子ども祝福式のご案内

 いつも教会の各子どもと親の集いに参加くださり、とても嬉しいです。
皆様との出会いを心から感謝しています。

 さて日本では、子どもたちのすこやかな成長を願う、宮参りや七五三等の慣習がありますが、教会では毎年、全年齢の子どもたちの人生の上に、唯一の天地創造の神様からの祝福を祈るという習慣があります。

 毎年11月頃の日曜日、子ども祝福式を礼拝の中で行っており、特に子ども達の健やかな成長と、救い主イエス・キリストの豊かな祝福をお祈りします。

 プログラムは、礼拝式に加え、こども賛美歌、聖書のお話、子ども達の祝福の祈り
などがあります。(お祈りの後に、素敵なプレゼントもあります。)

 ぜひ、ご家族の年間の行事に加えていただいて、共にお祈りできたら幸いです。

聖書のことば 主イエスキリストのことば
「子どもたちを、わたしのところへ来させなさい。
止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。」

子ども祝福式のご案内
11月1日(日)
朝10時半~12時頃まで
会場:芥見キリスト教会礼拝堂にて

  • 対象:乳幼児から小学生まで(ご家族で、祖父母様もどうぞ!)
    教会は、はじめて…の方も歓迎!
  • 平服で結構です。
  • 通常通り礼拝中には「献金」の時間がありますが、献金は自由です(パスしていただいてもかまいません。
    祈祷料なども一切必要ありません。
  • 申し込み:プレゼントの準備がありますので、前日までにお子様のお名前と年齢をお知らせくださいませ。

担当:鴨下愛まで
携帯:090-1824-4334/教会電話:058-243-5798

こちらのメールフォームからもお申込みができます。通信欄に「子ども祝福式申し込み」と明記の上、お子様のお名前と年齢をご記入ください。

芥見キリスト教会 クリスマス スペシャル☆プログラム

2015年 冬
クリスマス
スペシャル☆プログラム

  • 12月3日(木)55+の会クリスマス
    午後2時~4時/対象:55歳以上の方
  • 12月8日(火)こひつじクラブクリスマス会
    午前10時30分~12時/対象:未就園児と親
  • 12月12日(土)こどもクリスマス会
    午前10時~12時/対象:小学生、幼児と親
  • 12月18日(金)パッチワーク会クリスマス
    午前9時30分~午後1時、昼食つき
  • 12月19日(土)アクタミJCクリスマス会
    午後6時~8時30分/対象:中高生

初めての方も参加しやすいプログラムです。
クリスマスの季節、お気軽におこしください。

クリスマスキャンドルサービス
燭火礼拝
12月24日(木)
午後7時30分~9時頃

・説教 ヨハネの福音書17章1-8節「永遠のいのちを」

 

2015.10.18

鴨下 直樹

 
 今日から、ヨハネの福音書の第17章に入ります。ここは、主イエスの告別説教の結びの部分でもあります、主イエスの告別の祈りがささげられているところです。この17章はすべて主イエスの祈りですが、少し分けてこの主の祈りに耳を傾けたいと思います。
 今日の箇所は冒頭の一節にこのように記されています。

イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください」

 この時、主イエスと一緒にいた弟子たちはこの主イエスがなさる祈りを傍らで聞くことができました。主の祈りの姿を直に見ることが出来たのです。そして、私たちはここにこの祈りが記録されているので、私たちも、まるで弟子たちと共に、主の傍らにいるかのようにして、主の祈りを聞くことがゆるされています。

 先週の木曜日の祈祷会の時に、ある方が人の前で祈ることが苦手だという話をされました。何人かの方が同じように感じておられるようで、おそらく、ここにも同じような思いの方がおられると思います。その時に、ある方が、「先生はどういう祈りがいい祈りだと思われますか」と率直に質問してくださいました。みなさんとしても、どういう祈りがいい祈りなのかと興味のある方があるかもしれません。私はすぐに、「主に、直接語りかけているような祈りは、いい祈りだと思いますねぇ。」と答えました。祈るときに、どうしても、うまく祈りたいと思う。立派な祈りをして、他の人にあの人はこんな立派な祈りをすると思ってもらいたいというような下心がある。あるいは、反対に、せめて恥ずかしい祈りだとは思われたくないという思いがあるのかもしれません。けれども、祈りは私たちにゆるされている、父との深い交わりの時です。先週の説教でもいいましたけれども、私たちは、主イエスに取りなしてもらってやっと祈ることができるという関係ではなくて、もう、直接父よと祈ることができる関係にされているのです。

