2022 年 6 月 19 日

・説教 ローマ人への手紙14章1-12節「強い人と弱い人」

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2022.06.19

鴨下直樹

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 今日の説教のタイトルを「強い人と弱い人」としました。

 みなさんは、自分がクリスチャンとして強い人か弱い人かと言われると、自分はどちらに属すると思われるでしょうか。多くの方は自分は弱いクリスチャンだと思っておられるのではないかと思います。

 今日、パウロがここで語っている強い人と弱い人というのは、私たちのイメージするものとは少し異なっているようです。

今日の聖書にはこう記されています。1節から3節です。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。

 ここで、パウロは誰のことを「強い人」と言っているのでしょうか?

 読んでみると分かるのですが、ある人は何を食べてもよいと信じています。その人のことを強い人と言っていることが分かります。そして、ある特定のポリシーを持っている人、ここでのパウロの言いたいことを言い換えると、何かをきちんと守ることが信仰の証を立てることになると思っている人のことを「弱い人」と呼んでいるようです。

 これは、私たちの持つイメージとは逆かもしれません。これは、よくお話しすることですが、当時の肉は、異教の神にささげられた肉が市場に並ぶわけです。どうも、そういうものが大半を占めていたようです。そうすると、熱心なクリスチャンは、異教にささげた肉は食べない方がいいと考えました。それは使徒の働き15章に記されているエルサレム会議の決定でもあったわけです。それで、結果として野菜を食べるという考えを持つ人が出て来たようです。パウロはここでその考え方を、信仰の弱い人と表現したのです。

 つまり、人をさばく側に立つ人のことを、信仰の弱い人と言うのです。そして、ここからが面白いところですが、そういう弱い人を受け入れてやりなさいとパウロは勧めているのです。当時のエルサレム教会の人々や、パウロの教えに反対するユダヤ人のキリスト者が沢山いて、パウロはその人たちと常に闘い続けてきたのですが、その人たちは弱いから、そういうのであって、そこで、自分たちが売られて喧嘩を買うのではなくて、受け入れていこうではないかと勧めているのです。怒っている人、強そうに見える人に、あの人は弱いから、受け入れてやりなさいというのではない、その反対のことを言っているのです。

 今日の説教のタイトルを「強い人と弱い人」としたのには理由があります。この聖書の箇所を読んだ時に、私はすぐに、このタイトルの本のことを思い出したのです。『強い人と弱い人』というポール・トゥルニエの本です。

 このポール・トゥルニエは、スイスのジュネーブで心理療法士として働くキリスト者の医師で、たくさんの本を書いています。最も知られたものは、『人生の四季』というものでしょう。人生を四つの季節にあてはめて、それぞれの年代の特徴について記した名著です。

 この『強い人と弱い人』という本も、とても面白い考察が記されているのですが、はじめにこんな場面からはじまります。

 レストランでの出来事です。2、3歳の男の子が大声を上げて泣いています。その子どもの足元には破り捨てられた紙切れがあります。その子どもの近くで、母親は「さあ、この紙を拾いなさい」と叱っています。レストランの他の席についている人たちは、この騒がしい親子を眺めています。母親が強く言えば言うほど、子どもは大きな声で泣き叫ぶのです。

 周りの目がなければ母親は子どもを叩いたかもしれない。涙は弱い人間の武器だ。そう書いています。子どもは、レストランでは母親が他の場所のように力づくで自分を従わせることのできないことも見抜いている。また、母親がどっちみち負けるまで、この争いを続けることができないことも分かっている。トゥルニエはそう言います。

 こうして傷つけられた母親は、子どもの反抗によって二重に自尊心を傷つけられる。というのは、自分の子育てがうまくいかないことと、自分の方が歴然とした力があるのに子どもに負けたということになるというのです。 (続きを読む…)

2022 年 6 月 12 日

・説教 ローマ人への手紙13章8-14節「主イエス・キリストを着て」

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2022.06.12

鴨下直樹

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 パウロは「すべての人に対して義務を果たしなさい」と前回の終わりの7節で語りました。そして、今日の8節では「だれに対しても、何の借りもあってはいけません」と続きます。

