2021 年 3 月 7 日

・説教 詩篇119篇49-56節「悩みの時の私の慰め」

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2021.03.07

鴨下 直樹

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 『百万人の福音』というクリスチャンのための情報雑誌があります。そこで俳句のコーナーの選者をしてみえます辻恵美子さんは、皆さんもご存じですが、この芥見の教会員です。昨年、恵美子さんは、選者をされるようになって五年経ったということもあって、皆さんから投句された信仰の俳句をまとめられて、一冊の本を出されました。『合同俳句集 野の花 空の鳥』というタイトルです。とても素晴らしい句集です。この本は昨年出版されたのですが、すぐにコロナウィルスの問題が起こってしまい、なかなかこの本のことを紹介することができないまま、もう一年がたとうとしています。しかし、岐阜県の緊急事態宣言も先日解除されましたし、もういいだろうと思いまして、今日は、少しこの本のことを紹介したいと思っています。

 昨日も、「ぶどうの木句会」という句会がこの私たちの教会で行われました。この句会は毎月行われております。コロナも少し落ち着いてきましたので、今はこの集まりも再開されております。その句会でどんなことをするかといいますと、句会に集まって来る人は、その季節の俳句の季語を使った俳句を5句出します。その自分の俳句を、短冊に書きまして、一つの短冊に一句書かれているものを、人数分で分けます。そうやって配られ、自分に割り当てられた俳句を、それぞれの参加者が清記用紙という紙に書き写していきます。そうすることで、この俳句を誰が書いた俳句か筆跡を分からなくするわけです。

 一枚の清記用紙には、四句か五句の俳句が書かれているのですが、その清記用紙を、参加者に順番に回していきまして、自分が気に入った俳句を、自分の選句用紙という紙に書き写していきます。そして、その中から、出席人数によって変わるのですが、自分がいいなと思った俳句を五句とか六句と選んでいきまして、最後に発表していくのです。そして、自分が選んだ中でも一番いい俳句だと思った特選の俳句を選びます。

 こうやって、それぞれが選んだ句を司会者が読み上げる時に、その読まれた句が、自分が書いた俳句であれば、自分の俳句が読まれた人は「だれだれ」と名乗りをあげます。そこで、はじめて、その俳句を書いた人が誰か分かるようになっているのです。

 ちなみに、昨日の句会で、私が特選に選んだ俳句はこういう俳句でした。

「みちゆきの一絵一絵や春日影」

 これは辻恵美子さんの俳句でした。

 「みちゆき」というのは、先日の説教でもお話ししましたが、カトリック教会の壁に掲げられている主イエスの十字架までの道行きを描いた絵のことを指しています。おそらく、どこかのカトリックの教会を訪ねられたのでしょう。今はレントですから、まさにこのみちゆきを見ながら、主イエスの十字架の苦しみのお姿を心に刻むわけです。そうやって、一絵一絵というのは、みちゆきとして描かれた一枚一枚の絵ということですが、その絵に春の日差しが差し込んでいるというのです。

 「春日影」というのは、私も知らなかったのですが、日の光を指す季語のようです。けれども、この影という文字に私は、十字架の重さを感じました。同時に、けれども、その影は重い影を落としているのではなく、光なのだという意味だったのです。

 私は、これはいい俳句だと思いまして、この俳句を特選に選びました。わずか17文字で、これだけのことを表現できるわけです。昨日は、他の方の俳句もたくさん見たのですが、私の心がなかなか重くて、言葉が私の中に届いてこない、そんなことを感じているなかで、この俳句は私の今の心のありかたを教えてくれるような思いで、とてもいい俳句だと思ったのです。

 俳句を選ぶというのも、なかなか難しいものです。その人がその俳句で伝えたいと思っているものが、なかなか読み取れないという読み手の想像力の貧しさもあるでしょう。季語の持つ意味の深さが分かればわかるほど、その言葉を読み取る力も付くのだと思いますし、俳句を作る時にも、自在にその季語を使えるようにもなるのだと思います。

 こういう俳句が、この「野の花 空の鳥」という本の中には満ち溢れています。一句一句とても味わい深い俳句ばかりです。芥見教会の方々の俳句も何句か載っております。ぜひ、手に取って読んでいただきたい本です。もうちょっと宣伝すると、恵美子さんから買い求めることもできますが、いのちのことば社の通販用のサイトでも取り扱っておりますので、そこから注文することもできると思います。

 今日、この牧師は俳句の話からはじめて、どうしたんだろうと思われる方もあるかもしれません。今、まさにお話したように、俳句を読み取るというのは簡単なことのようでありながら、たくさんの俳句に触れれば触れただけ、想像力が働いて、深く読み取ることができるようになると思うのです。

 なぜ、こういう話から始めたかと言うと、今日の詩篇のテーマは「悩み」です。 (続きを読む…)

