2016 年 7 月 17 日

・説教 エペソ人への手紙4章17-5章2節「新しい人を身につけて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:57

 

2016.07.17

鴨下 直樹

 
 クリスチャンになる前と、クリスチャンになった後と、私たちの生活はどのように変わるのでしょうか。洗礼を受けられた方は、ひょっとすると、自ら水をくぐって出た瞬間から新しい自分になることをイメージしていて、なかなかイメージ通りの急激な変化が起こらないことでがっかりしたという経験をお持ちの方があるかもしれません。パウロはここのところから、クリスチャンになるとどう変わるのかということを書いています。

 先日の聖書学び会で、こんな質問がありました。「先生は以前の説教で、良いと思って話した言葉であってもそれで相手が傷ついたり、躓いてしまったりしてしまうことがある、と言われたけれども、ではどうしたらいいのか」と尋ねられました。実に的を得た質問だと思います。自分はその人のために良かれと思って話したことばで、相手が傷ついてしまう。どうしようもないではないか、というわけです。この前の箇所の言葉、たとえば15節に「愛をもって真理を語り」とあります。自分としては愛をもって真実に話したつもりの事が、相手に躓きを与えてしまう場合があるとすると、何も話せなくなってしまうという恐れが生まれてくるわけです。

 パウロはこの手紙の中で、まず信仰に入る前、キリスト者になる前はどうであったのかということを17節から19節で丁寧に語っています。しかも、ここでは「主にあって言明し、おごそかに勧めます」と書かれています。ここに二つの言葉を重ねているのですが、「言う」という言葉と、「宣誓する」という言葉です。「宣誓」というのはもうしばらくするとオリンピックが始まりますけれども、選手たちが競技の始まる前に誓いをします。正々堂々と戦うと。そういう公に宣言するという言葉です。パウロからすればこれから私が話す言葉はそのくらいの覚悟を持って話すので厳粛な気持ちで聞いてほしいというわけです。
 それで、何を語っているのかと言いますと、「異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではならない」というのです。

 ご存知のように、この手紙の受取人は、異邦人たちでした。もともとユダヤ人であったわけではないのです。この異邦人というのはどういう人かというと、続く18節と19節ですが、

彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。

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2016 年 7 月 10 日

・説教 ローマ人への手紙 5章1-11節「神からの平安」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:09

 

2016.07.10

鴨下 直樹

 
 今日は、あらかじめお知らせしておりました聖書の箇所を改めまして、このローマ人への手紙からしばらくの間、み言葉を聞きたいと思います。
 昨日、私たちの教会でMigiwaさんをゲストにお迎えしてコンサートを行いました。とても素敵な歌声を聞かせてくださいましたし、ご自身のことも少しお証ししてくださいました。今朝も、コンサートに来られた方でしょうか、この礼拝に何人かの方々がお集いくださったことを大変うれしく思います。昨日のコンサートでMigiwaさんが学生時代に不登校になってしまったことや、過度のストレスのために声が出なくなってしまったことをお話しくださいました。そして、そういう中で神さまと出会ったこと、また神の言葉に触れて平安を持つことができるようになったこと、そして、今、この喜びを歌うことができるようになったことをお話ししてくださいました。私たちはみな、昨日、その喜びを一緒に味わうことができました。みなさんの中にはそういう話を聞かれて、少し教会に興味を持ってくださってこの礼拝に来てくださった方があるかもしれません。そして、信仰に生きるということはどういうことなのだろうかと、もし心動かされた方があるとすれば、それはとても嬉しいことです。

 しかし、「信仰に生きる」というのはどういうことなのでしょうか。実は、今日の聖書の言葉はそのことがとてもはっきりと記されているところだと言えます。特に、冒頭でこのように書かれています。

私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

これは、この手紙を書いたパウロの言葉です。パウロは、私たちは「神との平和」を与えられたと、ここで高らかに宣言しています。これは、もう、私たちは大丈夫、神が私たちを見捨てないでいてくださるというところに立たせてくださった。これが、イエス・キリストによって私たちに与えられた神の御業なのだと宣言しているのです。

