2021 年 7 月 25 日

・説教 ローマ人への手紙2章17-29節「御霊による心」

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2021.07.25

鴨下 直樹

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 先週金曜日、東京オリンピックの開会式が行われました。ご覧になられた方も沢山おられると思います。先日、岐阜県が発行しました、『岐阜県ゆかりの選手応援ガイドブック』というものを頂きまして、見ておりましたら、この岐阜市からも色んな選手が出るようです。私も知らなかったのですが、今回からの新しい種目で、スケートボードに出る岡本みすぐ選手はこの岐阜市在住で、何と15歳なんだそうです。しかも、世界ランク1位というので、私も楽しみにしています。

 そのパンフレットの中に、岐阜県の色んな市町村が、オリンピックに参加する国のホストタウンとして掲載されているのですが、この近くでは八百津町という町があります。この町は可児教会のクリスチャン・ワイゲル宣教師が、住まいを置きまして、そこで伝道をしている町です。この八百津町はイスラエルのホストタウンになっているということでした。そういうオリンピックへの関わり方もあるのだと改めて知らされております。

 昨年の末から、水曜日の聖書の学びと祈り会の時に、「ざっくり学ぶ聖書入門」の学びを始めました。先日27回目で、旧約聖書の学びを終えました。それで、次回は旧約聖書と新約聖書の間の期間、この期間のことを中間時代というのですが、ここの学びをしようと思っています。

 実は、私が神学生の時は、ちょうど、この講義の担当の先生がいなかったので、私はこの学びをしたことがありません。それで、今、この講義を担当している古知野教会の岩田先生に、何かいい本はないかと聞きましたら、一冊の本を教えてくれました。『マンガ・聖書時代の古代帝国』という、いのちのことば社から出ている本です。

 中間時代というのは400年あるのですが、この本はイスラエル滅亡の頃からの約700年間を、マンガを交えて解説しているものです。この新約に移る前の700年の間に、イスラエルは、国が滅んでしまいます。そして、その後2000年以上にわたって、国土を持たない離散の民になってしまうという経緯があります。

 この中間時代と呼ばれる時代は、聖書には書かれていないのですが、イスラエルがさまざまな近隣の強国に支配されながら、何とか生き抜いていくという大変な時代です。

 その当時、このユダヤ人たちの信仰は、非常に倫理的であり、内容的にもあまりにも良く整えられていたので、ユダヤを支配したギリシャは、このユダヤ人たちの信仰に、とても興味を覚えます。そして、ユダヤ人たちを保護する王が現れる時もあれば、迫害される時代も迎えます。そんな中で、ユダヤ人たちは、パリサイ派とサドカイ派とに分かれていきます。サドカイ派は、ギリシャの思想を取り入れていきますが、パリサイ派は、できる限り聖書に厳密な立場を取ろうとした人々でした。そして、サドカイ派はエリート意識が強い人々でしたが、パリサイ派は庶民も、また異邦人をも巻き込んでいくという形態になっていくわけです。この辺りのことが、とても詳しくこの本の中には書かれています。

 そんな中で、パリサイ派の人々は、律法を大事にすることと、割礼を受けることで、異邦人であっても、ユダヤ人として歓迎していくというやり方で、各地に宣教師と言いましょうか、伝道者を遣わしていったのです。

 今日のパウロの手紙を理解するためには、こういう背景を知っていると、とても理解しやすくなります。つまり、このようなユダヤ人たちの宣教師、もっと言うとユダヤ教宣教師たちは当然、ローマにも沢山入っていたわけです。そして、ローマにいるユダヤ人キリスト者たちは、このユダヤ人宣教師たちの教えを色濃く受けていたので、パウロがこの手紙をローマに書く時には、まず、その人たちに向けて、主イエスの福音とは何かということを、丁寧に説いていく必要があったのでした。

 しかも、パウロもこの人たちを切り捨ててしまう、いわゆる “キリステ教” の立場を取ることもできたのですが、そうしないで、その人たちにも、どうしても、このユダヤ教の考え方と、キリスト教の違いというものを理解してもらわなければならないと考えました。これが、難しいわけです。

 こういうのはダメ、と切り捨てるだけなら簡単ですが、自分の間違いに気づいてもらって、なおかつ、正しい考え方に変わってもらう必要があるので、気を付けた言い方をしなければなりません。 (続きを読む…)

2021 年 7 月 18 日

・説教 ローマ人への手紙2章12-16節「律法と福音」

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2021.07.18

鴨下 直樹

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 我が家には犬がいます。もうすぐ2歳になります。なかなかやんちゃな犬で、躾が思うように入らなくて悩んでおります。一番困っているのは、留守番をさせる時です。

