には、ここまでの1章から11章までのローマ書全体でパウロが語ってきたことに対して、神のなさることの深さを語っています。

 ですが、私は、この神の知恵と知識の富の深さは、この受難日の出来事のことも当然含んでいると考えて間違いないと思います。

 34節と35節はこう続きます。

だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。

 34節はイザヤ書40章13節の引用です。主に助言できるような者がいるだろうかと言い、主の知恵と知識は人間の考えをはるかに超えていることを物語っています。 (続きを読む…)

2022 年 4 月 10 日

・説教 ローマ人への手紙11章25-32節「賜物と召命」

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2022.04.10

鴨下直樹

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 今日から受難週に入ります。七本立てられております蠟燭も、ついにこの一本だけになりました。このレントの期間、私たちは主イエスがご自分のいのちを少しずつ削るようにして、私たちにご自身のいのちを与え尽くしてくださったことを見続けてきました。この蝋燭は主のいのちの尽きていく姿を見える形で表現しているのです。

 そして、まさにこの受難週を迎える今日、私たちはローマ書11章の結びの箇所のみ言葉を聴こうとしています。ここに記されているのは、信仰の奥義だとパウロは言っています。
25節。

兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。

 パウロはここで、ユダヤ人の救いのことを語り続けています。それが、9章から11章まで続いています。ユダヤ人が救われるのかどうか。ユダヤ人は神に逆らい続けたために、神の福音は、ユダヤ人から異邦人へと向けられて、その結果、異邦人たちが信仰に入れられるようになったという現実がありました。ユダヤ人たちが神に不従順であったために、外国人である私たちが、神の救いに与かることができるようになったのです。

 そして、パウロは実はここに、神の奥義が隠されていると言っているのです。

 ここで問われているのは、神に対して不従順な者に対して、神がどうなさるのかということです。普通に考えていけば、神に不従順な者は、神から捨てられて裁かれる。裁きを受けると考えるのが普通です。神様の見ておられるところで悪いことをすれば罰が当たる。これが世の常です。お天道様は見ておられるというわけです。

 ところがパウロは、ここで、ユダヤ人が神に不従順であったために、異邦人が神のあわれみの眼差しにとまって、異邦人が救われるようになった。けれども、神のユダヤ人に対する選びはなくなったのではないのだと語っています。

 それで、29節。

神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。

と宣言するのです。

 神の「プランA」はユダヤ人を救って、このユダヤ人をモデルにして、世界中に神様のことが分かるようにさせようという計画でした。しかし、この「プランA」はダメになりました。ユダヤ人が神の期待を裏切ったのです。そこで、「プランB」に変更されました。それが、今度は異邦人を救いに導いて、神の人間に対する愛を、世界中に知らせようというものです。普通は、そうなったら、「プランA」はもう破棄されたものと考えるのですが、「神の賜物と召命は取り消されることがない」とここでパウロは言うのです。「プランA」は無くなったわけではないというのです。

 もう少し先を見てみましょう。パウロは30節と31節でこう言っています。

あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。
それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。

 ここで言う、「あなたがた」というのは、私たち異邦人のことです。私たちは神に不従順であった。そこからいえば神の目にとまるはずもない存在なのですが、「彼ら」、ユダヤ人が不従順であったために、神のあわれみを受けるようになった。

 ここに「不従順」という言葉と「あわれみ」という言葉が出てきます。実は、この二つの言葉が、パウロが奥義と語っている神の深いお考えの中身の正体なのです。

 「不従順な者をあわれむ」。この言葉は、私たちの日常の生活の中で、まず起こり得ない感情であり、現状です。

 願っていることを行わない。期待に応えてくれない。そこから生まれる私たちの気持ちは一体何でしょう。自分を信頼してくれないのです。自分の思いに応えてくれない。何かを頼んでもやってくれない。期待するだけ無駄。信頼するほど悲しくなるのです。そこで起こるのは、怒り、苛立ち、敵意、あるいは悲しみや、諦めです。

 ところが、神はその時に「あわれむ」というのです。 (続きを読む…)

2022 年 4 月 3 日

・説教 ローマ人への手紙11章13-24節「神の慈しみと厳しさ」

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2022.04.03

鴨下直樹

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説教全文はただいま入力・校正作業中です。 近日中に掲載いたします。

