2018 年 6 月 10 日

・説教 マルコの福音書7章31ー37節「エパタ―神の言葉が聞こえてくる―」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 15:20

2018.06.10

鴨下 直樹

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 先週の月曜日から水曜日までJEAと言いますが、日本福音連盟の総会が行われました。福音派と呼ばれている教会や教団の代表者が集まって総会を行うのです。今回の総会では、5年後の伝道会議の会場が東海地区に決まりました。

 この総会に先立って、東海地区のこれまでの取り組みについて報告する時間がありました。私は東海聖書神学塾の働きについて紹介して欲しいということでしたので、神学塾の働きについて紹介しました。この東海地区というのは、私たちが所属しています福音派の教会が良い協力関係を長年築き上げて、宣教協力をしてきましたし、また地元の奉仕者を育てるための機関として神学塾がその役割を担ってきました。こういうこれまでの東海地区の働きを知ってもらって、その翌日の総会で5年後の会場が決議されたわけです。

 今回、3日間の総会で、その他にも様々なJEAとしての取り組みも紹介されましたが、その中で何度も何度も語られた言葉の中に、「次世代」という言葉があります。今、日本中の教会で、次の世代、特に若い人に福音が届かないという共通した危機意識があるようです。日本の教会の将来はこの次世代に、若い人たちに福音が届いていくのかどうか、それが大きな課題となっているのです。

 私自身は、福音が届きにくくなっているその背後に、スマートフォンの普及があると考えています。スマートフォンの普及によって、人々の、特に若い人々の生活が大きく変わりました。電話や音楽や写真がいつでも手軽に楽しめるということもありますが、それ以外にも、例えば本の購入にしてもテレビ番組や映画なども、今はこのスマートフォンで自分の好きなものを簡単に選ぶことができます。 (続きを読む…)

2018 年 6 月 3 日

・説教 マルコの福音書7章24-30節「柔らかい心を持って」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:55

2018.06.03

鴨下 直樹

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 今日の聖書の箇所は私たちには少し新鮮なというか、新しいイエス像を描かせるものではないかと思います。24節にこう記されています。「イエスは立ち上がり、そこからツロの地方に行かれた。誰にも知られなくないと思っておられた」とあります。

 読んだ印象からすると、これまでの流れの中で、主イエスはもうちょっと人と会いたくない気持ちになられて、誰も自分のことを知らない外国に足を延ばされたわけです。このあたりだと、ちょっと下呂にでも温泉旅行に行こうかというような感覚であったかもしれません。主イエスも人に会いたくないと思われるようなところがあるのだということに、私たちは親近感を覚えるかもしれません。あるいは、意外性を感じるかもしれません。

 けれども、これまでのマルコの福音書を読んでいきますと、主イエスの弟子たちはどうもあまりパッとしないのです。五つのパンと二匹の魚の奇跡のときも何も感じることもなく、向かい風の湖の試練でも、主イエスの願いは届かず、この前のパリサイ人や律法学者たちとけがれについて議論した時も、弟子たちは何の話を主イエスがしておられるのかさっぱりつかめていないのです。このあまりの弟子たちの不甲斐なさと、自分の願いばかりを押し付けて来る群集、そして議論を吹っかけて来るパリサイ人や律法学者たち。ちょっと疲れた。静かなところに行って休みたい。そんな雰囲気を読み取ることができます。

 ところが、主イエスにはそんな時間が与えられるべくもなく、一人の女の人がやって来ます。彼女は幼い娘を持つ母親で、娘は汚れた霊につかれている。どんな状態なのかは分かりませんが、最後のところでは「床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていた」と記されていますので、何かの病気に冒されていたのを「汚れた霊につかれていた」と表現しているのかもしれません。この小さな病の娘を持つ母親は、主イエスに娘の回復を願いに来るのです。

