2010 年 1 月 10 日

・説教 「神が来られる」 マタイの福音書3章1節-12節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 09:26

鴨下直樹

 今、私たちは礼拝で、マタイの福音書から順に御言葉を聞き続けています。それは言ってみれば、主イエスの歩みを順に追っていくということです。そうすると、どの福音書も、主イエスの生涯、これを<公生涯>と言いますけれども、公の主イエスの歩みを記す前に、バプテスマのヨハネ、あるいは洗礼者ヨハネと言われた人物から書き始めます。主イエスの生涯が始まる前にその道備えをした人があったとどの福音書にも書き記しているのです。それは、他の福音書を読み比べて頂いてもすぐに分かります。この洗礼者ヨハネは、少し変わった人物であると言わなければなりません。彼がいるのは、街の中ではなくて荒野です。そして、5節にヨハネの姿の事が記されていますけれども、「らくだの毛の着物を着、腰には川の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった」。最近のはやりの言葉でいえば、「エコ」な生活ということになるのでしょうけれども、もちろん、そんなものではありません。彼の心に占めているのは、一つの思いです。それは、神が来られた時に、相応しいこのお方に相応しい生活をしたいということでした。富とか権力とかそういう人々の求めるものを求めるのではない、ただ、神だけに信頼するという姿がここにあらわされています。

 間もなく、神が来られる。神がおいでになる。これが、ヨハネの心を支配していた思いでした。ですから、このヨハネの語る言葉は一つです。 (続きを読む…)

2010 年 1 月 3 日

・説教 「苦しみの現実の中で」 マタイの福音書2章13節-23節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:51

鴨下直樹

 今年の御言葉として私たちは元旦の朝に、ヨハネの福音書14章1節の御言葉を聞きました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

 

 私たちはこういう御言葉を聞く時に、時折思うことがあります。聖書は簡単にこういうことを言うけれども、現実の生活にはそれほど単純ではない、そんなに簡単にいくはずがない。心を騒がせてしまう時に、神を信じるなんてことはお題目としては分かるけれども、実際の生活というのは聖書通りにそう簡単にはいかないのだと思うのです。

 FEBCというキリスト教ラジオ番組があります。御存知ない方も多いと思いますので、少しこのラジオのことを紹介する必要があるかもしれません。このラジオ番組はキリスト教のラジオ放送で、毎晩夜の9時45分から10時45分までの1時間15分の放送で、AM1566kHzで聴くことができます。大変よいラジオ番組です。日曜日には、各地の礼拝のもようを聴くことができます。あるいは、各地の教会や、牧師の働きが紹介されることもあります。その中で各地の牧師たちが紹介されている番組があり、昨年の事ですけれども、東海地区の牧師たちというシリーズでお話いただけないかという依頼が私の所にもありました。電話でお話を聞いたところ、よくリスナーからラジオ局に問い合わせが来る。それは、牧師たちは講壇ではいつも聖書から話しているけれども、牧師の本音はどうなのかというところを聞いてみたいということのようです。 (続きを読む…)

2009 年 12 月 27 日

・説教 「二人の王との出会い」 マタイの福音書2章1節-12節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 10:13

鴨下直樹

 今、私たちはクリスマスを祝っています。礼拝でマタイの福音書から順に御言葉を聞き続けています。先日、クリスマス・イヴに行われた燭火礼拝でもこの御言葉から聞きましたけれども、この朝もこの御言葉に耳を傾けたいと思います。

 この時期になりますと時々、クリスマスというのはいつまで続くのか、いつまで祝うのか、という質問を受けることがあります。もちろん、いつまででも祝い続けていいのですけれども、一月一日の元旦は、先日もお話しましたように、イエスと名付けられた「命名日」と呼ばれる日です。そして、一月六日は公現日とか、顕現日、あるいはエピファニーと言いまして、キリストが人々の前に明らかにされた日として祝います。教会の暦では、このエピファニーまでを降誕節と言って、クリスマスの祝いをする期間と考えています。そして、このエピファニーという日は、東の国の博士たちが礼拝にみどりごイエスを礼拝した時でもあるのです。