 何の話をしているのだろうかと思うかもしれません。ここでパウロは、キリスト者の生き方のことを語っています。特に、ここでは国に対しての義務、責任を果たすということが言われています。

 積極的な戒めと、消極的な戒めというのがありますが、これは消極的な戒めと言えます。人に対して借りがあってはいけないと言います。何故かというと、自分の持っている自由を奪われてしまうことになるからです。

 後ろめたさがある、負い目があるとき、相手に支配されてしまいます。やらされていると思うと、とたんに楽しくなくなってきます。

 それは、家に帰ってきて宿題をすぐに終わらせてしまった子どものようなものです。やることをしていれば、もう自由です。何もとやかく言われることはない。それと同じように、国に対して税金を納めることも同じです。人に対しても借りを作らないで生きることも同じです。積極的な生き方とは言えませんが、そうやって、自分をまもる消極的な姿勢であっても、まずは借りがないということが大事だとパウロは言います。

 ただ、本当に言いたいのはその後の文章です。

8節

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。

とパウロは言うのです。

 これは、積極的な生き方です。損をする生き方ですが、それは別だと言うのです。人に貸しを作るように生きるのは良いことだというのです。8節の続きはこうなっています。

他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。

 自分の方から他者を愛することは、律法の求めていることを超えているというのです。それで、その後で、十戒の後半部分が記されていまして、これは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という言葉に集約されると言っています。

 十戒の後半部分の戒めである、隣人との関係を命じる戒めは、他人を愛するという言葉の中に入ってしまっているというのです。

 これは、相手に対して借りがあるので返すという行為ではなくて、自分の方から相手との関わりを作っていって、相手を愛で包んでしまうことです。積極的な愛のわざです。これは、人によっては余計なお世話だと思われるかもしれません。それは、そうなのです。愛するという行為は、相手に借りを作らせる行動になることだからです。だから、余計なことをしないで欲しい、私もお返しをしなくてはいけなくなるから、やめて欲しい、という言葉が出てくるのは当然といえば、当然なのかもしれません。

 もちろん、恩着せがましくやりなさいと言っているわけではありません。愛は、一方的な行為ですが、その人の心を思いやる心が当然求められます。

 先週の木曜日に、教団の泉会が行われました。オンラインと会場に集まってのハイブリット形式の集まりで、全部で70人以上の人が参加しました。

 とても素晴らしい内容で、私もはじめから最後まで泣きっぱなしでした。その内容は、今度教団内だけで限定配信されるようなので、ぜひご覧になってくださったらと思います。
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2022 年 6 月 5 日

・説教 ローマ人への手紙13章1-7節「権威への服従」

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2022.06.05

鴨下直樹

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 パウロはこの前の箇所で愛の姿を描き出して語りました。それは、キリスト者の生活の様々な場面で必要になる大切な事柄です。その中の終わりに「自分で復讐しないで、神の怒りに委ねなさい」と言いました。すべてを見ておられる神がおられるのだからと言うのです。

 その流れで、今度はこの13章に入ってこう続きます。

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。

 さて、この辺りまで来ると、だんだんそのまま受け入れることが苦しくなってくる方がでてくるのではないでしょうか。愛することは大事。それは分かります。復讐しないで神様に任せなさいは、ちょっと心の中でいろいろ思うところはあるけれど、まあギリギリセーフ。神様が代わりに復讐してくださるというのなら、お手並み拝見というような思いになるかもしれません。

 ところが、パウロは更に「上に立つ権威に従うべき」と言うのです。

 だいたい私たちはこの「べき」というのが好きではありません。

 上に立つ人がいつも良い人ばかりなら問題はありませんが、子どもの頃から私たちは理不尽な要求というものに長年苦しめられています。ほとんどのストレスの原因はここにあるとさえいえるほどです。しかも、この1節から7節まで読みますと、パウロはこの上に立つ権威をどうやら完全に肯定しているわけで、読んでいてもあまり面白いとは感じないかもしれません。

