2021 年 11 月 24 日

ざっくり学ぶ聖書入門34 ルカの福音書(1)

Filed under: 聖書の学びと祈り会 — susumu @ 20:01

2021 年 11 月 21 日

・説教 ローマ人への手紙8章14-17節「神の子どもとしての祝福」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:16

2021.11.21

鴨下直樹

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 今週から礼拝のプログラムの「聖書のおはなし」を再開することになりました。コロナウィルスのために短縮礼拝をしていますが、少しずつ戻していければと願っています。

 先ほどの「聖書のおはなし」いかがだったでしょうか。

 きれいな映像と共に、この世界を創造された神が、私たちのことをどれほど大切に思っていてくださるか、どれほど愛してくださっているのかが語られていました。

 私たちが当たり前に感じている今の私たちの生活の中に、どれほどの神の愛が隠されているかを気づかされる思いになります。

 最近、我が家では、朝の食事前に短い本を読んでいます。タイトルは『にゃんこバイブル』という本です。きれいな猫の挿絵が描かれていて、「猫から学ぶ聖書のことば」というサブタイトルがつけられています。

 私は猫派か犬派かというと、犬派ですが、この本は猫ならではの習性から、聖書を紐解いていきます。たとえば聖書の中に「放蕩息子」と呼ばれる物語があります。親元を離れて、財産を持って出て行った息子が、湯水のように財産を使い果たして、父のところに戻って来る話です。この本では、この放蕩息子の物語を猫にあてはめながら聖書を読んでいくのです。猫は家を出ていくと、どこで何をしているか分かりません。けがをして帰って来ることもあれば、どこかで何かご飯を貰ってきたかのような匂いをさせて戻ってくることもあります。どんなことがあっても、帰ってくることのできる家がある。そして、自分が失敗してきたことも、何も言わなくても受け入れてくれる。それが家族というものだと書かれていました。

 この聖書の物語に出てくる放蕩して帰ってきた息子と、猫とを比較することで、聖書のメッセージが更に具体的なものになる。そんな新鮮な気付きをこの本から与えられています。

 今日のテーマは「神さまの子ども」です。その、世界を創造された神様は、私たちをご自分の大事な子どものように、愛していてくださいます。猫のような、ちょっと何を考えているのかわからないようなところと、私たちの姿というのは少し結びつくのかもしれません。

 我が家には犬がいます。犬は比較的分かりやすい生き物です。犬の気持ちは、尻尾を見ているとわかります。尻尾を振っている時は大抵うれしい時です。これが、特にうれしい気持ちになると、尻尾の振りが速くなって、それも高い位置で振り始めます。反対に、本当に嫌な時というのは、尻尾が足の間に隠れてしまいます。「尻尾を巻いて逃げる」という言葉がありますが、まさにそんな風になります。

 私たちと神様との関係はどこで分かるかというと、祈りの姿に現れます。「天のお父さま」と神に向かって呼びかける時、それは神様との関係が良い時です。けれども、全然祈らない時というのは、神様と私たちとの関係が悪くなってしまっているのです。

 今日の聖書の箇所には、私たちがこの世界を創造された造り主であられる神に向かって「父よ!」と祈りたい思いを持つというのは、私たちの心に神様の霊である聖霊が働いていてくださるからなのだということが書かれているのです。

 しかも、15節の後半にこう書かれています。

私たちは「アバ、父」と叫びます。

 ただ、「お父さん」と神様に声をかけるというだけではなくて「叫ぶ」と書かれているのです。

 子どもが、父親に叫ぶ時というのはどういう時でしょうか。考えてみると、たとえば、公園かどこかに遊びに行っている時に、まわりに人がたくさんいて、声が届かない時です。「自分はここにいるよ!」「私を見て!」という叫びです。そして、その時には何か訴えがあるはずなのです。聞いてほしいメッセージがその時の子どもにはあるのです。