 このツロという地域は、主イエスたちのことばと同じアラム語を話す人も多い地域でしたので、会話も問題なかったようです。ところが、この人は「ギリシア人」とあります。ギリシャ語を使う人ということです。生まれはシリア・フェニキアとありますので、ツロという町のある地域をさす地域名です。つまり、生粋のこの地域の人は、アラム語は話せないというのは珍しいことではないわけです。

 ここで興味深いのは、主イエスはこの母親の願いにこのようにお答えになられました。27節です。

「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」

このように主イエスは言われたのです。 (続きを読む…)

2018 年 5 月 13 日

・説教 マルコの福音書7章1-23節「聖く生きる」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 20:12

2018.05.13

鴨下 直樹

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 5月も第二週を迎えました。以前、マルコの福音書から説教をしたのは3月の終わりですから、約二か月ぶりにマルコの福音書に戻ってきました。この間に色々なことがありました。先週は神田先生をお招きして説教していただきましたし、岐阜市長までもが礼拝を訪ねてくださいました。また、その前は山田長老がご自身の証を交えて説教してくださいましたし、ファミリー礼拝で避難訓練をしましたので、そういうテーマで説教をしました。また、洗礼入会式やイースター、受難日の礼拝などと毎週目まぐるしくテーマが変わってきましたので、もうマルコの福音書の話の流れが頭の中で切れてしまっている方がほとんどだと思います。

 そういう意味で言えば、このマルコの福音書の7章はこれまでの奇跡のことが書かれたまとまりが終わって、新しい段落に移るところですから、ちょうど少し内容が変わるところと言っていいと思います。

 このゴールデンウィークの始まりました時に、東海聖書神学塾主催で教会学校の教師のための研修会が行われました。今回は「子どもを知る」というテーマで二人の講演を聞きました。一人目は私の姉で小学校の教師をしています。学校の教師の現場からみて、今の子どもたちを知るという話を聞きました。この講演はとても興味深いもので、「小学生白書」という子どもたちの現状を示すアンケートのとりまとめから、今の子どもたちの生活ぶりがどうであるかということを、アンケートの表をもとに話してくれました。

 私自身、自分で姉に講演を依頼しておきながら、こんなに専門的なデーターを使って話をするのだとは思っていなかったのですが、とても興味深く聞きました。その後は、マレーネ先生が聖書の中で子どもはどのように記されているのかを丁寧に掘り下げてくださって、聖書が子どもをどう見ているのかということについて話してくださいました。どちらもとても興味深い話でした。この二人の講演を聞きながら、自分が分かっているつもりになっていることが、いかに正しい考え方をできなくさせているのかということに改めて気づかされました。

 特に、私の姉がその講演でいろんなデーターを使って子どもたちの現状を話してくれたのですが、例えば子どもの睡眠時間のデーターを見ると、子どもは平均で朝の6時半に起きるということが分かるわけです。そういうデーターを見ると、うちの子は今6時に起きているのですが、平均より少し早く起きるのは、学校が遠いから仕方がないことかな、などと思うわけです。ところが、姉はそういうデーターをはじめの時間で、ざっと説明してみせた後で、もう一度、そのデーターの細かな点に焦点を当てて話し始めました。

 例えば、その表で朝の5時半以前にすでに起きている子どもは全学年平均で8.8%もいるというようなことを話すわけです。学年によっては11.5%の子どもがすでに5時半に起きている。どういう理由があるのか、そんなに早く起きていて授業中に眠くならないのだろうかと話して、今度はでは何時に寝るのかというデーターを説明します。すると、平均の就寝時間は夜10時なのですが、夜11時半以降に寝る子供も8.8%いる。では10時以降に寝る子どもは何をしているのかというと、そのデーターによると、テレビを見ているとか、インターネットをしているとか、ゲームをやっているという子どもが合わせると55%いる。つまり、平均の中からは見えてこない、さまざまな子どもを取り巻く環境というのがあって、睡眠が足りていない子どもたちが一定数いるということに目をとめる必要があるというわけです。

