「説教音声」カテゴリーアーカイブ

・説教 マルコの福音書10章46-52節「何一つ持たないで」

2018.12.16

鴨下 直樹

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 教会で長く祈られてきた祈りに、「キリエ・エレイソン」という祈りがあります。今日出てくる、「主よ、憐れんでください」というラテン語の祈りです。残念ながら、私たちはあまりこの祈りを祈る習慣がありません。讃美歌21にも、いくつかこのキリエの賛美がありますが、私たちはあまり礼拝でこの曲を歌うこともありません。ただ、礼拝の中で交読する「栄光の賛美」「グローリア」という祈りを、長い間私たちはしてきました。ここに、「主よ、私たちをあわれんでください」という、祈りの言葉が三度、繰り返されています。これが、「キリエ」と言われる祈りです。

 普段、私たちは自分を憐れな存在であると感じることがあまりないと思います。あまり、自分の恥をさらすべきではないと思いますが、11月25日の午後、天白の教会で教団の11月総会が行われました。今は、代表役員ということになっていますので、この総会のために、さまざまなことを整えて総会に臨みます。ところが、11月は本当にいろいろなことがありまして、総会の始まる直前に、総会資料のプログラムに目を通しておりましたら、最初の説教のところに、私の名前が書いてあるのです。自分でそのプログラムを準備したのですから、当然分かっているわけですが、その時まで、すっかり忘れておりました。今更バタバタにしても仕方ありませんから、腹を決めて詩篇27篇から説教しました。それは、ここでも先月説教しましたし、総会の二日前にあった葬儀もここから説教しましたので、だいぶ自由に話せます。

 ところが、私はその時の説教で、感極まってかなり感情的な説教をしてしまいました。この詩篇は、前半部分では非常に信仰的な祈りがなされていますが、後半になると、祈り手は、神を見失ってしまって「主よ、憐れんでください」という祈りになります。その説教の中で、私たちの中にもそういうことがあるという一つの例として、自分のことを話しました。朝の礼拝の前に灯油をこぼしてしまって背広が灯油まみれになってしまったこと、いろいろ思うようにならないで愚痴が出てしまうことなどを話しました。そして、後になって、反省しました。自分が憐れだなどということを、人前で説教するというのは、聞いていて気持ちがいいものではありません。人前で自分の弱さを語るということは恥ずかしいことだと思うのです。

 そんなこともあって、総会でした自分の説教を恥じていたのです。そんな中で先週、その説教を聞いたある教会の役員が、ぜひ鴨下牧師を来年の修養会で教会に招きたいという声が上がったという知らせを受けました。私としては何とも言えない複雑な気持ちになりましたが、好意的に聞いてくださった方もあることが分かって少しの慰めになりました。
私たちは、人に自分がみじめな人間だ、自分はかわいそうだなどということをあまり話したがりません。私たちにはプライドがありますし、そもそも泣き言というのは、聞いていてあまり気持ちのいいものではありません。だから、そういう感情を隠しながら、あるいは歯を食いしばりながらなんとか耐えているということがあると思います。でも、本当は大変なのに、誰にも分ってもらえないということもまた、とてもつらいものです。

 ここに、一人の人が出てきます。名をバルティマイと言います。これまでの聖書ではバルテマイとなっていました。今度の翻訳で「バルティマイ」としたのです。バルというのは、「だれだれの子」という意味です。ですから、「ティマイの子」という意味ですが、聖書の中に、十二弟子以外で、個人の名前が出てくることは珍しいことです。名前があるということは、あとで、この人は知られる人になったということでもあります。なぜ知られるようになったのか。それが、この物語を通して分かるわけです。

 バルティマイは目の見えない、物乞いをしていた人です。エリコの街の出入口で物乞いをしていたのでしょう。通りかかる人の気配を感じると手をあげたり、声をあげて、誰かが恵んでくれるのを待つのです。人の憐れみにすがって生きて来た人です。けれども、そのことが、このバルティマイにとっては最大の強みであったということができると思うのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書10章46-52節「何一つ持たないで」

