2010 年 12 月 19 日

・説教 「病をいやされる主イエス」 マタイの福音書8章14-17節

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 16:39

鴨下直樹 

2010.12.19

 

 

さきほど、洗礼入会式を行いました。洗礼を受けた、Mさんは子どものころから教会に通っています。親がキリスト者であるということは、子どもにとって、子どもが考えている以上に大きな祝福があります。今日は洗礼入会式のある礼拝ということもあって、子どもたちも一緒に礼拝しておりますけれども、子どもたちにもぜひ覚えてほしいのは、自分もMさんと同じように、親と同じ信仰に生きるということがどれほど幸いなことかということを積極的に考えてほしいと思うのです。

さきほどもMさんの証しを聞きました。Mさんは高校を卒業するころになって病になりました。そのために決まっていた大学も諦めなければならなかったというのは、とてもつらいことです。けれども、そのことがきっかけとなって、聖書の学びをするようになりました。聖書にはたくさんの癒しの出来事が書かれているからです。自分も癒されたいと願ったのです。 (続きを読む…)

2010 年 12 月 12 日

・説教 「われらを救われる主イエス」 マタイの福音書8章1-13節

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 14:53

鴨下直樹

 

 2010.12.12

 

 主イエスのお語りになった山上の説教が終り、主イエスは山を降りられました。山を降りられて、人々の生活の中に入って行かれたのです。そして、そこで、さまざまな困難な状況にある人々と主イエスはお会いになられました。山の下で、多くの人びとは主イエスが自分たちの生活の場所に足を踏み入れてくださるのを心待ちにしていたのです。

このマタイの福音書の八章に記されているのは、奇跡の物語です。もっと言えば癒しの出来事が記されています。人びとはさまざまな病、さまざまな悩みを抱えていました。そして、そのように人々のあらゆる患いの主イエスは入って行かれ、そこで、人びとは主イエスと出会ったのです。 (続きを読む…)

2010 年 12 月 5 日

・説教 「人生の土台を築くもの」 マタイの福音書7章24-29節

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 16:24

 鴨下直樹

2010.12.5

 

 

山上の説教から御言葉を聴き続けてすでに半年以上たちます。今日の箇所は、この山上の説教の最後、結びの部分と言われるところです。「主イエスがこれらの言葉を語り終えられると」とありますから、ああ、これで説教が終わったのだということが分かります。実は、私自身、この山上の説教の最後のところを迎えながら、もう一度説教をやり直すことができたという思いがしています。ここで主イエスが語られたことを十分に語ることができたかという思いがあるのです。

 

 

主イエスはここで本当の生き方、神が喜ばれる生き方とは何かを語られました。どう生きることを、神が求めておられるのかを教えてくださったのです。けれどもそれは、聞く者にとって、決して簡単なことではありません。私たちの周りに生きている人々と、全く性質の異なる生き方をするようにと、主イエスはここで語っておられるのですから、それは当たり前のことが語られているのではないのです。 (続きを読む…)

2010 年 11 月 28 日

・「わたしはあなたを知っている」 マタイの福音書7章15-23

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 09:00

鴨下直樹

2010.11.28

いよいよ今週からアドヴェントに入りました。主イエスの誕生を待ち望む四週間の季節を私たちはさまざまな気持ちで迎えます。お気づきのように、教会の中も、マレーネ先生をはじめ、何人かの方々が綺麗に飾り付けをしてくださいました。アドヴェントクランツの蝋燭にも火が灯りました。四つの蝋燭すべてに火を灯すと、クリスマスが来るのです。

主イエスがお生まれになるということは、私たちにとって大きな喜びなのです。しかし、すでに二千年も前にお生まれになったお方を、毎年、毎年、主がお生まれになると言って楽しみにしながら心待ちにするのは、一体なぜなのでしょうか。 (続きを読む…)