 子どもは早寝早起きがいいということは誰もが分かるのですが、そうできない環境というのがあって、そのことを理解していないと色々な失敗をしてしまう。目の前に起こっている現象だけでなくて、その背景に何があるのかということをしっかりと見極めることが求められるということなのだと思うのです。 (続きを読む…)

2018 年 3 月 25 日

・説教 マルコの福音書6章45-56節「嵐の夜に」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 13:49

2018.03.25

鴨下 直樹

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 今日の箇所も、奇跡をあつかう出来事が記されています。奇跡というのは「しるし」という言い方をすることがあります。私は以前、神学生の頃に地質調査のアルバイトをしたことがあります。地質調査というのは、家を建てる前に、その家の地盤の強度を調べるわけです。そうやって、地盤の強度が足りないとセメントと土を混ぜる地盤改良という工事をしたり、あるいは杭を打ち込む杭打ち工事をすることになるわけです。そういう仕事はまた別の人たちがするわけですが、時々、この地盤改良の工事の現場監督に行かされることがありました。アルバイトが現場監督なんてやっていいのかと思いましたが、行ってみるとその時はそれほど難しい仕事ではありませんでした。

 ショベルカーなどの重機が入るわけですが、現場監督の仕事は、その重機が土を掘る時に、掘ってはいけない場所、たとえば下にガス管があるとか、水道管が埋まっている場所を図面で調べて、赤色のスプレー缶で地面にバツ印のしるしをつけていくわけです。そうすると、重機に乗っている人は、ここは掘ってはいけない場所というのを「しるし」を見て分かるわけです。

 なんで、こんな話をしているかというと、「しるし」というのは、「しるし」自体にはそれほど意味はなくて、その「しるし」の指しているものが大事だということなのです。つまり、奇跡そのものに意味があるのではなくて、その奇跡は何を表しているかということの方が大事だということです。

 それで、今日の聖書を見てみたいと思うのですが、今日の聖書は、こういう言葉から始まっています。

それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ・・・

と記されています。

 今日の、キーワードはこの「強いて」という言葉です。新改訳2017では、「無理やり」となっています。この「強いて」とか「無理やり」というのは、本人は望んでいないことを強制的にさせたということです。この箇所を、地図を見ながら読んでみると、見えて来ることがあります。それは「ベツサイダに行かせ」とありますが、ベツサイダはガリラヤ湖の10時の方向にある町です。ところが、最後に着いたのは「ゲネサレ」の地です。このゲネサレというのは3時の方向にある町ですから、湖の正反対にあるわけです。

 つまり、ベツサイダに向かわなければならなかったから、舟は向かい風で進めなかったわけで、風に流されて行けば、ゲネサレには簡単に着けたわけです。そういうことが分かると、この「強いて」という言葉の中身が分かってくるわけです。向かい風なのに、その方向に行かなければならないように主イエスは弟子たちに命令したわけです。 (続きを読む…)

2018 年 3 月 11 日

・説教 マルコの福音書6章33-40節「見るべきところ」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:37

2018.03.11

鴨下 直樹

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 今日、私たちに与えられている聖書の箇所は五つのパンと二匹の魚で男の人だけで五千人の人々がお腹いっぱいになったというところです。五千人の給食などと言われるところで、聖書の四つの福音書のすべてに書かれている出来事です。どの福音書にも書かれているということは、それだけこの出来事が人々の心を捉えたということでしょう。

 聖書にはたくさんの奇跡の出来事が記されています。けれども、聖書の描く奇跡というのは、主イエスがこんなにすごいことができるということを強調するために記されてはいません。これまでの奇跡の記述も、奇跡は起こったが分かったのは癒された当の本人か、弟子たちだけに限られていました。けれども、ここでは一度に五千人以上の人たちがこの出来事を目の当たりにしたのです。ところが、このマルコの福音書は、この出来事の記述を後半に描きながら、とても簡潔な報告でまとめています。むしろ、他にテーマがあると言っているかのようです。

