2020 年 2 月 16 日

・説教 創世記18章16-33節「主の前に立つアブラハム」

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2020.02.16

鴨下 直樹

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 私たちはここ二週間ほどでしょうか、テレビをつければ新型コロウィルスのニュースにくぎ付けになっています。ついに、日本人の死者が出たとか、感染ルートが分からない人が感染したという、もうこの新しい病が身近に差し迫っているというような危機感を煽る報道に、私たち自身もどのような身の振り方をすればいいのかと不安になります。

 こういう報道をテレビなどで見ていますと、ふとこういう考えが心に浮かんできます。神様はどうしてこういうことをゆるされているのかと。もし神のゆるしがあって、この新しい病気で次々に多くの人の命が奪われているということならば、きっとこれは神の裁きなのではないか。そんな考えが私たちの頭の中に出てくるわけです。信仰生活の長い歩みの人は、こう考え方からある程度自由になっている人もいると思いますが、どうして神様はこんなことをなさるのだろうかという思いを抱かれる方もあると思うのです。

 もちろん、それは今回の病気にとどまりません。地震や、災害に見舞われるとき、不慮の事故や、災いを経験するとき、私たちの心の中に「神よ、どうして」という疑問が出てくることがあります。今日の聖書は、まさにこの神の裁きをどのように理解するかということと深くかかわってくる箇所と言えます。

 と言いますのは、ここで聖書は、神がロトたちの住んでいるソドムとゴモラの町を滅ぼそうとしておられるというのです。この箇所は神の裁きを語る箇所です。

 ここで聖書が神の裁きをどのように書いているのか、まず、注意深くこのところに目を向けていきたいと思いますが、この17節でこう書かれています。

主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」

 ここでソドムの町が裁かれることを、神がアブラハムに相談するべきではないかということを考えておられる、と書かれています。神様の心の中のことが書かれているなんて、ちょっと珍しい箇所です。それは18節以下にも続いています。

アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。

 とそのように記されています。つまり、これから起こるソドムとゴモラの神のさばきの計画を、アブラハムが知ることは、神がアブラハムに与えた約束が実現するためにどうしても必要なのだと言っているわけです。そして、ここで一番大事なことは何かというと、このことで、アブラハムやアブラハムの一族が「主の道を知り、正義と公正を行うようになるため」と言っています。 (続きを読む…)

2020 年 2 月 9 日

・説教 創世記18章1-15節「主にとって不可能なこと?」

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2020.02.09

鴨下 直樹

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 前回の17章でアブラハムは99歳、妻のサラは89歳。この時に主なる神はアブラハムに、来年の今ごろサラから子どもが生まれると語られました。今日の箇所はその続きと言いますか、今度はアブラハムだけでなくサラにもこの知らせが伝えられたことが書かれています。

 この頃、アブラハムたちはマムレの樫の木のふもとで暮らしています。ここに住み始めてもう長いこと時間がたっています。ロトと別れた時から、聖書で言えば13章の時から、アブラハムはこのマムレの樫の木のところで生活しています。このマムレというのは14章でアブラハムがエラムの王ケドルラオメルの連合軍と戦った時に、アブラハムと盟約を結んでいた人物で、一緒に戦って勝利を得ています。つまり、アブラハムは神から土地を与えられる約束をいただいていても、なおも、マムレの所有する土地を間借りするような状態で、ここまで過ごしていたということです。

 アブラハムにとってマムレの樫の木のふもとはもう住み慣れた地です。そこで落ち着いた生活をしていたところで、3人の旅人が日の暑い時間帯に、アブラハムの天幕のそばを通りかかったのです。

 この三人の旅人は主なる神ご自身でした。「主は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた」と1節に書かれています。これは、主がわざわざアブラハムに会われるために、出向いて行かれたということです。17章と内容が同じですから、創世記では時々そのような書き方になりますが、アブラハムに語られた出来事と、サラにも語られたというように書き方を分けて書いているのかもしれません。それは、あのクリスマスの出来事の時と同じように、マリヤに御使いが受胎告知されただけでなくて、夫のヨセフにも語りかけられたことと似ています。

 主はアブラハムに寄り添われて、その信仰を導かれるように、ここではサラに対しても同じように、サラの信仰をも導いてくださるお方なのです。

 しかし、もちろん、アブラハムは主がわざわざ自分に会うためにこられていることは知らなかったはずです。アブラハムは、普段からこのように旅人を持てなしていたのか、あるいは、この旅人からただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、はっきりしたことは書かれておりませんから分かりませんけれども、精一杯のおもてなしをいたします。