 ここでパウロは「神との平和」という言葉を使いました。「平和」というのは争いのない状態を示す言葉です。しかも、この「平和」を与えてくださるのは、神です。神が人生に私たちをドキドキさせるような介入をしてくることはなくなった。そういうことを心配しなくてもよくなったのだと言っているのです。このような「神との平和」を与えられた人は、そこから「安心」を、心の安らぎを、つまり「平安」を持つことができるようになるということでもあるのです。これはただひとつのこと、つまり「信仰」ということにかかってくるのです。この「信仰」というのは、私たちがそのように信じているその心というよりも、神の「信実」と言ってもいいようなものです。この「信実」というのは、漢字で書くと、信じるという言葉と実行するという言葉の方の「信実」です。「誠実」と言ったら分かりやすいかもしれません。今、この信仰ということばを「信実」という言葉で訳したほうがいいのではないかという提案がなされているようですけれど、神が誠実でいてくださるがゆえに、私たちはこの神を信頼して信仰に生きることができるようになるということです。神はそのようなお方なので、平安に生きることができるようになるのだとパウロはここで言っているのです。 (続きを読む…)

2016 年 7 月 3 日

・説教 エペソ人への手紙4章1-16節(2)「愛によって建て上げられるキリストの体」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:01

 

2016.07.03

鴨下 直樹

 
 今日は、先週につづいてエペソ人への手紙4章1節から16節までのところから、み言葉を聞きたいと思っています。先週はほとんどふれられませんでしたけれども、特に12節から16節の部分に目を向けてみたいと思います。ここでは、教会のことが書かれています。教会はただキリストを見上げながら一つとなっていくのだということをパウロはひたすらここで書いているのです。

 明日から木曜日まで、私は、久しぶりに説教塾という牧師のセミナーに参加してまいります。もう五年ほどの間、なかなか都合をつけることができなかったために、参加することができなかったのですが、今年はセミナーの日程が変わったために、参加できることをとても嬉しく思っています。この説教塾を主催していてくださるのは、加藤常昭先生をはじめとする説教塾のメンバーの牧師たちです。私は今からちょうど20年前から参加するようになりました。実は、はじめて牧師として参加した時に、説教クリニックという時間がありまして、自分の説教を見てもらいたい人が、その場で実際に説教をやりまして、出席している牧師たちや、加藤先生からアドヴァイスを貰います。そこで、最初に加藤先生に言われたのは「君の説教はあと20年くらいたったら良くなるだろうね」という言葉でした。あれから20年たちますが、そうやって、自分のいけない部分に目をとめて、改善していきながら、できるかぎり誠実に説教することができるように、研修をするのです。

 なかでも、この説教塾で大切にしていることに、黙想というものがあります。ただ聖書を読んで理解するだけではなくて、自分の教会に来ている人たちのことを思い起こしながら対話をする。実際話したり、聞いたりしたことを思い浮かべながら、自分がこの聖書を説教するためには、何を考えなくてはならないのか、どこで配慮するべきなのか、何を語るべきなのか、そういったことを思い巡らせながら文章に書いていく作業を黙想というのです。

 そこで、ドイツの神学者でこの黙想を書くということを広めた人でもあるイーヴァントという牧師の書いた黙想を読むという作業を、いつも必ずいたします。そこで、明日から、セミナーに参加することを思い起こしながら、そういえば、このイーヴァントの書いた今日の聖書の箇所の黙想がないかと調べてみましたら、持っている資料の中に、ちょうどこの11節から16節までの黙想がありましたので、読みました。とても、刺激的な文章がいくつも目に飛び込んできました。 (続きを読む…)

2016 年 6 月 26 日

・説教 エペソ人への手紙4章1-16節(1)「招きにふさわしく生きる」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 11:48

 