 マルコの福音書はここで派遣された十二弟子たちが戻って来て、それぞれの伝道の結果を報告するところから記しています。そして、31節にこう記されています。

そこで、イエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。

 今週の火曜日のことです。この教会で教団役員会を行いました。朝9時から始まりまして、昼食に1時間休憩がありますが、夜の9時すぎまで話し合いをしました。その日、ある方が電話をしてくださっていたのですが、結局折り返しの電話をできたのは夜10時過ぎてからです。芥見が会場だったので、私はすぐに家に帰れるわけですが、他の先生方は家に着くのは12時近くです。みなさんでも、働いておられる方は、残業で夜遅くになってようやく家に帰り着く方も少なくないと思います。そういう時に、この箇所を読みますと、少し慰められる気がするのではないでしょうか。

「さあ、あなたがたで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」この主イエスの言葉を聞くだけでも、ああ、この方は分かってくださっているなぁという気になるわけです。主イエスはここで働いてきた弟子たちを労わってくださろうとしておられます。他の誰でもない、主が私のことを気にかけてくださっているのかと考えるだけで、充分という気持ちになるのかもしれません。しかしこの出来事は、これがすべてのきっかけとなっています。つづいて、こう書かれています。 (続きを読む…)

2018 年 3 月 4 日

・説教 マルコの福音書6章14-29節「神の言葉の確かさ」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 12:39

2018.03.04

鴨下 直樹

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 今日のところには色々な人の名前がでてまいります。ヘロデ、そして、ヘロデの妻ヘロデヤ、そして踊りを踊ったヘロデヤの娘、バプテスマのヨハネ。出て来る四人に共通しているのは、ここに出てくる人たちの不幸がここで語られているということです。誰一人として喜んでいる人はいないのです。この箇所は初めから終わりまで重たい空気が漂っています。

 ヘロデ王がここで登場します。聖書の中には色々なヘロデが出て来ますので少し整理してみたいと思います。ここで「ヘロデ王」と書かれていますけれども、正確には王ではなくて、日本で言うと知事のような立場で、その地方の領主です。正式の名前はヘロデ・アンティパスと言います。ベツレヘムで嬰児虐殺をしたのは彼の父、ヘロデ大王です。ヘロデ・アンティパスの息子ヘロデ・アグリッパは使徒の働き12章でキリスト教会に迫害を加える人となる。罪にまみれた家族と言ってもいいわけです。親子三代にわたって聖書に登場しながら、このヘロデ一族がしたのは「神のことばを抹殺しようとした」と言っていいと思います。

 バプテスマのヨハネはヘロデに悔い改めを語りました。というのは、ヘロデは自分の兄弟であるピリポの妻をとりあげて、自分の妻としていたのです。姦淫の罪を公然と行い、自分の権力で周りの声を押し殺して来たのです。けれども、バプテスマのヨハネは恐れることなく、誤りは神の前に認められないのだと悔い改めを求めたのです。ヨハネはヘロデの権力を恐れませんでした。そして、自分の語るべきことをしっかりと語ったのです。

 今日の箇所の前のところでは、主イエスが弟子たちを遣わしたということが書かれていました。主イエスの弟子たちが語るのも悔い改めです。神の思いに逆らって、自分を正当化して生きることは間違っているのだということを語るよう、主イエスに遣わされたのです。そして、ここでは、まさに主イエスの弟子たちからしてみれば先輩であるヨハネは、そのために殺されることになったということが書かれているわけです。そして、今日のところでは、そのようにして主イエスが働き始めた時に、主イエスの働きはまるでバプテスマのヨハネのようであるという噂がたったということが記されているのです。 (続きを読む…)

2018 年 2 月 25 日

・説教 マルコの福音書6章6節-13節「主に遣わされて」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:51