 弟子たちはこの時、主イエスと父なる神との会話をすぐ横で聞くかのようにして、主の祈りの交わりを目の当たりにしました。それは、弟子たちにいいところをみせようとか、かっこ悪い姿を晒さないようになどということがまったく入り込む余地のないほど深い交わりでした。ある人が、「受話器の向こう側の声が聞こえてきそうだ」と言いましたが、まさに、そのような深い交わりの祈りがここに記されています。 続きを読む ・説教 ヨハネの福音書17章1-8節「永遠のいのちを」

・説教 ヨハネの福音書16章25-33節「主イエスを知る日」

 

2015.10.11

鴨下 直樹

 
 今、名古屋で教えております東海聖書神学塾で、この10月から説教学を教え始めました。先週の金曜日で二回目の授業です。先週いきなり宿題を出しました。創世記1章1節からの説教を800文字で書いて来るようにという宿題です。それで、この金曜日に今学んでおります8名の神学生に、順番にこの短い説教を読んでもらいました。まだ、何も学んでいない状態で、いきなりの宿題ですからずいぶん手こずるだろうと思っていました。実にバラエティに富んだ説教が出てきました。そこで、説教の分析をするために大切なことを少しお話ししました。

 こういう話を礼拝でしてしまうのは自分の説教の手の内を明かしてしまうようなものですが、説教には大きく分けて四種類の言葉があります。一つは聖書を説明する言葉です。これは説明はいらないと思います。この聖書はこういう意味だという言葉は必ず説教の中に入ります。二番目は聞き手を解く言葉です。説教を聞く人々の心を解く言葉、たとえば、この箇所を読むとこう思うかもしれませんがとか、人にはこういう考えがありますなどといいながら、人の心に寄り添いながら、み言葉を語っていくわけです。もう一つは説教者の言葉というものがあります。いまやっているこの冒頭からの言葉はみんな説教者の言葉といってもいいかもしれません。最後に、神の名による宣言があります。神はあなたにこう言われるという神の言葉を宣言する。この言葉が説教のもっとも大事な部分です。金曜日に、神学生たちの何人かの説教を取り上げまして、一つ一つの文章を丁寧に読みながら、ここで何を意図して説教をしようとしているのか、四つの色で色分けしながら、その説教の内容を分析していくわけです。私はこの説教分析という作業はとても好きです。色々な説教を読みながら、そういう視点で読んでいきますと、語り手の言いたいことというのが、つかみやすくなるからです。
 
 今日の聖書の言葉は、そういう意味でもとても興味深い箇所です。今まで主イエスは何度も何度も同じ話をなさってきたわけですが、今日のところで、ついに、弟子たちは「今、はっきりと分かった」と言ったのです。それで、私は主イエスのこの言葉を分析してみるわけですが、どの言葉で弟子たちは主イエスのことがようやく分かるようになったのか。
 分かったと言っているのは29節ですからその前の言葉ということになります。つまり、今日の25節から28節までの言葉を聞いて、どうも弟子たちは分かったらしい。けれども、そう思いながら、この部分を注意深く見てみても、この言葉かなというのは見えてきません。
 先週説教をしました、18節で、弟子たちは「分からない」と言っていますから、少し箇所を広く見たとしても19節から28節までが重要な言葉であることが分かります。
 また、先週のところからお話しするつもりはありませんので、先週のところと、今日のこの前半部分は弟子たちにとって決定的な意味をもつ言葉であったということは少なくとも分かるわけです。
 そこで、今日のところで、25節にこう書かれています。

これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。

続きを読む ・説教 ヨハネの福音書16章25-33節「主イエスを知る日」

・説教 ヨハネの福音書16章15-24節「悲しみから喜びへ」

 

2015.10.4

鴨下 直樹

 
 先週の日曜日、私たちは教団の日を共に祝いました。私は先週、みなさんと共に礼拝を祝うことは残念ながらできませんでしたけれども、午後に教団の日の集いが稲沢教会で行われ、そちらで一緒に教団の日の祝いをいたしました。四年前から、この教団の日の集いを地区別の主催にいたしました。そのために、その地区の教会の方々は本当に大変な準備をして、どのようにしたらこの日を一緒に祝うことができるのかと考えながら毎年のことですけれども、大変素晴らしい集会を計画してくださいます。今年は、稲沢の教会に270名以上の方々が集まったようで、懐かしい方々と一緒に教団の日を祝う礼拝をするというというのは本当に嬉しいものです。

 特に、今年は講師を招きました。大学生の伝道をするKGKという団体がありますが、このKGKの副総主事をしておられる大嶋重徳先生が説教をしてくださいました。非常に情熱を込めた説教をしてくださり、エレミヤ書からですけれども、主に喜んで仕えていきましょうと語ってくださいました。私もずいぶん色々なチャレンジを受けました。来年はこの同盟福音の宣教が始められて60年を迎えようとしています。そういうなかで、もう一度地域に伝道していくことの大切さを共に心にとめていきたいと思っています。

 先週の祈祷会でも、この芥見教会の伝道も来年で35年になるのではないかということを話していました。来年何か記念集会でもするかどうかという意見もありましたが、やはり40年がいいのではないかと思っています。そこでつい口に出したのですけれども、「荒野の40年」というテーマがいいのではないかと言ってしまいました。40年というと、まずやはり出てくるのは聖書の中では患難を示す数字です。40年の宣教は大変であったということをやはり表現するべきなのではないかととっさに思ったからです。けれども、もちろん、まだそれまでには5年あります。その間に主の再臨がないとも限りませんし、その間にもまだまだ色々な歩みがあるはずです。一言で、それを「荒野の40年」という言葉でまとめることもできないなと思います。

 今朝、私たちに与えられているみ言葉は、主イエスが「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます」と弟子たちに向かって語りかけられたところです。もう何度も、主イエスはご自分がこの地を去ることを語り続けておられます。けれども、この主イエスが弟子たちに向かって語り続けてこられたことは、弟子たちにはまだはっきりと何を意味するのか、分かってはいなかったようです。それが続く17節にありますが、弟子たちは互いに、主が何を言っておられるのか、これはどういうことなのだろうと、語り合っていたとあります。主イエスが去って行かれるということが理解できなかったのです。弟子たちはもはや直接、主イエスに尋ねることもできないほどに、悲しみに支配されてしまったようです。そこで、主イエスはそのような弟子たちが抱いている悲しみをとてもよく理解してくださいました。21節ではその悲しみ、苦しみをこんな言葉で表現されています。21節。

女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。

とても興味深い言葉です。 続きを読む ・説教 ヨハネの福音書16章15-24節「悲しみから喜びへ」

今月の礼拝予定(2015年10月)

10月4日 三位一体後第十八主日

主日主題: 喜び
聖餐式礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨハネの福音書16章15-24節
説教:「悲しみから喜びへ」 鴨下直樹牧師
聖餐式

午後:役員会

10月11日 三位一体後第十九主日

主日主題: 神認識
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨハネの福音書16章25-36節
説教:「主イエスを知る日」 鴨下直樹牧師

午後:教会キャンプ(聖歌隊練習はお休み)

10月18日 三位一体後第二十主日

主日主題: 永遠のいのち
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: ヨハネの福音書17章1-8節
説教:「永遠のいのちを」 鴨下直樹牧師

午後:キリスト教美術講座 14:00~

10月25日 三位一体後第二十一主日

主日主題: 宗教改革
合同礼拝: 午前10時30分
聖書: (未定)
説教:赤塚兄

午後:地区別評議会 14:00~ 於:羽島教会

・説教 ヨハネの福音書16章4-15節「聖霊の示す真理」

 

