「マタイの福音書」タグアーカイブ

・説教 マタイの福音書9章9-13節 「罪人を招かれる主イエス」

2011.1.30

 

鴨下直樹

 

「わたしについて来なさい」という主イエスの招きの言葉がここに記されています。主イエスについていくということは、主イエスの姿を見上げ続けるということです。そして、ここに、私たちキリスト者のあり方が語られているということができます。キリスト者とは何か、どのような者であるかと問われたら、私たちは、キリストの後に従う者ということができるのです。

さて、興味深いのはここで主イエスに招かれているのは「収税所に座っているマタイという人」と記されています。もちろん、この福音書を記したマタイのことです。自分で記した主イエスの物語の中に、自分自身のことを書くというのは考えてみると興味深いことです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書9章9-13節 「罪人を招かれる主イエス」

・説教 「罪を癒される主イエス」 マタイの福音書9章1-8節

鴨下直樹

今日、私たちに与えられている聖書のテーマは罪の赦しです。もう、キリスト教会では手垢のついた教理だと言ってもいいほどに、教会に通うようになりますと語られるテーマです。今、手垢のついた、と少し極端な言い方をしましたけれども、大げさだとは言い切れないほどキリスト教会の看板となっていると言っていい言葉だと思うのです。
先週私たちの教会は、宣教を開始してから三十周年を迎える祝いの礼拝を行いました。その間、私で八人目の牧師になるということでしたから、これまで、さまざまな宣教師や牧師から罪の赦しの語りかけを聞いてきたということになります。けれども、同時に今朝、ここで私がみなさんに問いたいことは、罪の赦しが本当に分かっていると言えるかという問いです。私たちは、なかなか罪が赦されるということについても、あるいは人の罪を赦すということについても、いつもさまざまな葛藤があります。悔い改めるということにしても簡単なことではありません。それは、別の言い方からすれば、やはり罪の赦しということがよく分かっていないからなのではないかと思うのです。けれども、私たちにとって罪の赦しがよく分かる時に、私たちは本当にこの地で自由に生きることができるし、また、私たちの伝道も、この罪の赦しがよく分かるところからしか進んでいかないのです。

今日、私たちに与えられている聖書の物語は、「中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んできた」と記されています。この出来事はマルコの福音書にもルカの福音書にも同じように記されていますけれども、他の福音書と読み比べてみますと、マタイの福音書とはかなり異なった印象を持つと思います。他の福音書ではこの病の人を四人の友達が主イエスのみもとまで運んで来るのですが、場所がないために屋根をはがし、つり下ろしたと記されています。私たちはこのように、人の家の屋根をはがして病人をつり下ろすというような出来事は、印象的な出来事ですから良く覚えていると思います。けれども、マタイはそのような出来事は書かないで、むしろ、他のことを良く覚えていたようです。 続きを読む ・説教 「罪を癒される主イエス」 マタイの福音書9章1-8節

・説教 マタイの福音書 「楽譜から読み解く聖書」

赤塚尚武 執事

2011.1.9

 

マタイによる福音書 第5章4節

 

 

 悲しむ者は幸いです。 その人は慰められるからです。 (新改訳版)

 

 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。 新共同訳

 

 Selig sind,  die da Leid tragen,  denn sie sollen getroest werden.

ルター版

 

     Gluecklich zu preisen sind sie,  die trauen; denn sie werden getroestet

     werden.

ジュネーブ版聖書最新版

 

 

 私たちは文字を通して聖書を読み、祈ったり、喜んだり、希望をもったりしています。

 画家たちは聖書の僅かの短い御言葉から、素晴らしい作品を世に残しています。

 では、音楽の世界はどう聖書を表現しているでしょうか? 