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 最近、色々なところで「次世代」という言葉を耳にします。その前によく耳にしたのは「ポスト」ということばです。「ポストモダン」とか「ポスト安倍」というように、「その後」という意味で使う言葉です。

 若い人を育てないといけないという、社会の焦りが、そういう言葉の中に見え隠れしています。

 ここからは私の個人的な感覚なのですが、「次世代」という言葉を使いながら、次のリーダーを育てようという時に、私が感じるのは「本当に次世代に育って欲しいと願っているのかな」という疑問です。自分よりも若い人が、自分を追い抜いてリーダーになっていくことを受け入れる土台があるとは、あまり思えないのです。

 今、ニュースで私たちはウクライナの大統領や、他の政府責任者が非常に若いことに驚きを覚えます。あるいは、もっと身近なところでいうと、ドイツのアライアンスミッションの代表になるような人たちも30代や40代で抜擢されることが珍しくありません。

 自分たちよりも優秀な人が頭角を顕して来た時に、どうしてもそれを潰して、自分たちが残るということを、特にこの日本では、やっているのではないかという気がするのです。

 それは政治家だけでなく、企業でも、教会でも同じような体質が多いという印象を、私は持っているのですがいかがでしょうか。

 新しく良いものが出て来ても、それを受け入れていくにはまず周りを見て、様子をうかがって、みんなが受け入れているようなら、そろそろうちでも取り入れようかと検討を始める。追い越されていく方は気が気ではないのです。

 ユダヤ人たちにとって、キリスト教とはまさにそういう相手でした。だから、パウロが異邦人に福音を宣べ伝えはじめて、勢いが増すにつれて、ユダヤ人たちはこの教会の勢いを何とか止めたいと思ったのは、よく理解できるのです。

 その意味でパウロは、ユダヤ人たちの特質や、ものの考え方、伝統ということをよく知っていました。その上で、主イエスが語る福音の新しさを知り、その魅力にいち早く気付き、それを導入して次世代のリーダーとなった人物に違いないわけです。

 しかし、パウロは同時に、自分もユダヤ人であり、ユダヤ人としてのアイデンティティー、誇りも持っていました。神のユダヤ人に対する変わらない愛の眼差しを知っていましたから、そのことを語る必要性を覚えていた人です。

 そういう意味でいうと、「次世代」という声掛けで、上の人の造り上げた想像力の枠組みの中で、次世代が育つなんてことはなく、次世代の人は自分の才覚と実力で、その上の世代を乗り越えていくリーダーシップが必要なんだろうと、私は漠然と思うわけです。そして、そうやって出てきた人を、潰すのではなくて、受け入れる備えのようなものが必要になってくるのだと思うのです。

 パウロは、ここで自分に課されているものが何であるかを、明確にしています。13節と14節です。

そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受け止めています。私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。

 パウロはここで自分の役割と使命を語ります。自分は、神の福音を異邦人に語るのが、自分に与えられた働きであると言いながら、その結果、自分の同胞ユダヤ人を悲しませることになり、結果として彼らのねたみを起こさせて神に救われることを願っているというのです。

 同胞のユダヤ人に対するパウロの愛が、ここで明確に告げられています。異邦人が救われるということは、彼らは神から捨てられることになる。けれども、その捨てられたはずのユダヤ人が、そこから立ち返る、それこそが復活の御業であり、神はユダヤ人をも復活させようと思っておられるのだと、ここでかなり大胆な宣言をしているのです。

 このパウロの宣言を裏付けるために、パウロはひとつのたとえ話をします。まず語るのは16節です。これは、神に献げるささげ物を例にしています。穀物のささげ物のことがレビ記2章に記されています。穀物を献げる場合、その穀物の初穂を献げて、その残りの部分は祭司の取り分となります。この祭司の取り分となったものの方を、「最も聖なるもの」と言い方をします。神に献げる物は、聖なるものとなる。これは、神のものとなるということです。献げた物、祭壇で焼かれた物は、聖なるものとして神のものとなるのですが、残り物も聖なるものなのです。代表の部分が聖いと認められれば、その全体は聖いという考え方です。それに続いてパウロは、「根が聖なるものであれば、枝もそうなのです」と語ります。一部分の聖さは、全体の聖さだというのです。そして、これはこの後のたとえの導入になっていきます。 (続きを読む…)