・説教 マルコの福音書10章17-34節「金持ちとペテロと主イエスと」

2018.12.02

鴨下 直樹

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 「本音と建て前」という言葉があります。時々、教会では本音で話せないというような発言が出ることもあります。信仰というのは、きれいな世界なので、どうしてもきれいごとを言わないといけないというような気持ちになることがあるのかもしれません。

 カトリックの作家の書かれた「本音と建て前」というタイトルの本があるのですが、ドイツから日本に来る宣教師たちが、日本人をよく理解するためにこの本を読むように勧められるのだそうです。そして、読んでびっくりするのだそうです。人前では建て前でものを言う。けれども、その心の中は全然違うことを考えているのだとしたら、それは「嘘」ではないかと思うのです。人の顔色を見ながら、体裁のいいことを言う。しかし、心の中では何を考えているか分からないのだとすると、もうどうしていいか分からなくなるのです。そういうことから、教会でもきれいごとを言わないで、もっとその心の中のドロドロしたもの、本音を出して話すべきだ、そういう議論が出てくるわけです。

 ここに、素直な一人のお金持ちが出てきます。彼は、小さなときから律法に忠実でした。きっと育ちがいいのでしょう。親がしっかりした人だったのかもしれません。性格も悪くなさそうです。他の福音書には青年と書かれていますから、若さも持っています。若くて、お金を持っていて、性格も良さそうで、両親もちゃんとしている。言ってみれば、大切なものを何でも持っている人です。これ以上、何を求める必要があるのかと思えるような人です。彼は、主イエスにこう尋ねます。

「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいのでしょうか。」

 驚くべきことです。この人は、人が望むものをみな持っていても、それで幸せになるのではないということを知っているのです。永遠のいのちを得なければ、この世で何を持っていても、肝心のものが欠けているということを理解しているのです。

 彼は、目先のことだけを求めてはいません。しっかりとした考えを持ち、何が大事なのかを見極めることができているのです。こんなみどころのある青年が、果たしてどれほどいるというのでしょうか。立派な青年です。好青年です。非の打ちどころのない青年と言っても言い過ぎではないと思います。しかも、主イエスのことを「良い先生」と呼びかけるのです。あなたから学べるものがある。あなたは、普通の人ではない。良い先生です。私はあなたから、この大切なもの、今のいのちを豊かにするために必要なものを学びたいのです。必要な永遠のいちのをどうしたら得られるのでしょうと問いかけるのです。しかし、この人に主イエスはこう語りかけるのです。

「なぜ、わたしを、『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」

 これは、なぞなぞのような答えです。どういう意味なのでしょうか。主イエスのことを「良い先生」と呼びかけました。あなたから学ぶべきものがあると。しかし、主は「良い」方は神おひとり、つまり、わたしを見るのではなくて、神を見上げなければ見えてこないと言われたのです。そして、これが、この長いテキストの語っている答えのすべてなのです。
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・説教 詩篇27篇 「心の歌」

2018.11.11

鴨下 直樹

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 今日は召天者記念礼拝の主の日です。毎年、この時になりますと、天に召された方々のご家族やご友人の方々がこの礼拝にお集いになられて、共に礼拝をおささげしています。その中で、今日は詩篇27篇を一緒に聞きたいと思っています。私の願いは、ぜひ、一度ご自分で声をだして、この詩篇を読んでいただきたいということです。まるで、故人がこの祈りを祈っていたのではないかという気持ちになるのではないかと思います。また、まるで、自分の祈りそのものだという錯覚を覚える方もあるかもしれません。

 今週、私自身、何度も、何度もこの詩篇を読みました。そして、声に出して読むたびに、深い慰めを覚えてきました。私ごとではじめてとても恐縮なのですが、この一週間、私自身自分では抱えきれないほどの問題をいくつも抱え、気がつくとため息ばかりついていました。気分がなかなか晴れない。

 その中で、この詩篇を声にだして読んでみる。

主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。

まるで、私の気持ちを知っているかのような言葉が、ここで祈りの言葉として記されています。この言葉を自分に言い聞かせるように、声に出して読む。そうすると不思議です。言い知れない深い平安が私を包むのです。