 今年、オリンピックがあります。その時に「お・も・て・な・し」という言葉が日本の心を表す言葉として紹介されていましたが、アブラハムのおもてなしは、おもてなし文化のあるという私たちの予想を超えるおもてなしです。

 少し余談ですけれども、日本に毎年ドイツから一年の短期宣教師たちがもう何十年も前から来ていますけれども、彼らに聞くと日本で家に招かれたことがないと口をそろえて言います。そんなことを考えると、私たちは「おもてなし」という文化を持っていると言えるのかどうか、怪しい気がしています。人を自分の家に迎えるという気持ちよりも、掃除がめんどくさいとか、きっと他の人がやるからいいとか、そこまで親しくないとか考えるわけで、相手の気持ちよりも、自分の事情が優先されているのではないかということを考えさせられます。ところが、アブラハムはそうではありませんでした。

 まず、「三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作りなさい」と6節にあります。先週、「55プラス」の集会に28名もの方々が参加されたそうです。そこではいつもマレーネ先生がパン菓子というか、ケーキを焼いてくださっています。これは本当におもてなしの心だと思います。それが魅力でたくさんの近隣の方々が教会を訪ねてくれているのだと思いますが、30人分のケーキを焼くのに必要な小麦粉はせいぜい2リットルくらいでしょうか?焼いたこともない私が偉そうに言うことではありませんが、23リットルものケーキを焼かされたサラはかなり大変であったことは想像するに難しくありません。

 それだけではなくて、子牛を一頭屠ります。もう大盤振る舞いです。それに凝乳と牛乳を準備します。「凝乳」というのは、チーズかヨーグルトかと思いますが、ドイツには「クワーク」というパンに載せて食べるヨーグルトとチーズの間みたいなのがあります。そんなイメージでしょうか。ドイツのルター訳ではどうなっているかと思ってみてみたら、「バターとミルク」となっていました。パンにあわせるものですから、バターの方が合いそうな気がしますが、どうだったのでしょうか。

 サラはパンの準備、しもべは子牛をほふって大忙し、アブラハムも8節には「彼自身は木の下で給仕をしていた」とありますから、もう一族上げての「お・も・て・な・し」です。 (続きを読む…)

2020 年 2 月 2 日

・説教 創世記17章15-27節「ノー! アブラハム」

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2020.02.02

鴨下 直樹

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 みなさんが誰かに話を聞いてもらいたくて一所懸命話をする。ところが、聞いているはずの相手が、鼻で笑っている。そんな場面が私たちの日常でも時折起こるでしょうか。ちゃんと自分の話を聞いてくれていないと思ったとたん、自分が今話した内容が軽く扱われたような気がして空しくなる。悲しくなる。がっかりする。そんな経験をしたことが誰しもあると思います。

 この創世記、17章で主はアブラハムの反応も待たずに、まくし立てるかのように話し続けておられます。アブラハムが多くの国民の父となるという契約を結ぶこと。そのために名前をアブラムからアブラハムに変えること。そして、割礼を施すこと。そこまでが前回の箇所です。主の言葉はそれでとぎれることなく、今度は妻サライの名前もサライからサラに変えるようにと語り続けます。もう、一方的です。99歳になったアブラハムに、神はここぞとばかりに語りかけておられるのです。ここに、主なる神の情熱的なお姿を見ることができます。

 しかも22節を読みますとこう書かれています。

神はアブラハムと語り終えると、彼のもとから上って行かれた。

 えっ? 上って行かれたってことは、下りてこられていたってこと? という疑問符が付きますが、そういうことなのでしょう。神は天から降りてこられていて、アブラハムと顔を合わせて語っておられるのです。それが、どういう姿であったのか、人としての姿をおとりになったのか、御使いのお姿なのか、それとも、光の中から、あるいはモーセの時のように火の中から語りかけられたのかは、書かれていないので分かりません。けれども、この書き方の中に、神のただならぬ情熱のようなものを感じ取ることができます。

 前のめりになって語りかけておられる神。そう表現してもいいと思います。ここで主は満を持して、アブラハムに語っておられるのです。

 一方、アブラハムの方はどうかというと、前回もお話ししました、イシュマエルの出来事の後、13年もの間、何の神からの働きかけもない時間を過ごしています。もっといえば、ハガルとイシュマエルの出来事を通して、アブラハムは神からの直接の働きかけはないわけですから、もっと長い間、あの星空談義の後からここまでの間、アブラハムは神からの御声を聞いたことは書かれておりません。