2022 年 3 月 27 日

・説教 ローマ人への手紙11章1-12節「恵みの選び」

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2022.03.27

鴨下直樹

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 パウロは当時の文化と世界の中心都市であるローマに手紙を書き送っています。この時、パウロはまだローマに行ったことがありません。けれども、パウロから福音を聞いた人々がローマに移って行って、そこで集まりを開くようになったのです。

 そこで、パウロはまだ見ぬローマの教会の人たちに、主イエスが私たちに与えてくださった救いについて、丁寧に書き記していきました。この手紙を読むだけでキリスト教のことが分かって、信仰に入ることができるようになることを願ったのです。

 1章から8章では、信仰の土台となる主イエスが私たちに何をしてくださったのかを書きました。そして、そのあとの9章から11章では、神の約束の民であるユダヤ人たちはどうなるのかということを書き始めたのです。

 ユダヤ人は一体どうなるのかということを、今の私たちはあまり気にしないと思います。ユダヤ人のことは良く分かりませんし、昔の出来事です。大切なことは、やはり自分たちのことです。けれども、この時代、聖書のことを知ろうと思うと、ユダヤ人たちの集まっている「会堂」「シナゴーグ」と呼ばれるところに行くしかありませんでした。そして、キリストの福音について触れた人たちも、自然にこのユダヤ人たちの「会堂」というところに集まるようになっていました。

 そうすると、どうしてもユダヤ人たちと、主イエスを信じるキリスト者とかキリスト教会の人たちと、何がどう違うのかということを説明する必要があったのです。それで、パウロはここで丁寧に、ユダヤ人たちは神様に対して信仰的ではなく、神に逆らって歩んできたことと、それでも、神様はそのユダヤ人のことを大切に思っているということを語っていったわけです。

 先週の「ざっくり学ぶ聖書入門」で、使徒の働きを学びました。前回は使徒の働きの2回目で、パウロの宣教の部分が記されている12章から最後の章までを扱いました。

 パウロは、神から使徒として召されて、異邦人の伝道に遣わされます。三回にわたる伝道旅行で、かなり広範囲の地域に福音を宣べ伝えます。ところが、使徒の働きを読むと、異邦人伝道と言いながら、パウロはいつも、「会堂」と呼ばれたユダヤ人たちの築いた信仰と聖書の教育をする場所を伝道の拠点にしたのです。

 ユダヤ人たちはその長い歴史の中で、「ディアスポラ」と言いますが、各地に「離散」してきます。国土を奪われたユダヤ人たちは各地に散らばって、そこでユダヤ人たちの集まりを作っていきます。その中心拠点になったのが、「会堂」とか「シナゴーグ」と呼ばれるところです。
 私たちも良く分かっていることですけれども、この「ユダヤ教」と「キリスト教」には大きな違いがあります。ユダヤ教は「旧約聖書」しか扱いませんが、キリスト教には「新約聖書」があります。ただ、問題はパウロの伝道していた時にはまだ新約聖書はありません。その当時のキリスト教会は、旧約聖書をベースにしながら、主イエスの教えられたことをそれまでのユダヤ教の人たちの考え方とは違う解釈をしていきました。

 それは、異邦人はキリスト者になるためにユダヤ人のように割礼を受ける必要はないし、ユダヤ人たちの生活習慣、おもに食物規定と言われる食べ物に関する戒めを守らなくても良いという考え方です。それで、エルサレムの教会は、パウロが第一回目の伝道旅行から戻ってきた後で、この問題について一つの見解を示しました。それは、異邦人たちにユダヤ人のような戒めを課さないということです。割礼も必要ないし、ユダヤ人の律法を守る義務も課さない。それが、エルサレム会議の結論だとパウロは理解したのです。

 けれども、エルサレム会議は結論の最後に一つの文言をつけ加えます。これまでどの会堂でも大事なこととして扱ってきた食べ物の規定と、みだらな行いは気をつけるようにという一文です。そして、この最後の一文が付いたがために、パウロはその後も、どの町に行ってもユダヤ人キリスト者たちと戦うことになってしまうのです。やはり、パウロのしていることは、教会の主流の考え方ではないとなってしまったのです。