2021 年 2 月 28 日

・説教 詩篇119篇41-48節「王たちの前で」

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2021.02.28

鴨下 直樹

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よ あなたの恵みが私にもたらされますように。

 今日の詩篇はこのような言葉からはじまっています。

 「恵み」という言葉は、聖書の中に何度も出てくるとても大切な言葉です。この言葉のヘブル語は「ヘセド」と言います。もう、何度もこの言葉について語ってきました。「慈しみ」と訳されることの多いこの言葉ですが、この言葉の中には、神のさまざまな思いが詰まっているのです。

 旧約聖書の中に、ホセア書という預言書があります。この預言者ホセアは、主に従って姦淫の女ゴメルを妻に迎えます。二人の子どもが生まれますが、ホセアはこの妻ゴメルとの関係に悩みます。何度も何度も夫を裏切り、不貞を働くのです。ホセアはこの妻のために非常に苦しむのです。しかし、主はこのホセアにこう語ります。ホセア書3章1節です。

夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。

 主は、ホセアに愛とは何かということを教えられながら、神ご自身がイスラエルの民をどのように愛しておられるのかを、妻ゴメルを愛するということを通してホセアに示そうとされました。

 そして、6章の6節にこう記されています。

わたしが喜びとするのは真実の愛。
いけにえではない。

 ここで語られている「真実の愛」と訳された言葉、この言葉が「ヘセド」です。この出来事は、今日の詩篇で恵みと訳されているヘセドという言葉の意味をよく表しています。

 カトリックの雨宮慧という聖書学者がおられます。この人は実に多くの本を書いているのですが、その雨宮慧の代表的な本で『旧約聖書のこころ』という本があります。この本は、旧約聖書を代表するさまざまな言葉の解説を丁寧にしてくれている本なのですが、この中に、ヘセドについて書いている文章があります。そこにこんなことが書かれています。

「ヘセドとは、親と子・友人同士など、人と人を結ぶきずなのことであるが、このきずなには二つの側面がある。一つは両者を結ぶ愛であり、他はその愛に対する誠実さである。」

 それぞれの関係を結ぶきずな、これがヘセドなのだと説明しています。そして、そのきずなには二つの側面があって、愛と誠実さによってあらわされるきずななのだと説明しているのです。預言者ホセアと妻ゴメルの中に生まれるきずなというのは何かというと、相手がたとえ自分を裏切ったとしても、その相手に対して誠実さで、その愛を示すのだというのです。

 ですからこのヘセドという言葉は、「慈しみとまこと」という意味だと雨宮先生は説明しています。あるいは、このホセア書に書かれているように「真実の愛」ということもできるわけです。

 また、更にはこの「ヘセド」には契約という要素が深く結びついている言葉で、ヘセドをもってする交わりのことを契約と言うのだと、雨宮先生はその本の中で説明しています。契約と言うのは約束ですから、その愛の関係は途中で途絶えることなくずっと続いていくのです。

 「主よ、あなたのヘセドがわたしにもたらされますように」これが、今日、私たちに与えられているみ言葉です。

 主の真実な愛が私にもたらされるように、主の慈しみと誠実さが、私にもたらされるように、主と私の間にあるきずなが、ちゃんと築かれていますように。そして、その言葉の後に、「あなたの救いが みことばのとおりに。」と続くのです。

 み言葉に語られているように、主のヘセドによる、慈しみによる救いが私にもたらされるようにと、ここで祈り手は願っています。神の言葉は、まさにその神との間にきずながしっかりとあって、そのきずなを結んだ関係である神の民のことを、たとえ相手が裏切るようなことがあったとしても、神は真実な愛で、私たちに救いをもたらしてくださるというのです。 (続きを読む…)

2021 年 2 月 21 日

・説教 詩篇119篇33-40節「ゴールを目指して」

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2021.02.21

鴨下 直樹

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 今朝は、予定されていた説教題を変えまして「ゴールを目指して」としました。何やら、サッカーでもしそうなタイトルですが、私たちの人生のゴールという意味で、ゴールとしました。

 ジョン・バニヤンが書いた『天路歴程』という物語があります。読んだことのある方がおられるでしょうか。クリスチャンの信仰の歩みをテーマにした旅の物語です。この物語は、滅びの町に住んでいる背中に大きな荷物を背負ったクリスチャンという名前の主人公の物語です。ある時、クリスチャンが読み物を読んでいて、いずれこの世界は天から火が降って来て滅んでしまうと知り、どうしたら救われるのかと、救いを求めて旅をする物語です。途中、エバンジェリスト(福音宣教者)という名前の人と出会い、遠くに見える光のところに小さな門があるから、そこに向かって進むように教えられます。そして、その天の都の門にたどり着くまでの旅が記されているのですが、途中でさまざまな人達と出会い、何度も道を踏み外しては危険な道を歩んでいく、そんなクリスチャンの冒険物語です。教会の図書にもありますので、是非、読んでみてほしい一冊です。