 神様に向かって、どうしても聞いてほしいメッセージがある、どうしても自分の方を向いてほしい。そういう思いをもって神に祈る。「お父さん」「パパ!」。それが、この「アバ、父」という言葉です。

 神様にむかって、何かを叫ぶように語り掛ける。そんな祈りをすることができるのが、神さまの子どもの特権なのだというのです。

 今日の聖書の箇所の中心的な言葉は、今日の冒頭の14節です。

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

 神の子どもとしての特権は、私たちが祈る時に分かるのだということです。お祈りをすることができるというのは、神の子どもの特権なのです。

 今日は、子ども祝福式をお祝いする主の日です。親は子どもの祝福を願います。神の眼差しが子どもに向けられている。このことが祝福なのです。神が見ていてくださる。わが子のように、子どもが道を見失ってしまうことがあったとしても、子どもが自信を失ってしまうようなことがあったとしても、神はその子どもを見ていてくださる。そして、この神は、ご自身の子どもが神に向かって「父よ」と祈ることができるようにしてくださっているのです。 (続きを読む…)

2021 年 11 月 14 日

・説教 ローマ人への手紙6章23節「永遠のいのち」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:41

2021.11.14

鴨下直樹

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罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ローマ人への手紙6章23節

 今日は召天者記念礼拝です。すでに、この世での生を全うし、今主の御前にある方々のことを覚えながら、私たちはこの礼拝に招かれています。

 ヨーロッパにある古くからその地域に建てられている教会は、その会堂の地下が墓所になっているというところがいくつもあります。礼拝堂の足下に家族が眠っているのです。それも、何百年という永い年月の家族が、そこに眠っています。

 バロック建築、ゴシック建築、もっと古いものだとロマネスク様式などという何百年にも及ぶ歴史の長さを覚える礼拝堂がいたるところにあります。

 私がドイツにいたときに、各地を旅して、そういう古くからある礼拝堂を訪ねることが、旅の最大の楽しみでした。何年も、何十年も、何百年も変わらないその礼拝堂の席に腰を下ろして、ステンドグラスを眺める。十字架を眺める。古くからそこにある教会の装飾品や建築物を見ながら、その歴史を感じるというのは、本当に豊かな経験です。

 そこで大きく深呼吸をします。私の出会ったことのない昔の信仰者の息遣いを感じるのです。その町の困難な時代に生きた人々がどんな人生を送ったのか、どんな病の時代を通り抜けてきたのか、どんな戦争を経験してきたのか、どんな貧しさをその土地の人々は味わってきたのか。私がその礼拝堂の中で、肌で感じられるものはわずかなものでしかありませんが、そういう歴史を肌で感じるという対話の中から、私なりに「永遠のいのち」とは何なのかというものに少しでも触れた気になるのです。

 以前、妻と「永遠のいのち」という言葉は現代人にとって福音なのだろうかという話をしたことがあります。聖書が語る「永遠のいのち」というものに、今の人々は魅力を感じていないのではないか。そんな問いかけです。

 私たちが死を迎えた後に、聖書が語る「永遠のいのち」という世界が私たちにもたらせてくれるものに対する魅力といったらいいでしょうか、憧れといった方がいいのかもしれません、この永遠のいのちは、私たちにどんな魅力を、そして憧れを示してくれるのでしょう。この世界のいのちが、死後にもずっと続くということよりも、「今この瞬間の美しさ」「今この時」というその一瞬の経験にこそ、今を生きる人々は魅力を感じているのではないか。そんなことを妻が話してくれました。

 その妻の指摘は、ある一面の真理を示しているのだと思うのです。そこには、「今この時」というその一瞬一瞬を大切に生きたいという、現代人の今を大切にする思いがあるように思います。そして、そのことは私たちが生きていくうえでとても大切なことだと思うのです。