 少し前までは小さかったこともあって、留守の間はケージの中に入れて、外に出かけるのですが、そろそろもう大丈夫かなと思って、ケージに入れないで、そのまま出しておくことがあります。

 午前中くらいの時間であれば、さほど問題はないのですが、少し長い時間家を空けますと、まず間違いなく事件が起こっています。

 夕方に家に帰りますと、犬は私が戻ってきたことが嬉しくて近寄って来るのですが、その日は出てきません。この時点で何かあったのだということが分かるのですが、部屋に入るととんでもないことになっています。

 テーブルの上に置かれていた、薬の入れ物が散乱していて、娘の机の上にある鉛筆やらボールペンは跡形もないくらいバキバキに壊されています。テーブルのものが全て床に落ちているので、テーブルの上に上がったんだということも分かります。

 私が「何やった!」と少し大きな声をあげます。そうすると、犬はおこられることを察知して、ハウスの中に隠れるわけです。

 聖書はこう言っています。

律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。

12節です。

 律法のない我が家の「さくら」は、「さくら」というのは犬の名前ですが、律法なしで滅びることになります。まず、私の怒りの叫びから始まります。そして、そのまま撫でられることもなく、ハウスの中に入れられてしばらく口もきいてもらえなくなります。部屋をかたづけないといけないので仕方がないのですが、私としてはあれほどむなしい時間はありません。

 こんな犬のしつけの話と同じになるかどうか、疑問があるかもしれません。
 
 パウロがここで言おうとしているのは、異邦人であろうとユダヤ人であろうと弁解の余地なしに、裁かれるのだと言っています。
13節

なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。

 「律法」というのは、神の心です。神の願いです。言いつけを知っているということよりも、その心を理解してそれをするかどうかが大事だというのです。 (続きを読む…)

2021 年 7 月 11 日

・説教 ローマ人への手紙2章1-11節「神の慈しみ深さ」

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2021.07.11

鴨下 直樹

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 今、私たちはパウロの記したローマ人への手紙のみ言葉を聞き続けています。今日から第2章に入ります。パウロは、この手紙の第1章で、罪の闇の濃さと言いましょうか、その闇の深さを語っています。神の義、神の正しさから離れたところにある、私たちの生活の在り方を正しいとする世界が、どれほど闇に覆われているか。それがどれほど醜いか。そして、どれほど神を悲しませているかを語りました。

 そして、今日の第2章の冒頭で、パウロは畳みかけるようにこう述べています。

ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。

 ここまでのパウロは、ギリシア人たちの日常生活の悲惨さ、罪の醜さというものを語ってきました。それを聞いた教会の人たちは、「そうだそうだ、こういう罪はよくない」とパウロに同調して聴いていたと思います。ところが、この教会の人たちに対して、パウロは急に向きなおり、「あなたがたも全く同じなんですよ!」と言い出したのです。

 パウロがここで語っているのは、人をさばくということについてです。

 この人はどうしようもない罪人なのだと人のことを断罪することの恐ろしさを語っています。

 先週も私たちは、ある大臣がコロナ対策の休業要請に協力しない飲食店に金融機関から圧力をかけさせるという発言をしたというニュースを耳にしました。そして、その大臣の発言をめぐって、色んなところで叩かれています。

 もちろん、かなり問題の発言ですが、そうしますと、今度は寄って集って、みんなで猛バッシングを行うわけです。

 こんなニュースは毎週、色んな所で起こりますから、すでに慣れっこになっているところもあります。
 一度、この人は悪いと決めつけられると、鬼の首でも取ったかのようにして追いつめていくのです。それが、人を裁く者の姿です。

 これは、もちろん、私たちの日常生活の中でもごく当たり前に繰り返されます。教会の中でも同様ということになると、これはかなり問題で、もはやキリスト教会ではなくて、「キリステ教会」になってしまいます。

 パウロがここで語っているのは、神の慈しみ深さです。
4節

それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。

 悪の出来事、というか悪いことが私たちの目の前で起こりますと、私たちの目が、どこに向けられるかというと、その人の犯した過ちです。その人の罪の大きさです。これは、とんでもないことをしているぞ!と大騒ぎしてしまいます。

 けれども、パウロが言っているのは、ここで見なければならないのは、その時、神の心はどうだと思うのかということに目を向けるようにということです。 (続きを読む…)

2021 年 7 月 4 日

・説教 ローマ人への手紙1章26-32節「神を知る価値」

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2021.07.04

鴨下 直樹

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 前回、私は説教の中で一つのたとえ話をしました。素敵なディナーに招かれた話です。