 本日は作曲家たちが、聖書をどのように楽譜に表現したのかについて具体的に見てみたいと思います。 続きを読む ・説教 マタイの福音書 「楽譜から読み解く聖書」

・説教 「宿もない者となられた主イエス」 マタイの福音書8章18-22節

鴨下直樹

2010.12.26 クリスマス礼拝

 

 

 今朝は十二月の二十六日です。二十六日というと、私たちの周りではクリスマスの騒ぎは終わりまして、すぐさまお正月の準備に移ります。お店なども、大変あわただしく模様替えをしなければなりません。ところが、この芥見教会ではこの日曜日にクリスマス礼拝をしています。一般的な感覚からすれば、まだそんなことをしているのかというような思いを持たれる方も少なくないと思います。

 教会の暦では今日は降誕祭次日と言います。ヨーロッパなどのいわゆるキリスト教国と呼ばれている国ではこの日までが休みです。今日もまたクリスマスの祝いをする日なのです。いや、今日だけではありません。教会の暦では一月の六日をエピファニーといいまして、やはりこの日も休日になったりいたしますけれども、東の国の博士たちが主イエスを礼拝した祝いの日としています。この日までをクリスマスの祝い期間とするのです。

  続きを読む ・説教 「宿もない者となられた主イエス」 マタイの福音書8章18-22節

・説教 「病をいやされる主イエス」 マタイの福音書8章14-17節

鴨下直樹 

2010.12.19

 

 

さきほど、洗礼入会式を行いました。洗礼を受けた、Mさんは子どものころから教会に通っています。親がキリスト者であるということは、子どもにとって、子どもが考えている以上に大きな祝福があります。今日は洗礼入会式のある礼拝ということもあって、子どもたちも一緒に礼拝しておりますけれども、子どもたちにもぜひ覚えてほしいのは、自分もMさんと同じように、親と同じ信仰に生きるということがどれほど幸いなことかということを積極的に考えてほしいと思うのです。

さきほどもMさんの証しを聞きました。Mさんは高校を卒業するころになって病になりました。そのために決まっていた大学も諦めなければならなかったというのは、とてもつらいことです。けれども、そのことがきっかけとなって、聖書の学びをするようになりました。聖書にはたくさんの癒しの出来事が書かれているからです。自分も癒されたいと願ったのです。 続きを読む ・説教 「病をいやされる主イエス」 マタイの福音書8章14-17節

・説教 「われらを救われる主イエス」 マタイの福音書8章1-13節

鴨下直樹

 

 2010.12.12

 

 主イエスのお語りになった山上の説教が終り、主イエスは山を降りられました。山を降りられて、人々の生活の中に入って行かれたのです。そして、そこで、さまざまな困難な状況にある人々と主イエスはお会いになられました。山の下で、多くの人びとは主イエスが自分たちの生活の場所に足を踏み入れてくださるのを心待ちにしていたのです。

このマタイの福音書の八章に記されているのは、奇跡の物語です。もっと言えば癒しの出来事が記されています。人びとはさまざまな病、さまざまな悩みを抱えていました。そして、そのように人々のあらゆる患いの主イエスは入って行かれ、そこで、人びとは主イエスと出会ったのです。 続きを読む ・説教 「われらを救われる主イエス」 マタイの福音書8章1-13節

・説教 「人生の土台を築くもの」 マタイの福音書7章24-29節

 鴨下直樹

2010.12.5

 

 

山上の説教から御言葉を聴き続けてすでに半年以上たちます。今日の箇所は、この山上の説教の最後、結びの部分と言われるところです。「主イエスがこれらの言葉を語り終えられると」とありますから、ああ、これで説教が終わったのだということが分かります。実は、私自身、この山上の説教の最後のところを迎えながら、もう一度説教をやり直すことができたという思いがしています。ここで主イエスが語られたことを十分に語ることができたかという思いがあるのです。

 

 

主イエスはここで本当の生き方、神が喜ばれる生き方とは何かを語られました。どう生きることを、神が求めておられるのかを教えてくださったのです。けれどもそれは、聞く者にとって、決して簡単なことではありません。私たちの周りに生きている人々と、全く性質の異なる生き方をするようにと、主イエスはここで語っておられるのですから、それは当たり前のことが語られているのではないのです。 続きを読む ・説教 「人生の土台を築くもの」 マタイの福音書7章24-29節