 聖書は「永遠のいのち」を、どのように私たちに示そうとしているのでしょうか。

 先日ある本を読んでいたら、こんなことが書かれていました。

 「グランドキャニオンを撮影した写真は数多くありますが、どのような写真も、この地形の持つ真の魅力を伝えることはできません。グランドキャニオンは自分の目で直接見なければならない光景なのです」

 私もグランドキャニオンに行ったことはありません。写真や映像で知っているだけです。それらを見て、少し分かった気になります。けれども、実際にそこに行って見たことのある人は知っています。グランドキャニオンを実際に見たときに、そこで肌で感じる風や空気、空の高さ、圧倒的な目の前に広がる景色の壮大さ、それらは写真が伝えてくれるものと全く別物なのだということを。

 私たちが分かった気になれるのは、ごく一部でしかないのです。

 「永遠のいのち」もきっとそういうものであるに違いないのです。それは観念的にイメージできるものではないのでしょう。私たちが漠然と思い描く、この日常がずっと果てしなく続くというような永遠のいのちの世界ではないはずなのです。

 神と共にある今を、私たちはこの世で経験したものから部分的にイメージできるにすぎません。しかし、今この世から去って、自由を得て神の御前に召された方々は、いま主の御前で永遠の今を経験しているのです。

 私たちの憧れとは何でしょう? 私たちが思い描く、人生の終わりには何が待っているというのでしょう。 (続きを読む…)

2021 年 11 月 10 日

ざっくり学ぶ聖書入門33 マルコの福音書(2)

Filed under: 聖書の学びと祈り会 — susumu @ 19:30

2021 年 11 月 7 日

・説教 ローマ人への手紙7章1-6節「新しい御霊によって」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:46

2021.11.07

鴨下直樹

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 今日の聖書の話は、なかなか考えさせられる話が書かれています。あるところに、夫と別れたい妻がいました。この人は、夫のために自分は苦しめられている、不自由を強いられていると感じていたのです。それで、離縁して新しい人と人生をやり直したいと考えるようになってきたのです。けれども、聖書の戒めである律法によれば、相手が生きている間は再婚することができません。それで、人知れず、夫が死んでくれたらいいなと思っている。そんな人の話を、パウロはここで話し始めたのです。

 パウロはここで、律法によれば、相手が生きている間に再婚すると、「姦淫の罪」と言われる。でも、相手が死別した場合は、自由になる。そういう話をここでし始めました。

 昼ドラのような話です。人の心の闇の部分を語っているのです。パウロがそこで語っているのは、その自由を求めている人にとっては、二つの邪魔な存在があるということです。一つは、「夫」であり、もう一つは「律法」と言うことになります。

 そんな決まり事さえなければ自由になれるというのです。けれども、別の言い方をすれば、その決まりごとがあるから、人はみだらな生活にならずに済んでいるということもあります。そして、その時の問題はというと、その自由を求めている人は、自分の欲望が、正しいと考えてしまっていることにあります。

 パウロがこの話をし始めたのはこの前の6章23節でした。

罪の報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 先週の箇所では「罪の奴隷」になっている、欲望に従う生活というのは、死を招くのだということが語られていました。それで、その罪の欲望が死を招くということを、ここで一つのたとえ話を通して、イメージしやすいように話し始めたのです。

 今日の聖書の箇所は、私にとってとても慰められる箇所です。というのは、パウロはここであまり上手な説明ができていないからです。パウロのような人は、いつも完璧な説明と理屈があるように感じるのですが、この話はインパクトは凄いのですが、ちょっと何が言いたいかはっきりしてこないところがあります。

 それで、少し整理してみたいと思います。パウロはここで二つの生き方を描き出そうとしています。一つは、神のために実を結ぶ生き方があると言っています。そして、もう一方では死のための実を結ぶ生き方があると言っています。この二つの生き方を描こうとしているのです。