2016.06.26

鴨下 直樹

 
 エペソ人への手紙の4章に入りました。お気づきの方もあるかもしれません。パウロはここに来て、急に「なになにしなさい」という戒めの形で、命じ始めています。パウロの手紙はいつもそうですけれども、前半は、どのように考えたらいいのか、信仰の基本的な考え方について丁寧に語ります。そして、後半は、具体的な勧めをいたします。このエペソ人への手紙も例外ではありません。パウロは、エペソなどのアジアの教会の人々にこの手紙が回覧されることを知っていました。そこで起こっていたさまざまな問題、特に、異邦人のキリスト者たちと、ユダヤ人のキリスト者たちとの間に起こる争いに、いつも心を砕いていました。そして、主イエスの信仰に生きようとする人々は、この問題を乗り越えて、この主の福音に自分たちが生きることができ、さらに多くの人々に主の福音を伝えていくことができることをパウロは信じていました。そのためには、まず、何よりもキリストの心を知ること、教会とはどういうところであるのかを語る必要がありました。それで、パウロは丁寧に、キリストがなにをして下さったか、そして、教会はどのように生きるのかを語り続けてきたのです。

 そこで、パウロはここからさらに具体的に教会に生きるキリスト者たちに語りかけようとしています。1節です。

さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。

 パウロは、この時牢獄に捕えられていました。ですから、この手紙は獄中書簡などと呼ばれているわけです。自分は捕らわれている、牢に閉じ込められている。そういう囚人がするべきことは何かというと、「刑に服する」ということです。このとき、パウロは教会の人々にお勧めしたいことがあったのです。それは―今、パウロは、囚人として刑に服している。何故かというと、キリストに捕えられた者であるから。自分を捕えた主のために牢に閉じ込められることもパウロは喜んで耐えることができる。ですから、あなたがたも、このキリストに捕えられた者としての生き方をしなさい―そう勧めているのです。この「勧めます」と言う言葉は、「傍らに立ってはげます」という意味の言葉です。どこか高みから、あるいは、知らないところから声高に命じているのではありません。自分は今、実際に捕えられている。だから、分かる。捕えられる時に、求められているのは、これは不当だ、自分はそんなつもりではなかったと、必死に抵抗するということよりも、むしろ、そこに身をゆだねて生きるということしかできない。そのように、あなたがたも、キリストに捕えられたのだから、キリストの願っているように生きてほしいと勧めるのです。 (続きを読む…)

2016 年 6 月 19 日

・説教 エペソ人への手紙 3章14-21節(2)「人知をはるかに超えたキリストの愛」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:47

 

2016.06.19

鴨下 直樹

 
 今日は、このエペソ人への手紙のパウロの祈りの部分から先週に引き続いてみ言葉を聞きたいと思っています。特に、今日の中心的なみ言葉は17節から19節の言葉です。パウロはその祈りの中でこんなことを祈っています。

こうして、キリストがあなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 パウロはここで何を祈っているかというと、このエペソの教会に集まっている人たちが、「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と祈っているのです。

 ですから、今日のテーマは「愛を知る」ということです。私は愛知県の木曽川町で育ちました。子供の頃から、この「愛を知る」という言葉に愛着を持って来ましたが、不思議なことに、どこか遠くに旅行に出かけまして、「どこから来たのか」と聞かれますと、決まって「名古屋」と答えます。おそらく、愛知県に住んでいる人のほとんどがそう答えると思います。「木曽川町」なんて言っても誰も分かりません。しかも、この木曽川町は、私たちがドイツに住んでいた時に、隣の一宮市に吸収合併されてしまいましたので、今は無くなってしまいました。もちろん、そんなことがなくても、みんな「名古屋」と答えるわけです。愛知県に住んでいる人はあまり、この名前に誇りを持っていないようです。むしろ、この芥見の人の方が誇りを持っていると感じることがあります。芥見の人は岐阜駅の近辺に行くときには「ちょっと市内に行ってくる」という言い方をします。一応芥見も岐阜市内なのですが、そこは芥見の人のプライドなのか分かりませんけれども、自分たちは岐阜市内に住んでいるという自覚が不思議とありません。はじめ聞いたときに不思議に思ったのですが、今ではもう慣れてしまいまして、私も最近では「市内に行ってくる」という言い方を遣うようになりました。これは芥見を誇りとしているというようなこととは違うのかもしれませんが・・・。たいぶ余計な話をしていますが、愛を知るという名前の県に育っても、そこに住んでいる人たちはみな愛について知っているとは言えません。愛を知る、それこそがこの箇所のテーマです。

