2020 年 12 月 20 日

・説教 ヨハネの手紙第一3章1-3節「御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい」

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2020.12.20

鴨下 直樹

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*1:先週に引き続き、機材の不調により説教音声の録音ができませんでした。ライブ録画から抽出した音声を掲載しています。聞きづらい点はご容赦ください。

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 今日の説教題は、たぶん、私がこれまでつけた説教題の中で一番長い説教題だと思います。この手紙の一節の言葉をそのまま、タイトルにしました。

 今日、私たちが共に聞き取りたいと思っているのは、まさにこの言葉に尽きるのです。かつて、宗教改革者ルターは祈りについて「祈りは短ければ短いほど良い、言葉を補えば補うほど、意味が薄まるからだ」と言う内容の言葉を語りました。そういう意味では説教題も短い方がいいのかもしれませんし、この説教も、長くなればなるほど、意味が薄くなってしまうのかもしれません。

御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

 今日、私たちが心に留めたいのは、この一言に尽きるのです。このことを考えて、私たちが、御父のくださった素晴らしい愛を心に留めることができるなら、それこそが福音そのものです。

 アドヴェントの第四週を迎え、今週クリスマスを迎えます。今年は、恐らく世界中の教会で、自粛ムードの中で祝うクリスマスになるのだと思います。大勢の人が集まることが難しい時ですから、どこの教会も今年はクリスマスのお祝いをする機会が大きく減っているはずです。私たちの教会でもそうです。例年行っているクリスマスの集まりをいくつも取りやめました。イブの燭火礼拝も、今年は外部には案内をしませんでした。また、教会の人もみなが集まってくることが難しい状況です。

 ただ、そんな中ですが、私たちはもう一度クリスマスの意味を思い起こしたいのです。最初のクリスマスは、そもそも大勢の人が祝ったわけではなかったのです。クリスマスは歴史の片隅で起こった小さなできごとでしかなかったのです。

 宿にも泊まることのできない若い夫婦が、子どもの出産だというのに、安全に産む場所も見つけられず、生まれた赤ちゃんは飼い葉桶に寝かされたのです。誰の心にも留まらないような、本当に小さなできごとでした。けれども、ここに父なる神の私たちへの愛が満ち溢れているのです。

 「飼い葉桶に寝ておられるみどりご」

 これが、クリスマスのシンボルです。神が、全力で私たちを愛してくださった愛の形がここに示されているのです。

御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

 毎年、私たちはクリスマスを祝います。けれども、このことに私たちはどれほど思いを向けているのでしょうか。

 エペソ人への手紙では、この神の愛を「人知をはるかに超えたキリストの愛」(3:19)と表現しました。人の知恵では想像なしえない仕方で、神はこの愛を示してくださったのです。

 先週の火曜日の夜、一本の電話がかかってきました。いつも手話通訳をしていてくださるKさんが、倒れて救急にかかったという電話です。いつもそうですが、すぐにみなさんにお祈りをお願いしました。命の危険はないのですが、しばらく入院されることになりました。

 こういう時、みんなで祈ります。今までもそうでしたし、これからもそうです。そういう時に、私たちが神様に祈ることができるのは、私たちの神は、私たちに愛を示してくださるお方だと知っているので、私たちは望みを持って祈ります。祈ることができます。

 神の愛を信じることができるから、そのことを頼りに私たちは祈ることができるのです。ただ、やみくもに祈るのではないのです。神はこれまでに、この教会の方だけでも何度も何度も、多くの人の病を支えて来てくださったのです。

 私たちの神は、御子を私たちのために与えても良いと思うほどに、私たちを愛してくださいました。それは、私たちを神の子どもとするためです。
 「事実、私たちは神の子どもです。」と、この言葉につづく1節には記されています。

 今、私たちは神の子とされているのです。神様は、私たちを神様の子どもとするために、私たちを神の御子であるイエス・キリストと取り換えるという方法を示してくださいました。それが、父なる神が示した愛だったのです。

 神の御子と、私たちを取り換える。どうやってそんなことが可能となったのでしょうか。 (続きを読む…)

2020 年 12 月 13 日

・説教 ヨハネの福音書1章5節「闇の中に輝く光」

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2020.12.13

鴨下 直樹

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 12月に入りまして、急に寒くなってきました。もう夕方の5時くらいになりますと暗くなってきます。我が家では犬を飼っているので、夕方、犬の散歩に出かけるのですが、夕方の月というは、時々とても大きくて、明るい光で照らすときがあります。もし、詳しい方がいたら教えて欲しいのですが、そういう時の月というのは、とても明るく感じます。特に、ここ数日は、綺麗な月が見えることが多い気がします。先日は、朝の5時半頃ですが、まだ暗い中で三日月が綺麗に出ているのを見てとても美しいなぁと感じました。幸い、この芥見というところは、教会のすぐ後ろには山ですから、月が映えるわけです。

 そういう夜の月の明かりを見ていますと、時々、あのクリスマスの物語を思い起こします。荒野で夜番をしていた羊飼いたちのもとに天使たちが表れた時の、あの輝きはどれほどだったのだろうかと、想像するとわくわくしてきます。聖書を読んでいますと、御使いが一人現れるだけでも、大きな輝きがあったようですから、御使いの軍勢などという数になれば、それはもうほとんど昼間のような明るさになったのではないかとか、そんなことを想像します。