 神は、私たちを素敵なディナーの席に招待してくださいました。それは、とても素敵な雰囲気の中で、おいしい食事を頂く、まさに完璧なディナーの席です。ところが、その席に招かれながら、心ここにあらず、テレビのスイッチをつけ、食べているものにもあまり目を留めないで、また目の前に座っている相手のことも無視していたら、招待してくれた人はとても悲しみますよねという話をしました。

 それは、このローマ人への手紙の1章の18節から32節までに記されているテーマです。招いてくれた人のことを無視して、自分の見たいものを見る、テレビをつける。それを、聖書の別の言葉で言い換えるなら、「偶像礼拝」ということになります。

 そして、今日の26節から最後の節までで記されているのは、そうやって、招いてくださったお方を無視し続ける姿というのは、どういうものなのかということが、一つのリストのようにまとめられて記されています。

 この29節から31節に記されているリストのことを、「悪徳表」と言います。

 私たちをこの世界においてくださり、私たちが喜んで生きていくことができるように招いてくださった神ご自身を無視して、自分勝手に生きる、それはどういう形になって表れるのかが、ここでひたすらあげられています。

 私たちが今日与えられている聖書を読む時に、こういう箇所を私たちはどう読むのでしょうか。こういう悪徳のリストを見ると、ああこういうことは良くないことなんだな、今度から気を付けようと思って読む。そんな読み方をするのかもしれません。

 今日のところには、何が神を悲しませるのか、罪とは何かということが、ひたすら書かれています。ただ、私たちはこういう箇所を読む時に、この手紙を書いたパウロはこの文章で何を伝えようとしているのかということを、知らなければなりません。

 パウロがここで私たちに語っているのは、こういうことをしてはいけませんよということなのでしょうか。そうではないのです。むしろ、このリストに含まれていることをしていない人なんて、どこにも存在しないのかもしれません。

あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。

 さすがに、ここまで列挙されると、こんなにひどくはありませんと言いたくなるかもしれません。あるいは、みんなだってやっているじゃないですかと言いたくなるのかもしれません。

 パウロはここで告げようとしているのは、神を知ることを認めないとこうなると言っているのです。

この中で、3回同じ言葉が繰り返されている言葉があります。それが「引き渡されました」という言葉です。24節と、26節、そして、28節に出てきます。

 この「引き渡す」という言葉は、ギリシャ語で「パラディドミー」という言葉です。イスカリオテのユダが、主イエスを裏切った時にも使われた言葉です。任せてしまうということです。

 任せてしまうというのは、自由にすればいいということです。 (続きを読む…)

2021 年 6 月 20 日

・説教 ローマ人への手紙1章18-25節「真理を阻むことなく」

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2021.06.20

鴨下 直樹

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 パウロの記したこの手紙は、この前の部分までが導入部分だとすると、ここからがいよいよ手紙の内容に入っていきます。

 全体の枠組みのはなしをすると、ここから3章の20節までで、不義とは何か、罪とは何かということが語られています。

 特に、今日読んだところには、こういう言葉が記されています。

神の怒りが天から啓示されている

 よく、教会の学び会などでも質問としてでてくるのですが、旧約聖書の神様はとても厳しい神様で、新約聖書になると愛の神様になる。どうして、こんなに神様のイメージが変わるのでしょうか?という質問が出ることがあります。

 確かに、聖書を読んでいますと、特に旧約聖書を読むと、そのように思えるほど厳しい神様のお姿が何度となく出てきますので、神様は厳しいという印象を持つということはよく分かります。

 今週の、水曜日と、木曜日に私たち同盟福音キリスト教会は牧師たちの研修会をいたしました。例年は、長野県の「のぞみの村」という教団の宿泊施設がありますので、そこまで出かけて行って、牧師、宣教師たちがみな顔を合わせて、研修の時を持つのですが、今年はコロナのためにそれが出来ません。それで、オンラインで研修会を行いました。

 今年のテーマは「ジャンルを大切にして聖書を読む」という学びをいたしました。というのは、昨年もお招きしようとしていて、できなかったのですが、教団の稲沢教会の渡辺先生が、そのタイトルの本を最近だされましたので、この本を牧師たちみんなで一緒に学んだのです。

 そこで、渡辺先生が語られたのは、聖書の中にはさまざまなジャンルの文章があり、そのジャンルごとに、聖書の読み方が違うんですよという話です。

 たとえば、私たちの日常でも、色んなジャンルの文章があります。新聞とか、日記とか、小説とか、会社の報告書とか、回覧板で回って来るお知らせとか、実に色々あります。その文章の目的にしたがって、それをどういう書き方にするかというのは、異なってきます。