2010 年 11 月 21 日

・説教 「狭い門から入る道」 マタイの福音書7章13-14節

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 15:20

鴨下直樹

2010.11.21

この朝、私は久しぶりにこの芥見教会の講壇に立つことになりました。実に一か月ぶりのことです。その間、舛田執事をはじめ、メッツガー先生、マレーネ先生が説教をしてくださいました。そういうこともあって、私はいつもよりも長い間、今朝、私たちに与えられている言葉と向かい合い続けてきたといえます。そして、今朝は召天者記念礼拝の時でもあります。また、教会の暦で数えますと終末主日と言いまして、一年の最後の週となります。

私は、先ほど「私たちに与えられている言葉」という言い方をしましたけれども、まさに、この言葉はこの日のために、神から与えられた言葉だと思いながら、この御言葉に耳を傾け続けてきました。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」

これが、今朝、私たちに与えられている言葉です。 (続きを読む…)

2010 年 10 月 24 日

・説教 「神のゴールデンルール」 マタイの福音書7章7-12節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:22

鴨下直樹

「求めなさい。そうすれば与えられます。」とあります。大変有名な言葉です。文語訳聖書の「求めよ、さらば与えられん。」という言葉の方が良く知られていますが、この言葉は、もはや聖書の言葉であるということを知らない人までいるほどに、様々なところで使われるようになりました。普通の会話でも使われるでしょうし、テレビのコマーシャルなどでも使われます。
一般にこの言葉が使われるのは、考えてみれば、「努力すれば何でも手に入れられる」というような意味で理解されることが多いのではないかと思います。そう聞くと、この主イエスの言葉がそのような意味の言葉ではないということは簡単に想像できると思います。けれども、それとそれほど違わない意味で教会でもしばしば用いられます。何事も神に熱心に祈れば、神はかならずその祈りに応えてくださるという意味に理解するということがあるからです。
たとえば、信仰の雑誌の中に、さまざまな信仰の証しが出てきます。そういうものを読んでいてもそうですし、あるいは、キリスト者の救いの証しというのを聞くときにもそのように語られることが多いのではないかと思うのです。聖書に、「求めなさい、そうすれば与えられる」と記されているので、信じて病気が治るように祈ったとか、自分の悩みの解決を求めて祈った。すると、神がその祈りに応えてくださったと本当に喜びながら、主の御業を喜んで証しするということがあります。それは、本当に幸いな経験だと思います。
けれども、同時に、同じ病におかれている人が、同じように信じて祈っても病が治らないということだって起こります。すると、どうしても考えざるを得ないのは、ある祈りは聞かれて、ある祈りは聞かれないという事実です。祈りが聞かれる場合は、主は御言葉のとおりにしてくださったと感謝することができるかもしれませんけれども、そうでない場合は、その原因がどこにあるのかということが気になります。そして、自分の祈りが不信仰だったからではないかとか、祈り方が十分ではなかったという結論になるとすれば、それは本当に残念なことです。まして、自分は神から愛されていないから自分の祈りは聞かれなかったのだと考えなければならない悲しみはどれほどのことだろうかと思うのです。

果たして、ここで主イエスは何でも祈ればそれは手に入れられるというような意味でこのことを語っておられるのでしょうか。 (続きを読む…)

2010 年 10 月 17 日

・説教 「恐れる心と向き合って」 マタイの福音書7章1-6節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 08:59

鴨下直樹

今日、私たちに与えられている聖書の言葉が「さばいてはいけません」という言葉からはじまっています。唐突にこの言葉が出てきたかのような印象さえ持ちます。この前に何が語られていたかというと、そこでは「明日のための心配は無用」だと言われているのです。先ほどまでは、実に憐れみ深い方として優しく語りかけていてくださったかと思えば、今度は、その顔がすぐに鬼のように変わったかのように「裁くな!」と言われるのです。裁くというのはどういうことでしょうか。 (続きを読む…)

2010 年 10 月 10 日

・説教 「空の鳥、野の花を見よ」 マタイの福音書6章25-34節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 08:29