 自分を慰める言葉というのは、自分の中からは出てきません。自分で自分を励ますように言い聞かせたとしても、自分を奮い立たせることはできるかもしれませんけれども、いつまでももつものでもありません。また、それは誰かに元気になれるような言葉をかけてもらえればいいということでもありません。それこそ、一杯やりながら同僚と語り合うことも気分転換にはなりますが、自分を支える確かなものにはなり得ません。

 私を支える言葉、それはいつも外からくる言葉です。こう声をかけて欲しいというような自分の望むことではなく、外からくる言葉というのは、権威があり、存在を支えるような言葉です。それが、聖書の言葉だと言っていいと思います。

主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。

「主は私の光」。冒頭から、こういう言葉が出てくる。この詩篇の作者は、「ダビデによる」とあります。ダビデはイスラエルの王です。王には、王の悩みがあったでしょう。ダビデの生涯を見てみると、ほとんどが困難の連続であったと言っていいと思います。聖書でなくてもいいかもしれません。NHKの朝ドラをみる。大河ドラマをみる。こんなに次々にいろんなことが起こるかと思うほど、いろいろなことが起こる。もちろん、ドラマというのは、そういうエピソードだけを切り抜いて、その人物を描き出すわけですから、当然なのかもしれません。さまざまなこと、それこそ予想もできないようなことが、次々と起こる中で、ダビデは自分を支えるのは、光の主なのだと祈りました。闇の中に自分を閉じ込めるようなお方が、私の主なのではない。私の主は光の主。私の救い。そういうダビデの祈りの言葉を聞く時に、私たちもまた、この聖書に記された神が、光の主であることを、救いの神であることを知ることができるのです。 続きを読む ・説教 詩篇27篇 「心の歌」

・説教 マルコの福音書9章42-50節「小さい者として」

2018.10.28

鴨下 直樹

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 今日のテーマは、「天国」と「地獄」の話しということができると思います。私は、父が牧師であったこともありますし、父が伝道者として色々な伝道集会で奉仕をしていたので、子どもの頃からたくさんの説教者の説教を聞いてきたと思います。その当時、教会の伝道集会であるとか、なんとかクルセードという名前の付けられた大衆伝道集会というものが比較的たくさん行われていました。クルセードというのは、もともとは「十字軍」のことを意味する言葉ですが、福音派の教会では「大衆伝道」という意味で使われていました。このクルセードという伝道集会で、福音派の著名な牧師たちは、天国と地獄の説教を何度となくしてきました。きっと今から30年ほど前に信仰を持たれた方は、そういう説教をよく聞く機会があったと思います。

 その説教というのは、神さまを信じないと地獄に落ちてしまうので、信じて天国に行きましょうというようなお勧めを語ってきたわけです。そして、そのころに、よく語られた聖書箇所が、今日の箇所だと言っていいと思います。

 ここに「ゲヘナ」という言葉が出て来ます。新共同訳聖書では「地獄」と訳しています。このゲヘナという言葉は、イスラエルに実際にあったベン・ヒノムの谷という、エルサレムの城外にあったゴミ捨て場のことです。そこでは、常にゴミが燃やされていたので、火が燃え続けている場所でした。そういう場所を語りながら、神の裁きを語ったのです。そして、神の裁きを受けるか、神の国に入るか、どちらが大切なのかということを、ここでは問いかけているわけです。

 「神の国」のことを、マタイの福音書では「天の御国」と訳しています。私たちがよく耳にする「天国」というのは、この神の国、主イエスが共にいてくださること、神が支配してくださるこという意味があります。ですから、この「天国」という言葉は、死後の世界、それこそ頭に輪っかがついていたり、天使の羽がはえていたりというようなイメージの天国というよりも、今ここで神が私たちと共にいて働いてくださるという意味があるわけです。もちろん、この神の国は将来のこと、死後のことも含んでいますけれども、今すでにということが大事なのです。そうであるとすると、この「ゲヘナ」とか、「地獄」とされている言葉も、死後の世界に、永遠に燃えている火で苦しむ場所というよりも、神の裁きという意味であると理解してくださるとよいと思います。