 今日、私たちに与えられているのは、ヨハネの福音書1章5節のみことばです。

光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 そのように記されています。新改訳聖書には、この「打ち勝たなかった」というところに、注が書かれていまして、別訳として「これを理解しなかった。」と記されています。この「打ち勝つ」という言葉は「カタランバノー」というギリシャ語で、もともとの意味は「捕らえる」という意味の言葉です。ですから、直訳すると、「闇は光を捕らえきれなかった」ということになります。それで、「理解しなかった」という翻訳もできるということなんですが、やはり、従来の翻訳の「打ち勝たなかった」という翻訳で良いのだと思います。

 闇は、光を捕らえきれないというのです。それは、光の性質からして明らかです。光があるところに、闇は存在できないのです。闇は、光の前に姿を失うことしかできません。

 今は、夕方の5時くらいになりますともう暗くなってきます。太陽が傾いて見えなくなると、闇が覆うようになるのです。

 私たちは、その人生の中で闇を何度も何度も経験することがあると思います。その時には、光がどこかにいってしまっているわけです。ただ、私たちは、夜の闇が迫る時というのは、太陽の光が完全になくなっているわけではないことを知っています。地球の裏側を照らしているので、今ここには光がないだけで、光そのものがなくなってはいないことを知っているのです。

 ところが、私たちは人生の闇が私たちを支配しそうになる時、私たちを照らしていた光が完全になくなってしまったかのような不安に陥ってしまうことがあるのではないでしょうか。

 小さな話ですが、昨日、教会の方が、車のタイヤを夏用のタイヤから冬用のタイヤに交換してくださいました。その時に、この夏に我が家は車を変えたのですが、夏の安い間にスタッドレスタイヤを買っておこうと思いまして、インターネットのあるサイトから、中古のスタッドレスタイヤを購入しておいたわけです。それで、昨日そのタイヤに付け替えてもらおうと思ったのですが、そこで問題が発生しました。タイヤのサイズは合っているのですが、ホイールの径が違うので、買っておいたスタッドレスタイヤが使い物にならないという事が分かったのです。

 何万円もして購入したわけで、少しでも安くと思って買ったのですが、それが仇になった格好です。仕方がないので別のものに買い替えなくてはなりません。もう、一瞬目の前が「真っ暗に」なるわけです。もちろん、これは些細な例ですが、たとえばこういう金銭的なことというのは、些細なことではなくなってしまう場合もあります。こういうことが積み重なりますと、それがだんだんと効いて来て、あるところで爆発してしまうということが起こり得るのです。

 私たちが、これは人生の闇だと感じることというのは、人によって異なります。それは、そのままその人の弱さという部分があります。自分の弱いところから、闇に呑み込まれてしまうのです。

 ヨハネの福音書はこの闇と光というテーマが3章にも記されています。そこでは、「闇」は「悪の行い」と言い換えられています。そして、「光」は「真理の行い」と言い換えられています。私たちの中にある、神に背を向けたくなる部分、そこが私たちの闇であり、私たちの弱点なのです。ただ、大事なことは、私たちの悪の行いにあるのではないのです。

 大事なのは、闇は光に打ち勝つことができないのだという、この福音の言葉にこそ、力があるということです。ヨハネの福音書3章20節から21節にはこう記されています。

悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。

 悪を行う者は光の方に来ないが、真理を行う者は、光の方に来ると言っているのです。この後半部分がとても大切です。神の真理に生きることを通して、私たちは光の中に身を置くことが出来るというのです。 (続きを読む…)

2020 年 12 月 6 日

・説教 詩篇138篇「低き者を顧みて」

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2020.12.06

鴨下 直樹

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 今週はアドヴェント第二主日です。アドヴェントクランツの二番目の蝋燭に火を灯しました。アドヴェントの間、こうして毎週一本ずつ、蝋燭の灯を増やしていくことで、主のご降誕を待ち望む習慣が教会にはあります。

 そのためにクランツにする蝋燭は太い蝋燭を選ぶことがほとんどなのですが、日本にはあまり太い蝋燭はポピュラーとはいえません。蝋燭を灯すという習慣があまりないのです。私たちの教会では、いつもYさんが作ってくださる蜜蝋燭を使っています。良い匂いがしますし、使っていてとても気持ちよく使えます。ただ、そうすると問題があります。最初の蝋燭は4週目には短くなりすぎて使えなくなってしまうのです。

 短い蝋燭というのは、それだけ火を灯したということです。蝋燭は、自身を燃やして、消費して明かりを周りにもたらします。この礼拝用の蝋燭は4週の間に長さが少しずつ短くなりますから、バランスがとれなくなるので、適当な短さのものと入れ替えたりしながら、4週目を迎えていくことになります。

 ある時、小さな子どもがそんな短くなった蝋燭を見て、こう言いました。「ちっちゃい蝋燭。これ、僕みたいな蝋燭」と言ったのです。そして、背の高い蝋燭を見て、「これは大人の蝋燭」と言いました。私はそれを見ながら、こう言いました。
「実はねぇ、この長い蝋燭が君の蝋燭で、この短い蝋燭が大人の蝋燭なんだよ。短い蝋燭は、たくさん働いて、少しずつ短くなるから、こっちの蝋燭の方が大人の蝋燭なんだよ」と。