 では、その悪い方の生き方である死の実を結ぶという生き方とはどういうことなのでしょう。「死の実を結ぶ」というのは、考えてみるととても恐ろしいことです。この死の実を結ぶ生き方というのは、自分の欲望に支配された生き方ということです。けれども、自分の欲望に生きるということは、自分も殺すし、相手も殺すような生き方になってしまいます。

 パウロもかつては、この「死の実を結ぶ」生き方をしてきた人でした。その頃のパウロはというと、律法主義的な生き方をしている人の代表のような人でした。決して、自分の欲望を満足させるために生きていたわけではありませんでした。けれども、その時のパウロはというと、キリスト者を見つけ出して、殺していこうという仲間と共に働いていました。しかも、自分は正しいのだと考えていたのです。

 ここでパウロが描いて見せた再婚を求めている人の姿と、かつてのパウロの姿というのは、まるで正反対のような生き方に見えるのですが、実は本質的には同じことを考えています。その意味でも、このたとえ話がうまくかみ合っていないと感じる部分でもあります。けれども、今の夫と別れて、新しい生き方をしたいというのは、自分の考え方が正しいので、その考え方を貫くためには、他の人を殺してしまえばいいという考え方になっていたのです。

 私たちは、相手を殺してまで自分の理想を手に入れたいとまでは、なかなか考えてはいないと思います。この例は、少し極端な例といえるかもしれません。けれども、パウロはここで、私たち自身の中にある、「自己正当化」というものは、相手を殺すことなのだということに目を向けさせようとしています。 (続きを読む…)

2021 年 11 月 1 日

今月の礼拝予定(2021年11月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 00:09

11月7日 三位一体後第19主日

主日主題: 聖霊
聖餐式礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ローマ人への手紙7章1-6節
説教:「新しい御霊によって」鴨下直樹牧師

礼拝後:役員会

11月14日 召天者記念主日

主日主題: 永遠のいのち
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ローマ人への手紙6章23節
説教:「永遠のいのち」鴨下直樹牧師

礼拝後:墓地礼拝

11月21日 終末主日

主日主題: 子どもの祝福
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ローマ人への手紙8章14-17節
説教:「神の子どもとしての祝福」鴨下直樹牧師

礼拝後:礼拝準備会/月間予定確認会

11月28日 待降節第一主日

主日主題: 律法
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ローマ人への手紙7章7-13節
説教:「律法の役目」鴨下直樹牧師

礼拝後:長老会、教団11月総会@稲沢

2021 年 10 月 31 日

・説教 ローマ人への手紙6章15-23節「罪の支配と義の支配」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:38

2021.10.31

鴨下直樹

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 パウロの手紙は、このところで何度も何度も同じ言葉を繰り返しています。同じことを繰り返して言うというのは、そこのところがパウロの言いたいところだからです。今日の箇所で何回も出てくる言葉は何かというと「奴隷」という言葉です。そして、人はみんな何かの奴隷となっている。何かに支配されているのだということを、ここで繰り返して語っています。

 今日の箇所で、パウロが言おうとしているのは難しいことではありません。私たちは罪の奴隷なのか、神の奴隷なのか、罪に支配されているのか、神に支配されているのか、どちらかの生き方しかないのだと言っているのです。そして、神に支配されるということは、神の、あるいは義の奴隷となることだと言うのです。

 「奴隷」というのは、とても強い言葉です。「あなたは義の奴隷です」と聞いてうれしい気持ちになるという人はあまりいないと思うのです。奴隷という言葉に良いイメージがないからです。

 この奴隷というのはどういうことかというと、16節では「従順の奴隷」という表現もされていますが、この「従順」とか「服従」という言葉がここで何度も繰り返されています。繰り返されているということは、このことを、パウロはここで大事なこととして語ろうとしていることが分かります。

 私たちは誰でもそうですが、何かに支配される生活なんてまっぴらだと考えていると思うのです。自由でありたいとどこかで考えています。けれども、私たちはそうやって自由にふるまっているつもりで行動するわけですが、実際には罪に支配されていて、そういう生き方は恥ずかしくて人に見せられないような生き方になっているのだとパウロはここで語っています。そして、その義から自由に生きた結果は、死へ続く道に至るのだと言っているのです。それが、人の姿なのだというのです。