 さて、今日の箇所ですが、この直前の箇所までは、主イエスの寛容さが語られていましたから、ここから急に厳しいテーマに変わったという印象を持つ方があると思います。今日の前半の部分には何度も、「つまずき」という言葉が繰り返されています。このテーマはつまずきなのですが、最初の42節では「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者」が神のさばきの対象、つまり、首に石臼をつけて、海に投げ込まれた方がよいと書かれているわけです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書9章42-50節「小さい者として」

・説教 ヘブル人への手紙11章23-30節、ヨハネの福音書14章27節「男はつらいよ! ~モーセ編~」

2018.10.21

鴨下 直樹

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 先ほど、「聖書のおはなし」で、妻がモーセの生涯をその妻チッポラの視点から紹介してくれました。「フーテンの寅次郎」ならぬ、「フーテンのモーセ」といったようなモーセの生涯を少し理解していただけたのではないかと思います。

 モーセは、120年の生涯でしたが、落ち着いて一つのところに留まるということが出来なかった人です。妻のチッポラはそういう夫をどのような気持ちで見ていたのか、私は考えて見たこともなかったのですが、それはきっと大変なことだったのだと思います。

 このモーセについては、もう今からかなり前のことですが、映画の「十戒」という、当時はかなり注目を集めた作品がありますから、どこかで見たことのある方もあるかもしれませんし、あるいは少し前だと「プリンス・オブ・エジプト」というアニメの映画もあります。ぜひ、一度見ていただきたいと思います。モーセの生涯については先ほど、簡単に話していただきましたけれども、今日の聖書箇所であるヘブル人への手紙も、そのモーセの生涯をまとめて書いてあるところです。

 今日は、午後から私たちの教会の長老で、元岐阜県美術館の館長であった古川秀昭さんによる「楽しいキリスト教美術講座」を行います。この美術講座のテーマも今回は「男はつらいよ」としてくださいまして、モーセの生涯を描いた美術作品の紹介をしてくださることになっています。そんなこともあって、ここで、、シャガールの描いた絵を見ながら、モーセの生涯を簡単にお話ししたいと思います。

ファラオの娘と葦の籠
ファラオの娘と葦の籠
 

モーセは、当時イスラエルの人々がエジプトに移り住んでいてエジプトの奴隷として働いていた時代に生まれました。当時のエジプトの王はファラオと新改訳2017では訳されています。これまではパロと訳されていた王です。このエジプトの王ファラオは、エジプト国内にイスラエル人が増え続ける状況を恐れて、男の子が生まれたら殺してしまうよう命令を出します。モーセはそのような背景の中で生まれたのです。モーセの母親は生まれたばかりのモーセを殺すことができず、葦で編んだ籠に入れて川に流します。エジプトのファラオ王の娘がモーセを拾ったことで、エジプトの王子として育てられることになるわけです。この絵は、モーセの姉のミリアムが葦の籠に入っている赤ちゃんを見つけたファラオの娘に、乳母がいますと伝えている場面です。


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・説教 マルコの福音書9章38-41節「弟子の視点と主イエスの視点」

2018.10.14

鴨下 直樹

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 聖書を読む時に、大切なことがあります。コンテキストといいます。文脈と訳されることが多いのですが、その前後に何が書かれているかということをちゃんと理解をして聖書を読むことが大事なのです。

 今日の箇所は比較的短い箇所です。説教をするときに、どこで区切るのかということもありますが、今日の箇所は、この前の部分である30節から37節までのところと非常に深く結びついている箇所です。この前のところでは、誰が一番偉いのかということが主題になっていました。そして、主イエスは子どもを真ん中に立たせてから、37節のところで、

「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」

と言われたのです。
 今日の個所はそれを受けてのことです。そういう流れの中で、主イエスの弟子のヨハネが、主イエスに一つの報告をしたのです。

「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」

 主イエスは「わたしの名のゆえに受け入れる」という話しをなさったことを受けて、ヨハネなりに考えたわけです。主イエスの名によって小さな子どもを受け入れるのは、主イエスを受け入れることになる。それは、分かる。けれども、受け入れてはいけない場合もあるのではないか。そんなことをヨハネが考えたのでしょう。そこで、こういう場合はどうですかと、問いかけたわけです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書9章38-41節「弟子の視点と主イエスの視点」