 アドヴェントに蝋燭を灯すのには、そんな意味もあるのだと言えます。毎週短くなっていく蝋燭を見ながら、ご自身を捨てて、小さく、低くなられた主を思うのです。

 今日の詩篇は「感謝の詩篇」と呼ばれる詩篇です。祈り手は、エルサレムの宮に向かってひれ伏しています。神殿まで行って、そこでひれ伏しているのか、それとも、遠くから神殿のことを思いながらそこでひれ伏しているのか、はっきりは書かれていませんが、なんとなく、遠くの地から神殿の方を向いて、ひれ伏し、感謝の祈りを捧げているのではないかというように読める気がします。

 神殿があるということは、ダビデの時代にはまだ神殿はありませんでしたから、直接ダビデの作ということではなさそうです。ダビデに思いを寄せて作られた詩篇なのかもしれません。

 旧約時代にすでにヘブル語からギリシャ語に訳された七十人訳聖書には「ゼカリヤによる」という題がついているものがあるのだそうですから、もしそうだとすれば、捕囚期に作られた詩篇なのかもしれません。あるいは、捕囚が終わって、イスラエルに戻って来たことを感謝しているということなのかもしれません。

 この詩篇の面白いのは、4節のところで、「地のすべての王はあなたに感謝するでしょう。」と言っています。感謝をささげる理由は何かというと、「彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。」となっています。

 この祈り手が何を感謝したのか、具体的には分かりません。何か、日常のささやかな感謝なのか、あるいは、バビロンに連れていかれて、そこから帰ってくることができた感謝なのか。いずれにしても、自分がささげる感謝の相手は、地のすべての王たちも、感謝をささげる相手なのだと言っているのです。
 
そしてこの5節から読んでいきますと、ここから少しずつ感謝の内容が見えてきます。

彼らは主の道について歌うでしょう。
主の栄光が大きいからです。

 王たちは、主が歩まれた道を知って、その栄光の大きさに歌い出すと言っています。私は、この詩篇がアドヴェントに読まれてきた詩篇なのかどうか、よく分からないのですが、この詩篇はまさにアドヴェントに読まれるべき詩篇だと思っています。 (続きを読む…)

2020 年 11 月 29 日

・説教 詩篇139篇「神の栄光」

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2020.11.29

鴨下 直樹

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 昨日の我が家の会話です。娘が体操服を着ていました。それを見て、妻が「なんであんた半ズボンはいているの」と言ったのです。どうも、午後から体操に行くことになっていて、そのために体操服を着ていたのですが、半ズボンでは寒いと妻は言おうとしたのです。
 すると、その会話を聞いていた私が娘に言いました。「自分で考えて判断しなさい」と。寒いんだから半ズボンはダメだということくらい考えろと言いたかったわけです。
 すると、娘がこう言いました。「私なりに考えたの。それで、体操をすると体が熱くなるから、お母さんは半ズボンを出したのかなって。」

 それを聞いて、妻は「あら、私、長ズボンのジャージを出したつもりだったのに、私が間違えて半ズボンをだしたのね、ごめんね」と言いました。それを聞いた私もいいました。「そうか、自分なりに考えてたのね、理不尽なことをいうお母さんとお父さんで大変だね。ごめんね。」と謝ったのです。

 昨日は、私たち夫婦はだいぶ冷静だったので、こういう会話で終わったわけですが、これが平日の朝、学校に行く10分前ならこうはいきません。たぶん、一方的に子どもが叱られて、納得できないまま泣きながら学校に行くというパターンなんだと思います。

 説教の冒頭から我が家の恥をさらして申し訳ないのですが、牧師家庭と言ってもそんなものです。みんな罪人なんです。でも、なぜこんな話をするかというと、私たちは子どもの頃から理不尽さというものと何とか折り合いをつけていかなければならないということを今日はお話ししたいと考えているからです。

 納得できないと前に進めないということがあるわけですが、場合によっては納得できなくても、それを受け入れていかなければならないということが沢山あります。

 なぜあの人はいいのに、自分はダメなのか。というような場面だって日常生活の中にはいくらでもあります。

 今日の詩篇139篇の背景にあるのは、この「理不尽さ」です。ダビデの詩篇と呼ばれる詩篇の中にはいくつか、このテーマの詩篇があります(7、35、37、69篇)。
 自分が無実であるのに、非難を受けるというような状況をうたっているのです。
1節にこうあります。

主よ あなたは私を探り 知っておられます。

 この「探り」という言葉は、「調べ尽くす」という意味です。神が「私のことを調べ尽くして、私が無実だと知っておられるはずです」と、この詩篇は冒頭から自分の無実を語っているのです。自分には非はないはずなのに、なぜこのような事態になっているのでしょうかと言いたいのです。言われもない理不尽さに耐えきれず、主が私のことを知っていてくださるのだと、ここで詩人は訴えているのです。

 この詩篇はとても美しい言葉で表現されていますが、それはまるで組織神学の講義のような内容だと言われています。
 この詩篇は四つのブロックで構成されています。最初の部分は、「神が全知」、神がすべてのことを知っておられるということが言われています。二番目の部分(7節~12節)では「神の遍在」といいますが、どこにでもおられるということが言われています。三番目のブロック(13節~18節)は神が全知であられる理由である「神の創造」が語られています。そして、最後の部分(19節~24節)は詩人の訴えです。

 組織神学なんて言うと、何やら難しい講義でもはじまるのではないかと身構えてしまうかもしれませんが、そういう話はしませんのでご安心ください。ただ、この詩篇はまさに、「神の全知」だとか「遍在」という神学的なテーマを説明するのによく用いられるテキストであることには違いありません。