 今日は午後から古川さんを講師に「楽しいキリスト教美術講座」を行います。毎年、一年に二回、美術講座を行っています。今回は「印象派」と言われる画家たちを取り上げてくださるようで、私もとても楽しみにしています。「印象派」と言いますと、日本でも特に人気があるのはモネとかルノアールというような、まさに印象に残る綺麗な色使いで、独特のタッチで描かれているものをイメージされる方が多いと思います。また、その後で、後期印象主義というんだそうですけれども、セザンヌとかゴッホという人たちがあらわれます。特に、今日はこのゴッホの作品から何点か紹介してくださるようです。今回の美術講座のチラシにも印刷されていたのですが、ゴッホの描いた「善きサマリヤ人」という絵があります。これは、その前にドラクロワという画家が描いた作品の模写です。ゴッホは他にも、レンブラントの模写である「ラザロの復活」だとか、やはりドラクロワの模写の「ピエタ」も描いています。この模写、あるいは模倣と言ってもいいと思います。絵を描く人は誰でもそうだと思いますけれども、この模倣するというのが、描くことの基本なのだと思います。

古川秀昭「うさぎ」1956年,和紙,割りばし,墨
古川秀昭「うさぎ」1956年
和紙,割りばし,墨

 以前、古川さんのアトリエで、アルブレヒト・デューラーの「野うさぎ」を模写したものを見せてもらったことがあります。どうも聞くところによると、小学生の時に描いたもので、その絵を当時同級生だったAさんにプレゼントしたのだそうです。Aさんとは、やがて何年もして、再会して、結婚をすることになったのだそうです、その話を聞くだけでも何かとてもドラマチックな気がしますが、古川さんたちが結婚された後に、この、小学生の時に描いてプレゼントした絵を、奥様が大事に保管されていたことが判ったのだそうです。とても小学生が書いたとは思えない美しいものです。このように、模写する・真似をするということが、芸術家の道であることを、もう小学生の時から古川さんは知っていたのでしょう。マネをすることは美術の基本です。

 そして、実は、この模倣する、真似をするというのは、美術に限ったことではありません。芸術全般にもいうことができると思いますし、人間も、より良く生きるためにこの模倣をすることを通して、本当の自分になっていくという部分があるわけです。ですから、様々な人との出会いがその人の人格を築き上げていくためにはとても重要です。
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2016 年 6 月 12 日

・説教 エペソ人への手紙 3章14-21節「パウロの祈り」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:20

 

2016.06.12

鴨下 直樹

 
 今日のところは、パウロの祈りが記されているところです。昨日の家庭集会でも、祈りについてお話したのですが、この夏のキャンプのテーマでも祈りをテーマにしています。祈りは、私が牧師になったときからわたし自身のひとつの大きなテーマでもあります。神学生の時から、しばらく祈れなくなるという時期を経験しました。きっかけはたいしたことではないのです。仲間の神学生たちの祈りを聞いて、それを心の中で非難していたのです。けれども、人の祈りに耳を傾けて、文句ばかり言っているうちに、自分はどうだということになりまして、自分の祈りの生活を振り返って考えてみるようになりました。それで、自分も人のことを言えるほど豊かな祈りの生活ではないことに気づかされて、すっかり自信をなくしてしまったのです。

 その時から、多くの祈りについての本を読みましたし、色々な信仰者の祈りの本を読みました。もう何冊読んだか分からないくらい読みました。そして、聖書の中に記されている祈りについても注意深く見るようになりました。特に、聖書の中に記された祈りを読んでいますと実に、色々なことに気づかされます。その一つに、聖書に記されている祈りは、いわゆる個人の願い事というのはあまりないということに気づかされます。このことは、祈りを学ぶ意味でも、とても大きいのではないかと思います。