 それと同じように、聖書の中身というのは、詩とか、法律とか、歴史の記録とか、預言とか、たとえ話とか、実にいろんなジャンルの文章が混在しています。その、それぞれの文章の特徴と、その文章にふさわしい読み方を、意識して聖書を読みましょうということを、二日間かけて学んだわけです。

 それで、先ほどの話に戻ると、旧約聖書には、神さまが厳しいというイメージを持つということですが、このジャンルという考え方からすると、まず、旧約聖書の冒頭は律法の書です。これは、法律なので、全部命令形の文章になっています。神様の命令なので、問答無用です。返事は、「ハイ分かりました」しか期待していません。だから、当然、書き方は厳しいわけです。

 その次は歴史書です。この歴史書というのは、誰かの主観ではなくて、事実だけをたんたんと記していきます。どういう問題が起こって、それに対して、人間はどうしたか、神は何と言われたかという客観的な報告です。そうすると、そこには、読み手への気持ちの配慮なんてありませんから、やはり厳しく感じるという部分があるということになります。

 一方で、今日の場合は手紙です。パウロがローマの教会にあてて書いた手紙ですから、そこには読み手が想像されていますので、律法の書とか、歴史書とは異なる書き方がなされています。そういう意味では、同じ聖書の文章ですけれども、読んだ時のイメージがかなり違うということになります。

 これが、旧約聖書と新約聖書を読んだ時に起こるズレの一つの原因です。

 もう一つは、いつもお話ししていますが、「漸進的啓示」というものです。これについては簡単にだけお話しすると、神さまは、幼子に向けては、分からせるために厳しく語りますが、ある程度分かるようになってきた大人には、大人の語り方をします。啓示の仕方が漸進しているわけです。どんどん進展していくので、その違いから、旧約は厳しいけれども新約は優しいという錯覚を感じるわけです。

 ただ、今日の箇所は新約聖書ですが、とても厳しい箇所です。ここには錯覚とか、印象ではなくて、はっきりと、「神の怒り」と書かれています。

 神は怒っておられるということが、はっきり書かれています。新約聖書だから愛だけなのだということではないのです。 (続きを読む…)

2021 年 6 月 13 日

・説教 ローマ人への手紙1章16-17節「福音を恥とすることなく」

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2021.06.13

鴨下 直樹

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 パウロはここで福音について語り始めます。

福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

 「福音」というのは、信じるすべての人に救いをもたらす神の力だというのです。

 先週、あるニュースを読んでおりましたら、岐阜県の池田町に工場のある塩野義製薬が、新型コロナウィルスの治療薬を開発しているというニュースが出ておりました。それによると、新しい変異株にも対応できる薬を作ろうとしているということでした。

 今の世界の中にあって、こんな治療薬が完成したら、それはある意味では福音です。信じるすべての人に救いをもたらすものとなるでしょう。そういうものが完成したら、同じ岐阜県民として、誇りをもって、この薬をいろんな方にお勧めすることができるようになると思います。いかがでしょうか?

 福音というのは、良い知らせです。しかもその知らせをもたらされた人に救いを与える力が、そこにはあるのです。大事なことは、そこでも「信じる」ということが不可欠です。
それがどれほどすばらしいものでも、信じて受け取られることがなければ、何もないのと同じです。そのためには、この知らせを届ける人が必要です。

 だからこそ、パウロは、この福音を届けることこそが、私の負い目、責任なのだとこの前のところで語っているのです。

 そして、この人を救うことのできる神の力である福音を届けることを恥とは思わないとパウロはここで言っています。

 振り返ってみて、私たちは、私たちが受け取った福音をパウロのように大胆に証しできるのだろうか、ということを考えてみたいのです。

 家族に聖書を勧める、教会に集うことを勧める時に、そこに躊躇させるさまざまな要因があるとすると、それは何かということです。

 福音を伝えることを難しいと感じる理由はいくつかあると思います。まず、私が思いつくのは、相手に対する配慮です。相手の家族の宗教だとか、その人が大事にしているものを考えると、なかなか勧めづらいということがあると思います。 (続きを読む…)

2021 年 6 月 6 日

・説教 ローマ人への手紙1章8-15節「信仰に励ましを受けて」

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2021.06.06

鴨下 直樹

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 皆さんは、富士山をご覧になったことがあるでしょう。先日、関東に車で行った際に、富士山を見ながら走るのをささやかな楽しみにしていたのですが、残念ながら天気が悪くて全く見ることができませんでした。

