2020 年 5 月 10 日

・説教 創世記25章1-18節「その後のアブラハム」

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2020.05.10

鴨下 直樹

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午前9時よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。

 

 20年ほど前のことです。当時私が牧会していた教会に、音楽をやっている20代の女の子が来るようになりました。毎週、教会に集い、よく説教に耳を傾けていました。あるとき、当時私は教団の学生や青年たちの担当していたこともあって、教団の青年の交わりに、その女性を誘いました。同世代の子たちと仲良くなれるといいなと思ったのです。ところが、彼女は、私が青年たちとはしゃいでいる姿の方に驚いたみたいで、終始、周りの青年たちに鴨下はいつもこうなのかと聞いてまわっていたのです。どうも、日曜の私の説教の姿と、青年たちと一緒に騒いでいる姿が重ならないので、そのギャップに驚いていたのです。

 その当時、わたしの普段のイメージを知っている方の教会に、礼拝説教者として呼ばれたことが何度かあったのですが、よく「先生の説教は案外普通なんですね」と言われました。暗に面白い話を期待していたようなのですが、それほどでもないので、がっかりしたようです。私としては何とも申し訳ないのと、どんなのを期待していたんだろうと、そのころはずいぶん悩みました。

 今もそれほど変わっていないのかもしれませんが、どうも私に期待しているものと、実際の私には大きなギャップがあるのかもしれません。今、目の前に人がおりませんので、こういう話を誰もいない会堂でやるのはちょっと勇気がいります。今のは一応笑うところです。

 私に限らずですが、私たちはきっとお互いにそんなところがあるのだと思います。いかがでしょうか。教会に来ている時の自分の姿が、自分のすべてではない。なんとなく、そんなギャップに苦しんでいる方もあるかもしれません。

 人にはいろいろな顔があります。人に見せてもいい姿と、人にはあまり見せたくない姿。そして、この人たちには自分のマイナスの面を見せたくないとか、あるいは、本当の自分を知られたら困るとか、そんな思いがひょっとすると、どこかにあるのかもしれません。

 今日のアブラハムの姿は、まさにそんなアブラハムの新しい一面を垣間見せるものです。というのは、アブラハムにもう一人ケトラという側女(そばめ)がいたというのです。しかも、6人も子どもがいたというのです。ちょっとこの最後にきて耳を疑いたくなる話です。今までのは一体何だったのと言いたくなります。

 私たちは何となく、聖書を順に読んでいきますから、息子のイサクがリベカと結婚したので、その後でアブラハムが再婚したようなイメージで読むのですが、どうもそういうことではないようです。100歳のアブラハムに子どもが生まれるのは難しいと言っているのに、イサクが結婚した後ということは、アブラハムは140歳を超えていることになりますから、そうやって読むのは現実的ではありません。1節に「再び妻を迎えた」とありますが、これは恐らくハガルを妻としたときと同じようにという意味なのでしょう。ですから時期としてはまだサラがいた時のことだと考えた方がよさそうです。ただ、ハガルの子、イシュマエルはアブラハムの子孫とされていませんから、ケトラの子たちも、同様にやがて「東の国に行かせた」と6節にあるように、アブラハムの子孫のようには考えられていなかったということなので、最後の最後まで物語の中心にはなりえないということで、これまで書かれていなかったということなのでしょう。

 こういうアブラハムの一面を、最後の最後に聖書はなぜ書くのかという思いになるのですが、それが聖書です。都合のいい部分だけでなく、その人となりを描くことによって、アブラハムという人物の姿を描き出しているのです。 (続きを読む…)

2020 年 5 月 3 日

・説教 創世記24章10-67節「ある結婚の形」

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2020.05.03

鴨下 直樹

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 今日の聖書箇所はとても長い箇所です。今は、新型コロナウィルスの対策のために礼拝の時間を短くしていますので、すべての聖書箇所をお読みすることができません。それで、今日は、10節から14節と、終わりの62節から67節をお読みしました。前回、1節から10節のところから説教しましたが、この24章全体が、イサクの結婚について書かれているところです。長い箇所ですから、そのすべてに目をとめることもできません。ご了承ください。