 忘れたこところに突然現れて、何だかとてもいいことをたくさん話してくれるけれども、こっちの気持ちはどうなのだとアブラハムが思っていたとしても不思議ではありません。

 主なる神が前のめりになっておられるのとは正反対に、アブラハムは引いてしまっています。この主の語りかけのことばをアブラハムは受け止められません。
17節

アブラハムはひれ伏して、笑った。

 ここにそのように記されています。悲しい響きです。アブラハムに一所懸命に語りかけておられる主が、この時どのような思いになられたことでしょうか。神に対してこの態度をとるとは、とても畏れ多いことです。主が、前のめりになって語っておられるのに、アブラハムの心は冷めてしまっているのです。受け止められないのです。笑うしかないのです。

 これが、この17章で描かれているアブラハムの最初の反応です。 (続きを読む…)

2020 年 1 月 26 日

・説教 創世記17章1-14節「99歳からの新スタート」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:34

2020.01.26

鴨下 直樹

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 毎週、すこしずつですがこうして創世記のみ言葉を聴き続けています。みなさんが、毎週この続きの説教を聞くことを楽しみにしてくださっているといいなと思っています。私は、一週間の間に、創世記のさまざまな翻訳の聖書に目を通し、解説している注解書や説教集を読みます。特に、創世記は優れた内容の本がたくさんありますので、少なくても20~30冊の本に目を通します。そうやって準備をするのは、ここに書かれていることがどういうことなのかをできるかぎり理解したいと願うからです。そうすることによって、神はここで何をなさろうとしておられるのかをつかみ取ることができるわけです。けれども、いつも時間が足りない、もっと知りたい、もっと深く掘り下げたいと願いながら、一週間がすぐに過ぎていってしまいます。

 一方で、アブラハムは前回の箇所の終わりで86歳であったと書かれていまして、ここでは99歳です。この13年の間のことを、聖書は何も記していません。言葉に記すことのできない時間を過ごしているわけです。ハガルから生まれたイシュマエルが跡取りではないと聞かされながら、子どもが日に日に育っていくのを、アブラハムはどんな思いで育てたのでしょうか。13年という時間は、とても長いのです。一週間、この前のところから今日の箇所までをゆるされる時間の中で、できるかぎり理解しようとする努力に比べて、アブラハムがここで味わった理解したいと願いながら、何の答えも、言葉もないそのような13年の重みというのはどんなものなのか、想像する他ありません。

 私たちは、教会でこうして毎週、順に聖書の言葉に聞いていくことができるわけですが、そこから神さまはどういうお方か、信仰に生きるということはどういうことなのかを考えることができます。私たちは、アブラハムはあまり立派ではなかったのではないかとか、もっと他の選択がなかったかとか、好きなことを言えるわけですが、それもこれも、私たちはすべての結末を知っているから言えるだけのことで、実際にその期間を経験したわけでありませんので、アブラハムの本当の苦しみというのは理解し得ないのです。

 1節をお読みします。

さて、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」

 主はここで、ご自身のことを「わたしは全能の神である」と言われたと書かれています。「エル・シャダイ」という名前です。前回のところで「エル・ロイ」、「見ておられる神」という主なる神様のことが語られています。それと、同じように、ここで主はご自分の方から、自分は「エル・シャダイ」という神であると言われたわけです。

 ここで、この「エル・シャダイ」という神の御名を「全能の神」と訳しております。ところがこの「エル・シャダイ」という言葉の意味ですけれども、この「シャダイ」という言葉はどの本を読んでも意味が分からない言葉だと書かれています。意味が分からない言葉なのに、どうして「全能」なのかと言うと、まだ紀元前の話ですが、ギリシャがへブル語の聖書をギリシャ語に翻訳した70人訳聖書といわれる、旧約聖書の最初のギリシャ語翻訳がなされます。この70人訳ギリシャ語聖書がこの「シャダイ」という言葉を、「全能」と訳したのです。 (続きを読む…)

2020 年 1 月 19 日

・説教 創世記16章1-16節「荒野の泉のほとりにて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:45

2020.01.19

鴨下 直樹

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 聖書の中にはいく人もの女性たちの物語が記されています。ここにも二人の女の人が登場します。一人はサライです。サライはアブラハムの妻で、後で名前がサラと変えられます。ここでは、まだサライと名前で出ています。ちょっとアブラムなのかアブラハムなのかと気になる方があるようですから、聖書の表記は「アブラムとサライ」ですが、この後で、「アブラハムとサラ」と名前がかわりますので、今後は「アブラハムとサラ」という名前でお話ししたいと思います。