・説教 マルコの福音書9章14ー29節「不信仰者の信仰」

2018.09.23

鴨下 直樹

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 二週間間が空いてしまいましたが、今日は変貌の山での出来事の時に、残された9人の弟子たちが何をしていたのかということが記されているところです。前回、ウクライナの人形劇の話しをしました。ベルテックというのですが、上と下二段に分かれていて、下の舞台ではこの世界の現実の出来事が演じられ、上の舞台ではその時、天では神様がどのように働いておられるかということを同時に見せるのだそうです。それは、まさにこの聖書の箇所がそのような構成になっているということができると思います。

 有名なラファエロの描いた「キリストの変容」というタイトルの絵があります。それをみてくださると、よく分かると思いますが、上半分は主イエスが光り輝いていて、その両脇にモーセとエリヤが描かれています。そして、その下半分には残された弟子たちが、霊に支配された少年を癒そうとしながら、癒すことができなくて言い争う姿が描かれています。そして、今日の箇所はその、主イエスと三人の弟子たちが変貌の山で素晴らしい経験をしていた時に、残された弟子たちはどうであったのかというところから一緒に考えてみたいと思います。

 今日の聖書を見て、まず驚くことは、弟子たちは主イエスがいなくても、群衆を集め、律法学者たちと議論し、そして、霊に疲れた人を解放しようとしていたということです。主イエスがいない間、少し休んでいようと考えたのではなくて、いない間も、主イエスがいた時と同じように働こうとしていたということは、すごいことだと私は思います。「その心意気やよし」ということだと思うのです。ところが、弟子たちにとってそれは、簡単なことではありませんでした。うまく行かなかったわけです。そんなときに、山から主イエスと三人の弟子たちが戻ってきます。14節にこう書かれています。

群集はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。

 理由は書かれていませんが、人々は山から下りて来た主イエスを見て、「非常に驚いた」
とあります。何に驚いたのでしょうか。

 旧訳聖書でモーセがシナイ山に上って神から十戒を頂いたとき、山から下りて来たモーセの顔はどうなっていたのかというと、そこではこう書かれています。「モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった」と出エジプト記34章の29節に書かれています。

 この時モーセは80歳をゆうに超えていましたけれども、お肌が輝いていたというのです。ヒアルロン酸を使ったわけでも、アンチエイジングとして何かをしたわけでもありません。神と出会うと、お肌が光り輝くというのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書9章14ー29節「不信仰者の信仰」

・説教 マルコの福音書9章2-13節「聞け、そして、見よ」

2018.09.02

鴨下 直樹

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 二週間の夏休みをいただいておりまして、この間御代田にあります望みの村で少しゆっくりとした時間を過ごすことができました。望みの村では同盟福音の牧師や宣教師だけではなくて、他の教団の牧師や宣教師たちにも夏の間の宿を提供しています。そこで、一人の方とお会いしました。深井智朗先生です。深井先生は、今年、中公新書で出された「プロテスタンティズム」という本で吉野作造賞を受賞された方です。昨年宗教改革500年を迎えて、宗教改革が現代に何をもたらしたのかということを書かれました。今は東洋英和女学院の院長をしておられるのですが、その前は名古屋の金城大学で教授として教えておられた方です。

 実は、御代田でお会いしたのは私ではなくて、小学1年の娘です。御代田では、特にやることもないので、娘はマレーネ先生がみえる間はしょっちゅうマレーネ先生の泊まっておられる家に入りびたりになります。そこに来られた深井先生とマレーネ先生が話していたところ、翌日の礼拝は軽井沢の教会で説教をするということを聞いたのです。それを聞いた娘が、私たちも明日、その教会に行く予定にしていると、どうも、話したようです。実は私たちは、他の教会に行こうと思っていたのですが、娘が言ってしまったのなら仕方がないということで、その礼拝に出席することにしました。そして、深井先生の説教をはじめて聞いたのですが、本当に素晴らしい説教で、娘に改めて感謝しました。