2018.02.25

鴨下 直樹

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 今、私たちは「レント」と呼ばれている、主イエスの十字架の苦しみを受けられた期間を覚える季節を迎えています。主イエスはどのような苦しみを受けられたのか、そこのことを覚えようというわけです。けれども、私たちが主イエスの受けられた苦しみを理解しようと思っても、それは簡単なことではありません。不当な裁判を受けたり、鞭で打たれたり、十字架刑にされるということは、話では理解できたとしても、どこかで自分とは関係のない出来事だと考えてしまいます。私たちはあまり、そのような極端な試練を経験するということはないのです。けれども、聖書を読む時に、主イエスがその歩みの中で受けられた困難というのがどういうものであったのかを知ることはできます。

 今日、私たちに与えられている箇所は十二弟子の派遣と言われるところです。主イエスは御自分の弟子たちを二人ずつ組みにして、伝道に遣わされました。その際、弟子たちを送り出す時に心がけることは何かということが記されています。

 まず、7節から分かることは「ふたりずつ」ということと、「権威をお与えになった」ということです。二人ずつというのは、一人で行くなということです。一人で出かけて行って挫けてしまうと、もうそれで働くことができなくなってしまいますから、支えてくれる人が必要なのだというわけです。そして、「権威をお与えになった」とあります。どんな権威かというと、「汚れた霊を追い出す権威」と書かれています。私たちは、汚れた霊などという言葉を聞くと、どんなことかといろいろ考えてしまいます。昔の人は悪霊につかれた人が今よりも沢山いたのだろうかという考えも浮かんでくるかもしれません。

 けれども、以前、汚れた霊に支配されていたレギオンの時にも話しましたが、レギオンのような極端な場合もありますが、神の霊に支配されていない人、つまり罪人は誰もがこの汚れた霊の支配のもとに生きているわけです。クリスチャンになっても、私たちがこの罪と決別するということは簡単なことではありません。主イエスは、ご自分の遣わされた弟子たちに、人をこの罪から、汚れた霊から、自由にするための権威を与えて遣わされたということなのです。主イエスの弟子は、人を罪から解放するためにキリストの権威を与えられて遣わされるのです。というのは、主イエスの弟子であったとしても、罪と無関係ではありません。その罪人が、人の罪のことをとやかく言えるのかということになると、もう何もできません。けれども、そのような力のない、弱さを持っている弟子たちに、主イエスは御自分の権威を与えられて、私の権威によって語りなさい、人と向かい合いなさい、と言われたのです。

 宗教改革者ルターが説教をする前にした祈りというのがあります。その祈りは、まず、自分の罪を赦してください。自分の罪が妨げとなって神に近づくことができなくならないようにと祈りました。自分も罪を犯す弱さがある。そういうものが人に悔い改めを勧めるのだとすると、まず、そのまえに自分の罪を、自分の汚れを清くしていただかなくてはならないと考えてそのように祈ったのです。悔い改めていない者が、悔い改めについて語ることはできないので、祈ったのです。ルターは説教を語る前に常にそのように祈ったのです。このルターの祈りは、それ以来すべてのみ言葉を語る者の祈りとなりました。

 私自身、まだ神学生として学んでいた時のことです。イギリスの大説教者と呼ばれているロイドジョンズの本を読んだ時に、そこにこんな言葉が書かれていました。「望むと望まないとに関わらず、いつでも私たちの生活ぶりが、まず最初の説教者の発言者となる。私たちの唇が私たちの生活以上のことを語っても、それは無益である」。 (続きを読む…)

2018 年 2 月 11 日

・説教 マルコの福音書6章1-6節「心の痛みに寄り添って」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:33

2018.02.11

鴨下 直樹

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 マルコの福音書を順に読み進めております。このマルコの福音書は主イエスがガリラヤ湖のほとりのナザレの出身であるということを第一章のはじめに記して、ここまでの間、ガリラヤ湖からはあまり遠く離れたところには行かないで、この近隣を巡りながら伝道を続けているように記してきました。

 今日のところは、「イエスはそこを去って、郷里に行かれた」と記しています。広い意味で言えば、ここまでの間、主イエス一行はずっと郷里であるガリラヤ湖のあちら側、こちら側という具合で進んできましたから、ここで「郷里に行かれた」とわざわざ説明しているのも少し違和感を覚えるほどです。けれども、今日のところは、郷里周辺ということではなくて、まさしく、ご自分の郷里に行かれたということです。自分の郷里に行くというのは、どんな気持ちだったのだろうかと思います。