 今日の詩篇を読んでいますと、まさにこの天路歴程の物語を思い起こすような書き方がなされています。
33節と34節にこう記されています。

よ あなたのおきての道を教えてください。
そうすれば 私はそれを終わりまで守ります。
私に悟らせてください。
私があなたのみおしえから目を離さず
心を尽くしてそれを守るために。

 詩篇119篇は「道」という言葉がほとんどどの段落にも出てきます。ここでは「あなたのおきての道」という言葉が出てきます。その道はどこに続いているのか、祈り手は、その道を「終わりまで守ります」と言っています。「終わりまで」ということは、死に至る時までその道は続いているということです。自分の人生の歩みをかけて、その道を進んで行くというのです。なぜなら、その先にゴールがあると信じているからです。それが、天の都の門です。そして、そのゴールを目指して主が歩ませてくださる道が、自分の人生をかけて進んでゆくのにふさわしい道だと信じているのです。

 その道を進むために「あなたのみおしえから目を離さず」とここで言っています。この道を進む先にあるゴールを目指して進んで行くのです。

 そのゴールを目指して進むときに、目を離さずに、しっかりとゴールの方向、進むべき方向を見据えていることが大切です。

 問題は、「目を離さず」とあるのですが、私たちはすぐに目を離してしまって、どこに向かって行くのかが分からなくなってしまうことです。

 天路歴程の物語も、さまざまな登場人物が登場します。最初に出てくるのは、カタクナ氏と、イイカゲン氏です。その他にもヨワタリ氏、オキテマモル、カタチバカリ、コワガリ、シンジナイ氏など色々なユニークな名前の人物が登場してきます。こういう名前の人たちが、主人公のクリスチャンの進む道を邪魔していくのです。

 私たちの人生の進む道もそうです。セケンテイ氏だとか、ミンナヤッテル氏だとか、リュウコウさんやら、フツウさんやら、さまざまな人が私たちに声をかけて、この進むべき主の道とは違う道を示そうとしてきます。そして、その都度、私たちはそういう言葉にも一理あると思いながら、遠回りを繰り返してしまうのです。

私に悟らせてください。
私があなたのみおしえから目を離さず
心を尽くしてそれを守るために。

とありますが、これは私たちにとって切実な祈りなのではないでしょうか。

 今日の詩篇のところは、「へー」というヘブル語から始まるのですが、面白いことに、最後の40節以外のすべての節で、この「へー」という文字が入る単語から文章が始まっています。そして、そのすべての箇所はすべて命令形で記されています。

 〇〇してください、〇〇し給えというのは、お願いですけれども、文法としては命令形になるわけです。悟らせてください。み教えから目を離さないで、心からその教えを守ることができますようにという祈りです。
この祈り手は主に願い求めながらどうしても、知りたいのです。主の道を歩むことが最善であると。それが分かれば、わきのものに目を奪われることはなくなるのです。 (続きを読む…)

2021 年 2 月 14 日

・説教 詩篇119篇25-32節「真実の道」

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2021.02.14

鴨下 直樹

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 今日の詩篇は少し重い空気が立ち込めています。

25節の冒頭には

私のたましいは、ちりに打ち伏しています。

とあります。

28節

「私のたましいは、悲しみのために溶け去ります。

31節

主よ、どうか私に恥を見させないでください。

このような重たい言葉が繰り返されています。

 今、水曜日にオンラインで聖書を各巻ごとに、ざっくりとした解説をしています。先週でもう15回になりました。先週は第一歴代誌をとりあげました。第一歴代誌というのは、アダムからダビデが王として立てられるまでの神の民の歴史を取り扱っています。第二は、その後のソロモン王からイスラエル王国が崩壊して捕囚を経験するまでの流れが記されています。

 こうやって聖書をずっと学んでいきますと、見えてくるのは神の民イスラエルというのは本当に小さな存在だということです。吹けば飛ぶような弱小国です。そんな国が、神の民として支えられ、励まされ、導かれて来た姿を歴代誌から読み取ることができます。そうやって見ていきますと、そこから見えてくる神の姿というものがあります。それは神の愛とか、恵みとか、慈しみという言葉で表現されるわけですが、本当に温かいものです。

 神であられる主は、神の民である私たちの存在がどれほど小さくても、神はそこに全力の愛を傾けてくださるお方なのです。そして、その神の愛はどういう形で、その小さな民に示されているのかというと、それは神の言葉によってです。この神の言葉によって、私たちは主が真実なお方であるということを知ることができるのです。

 言葉というものを、神はご自身の思いを伝える伝達手段としてお取りになりました。

 愛の伝達手段というのは、いろいろとあると思います。花束を贈るとか、プレゼントを贈る。その人の喜ぶことをする。お手伝いをする。綺麗な景色を見せる。おいしい食べ物を一緒に食べる。一緒に楽しい時間を過ごす。挙げればきりがありませんが。さまざまな方法がある中で、神は、「言葉」をお用いになりました。