 サラはアブラハムと共にカルデヤのウルから出てきました。そして、その後、ハランに留まります。アブラハムとサラは10歳年が離れていたと後で書かれています。ですから、アブラハムがハランを出て来た時75歳ですから、サラは65歳ということになります。それから10年後の出来事が今日の出来事です。

 そして、この時、サラは75歳です。つまり、アブラハムが神から子孫の約束を与えられた時、妻のサラもその約束を耳にして、喜んだはずですなのですが、その約束から10年の間、子どもが与えられなかったわけです。その時のサラの悲しみや悩みはどれほどだったことでしょう。
 2節にこう書かれています。

サライはアブラムに言った。「ご覧ください。主は私が子を産めないようにしておられます。」

 まずは、前半だけですが、この言葉の中に、サラの悲しみが込められています。75歳まで子どもがなかったことも悲しみですけれども、神から約束を与えられた時に、当然、はじめは自分に子どもが与えられると思ったはずなのです。ところが、その間も子どもが与えられなかった。きっと悩んだに違いないのです。いろいろと考えたに違いないのです。自分を責めたに違いないのです。

 そして、一つの結論を出します。

「どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」

 この言葉をアブラハムに告げるために10年という歳月を要しているわけですから、どれほど大きな選択だったかということを、私たちはここから知ることができます。
 そして、聖書は続いてこう書いています。

「アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」

 このアブラハムの決断にも、寂しさを感じるのです。本当ならば「サラ、あなたはそう言うけれども、私は神様の約束を信じている。だから、そんなことを言うもんじゃないよ。」もし、そう書かれていれば、アブラハムという人は何という妻を愛した人物だったことかということが分かって、物語的にも美しい物語になるはずなのです。

 けれども、アブラハムの口からそういう、信仰的な言葉は出てきません。
「アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」この短い言葉の中に、私たちはこの決断がサラをどれほど悲しみに追いやったのかを知るのです。

 もちろん、こういう話は、歴史の中では満ち溢れています。豊臣秀吉の妻、寧々に子どもがなく、茶々を側室として迎え入れたのも、同じことです。こういうことは歴史の中で何度も行われてきたことです。それは、子孫を得るためにどうしても通らなければならない道であるということは、誰もが分かるのです。

 そして、結果もいつも同じです。4節。

「彼はハガルのところに入り、彼女は身ごもった。彼女は、自分が身ごもったのを知って、自分の女主人を軽く見るようになった。」

 こうなることは、分かり切っていることです。そして、ここからはいつも同じ、ドロドロの展開です。

サライはアブラムに言った。「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上にふりかかればよいのです。この私が自分の女奴隷をあなたの懐に与えたのに、彼女は自分が身ごもったのを知って、わたしを軽く見るようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」

 10年前にエジプトの王ファラオが見染めたサラの美しさは、もはやなくなってしまったのでしょうか。それとも、その美しさは外見だけのものだったのでしょうか。いや、それとも、人は誰でもこうなり得るということを、聖書は語ろうとしているのでしょうか。 (続きを読む…)

2020 年 1 月 12 日

・説教 創世記15章1-21節「星空を仰ぎ見て」

Filed under: 特別説教,礼拝説教 — susumu @ 13:18

2020.01.12

鴨下 直樹

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 みなさんは、アウトドアキャンプというのをされたことがあるでしょうか。テントを張って、野外でするキャンプです。私たちの教団では岐阜の根尾にキャンプ場をもっています。それもキャンプですけれども、宿泊施設ですから、また同じキャンプでも雰囲気が異なります。私の思い出から始めて恐縮なのですが、まだ私が教団の学生や青年の担当の牧師をしていた時に、毎年教団で行っている夏のキャンプとは別にアウトドアキャンプを行っていました。岐阜の根尾に知り合いがキャンプ場をもっておりますので、そこをお借りして20名ほどの青年たちとで、毎年キャンプを楽しんでいました。夜、バーベキューをして、温泉にいって、夜もだいぶ遅くなりますとみんなで車に乗り込みます。根尾の川の上流に車で一時間ほどでしょうか、そのくらい走りますと上大須ダムという大きなダムがあります。山の上の方ですし、ダムですから明かりもほとんどありません。そこを車で一周数キロあるのですが、そこをドライブしたり、途中で降りたしながら自然を満喫するのです。そうすると、鹿やら猪やら、サルの群れやら次々に野生の動物たちが出てきますので、「ナイトサファリ」などと呼んでいました。途中でおりて散歩をしたりしますと、サルの群れに襲われそうになって、慌てて車で走って逃げたりとか、結構楽しい時間を過ごすことができました。