 今日の箇所もパウロの祈りです。ここでパウロは何を祈っているのかというと、とてつもなく壮大な祈りをしています。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と祈っているのです。みなさんの中に、こういうことをこれまでに祈ったことがある方がおられるでしょうか。ひょっとすると、私たちでは思いつきもしないようなことを、ここでパウロは祈っているのです。確かに、この祈りもパウロの個人的な願いごとであるかもしれませんけれども、むしろ、このいのりは、神が願っておられることを、パウロが祈っているようなものとも言えます。

 私たちは、祈りにおいて、自分の常識や限界を超えて、神に近づくことができます。それが、いのりです。祈りにおいて、パウロの祈りがそうであるように、神の思いと一つになると言ってもいいかもしれません。そういう祈りを祈ることができるときに、私たちは深い喜びに包まれます。
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2016 年 6 月 5 日

・説教 エペソ人への手紙3章1-13節「福音の奥義を知る者として」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 16:26

 

2016.06.05

鴨下 直樹

 
 みなさんは、自分が何者なのかということについてお考えになったことがあるでしょうか。不思議なことに、この問いは、私たち自身を問う問いですから、日ごとに自分に問いかけるべきものなのだと思うのですが、年を経るごとに問わなくなってしまう傾向があるように思います。自分が確立していない、そのために、何者かになろうとしている時期というのは、自分自身に問いかけるものです。けれども、次第に、諦めとともに、自分のことが分かったつもりになる。あるいはそれは、自分で、自分に期待できなくなるということと同じかもしれないのですが、何かになろうとすることを止めてしまうことによって、自分に対して期待心もなくなってしまうことが多いのです。

 私が言うのも変なことかもしれないのですが、若い、青年を見ていると、そのことを顕著に感じます。私からすれば、まだその人には無限の可能性があるように思えるのですが、中学、高校、大学を卒業し社会に出ると、なんとなく、自分はこのくらいの人間だということを周りを見ながら、納得してしまって、それ以上の自分になることを諦めてしまっている気がするのです。それは、ひょっとすると、私よりも年上の方々は、私くらいの年齢の者についても同様に感じているのかもしれません。私自身、最近、自分の口から、自分についてよく否定的な言葉を使っていることに気が付きます。これまでの牧師としての経験や、通って来た道のりを振り返りながら、まぁ自分はこんな程度だろうと、自分に見切りをつけてしまっているのです。

 今日、私たちに与えられている聖書の言葉は、エペソ人への手紙の第三章です。今日はその1節から13節までのところですが、ここでパウロは少し唐突に、自分のことを語り始めます。自分が何者なのかといことを書いているのです。実は、この箇所はこのエペソ人への手紙の中でも、特に重要な位置を占める箇所です。というのは、ここに書かれている内容で、ある人は、これはパウロの言葉ではないのだといい、ある人は、ここにこそパウロらしさが記されているのだという人もあります。あるいは、パウロと、パウロと一緒にいた仲間たちのことがここから読み取れると考える人もおります。私は、このエペソ人への手紙の説教を始めました時に、この手紙がそういう議論があるけれども、伝統的にパウロが書いたものとして受け止められて来たことを重んじて、パウロが記したものとして語りたいと言いました。このことは、このエペソ人への手紙を理解するうえでとても重要なことです。
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2016 年 5 月 29 日

・説教 エペソ人への手紙 2章11-22節「平和の架け橋」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:48

 

2016.05.29

鴨下 直樹

 
 2016年、5月27日金曜日、アメリカのオバマ大統領が広島を訪れて、歴史的な演説を行いました。原爆のために10万人以上という被害者を出してから、この訪問が実現するのに71年という年月を要しました。「謝罪はしない」ということが、すでに以前からいわれていましたが、この演説は、将来に目を向けた演説となり、人類が乗り越えるべき課題を明らかにしました。この演説の中でオバマ大統領は広島に落とされた原爆によって、一度始まったこの殺戮の連鎖は数年間の後に、六千万人という人々が死ぬこととなったと言いました。私などは改めて被害の大きさを知りました。