 そんな語り出しをすると、皆さんも「ああ、鴨下先生はきっとこの聖書解釈をひっくり返す裏ワザでもあるんだろう」と期待して、安心したくなる方があるかもしれませんが、最後までこの調子ですから、どうすることもできません。

 最後の7節はこうです。「すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい」とまあ、こんな風に結ばれているのです。

 最後の方になるとまた「べき」「べき」という言葉が続きます。もうため息をついて、私たちもそれこそ帰る「べき」なのかもしれません。

 あえていうと、この箇所を正しく理解するために覚えるべきことの一つは、「これはあくまでも原則だ」ということです。ここに少しの慰めを見出すことができるかもしれません。 (続きを読む…)

2022 年 5 月 29 日

・説教 コリント人への手紙第二 5章11-17節「イエス様の愛に動かされてイエス様のために生きよう!」アイマン師

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2022.05.29

アイマン師

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2022 年 5 月 22 日

・説教 ローマ人への手紙12章9-21節「愛の姿」

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2022.05.22

鴨下直樹

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 今日のテーマは「愛」です。

 「愛には偽りがあってはなりません」と冒頭の9節に記されています。これまで、私は牧師として、結婚式の司式もしてきました。そこで、新郎と新婦に誓約をしてもらいます。「あなたは病める時も、健やかなるときも、順境の日にも、逆境の日にも、いのちの日の限り彼を、また彼女を愛し、真実と誠を尽くすことを神と証人の前で誓いますか?」と尋ねます。

 結婚する時、私たちは主の御前でいのちのかぎり、真実と誠をつくす。そのように愛すると誓うわけです。

 愛するというのは、とてつもなく大変なことです。その誓いをして結婚をするのです。けれども、結婚で誓った瞬間から、この約束を守ることがもう難しくなるのです。健やかなとき、順境の時、ものごとがうまくいっているときはまだ何とかなりますが、一度歯車が狂ってくると、どうしても相手を責めたくなる思いが、私たちの心の中には浮かび上がって来てしまいます。別に何か気になることが起こってその理由を知ろうとして相手を責めるのはまだ良いのです。相手を理解しようとする喧嘩はどれだけやってもいいと思います。けれども、そこに偽りが入り込んでしまうのです。隠し事が生まれるのです。問題はその時です。

 パウロがここで愛には偽りがあってはならないと言います。この12章の9節以下では兄弟愛のことが語られています。けれども、この兄弟に対する愛の中には当然、夫婦の愛もその中に含まれていると考えていいと思います。パウロはここで愛について語る時に、まずは教会の中の人たちのことを語り始めました。

 パウロはこのローマ書の中でこれまで愛を語るときは常に、神からの愛を語ってきました。これを「アガペー」という言葉で表現してきました。見返りを求めない愛です。相手に犠牲を払うという一方的な愛です。それが、神が私たちに示してくださった愛の姿でした。パウロはこの9節で、私たちに向かって、愛とは偽りのないものなのだとまず語りはじめます。この愛とは神が私たちに示してくださったアガペーの愛です。この愛からはじめたのです。そして、その愛を覚えながら兄弟愛のことを語りだしたのです。

 もういまから20年くらい前のことでしょうか。TBSテレビで『世界遺産』という番組をやっていました。私がたまたま目にしたのはルーマニアのトランシルバニア地方にある世界遺産のビエルタン要塞教会でした。その時にとても印象深いエピソードが紹介されたので私は思わずメモを取ったほどです。このビエルタン要塞教会というのはお城なのか教会なのか、という少し変わった建物だったのですが、その放送の中でこんな話が紹介されていました。それはこの教会が行った、離婚の調停に訪れる夫婦に対してのエピソードでした。この教会では離婚の調停に訪れた夫婦は調停人と共に一つの家に住むのだそうです。そこで二週間過ごすのですが、夫婦は奥の部屋が与えられるのですが、そこでは一つのベッド、一つの机、一つの椅子、一つのスプーンで生活するというのです。それで、この教会はこれまで300年間離婚する家庭をほとんど生み出さなかったというのです。ほとんどというのは、300年の間一件だけが離婚したとも話していまして、それもまたリアルな姿を表しているとも思いました。