 パウロにとって、このユダヤ人キリスト者たちというのは、ずっと伝道の邪魔をする嫌な存在でしかありませんでした。また、生粋のユダヤ人たちもなかなかパウロが語る福音を受け入れない心の固い人と思って来たはずなのです。

 ユダヤ人たちの立場からしても、自分たちが建てた会堂で、自分たちが教えていることとは異なることをパウロが教えるわけですから、いい迷惑だったに違いないのです

 そのパウロがここで、ではこのユダヤ人たちはどうなるのかという結論を語っていきます。それが、この11章です。

 パウロはまず自分もユダヤ人であるということを、語り始めます。ただのユダヤ人ではありません。「アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です」と語りました。 (続きを読む…)

2022 年 3 月 20 日

・説教 ルカの福音書18章1-8節「私たちの祈りを聴く神」井上正彦師

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2022.03.20

井上正彦

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礼拝前半


 

礼拝説教から


 

 ただいまご紹介をいただきました私が津島佐織キリスト教会と北名古屋キリスト教会牧師の井上正彦です。

 私がこの芥見キリスト教会へ来始めました頃、丁度同時期ぐらいに同じ歳ぐらいの青年方が何人かすでに集っておられました。そのことを教会の方々は非常に喜んでくださいまして、当時青年だった私たちに「教会に青年が与えられるように祈っていたのですよ!」と満面の笑みで語りかけ喜んでくださいました。当時、信仰的な意味で理解ができていなかった私はその意味が十分に分からずにおりましたが、20年近く前にラジオ放送の「世の光」月間のニュースの巻頭言の原稿を依頼されて祈りつつ、その原稿を書いておりました時にふいに雷に打たれたような衝撃が走りました。

 実は私は教会へ集うようになる前から、朝早く美濃市の実家から名古屋の会社へ行く道中に毎朝ラジオ放送を聴いていました。私は毎朝、旧芥見教会会堂のある国道156号線沿いの「神は愛なり」という芥見教会の小さな電柱の看板を横目で見ていました。その看板を通過するその時間に私は「世の光」のラジオ放送を聴いていました。私は「世の光」のラジオ放送と三浦綾子の本に触れる中で、やがて私は教会へ通うことを決心して、日曜休みのある地元の工作機械の会社に転職し、芥見教会へ毎週通うようになりました。そして芥見キリスト教会は自分が毎日聴いていた「世の光」のスポンサー教会の一つであることを思い出し、私はそこに衝撃が走ったのです。私は自分の意志で教会の門を叩いたはずなのに、教会の方々の、当時見ず知らずの私たちに対するとりなしの祈りの中で、私たち当時の青年が教会に導かれて来たということを改めて感じ入ることができました。それと共に、私にとっては主なる神様にとりなしの祈りをささげることの大切さを痛感したエピソードでした。
 
 さて、本日の聖書のみことばであるルカの福音書第18章1節から8節には、一つの譬え話が出てまいります。登場人物は二人です。一人は「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」です。もう一人はやもめです。この二人の背景についてもう少し詳しくみる必要があると思いますので、説明しますと、この「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」は、どうやらユダヤ人の裁判官ではないようです。当時のユダヤの法律では、何かを裁く裁判官は3名いたようです。一人は原告側から選ばれ、もう一人は被告側から選ばれ、三人目は原告、被告とは関係のないところから裁判官が選ばれて、公正な裁定が下されていたといいます。他方、一人の裁判官が裁きを下していたということは、これはユダヤ人による裁判官ではなくおそらく当時のユダヤを支配していたローマ政府の治安裁判官であったと言えます。このような裁判官は公正な裁判をすることは少なかったようで、もし裁判を有利に進めようとすると、コネクション(縁故による人間関係)と賄賂を使うのでなければ、裁判に勝てる見込みはほとんどありませんでした。逆に言えば、裁判官にとってうまい話があれば、社会的正義や通常の道理を押し曲げることぐらいは平気でやるような人たちでありました。その一つとして、主イエスが十字架の刑にかけられるかどうかの裁定を下す際、当時ローマからの総督であったポンティオ・ピラトなどはその典型例と言えます。また、6節では、主イエス自らがこの裁判官のことを「不正な裁判官」とも断定して言われていることからも、十分にこの裁判官が問題に対して、正義や道理に照らし合わせて公正に裁判するような人ではなかったことがご理解いただけるかと思います。