 演説の結びの言葉はこうでした。「広島と長崎の将来は、核兵器の夜明けとしてではなく、道徳的な目覚めの契機の場として知られるようになるだろう。そうした、未来をわれわれは選び取る」。自分たちが犯した過ちに気づいて、このようなことを再び起こさない未来への架け橋となるように。それは、まさに、平和への呼びかけです。

 人と人とが争いあう時、国家と国家とが争いあうときに、その間には隔ての壁があります。そして、敵意が生じてしまいます。相手を理解できないとして、壁を築き上げ、敵意を膨らまし、人の心はどんどんと頑なになっていくのです。金曜の夜、ニュースを見ながら、広島の人たちがにこやかな笑顔を見せているのがとても印象的でした。原爆の被害者たちも、一様に、これで一区切りついたのだと口々に語っていました。このアメリカの大統領の勇気と愛のある訪問によって、71年間にわたって築き上げられてきた見えない壁が、崩れ落ちたのだということを、誰もが感じたのだと思います。

 この出来事は、今も敵対しつづけ、戦い続けている世界に示された一つの平和のしるしとなりました。そして、今日、私たちはこの教会で、このエペソ人への手紙のみ言葉を聞いているのです。
14~15節。

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。

 当時、生まれたばかりの教会で、異邦人たちの教会に敵意が生まれていました。それは、ユダヤ人と異邦人たちとの間に生まれた敵意です。エペソをはじめとするこの地域に生まれた小アジアの教会に、多くの異邦人たちが住んでいました。その多くはローマ人と呼ばれる人たちだったと考えられます。当時の世界はローマの支配する世界です。ローマの市民権こそが、誰もが求めるもので、ローマ人であるということが、この時代の人々の誇りでした。ローマの市民権を持つ人々には様々な特権が与えられていたのです。この時代のユダヤ人は実際ローマに支配された小国の民にすぎませんでした。ところが、生まれたばかりの教会にいくと、立場が逆転します。ユダヤ人こそが神の民で、ローマ人は異邦人。そもそも、神のみ救いにあずかれる身分ではなかった。実際に、エルサレムの神殿に行きますと、ユダヤ人の庭と、異邦人の庭とか壁によって仕切られていて、「この壁を超えた者は殺される」という警告文が張り出されていたといいます。教会にキリスト者が増えて行くにつれ、ユダヤ人たちの態度はますます尊大なものとなり、異邦人たちは委縮していくという現象がおこります。気付いてみると、キリストによって救われたという喜びよりも、我が物顔で振舞おうとするユダヤ人たちに対する嫌悪が、教会の中で日増しに大きくなっていったのです。
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2016 年 5 月 15 日

・説教 エペソ人への手紙2章1-10節「恵みによって生かされて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:58

 

2016.05.15

鴨下 直樹

 
 このエペソ人への手紙というのは、自分で読んでも、朗読されるのを聞いてもそうだと思いますけれども、あまり頭の中にすっきりと入って来ません。この金曜日も名古屋の東海聖書神学塾で、ある神学者の書いたものを神学生たちに読んでもらったのですけれども、あまりに堅い文章で書かれているために、1ページを読むたびに解説をしなければなりませんでした。本当は手紙ですから一気にまとめて読んでしまわないと意味が分からないはずなのですが、一週間ずつ文章を細切れにして読んでいますので、余計頭にはいりにくくなってしまいます。それで、すこしおさらいをしようと思うのですが、パウロはこの手紙の読者に、主イエスを信じた時に与えられるものがどんなに素晴らしいものかを理解できるようにと祈りました。それを、栄光の富と呼んだり、全能の神の力などと言い換えていますけれども、主イエスの復活の力が、教会の中で働いているのですよと、まず書きました。

 今日はその言葉につづく言葉なのですが、読んでみますとまたテーマが変わったように見えます。この2章の1-10節までの部分は、クリスチャンになる前の生活の回想をしているのが、1節から3節までです。つまり洗礼を受けるまでの生活のことを書いておいて、4節から7節では洗礼を受けてどう変わったのかということについて書いています。そして、8節からは、その「恵みによって救われる」というのはどういうことなのかを書いています。こうやってはじめに少し内容を整理しておきますと、何が書かれているかを理解しやすいのではないかと思います。