 ここには、ある一つの結婚の形が描き出されています。それは、恋愛結婚でも、お見合い結婚でもありません。イサクの父アブラハムは、自分のしもべであるエリエゼルにイサクの妻となる人を探しに行かせたのです。ですから、イサクからしてみれば、そのしもべに自分の人生を託すしかないわけですが、どうも聖書を読みますと、イサクの好みを聞いたとかそんな記述も見当たりません。しかも、自分の知らないうちに親が自分の結婚相手を決めてしまっているというありさまです。現代では少し考えにくい結婚の形です。

 けれども、私たちは日本でもそうですけれども、昔は、たとえば戦国時代などもそうですが、親同士が結婚相手を決めるということはごく普通に行われていました。ただ、その場合は家同士の格だとか、自分たちの身分を保つための方法という一面があったように思います。

 私たちは、今日この箇所から聖書が結婚について何を語ろうとしているのかということに目を向けてみたいと思います。といいますのは、創世記のこれまでのところでアダムとエバの結婚以外で、二人が結び合わされて結婚するという場面を描いているのは初めてです。ですから、ここに聖書が描いている結婚の一つの形というのが示されているといえると思うのです。

 さて、今日は24章全体なのですが、先ほど10節から14節までのみ言葉を私たちは聞きました。ここに書かれているのは、嫁探しを請け負うことになったしもべエリエゼルの祈りが記されています。しもべの立場からしてみれば、自分の主人であるアブラハムの担い手となるイサクの妻を探さなければならないわけですから責任は重大です。それで、どうしたのかというと、まず祈ったということがここに書かれているわけです。そして、実にこのまず祈るということの重要さを、私たちはもう一度知る必要があるのです。

 この祈りは、「私の主人のために恵みを施してください」という祈りでした。この二人の結婚が神の恵みであるようにという祈りです。何でもないようなことですけれども、ここに結婚の祝福があるのは明らかです。 (続きを読む…)

2020 年 4 月 26 日

・説教 創世記24章1-9節「イサクへ、次世代へ継がせるもの」

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2020.04.26

鴨下 直樹

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 毎年、4月の第四週には、教団役員研修会が行われています。今年は、この新型コロナウィルスの拡大防止ということで、残念ながら中止になってしまいました。役員研修会は、各教会の長老や執事、役員がみな参加してその年のテーマでしばらくの時ですけれども、様々なテーマの研修の時を持っています。昨年は、今教団の五か年計画で「次世代への献身」というテーマを掲げていることもあって、教団の20代、30代の若い牧師や宣教師たち6名だったでしょうか、それぞれ描いているビジョンについて語ってもらうというテーマでした。

 その中で大垣教会の伊藤牧師がアブラハム世代、イサク世代、ヤコブ世代という言葉を使いまして、自分はイサク世代なんだという話をされました。実際に伊藤牧師は牧師の家庭に生まれた、二代目です。ただ、彼はそういうことではなくて、この同盟福音の第一世代のクリスチャン家族が、クリスチャンホームを形成して、信仰がその子どもたちに受け継がれている。そういう意味で、自分たちの世代のことをイサク世代であると定義して、その後に続く神様の祝福の担い手になりたいのだという話をしてくださいました。そして、先日この伊藤牧師にも三世代目の赤ちゃんが生まれたそうですから、なおさら伊藤牧師は今このことを願っておられるのではないかと思います。

 アブラハムにしても、ヤコブにしてもそうですが、聖書の中でもこの創世記の二人のことは非常に大きく取り上げられています。けれども、その間のイサクというのはあまり大きな出来事がないという印象があるのかもしれません。けれども、イサクがアブラハムの信仰をしっかりと受け継いだから、その信仰がヤコブへ、イスラエルへと受け継がれていったわけです。その意味で、二世代めのイサクの持っている意味が重要だということができると思います。

 今日は、この創世記の24章1-9節までとしました。ここにはまだイサクは出てきません。ここは父アブラハムの最後の仕事といってよいかもしれません。さて、そこで聖書は何といっているか、少し見てみたいと思います。

 1節にこう書かれています。

アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主はあらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。

 ここでアブラハムが老人になっていたと聖書は書いています。サラを葬った時、アブラハムは10歳年上ですから137歳を超えています。ですからこの時アブラハムはそういう年齢になっているわけです。そして、そのくらいの年齢になって「老人になっていた」という書き方をしているのは、とても興味深い思いがします。 (続きを読む…)