 この東の国の博士というのは、伝説によると、カスパル、メルキオール、バルタザールという名前であったと伝えられ、三人の博士ということになっていますけれども、もちろんはっきりしたことは分かりません。ドイツのケルンという大きな街に、ケルンの大聖堂、ドームと呼ばれる大きな礼拝堂があります。この大聖堂はこの三人の博士たちの棺があるということで知られていますし、そのためにこの町が栄えたのだとも言われています。このケルンの大聖堂・ドームに訪れますと、非常に大勢の観光者で賑わっていまして、大聖堂の中にある東方の博士たちの遺骨がおさめられている棺は、大きなもので、実にきらびやかな黄金の装飾が施され、訪れる人々を圧倒します。けれども、私はそこに行く度に、何とも言えない哀しさを覚えます。この博士たちはこんな黄金の棺におさめられ、人々から礼拝される対象となるようなことを望んだだろうかと考えさせられるのです。 (続きを読む…)

2009 年 12 月 24 日

・説教 「待つことの喜び」 イザヤ書12章1節-6節・マタイの福音書2章1節-12節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:39

– クリスマス・キャンドルサービス 

 鴨下直樹

先ほど、いくつかのイザヤ書の御言葉を聞きました。これらの言葉は、主イエス・キリストのお生まれになる約700年ほど前に書かれたと言われています。このような言葉を耳にしながら、イスラエルの人々はキリストがお生まれになるのを待ち望んでいたのです。

 「待つ」ということは、とても楽しいことです。子どもの頃などは特にそうだったかもしれません。もうすぐ冬休みが来る楽しみ。クリスマスが来る楽しみ、お正月が来る楽しみ。さまざまなものを、本当に楽しみにし続けてきました。ところが、残念なことですけれども、大人になってしまいますと、この「待つ楽しみ」というものは次第に薄れていってしまうような気がします。 (続きを読む…)

2009 年 12 月 13 日

・説教 「愛するとは?」 マタイ5章43節ー48節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:12

第3アドヴェント主日礼拝

 

本日は、可児教会長老であり岐阜済美学院学院長の小野経男兄が説教の奉仕をして下さいました。

2009 年 12 月 6 日

・説教 「インマヌエル・主が共におられる」 マタイの福音書1章18節-25節

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — miki @ 14:17

第2アドヴェント主日説教

鴨下直樹

⇒音声を聞く

 先ほど、私たちは共に洗礼と転入会をなさった方々の証を聞きました。いつも、このような証を聞く時に私が思うことは、神がこの一人一人と共にいてくださるということを覚えることです。

 主イエスを信じる。自らの救い主として受け入れる。このお方をキリストと信じる。それは、インマヌエルであられる、主が共にいてくださってはじめて可能となるのです。

 

 今日は、いつもよりも短い時間ですけれども、共に御言葉に耳を傾けていきたいと思います。先週からマタイの福音書を通して主の御言葉を聞いております。この福音書にはこの書き出しのところに、先ほども言いましたけれども「インマヌエル」という言葉が語られます。そして、この福音書の最後に、もう一度「インマヌエル」という言葉で締めくくられています。「神は私たちとともにおられるという意味である」と、新改訳聖書にはカッコ書きで記されています。新改訳はこれは後代になって説明として補われた言葉であって、もともとの本文にはなかった言葉ということでこれをカッコ書きにしているようです。

 この朝、みなさんと共に考えたいと思っているのは、この「インマヌエル」、「共にいてくださる神」を私たちはどこで見出すことができるかということです。 (続きを読む…)

2009 年 11 月 29 日

・説教 「系図に示されし神の御計画」 マタイの福音書1章1節-17節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 09:35