 そもそも、聖書の中に「全知」という単語は出てきません。けれども、私たちは神のことを「全知全能の神」であると聞いたことがあるはずです。どうしてこういう考え方が生まれて来たのかと言うと、今日のような詩篇の内容から、聖書の時代に生きた信仰者たちが、この詩篇のような言葉を尽くして、神はわたしが座るのも立つのも知っておられるお方で、私が何かを言う前から私の心の中の思いを知っておられるお方だと理解していることが分かるからです。それで、この神のことを短い言葉で言い表すなら、「すべてのことを知っておれる神」つまり「神の全知」というようにまとめられていったわけです。

 あるいは、7節から12節までのところもそうです。神は私がどこに行っても、一緒におられるお方だと告白しています。特に、この部分の表現はとても興味深い言い方をしています。
 たとえば8節~10節です。

たとえ 私が天に上っても/そこにあなたはおられ/私がよみに床を設けても/そこにあなたはおられます。/私が暁の翼を駆って/海の果てに住んでも/そこでも あなたの御手が私を導き/あなたの右の手が私を捕らえます。

 天の上にも、地のもっとも下であるよみの世界にも神はおられると言っています。もちろん、見たことはないのですから、想像しているのです。もう一つの表現は、「海の果てに住んでも」とあります。この時代は、今のように地球が丸いなんていうことは知らなかった時代ですから、海にはきっと果てがあると考えていた時代です。その海の果てに思いを寄せながら、そこにもし自分が暁の翼を駆って飛んで行ったとしても、神はそこから私が外におちてしまわないように右の手で捕らえて離さないでいてくださるお方だと信じたのです。

 そのくらい、上も下も、右も左も、どこまで行っても神はそこにおられて、自分を支えてくださるに違いないと信じたのです。理不尽な現実に突き付けられながら、この詩篇の詩人、ダビデでしょうか。この祈り手は、神がどのようなお方であるかに思いを馳せながら美しい言葉を紡ぎだしていきます。そうして、神のことを言い表しながら、自分の祈りを聞いて欲しいと訴えているのです。 (続きを読む…)

2020 年 11 月 22 日

・説教 詩篇126篇「収穫の喜びを期待して」

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2020.11.22

鴨下 直樹

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 今、オンラインで水曜日に「ざっくり学ぶ聖書入門」を配信しております。水曜日の聖書の学び会に集えない方のために、自宅からでも見てもらえるようにということで10月から始めています。できるだけ、一回1時間で各書簡をざっくりと紹介したいと思っています。

 先週は、民数記の学びをしました。民数記というのは、レビ記と並んで、聖書を読み始めると、途中で止まってしまう難所の一つです。特に前半には、何々部族、何万何千何百人というカタカナと数字の羅列が続くので、もう読みたくなくなってしまうようです。ご経験のある方も少なくないと思います。

 この民数記というのは、モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出してからの40年の荒野の旅のことが、まるまる記されています。読み進めれば面白い箇所がいくつもあるところです。私は、旧約聖書はあまり得意ではありませんので、この配信のために、一週間のかなりの時間をかけて準備をします。特に民数記は大きな出来事がいくつも記されておりますので、できるだけ短くまとめながら、分かりやすく説明したいと思うので時間がかかってしまうのです。

 ただ、そうやって時間をかけて民数記を読んでいますと、際立っているのは、イスラエルの民の身勝手さだということにどうしても目が留まるのです。わがままなのです。エジプトの奴隷の状態から救い出されたにもかかわらず、何か困ったことがあると、エジプトの方が良かったと、すぐに不平をこぼすのです。

 一度や二度ではありません。十回や二十回というような頻度です。いや、もうほとんどずっと文句ばかり言っているわけです。そして、その都度、神はそのイスラエルの民のわがままな要求に応え続け、救いの道を示し続けておられることが記されています。

 民数記を読んでいて考えさせられるのは、神の忍耐強さです。もちろん、そこには、何度も民を裁き、懲らしめる姿が記されているのですが、けれども、いつもそこに神は救いを備えてくださっているのです。

 そういう箇所を読んでいますと、私たちの歩みも全く同じだということに気づかされてきます。事あるごとに私たちは不安に感じ、不信仰に陥りそうになります。そして、何度も何度も悔い改めながら、神の救いの大きさと忍耐深さに救われて、今日まで支えられているというのがよく分かるのです。

 今日、私たちに与えられているのは詩篇126篇です。とても短い箇所です。読んでいますと、その背景もなんとなく想像できます。

 イスラエルの民が捕囚から帰って来た時の喜びがまずは歌われています。遠い国、バビロンに連れていかれ、祖国を追われていたのに、ようやくイスラエルに戻って来ることが出来た。それは、まるでエジプトの地で奴隷であったところから救い出された時とも重なります。そして、私たちが罪の奴隷から救い出されたこととも重なるのです。

主がシオンを復興してくださったとき
私たちは夢を見ている者のようであった。

 長い間、待ち焦がれていたそこに帰ることができた。それはその当時の人たちからすればどれほどの喜びであったか知れません。

 昨日のことです。娘がクリスマスプレゼントの話をしだしました。あれが欲しい、これが欲しいというのです。今、世の中は『鬼滅の刃』というアニメが大流行しているようですが、その影響は我が家にも及んでしまっています。それに出てくるものが欲しいというのです。ネットで検索してみますと、まだクリスマスまでひと月あるのに、商品の到着はちょうどクリスマス頃になると書かれていましたので、仕方がなく慌てて注文しました。すると翌朝、娘は「ねえ、いつ届くの?」と言うのです。「だからひと月後」と答えるのですが、もう待ちきれないのです。 (続きを読む…)