2020 年 4 月 19 日

・説教 創世記22章20節-23章20節「見えるものと見えないものの狭間で」

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2020.04.19

鴨下 直樹

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 今日のところは、言ってみればアブラハムの生涯の結びの部分です。アブラハムはまだ生きていますが、次のところからはイサクの物語へと視点が移っていきます。これまで、神はアブラハムの生涯に常に介入され続けてこられましたが、ここでは主は出てきません。まるで、アブラハム一人が勝手に行動しているかのような印象さえ受けます。

 ここに書かれているのは、22章の終わりの部分は、イサクの妻となるリベカの家族のことと、アブラハムが妻サラのためにお墓を購入したという出来事が記されています。ここでは特に神が介入されてはいないわけですから、こういう箇所から福音を聞き取るというのは、いったいどうしたら良いのだろうかと、普段聖書を読んでいる方は思うかもしれません。

 先週の金曜日から、私が教えております東海聖書神学塾の講義が始まりました。と言いましても、この新型コロナウィルスのための緊急事態宣言が今度は全国に出されることになり、そのために、神学塾の講義は当面の間オンライン講義になりました。実は一週間前に急遽そのように決めたのですが、講師の先生方には高齢の方もおられますし、塾生もみなすぐにオンライン講義に対応できるとは限りません。それで、先週の金曜日に一度だけ名古屋の塾に集まっていただき、一人ずつ丁寧にやり方を説明しまして、さっそくオンライン講義を行うことになりました。

 私が教えているのは、今年は「聖書解釈学」という講義です。先週の金曜日の講義には8名が受講したのですが、半分の塾生は教室に来て、窓を全部開け、ひとりずつ離れたところに座り、マスクを着けての受講です。ところが、残りの半分の4人はすでにオンラインでやりたいということで、私はパソコンを前に置き、半分はパソコンに向かって話し、半分は目の前の受講生に向かってお話しするというちょっとこれまでに経験のない講義をいたしました。目の前の人がした発言は、少し遠いためにパソコンのマイクで音を拾えません。それで、私がもう一度通訳のように言い換えまして、パソコンの前に座っている人に聞こえるように話しなおして、そして、その質問に答えるというちょっと面倒な講義をいたしました。

 今回は、そういう状態でまだ自宅にいる人には私が用意した講義のテキストも届いていませんから、とりあえずある個所の聖書を一緒に読み、ここをどう読むかという話をいたしました。その箇所は、マルコの福音書の主イエスがご自分の郷里に行かれたけれども、みな不信仰で何もできなかったという箇所です。そこも、今日の聖書箇所と同様に、特に明らかに福音的な言葉が語られているわけではありません。そういう箇所からどう福音を聞き取るのかという話をいたしました。その講義の時にも、お話ししたのですが、私たちは聖書を読むときに、どうしても自分の心に訴えてきそうな聖書の言葉を探して、何か自分にいい教訓のようなものはないだろうかと考えて読んでしまうことが多いように思うのです。

 けれども、そうやって読んでいきますと聖書の大切なメッセージを聴き取り損ねることになりかねません。そういう時に気を付けなければならないのは、聖書がこの出来事から何を伝えたいのかということをしっかりと聞き取ることです。そのためには、その前後の文脈を理解しなければなりませんし、ここで言えばアブラハムの人生の結びの記事として、今日のこの箇所はどういう意味をもっているのかということを、ちゃんと聞き取ることが重要になってくるわけです。

 といっても、これは神学校の講義ではありませんので、できるだけ難しい話はしないで、聖書に耳を傾けていきたいと思います。

 たとえば、今日の22章の20節から24節のところですが、これは、前回のイサクを犠牲としてささげるという出来事の後に、この話が書かれているということが大事で、神はアブラハムの信仰をご覧になってイサクを守られたという出来事と、まったく別のところではイサクの妻となるリベカのことを神はちゃんと備えられているということが記されています。何でもない出来事のようなことですけれども、神の配慮と、神の計画というはこのように進められていくのだということが、ここから語られているわけです。

 そして、この23章のサラのお墓のこともそうです。「サラが生きた年数は127年であった」と1節に記されています。そのうち、アブラハムと共に生きたのは、アブラハムがハランを出たのが75歳で、その時にはもうサラは妻となっていますから、結婚生活が何年だったのかということは、聖書の中に書かれていませんから分かりませんが、アブラハムとサラとは10歳年が離れていますので、サラは65歳から127歳まで、ほとんど人生の半分の年月が、アブラハムと共にカナンの地のあたりでの遊牧生活であったことが分かるわけです。今でいえば、定年退職を迎えてから、その後、一緒に旅をして暮らしてきたと考えてもいいかもしれません。それは、もう一つの人生であったと言うことができるのかもしれません。

