2016.03.13
鴨下 直樹
先週の金曜日に私が教えております東海聖書神学塾で理事会と、評議員会と卒業式が行われました。一昨年より、後藤喜良先生が校長になれられまして、それまで校長をしておられた河野勇一先生は神学塾の理事長になられました。朝、理事会で河野先生が短くお話しくださったのですが、とても興味深い話をしてくださいました。ホワイトボードに富士山の絵をかきまして、山頂には雲がかかっている。私たちはその山のすそ野で生活しているとすると、山の上の雲の上をぐるっと赤色のペンで丸い円を描きまして、この山の上のこの部分が聖書の語る信仰の世界ですと言われました。そうすると、私たちはついつい、この山の上の世界のことを、この地上の生活の方にそれを持ち込んできて、聖書は私たちの生活にどう役に立つのかというように考えてしまいます。けれども、大切なことは、聖書の語る信仰の世界を、自分たちの生活に持ち込むのではなくて、この裾野に生きている私たちが、どうしたら、この山の上の世界に引き上げることができるか。そのことが大事なのだということを言われました。
この河野先生という方は、名古屋の神学塾で教理を教えてくださる先生で、説教を教えてくださる先生でもあります。私も、神学生の時に、この河野先生から教理や説教を学ばせていただきました。とても短く、とても簡単な説明ですけれども、信仰の本筋をとても分かりやすく、絵で描きながらお話しくださったので、私自身、改めてこのような簡単な説明の仕方ができるのだと、とても教えられました。
今日の箇所は、主イエスが十字架におかかりになられるところです。今日は17節から27節のところですが、ここにはいくつかのことが記されています。はじめの17節から22節は主イエスがご自分で十字架を担がれてゴルゴタへ行かれ、そこで、「ユダヤ人の王」と書かれた罪状書きが掲げられ、十字架につけられたところです。その後、23節と24節では、主イエスを十字架につけるときに、兵士たちが主イエスの着物を分け合い、下着もくじを引いて分けたという出来事が書かれています。これは、詩篇22篇18節の成就だとされています。そして、最後の部分は、25節から27節ですが、読み方によって人数が変わって来ますけれども、4人の女の弟子たちが主の十字架のそばにいて、主イエスの母マリヤのことを、主の愛された弟子にゆだねたということが記されています。
最初にも言いましたけれども、私たちはこの主イエスの十字架の箇所を読む時に、この聖書の箇所は私の生活にどのような意味を持つだろうかとつい考えて読んでしまいます。そして、ここから、色々な意味を見つけ出そうと努力します。けれども、まずなによりも大事なことは、ここで語られているのは何かということに、素直に心を向けることです。
はじめの場面にまず目を向けたいと思うのですが、17節にこう記されています。
イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
とあります。主イエスは十字架に磔にされてしまいます。それこそ、雲の上の生活と、この富士山のすそ野の生活とがぶつかり合って、天上の生活、信仰の敗北という出来事がおこっているかのように見えているところです。ですから、そのように理解して聖書を読みますと、ああ、聖書に書かれている神の世界というのは結局人間たちの罪にやぶれて、主イエスは殺されてしまわれた。だとすると、神の言葉は、信仰の生活というのはこの世に敗北するような弱いものなのだということになります。
神の言葉は弱い。ある意味ではそうなのかもしれません。神の言葉であられる主イエス・キリストもここで十字架に磔にされてしまっているのです。けれども、興味深いのは、このヨハネの福音書は他の福音書のように、主イエスは弱々しく、十字架を担いでゴルゴタに行けそうにないほどに弱られていたので、クレネ人のシモンに助けてもらったというようことは書いてはいないのです。十字架のところで、主イエスをさげすむ群集たちの言葉もありません。劇的といえるような描写はほとんどはぶかれてしまっていまして、静かな十字架のお姿が記されているといってもいいかもしれません。ただ、ここでは主イエスは自ら十字架を背負ってゴルゴタに行かれた。そのことだけで十分です。
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