 ダムの真上の部分は橋のようになっていまして、右側がダムの湖、反対側は水を流す方ですから、すごく高いところにいるのが分かります。その橋のあたりは動物も出てきませんので、その橋のところにみんなで寝そべって、夜空を眺めますと、もうこれはすごい数の星を見ることができます。

 以前、しし座流星群が見えるという時に、その時も何人かで車を走らせまして、岡山県の美星町という町がありまして、そこが星がよく見えるというので、行ったことがありましたが、根尾では、美星町で見た星の数なんて比較にならないくらいたくさんの星を数えることができました。美星町は、周りに高い山がないので、周り一面見渡せるという意味では、流星群は見ごたえがありましたが、あまり高い山ではありませんから、どうしてもたくさんの星は見ることができません。私の知る限り、その上大須ダムで見た星空の星が、いままでで一番たくさんの星を見た時だと思います。

 きっと、みなさんもこれまでの歩みの中で何度も何度も美しい夜空を見たことがあると思います。

 聖書に記されている神さまのイメージというのは、それぞれ実に豊かなイメージがありますが、今日の箇所はその中でも最高に素敵な、それこそ神様はけっこうロマンチストだなというようなイメージを抱くことができます。

 順に今日の聖書を見てみたいと思うのですが、まず15章の1節にこう記されています。

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。私はあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」

 ここには、アブラムを気遣って語りかけておられる主の慈しみ深さが示されています。「これらの出来事の後」というのは、先の戦争の出来事の後ということです。そして、「恐れるな」との語りかけから考えると、アブラムはその戦いの後、恐れを持っていたと言うことが分かります。いつまたエラムの王ケドルラオメルが連合軍を引き連れて、今度はアブラムを攻撃するためにやってくるかもわからないという恐れを持ったことは想像に難くないことです。しかし、主はそのアブラムに「わたしがあなたの盾となってやろう」と言ってくださるのです。こんなに心安らかになる励ましの言葉はありません。どんな恐れを持っていたとしても、この一言さえいただけるならば、一瞬で問題は解決です。そして、主は「あなたへの報いは大きい」と、アブラムを励ましておられます。主は、アブラハムの生涯の中で、何度もこのような確かな平安を得られるような言葉を語りかけてくださいます。それは、信仰に生きる者にとって大きな支えとなったはずです。主の愛と、主の近さを覚えることができたはずです。

 この創世記15章はアブラハムの生涯の中心の出来事と言っていい箇所です。そして、ここで主はアブラムと語り合っておられます。これまで、主とアブラムが具体的な言葉で語り合っておられる姿は記されていませんでした。ここで、主はアブラムのとても近くにいてくださり、アブラムと語り合っていてくださいます。

 さて、そこでアブラムはなんと答えたかですが、2節を見ると驚きます。

アブラムは言った。「神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」

 ちょっと耳を疑いたくなる言葉です。恐れをもっているアブラムに、主は優しく語りかけていてくださるのに、アブラムはあろうことか嫌味で言い返したのです。 (続きを読む…)

2020 年 1 月 5 日

・説教 創世記14章1-24節「天と地を造られた方、主に誓う」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 11:25

2020.01.05

鴨下 直樹

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 新しい年を迎えて、私たちはまた創世記からみ言葉を聴こうとしています。この創世記第14章というのは、創世記の中でも最も難解な個所と言っていいと思います。ところが、興味深いことに、日本の歴史小説が好きな牧師たちはこの箇所を、まるで新年からはじまるNHKの大河ドラマのように、アブラハムの時代小説さながらに説教する人も少なくありません。というのは、ここでのテーマは戦争です。聖書の中にでてくる最初の戦争の出来事がここに記されているわけです。そして、それゆえに、この箇所は「聖書は戦争をどうとらえているのか」ということを考えるきっかけになるものと言えるかもしれません。

 朝日選書から『キリスト教は戦争好きか』というタイトルの本が出ているようで、こういうタイトルに多くの方が関心を寄せているようです。確かに、この箇所もそうですが、戦争そのものをテーマにしている聖書箇所はいくつもあります。そして、この箇所もアブラムが、結果的には戦争に自ら加わり、甥のロト救出作戦を決行しているわけです。こういう箇所を私たちはどのように理解したら良いのでしょうか。