 他方、もう一人の登場人物は、やもめです。聖書でやもめは貧しく弱い者のシンボル(象徴)でした。社会的地位もお金もないわけですから、先の「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」の所へ行って、「私を訴える人をさばいて、私を守ってください」との願いは普通ならば聞きとどけられることありえませんでした。ところがこのやもめには一つの武器と言えるものがありました。それは「しつこさ」です。先の裁判官は5節でやもめのことを「うるさくて仕方がない」「ひっきりなしにやって来て」と言っているように、このやもめは自分を守るための裁判を行うまでこの裁判官に執拗に食らいつきました。そして最後には、この裁判官は「このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう」と思うようになります。

 ですから、ここでたとえ血も涙もないような不正な裁判官であっても、執拗なやもめの嘆願に対して根負けしたからさばきをするというのです。そうしますと、今日の聖書のメッセージは、神様を不正な裁判官として見立てて、とにかくしつこく祈れば、その祈りは聴かれるということになるのでしょうか。そうではないと、今日のみことばはその後に続いて語られます。6節では、「主は言われた。『不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。まして神は、昼も夜も神に叫びを求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。」とあります。

 ここで、不正な裁判官とやもめのやりとりも念頭に置きつつ、それを今度は主なる神と私たちとのやりとりに置き換えて考えてみよ、と言われました。そうした時、不正な裁判官でさえ、やもめのしつような嘆願を聞きとどけるのだから、まして義と愛なる私たちの父なる神は不正な裁判官とは全く異なり、神の民の祈りを常に聞きとどけてくださり、速やかにその解決を与えてくださるというのです。つまり神様の前での私たちの祈りは決して無にはされない、ということです。私たちは日常での信仰生活において、神様が私たちの祈りを聴かれないとか、祈りが本当に聴かれているのだろうかと疑念をいだくことがあるかもしれません。しかし、やもめの執拗な嘆願を不正な裁判官は迷惑しつつも自分の日頃の行いを変えてまで行動するのだから、まして、私たちの主なる神様は私たちのことを決してお忘れにも、お見捨てにもならないと言われるのです。

 私たち福音派の教会は「デボーション」(日々聖書を読み、祈り、神と交わること)ということを入門クラスや日常の信仰生活の中で強調いたします。しかし、そこで、間違ってはならないのは、この「デボーション」を行う時に、「私にとって主なる神様、主イエス様はどのようなお方であるか」という視点です。そこを見落として、聖書を読み、祈っていくと信仰生活が私たちの行動規範の修正に終始し、信仰生活自体が自分を責めるだけのものとなり、重苦しいものとなってしまいます。そうではなくて、聖書を通して、生ける神ご自身が聖書の登場人物を通しての語りかけや手紙などを通して、どのような働きかけや関わりをしてくださり、どのようなお姿で私たちに関わってくださるのかを知る時に私たちは本当の慰めをいただけるのです。 (続きを読む…)

2022 年 3 月 13 日

・説教 ローマ人への手紙10章14-21節「福音宣教」

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2022.03.13

鴨下直樹

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Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 聖書を読む。これは、クリスチャンである私たちがとても大切にしていることです。聖書を通してしか、神様のことが分かりません。そして、聖書には、私たちがどう考えていけばいいのか、私たちの生きる意味や、判断の仕方、目標、大切なことがここに記されています。

 今、私たちが耳を傾けているローマ人への手紙の9章から11章まででは、ユダヤ人は救いにあずかることができるのかどうか、というテーマをパウロは語っています。今日のところは、ユダヤ人は聖書を読んできたのに、どうして救われないのかという問いに答えているところです。これは、聖書を大切にしている私たちにとって、素通りすることのできないテーマです。

 ユダヤ人は、子どもの頃から聖書を暗記するように教えられている民族で、聖書と共に歩んできた民と言ってもいいと思います。もちろん、そこでいう聖書というのは旧約聖書のことです。特に、モーセ五書と呼ばれる、神から与えられた律法、神の戒めを記している箇所などは、ことさらに大切にしてきたのです。それなのに、なぜユダヤ人は救われないのか。これは、とても大切なテーマです。