 ただ、言葉というのは、もろ刃の剣です。良かれと思ってかけた言葉が、かえって相手の心を傷つけるという苦い経験をしたり、されたりという経験は誰にでもあると思います。それを、あえて神がなさったというのは、驚くべきことです。

 聖書の神は、言葉の神です。私たちは、それぞれの意思伝達をするために、言葉を使います。例えば、今こうして横で手話通訳が行われています。手の指を使っていろいろな形をさせながら、それを言葉として思いを伝えています。声であったり、文字であったり、手話であっても、私たちは言葉を用いて、思いを相手に伝えます。そこには、日常の情報交換のような言葉から、私とあなたという個人の関係があることが前提で交わされる深い内容の言葉まで、いろんな種類の言葉があります。軽い言葉から、重たい言葉まで、言葉は伝える内容の違いで、その重要度は異なってきます。 (続きを読む…)

2021 年 2 月 7 日

・説教 詩篇119篇17-24節「旅人として」

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2021.02.07

鴨下 直樹


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 今朝は、予定していた説教題を変えまして、「旅人として」としました。年末までは「Go toトラベル」と言って、「旅行に行きましょう」ということを政府が打ち出しました。旅行に行くことで、コロナの中にあって経済を回そうという政策がとられていました。しかし、そのために感染が拡大してしまい、今は旅行どころではなくなって、反対に、「外出自粛」が叫ばれるようになっています。この岐阜市でも、この週末までとされていた外出自粛期間が来月まで延長されまして、旅行という雰囲気ではなくなっています。

 そんな中で、今日の詩篇の中にある「私は地では旅人」という言葉にどうしても目が留まります。「ああ、また旅行に行けるようになりたいなぁ」。そんな思いを持っておられる方は少なからずいると思います。

 聖書が「旅人」という言葉を使っているのを見て、そこにどんな意味があるのか、私たちはいろいろと想像します。「旅人」という言葉にはネガティブなイメージはありません。どちらかと言えば、楽しそうな、心がリフレッシュできそうな、そんなイメージを抱くと思います。

 先日の聖書の学び会でも、「旅人」というのは、どういう意味なのかという質問が出ました。他の聖書の翻訳では「寄留者」となっています。「寄留者」というのは、イスラエルの民の中に住んでいる異国人です。日本語で「外人」という言葉があります。どちらかというと、それに近いニュアンスの言葉です。

 ある解説のものを見ていましたら、このヘブル語は「ゲール」というのですが、「法的保護を必要とする『よそ者』を指す」とあって、さらには「ヤハウェの保護を必要とするはかなき者の意」と書かれていました。立場の弱い者です。そういう異国からの寄留者を、主は保護するように律法の中で戒めてきました。「この地では旅人」というのは、自分はこの地では立場の弱い、よそ者というような存在なのだと、自分のことを語っているのです。そうすると、この言葉はずいぶん違ったイメージになると思うのです。

 この詩篇119篇は最初の「アーレフ」というヘブル語のアルファベットで始まっています。最初の部分は、この詩篇の導入部分にあたります。次の「ベート」の部分は「若者への呼びかけ」となっていました。そして、今日の三番目の部分「ギーメル」で始まる部分ですが、ここからが詩篇の本論と言える内容になっています。

 この詩篇119篇は「神の言葉への愛」がテーマです。ここでいう、「神の言葉」というのは、「律法」のことを意味しています。イスラエルの人々への主が定めた法律です。

 主は、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い出し、40年にわたる荒野の旅の後で、約束の地、カナンの地にイスラエルの人々を招き入れられました。こうして、主は、この世界の人々に、神の思いはどこにあるのかということを明らかにされました。そこで、語られているのが、律法です。イスラエルの人々が喜んで生きていくことができることを願って、生きていく上で大切なことを、神はこの律法の中に込められたのです。ですから、この律法の中には、主の愛と恵みが満ち溢れた内容となっています。

 どの国でもそうですが、その国の法律というのは、その国民を守るために作られます。民から搾取するためではなくて、安心して生きることが出来るようにするためです。そういう法律の、基になったのがこの神の律法と言えるわけです。

あなたのしもべに豊かに報い 私を生かし
私があなたのみことばを守るようにしてください

と17節にあります。

 み言葉を与えてくださる主は、私たちが豊かに生きることができるようにしてくださるお方なのだとここで告白しているのです。主は私たちを豊かに報いて、生かしてくださる。そのために、み言葉を大切に守って生きることができますようにと祈っているのです。

 神のみ言葉は、私たちの豊かな人生にとって必要不可欠なものなのです。

 そのために必要なことは何か。続く18節でこう言っています。

私の目を開いてください。
私が目を留めるようにしてください。
あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。

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2021 年 1 月 31 日

・説教 詩篇119篇9-16節「清さを保つ道」

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2021.01.31

鴨下 直樹

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 みなさんは、新しい電化製品を購入した時、まず取扱説明書を丁寧に読んでから使いますか、それとも、まず使ってみて、分からないところがあれば調べるでしょうか。私は後者です。というか、ほとんど説明書を見ません。機械にトラブルがあって、エラーが出てから、仕方がなく説明書を開きます。

