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・説教 主の祈り「日毎の糧を」 マタイの福音書6章11節

鴨下直樹

この「日毎の糧を与えたまえ」という祈りは、私たちにとっておそらく最も身近に感じる祈りだと思います。この祈りはこの時代に生きる私たちにとってますます身に迫る祈りとなっているといえるかもしれません。この主の祈りについては、さまざまな時代に語られてきました。特に、私たちの国においても、いわゆるバブルと言われた時代、経済的な心配をそれほどしなくてもよい頃の説教というのは、多くが、私たちはこの祈りをしなくても食べるものには困らないけれど、それでもこの祈りを祈るのは何故か、という問いを持って語られることが多かったのです。ところが、このところの先行きの見えない経済、増え続ける税金などによって、もう一度この祈りが切実な響きを持つようになってきたと言えます。
このように、この日毎の糧を求める祈りというのは、必要が満たされるようにという祈りとして単純に理解すれば、私たちの生活の中心に置かれた祈りであると言えます。そして、この祈りが主の祈りの中の中心に位置しているのも偶然ではないだろうと思います。
礼拝の中で主の祈りを祈りながら、ここでようやくほっとすることができるということもあるのではないでしょうか。ここからが、私たちの日常の祈りであると感じるのです。確かに、この主の祈りは二つに分けることができると言われています。前半は神を讃える祈り、神についての祈りです。そして、ここから始まる後半部分が、私たちの祈り、私たちの生活に関する祈りであると理解することができるのです。 続きを読む ・説教 主の祈り「日毎の糧を」 マタイの福音書6章11節

・説教 主の祈り「御心が行われますように」 マタイの福音書6章10節

鴨下直樹

今、私たちは「主の祈り」を学んでいます。主の祈りを通して祈る心を学んでいます。ここに、私たちが日毎に口ずさむべき祈りがあるのです。
祈りを学びたいという人に私はよく紹介する一冊の本があります。P・T・フォーサイスの書いた「祈りの精神」というものです。もう何度も版を重ねておりまして、これを出していた出版社が倒産してしまったために、もう手に取ることができないかと思いましたけれども、先日、また異なった出版社から出されることになったと聞きました。教会の図書にも入っておりますので、是非お読みいただきたいと思う書籍です。
先週から信徒による聖書の学びが始まり、非常に豊かな時間を過ごすことができました。それに先立ちまして、先々週の祈祷会で、この「祈りの精神」という書物の最初の部分を共に読みました。出席された方々は、すでに最初のところを一緒に読んだのですけれども、「最悪の罪は祈らない事です」と言う言葉から始まるのです。神と共に生きる者は、祈りながら、他者のため、他の人のために祈ることになると、最初に語りながら、祈りがどれほど私たちの生活に必要であるかを語ります。この本の第一章は「祈りの本性」というタイトルがつけられています。この前半の中心的な言葉はこういう言葉です。「あらゆる祈りのうち、真の祈りは、『神よ、あなたの御心がなりますように』という祈りである」と言っているのです。祈りというのは、私たちの生活に不可欠なものだけれども、その祈りの中心は、結局のところ「御心がなりますように」という祈りだというわけです。
この祈祷会である方が質問をしました。「自分の祈りは自分の事ばかりを祈っていたのだけれども、そういう祈りは間違っているのか」という質問です。みなさんもそのような問いを持たれるのではないかと思います。 続きを読む ・説教 主の祈り「御心が行われますように」 マタイの福音書6章10節

・説教 主の祈り「御国がきますように」 マタイの福音書6章10節 

鴨下直樹

私たちの芥見キリスト教会ではいつもですと、水曜日と木曜日の祈祷会の時に牧師か宣教師が聖書の学びをしております。私はアブラハムの生涯をしておりますし、マレーネ先生はペテロの生涯の学びをしていてくださいます。ところが、この夏休みの季節になりますと、信徒がこの祈祷会で御言葉を語ります。そこでは、人によって御言葉からの証しをしたり、普段それぞれが御言葉と向かい合っている生活の中で、自分はこのように理解しているのだけれども、他の人はどのように御言葉を受け止めているのかなどというような問題提起をしながら語り合ったりしているようです。さっそく今週から「信徒による楽しい聖書の学びと祈祷会」などという名前が付けられまして、担当者のリストがみなさんの手元に配られていると思います。私はキャンプなどで留守をすることが多く、全てに参加することはできませんけれども、できるだけ多くの集いに参加し、共にみなさんがどんなことを語られるのか今から大変楽しみにしています。いつもの祈祷会の時よりも多くの方々が参加されるようです。それは、私たちにとって大変意味のある時だと思います。誰がどのように御言葉に生きているのかということを直接に聞くことができるからです。そして、その時に、おそらくさまざまな感想が生まれるのだろうと思います。自分の御言葉に対する姿勢と違うというような経験をするからです。もちろん、それはどちらが正しいとか、ということではありません。それぞれの生活の中で聴き取る主の御言葉は、さまざまな聞かれ方をするのです。同じ御言葉を聴いていても、そこで起こる反応や応答は誰もが異なるのです。もっと言えば同じ御言葉を説き明かしていても、牧師の説教がすべて異なっているのと同じです。それは、また牧師の説教が異なるということだけではありません。それぞれの教会の伝統が異なるので、そこでまた強調して説かれることも変わってくるということもあるのです。 続きを読む ・説教 主の祈り「御国がきますように」 マタイの福音書6章10節 