 今日の私たちクリスチャンとは、比べものにならないほど、聖書を大切にし、聖書に親しんできたのが、ユダヤ人です。それなのに、私たちは救われて、聖書を誰よりも熱心に読んできたイスラエルの民が、救われないのだとしたら、いったい自分たちが大切にしてきた聖書とは何か。せっかく時間をかけて読んできても何の役にも立たないもの、ということになる可能性もあるのです。

 それで、パウロはここで、信じるために必要なものは何かということを、語ります。あまりまわりくどい言い方はしないで、信じるために必要なのは、まず「聞く」こと。聞かなければ信じられないと言います。けれども、その福音を「聞く」ためには、「宣べ伝える人」が必要で、宣べ伝えるためには「遣わされる」ということが不可欠だということを順に語っています。

 神様のことを伝える、神から遣わされた「メッセンジャー」が必要なのです。

 今、私たちは大きな戦争のニュースを毎日耳にしています。そこで驚くのは、ロシアの人たちは、隣の国でロシアの軍隊が行っていることを知らないということです。それを聞くと愕然とします。若い、20代、30代の人たちはインターネットで世界中と繋がることができますから、何が今行われているのかよく知っています。けれども、高齢者になるほど、テレビのニュースしか耳に入って来ないので、隣の国で何が行われているのか知らないのです。プーチンの支持率は71パーセントに増えたというニュースが先日報道されたばかりです。もちろん、このニュースも本当なのかどうかさえ分かりません。ただ、そこで私たちが驚くのは、「事実を知ることができない」、大切な知らせを伝える「メッセンジャー」がいないとどうなるのかという恐ろしさです。

 ロシアの外務大臣は「戦争をしていない」とさえ発言しました。あるロシア人は、「ウクライナ人が、自分たちで自分たちの町を破壊している」と言って世界を驚かせました。正しいことを知らせるメッセンジャーがいないのです。

 伝える人がいなければ、信じることができないというこのパウロの言葉は、メッセンジャーの存在の大切さを私たちに改めて思い起こさせます。しかし、一体誰が、その知らせを、メッセージを届けるのでしょうか。一体誰が、メッセンジャーを遣わすのでしょうか。

 旧約聖書は、この神から遣わされたメッセンジャーのことを「預言者」と言いました。神の言葉を預けられて、届ける役目です。

 「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」とパウロはイザヤ書の52章から引用して語りました。

 ここでパウロはメッセンジャーの「足」のことを「美しい」と語ります。大事なのは、顔でも口でも、声でもなくて、「足」だというのです。そこで意図されているのはその預言者の背後にある「遣わす者」の存在です。

 伝えている人の口や声が美しいというのではなくて、その「足」に目を向けさせるのです。イザヤ書40章の9節では、

シオンに良い知らせを伝える者よ、
高い山に登れ

と記されています。

 この言葉の背後には、バビロンによる捕囚が終わりを迎えるという知らせをエルサレムに届けるために、山を越えて、シリアの砂漠と野原を超えて知らせを届けることを語っています。イザヤ書52章の7節にはこういう言葉があります。

良い知らせを伝える人の足は、
山々の上にあって、
なんと美しいことか。
平和を告げ知らせ、
幸いな良い知らせを伝え、
救いを告げ知らせ、
「あなたの神は王であられる」と
シオンに言う人の足は。

 パウロの言葉はここからの引用だということが分かります。伝えるメッセージは、「あなたの神は王であられる」というメッセージなのです。その知らせを伝えるために、バビロンから山を越え、砂漠を超えて、救いの言葉を人々に届ける。そのメッセンジャーの足は美しいというのです。

 それは、このバビロン捕囚というイスラエルの民にとって絶望的な状況にあって、「神が王となられる」というメッセージ、バビロン捕囚が終わるというメッセージを早く伝えたくて、必死に走って来た足なのです。その知らせの、福音の内容のすばらしさを届けたいという、その預言者の持っているメッセ―ジの力に目をとめさせるのです。

 そのような力強いメッセージが届けられたとしても、肝心なことは、そのメッセージを「信じる」ということが必要です。「聞いて、受け入れる」ということがなければ、そのメッセージは意味をなさないのです。 (続きを読む…)

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