 パウロは今日の箇所で色んなことを話していますが、罪の奴隷として生きるか義の奴隷として生きるか。人にはその二つに一つの道しかないのだと言っています。これが、今日の箇所の中心的なところです。

 罪の奴隷としてではない、もう一つの生き方のことをパウロは「義の奴隷」として歩むと言っています。義の奴隷というのは、神にお従いして生きるということです。神のしもべとして生きるということです。そして、その生活は具体的にどういうことかというと、19節にあるように、「その手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい」ということです。聖なる生き方をしようと勧めているのです。

 ただそうなると、そこで問題が起こります。「聖潔に進みなさい」とか22節では「聖潔に至る実を得ています」という言い方がされているのですが、ここに来ると私たちは立ち止まってしまうのだと思うのです。いかがでしょうか。

 先日の祈祷会で、この聖書を学んだ時に、「これは努力目標でしょうか?」と質問した方がありました。うまい言い方だなと思います。ある意味で、確かにこの言葉は私たちの努力目標と言ってもいいと思います。

 ただ、「努力目標」と言った時に、どこまで目指すかは完全に私たち次第ということになります。100点を目指す聖なる生き方をすることもできれば、10点でも仕方がないよねということも可能です。そして、どこまでを目指すかは、完全に私たちに任されていると言えるわけです。

 そうなると、大きな問題が起こります。先日もある方が言われたのですが、これは律法的な響きがあるのではないかという気がしてくるのです。ちゃんとやりなさいというのは、律法主義的な勧めであるように思えるのです。その時、ちょうどその日の朝に、我が家で起こった会話の話をしました。

 4年生の娘が朝、こんな話をしました。「今日は体育があるけれども、先生がいなかったら国語のテストをすると言われた」というのです。それで、私は「それならまだ時間があるから少し漢字の復習をしておいたらどうか?」と娘に勧めました。けれども、娘はそんな勉強なんかしたくないわけで、ぐずる娘に、私が究極の言葉を口にしてしまいました。「それで、勉強しないで悪いテスト持って帰って来たらどうなるか分かっとるやろうなぁ!」と言ってしまったのです。あまりいい父親とは言えませんね。私の性格の悪さが暴露されているようなものですが、そんな話をしていたわけです。

 この聖書箇所も、この話と少しどこかで似ている気がするのです。神様は、性格の悪いお方ではありません。けれども、神様の思いとしては、私たちにキリスト者として聖潔に歩んでほしい。できたら100点を取るような者になってほしいと考えておられるように思えるのです。

 パウロはここで、そのことを言っているようにも読めるのです。「ちゃんとやらんかったらどうなるか分かっとるやろうな! お前は神様の子どもなんやから」ということです。

 言わないといけないことだからパウロはここで心を鬼にして言っている。そのように読むと、それを聞いた私たちも「えーそれは、努力目標ってことでいいですか?」と答えたくなってしまいます。

 ただ、もしこの聖書の箇所がそう語っているのだとすると、それは恵みの言葉でも何でもありません。ここで言われていることは確かに、私たち個人個人の応答にかかっているということは言えます。だから、私が、娘にちゃんとやれよと言うように、皆さんにも、「ちゃんとやらんかったらどうなるか分かっとるやろうな!」とすごんで見せることもできるのかもしれませんが、そんなことを言われてやる気になる人はあまりいないと思うのです。それは、福音としての響きが何もないからです。

 そこで、改めて15節を見てみたいと思います。

では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。

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2021 年 10 月 24 日

・説教 ローマ人への手紙6章1-14節(2)「キリストと共に生きる!」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:14