2020 年 11 月 15 日

・説教 詩篇127篇「子どもは主の賜物」

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2020.11.15

鴨下 直樹

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 今日は子ども祝福礼拝。子どもたちが親御さんとともに、ここに集って礼拝ができることをうれしく思っています。

 今日の詩篇127篇というのは、結婚した若い夫婦がエルサレムの都に上って結婚の報告をする。その時に歌われた詩篇ではなかったかと言われています。結婚をして家庭を持つ、その祝福がこの詩篇で歌われています。その最初に言われているのは家を建てるということです。

 みなさんは、家を建てるという経験をしたことがあるでしょうか。私は残念ながらないので偉そうなことは言えません。ただ、これまで何度か、教会堂建設をしている教会にいたこともありますので、想像することはできます。

 はじめは漠然と家が欲しいという願いがあることから始まるのでしょうか。そのうちに、近くのハウジングセンターを見に行ったり、あるいは家を建てた友達の家を訪ねた時に、その話を聞いて、自分たちもという思いを抱くのかもしれません。

 とても高額な買い物ですから、よく考えます。自分たちの収入でできることをいろいろと考え始めます。銀行でお金を借りられるのか、共働きするのか、まずは、そういったそもそもそういうことが可能なのかということを考え始めます。

 それと同時に、家の間取りはどうするか、庭はどうするか、駐車場はどうするか、部屋の数は、考え出すときりがありませんが、そういうことを考えるのはとても楽しいことでもあります。夢が膨らみます。そして、同時に大きな不安も抱えることになります。

 そうやって、ついに土地が決まって、こまかな話を詰めて、青写真が出来て、いよいよ、家を建てるというときになりますと、「定礎式」というのをいたします。この定礎式の時に、この詩篇の127篇が読まれることがあります。

 そこで、この御言葉が読まれます。

主が家を建てるのでなければ/建てる者の働きはむなしい。/主が町を守るのでなければ/守る者の見張りはむなしい。/あなたがたが早く起き 遅く休み/労苦の糧を食べたとしても それはむなしい。/実に 主は愛する者に眠りを与えてくださる。

 家を建てるということが、どういうことなのか、何を聖書が語っているのかを聞こうということなのです。そこで、語られるのは、せっかく家を建てたのに、「ああむなしいことをした」ということがないようにということです。

 トランプタワーをご存じでしょうか。アメリカの大統領のつくったあれではなくて、カードのトランプで作るタワーです。手に汗を握りながら、カードを合わせて、高いタワーを作っていきます。ドキドキして作っている時は楽しいのですが、ちょっとした手の加減の違いで、またたくまに崩れ落ちてしまいます。私は、せいぜい作れても2段までしか作れません。そもそも、上手につくる技術がないのです。でも、一所懸命つくっても、それは簡単に崩れてしまいます。

 私たちがもし、家を建てるのであれば、そんなトランプタワーのような家を造りたいとは誰も思わないでしょう。耐震強度のしっかりとした、地震にも台風にも、そして、シロアリにも、日本の湿度にも耐えられる家を造りたいと思うはずです。

 私は、実は名古屋の金山クリスチャンセンターの責任者をしております。少し前に、この金山クリスチャンセンターの耐震強度の検査をしてもらいました。耐震強度震度6弱まで耐えられるという結果でした。それが、高い方なのか、弱いという事なのか、なんとも判断の難しいところですが、築50年以上の建物です。それで、建て直しをということを考え始めたのですが、そうしますと反対をする方々がおります。どうせもうすぐ大きな地震が来るのだから、地震で建物が壊れてしまってから建てた方がいいではないかと言うのです。それで、今は建て替えの検討は見送りになっています。内心はとても複雑な思いでいます。地震が来るのを待っているというのもどうなんだろうという思いがあります。もし、建てるのであれば、地震が来ても大丈夫なものを建てたいと思うわけです。

 もし、そうやって一所懸命に建てたものが、瞬く間に崩れ落ちてしまうのだとしたら、それはまさにむなしいということになってしまいます。そうならないために、私たちはどうしたら良いというのでしょうか。

 この詩篇はソロモンの詩篇と表題に書かれています。ソロモンというのは、イスラエルの王さまで、ダビデの子どもです。イスラエルが近隣の国に絶大な力を持ち、神殿が建てられたのも、このソロモン王の時でした。イスラエルの王たちの中でもっとも力のある王であったということができます。 (続きを読む…)

2020 年 11 月 8 日

・説教 詩篇146篇「いのちあるかぎり」

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2020.11.08

鴨下 直樹

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 今日の詩篇には、人間の悲しみが詰まっています。悲しい言葉がいくつも並んでいます。

 「虐げられている者」「飢えている者」「捕われ人」「目の見えない者」「かがんでいる者」「寄留者」「みなしご」「やもめ」。これらの言葉はみな悲しみを抱えている人たちのことを言っています。私たちが生きている世界には、そこかしこに、悲しみの原因が転がっています。いつ、誰が、この悲しみを拾ってしまうか分かりません。