 その間には、いろんな苦労がありました。たくさんの悲しみを経験してきた夫婦です。アブラハムからしてみれば、本当に自分の苦しみを共に分かち合ってきたわけです。そういう妻サラが死を迎える。この妻との別れというのは、どれほど悲しい出来事であったか分かりません。しかも、その愛する妻を葬る土地さえもアブラハムはまだ手にしてはいないのです。そのことが、アブラハムにとって更なる悲しみになったことは想像にかたくありません。 (続きを読む…)

2020 年 4 月 12 日

・説教 ローマ人への手紙6章23節「死と永遠のいのち」

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2020.04.12

鴨下 直樹

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「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」  ローマ人への手紙6章23節

 イースターおめでとうございます。今、私はみなさんと共にイースターの喜びをともに分かち合いたいと心から願っています。しかし、今日私の前には教会の皆さんの姿は残念ながらありません。新型コロナウィルスのために県が緊急事態宣言を出しました。そのために、今日もみな自宅からこの礼拝の様子をライブ配信で見たり、あるいは後でホームページから音声を聞かれたり、原稿を読みながら、それぞれの家庭でイースター礼拝を行っておられると思います。しかし、その小さな礼拝のなかにも主は今生きて働いておられ、私たちの礼拝を喜んでお受け下さっておられると信じます。

 今、私たちはこのローマ人への手紙6章23節のみ言葉をともに聞いています。

 「罪の報酬は死である」とこの言葉は語っています。今ほど、この言葉の意味がよく分かるときはないと言えるでしょう。罪は身を亡ぼすことになるということを、今多くの人々が身をもって味わっています。外出自粛要請が出されていますが、その要請に聞き従わないで、自分には関係ないと飲み歩いていた人が、自分のしたことを後悔しているという放送を、何人もの方が目にしたと思います。病になって、自分のしていることが、いかに愚かなことであったかということに気づくようになるのです。

 もちろん、ここでパウロが問いかけているのは「罪」の問題です。パウロはこのローマ人への手紙の少し前のところで、「罪の奴隷」という言葉を使っています。罪が人を奴隷にすると言っているのです。けれども、面白いものですけれども、人が罪の行動を選択するとき、たいていの場合、自分は自由だと思いながらその選択をするのです。罪とは自分のしたいことをするのです。自分は自由なのだ、誰にも支配されないといいながら、実はその人は罪の奴隷となっているのだとパウロは語ります。奴隷には、かならず主人がいます。罪の奴隷の主人というのは奴隷の思いや考えを無視して、その人の意志を奪ってしまいます。

 ここが罪の不思議なところですけれども、自分では自分のやりたいこと、したいことをしている、自分は自由なのだと思っているのに、気づかないままに罪に支配され、罪の奴隷となってしまっているのです。そのことを、「欲」という言葉で表現します。パウロはここではこの「欲」のことを「罪」と言い換えて語っています。自分のしたいこと、自分の欲、それがいつの間にか自分を支配している。気が付くと、自分の欲に支配されてしまっているのだと言うのです。それが、罪の姿なのだと言っているのです。

 今世界中で150万人の人がこのウィルスに感染していると報道されています。実際にはこの2倍以上の人が感染しているとも言われています。この時期、私たちは自分が感染者になっている可能性があるので、外出自粛をするようにと呼び掛けられています。特に、半数の人は自分が感染していることに無自覚であるというのが、今度の病気の特徴です。だから、自分は若いから大丈夫だとか、自分はかからないという自信があるなどと言いながら、自分のやりたいことを優先させてしまって、その結果、感染者は世界中で爆発的に広がってしまっているのです。

 まさに、罪の報酬は死であるというこの御言葉の意味は本当なのだということを、今のこの世界が証明してしまっているのです。 (続きを読む…)

2020 年 4 月 5 日

・説教 創世記22章1-24節「主に試みられる時」

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2020.04.05

鴨下 直樹

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 今日は少しいつもと様子が違います。新型コロナウィルスのためにほとんどの教会の方々は自宅で映像や音声や説教原稿をみながら礼拝を行っていただいています。岐阜県では当面の間、不要不急の外出自粛要請が出されました。いつも教会堂に集いながら礼拝をしておられるので、戸惑いもあるかもしれません。それぞれの場所でともに主を見上げてまいりましょう。