2015.9.20

鴨下 直樹

 
 今、私たちは主イエスの告別説教といわれる言葉を聞き続けています。14章から16章までで、主イエスは弟子たちに別れの言葉を告げておられます。特に、今日のこの短い箇所の中にも、何度も、私は去って行くのだという言葉が語られています。5節、「今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうと」、7節「わたしが去って行く」「もしわたしが去って行かなければ」「しかし、もし行けば」とあります。10節にも「わたしが父のもとに行き」と言われています。もう、わたしは行くのだ、去るのだという言葉を弟子たちはどのような思いで聞いたことでしょう。主イエスと弟子たちが一緒に過ごした期間は3年であると一般にいわれています。このヨハネの福音書を読む限りですと、一年ほどの期間しかなかったような書き方になっています。一年であろうと、三年であろうと、寝食を共にし、実に中身の濃い時間を過ごした人との別れというのは心に大きな穴をあけてしまいます。どんな教師や牧師であってもなしえない、実に豊かなものを主イエスと共に生きた弟子たちは味わうことができたはずです。

 それで、主イエスは言われました。5節の後半部分です。「あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません」。もちろん、弟子たちは何度も主イエスに尋ねたのです。13章の最後のところではペテロがイエスに命がけで「あなたの行くところに私はついて行きます」と言いました。14章ではトマスが「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちには分かりません」と言っています。はじめのうち弟子たちは主イエスに尋ねていたのですが、だんだんと主イエスの行かれるところに自分たちはついていけないこと、そして、主イエスを失った後迫害があること、けれども互いに愛し合うことなどを主イエスから聞かされました。そうこうするうちに弟子たちは悲しみに支配されてしまったようです。ですから6節で主イエスはこう言われました。

かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。

 弟子たちにしてみれば主イエスと一緒に歩み、寝食を共にしながら、毎日慰められ、生きる望みが与えられ、これこそが人の生きるべき姿なのだということを味わってきました。そして、これから自分たちがどのような生き方をすることになるのかを心躍る思いで毎日過ごしていたに違いないのです。この主イエスと共に生きることが、自分の生きる喜びそのものだったのです。それが、ここに来て、急に主イエスが別れの言葉ばかりを告げられるようになってきたので、もう弟子たちには続けて主イエスに尋ねる気持ちが失われてしまうほど悲しみにくれていたのです。それは誰もがよく分かることなのだと思います。

 しかし、主イエスはそのような弟子たちに向かって語りかけられます。7節。

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。

と。
続きを読む ・説教 ヨハネの福音書16章4-15節「聖霊の示す真理」

・説教 ヨハネの福音書15章18-16章4節「信仰の戦い」

 

2015.9.13

鴨下 直樹

 
 この水曜日から祈祷会でレビ記を学び始めました。レビ記というのは、おそらく聖書を読み始められた方が、創世記と出エジプト記を何とか読み終えた後で、最初にぶつかる壁になる場合があります。こまかな戒めの規定がいくつも書かれていますので、レビ記で挫折してしまったという方の話をよく聞きます。けれども、注意深く読んでいきますと、なかなか面白い箇所です。神がどれほど細やかな配慮をしていてくださるのか、ご自身の民がどのように生きることをねがっておられるのか、そういう神の心をつかみとることのできる箇所です。この水曜日と木曜日の学び会に比較的多くの方が集ってくださったことを嬉しく思っていますけれども、これからすこしずつ丁寧に学んでいきたいと思います。先週は最初でしたので、レビ記というのがどういうことを目的として書かれたのかという話をしたのですが、一言でいうと「聖さ」です。主はご自身の民に聖くあることをねがっておられることが、レビ記を読んでいきますと分かってきます。この「聖い」という言葉は、その時もすこし説明をしたのですけれども、私たちがイメージする「聖さ」というのは、「純粋」とか「ピュア」、汚れがないということを連想しがちですが、「違う」という意味で理解してくださるとよいと思います。主は、ご自分の民に、この世の人とは違うことを求めておられる。ですから、「聖い」というのは、「この世のあり方とは違う」という意味です。