 「表富士」とか「裏富士」という言葉があります。山梨県側から見る富士山は裏富士なんだそうですけれども、山梨県の方々からすれば、こっちが表だと思っておられるようです。考えてみたら当たり前のことですけれども、表とか裏というのは、誰が決めるのかということになります。みんな自分を基準で考えるわけで、いわゆる表側の、高速道路や新幹線が通っている静岡県側から見る人が多いので、なんとなく、表富士という言い方が、多くの人に支持されているようです。

 私は東海聖書神学塾で、聖書解釈学という講義をしているのですが、先日そこで、この富士山の見方という話をしました。それは、別に何か特別なことなのではなくて、まず富士山の見方には三種類あるという話をしました。まず一番目は、富士山の全体像を眺めるということです。この見方が、富士山のもっともポピュラーな見方です。けれども、二番目の見方としては、実際にその山道を上ってみるという見方があります。そうすると、ひたすらごつごつした岩場を何時間もかけて登らなければならないわけです。そこからは、山から周りの景色は見えても、富士山自体はそれほど綺麗ではなくて、富士山の厳しい現実を知ることになるわけです。そして、三番目の見方としては、さらに詳しく観察してみるということもできると思います。富士山の石はどういう石なのかとか、酸素の濃度はどうだとか、標高何メートルかを超えると木が生えなくなるとか、詳しく見るとさらにそこで見えてくる世界があります。

 ちょうど、この三つの富士山の見方があるように、聖書を読む時にも、それぞれ見方が違うのだという話をしたのです。

 パウロは、ローマの教会に手紙を書き送っています。なぜ、手紙を書くのかというその目的をここで記しています。11節ではこう言っています。

私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。

 パウロもローマの信徒たちも、共に主にある信仰に生きている人たちです。それは、言ってみれば一緒に富士山に登頂する仲間のようなものです。その仲間たちが、力強く山を登り続けることができるように、「あなたがたを強くしたいから」とパウロはここで言っているのです。

 それは、ある程度、その道を歩んできた先輩だからこそ、教えられるさまざまなノウハウがあるということです。その自分のノウハウ、この聖書の言葉でいえば「御霊の賜物」を分け与えたいのだというわけです。

 けれども、それだけではないとパウロはここで語っています。それが、続く12節です。

というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。

 このパウロの言葉に、私は驚きを覚えます。パウロは異邦人伝道の先駆者です。しかも使徒として主に召されているという、自覚もあるのです。そのパウロがここで、私は、これからあなたがたにいろんなことを教えてあげるからねという、言ってみれば「上から目線」で語ることも出来るわけですけれども、パウロはここで、私も同じ山を登っているので、あなたがたと一緒に上りながら、励まし合っていきたいのだと言っているのです。 (続きを読む…)

2021 年 5 月 30 日

・説教 ローマ人への手紙1章1-15節「キリスト者の責任」

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2021.05.30

鴨下 直樹

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 パウロはローマにできた教会に宛てて手紙を書いています。直接の面識のない相手ですから、まずは丁寧な挨拶からはじめました。それで、8節から15節のところでは、今度は自分がローマに手紙を書くことになった「理由」とか「目的」、「動機」というようなものを語っています。それと同時に、ローマの人たちとの関係を作りたいと願っています。

 この8節のところには「まず初めに・・・感謝します」という文章が書かれています。まず初めに言いたいのは、感謝の言葉です。

 何を感謝するかというと、「全世界であなたがたの信仰が語り伝えられているからです。」とこの8節で書かれていることに対してです。

 この時代にローマの教会にどのくらいの人たちが集まっていたのかは、はっきりしません。クランフィールドという聖書学者は、この手紙に「教会」という言葉が出てこないので、まだ、そこまで呼べるほどの人が集まっていなかったのではないかと考えています。あるいは、マシュー・ブラックという人は、当時の歴史家タキトゥースの記録から、当時のユダヤ人の会堂には何万人という数の人たちがいて、複数の会堂があったと考えられるので、その中の一つがユダヤ人キリスト者の拠点になったと考えています。そして、10数年後にはおびただしい数のキリスト者がいるという記録があることから考えても、パウロが手紙を書いた時点ですでに、かなりの数のキリスト者がいたと考える人もいます。

 あなたがたのことが世界中に知られているので感謝するとパウロが言った時に、言われた方からしてみれば、自分たちは知らない間に、世界中でそんなに有名になっているのかと、驚きながらも、嬉しかったのだと思うのです。でも、そのことは、よくよく考えてみると、そんなに最初から評判になるような素晴らしい教会が生まれるだろうかと考えてみる必要があります。