 今日は「棕櫚の主日」と呼ばれる主の日です。そして、今週から受難週を迎えます。主イエスが十字架の苦しみを受けるこの一週間を私たちは過ごそうとしています。私たちは、このレントの期間、文字通り苦しみを心に留めて過ごしてまいりました。新型コロナウィルスに感染した人の数は世界では96万人を超え、世界の半数にあたる人々が今、外出を制限されています。そして、それはこの岐阜市にもやってきました。そのため、今日はみなさんに自宅で礼拝をしていただいて、インターネットを用いて礼拝をしていただくようにお願いしています。とても残念なことですけれども、仕方がありません。この世界が今まさに試練を受けていると言っていい状況にあります。

 今日、私たちに与えられているみ言葉はまさに、この「試練」の物語です。

これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。

と今日のみ言葉は始まっています。1節です。

 「試練」と聞くと、私たちは「幸せ」の反対にあるものという理解がどこかであります。幸せを壊すものが試練であると考えるのです。確かに、試練にはそのような性質があると言えます。

 地震や津波のような自然災害、あるいは今回のようなはやり病、伝染病といったものは自然災害などと言われます。私たちはこのような試練を経験する時に、まさに信仰が問われている思いになります。そのような試練がやってくると私たちはどこかで神が、私たちから平和を奪ってしまったような、何か神に見捨てられているような思いになるのではないでしょうか。

 アブラハムのことを考えてみたいと思います。アブラハムは今や、約束の子どもが与えられ、ペリシテからの脅威もなくなり、井戸のあるベエル・シェバの土地で平穏な暮らしをすることができるようになりました。それは、まるで絵にかいたような幸せなひと時であったに違いありませんでした。

「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。」と1節に書かれています。

「試練」によって、アブラハムに訪れていた平和が、幸せが打ち破られた。しかも、神によって、この出来事は起こったと、ここに書かれているのです。主なる神はアブラハムに語りかけます。2節です。

神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」

 その日は突然やってきました。幸せをかみしめていたであろうアブラハムに、主なる神は突然、難題を突き付けたのです。しかも、その試練とは、アブラハムが100歳になってようやく与えられた約束の子である息子イサクを、全焼のささげものとして献げなさいという命令です。

 先に生まれた女奴隷ハガルの子イシュマエルは追放してしまっています。そんな中で、あろうことか、約束の子であるイサクまで献げるようにとの命令なのです。これはどういうことなのでしょうか。考えてみれば、神のこれまでの語りかけと、この命令とは矛盾しています。もし、イサクを殺してしまえば神の約束それ自体が無効となってしまうのです。しかも、息子を全焼のいけにえとして殺してしまうということも、理解できることではありません。この神からの要求、これこそが、ここでアブラハムに問われていることでした。

 私たちはどこかでこう考えます。信仰によって幸福感が得られ、不信仰に陥ると不幸になって、試練が訪れるのだと。しかし、それは本当なのでしょうか。私たちは、この受難週を迎えているこの時、神が与えておられる試練の意味をもう一度考えるように促されています。そして、今、世界が抱えている新型コロナウィルスの蔓延という試練が、信仰にとってどういう意味を持つのかということを考えさせられているのです。 (続きを読む…)

2020 年 3 月 29 日

・説教 創世記21章22-34節「共におられる神と生きて」

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2020.03.29

鴨下 直樹

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 私たちは今、アブラハムの人生を目の当たりにしながら、主の御言葉を聞き続けています。言ってみれば、アブラハムの伝記のような性質がここにはあるといえます。多くの人の伝記、特に偉人伝などと呼ばれる物語には、だいたい最後に大きなクライマックスが準備されています。アブラハムの人生もそうです。まだ、この後最大の出来事が待ち受けています。

 今、NHKの大河ドラマ「麒麟が来る」をこの地域の人たちは特に楽しんで見ているようで、明智光秀というこの戦国時代の最大のヒール役を演じた人物を、このドラマでは明智光秀なりの生き様や人との関わりを描きながら、これまであまり描かれていなかった側面からもう一度明智光秀という人となりを描こうとしています。まだ、始まったばかりということもありますが、ほとんど創作なのではないかという出来事ばかりが続いて描かれています。明智光秀がこの期間どのようにしていたのか、あまり記録がないようです。このドラマを見ていない方はあまり興味のない方もあると思いますが、お許しください。今日の聖書と何の関係があるのかと思うかもしれません。実際ほとんど関係ないのですが、大きな出来事と大きな出来事の間には、陰に埋もれてしまうような幕間劇とでもいうような小さな出来事がたくさんあります。そして、そういう小さなエピソードが、その人物の姿をよく描き出しているものです。