 みなさんは、このような悲しみを経験するとき、それをどうしているでしょうか。私たちはストレス社会を生きていると言われています。体調を崩して病院に行きますと、「ストレスですね」と言われることが度々あります。どこにも持っていくことのできない苦しみや悲しみを抱えながら、誰もが生きています。

 中には、人に話を聞いてもらってその発散をしている人もあるでしょう。あるいは、趣味に没頭することで、気を紛らわしているということもあると思います。本を読む、映画を見る、ゲームをする。おいしいものを食べる。お酒を飲む。旅行に出かける。人それぞれ、自分にあった何らかの対処法をもっているのかもしれません。そして、それでなんとかなるうちはいいのです。自分の許容範囲を超えてしまうような出来事と遭遇するとき、私たちはそれをどこに持っていくことができるというのでしょうか。

 たとえば、職場などで上に立つ立場の人というのは、実にさまざまな問題を抱えることになります。責任が重くなればなるほど、抱える問題も大きくなってしまいます。そして、誰にも話せないことも増えていくのだと思います。

 今日の聖書の3節にこういう言葉があります。

あなたがたは君主を頼みとしてはならない。
救いのない人間の子を。

と書かれています。

 言いたいことはよく分かると思うのですが、実際には「君主」というのは、その国のリーダーです。会社で言えば、一番上に立つ人、社長を指します。スポーツで言えば先頭を走っている人です。

 一番上にいる人でないと見えない景色があります。先頭を走っている人でなければ見えていない問題というのが必ずあるはずです。下の方にいる人より、後ろの方にいる人よりは、上にいる人、前を進んでいる人の方が、沢山の答えを持っているはずです。けれども、この詩篇は、そういう人の上を行く人、人に先んじる人も、人に過ぎないのだと言っているのです。それほど、大きな差はないのだと言っているのです。

 子どもが成績表をもらってきます。二重丸、丸、三角、上級生になるとA、B、Cと成績がつけられます。中学からは5、4、3と成績がつけられていきます。その成績で一喜一憂します。私たちは子どものころから、そういう評価されることに慣れてしまいます。そして、そのような評価を絶対視してしまいます。

 少しでも上に、少しでも先に、それが一番大事なことだと当たり前のように考えてしまうようになります。個性が大事とか、その子らしさを受け入れようと言いますけれども、どこかで、そういうセリフがしらじらしく響く世界に、私たちは身を置いて生きているのです。

 だから、評価されなければ悲しいし、自分の存在価値は、人に評価されるところにあると考えてしまうので、この詩篇にあげられているような人々のようにはなりたくないという思いを、心のどこかで持つようになるのです。

 ところが、聖書は「君主を頼みとしてはならない」と言うのです。同じ、死に支配されている人間なのだからと。

 今日は、召天者記念礼拝です。すでに、この世の生を終え、天に召された家族のことを覚えて、ここに集っております。例年ですと、大変大勢のご家族の方が集まりますが、今年はコロナ禍ということもあって、多くの方々は来ることができませんでした。けれども、今、私たちは天に送った家族のことを覚えて、この礼拝に招かれています。

 そして、この詩篇146篇のみ言葉が、私たちに与えられています。この詩篇は、幸いを歌う詩篇です。ここにあげられている人は、みな悲しみを抱えている人たちですが、この詩篇は悲しみに支配されてはいないのです。それは、なぜか。
 詩篇の5節にこう記されています。

幸いなことよ ヤコブの神を助けとし
その神 主に望みを置く人。

 頼みとするのは、人ではなく、ヤコブの神、主であると言っています。ヤコブというのは、先週まで創世記の説教していましたあのヤコブです。兄をだまし、報復を恐れて逃げ、その逃げた先で、二人の妻をめとり、12人の子どもが与えられました。アブラハムに約束された神の祝福の約束は、このヤコブに受け継がれていったのです。あの、ヤコブと共にいて、祝福を与えられた神、主に望みを置く人は幸せに生きることができる。そのように、この詩篇では言っています。 (続きを読む…)

2020 年 11 月 1 日

・説教 創世記35章6-29節「イスラエルを祝福される神」

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2020.11.01

鴨下 直樹

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 今日でヤコブの生涯の説教の終わりを迎えます。けれども、お気づきの方も多いと思いますが、今日の終わりのところに書かれているのは、ヤコブの死ではなく、父イサクの死で結ばれています。そして、物語はヨセフへとつながっていくのです。このヨセフの物語の最後の部分で、ヤコブの死が記されています。

 この創世記というのは、父の生存中に息子たちの物語を記しているのです。これは、聖書の一つの考え方を表しています。つまり、子どもたちは父の祝福の中で生を与えられているのだというメッセージです。

 私たちは、自分の生涯は自分の力で生きていると思いながら毎日の生活をしています。私たちは学生の時代を過ごし、成人して、その後に独立して、家庭を築いていくことが多いと思いますが、その背後には意識していようとしていなかろうと父がいるのです。そして多くの場合、その生涯の途中で父を天に送るということが起こるわけですが、それまでの間、父の守りの中で、生きているのだと、聖書は考えているのです。この聖書の考え方はとても大切なものです。というのは、さらに、その背後には父なる神の眼差しがあり、神の御手が差し伸べられていることを知ることになるからです。

 もちろん、人生には様々なことが起こります。病のため、あるいは何かの事故のために早く両親と別れてしまうということも起こります。そうだとしても、聖書の考え方は、その背後に父の眼差しがあるということを伝えようとしているのです。