 そのために、まず、この背景を理解するところからはじめてみましょう。いろいろなカタカナの地名や王様の名前が次々にでてきますので、その時点でもう理解するのを放棄したくなりますが、まず、理解するために大事なのは「ケドルラオメル」というこの時代に非常に力を持っていた王がいたと言うことをまず理解してくださるだけで、ずいぶん、すっきりしてきます。このケドルラオメルは、簡単に言うとチグリスやユーフラテスの地域、つまりメソポタミアの地域の王様で、どんどんと勢力を拡大していました。そして、アブラハムの時代には、アブラハム、この時はまだ名前はアブラムですが、アブラムの住んでいたアモリ人の地や、甥のロトが移り住んでいったソドムとか、ゴモラと言った地方までも支配していたのです。ところが、ある時、このソドムとゴモラの王たちが反旗を翻したわけです。このクーデターは成功すれば良かったわけですが、旗色が悪くなるだけでなくて、ソドムの王などは、土地の利があるはずなのに、自分の方が、シディムの谷の瀝青(れきせい・アスファルト)の穴に落ちてしまうていたらくです。そして、他の王様たちも逃げ出してしまいます。

 この出来事がアブラハムにとってどんな意味をもったのかというと、続く12節を読むと、「また彼らは、アブラムの甥のロトとその財産も奪って行った」と書かれています。この知らせがアブラムにもたらされたのでした。

 さて、そこでアブラムはどうするかということが問題になるわけです。創世記の9章6節にはすでにこういう言葉が記されています。

人の血を流すものは、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。

 ここを読むと、神は戦争や、人の血を流すことを戒めておられることは明らかです。しかし、前回の13章の13節には「ソドムの人々は邪悪で、主に対して甚だしく罪深い者たちであった」とも書かれています。

 そして、さらにアブラムはその地に移り住んで行ったロトのしもべたちといさかいを起こして、別々に住むことになったわけですから、考えようによっては「ほら見たことか。神様がロトをお裁きになったに違いない。だから助けにいく必要なんてない」という結論をだしても、何の不思議でもありません。

 原則的に考えても、アブラムがこの戦争に首をつっこむ理由はないのは明らかです。そして、このまま「ロトたちはこのようにして滅ぼされてしまいました」と書かれている方が、聖書を読む者としてはよほどすっきりと理解できるに違いないのです。

 ところが、アブラムは次の14節によると、「彼の家で生まれて訓練された者三百十八人を引き連れて、ダンまで追跡した」と書かれていますから、彼らと戦ったということが分かります。 (続きを読む…)

2019 年 12 月 22 日

・クリスマス礼拝説教 マタイの福音書11章2-6節「別の方を待つべきか」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:07

2019.12.22

鴨下 直樹

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 アドヴェントクランツに四本目の灯が灯りました。いよいよクリスマスです。不思議なもので、クリスマスというのは、クリスチャンであろうとなかろうと、何かしらの期待を抱くようで、町中が何かしらの期待に満ちた雰囲気を作り出します。子どもたちはどんなプレゼントをもらえるのかと期待を膨らませます。若い人は何か素敵な出来事が起こるのではないかという淡い期待を持つのでしょうか。何かいいことがあるというような期待は、その後も年齢を重ねたとしても心の中から消えるものではありません。

 けれども、それと同時に期待が膨らみすぎるとその後の反動もまた大きなものになります。期待したとおりに事が進まないと心が折れてしまいます。そして、いつしか心が堅くなってしまい、あまり期待しなくなるということも起こってしまうのです。そうしないと、傷ついてしまう自分の心を守ることができません。どこかで期待を持ちながら、でも、そんな期待は無駄であるかのような、そんな思いもまたどこかで感じるのがクリスマスなのかもしれません。

 聖書は昔から期待する心を人々の心に育てようとする書物です。憧れとか、期待とか、望みというものを、恵みとか、慈しみとか、信仰という言葉で言い表しているのです。聖書の大切な、そして、中心的なメッセージの一つは待ち望む心を持ち続けることです。

 さきほどの「聖書の話」で、妻がクリスマスに起こった一つの出来事を話してくれました。聞いたところ、元ネタがあるのだそうで、昔アメリカかどこかのドラマであんな話を見たことがあることを思い出したのだそうです。ある家族がイブに親戚のところに飛行機で行くはずだったのが、大雪のために空港で一夜を明かさなくてはならなくなってしまったのです。それで、空港でクリスマス・イブを過ごさなければならないという残念な事態に子どもたちは悲しんでいるのですが、その姿を見た父親が、本当のクリスマスはまさにこんな感じだったのではないかと、クリスマスの物語を話して聞かせるのです。