 おそらく、パウロがここで感謝しているのは、ローマの信徒たちが世界の模範となるようなキリスト者だから感謝しているのではなくて、ローマに教会が出来たということが、世界中の評判になっているという意味なのだと考えられるわけです。

 ローマはこの時代の世界の中心です。この世界中心の都市に、主の教会ができたということは、この時代のキリスト者たちにとって、大きな励ましになったに違いありません。そしてそのことは、地方の信徒たちにとってみれば、自分たちの信仰が、ローマでも信じられているのだ、古臭い宗教、時代遅れの教えなどではないのだという思いを抱かせたに違いないのです。

 それほどに、ローマは世界の中心であったのです。そこに住んでいるあなた方が、主を信じる信仰に生きている。そのことは、本当に感謝な出来事なのです。何をおいても、まず初めに、感謝すべき事柄だとパウロは考えたのです。

 今、コロナ禍ということもあって、予定されていた会議はほぼ、オンラインになりました。先週は二つのオンラインの会議があったのですが、そこで、まさに日本中の牧師たちと言葉を交わしました。東京、神奈川、千葉、大阪、滋賀、兵庫、岡山、各地の牧師たちと、いろんなことを話し合います。先週はマレーネ先生からドイツの教会の話しも少しお聞きしました。感染の大変な地域では、どうやって礼拝しているか、そんな話がきこえてくるなかで、一昨日、私はこの教会の方々と、「昨晩ホタルが四匹出ました!」なんていうのどかな情報を共有しています。

 なんだか、この岐阜の片田舎だけ世界から取り残されているような気がしないわけでもありませんが、それがこの土地の時間の進み方です。

 でも、だからといって、私たちが世界から取り残されているわけでもありませんし、私たちの教会の礼拝が、世界の片隅で行われている礼拝だなどと考えたことは一度もありません。

 そこが、ローマであろうと、東京であろうと、ドイツであろうと、主が私たちに語り掛けようとしておられるみ言葉を、この地で聞くことができることは感謝なことです。

 やっとローマにも教会が出来たというのは、考えてみれば遅いくらいだったのかもしれないのですが、それでも、ローマにも福音が届いている。それは教会にとって本当に感謝すべき事柄なのです。

 先日、はじめて高速道路の関市のサービスエリアに入りました。関市は刃物が有名な町です。近すぎてなかなか入ったことがなかったのですが、入ってみますと、いろんな刃物が売られています。何でもないところに目がいったのですが、そこに「地方発送いたします」と書かれていました。それをみながら、「こうでなくちゃ」と私は思いました。

 送り先が東京だろうが、ローマだろうが、ドイツだろうが、そこもみんな「地方」ですよ。考え方としては、あくまでも自分たちが中心です。自分たちのところで生まれたものが、世界中の「地方」へ届けられて行くわけです。ここがホタルの出る田舎などと考える必要は全然ないわけです。

 大切なのは、その私たちが世界にお届けするものの、中身といいますか、品質の方が重要なわけです

 パウロは言うのです。14節

私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。

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2021 年 5 月 23 日

・説教 ローマ人への手紙1章1-7節「福音」

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2021.05.23

鴨下 直樹

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 今日は先週と同じ聖書のみ言葉が与えられています。同じ箇所を司式者が朗読されるのを聞かれて、牧師はついに、先週どこまで説教したか分からなくなってしまったのかと思われる方もあるかもしれませんが、この箇所はとても豊かな内容なので、二度に分けて、この聖書からみ言葉を聞いていきたいと願っているのです。

 パウロはローマの教会に手紙を書き送ります。パウロは、自分のことを「福音のために選び出され、使徒として召されたパウロ」と言いました。

 私は福音のために召されたと言ったのです。

「福音」― それは、この聖書の時代の人たちには特別な響きを持つ言葉だったはずです。紀元前490年の話ですが、ペルシア戦争という戦いで、ギリシャのマラトンという町に、ペルシアの大軍が攻めて来たのです。その戦いの勝利を知らせる使者が、マラトンからアテナイまで走ったことが、マラソンの起源になっていることは有名です。この戦いの勝利を伝えた時に、その使者は「ユーアンゲリオン」、つまり「良い知らせ」をもたらしました。この「ユーアンゲリオン」という言葉が、「福音」と訳されるようになった言葉です。

 パウロは、この「福音」を知らせるマラソンのランナーとなるべく、神に選ばれて、使徒となったのだとまず伝えているのです。それは、その福音を聞いた人が嬉しくなるような良い知らせなのです。