2021.10.24

鴨下直樹

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 私がドイツに住んでいたころ、週に一度、村の人たちとサッカークラブで、一緒に汗を流しました。あちらは、多くの人が仕事終わりにそのようなサークルとかクラブというようなものに所属していて、一緒にいろんな活動をします。私は、サッカーを学生のころにしていたわけではありませんが、一緒にやらないかと誘われて、サッカーをすることになりました。

 いつも、集まって来るのは8人とか10人というメンバーです。それを二つのチームに分けまして、体育館でサッカーをするのです。ただ、私が驚いたのは、1時間ひたすら走り続けるのです。休憩なんてありません。ずっと走り続けるので、足の皮は剥けてしまうし、何しろ疲れるのです。ゴールキーパーなんて人数が少なくて作れませんから、ゴールは跳び箱の一番上の段を裏返しにしたものです。そのわずか1メートルほどのゴールに入れなければなりません。さらには、ちょうどそのゴールの周りに、ハンドボールコートで使う半円のペナルティーゾーンという入ってはいけないエリアの線があるのですが、そのサッカーでもその線の中には入れないという特別ルールがあります。だから、ゴールまで敵のいないフリーな状態でボールをもらっても、その小さなゴールに入れるのは至難の技です。そこで、私がゴールを外してしまうと、みんないつも一つのポーズを取ります。

 腹に剣を刺して、横に引く、いわゆる「腹切り」のパフォーマンスをするのです。こんな簡単なゴールを外す奴は切腹ものだと言うわけです。一緒にサッカーをしていた彼らはどこでその習慣を知ったのか知りませんが、「日本人は失敗をしたら、腹を切って詫びを入れる」そういうことだけは知っていたようです。

 長い自分の話をしてしまいましたが、私が言いたいのはこういうことです。日本人であっても、さらにはドイツ人でさえもと言うべきかもしれませんが、古くから罪を、過ちを犯した代償は死であるということは知っていたということです。そして、そういう意識というのは、今でもどこかで残っている気がします。昨日、妻と話していましたら、手話で「罪」は「つ」という指文字を作って、そのあとで親指を立ててお腹を切る、そういう表現をするそうです。罪とは腹切りだというのが、手話でも罪をあらわしているのです。

 今日、私たちがこの聖書から考えたいのはこの罪の支配をどのように乗り越えることができるのかということです。私たちがそこで考える必要があるのは、私たちが罪を犯してしまった相手というのは、ゴールが入らなかったとか、他人に迷惑をかけたとか、そういうことではなくて、神に対しての罪を犯したのだということです。神を裏切ってしまった。そして、そのために神の支配されている神の国という世界から追い出されてしまうほど、私たちは神の前に立つことができないほどの罪を、負債を、神の前に負っているということ、これが、聖書が語る罪です。

 しかし、私たちは自らの罪の責任を取るために腹を切る必要はなくなりました。主イエスが、私たちの罪の責任をとって、十字架で死んでくださったからです。私が負わなければならない死を、主イエスが代わりに負ってくださったのです。これが、福音の知らせです。

 主イエスは、私たちの神に対する罪を、自ら引き受けて下さって、神の裁きを私たちに代わって身に受けて下さったのです。

 そして、主イエスがその時に十字架で死んでくださったというのは、そこで、罪人であった私たちが死んだということです。だから、私たちも、そこでキリストと共に死んだはずなのです。そうでないと、私たちの罪の問題の解決はありません。私たちの罪が、私たちからなくなるためには、私たちが死ぬ必要があるのです。悔い改め、というのは、その死を通して、私たちは死んで、そこから新しいいのちがはじまったということなのです。

 5節の冒頭にこう書かれています。「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら」と書かれています。

 ここで、パウロは何を言っているかというと、「私たちはキリストの死と同じようになった」、「同じようになって一つになったのだ」と言っています。これが、主イエスが十字架で死なれた意味です。主イエスがあの十字架の上で死なれたのは、私たちと一つになったのだと。