 今日、私たちに与えられている箇所は、この「世」があなたがたを憎むということが書かれています。19節にはこうあります。

もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。

 旧約聖書に記されている神の民であるイスラエルも、主イエスの弟子も、まさに、主からこの世の者とは違う者、聖い者として召し出されます。だから、世はあなたがたを憎むのだと主イエスは言われているのです。 続きを読む ・説教 ヨハネの福音書15章18-16章4節「信仰の戦い」

・説教 ヨハネの福音書15章11-17節「友なる主イエスに招かれて」

 

2015.9.6

鴨下 直樹

 
 少しの間、夏休みを頂いておりましたけれども、今日また、みなさんの顔を見ることができて、とても嬉しい気持ちでいます。この夏休みの間、私はいつも色々な教会の礼拝を見に行く機会としているのですけれども、今年は、群馬県にあります、私たちの群れの下仁田教会の礼拝に行ってまいりました。ですが、やはり下仁田教会の牧師も夏休み中ということで、井上牧師が説教をしにきておられました。井上牧師は、私たち芥見教会出身で牧師になられた方です。そして、その時井上牧師によってなされた説教はこのヨハネの福音書第15章1-17節からでした。
 お休みをいただく前に、私はこの部分の前半のところ、主がご自分のことをぶどうの木と言われたところから説教しました。そして、今日は、その後半部分をと二度に分けたのですけれども、井上先生は、まさにこの箇所から説教されました。大変素晴らしい説教で、もう、聞いた話をそのままやろうかななどと思ったくらいです。その説教で、井上先生はぶどうの木のはなしをなさったのですが、そこでは、やはりこの地域の出身ということもあって、長良川沿いのぶどうを買って食べる機会がたくさんあったようです。そこで、みられたそうですけれども、ぶどうの木は幹の部分と枝の部分の境がほとんどわからないと言われて、キリストとわたしたちも、どこから幹でどこから枝かわからなくなるほどに一つとされるのだというメッセージをされました。前回、私は、ぶどうの木の幹は60センチくらいで、あとは枝ばかりだという話をしましたので、休みのあいだ、気になって、ぶどう園を見に行きました。すると、そこはぶどう酒のためのぶどうを育てているところなのですが、やはり、私が話したように幹は60センチくらいしかありませんし、はっきりと枝の部分と区別ができます。そこで、気づいたのですが、どうも、ぶどう酒用のぶどうの木と、果実を食用するぶどうの木とはどうも少し性質が違うようで、食用の方のぶどうの木は、井上先生が言われるようにどこまでが幹で、どこからが枝かよくわからないのだそうです。それを知って少しほっとしています。

 井上先生はもうひとつ、「友」ということもその後半のメッセージで語られたのですが、まさに、それが、今日の個所の大切なテーマです。教会の中には子どもの名前にこの「友」という名前をつけておられる方が時々おられます。私たちの教会出身の舛田牧師も、ご両親がここにおみえになりますけれども、名前に「友」がついています。Kさんも子どもに「友」という名前をつけておられます。
 そのようにクリスチャンの名前に時々「友」という字がつけられた名前を聞くことがありますが、実は、聖書の中で「友」という言葉はそれほどでてきません。けれども、このヨハネの福音書には何度か、この「友」という言葉がでてきます。K家にしても、M家にしても、たぶん、このヨハネの福音書からつけられたのではないかと勝手に想像しているのですが、いつかちゃんと聞いてみたいと思っているのですが、気になる方はぜひ、後で直接聞いてみてください。

 このヨハネの福音書にはこのように書かれています。13節から16節です。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

 ここには、いくつかのことが語られていますけれども、私たちはここで少し驚くのは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」という部分でしょうか。もちろん、そこでは、当然のことですけれども、主イエス・キリストが私たちのためにいのちを捨ててくださるということが前提となっています。 続きを読む ・説教 ヨハネの福音書15章11-17節「友なる主イエスに招かれて」