 前置きが長くなったのですが、その説教でウクライナの人形劇でベルテックと呼ばれている人形劇があることを知りました。人形劇の大きさは縦2メートル、横3メートルの舞台が、上下二段に分かれているのだそうです。その劇では、この下の世界と上の世界の2場面を同時に演じるのを見るのだそうです。上の世界は天の世界。下の世界は地上の世界です。こういう人形劇はウクライナのユダヤ人が、子どもに信仰を教えるために考えたということでした。

 どんな人形劇か知りたいと思ったのですが、残念ながら見つけることができませんでした。ただ、そこで行われる物語は、信仰の話で、下では現実の私たちの世界が描かれているのですが、上の舞台、天では、その時同時に神様が働いていてくださって、私たちの生活を、私たちの見えないところで支えて下さっているのを、その劇では見ることができるということなのです。

 この地上で起こっている私たちの世界と、天上で起こっている神の御業。私たちにはこの神の世界は見えません。今日の聖書箇所は、このウクライナの人形劇の世界と重なり合います。ちょうど、ここに二つの出来事が記されています。一つは山の上で起こった不思議な出来事です。「変貌山」(へんぼうざん)などと昔から言われて来たこの出来事は、主イエスの姿が、まさに変わったのです。それまでの主イエスの姿ではなく、完全に聖いお姿、「その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった」と3節に書かれています。しかも、その両脇には伝説の人物と言っていいと思いますが、モーセとエリヤがあらわれたのです。旧約聖書の中には3人、死を経験しないで神のみもとに行った人物が描かれています。その一人は創世記に出て来るエノクです。この人たちは神の御許で生きていると考えられていました。そして、今ここに、その旧約聖書を代表する二人、モーセとエリヤが、光り輝く白さを身に帯びた主イエスと共にいるのを目のあたりにしたのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書9章2-13節「聞け、そして、見よ」

・説教 ヨハネの福音書7章38節「リビング・ウォーター」

2018.08.12

鴨下 直樹

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 先ほど、〈聖書のおはなし〉で、「いのちの水」という話がありました。色々な効能がある水、健康にいいとされる水が気になる方がおられると思います。私も調べてみました。実際に三重県の松坂には「命のみず」という名前の水があるそうです。この水は硬水で、カルシウムやマグネシウムの含有量が豊富だそうです。どういう効果があるかはよく分かりませんが、健康にいい水と聞くだけでも、一度飲んでみたいと思ってしまいます。今日の聖書は、「いのちの水」というより、「生ける水」の話しです。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 そのように書かれています。「人の心の奥底から生ける水の川が流れ出る」面白い表現です。人の心の奥底にあるものと言ったら、「どす黒い感情」とか「どろどろした血液」とか、あまりいいものではないと相場が決まっているような気がしますが、聖書はそれとは逆にさわやかです。その前の37節を読むと、どういう状況でこの言葉が語られたのかが語られています。まず、「お祭り」という言葉が目にとまります。仮庵の祭りというお祭りで、ユダヤ人たちはこのお祭りの期間は家には泊まらないで、仮庵、つまりテントなんかを使って家の外で暮らします。そして、このお祭りのクライマックスはエルサレムにあったシロアムの池から水を汲んできて、神殿の祭壇に注ぐという儀式をおこなっていたようです。そういう、言って見れば水のお祭りに先立って、主イエスは渇く者はいないかと問いかけられたのです。

 先週も岐阜県下呂市の金山で41度を観測しました。そして、二日後にはここのすぐ近くの美濃でも41度を観測しました。これだけ暑い日が続くと、ミネラルを含んだ水のありがたみが身に染みます。外で仕事をしている人にとってはまさに水は必需品です。しかも水だけ摂ってもだめで、沢山のミネラルを含んでいる水を摂る必要があるのだそうです。

 先ほどの〈聖書のおはなし〉の中で、サマリヤの女の人が昼間に井戸の水を汲みに来たという話しがありました。この季節になりますと、こういう話は良く分かります。こんなに暑い日中に井戸に水を汲みに来る人は普通いないわけです。大抵は涼しい時間に、こういう重労働は終わらせてしまいます。それでも暑い日中に水を汲みにくるのだとすると、その理由は一つ、誰にも顔を見られたくないからです。この話は、ヨハネの福音書の4章に書かれているのですが、そこには主イエスとこんな会話をしたことが書かれています。