 今日の箇所の出来事もアブラハムの生涯からしてみれば、省いてもほとんど何の影響もないような小さなエピソードのように感じます。けれども、この出来事は、確かに出来事としては小さな出来事のように映りますが、「ベエル・シェバ」という地名として、後々まで人の心に留められる地名がどうして生まれたのかということを説明する出来事です。そして、この小さな出来事の持つ意味は、決して小さくはないのだということを、今日はみなさんに知っていただきたいのです。

 今日の聖書の最後にこんな言葉が書かれています。34節です。

アブラハムは長い間、ペリシテ人の地に寄留した。

 実は、この言葉はちょっとここに入る文章としてはふさわしくないのです。これまで、ここに出てきているアビメレクはゲラルの王と記されていました。ゲラルというのは、後にペリシテ人の土地の中でも重要な場所となるところです。新改訳2017の後ろにあります地図の4の下の方に、「ベエル・シェバ」が出てきます。その左上に「ツィクラグ」と書かれた地名が出てきます。そのあたりが「ゲラル」です。このツィクラグという名の土地はダビデの時代にペリシテの王アキシュからダビデに与えられた土地です。

 けれども、この創世記の時代にはペリシテ人という言い方はまだしていないのです。この箇所からだんだんとゲラルという言い方ではなくて、ペリシテ人という言い方が出てくるようになってきます。そして、なぜ、ここでアブラハムがペリシテの地に住むようになったと書かれているかということですが、ペリシテというのは、みなさんもご存じの通り、イスラエル人とはライバル関係になるような民族です。けれども、アブラハムは後に敵とされるようなペリシテとも、一緒に生きたのだということが、この21章の結びで描かれているのです。そして、そのことは、決して小さくない意味を持っているのです。

 今日のところが、このゲラルの王であるアビメレクと、軍団の長であるピコルがアブラハムを訪ねてくるところから始まっています。言ってみれば、信長と明智光秀が出会ったようなものでしょうか。明智光秀がアブラハムだとすると、ちょっと言い過ぎかもしれませんが・・・。アビメレクの方は、一地方の王です。アブラハムは一部族の族長、しかも羊飼いをしているような遊牧民です。その差は歴然としているのですが、アビメレクにしてみれば、この前、アブラハムの妻サラを、アブラハムが妹だと言ったので、妻に迎え入れるという出来事の後です。今風の言い方をしれば、アブラハムに貸しが一つあるわけです。それで、盟約を結ぼうという提案を持ち掛けに来ているのです。 (続きを読む…)

2020 年 3 月 22 日

・説教 創世記21章8-21節「エル・ロイ」

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2020.03.22

鴨下 直樹

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 今、世界中で蔓延している新型コロナウィルスのために、世界中で大きな混乱を引き起こしています。フランスなどでは100人以上集まる集会は禁止されました。そういうこともあって欧米では実際にかなりの数の教会が教会堂で礼拝をすることが困難な状況を迎えています。外出禁止令が出された地域も多くあり、アメリカやイタリア、スペイン、フランス、ドイツなどでも非常に多くの人々がこの病に感染し、多くの死者が出始めています。このかつてないほどの危機的な状況のために非常事態宣言が出されているのです。

 そのために、世界中の経済活動が停滞し、収入がなくなってしまう人たちがたくさん出ています。それでも、病気を広げないために自宅に留まるということは、どれほど厳しい苦渋の決断を迫られるかわかりません。

 苦渋の決断。それは、一つの決断をしたとしても、そこに苦しみや苦さが残ることを指している言葉です。そして、私たちはこの朝、ここに集まって聖書のみ言葉を聴こうとしています。今日、私たちに与えられているみ言葉は、アブラハムが苦渋の決断を迫られているところです。