 皆さんの中には、もう何年も郷里を離れて岐阜に住んでおられるという方が何人もあると思います。そういう場合、久々に故郷に里帰りするということになると、色々な懐かしさや、あるいは苦い思い出を抱えながら郷里に赴くということになるのだと思います。主イエスの場合、伝道しておられた期間は全部で3年程度と考えられています。しかも、まだこの6章の時点で考えてみますと、郷里を離れてからもう何年もたっていたとは考えにくく、長くても1年とか、数カ月、そのような期間だったと思うのです。

 ただ、今と違って、この時代というのは少し違った地方に移るということでも、すでに大変なことだったわけです。今、NHKの大河ドラマで西郷隆盛をやっています。今からわずか数百年前の時代であっても、隣の藩にまで行くというだけで、脱藩ということになって大きな問題となるわけです。今の感覚からすると、何百年か違うだけでも理解を超えているわけです。ですから、主イエスの時代、今から二千年も前の時代に、自分の住んでいるところを離れて、わずか数カ月であったとしても、さまざまな場所に出かけて行って、数カ月ぶりに戻って来るということも、大変なことであったに違いないのです。しかも、主イエスの働きはあっという間に有名になって、一度は悪い噂まで立てられて家族が迎えに来たという出来事も3章の20節以下で記されていますから、そういう主イエスが何カ月ぶりかに郷里に足を向けるということは、きっと秘めたる思いがあったと考えて間違いないのです。

 その秘めたる思いとは何かというと、郷里の人にも神の国の福音を伝えたいという思いです。それは、郷里の人々への愛と言ってもいいものです。問題は、主イエスの心のうちにはそのような郷里の人々に対する思い、愛があるのにも関わらず、それが伝わらないというもどかしさです。 (続きを読む…)

2018 年 2 月 4 日

・説教 マルコの福音書5章21-43節「新しく生きる」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:21

2018.02.04

鴨下 直樹

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 いつの時代もそうですが、親というのは自分の子どもが病気にかかると必死でなんとかしたいと思うものです。今日の聖書を読むと、それは時代を超えてそうだのだという思いをいだきます。子どものつらそうな姿を見ると何とかしてやりたいと思うのです。

 先週から、娘の通っている幼稚園でインフルエンザが流行っているという知らせを聞いていました。幸い、木曜までは元気だったのですが、この日の夕方から微熱が出始めました。翌日には高い熱が出たのですが、その日幼稚園の子どもたちも同時にお休みした子どもたちがいたようで、Y君も、Tちゃんもインフルエンザなのだそうです。私もあまり他の方と接触しないほうがいいということですから、できるだけおとなしくしていたいとは思っております。昨日もこの説教の準備をしている時に、妻から子どもの熱が40度になったと知らせを聞いて、手をとめて祈りました。何とか子どもを癒してやって欲しいと願うのです。そこには、立派な信仰などというものはありません。ただただ、切実な親の思いがあるだけです。

 こういう病の癒しという聖書の物語を読む時に、おそらく誰もが頭の片隅によぎる思いがあると思います。それは、どうしたらこの願いは聞き届けられるのかということです。真剣に祈ったらいいのか、長い時間かけたらよいのか。疑いを持たないで祈ったらよいのでしょうか。昔から、お百度参りという祈りの習慣があります。百回、宮参りをして祈る。百回、冷たい明け方に水浴びをしながら祈る。そういう熱心さが、熱意が届くのだと考えてきたのです。それは、キリスト教であろうが、他の宗教であろうが、共通する思い。つまり、何とか祈りを聞いてほしいという思いがそのような形になってあらわれるというのです。