 少し前のことですけれども、テレビを見ていましたらコピー機を駆使していろんなことができるという番組をやっていました。2チームに分かれまして、出された色んな課題をどちらが早くクリアーできるかという番組でした。出て来た課題はどういうのかというと、紙のサイズがそれぞれ全く違う何種類かの紙を、綺麗に一つのサイズにまとめてコピーするというものでした。別の課題は、分厚い本をコピーするときに、真ん中に影が入らないようにどちらが綺麗にコピーできるか。そういった課題がいくつも出されて、順番にクリアーしていくわけです。
 そこで私は初めて知ったのですが、コピー機というのは、実にいろんな機能があるんだそうで、紙のサイズが違っても、全部紙のサイズを自動で整えてくれるとか、そういった機能もあるんだそうです。もっとも、「へー」と見ていただけですから、自分で試してみようとは思いませんでしたので、やってみたことはありません。ただ、「ああ、そういう機能があるのね」ということを知って、感心したわけです。
 取扱説明書を丁寧に読めば、せっかく高いお金を出したコピー機ですから、実にさまざまな機能を駆使して、色んな事ができる可能性が広がるのです。

 創造者であられる神は、この世界を、そして、私たち人間を創造されました。そして、神は、私たちにこの世界と私たちの取扱説明書として、聖書を与えてくださいました。ですから、聖書の中には、私たちの生活の中で起こるさまざまなトラブルやエラーの対処法があらかじめ記されているわけです。もし、記されていないとすれば大変なことです。

 今日、私たちに問いかけられているのは、こういうテーマです。

どのようにして若い人は
自分の道を 清く保つことができるでしょうか。

 「若い人」がテーマです。そう聞くと、「ああ、じゃぁ今日は私とは関係ないわ」と思わないでいただきたいのです。

 「若い人」。かつて、若かった人も、現在進行形の方もあると思います。若さというのは、力です。可能性に満ち溢れています。まだ、さまざまな限界がない状態と言えるかもしれません。臓器に負担を感じていないとか、骨に異常がないということさえ、そういう問題を抱えている人にしてみれば、うらやましく思えるのかもしれません。けれども、もう一度若い時からやり直したいですか?と質問してみるとどうでしょう。今の年齢にもよりますし、年代によっても違うかもしれませんが、想像するに、それほど多くの方が、若い時からやり直したいという思いにはならないのではないでしょうか。なぜそうなるかというと、若い時の大変さというのも分かるからです。若い時には、必ずその上に立ちはだかる人がいて、やりたくないことをやらされて、苦労してきたという経験が皆あるのではないでしょうか。 (続きを読む…)

2021 年 1 月 24 日

・説教 詩篇119篇1-8節「幸いな人」

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2021.01.24

鴨下 直樹

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 今日から詩篇119篇のみ言葉を丁寧に聞いていきたいと願っています。この詩篇はアルファベットの詩篇となっていまして、アルファベットの頭文字が詩の冒頭に来るように作られています。ヘブル語のアルファベットは22あります。それが八節ずつの区切りで、全部で176節となっている非常に長い詩篇です。

 毎回、アルファベットの一つ、つまり8節ずつを取り上げていきたいと思っていますので、単純にこの詩篇のみ言葉をすべて取り扱うには22週間かかるということになります。

 今、水曜日に「ざっくり学ぶ聖書入門」という学びをオンラインで公開しています。そこでは一つの書簡を一回で取り上げていますから、同じようにすれば、一度でこの詩篇119篇を取り扱うこともできます。けれども、とても豊かな内容ですので、ぜひ、この機会に丁寧に、詩篇119篇のみ言葉の豊かさを共に味わいたいと願っています。

 詩篇119篇全体のテーマは「神の言葉への愛」と言っていいと思います。

 神の言葉、神の戒め、律法、色んな言い方ができると思いますが、この詩篇には、この神の言葉である律法のことを、実にさまざまな言葉で言い換えています。
今日の1節から8節の中にも、「道」、「みおしえ」、「さとし」、「戒め」、「仰せ」、「おきて」、「さばき」と七つの言葉で言い換えられていますが、そのすべては、神の言葉、直接的には律法のことを言い換えているのです。これが、この詩篇119篇の特徴です。

 その一つ一つの言葉の意味は、少しずつ触れていきたいと思いますが、今日特に覚えたいのは、この最初の言葉です。

幸いなことよ
全き道を行く人々
主のみおしえに歩む人々。

 この詩篇は、この冒頭の言葉が176節全体の導入になっています。この詩篇が語ろうとしているのは、詩篇冒頭の1篇の一節にも出てくる「幸いなことよ」で始まっている言葉です。直訳するとすれば「幸いな人だ」ということになります。この詩篇にかぎったことではなくて、聖書全体が人の幸いを語っていると言えます。