鴨下直樹

 →音声を聞く

 今週から教会歴でアドヴェントを迎えました。待降節とも言います。主イエス・キリストの御降誕を待ち望む季節を迎えたのです。このアドヴェントと言いますのは、教会の暦では一年の初めになります。それで今朝はアドヴェントの蝋燭の一本目に火が灯りましたし、タペストリーも紫色に変わりました。このアドヴェントの季節には「待つ」ということを表す紫色を使うのです。教会の暦では一年の最初の日になります。新しい年を迎えて最初にすることは、キリストがおいでになることを待ち望むことだと、教会では長い歴史の間、そのように覚えてきたのです。それは、主イエスがクリスマスにお生まれになったように、もう一度この地においでになる日を待ち望む信仰を忘れないようにしようということでもあります。

 このアドヴェントから、私たちの教会では共にマタイの福音書から新しく御言葉を聞き続けていこうとしているのです。マタイの福音書は「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」という言葉で始まります。この「系図」とされている言葉ですが、これは少し面白い言葉で書かれております。 (続きを読む…)

2009 年 9 月 20 日

・説教 「Gift2 使って嬉しい贈り物」 マタイ25章14節ー30節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:32

鴨下直樹

 先週からギフトというテーマで、私たちはどのような神からの贈り物を頂いているかについて考えてみたいと思っています。今朝はその二回目になりますけれども、一回目は「貰って嬉しい贈り物」という題をつけました。そして今朝、「使って嬉しい贈り物」という題です。プレゼントというのは、貰ったら喜ぶということはよくわかりますけれども、「使って嬉しい」というのはどういうことでしょうか。よく考えてみますと、実際に私たちが誰かにプレゼントを贈る時というのは、本当に相手のことをよく考えながら、何が喜ばれるかを考えてプレゼントを贈るのではないかと思います。そして、これを送ったら、実際に使ってもらえるかどうかを考えて贈るのではないかと思うのです。

 今回のテーマは先週もお話しましたけれども、私が青年会のキャンプに行ったときのメッセージのテーマでした。このキャンプでは、ギフトというテーマにサブタイトルとして「わかちあうよろこび」と書かれていました。このキャンプで言おうとしているギフトというのは、自分だけの物にして喜んでいるのではなくて、誰かと分かち合うんですよということを知ってもらいたいと願ったためです。けれども、少し考えてみますと、このサブタイトルは聞いて少し変だと思いませんでしたか? ギフトというのは貰って嬉しい物であって、せっかく貰ったものを他の人にあげてしまったら、プレゼントを贈ってくれた人に失礼になってしまいます。 (続きを読む…)

2009 年 8 月 30 日

・奨励 「信仰とくらし」 マタイ6章33節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 00:00

 

舛田忠興

私は今日、証しと聖書の学びについてお話したいと思います。 

証し

 私は昨年3月、定年1年前に小学校教諭を退職したが、9月にまた現場に復帰した。ある学年の学級担任が重い病となり即入院したからである。

とりあえず10月まで1ヶ月間副担任として勤めた。朝9時から午後3時半までの勤務だったので、責任も軽く気が楽だった。しかし、前担任がその後も回復できず、10月からは補助教諭という身分で学級担任として働くことになってしまい、気が重かった。

そのわけは集団生活が苦手なA君の存在と、A君とトラブルを起こす男の子の存在である。

A君は、学習面や情緒面で障碍がある。コミュニケーションがうまくできない、ルールが守れない、整理がうまくできない、授業中座っておれないなどの面があり、他の児童とのトラブルが絶えない。男子21人中8名前後は、A君のまねをしてルールを守らない、言い争いから殴り合う、自分勝手な言動で周りの子に迷惑をかけても平気で毎日のようにトラブルを起こす。

 

10月からA君が起こすトラブル、A君との関わりで起こるけんか、男同士のけんかに適切に対応しようと努力するが、なかなかうまくいかず、学級担任の仕事をやめようと思うことがあったが、3月まで勤めることができたのは主に支えていただいたおかげである。 (続きを読む…)

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