 主イエスの方からこのサマリヤの女の人に声をかけられました。

「わたしに水を飲ませてください。」

すると、このサマリヤの女は驚いてこう問いかけます。

「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリヤ人と付き合いをしなかったのである。

そう書かれています。

 ユダヤ人からすれば、サマリヤ人は異邦人です。声をかけたりはしないのです。それぐらい、ユダヤ人とサマリヤ人との壁は高いものでした。それなのに、主イエスの方から声をかけられたのです。 続きを読む ・説教 ヨハネの福音書7章38節「リビング・ウォーター」

・説教 マルコの福音書8章31節-9章1節「主イエスの背中」

2018.08.05

鴨下 直樹

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 八月に入りました。今年も例年のように信徒交流会が始まりました。水曜日と木曜の祈祷会で信徒の方々が当番で証をしていただいたり、聖書の話をしていただいています。水曜日はMさんが『百万人の福音』というキリスト教会の機関紙の俳句の選者になって、ちょうど四年経つそうで、その証をしてくださいました。

 Mさんは岐阜県の『栴檀』という俳句の結社の代表をしておられます。俳句の芥川賞と言われる角川賞を取られ、一般の俳句の雑誌にも取り上げられています。ところが、こういう一般の俳句と、いわゆる信仰の俳句というのは少し趣が違います。俳句は俳句ですが、その中で信仰のことを詠むわけです。それで、水曜日に、どんな俳句が投句されるのかということを紹介してくださいました。たとえばこんな俳句が紹介されていました。

猛暑日や我がため祈る人思ふ

 埼玉県のある方の投句された俳句です。この岐阜でも連日38度を超えるような毎日が続いています。この俳句はいつ出されたものかは分かりませんが、きっと今のように暑い季節だったかなと想像できます。そういう暑い夏を迎えて、自分のために祈ってくれている人のことをありがたく思い起こしているという俳句です。暑い日々も、自分のために祈ってくれている人のことを思い起こすと、乗り越えられそうな気がするものです。こういう俳句を読むと、ああ、私も体調を壊している方のためにもっと祈ろう、という気持ちになってきます。このように、俳句は俳句でも季節を歌いながら信仰のことも表そうとするとなかなか大変かなという思いがします。

 俳句を作られる方の中には、俳句を教えてくれる仲間に入って、そこで色々な決まり事を教えてもらいながら、基本を学ぶということをしておられる方が多いと思います。そうすると、どうしたって自分に教えてくれる先生、あるいは「同人」と言うそうですが、同人の俳句に似て来るのだと思います。そうやって、基本を身に着けておいて、自分らしい表現というのを獲得していくわけです。先生がいて、その後に付き従う弟子がいる。そうやって、大切なものを後世に受け継いでいくというのは、俳句だけに限りません。ピアノでも習字でも、なんでもそうやって基本を教える先生がいて、生徒や弟子がいて、受け継がれているものがあるわけです。日本には何々道というのが沢山あります。書道、柔道、華道、道とつくものはみなそういう形をとっているわけです。そういう言い方をすれば信仰の道も「キリスト道」と言ってもいいかもしれません。

 今日の聖書のところは、主イエスと弟子たちのことを記しているところです。主イエスはここで自分の後に従って来るように弟子たちに求めておられるところです。先週に続いての箇所ですから本当は27節から読んでいくのがよいと思います。そこで、弟子のペテロは主イエスのことを「あなたはキリストです」と告白したことが書かれていました。「あなたは救い主です」と、ペテロは告白したのです。自らの主と仰いでいるお方が、「キリストである」、「救い主である」と告白するというのは、信仰の道を歩む中では最も大切なことです。信仰の道はそこから始まっていくことになるのです。そして、それに続くのが今日の箇所です。 続きを読む ・説教 マルコの福音書8章31節-9章1節「主イエスの背中」