 こういう人は幸せ者だ! と宣言するのです。それだけ力強く言いうるのは、主は人を幸いにしてくださるお方だからです。主は、私たちに幸せになって欲しいと願っておられるのです。そのお方が私たちの主なる神なのです。

 その後にはこう記されています。「全き道を行く人々」と。この世界に完全な道などどこにあるというのでしょうか。私たちは今週、宣教40周年を迎えました。この40年の道のりは決して平坦な道のりではありませんでした。今尚、困難な道を歩み続けています。

 けれども、私たちは知っています。自分たちが歩んできた道を振り返ることを。その時、険しかったはずの道が、これが正しい道だったのだという事を後になって私たちは気づかされるのです。私たちの歩む道というのは、何度も道が途切れそうになったり、何度も横道にそれそうになったり、右や左に大きく逸れてしまうようなこともしばしばです。そして、これから歩んでいく道のりもそれは同じことです。歩行者天国のように、整えられて、危険なものが入り込まないような道を私たちは歩んで行けるわけではありません。険しい道です。きつい坂道もあるでしょう。けれども、主が私たちに備えられる道には、その道を進むための「地図とコンパス」が与えられているのです。

 それこそが、「主のみおしえ」である神の言葉がもたらすものです。 (続きを読む…)

2021 年 1 月 17 日

・宣教40周年記念礼拝説教 詩篇100篇「感謝の歌を!」

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宣教40周年記念礼拝

2021.01.17

鴨下 直樹

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(礼拝前半)証し:赤塚尚武


 

(礼拝後半)説教:鴨下直樹


 
 芥見キリスト教会の皆さん、宣教40周年おめでとうございます。

 1981年1月18日の礼拝からこの教会の宣教は開始されました。先ほど、芥見教会の最初の受洗者であるAさんが証しをしてくださいましたが、そこでお話しされたように最初の礼拝に集われたのは、Oさん夫妻とAさん夫妻、そして今は高山にみえるIさんご夫妻と学生の7名だったそうです。

 その時から、今週で40年を迎えました。本来でしたら、これまでこの教会で労してくださった先生方をお招きして、特別な記念礼拝をしたいところですが、今はコロナウィルスのために、大きなお祝いをすることもできません。それどころか、先週からこの岐阜県でも緊急事態宣言がだされていまして、この場に集って礼拝をすることを控えておられる方もいるという状況です。

 そう考えてみれば、芥見教会の40年の歩みというのは、荒野の40年であったということができるのかもしれません。30周年の時にもお話ししたのですが、この教会はこれまで、最初の宣教師であるストルツ先生、そして宮園先生、飯沼先生、脊戸先生、浅野先生、後藤先生をお迎えし、私で7人目の牧師ということになります。30年で7人の牧師というのは、かなり多い方です。その間、きっとみなさん色んな思い出や経験がおありになると思います。

 この40年の間、芥見教会は実に豊かな経験を与えられてきました。そして、イスラエルの民が、荒野を40年さまよいながら主に導かれてきたように、この教会も主に導かれてきた40年であったということができます。

 イスラエルの民は40年ですべての世代が入れ替わりました。けれども、本当に幸いなことですが、芥見教会のほとんどの方々が、今日まで代替わりすることもなく、こうして40年のお祝いをすることができるということも、本当に感謝なことです。

 神の民は、主との契約に生きる民です。主は、その民に約束を与えてくださいました。あなたがたを約束の御国に招き入れ、そこで子孫繁栄の約束を頂いたのです。この約束は、今も変わることはありません。

 神の民であるイスラエルは、約束を与え、果たしてくださる主なる神さまに感謝をささげる歌として、この詩篇100篇を賛美してきました。この詩篇には、神の約束に生きる民にとって大切なことが歌われています。

全地よ に向かって喜びの声をあげよ。

 この詩篇は主の御前に感謝をささげる賛美の歌です。その内容は喜びと感謝に満ちています。命令形で書かれていますけれども、この言葉には嫌な響きはありません。主は喜びと感謝を創造してくださる主だからです。

 この詩篇は、冒頭の1節から7つの命令形の言葉が続きます。
「喜びの声をあげよ」
「主に仕えよ」
「御前に来たれ」
「知れ 主こそ神」
「賛美しつつ大庭に入れ」
「感謝せよ」
「御名をほめたたえよ」

 この七つの命令形の言葉の中に、約束に生きる主の民が、何を大切にしてきたのかが、全て語られています。主を喜ぶこと、主に従う事、主の御前で礼拝をささげること、主を知ること、御前で賛美すること、感謝すること、主の御名をほめたたえること。

 この七つの命令形の言葉の主語はすべて「あなたがた」です。つまり、私たちに期待されていることです。

 そして、この七つの言葉はすべて、礼拝と深くかかわっている言葉です。主を礼拝すること。これこそが、主の民の最大の使命であり、私たちの務め、責任なのです。 (続きを読む…)