・説教 主の祈り 「父よ、御名があがめられますように」 マタイの福音書6章9節

鴨下直樹

 この朝から私たちは主の祈りを学び始めます。出来るだけ丁寧に主の御言葉を聴きとろうと願っています。私の前任の牧師であった後藤喜良先生は、その二年半の間に祈祷会で二年半かけて主の祈りを学び続けたと聞きました。おそらくそこに参加された方々は驚いたのではないかと思います。私自身もそれを聞いて大変驚いたのですが、主の祈りというのは丁寧に学ぼうとすればそれほどになるということであるかもしれません。

 かつて古代の神学者であった教会教父のテルトゥリアヌスは、主の祈りのことを「福音の要約」と言いました。この祈りの中に、福音が、神からの喜びの知らせがぎっしりとまとめられていると言ったのです。ですから、それを丁寧にひも解いていくとすれば、二年半という月日がかかるのかもしれません。

 そういう意味ではこの9節だけでも、何回かに分けて語るのが良いと思いますけれども、二週間前に説教の予定を変えたこともありまして、今朝はこの9節を一度で学びたいと思います。

 

 「主の祈り」というのは、主イエスが弟子たちに祈りを教えられたものです。この主の祈りはルカの福音書の11章でも主イエスが教えられた祈りとして紹介されています。けれども、ルカのほうはマタイと少し違っているところがあります。 続きを読む ・説教 主の祈り 「父よ、御名があがめられますように」 マタイの福音書6章9節

・説教 「祈りの姿」 マタイの福音書6章5-8節、14-15節

鴨下直樹

 いつも説教の後に、自由祈祷と言いまして、それぞれが自由に御言葉への応答の祈りを捧げます。先日、加藤常昭先生が特別伝道礼拝に来られたときにも、礼拝で自由祈祷をしている教会はちょっと珍しいと言われました。どこの教会でもなされているのではないようです。この自由祈祷というのは、礼拝で主から御言葉を聴きますけれども、それにそれぞれが応えて自由に祈ろうというわけです。説教の後に、みんなの前で大きな声を出して祈るというのは勇気のいることです。また、自分の祈りが説教の応答にならないのではないかと考えて、祈りを躊躇なさる方もあると思います。あるいは、祈りというのは人前で立派な祈りを聴かせることではないはずだから自分は祈らない、と心の中で決めておられる方も中にはあるかもしれません。いずれにしても、人前で祈るというのは難しいことです。おそらく誰もが自由祈祷をする時にいつもいろんな事を考えながら、この祈りと向かい合っておられるのだと思います。

 

 今日、私たちに与えられている聖書は祈りを教える箇所です。そして、特にここでは、人前で祈るということについて主イエス御自身が注意を投げかけておられます。ここで何が語られているかと言いますと、人は祈りの姿において偽善者になると言うのです。そのように主イエスから言われてしまうと余計に人前で祈れないということにもなりかねません。もちろん、主イエスは人前で祈ることを禁じておられるわけではありません。ただ、そのような祈りの中で起こる誘惑に対して注意を投げかけておられるのです。

 

 主イエスはここでこのように語っておられます。 続きを読む ・説教 「祈りの姿」 マタイの福音書6章5-8節、14-15節

・説教 「喜びの中へ」 ルカの福音書15章11-32節

鴨下直樹

 先週の日曜日、私たちは加藤常昭先生をお迎えして伝道礼拝をいたしました。そこでは加藤先生を通して伝道説教を聞きました。キリストを通して救いを受けるという伝道的な言葉を聞きました。それは、本当に私たちにとって幸いな時となりました。本当に多くの方々がこの福音の言葉、伝道の言葉を耳にしたのです。私ごとで恐縮ですけれども、その翌日の月曜から木曜日までの間、名古屋で説教者トレーニングセミナーに参加してまいりました。そこで指導してくださったのも、説教塾という牧師たちの説教のための学びを指導してくださっております加藤常昭先生でした。今回そこで学んだのは伝道説教です。加藤先生の心の中に、日本中の牧師たちがこの伝道の言葉を獲得して欲しいという思いがあるのです。