 もちろん、私たちの生涯の中にも様々な出来事が起こります。今日の35章に書かれているヤコブの物語にしてもそうです。

 ベテルに移り住むこと、そして、母リベカの乳母の死、神からの祝福、妻ラケルによって、ベニヤミンの誕生と、妻ラケルの死、そして、長男ルベンの不品行、そして、父イサクの死。どうまとめたらいいのか分からないほど、さまざまな出来事が記されています。

 私たちの人生もそうでしょう。様々なことが同時進行で起こるのです。兄弟のこと、子どもたちのこと、親のこと、会社のこと、友人や知人のこと、さまざまな人との関わりの中で生かされているわけですから、簡単ではありません。時々疲れてしまって、休みたくなることもあります。全然前に進み出せず、足踏みしてしまうこともあります。あるいは、大きな後退と思えることもあるのです。

 そういうことが次々に起こり出すと、本当に苦しい思いになります。逃げ出したいと思うことがあります。途方にくれてしまうことがあります。それは、聖書に出てくる人物も、私たちもまったく同じです。

 聖書を読んでいますと、何度も何度も、同じような言葉が繰り返されています。たとえば、今日の箇所ですと、11節にこのような主の言葉があります。

神はまた、彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」

 昨年から、アブラハムの生涯の説教を始めまして、イサク、ヤコブと続いて説教してきました。その間に、何度も何度も、これと似たような言葉が語られ続けていますので、続けて読んでいる私たちには、また、同じ言葉が書かれていると慣らされてしまうような気がします。けれども、聖書が何度も、何度も同じように、祝福の言葉を語り続けるのは、神の祝福の言葉を聞き続けていなければ、私たちは生きていかれないからです。

 もちろん、子どもが生まれるという嬉しいニュースもありますが、妻の死が突然起こったり、息子からの辱めを受けたり、大好きだった乳母が死んでしまったりという、悲しい出来事も起こるのです。

 私たちは、生きて行かなければなりませんから、いつまでも泣きつづけることはできません。立ち上がらなくてはなりません。目当てを持って生きて行かなければならないのです。

 何のために自分は生きているのか。その根本的なことを忘れてしまう時に、私たちは前に進めなくなってしまうのです。だから、主は語り続けるのです。

 あなたは、わたしの祝福の担い手、わたしがあたえた祝福を、この世界に示すために生きている。あなたから王がでる。あなたの子どもたちはどんどん増えることを通して、わたしが全能の神であることが示されるのだと、主はここでヤコブに語りかけておられるのです。

 神の御名がかかっているのです。その名も「全能」と言うとてつもなく大きな名前で神が、ご自分のことを語られています。この神の全能が示されない生き方を私たちがするなら、神の名折れです。

 私たちは、ヤコブの子孫です。新しいイスラエルの民です。私たちの信じている神は、ヤコブに全能の神として、ご自身を示されたお方です。このお方が、私たちの神、主なのですから、私たちの人生にも次々に色んなことが起こっても、慌てふためかなくてもよいのです。

 神が、ヤコブにそうされたように、私たちにも、神の御業を示してくださるのです。 (続きを読む…)

2020 年 10 月 25 日

・説教 創世記34章1節-35章5節「家族の危機」鴨下直樹牧師

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 10:33

2020.10.25

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 ヤコブは神との格闘に勝利し、兄エサウとの問題も克服して、いよいよ、神の約束の地であるカナンでの生活がはじまりました。

 物語であるならば、もうこれでハッピーエンドです。あとは、「ヤコブは家族と共に、神さまの約束の地でいつまでも幸せにくらしましたとさ。」そうやって結ばれるはずです。しかし、です。聖書はいつも、私たちに理不尽さを突き付けてくるのです。

 あろうことか、ヤコブの12人の子どもの一人、しかも名前が記されている子どもの中では唯一の女の子であるディナが、一族が住み着くことになった、あの父祖アブラハムのゆかりの地で、はずかしめられたのです。そのことは、家族にとって、どれほど深い悲しみとなったことでしょう。特に、ディナの兄弟であったレアの子、シメオンとレビは烈火のごとく憤ったのです。ここに記されている出来事はあまりにも残虐で、丁寧に説明する気も失せるほどの、残虐非道なふるまいです。

 この時、ディナを辱め、さらにディナとの結婚を求めた憎むべき相手であるシェケムは、同じ名前のシェケムの地の人々の中でも、「だれよりも敬われていた」と19節に書かれています。ということは、この土地の人々は略奪婚というような方法をとっても、名誉が傷つくことはなかったということです。つまり、そういうことがまかり通る倫理観を持っている地域であったということでしょう。そして、この地の人々はヤコブたち一族と姻戚関係を結べば、ヤコブ達の財産を奪うことができると考えていました。

 一方で、ディナの兄であるシメオンとレビですが、妹が辱められたということで、怒りを覚え、割礼をうければ婚姻を認めると、だまして、その結果、シェケムの男たちを皆殺しにし、略奪するという、残虐非道な方法で仕返しをするのです。

 私たちはこういう物語を聖書で読むときに、ここから一体何を神は語ろうとしておられるのか、途方にくれるような思いがします。ヤコブがこの時とった振る舞いも、なんとなく、気弱な態度に見えるのです。それほど息子たちを叱るのでもなく、近隣の地域をなだめるというような方法もとらず、その地を離れただけ。そのように読めるのです。