2021 年 1 月 10 日

・説教 詩篇144篇「わが岩なる主」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:43

2021.01.10

鴨下 直樹

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*1:ライブ録画から抽出した音声を掲載しています。聞きづらい点はご容赦ください。

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 今年も、しばらく詩篇のみ言葉を聴き続けていきたいと願っています。

 今日の詩篇は、「王の詩篇」と呼ばれる詩篇の最後のものです。この詩篇の祈り手は、王さまの立場で記されているのです。またこの詩篇は詩篇の18篇がもとになって書かれました。今どきの言葉で言えば、詩篇18篇をリメイクしたのです。詩篇18篇の王の詩篇に影響を受けて、詩人が自分でも作ってみた。そんな内容です。

 表題には「ダビデによる」と書かれていますが、ダビデ作というのではなくて、「ダビデによせて」というような意味だと思っていただけるとよいと思います。

 ただ、とても興味深いのは、ギリシャ語の七十人訳の方では「ゴリヤテに対して」とか「ゴリヤテと戦う」という意味の言葉が表題に付加されています。この詩篇を作った人は、ダビデがゴリヤテと戦う時のことを思い返しながら、この詩篇を作ったと考えられたようです。

 そんなことを少し心に覚えながらこの詩篇の言葉に耳を傾けてみたいと思います。

 この詩篇は「わが岩なる主」という呼びかけの言葉ではじまります。

 みなさんは、お祈りをするときに、「わが岩なる主よ」と呼びかけて祈ったことがあるでしょうか? 祈りは、私たちが主をどのように呼びかけるかということが、とても大切です。どういうお方に祈ろうとしているのか、この呼びかけに、私たちの信仰の姿勢や、その後の祈りの内容がすべてかかってきます。この詩篇にならって、私たちもお祈りをするときには、すぐに祈りはじめるのを少し待って、はじめに主をどのように呼びかけたらよいのかを少し考えて祈ってみるとよいかもしれません。

 「岩」というのは、どんなイメージでしょうか。

 私たちの生活の身近に、「岩」はあまりないかもしれませんので、私たちがお祈りするときに、神さまのことを「岩」にたとえるというイメージはなかなか湧いてこないのではないでしょうか。

 「岩」は人が簡単には動かすことができないものです。昔からそこにあり、それを自分たちの都合で取り除くというよりは、その岩があることを前提に考えていかなければなりませんでした。ずっとそこにありつづけるもの。変わらなく存在するもの。それが、岩のイメージです。

 年末に下仁田教会に奉仕に行ったとき、川沿いの道を走っていると、「夫婦岩」という看板がありました。見てみると、それほど大きくはないのですが、二つの岩がそれぞれ寄りかかって支え合っている岩が、川の真ん中にありました。川があふれることがあっても、ずっとそこに有り続けるから、看板まで出してあるのだと思うのです。岩というのは、そのように、いつも変わらず、そこにあるのです。そんな岩のイメージと主なる神のイメージがそこで重なっているのです。

 何があっても変わることなく、周りに惑わされることもなく、いつも変わることのないお方が、私たちの主なのだと祈っているのです。そういうお方に、この祈り手はこれから祈ろうとしているのです。

わが岩なるが ほめたたえられますように。

という言葉の後にはこういう言葉が続きます。

戦いのために私の手を
戦のために私の指を鍛えられる方が。

 岩である主が、私の手と指に戦いを教えてくださるというのです。

 岩と格闘するというのは、普通はあまりイメージできません。ただ、最近はそうでもないのかもしれません。今世間を騒がせている「鬼滅の刃」というアニメがあります。その主人公の竈門炭治郎は、最初の修行で、岩を刀で断ち斬るというところから始めるのですが、もちろんそれは、この聖書がベースになっているわけではないと思います。この漫画の主人公の炭治郎は、その修行で岩を斬ってしまうのですが、普通は斬れません。だから漫画になるわけです。ただ、絶対的に不可能だと思えるものに挑み続けることが、自分を強くしてくれるという表現があそこには込められているのでしょう。

 そう考えれば、岩なる主が私の手や指に戦いを教えてくださるというイメージも理解しやすくなるかもしれません。 (続きを読む…)

2021 年 1 月 3 日

・説教 ルカの福音書6章36節「憐れみ深く生きよう!」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:58

2021.01.03

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」

 今年のローズンゲンによる年間聖句は、このルカの福音書の6章36節のみ言葉です。この一年、この御言葉を心に留めて歩みたいと願っています。

 今、まさに世界に求められているのは、この御言葉に尽きるのだと思うのです。昨年、私たちは大変な一年を過ごしました。そして、その大変さは今年一年も続くだろうと考えられています。新型コロナウィルスの拡大は、この冬になってますます広がっています。もう、私たちは「未曽有の危機」とか、「緊急事態」という言葉さえも、あまり危機感を感じないほど、耳慣れしてきています。