 アブラハムはここで苦渋の決断を迫られています。なぜなのでしょうか。アブラハムとサラに与えられた約束の子、イサクはここで乳離れの祝いを迎えています。3歳から4歳くらいではないかと思われています。その乳離れの祝いの時に、その出来事は起こりました。もう一人の息子、この時には少年に育ったイシュマエルが、まだ乳離れしたばかりの幼子イサクをからかっていたのです。子どものしたことだから、気にしないということもできたと思いますが、妻のサラは気にしないでおくことはできませんでした。実際、この「からかっているのを見た」という翻訳のところに注が付いていまして、「あるいは、笑っている」と書かれています。協会共同訳では「遊び戯れているのを見て」と訳しています。ほほえましい光景にみることもできるわけですが、見方によっては「からかっているようにも見える」ということが、翻訳からもうかがえます。実際に、サラはその光景をほほえましくは見られなかったようです。それで、サラはアブラハムに言ったのです。「この女奴隷とその子を追い出してください。」と。

 常識的に判断すれば、そんなことはできないことです。サラに我慢するように話をするのが大人としての判断なのだということを、私たちは知っています。しかし、妻サラがそう言うのです。世の男性と同じように、と言っていいかわかりませんが、アブラハムとしては、その声を無視することはできませんでした。

 このことはいろんな考え方ができると思います。「そもそも、ハガルから子どもをもうけるように勧めたのはサラではないか。自分の言葉の責任を果たすべきだ」と言うこともアブラハムにはできたはずなのです。

 アブラハムはどうしたのでしょうか。続く11節にこう書かれています。

そのことで、アブラハムは非常に苦しんだ。それが自分の子に関わることだったからである。

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2020 年 3 月 15 日

・説教 創世記21章1-7節「イサクによる笑い」

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2020.03.15

鴨下 直樹

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 今、私たちはレント(受難節)を迎えています。主イエスがエルサレムに入られてから十字架にかけられて殺されるまでの一週間の出来事を覚え、教会は40日間という期間、主イエスの苦しみに思いを寄せながらこの期間を過ごそうというのです。その期間は好きな肉を断つということで、その前に謝肉祭(カーニバル)をして、たらふく肉を食べておこうというお祭りまで行われるようになりました。レントは自分を喜ばせることはしないという期間でもあるわけです。ですから、どこかで今日のテーマである「笑い」は、あまりそぐわないような気もします。

 「レント」が連想させるものが、「苦しみ」や「試練」であるとすれば、「笑い」を連想させるのは「喜び」や「幸福」です。それは本来相反するものです。けれども、苦しみや試練の先にあるものが「笑い」であり、「喜び」であるはずです。

 実際にアブラハムとサラは、40日間どころではない、25年もの間、神から子どもが与えられる約束をいただきながら、子どもがいない悲しみを味わっていました。けれども、今ここに、アブラハムは試練を乗り越えた先にある喜び、即ち、神から与えられた笑いを心から味わう時が与えられているのです。

 1節にこうあります。

主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。

 「主は約束したとおりに」「主は告げたとおりに」と書かれています。ここには「言う」「告げる」という言葉が使われています。そして、それを受けて「顧みられた」「行われた」という動詞が続いています。神が語られた言葉と、それを受けて起こった出来事が、ここで一つに結びついているのです。特に、この「顧みる」という言葉は、ヘブル語で「パーカード」と言いますが、神の救いの御業を表す言葉です。例えば、イスラエルがエジプトの奴隷から解放された時に、この「顧みる」という言葉が使われています。主なる神が心を向けてくださって、事を行ってくださるということです。

 そして、この言葉にはもう一つの意味もあります。というのは、この言葉は「訪問する」という意味の言葉でもあるのです。神が言葉を語られるときは、ただ口に出して相手に言葉を投げかけるということではなくて、その言葉がそのとおりになるように訪問してくださる、訪れてくださるという意味があるのです。このように、神が語られた言葉は、必ず実現するのです。
 
そして、その言葉のとおりの出来事が起こります。

サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ

と続く2節に記されています。

 神が語られた言葉は、そのまま出来事となるのです。この箇所は、まるでクリスマスの出来事と似ています。フランスのヴェルダンにある教会には、片方に降誕の出来事が描かれていて、もう片方には、サラがイサクを産んだ場面が描かれている祭壇画があるのだそうです。

 ちょっと珍しい祭壇画ですが、このイサクの誕生の出来事を正しく理解していると言えます。というのは、この時、サラから生まれたイサクは、アブラハムの子孫の第一子です。先に生まれたイシュマエルはアブラハムの子孫として数えられていません。このイサクは、直接の神からの約束の担い手であり、アブラハムに約束された神の救いの計画は、イサクから始まるのです。それは、新約聖書で語られているマリアから生まれた「主イエスのひな型」であったと言えるのです。