 子どもたちが思い描いたクリスマスはこんなはずではなかったのです。けれども、主イエスはまさにそんな日に、お生まれになったのではないか。身重のマリヤはまさか家畜小屋で出産をすることになるなんて思っていなかったはずです。生まれたばかりの赤ちゃんを飼葉桶に寝かせるなんてことを想像もしていなかったはずなのです。クリスマスの物語というのは、はじめから期待外れの出来事であったということができそうです。

 今日の聖書の箇所はバプテスマのヨハネが牢に捕らえられていた時に、自分の弟子を通して、主イエスに問い合わせをした言葉がここに書かれています。

「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」

 「私が期待をしているのはあなたでいいのですか」という問いかけです。バプテスマのヨハネでさえ、そのような疑問を抱いたというのです。ヨハネは来るべきお方の先ぶれとして神から遣わされました。そのヨハネは、この時、総督のヘロデ・アンテパスの罪を指摘したために投獄され、まさに殺されようとしていたのです。
 聖書に約束され、イスラエルの人々が長い間待ち望んできた救い主が来られたはずなのに、その期待した主イエスの働きはヨハネがイメージしていたものと大きくかけ離れていたので、がっかりしたのだということを、ここから想像できます。

(待つべき方は)あなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。

 何とも悲しい響きがここにはあります。
「こんなクリスマスを期待してたんじゃない。」
「こんなはずではなかった。もっとうまく行くはずだったんだ。」
「私が望んでいたものは、もっと別のものだった。」

 こんな叫びが私たちの周りではあふれています。そして、その言葉は時として私たちの口からも出てくる言葉です。 (続きを読む…)

2019 年 12 月 15 日

・説教 創世記13章1-18節「神からの約束」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 15:00

2019.12.15

鴨下 直樹

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 アブラハムの生涯から、み言葉を聞き続けております。今日で三回目になります。この前の12章は、言ってみればアブラハムの弱さが描き出されていました。ところが、今日の箇所では、前回のアブラハムの姿は影を潜めます。自分が生きながらえるために、妻を妹と言ってエジプトのファラオに差し出した執着ともいえる姿はもうないのです。

 エジプトから戻ったアブラムはここでさらに多くの富を得たことが記されています。そのことだけでも、私たちは心のどこかにひっかかる思いがあります。妻を取り戻したときに、アブラムがザアカイのようにエジプトの王から与えられた財産を放棄するような姿であれば、多少は失敗を挽回できる気がするのですが、そうでもないのです。しかも、この時に得た富、財産で、今度は親戚である甥のロトと争いが生じてしまったということが書かれているのです。

 もちろん、ここを読むと、アブラムはまずベテルでまた礼拝をささげたということが書かれていまして、アブラムの信仰者らしい姿を見ることができます。けれども、この13章は明らかに、この時のアブラムとロトとのトラブルに焦点を合わせています。

 一難去ってまた一難。そんな人の生きざまがここにはとてもリアルに描き出されています。ようやく神の約束の地であるカナンに戻ってきたのですが、そこは静かで落ち着いた老後の生活が待っているというようなことではないのです。

 礼拝をしていたら、神さまを中心にした生活をしていたら、なんでもことがうまくいく。私たちはついそんなことを想像してしまうのですが、実際にはそんなことはありません。神様を礼拝する生活をしていても、トラブルは起こります。私たちは罪の世界の中に身を置いて生きているのです。相手がクリスチャンではないから、トラブルが起こるというわけでもありません。
 私たちの歩みも、このアブラムの歩みも、深く重なり合う部分があるような気がします。そういう意味で、アブラハムの生涯というのは、多くの信仰者たちの心を惹きつけて来たのかもしれません。

 私たちの人生にも何度ともなく、トラブルが生じます。多くの場合は、自分の力でなんとかしているのだと思いますが、時には自分の力ではどうにもできないようなトラブルを抱えてしまう場合もあります。

 ここでアブラムに起こったトラブルは、アブラムが持っている財産をめぐるトラブルでした。6節には「所有するものが多すぎて、一緒に住めなかったのである」と書かれています。

 持っているものが少なすぎて、貧しすぎて奪い合いになるというのではないのです。持っているものがありすぎてもまたトラブルになるとここには書かれています。お金持ちになったことがないから、そんなことはよく分からないという方も、私を含めて多いと思いますが、実際にそういうことが起こるわけです。この場合、「天幕を所有していた」と5節にありますから、アブラムとロトたちの生活が遊牧民のような生活であったことが分かります。羊や牛を飼う生活です。家畜に餌をやるためには、次々に緑を求めて移動し続けていかなくてはならないのです。当然、水の問題も出てきます。そんな中で、アブラムの牧者たちとロトの牧者たちとが争いをはじめてしまったのです。きっとはじめのうちは話し合いで解決してきたのでしょうけれども、状況は改善されません。そうすると、やはり別々に生活をするということを選び取らなくてはなりません。 (続きを読む…)