鴨下直樹

今、ずっと「山上の説教」から御言葉を聴き続けておりますけれども、この山上の説教にはとても有名な言葉がいくつも語られています。最初の「悲しむ者は幸いです。」という幸いを告げる言葉や、主の祈りもそうですけれども、そのほかにも実に様々な言葉が知られています。今日、私たちに与えられている「空の鳥を見なさい、野のゆりを見なさい」という言葉もよく知られた御言葉ですし、あるいは、そのあとに記されている「神の国と、その義をまず第一に求めなさい」という言葉もよく知られている言葉です。どうして、こういう言葉が良く知られるようになるのだろうかと考えてみますと、やはりそれは、多くの人の心をひきつける言葉が、そこに語られているからなのだろうと思います。そして、特に、今日私たちに与えられている言葉が良く知られるようになったのは、やはり、ここで語られている主イエスの言葉に多くの人が慰めを得たからだろうと思います。

今日の私たちに与えられている聖書の中には「心配」という言葉が六回も出てきます。新共同訳聖書では「思いわずらう」と訳されている言葉です。私たちの生活を振り返ってみますと、私たちの生活にはさまざまな「心配事」や「思いわずらい」があると言っていいと思います。そういう私たちの「心配」の中で起こる様々な心配や、思いわずらいを、聖書はどう語っているのかというのは、やはりキリスト者だけでなくても知りたいと思うところなのだろうと思います。 (続きを読む…)

2010 年 10 月 3 日

・説教 「あなたの宝のあるところ」 マタイの福音書6章19-24節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:46

鴨下直樹

今日の説教の題は「あなたの宝のあるところ」という題をつけました。私はいつも、自分のつけた説教の題が、下手な題のつけ方だなと少し心苦しい思いを持っています。ひと月前に、説教の箇所と題をすでに記いて、みなさんに今月の予定と共にお渡しするために、いつも説教代は暫定的につけます。まだ説教ができているわけではないのでやむを得ないということもありますし、後で変えればいいと思うのですけれど、それでもうまい言葉が見つかりません。けれども、今日のところについて言いますと、言いたいことはだいたい伝わるかなとも思っています。
今日のタイトルにあるように、ここの聖書の箇所の主題は明らかに宝です。後半のところでは富と言い換えられていますけれども、私たちの宝とは何か、私たちの心はどこに向かっているかということを、主イエスは問うておられるのです。しかし、宝などという言い方をしますと、すぐに連想されるものは「宝箱」です。古めかしい箱に入って、人目に触れないようにして隠してあるもののことをまず考えます。

私の子供のころの話で恐縮ですけれども、母親に「うちには宝箱はないのか」と尋ねたことがあります。そうすると母は少し考えてから、「ある」と言って、押入れの中から小さな箱を取り出してきました。 (続きを読む…)

2010 年 9 月 26 日

・説教 「断食の心」 マタイの福音書6章16-18節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:10

鴨下直樹

この山上の説教の第6章というのは、主の祈りを中心にして記されています。けれども、この祈りの前後に人前で見せる善行について、善い行いについて、主イエスはいくつかの注意を呼びかけています。もうずっと主の祈りを長い間かけて学び続けていましたので、この祈りの前後に何が書かれているかということを忘れてしまいそうですけれども、施しと、祈り、そして断食という当時の信仰者が大切にしていた信仰の姿を取り上げながら、主イエスはここで真の信仰の姿とは何かということを丁寧に語っておられるのです。

それで、今日語られているのが、この「断食」というところになります。「断食」というのは、今日の教会でそれほど熱心に勧められるということはあまりないように思います。信仰者の姿というよりは、むしろ健康に気をつけている人が食べ過ぎた時は断食がいいとか、体をリセットするために三日ほどの断食をするといいなどという言葉を耳にするほどです。しかし、そうだからといって、キリスト者が断食を全くしないということでもないようです。私の友人も、自分の進路をもう一度考えたいという時に、断食をして祈ったなどと言っておりましたし、牧師をしております私の父も、大事な決断をしようとする時には、断食の祈りをしておりました。私たちはこういう話を聞きますと、「そうか、断食というのは何やら大事なことを決断する時にするものなのか」という思いを描く方もあるかもしれません。断食というのはそもそもどういうものなのかということについて考えてみる必要があります。 (続きを読む…)

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