 さて、パウロはこの2章でキリスト者になる前にどんな生活をしていたのかを思い起こさせようとしながら筆を進めています。

あなたがたは自分の罪過と罪の中に死んでいた者であって

とまずあります。「あなたがたは死んでいたのだ」という言葉だけでも、何を言っているのか分からなくなってしまう言葉です。これは、聖書の代表的な考え方ですけれども、心臓が動いているという意味での生きているということではなくて、神の前に生きている者とみなされているかどうかを問題にしているわけです。「罪」と「罪過」の中に生きている者は心臓は動いていて生きているように見えていても、神はそれを死んだ存在として見ておられるということを言っています。神を信じる前の生活は、それがこの世界にどれほど意味のある貢献をするような尊い生き方をしていたとしても、神の前では死んだ者、けれども、主イエスを信じることができるようにされた時に、死んでいたものが、まさに1章の最後に書かれているように、復活の神の力によって、神の前で生きている者としてみなされるということ。それこそが、神の全能のお働きなのだということを言っているわけです。 (続きを読む…)

2016 年 5 月 8 日

・説教 エペソ人への手紙 1章15-23節「栄光の富」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:23

 

2016.05.08

鴨下 直樹

 
 私たちの教会では毎月第一週の礼拝後に役員会の時を持っております。長老と執事たちとで教会のさまざまな課題について話し合いながら、主の御心を求めて祈ります。その役員会で昨年からですけれども、役員が順に証しをする時間をもうけております。年間聖句についてでもいいし、それぞれの信仰の歩みの中で味わった主の恵みをともに分かち合うようにしているのです。先週の役員会は、Y長老が証をしてくださいました。Y長老は全日本製造業コマ大戦で優勝して以来、テレビなどでも何度か会社が取り上げられています。見られた方も少なくないと思いますけれども、コマとはいえ侮るなかれ、それぞれの企業の技術の結晶がわずか2センチのコマに託されるわけですから、見る方も興奮します。Y長老の会社は、昨年の秋に行われた大会でも優勝したそうです。

 このY長老 ―この場合はY社長と言った方がいいかもしれませんが― の会社で、「ありがとう」とお互いに声をかけあう運動をしているのだそうです。そして、Y長老自身、この運動をはじめて自分自身がありがとうという言葉をあまり意識して使っていないことに気づかされたと証の中で話してくださいました。その話の中で、聖書には「ありがとう」という言葉がどうなっているのかという話になりました。「ありがとう」という言葉は確かに聖書でみかけることがありません。ありがとうと言う言葉は口語で、書き言葉の場合は「感謝する」という言葉で表記されます。そうしますと、聖書には反対に「感謝」という言葉で満ち溢れていることになります。Y長老は会社だけでなくて、家庭でも、お互いに感謝をいいあう環境が、豊かな生活をつくること会社の人たちに覚えてほしいと思っているということでした。
 
 今日の、このエペソ人への手紙でも、パウロの感謝の言葉が語られています。ヨハネの福音書がようやく先週で終わりました。レントの前にこのエペソ人への手紙から説教をはじめましたので、今日は3か月ぶりでつづきの箇所からということになりますが、ここからが、いよいよパウロの手紙の中身の部分にはいっていきます。そこで、改めて語られているのが、感謝の言葉です。

 「ありがとう」という言葉の方がこの言葉の内容が良く分かるかもしれませんけれども、有り難いことが起こるので、ありがとうという言葉を発します。ですから、そこでは自分に何か有り難いこと、何か得をしたというようないいこと、自分がそのことで嬉しくなるような事態がその言葉の前にあるわけです。さきほどの話しではないのですが、日常の生活の中で感謝を見つけることができるというのは当たり前のことではありません。そこに不満をもっていたらありがとうという言葉は出てこないわけです。 (続きを読む…)

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