 人と人とが顔を合わせて会話するという、この当たり前の人とのコミュニケーションが禁止されているのです。入院している家族との面会も許されていませんし、老人ホームのような施設でも家族の面会が禁止されています。

 人を愛している、大切にしているということを伝える手段が奪われてしまうような、そんな生活を、私たちはなおもし続けていなければならないのだというのです。

 そして、それは、権力を持っている誰かが、禁止しているというのでもないのです。自主的にそうするように要請されているのです。

 そんな中で、私たちはこの御言葉をこの一年の聖句として与えられているのです。

「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」

 私たちが、何よりもまず、心にとめなければならないのは、私たちの父なる神は、「憐れみ深いお方である」という事実です。

 主は、この憐れみ深いというご自身の性質を、主イエスを通して、私たちに示してくださいました。

 ルカの福音書の第6章というのは、マタイの福音書で語られている山上の説教と呼ばれる内容と、似ているのですが、ルカの福音書では6章の17節で「イエスは彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった。」と書かれていまして、そこでなさった説教が記されているところです。それで、「平地の説教」と一般に言われているところです。

 そこで、主イエスは弟子たちに、また主の教えを聞きたいと思って集まって来た人々に、説教をされました。特に、この部分は6章26節から36節では「愛すること」が語られています。そこで語られているのは、敵を愛することと、与えることです。

 愛するというのは、観念なのではなくて、具体的な働きとなって示されるのです。敵を赦すこと、そして、与えることが、愛することだと言っているのです。

 主イエスの敵とはいったい誰のことを指しているのでしょう。単刀直入に言えば、それは、私たちのことを指しています。

27節、「憎む者たちに善を行いなさい。」
28節、「あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。」
29節、「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。」
30節、「求める者には、だれにでも与えなさい。」
31節、「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。」

 主イエスが語る、人を愛するというのは、こういうことだと続けざまに語られています。これを、聞いていた人々はにこやかな顔のままでは、この言葉を聞くことはできなかったと思います。私たちにしてもそうでしょう。

「悪には悪で報い、愛には愛で報いる」というのが、私たちの世界の常識です。そして、それは、キリスト者であってもほとんど例外なしに、同じような感覚で生活してしまっていると思うのです。

 しかし、父なる神はそれを、私たちにしたのだというのです。そのことが、私たちに明確に示されたのは、あの、主イエスが十字架にかけられる前のゲツセマネの祈りの姿で、私たちはそのことを心に刻むことができます。敵を愛するということが、どれほど厳しいことなのかが、あの時の主イエスの姿の中に示されています。

 自分の敵のために、自分を傷つけてくる人のために、自分自身を与える、それが愛するということなのだということを、主イエスはあのゲツセマネの祈りを持って、私たちに示してくださったのです。それが、どんなに苦しいことなのか、どれほどつらいことなのか、まさに、愛するといことは、苦痛と困難を祈りによって乗り越えた先にあるものなのだというのです。

 「憐れみ深く生きよう!」という説教題をつけました。

 これが、この一年、主から私たちに託された宿題です。それは、とてつもない困難な課題です。

 そのために、祈るのです。そのために、お互い支え合っていくのです。そして、そのことができるようになるためには、あなたがたの父の憐れみ深さを知ることが何よりも重要です。

 その人のことが好きとか、嫌いとか、私たちの持つ感情に目を向ける時に、それは何に根差しているのかをよく知る必要があります。その判断を下しているのは、自分自身です。そして、そこにあるのは、自分自身の正義という判断が働いているはずです。もちろん、そこにはさまざまな苦い経験があるのかもしれません。これまでに、どれほど犠牲を払ってきたか分からないという部分があるのかもしれません。

 しかし、愛するのは、感情ではないのです。意志です。そして、その意志というのは、神のご意思なのだということです。神がそう願っておられる。そして、その神の意志は、私を愛するということのために費やされた意志でもあるのです。そして、この神の意志の背後には、神の正義があるのです。

 神が、その人を愛したいと願っておられるという、事実が、神の正義が私たちの意志を支えるのです。私も愛そうという思いを支えるのです。

 私たちの主は義なる神です。たとえ敵であったとしても、その人を義としたい、その人をよしとしたい、その神の思いがそこにはあるのです。

 私たちの父なる神は、あわれみ深いお方です。そして、そのお方は、その憐れみを、まず、何よりも私たちに示してくださいました。そして、今度は、私たちから、私たちの周りの人たちに示されることを願っておられます。

 私たちが愛を示すのはもちろん、敵のような人ばかりではありません。家族にも、友人にもそうです。教会の中でもそうです。私たちの周りには、強い人もいるでしょう。弱い人もいます。心寄せる人もいれば、苦手だと思う人もいます。主は、私たちに憐れみ深さを示すことを、その人たちを愛することを求めておられます。

 この主のご意思が、私たちを通して示される一年となることを私たちは祈り求めて生きたいのです。

 お祈りをいたします。

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