2019 年 12 月 8 日

・説教 創世記12章4-20節「しかし、主は」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 19:28

2019.12.08

鴨下 直樹

 最近の説教の中で私は、「神様は人間に自由意志を与えられた」という話を時折します。神が人を創造された時に、神は人に自分で考えて判断する責任を与えられました。これを自由意志といいます。私たちに与えられた自由意志というのは、本当に完全にその決断は任されています。決断はひとそれぞれ違うのです。その人が考えているように決断し、実行するわけです。

 先週、私たちの教会では連日、さまざまな集いが行われていました。中には毎日教会に来ていたという方も少なくないと思います。どの集会に出て、どの集会にでないか、そんなことも決断する必要があるわけです。家庭の都合などもありますから、すべての集いに出られるという決断をすることもまた難しいものです。私たちは、私たちに与えられているこの自由をどのように用いたらよいのでしょうか。

 また、特にこの二日間はKさんのお父さんであるMさんの葬儀もありました。今日の聖書箇所のアブラムの場合、アブラムは父を失って旅をつづけ、今日の箇所ではカナンの地に到着しました。Kさんもお父さんを失って、これからこの地で歩んでいくということと重なるような気持ちで、私は聖書を読んでいました。

 アブラハムのことを信仰の父といいます。このアブラハムの生涯というのは、多くの人の心を魅了してきました。ここにあるのは、私たちの物語だという思いがしてくるからです。アブラムは、カナンの地に到着しました。

 そして、シェケムという地に来た時に、主からの語りかけを聞きます。7節にこう書かれています。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」という言葉です。

 アブラムにではなく、子孫にと言われているのは不思議な気がするかもしれません。神様がなぜそのような語りかけをされたのか不思議に思う方も沢山いると思います。ですが、子孫に与えるということは、この地はあなたの一族が治めるようになるという意味ですから、神様の意地悪な言葉ではありません。ただ、アブラムには子どもがありませんから、その言葉をアブラムはどのように受け止めたのか、気になるところです。

 アブラムはこの時に、祭壇を築いて、礼拝を捧げました。まず、神の御前で礼拝を捧げる。ここに語りかけてくださる神に対するアブラムの姿勢がよく表れていると言えるでしょう。アブラムの新しいカナンの地での生活がいよいよここから始められるのだと、誰もが思うところです。ところが、8節にはこう書かれています。

彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこに主のために祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。

 理由はよく分かりませんが、シェケムにとどまらないで、ベテルに移動しているのです。もちろん、そこでも礼拝を捧げます。それは、アブラムのとても優れたところです。そういう良い点があることも確かですが、どうも落ち着かない様子なのです。9節になると、さらにこう書かれています。「アブラムはさらに進んで、ネゲブの方へと旅を続けた。」とあります。

 新改訳聖書2017には、後ろに地図が載っています。今は、見なくても結構ですけれども、あとで、ぜひ見てみてください。カナンの土地がどれほど広大な土地なのかということもそうですが、アブラムがこの時、どのくらい移動したのかということもよく分かってきます。そして、10節には「その地に飢饉が起こったので、アブラムはエジプトにしばらく滞在するために下って行った。」と書かれています。

 カナンの地になぜとどまっていなかったのだろうと思うのですが、理由はよく分かりません。ハランの地の人々は遊牧民だったようですから、その生き方が身についていて、旅をせずにはいられなかったのかもしれません。

 いずれにしても、アブラムにはこれから先に起こることがすべて予想できたわけではないのです。ここで私たちに「神が与えられた自由意志を用いての決断」ということが姿を現すのです。自由意志というものは、いつも人を悩ませます。カナンの地に到着したということは、神の約束の地、ゴールに到着したはずなのです。けれども、そこにはすでにカナンの地の人々が住んでいるのです。神から、「ここが約束の地だからこの地にとどまれば間違いない」というような声が聞こえてきたわけでもなかったのです。

 私たちは時々思うのです。この後どうしたらいいのだろう。神様がここにとどまっておきなさいとか、この会社はいい会社だからここにしなさいとか、この人と結婚すると間違いないとか、住むならこの町にしなさいとか、そういうことを教えてくれたらいいのにと。けれども、神は、私たちにそのように神の御心を示して具体的なサインをくださることはありません。私たちはいろいろなことを総合的に考えて決断する必要があるわけです。だから、悩むのです。 (続きを読む…)

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