 そして、パウロは、この手紙で「福音」という言葉を出したかと思うと、すぐさま、この福音とは何かということを、2節から語り始めて6節まで続けています。

――この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、
御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。
この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました――

 この部分を読むと、沢山のことが語られていて、なかなか大切なことが理解しにくい文章になっていますが、大事なことを少し整理して理解してみたいと思います。ここで四つのことが説明されています。

 まず、第一にここでパウロが福音と語っているのは、旧約聖書から約束されたことで、御子はダビデの子孫から生まれた者であるということです。イスラエルの民が捕囚を経験し、やがてメシヤが来ると約束されていた、あのダビデの子孫として生まれる神の御子が、主イエス・キリストなのだとまず伝えているのです。

 ところが、この知らせはユダヤ人たちにとっては確かに福音ですが、異邦人にはあまりピンとこない内容だと言えます。ダビデの子孫ということに、それほどの意味を感じないのです。

 それで、パウロは続けて第二にこう言いました。「聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方」

 ここで、パウロはこの主イエス・キリストというお方は、死者からの復活によって、神の子であることがみんなに示されたのだと言うのです。そして、この説明をするために、「肉によればダビデの子孫」「聖なる霊によれば復活によって神の子として示された」と言っています。

 「肉によれば」というのは、人間的に見ればということです。そして、「聖なる霊によれば」というのは、「霊として見ると」という意味になります。つまり、神の霊によって、この主イエスは復活されたお方だというわけです。ということは、この「聖なる霊によれば」復活の力にあずかることが出来るということです。

 パウロがここで告げている二番目のことは、神の霊によって、主イエスは復活されて神の子として示されたお方だということです。この神の霊の働きは、ダビデとは何の関係もない異邦人であっても、神の子とされるという可能性を秘めているのだということです。

 それで、三番目にパウロが語ったのは、福音というのは、「すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらす」ことができるのだということです。

 この福音は、異邦人であるとされるローマの人々にも信仰の従順をもたらすと言っています。この「従順」という言葉は、「下で」という言葉と「聞く」という言葉からできています。誰かの下で、その人に聞くという、まさに主従関係を表す言葉が「従順」という言葉なのです。上に主がいてくださって、その主に聞き従うということが従順なのです。主に従順になる時に、この復活の力にあずかる信仰が与えられると言っているのです。

 そして、最後の四番目に語られているのが6節です。「その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました――」

 異邦人であるあなたがたも、この福音の主である主イエスに招かれて、キリストのものとなったのですと言うのです。 あなたがたは今、使徒となった私パウロと同じように、キリストの僕とされているのだと宣言しているのです。 (続きを読む…)

2021 年 5 月 16 日

・説教 ローマ人への手紙1章1-7節「主の奴隷パウロからの手紙」

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2021.05.16

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 先週、私はある方の葬儀の司式をするために鎌倉に行きました。初めて鎌倉に行ったのですが、とても美しい町でした。泊まった宿は、由比ガ浜という湘南の海が目の前の宿でした。朝の5時から外が騒がしいので、何事かと思って窓から外を見ますと、宿の目の前の駐車場に次々と車が入ってきます。みな、私と同じくらいの年齢の方々です。ウェットスーツを着込んで、サーフボードを片手に、海に向かっていくのです。

 この芥見の、教会の裏は山、目の前は田植えしたばかりの田んぼという風景を見慣れている私は、面食らってしまいました。同じ日本なのに、ここはこんなにも生活が違うのかという衝撃です。「百聞は一見にしかず」ということわざがありますが、まさにその通りだと思いました。

 葬儀の日、少し時間がありましたので、長い間一度は行ってみたいと願っておりました加藤常昭先生がおられた鎌倉雪の下教会を訪ねました。加藤常昭先生の説教をずっと読み続けてきましたので、一度は見てみたいという思いを長年もっていたのですが、ついに実現することが出来ました。

 鎌倉というのはどんな街なんだろう、どんなところに建っている教会なんだろう、どういう建物なんだろう、どんな礼拝が行われているのだろう。そんな思いを長年抱えてきました。今、鎌倉雪の下教会は川崎公平牧師というとても素晴らしい説教者が立てられております。先生が丁寧に、対応してくださって、少しお話もお伺いすることができ、とても良い時間を持つことができました。「百聞は一見にしかず」です。

 今週からローマ人への手紙の、み言葉を聞いていきたいと願っています。この手紙を記したパウロはスペインで伝道をしたいという願いを持っていました。そう思わせる何かがパウロの中にあったのでしょう。そして、そのスペイン、その頃はイスパニアと呼ばれておりましたが、この地での伝道の足掛かりとして、大都市ローマにできた教会と関係を作りたいと願っていました。そのために、手紙を記したのです。