 けれども、同時に私たちは祈っても聞かれないということを経験することがあります。聖書に出て来る使徒パウロであっても、自分の病のために祈りましたが、その祈りはかなえられませんでした。私たちは、自分の祈りはかなえられると信じたい、という思いがあります。それは誰だってそうでしょう。こうやって祈ったらうまくいくというようなコツがあるのであれば、誰だって知りたいと願うのです。

 今日の聖書は、二つの癒しの物語です。そして、単純に読んだ印象ということで言えば、主イエスに信頼するものは癒されるということになると思います。けれども、ことはそんな単純なことではありません。今日の聖書は何を語っているのか、注意深く見ていきたいと思います。 (続きを読む…)

2018 年 1 月 28 日

・説教 マルコの福音書5章1-20節「心の底から変えられて」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 15:58

2018.01.28

鴨下 直樹

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 今日は少し長い聖書の箇所です。特にこの箇所には、「汚れた霊につかれた人」が出て来ます。しかも、その人は墓場に住んでいるというのです。墓場というのは、今日でいう霊園のような墓石が並んでいるところを想像しますが、そうではありません。横穴の洞窟です。そういう穴蔵に当時の人々は亡骸を収めて墓としていたのです。この人はそういうところを住処としていたというのです。ちょっと普通ではないなという気がします。

 ここに記されている「汚れた霊につかれる」あるいは、「悪霊につかれる」などいう言葉を耳にすると、ちょっとおどろおどろしいものを想像してしまいます。けれども、この「汚れた霊につかれる」というのはどういう状態にある人なのでしょうか。何か特別な精神的な状態に置かれているということなのでしょうか。

 実は、この箇所には幾つかの、日本の牧師のした説教があります。それを読みながら、全く対照的な考察をしているものを見つけました。一人の牧師は、この人は社会から締め出されてしまって墓場に追いやられてしまったというように、この人のことを理解しようとします。社会が、周りの人々が、この人を墓場まで追い込んだのではないかと考えるのです。

 また、もう一人の説教者は正反対のことを考えます。この人は仕事に失敗し、住む家を失った。けれども、プライドだけはあったので、惨めな自分の姿を人前にさらすことのないように墓場に住み着いたのだろうと考えるのです。いずれにしてもこういうことは、墓場に行くことはなくても、私たちにも理解できる部分があるのではないかと思います。私たちでも、もう人に疲れて誰も知らない世界に抜け出したいというような望みを持つことがあるのです。現実逃避などと言われるけれども、そうしなければやっていられないような気持ちになることがある。そこまではいかなくても、追い詰められるとどこかで気楽に息抜きをしたいという思いに至ることは、誰にだってあるのだと思うのです。この聖書の時代というのは車のない時代です。他の民族のところに出かけると命が危ない。そういう中で、誰も普段は来ることのない墓場で生活するというようなことは、この時代に生きた人の選択肢となりえたのではないかということは、想像するに難しいことではない気がするのです。

 この二つの説教が語るように、周りの人がこの人を追い込んだということも考えられるでしょう。あるいは、自分が人を避けて墓場に住むことを選んだ。どちらもありそうなことです。けれども、回りの人の眼差しが優しくなったら、社会が変わったら、こういうことはなくなるのでしょうか。あるいは、自分がプライドさえ捨てればそれで問題は解決するのでしょうか。事柄はそんなに簡単ではないと思うのです。というのは、私たちが生きている世界というのは、悪の支配、悪い支配と言った方がイメージしやすいかもしれません。そういうものがいたるところにあるのです。この聖書に出て来る「汚れた霊につかれた人」というのは、何か特別な問題を抱えている人というよりも、「悪の支配」、悪い習慣、悪い人の支配、そういったもののもとで生きる人の姿と言ってもいいわけです。つまり、神に支配されないで生きる生活というのは、いつも、この汚れた霊に支配される生活と結びついているのです。

 1節にこう記されています。

こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。

湖の向こうのゲラサ人の地というのは、「他民族の土地」ということです。「異教の神の地」、つまり、イスラエルの神の支配の外にある世界ということです。 (続きを読む…)

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