 主イエスは、その後、3日目によみがえられました。私たちは、主イエスと同じように一つとされて、あの十字架の上で、この私は死んで、そして、よみがえらされたのです。だから、そこでもうすでに私たちは罪から解放されているのだとパウロはここで語っています。

 この7節では、(すでに)「罪から解放されている」とパウロは語っています。主イエスが私たちに代わって死んでくださった。そのことを受け入れて、信じて、洗礼を受けたというのは、もう私たちはそれまでの罪から解放されているのです。もう、罪が私たちを支配することはないのです。

 しかし、です。私たちはそう言われるとそこで立ち止まってしまいます。この言葉は、私たちを苦しめるのです。なぜなら、罪の支配が無くなったという実感がないからです。

 パウロが言うように洗礼を受けたということは、一度そこで、古い罪に支配された自分は死んで、新しくされたのだ。だから、その罪は私を支配しないと言われるのです。けれども実際には、私たちはそう感じるどころから、洗礼を受けてからの方が、私たちの中にあるこの罪の自覚に苦しむようになるというのが、私たちの実感なのではないかと思うのです。
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2021 年 10 月 21 日

ざっくり学ぶ聖書入門32 マルコの福音書(1)

Filed under: 聖書の学びと祈り会 — susumu @ 09:45

2021 年 10 月 17 日

・説教 ローマ人への手紙6章1-14節(1)「新しいいのちに歩む」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:20

2021.10.17

鴨下直樹

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 パウロは、5章から8章までのところで、信仰に生きるようになった人の新しい生き方とは、どういうものなのかをここで語っています。

 前回の説教の最後で私は一つのたとえを話しました。死に向かう滅びの列車に乗っていた私たちに、反対方向に進む、いのちに向かう列車が来た。この列車に乗り込むことが、主イエスを信じて、悔い改めるということだという話です。

 その説教を聞いたある方が、昔歌った子ども賛美歌を思い出したと言われました。
「福音の汽車」という讃美歌です。ご存じの方がどのくらいいるか分かりませんが、私も子どもの頃、よく歌った歌です。こんな歌詞です。

福音の汽車に 乗ってる 天国行きに ポッポ 
罪の駅から出て もう戻らない
切符はいらない 主の救いがある それでただゆく 
福音の汽車に 乗ってる 天国行きに

 よくこのことをあらわした歌だと思います。主イエスの救いがやって来て、汽車というのはもうないので列車と言った方がいいかと思いますが、その列車に飛び乗っていのちの方に向かって進むようになった。そんな話をいたしました。

 そして、もう一つの話をしました。それは天秤の話です。私たちの罪の重さと、キリストのしてくださった恵みの大きさの話です。あまりにもこのキリストがして下さった恵みの御業が、大きいのでその秤からあふれるほどだというのです。そこで、パウロは5章の20節でこう言いました。

罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。」と。

 多くの罪を犯した者は、その大きな罪の重さをはるかに超えるキリストの恵みの大きさを知ることができるとパウロは言ったのです。ここまでが前回の話です。

 しかし、この言葉は、別の理解をもたらす危険をはらんでいました。それは、沢山の罪が赦されるのだから、罪を犯せば犯すほど、神様の赦しが分かるのだとしたら、罪をどんどん犯してもいいのではないかと考える人が出てくるかもしれないということです。

 まるで、ゲームの無敵のアイテムを手に入れたような状態です。ルールを無視してもOK、「あなたは義だ」と神様が言ってくださるのだから、もう鬼に金棒です。そんな風に考える人がでることを考えてパウロはここで話を進めているのです。

 そこで、パウロはその考え違いをここで解き明かしていこうとしています。そして、その説明としてパウロが選んだのは、「洗礼を受けることの意味」です。

 3節でこう言っています。

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

 パウロはここで、主イエスを信じてバプテスマを受けたということは、そこでキリストと共に死んだのだということなのだと語っています。 (続きを読む…)

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