 私たちは特別伝道礼拝などを計画しますと、先週のように、伝道説教者として成功している牧師などをお招きします。けれども、やはり自分の教会の牧師が伝道説教していくことが何よりも大切なことです。

 先週の日曜日の夜、実は長老をはじめ執事の方々とマレーネ先生、そして私たち夫婦は加藤先生を囲んで食事の時を持ちました。大変楽しい時となりましたけれども、その最後に加藤先生が、「明日から鴨下牧師は説教の学びに参加するから、今度の日曜日の説教を楽しみにするといい。」と役員の方々に言ってしまいました。私としてはプレッシャーをかけられてしまったようなものですけれども、そう言われて引き下がるわけにいきません。それで、いつもマタイの福音書から順に御言葉を聞き続けておりますけれども、今朝は予定を急きょ変更いたしまして、説教セミナーで多くの牧師たちと共に学びました伝道説教の箇所であるこの御言葉に、ともに耳を傾けていきたいと思うのです。 続きを読む ・説教 「喜びの中へ」 ルカの福音書15章11-32節

・説教 「施しの心」 マタイの福音書6章1-4節

鴨下直樹

 今週の月曜日から、長野県の御代田で私たちの教団の牧師の修養会が行われます。今年のテーマは「休息」です。牧師たちが集まり、四日間にわたって「休息」について考えるというのもどうなのかという気がいたしますけれども、その修養会の中で「働きと休息」というテーマで一度聖書からの考察をしてほしいという依頼を受けました。それで、先週はこの説教の準備をするとともに、「休息」ということを考えながら御言葉から聞き続けておりました。そうすると、どうしても考えざるを得ないのは、なぜ「休息」というテーマを選んだのかということです。その一つの大きな意味の一つは間違いなく、牧師たちがゆっくり休むことができないという考えがあるのではないかと思わざるを得ません。

 けれども、ゆっくる休むことができないというのは、牧師たちだけのことではありません。むしろ、様々な仕事をしておられる方々の方が、本当に忙しく働いておられるのではないかと思います。私たちは誰もがそうですけれども、この「忙しい」という言葉を好んで使います。「忙しいから出来ない、無理」というようなことを言うことが、現代の口癖になっていると言っても言い過ぎではありません。そうすると、そこでどうしても「休息」ということともに考えざるを得ないのは、今日の聖書の御言葉です。 続きを読む ・説教 「施しの心」 マタイの福音書6章1-4節

・説教 「神の愛に生きる」 マタイの福音書5章38-48節

鴨下直樹

 先ほど、司式者が読まれた聖書の言葉を皆さんはどのようにお聴きになられたでしょうか。「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」と、私たちはここでいくつものよく知られた主の言葉を聴きました。しかし、私たちはこのような御言葉を聞くと、自分にはここで語られているようなことはできない、できるはずがない、と読むのが普通であろうと思います。私たちはこの聖書の御言葉を耳にする時、耳をおおいたくなるのです。それほどに、現実離れしているように思える言葉が、ここに続けざまに記されていると思うのです。

 山上の説教はどこの箇所も、このように一見、実行不可能と思えるような言葉が続いて語られています。そして、ここにきて、それが頂点に達したような厳しさで語られていることに私たちは戸惑うのです。そこで今朝は、一度で聞くには内容の多いところではありますけれども、少しづつ順に今日語られている主の言葉に耳を傾けていきたいと思います。 続きを読む ・説教 「神の愛に生きる」 マタイの福音書5章38-48節

・説教 「心からの言葉」 マタイの福音書5章33-37節

 

鴨下直樹

 今、マタイの福音書の山上の説教から順に御言葉を聞き続けています。主イエスはここで律法学者やパリサイ人にまさる義とは何かということを六つの視点で語っておられます。そして、今日の箇所はその四番目に当たります。殺してはならない、姦淫してはならない、そして離縁に関する教えを語られ、つづいて「偽りの誓いを立ててはならない」という戒めについて語られます。姦淫と離縁というのは、いずれも誓いをするということと深く結びついています。ですから、これに続いて、主イエスがここで誓いについて話されたのは当然の順序であるといえるかもしれません。