・「わたしはあなたを知っている」 マタイの福音書7章15-23

鴨下直樹

2010.11.28

いよいよ今週からアドヴェントに入りました。主イエスの誕生を待ち望む四週間の季節を私たちはさまざまな気持ちで迎えます。お気づきのように、教会の中も、マレーネ先生をはじめ、何人かの方々が綺麗に飾り付けをしてくださいました。アドヴェントクランツの蝋燭にも火が灯りました。四つの蝋燭すべてに火を灯すと、クリスマスが来るのです。

主イエスがお生まれになるということは、私たちにとって大きな喜びなのです。しかし、すでに二千年も前にお生まれになったお方を、毎年、毎年、主がお生まれになると言って楽しみにしながら心待ちにするのは、一体なぜなのでしょうか。 続きを読む ・「わたしはあなたを知っている」 マタイの福音書7章15-23

・説教 「狭い門から入る道」 マタイの福音書7章13-14節

鴨下直樹

2010.11.21

この朝、私は久しぶりにこの芥見教会の講壇に立つことになりました。実に一か月ぶりのことです。その間、舛田執事をはじめ、メッツガー先生、マレーネ先生が説教をしてくださいました。そういうこともあって、私はいつもよりも長い間、今朝、私たちに与えられている言葉と向かい合い続けてきたといえます。そして、今朝は召天者記念礼拝の時でもあります。また、教会の暦で数えますと終末主日と言いまして、一年の最後の週となります。

私は、先ほど「私たちに与えられている言葉」という言い方をしましたけれども、まさに、この言葉はこの日のために、神から与えられた言葉だと思いながら、この御言葉に耳を傾け続けてきました。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」

これが、今朝、私たちに与えられている言葉です。 続きを読む ・説教 「狭い門から入る道」 マタイの福音書7章13-14節

・説教 「神のゴールデンルール」 マタイの福音書7章7-12節

鴨下直樹

「求めなさい。そうすれば与えられます。」とあります。大変有名な言葉です。文語訳聖書の「求めよ、さらば与えられん。」という言葉の方が良く知られていますが、この言葉は、もはや聖書の言葉であるということを知らない人までいるほどに、様々なところで使われるようになりました。普通の会話でも使われるでしょうし、テレビのコマーシャルなどでも使われます。
一般にこの言葉が使われるのは、考えてみれば、「努力すれば何でも手に入れられる」というような意味で理解されることが多いのではないかと思います。そう聞くと、この主イエスの言葉がそのような意味の言葉ではないということは簡単に想像できると思います。けれども、それとそれほど違わない意味で教会でもしばしば用いられます。何事も神に熱心に祈れば、神はかならずその祈りに応えてくださるという意味に理解するということがあるからです。
たとえば、信仰の雑誌の中に、さまざまな信仰の証しが出てきます。そういうものを読んでいてもそうですし、あるいは、キリスト者の救いの証しというのを聞くときにもそのように語られることが多いのではないかと思うのです。聖書に、「求めなさい、そうすれば与えられる」と記されているので、信じて病気が治るように祈ったとか、自分の悩みの解決を求めて祈った。すると、神がその祈りに応えてくださったと本当に喜びながら、主の御業を喜んで証しするということがあります。それは、本当に幸いな経験だと思います。
けれども、同時に、同じ病におかれている人が、同じように信じて祈っても病が治らないということだって起こります。すると、どうしても考えざるを得ないのは、ある祈りは聞かれて、ある祈りは聞かれないという事実です。祈りが聞かれる場合は、主は御言葉のとおりにしてくださったと感謝することができるかもしれませんけれども、そうでない場合は、その原因がどこにあるのかということが気になります。そして、自分の祈りが不信仰だったからではないかとか、祈り方が十分ではなかったという結論になるとすれば、それは本当に残念なことです。まして、自分は神から愛されていないから自分の祈りは聞かれなかったのだと考えなければならない悲しみはどれほどのことだろうかと思うのです。

果たして、ここで主イエスは何でも祈ればそれは手に入れられるというような意味でこのことを語っておられるのでしょうか。 続きを読む ・説教 「神のゴールデンルール」 マタイの福音書7章7-12節