 「百聞は一見にしかず」ですが、そこに行くことが出来ない以上、まずは手紙を記して、パウロの考えを知ってもらうということがどうしても必要でした。パウロがこの手紙を書いた時というのは、恐らく第三次伝道旅行のコリントに滞在していた時だと考えられています。パウロは、第三次伝道旅行の際、マケドニアとアカヤ地方からの献金を携えて、エルサレムに届け、その後、イスパニアの伝道に行く前に、ローマを訪ねたいと考えて、コリントからこの手紙を書いたようなのです。

 まだ見ぬ、イスパニア、そして、恐らく生まれたばかりでまだ小さかったであろうローマにできた教会の人々のことを思い描きながら、この手紙を記すことにしたのです。

 そこで、パウロはこのように書き始めました。

キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。

 先日、雪の下教会をお訪ねした時のことです。教会の伝道師の先生なのでしょうか、事務の方なのか分かりませんが、インターホンを押したら出てくださいまして、「岐阜で牧師をしている鴨下と申します。」とまず言いました。

 その方が扉を開けて下さったので、教会を見学させてほしい旨を告げました。「牧師に取り次ぎますが、もう一度どちらの先生だったでしょうか?」と聞かれて、「同盟福音基督教会の牧師で、芥見の・・・」と言いかけたのですが、そんなに長ったらしい説明はダメだと思い直して、「岐阜から来ました」とだけお伝えしました。

 自分のことを短く語るのに、私がとっさに出て来た言葉は「岐阜から来ました。」でした。けれども、これでは何の説明にもなっていません。ただの不審者です。幸い、その方はとても丁寧に対応してくださって、すぐに川崎先生が出てきてくださり、いろんなお話をすることができ、ほっといたしました。 

 自分が何者なのかということを告げるのに、とっさにということもあったのですが、どういうのが正解なのか、なかなか良い言葉が思いつきませんでした。

 パウロの場合は違います。よく考えたと思います。そしてこう告げたのです。「パウロ、奴隷、イエス・キリストの」この手紙に書かれた語順で行くと、そのように記されています。「私パウロは奴隷です。」という言葉からパウロは語り始めました。

 この手紙の語りだしをはじめて耳にしたであろう、ローマの教会の人たちは、これを聞いた時、どんなイメージをもったのでしょう。もちろん「教会」と呼べるほど、人々が集まっていたとはいえないようですから、厳密に言えば「ローマにいる信徒たち」とした方が良いのかもしれませんが、「ローマの教会」という言い方をすることをご理解いただければと思います。いずれにしても、このパウロのはじめの言葉は、よく考えてみれば、衝撃的な自己紹介の言葉だったと言えます。

 当時、ローマには自由人と呼ばれるローマの市民権を持っている人たちの何十倍もの奴隷がいたと考えられます。もちろん、奴隷と言っても、いつも鎖につながれて、肉体労働をさせられていたというようなことではなかったと思います。ローマにできたばかりの教会にも、当然奴隷たちはいたでしょう。その割合は自由人たちより多かったのではないかと想像することはできます。そういう人たちに、パウロのこの自己紹介文はどんな響きをもったことでしょう。

 ローマにはいたるところに、奴隷がいたはずですから、ローマの市民権を持っているローマ人たちからしてみたら、この「奴隷」という言葉のもたらしたイメージは決して良いとは言えないかもしれません。まだ見ぬローマの人たちに、自分は奴隷であると伝えることに、どれほどの意味があるのかと思うのです。けれども、奴隷の立場の人々にとっては、とても親近感を覚える言葉であったかもしれません。

 いずれにしても、興味を覚えながら、これから何を言い出すのか聞いてみたいという思いになったことは間違いありません。

 するとパウロはすぐに、自分「はキリスト・イエスの」と加えて語りました。それがまさに、パウロの自己理解なのです。

 「私パウロは、キリスト・イエスの奴隷」

 奴隷、しもべというのは、主人の命令に従うものです。主人に買い取られて、主人の人生を支えるために生きる存在となっているのです。パウロのこの自己理解は、卑下しながら語っているのではなく、むしろ誇りをもって語っていることが分かります。それは、自分の主人に対して、誇りを抱いているからです。その主人の僕であることに対する誇りがあるのです。「とにかく岐阜から来ました」程度しか出てこない人物と比べれば、かなり大きな違いです。 (続きを読む…)

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