 誓いをするということは、私たちの生活を振り返ってみますと、それほど多くないと感じているかもしれません。スポーツを行う前に選手宣誓などということをいたしますし、裁判の場所で誓約するということがすぐに頭にでてくるかもしれませんが、いずれも日常の生活では多くはないと思います。私自身のことを考えてみますと、誓いというのは、大人になってよりも子どもの頃の方がよくしたのではないかと思えるほどです。「指きりげんまん、嘘ついたら針千本のーます、指きった。」などという誓いを、子どものころ遊びながらよくさせられました。みなさんもそういう経験がおありになるのではないかと思います。先週の説教でも触れましたけれども、結婚式で誓約をいたします。あるいは牧師が就任するときにも誓約をいたしますし、あるいは、会社に入社する時や、何高額な商品を買う時にも誓約書などというものを交わします。そのように考えてみますと、誓約というのは私たちの生活の様々な場面でしていると言えると思います。

 

 ところが、子どもの頃から今日に至るまでそうかもしれませんけれども、私たちは口で誓約するということをそれほど大切に考えていないと言うことができます。政治家たちがすでにそうです。国会で、証人喚問などという場面で誓約をいたしますけれども、誰も事実を証言しているなど思っていません。そのような時の誓約というのは形式上しているだけのことだとどこかで考えているのです。言ってみれば、建前でしていると考えるのです。それは子どものころからそうです。その場を取り繕って指きりをするのですが、約束した通りできるかどうかはその時になってみなければ分からないと考えているのです。

 

 そもそもなぜ誓約などという儀式が生まれたのでしょうか。 続きを読む ・説教 「心からの言葉」 マタイの福音書5章33-37節

・説教 「情欲と信仰?」 マタイの福音書5章27-32節

鴨下直樹

 椎名麟三というプロテスタントの信仰を持った作家がおりました。最近では、残念ながらこの人の本はあまり読まれなくなってしまいましたが、この作家の作品は沢山の大切なことを私たちの心に問いかけてきます。この椎名麟三の代表的な作品に、「私の聖書物語り」というものがあります。自分が聖書を読みながら、どのようにして信仰を持つようになったのか、その格闘が記されている、言ってみれば信仰の証しとも言える小さな書物です。

 この人は、この本の始めの方で、自分は信仰の門をたたこうとして聖書を読んだ、そして、読めば読むほど、その門の堅さを知るばかりであった。と言って一つの聖書の箇所を取り上げています。それが、この「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」という箇所です。そこに小さなエピソードが記されています。戦争の直前のことです。この人はある会社で事務員として働いていました。そこに、痩せた男まさりの女の上司がいました。特にこの人に異性を感じることはなかったといいます。ところがある日、この女性が椅子にのって天井に近い棚から荷物を降ろそうとしていた時に、椅子が動いたため倒れそうになった。それで、あわててこの人の腕を支えた。その瞬間思いがけなく、この人に女を感じた。この本にはこう記してあります。『どうもなかったですか。』と尋ねた私の心臓は、残念なことにドキドキ音を立てていたのである、と。そして、このような経験からこの作家は語るのです。男にとってある人を女として見るのは、情欲を抱くということと、言葉の深いところでは同じ意味なのだと。だから、ここで主イエスが言われる命令は、人間の限界を超えた要求なのであって、人間をやめろと言われているようなものだ。これが罪だというのであれば、もはや笑うしかないと。そして、こんな説明をしています。それは、「なに、飛べない?そんなら君は地獄行きだ。」と言われているようなものだと、この椎名麟三は思ったと言うのです。そこにさらに、こう書いています。百歩譲って、その罪はどうしても私に責任があるというならば、私を飛べない人間に造った神に責任があるのではないのか。これが、キリスト教の門をくぐろうとした時の、最初の門の堅さであったと書いているのです。

 この椎名麟三の持った問いは、恐らく多くの人々の心の中にある声を雄弁に語っていると言えます。「情欲を抱いて女を見る者は既に姦淫を犯したのだ」と言われても、そんなことできっこないと思うのです。

 けれども、もしそうだとすると、もし、私たちにそのようなことが出来ないと思うのだとしたら、そこで私たちは立ち止まって考えてみなければなりません。なぜ、できもしないと思えることを主イエスはここでこれほど丁寧に語っておられるのかということを。 続きを読む ・説教 「情欲と信仰?」 マタイの福音書5章27-32節