 この残忍なシメオンとレビの振る舞いを、私たちはどう考えたらよいのでしょうか。確かに、歴史小説であれば、妹のため立ち上がって復讐を果たすという物語は、年末のドラマにはうってつけのテーマなのかもしれません。それは、まるで英雄譚でも見ているような思いになれるのかもしれません。

 そもそも、ヤコブたち一族には何ら落ち度があったわけでもなく、ただの被害者である。そう考えれば、シメオンとレビは英雄なのであって、悪いのは完全にシェケムの地の人間である。そう考えることはできます。

 昔から、聖戦だとか、正義の闘いといって繰り広げられる物語は、相手方が絶対悪で、こちら側は絶対的正義を身にまとっているものです。人と争う時も、ほとんどがこの考え方です。自分の考え方が絶対に正しいと決めてかかっているのです。相手側の文化や、価値観の違いは認めないというのであれば、それもまかり通るのかもしれません。非道徳的だと決めつけることができるのかもしれません。

 けれども、古代の世界の中で、何の保護もない、族長時代と呼ばれるこの頃の世界観の中に、聖書の神が語るような高度な倫理観を備えた国が、いったいどれほどあったというのでしょう。おそらく、シェケムの人々は、自分たちの振る舞いはごく日常的なことで、パダン・アラムからやって来たこの外国人が、どんな家族観や結婚観を持っているのかなどという事は、想像もできなかったのだと思うのです。

 では、聖書はこのことをどのように語っているのでしょう。そこで、思い出す必要があるのは、神がアブラハムにかつて語られた、あの約束の言葉です。 (続きを読む…)

2020 年 10 月 18 日

・説教 創世記33章1-20節「兄エサウとの再会」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:00

2020.10.18

鴨下 直樹

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 みなさんは、食事の時に嫌いな食べ物があったとしたら、それは最後まで残しておく方でしょうか。それとも、先に食べてしまう方でしょうか。私は、子どもの頃から、嫌いなものは最後まで残しておく方でした。そして、あわよくば食べなくても良くなることを期待していたのです。ところが、今は違います。苦手な食べ物は先に食べるようにしています。

 これは、何も食べ物に限ったことではありません。やらなければならない仕事を後回しにするか、先にやってしまうか。これも、そうですが、私は以前は、最後まで先延ばしにしてしまって、やらなければいけないことにギリギリまでかかってしまう方でした。今でも若干そういうところはありますが、できるだけすぐにやろうと心掛けるようになりました。ですから、以前は、礼拝説教などは、ほとんど日曜の朝方にできるとか、夜中の2時までかかるとかいう具合でした。最近は土曜の夕方には終わるようにしています。もちろん、うまくいかないこともしばしばですが、先延ばしにしないように気を付けるようになりました。というのは、仕事ができる人というのは、すぐにやるんだということに、ある時気が付いたからです。

 また、人との関係が難しくなってしまった時となると、余計に私たちはそういうことは先送りにしたくなってしまいます。なかなか気が進まない、そんな経験はみなさんのなかにもあるのではないでしょうか。

 ヤコブも同じです。いやなことは最後の最後まで先延ばしにするタイプの人間だったようです。決断が遅いのか、その間に何かが起こることを期待しているのか。気が進まないことを先延ばしにして、漠然と時間が解決してくれることを期待したい、ヤコブのそんな思いは誰もがよく分かると思います。幸い、ヤコブは先延ばしにした結果、その何かが起こります。それが、最後までヤボクの渡し場の所で、一人残っていた時に、ある人と出会い、格闘をし、勝利を得るという出来事だったのです。

 そして、この時戦った相手はというと、主なる神ご自身であり、主はそこでヤコブに新しい名前である「イスラエル」つまり、「神に勝利した者」という名前を与えてくださったのでした。

 先週あまりその後のことを詳しく話しませんでしたが、ヤコブはその場所の名前を「ペヌエル」と名づけました。

「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。

と32章の30節に書かれています。

 この時、ヤコブは主ご自身と顔を合わせたと言っているのです。兄エサウと顔を合わせるのが怖くて、おびえていたヤコブは、ここでもっと偉大なお方、最も畏れるべきお方である主と顔を合わせたのに私は生きていると言ったのです。ただ、勝者と言われていますけれども、気づいてみるとヤコブは、正反対の敗者のようになっていました。主に足を打たれて傷を負ってしまうのです。ももの関節、腰の筋を打たれてうまく歩けなくなってしまったと、32章の最後のところに書かれています。

 そして、今日の、聖書箇所は衝撃的な言葉からはじまっています。1節です。

ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウがやって来た。四百人の者が一緒であった。

 嫌なことというのは、いつまでも先延ばしにすることができません。必ず夜は明けるように、その時は来るのです。大事なことは、その時を迎えるまでにどんな準備をしておくことができるかです。

 ヤコブは、不思議なことにエサウと会うために何の備えもしなかったはずなのに、主がヤコブと出会われて、格闘し、ヤコブは意図していなかったのに、必要なすべての準備を主が整えてくださったのです。

 しなければならないことを先延ばしにしたところで、本当はそこには何の解決もありません。なぜなら、するべき準備もせず、自分に与えられている責任を果たそうとしないで、逃げているからです。ヤコブは、そのような者だったのです。

 ところが今日の33章から、新しいイスラエルという名前をいただいたヤコブの変貌ぶりが示されています。 (続きを読む…)

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