 私たちの多くは、この時に生まれたイサクのことをあまりよく知りません。先日、T兄が神学塾に入塾するための試験を受けました。その試験の中に、聖書の中に出てくる人物について二行で短く説明するという問題が出されることがあります。先日のテストにイサクという問題が出たかどうか、私は覚えていませんが、イサクについて書きなさいと言われたらみなさんはどんなことが書けるでしょうか。アブラハムとサラの子ども、イサクの子どもはエサウとヤコブ。そのくらいのことは書けるかもしれません。けれども、それは両親のことと子どものことを答えただけで、イサクの人となりについてはまるで答えていないのと同じです。 (続きを読む…)

2020 年 3 月 8 日

・説教 創世記20章1-18節「アブラハム再び・・・」

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2020.03.08

鴨下 直樹

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 今日の説教題を「アブラハム再び・・・」としました。「・・・」の中に何を入れるか、色々な想像力が働くかもしれません。「アブラハム再び、ブラックアブラハムに」。そんなタイトルにしてもよかったのかもしれません。私が好きな映画で、スターウォーズというのが、ありますが、そのイメージ言えば「ダークサイドに堕ちたアブラハム」という言い方もできるかもしれません。ちょっとマンガのような描写ですが、この創世記は、ホワイトアブラハムとブラックアブラハムという、良いイメージと悪いイメージが交互に登場してくるような書き方をわざとしているのではないかと感じるほどです。

 と言いますのは、この20章で、アブラハムが12章で犯した失敗をもう一度このタイミングで犯してしまうというのは、少し考えにくいのです。18章に出てくるのはホワイトアブラハムですが、ロトとソドムの人々の救いを求めて祈る美しい信仰者の姿です。そして、その際に、主とお会いしながら、来年の今ごろサラから子どもが生まれるというお告げを、アブラハムにも、サラにも受けているということが書かれているのです。ひょっとすると、サラのお腹は大きくなっていたのでないかという想像すらできる、そんなタイミングで、自分の妻であるサラをカナンの君主であるアビメレクに嫁がせたというのです。

 サラはこの時90歳ということになります。もちろん90歳でも美しい方もあると思います。アビメレクの好みがそういう女性であったということもあるかもしれません。けれども、一般的にはこのタイミングは考えにくいわけです。1節にアブラハムたちが「ゲラルに寄留していたとき」とあります。このゲラルという町は、ここではカナン人と書かれていますが、後のペリシテ人と呼ばれる民族の首都となった町です。そういう町の王ですから、アブラハムが恐れを覚えたとしても理解はできます。しかし、時間的な順序としては少し考えにくいタイミングです。

 ただ、そういうタイミングであえてこの出来事をここに置いているわけですから、そこには聖書の意図があるはずなのです。そして、その意図というが、ここを読み進めていくと見えてくるようになります。

 まず、ここから見えてくるのは、アブラハムの弱さです。かつて12章でエジプトに赴いた時に、自らのいのちを守る決断として、妻のサラを妹ということにしたのです。そのときアブラハムは75歳ですから、このタイミングでいえばそれから25年たっていることになります。そういう長い間、主と共に歩んできたのにも関わらず、アブラハムの主への信頼が少しも深まっていないかのような印象を受けるのです。自分の身は自分で守らなければならないというアブラハムの姿勢がここでも明らかになっているのです。

 これは、私たちも経験のあることでしょう。自分の弱さというのは、時間がたってもなかなか乗り越えることができないことを、私たちは誰もが経験しているのではないでしょうか。

 お金に弱い、異性に弱い、自己防衛本能が強い、色々な弱さが私たちにはあります。つい陰口を言ってしまう。自分の方が力がある、上だと示したくなる。挙げればきりがありませんが、人にはそういう弱さがあるのです。アブラハムの弱さは、美しい妻でした。妻が美しすぎるために、自分のいのちが狙われるかもしれないという恐怖をいつも持っていたということになります。それが、妻が90歳になってもなおそうであったということになるのだとすれば、一方で妻は嬉しかったのかもしれません。けれども、それは同時にアビメレクに引き渡されてしまった時点で、そのアブラハムの思いは結局自分が可愛いだけのことではないかということにもなるわけです。

 ここにきて、まだアブラハムの中には乗り越えられていない弱さが存在していることを、聖書はこうして描き出しているのです。 (続きを読む…)

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