 愛することは、犠牲を払うことです。結婚すると、どうしてもギブアンドテイクという関係になってしまいます。自分だけが犠牲を払うのは損だと考えるようになるのです。自分が何かをすれば見返りを求めるのです。けれどもそうなると、その愛は偽りの愛になっていきます。このビエルダン教会は離婚調停の期間の二週間の間、強制的にすべての持ち物を一つにすることで、もう一度愛することは犠牲を払うことなのだということを思い起こさせたのではないかと思うのです。譲り合わないと生活できないのです。

 愛することというのは、実際に犠牲をお互いに払い合うことで成り立つ生活なのです。

 パウロはまずそのような愛について語りながら、そこで兄弟愛を語るのです。10節です。

兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。

 ここでは相手が自分よりも優れている者として尊敬すること、という具体的な愛の姿を示しました。私は、これはまさに兄弟愛の秘訣だと言って良いと思います。自分にどんなメリットがあるかというような判断で人を見るのではないのです。この前の説教でも語ったように、人にはさまざまな賜物の違い、能力の違いがあります。それは優劣をつけることのできるものではありません。それぞれが、主の働きのためには必要だと、何よりも主ご自身がそのように見ていてくださるのです。だとしたら、その人には主の目から見ても、素晴らしいものがあるに違いないのですから、私たちの都合や、私たちの損得勘定で人を見るのではなく、その人には優れたところがあることを尊敬する、そういう態度がやはり必要なのです。人間関係の問題は、このことが理解できていたらほとんどのことは大丈夫になるはずなのです。 (続きを読む…)

2022 年 5 月 15 日

・説教 マタイの福音書13章51-52節「天国は本当にある」田中啓介

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:05

2022.05.15

田中啓介

説教全文はただいま入力・校正作業中です。 近日中に掲載いたします。

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2022 年 5 月 8 日

・説教 ローマ人への手紙12章3-8節「一つのからだなる教会」

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2022.05.08

鴨下直樹

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 最近、いろいろなところで言われる言葉があります。「芥見キリスト教会っていろんな賜物を持っている方がいるんですね」

 私自身本当にそう思います。みなさんのことをひとりひとり自慢して回りたいくらいです。

 先週、私は一冊の本を頂きました。Fさんの「詩集 大地青春」という農民文学賞を取られた時の本が、出版されたということでした。実は、その少し前にもOさんがご自分の俳句集をまとめられたものを頂きました。また、先日Kさんの小説「あなたはどこにいるのか」が春秋社から出たばかりです。

 俳句の先生がおられたり、画家がおられたり、指揮者がおられたり、先生と呼ばれる人が数多くおられます。あるいは、新しいものを開発されて注目される方があったりして、紹介しきれないほどユニークな方々ばかりです。私たちはお互いのユニークさについてお互いに喜び合うことができます。

 けれども、その一方で、自分にはそんな賜物はないのでと思われる方もあるのではないかと思うのです。

 私がこの教会に着任した時、すぐにみなさんのところを家庭訪問させていただいたことがあります。その時に、教会に来られなくなった方のところを訪ねると、その方がこんなことを言われました。「この教会は立派な方ばかりで、教会に行くと自分には何もないので、教会に行くのが苦しくなります」。

 私はこの方の言葉を忘れることができません。人とつい比較してしまう。そして、人をうらやんだり、自己憐憫に陥ってしまったりすることがある。それも、私たちの一つの姿であると言わなければなりません。

 パウロはこのローマ書の12章で、具体的な私たちの信仰の歩みのことを語っていきます。そこで、自分を神にささげて生きることが礼拝だと勧め、神の御心を知って新しく生きるように求めました。そこで、パウロは続いてこう言ったのです。3節です。

私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。

 パウロはここで具体的なことを語り出します。「あなたがた一人ひとりに言います」というのは、教会の一人ひとりにという意味です。教会に生きる私たちに、みな同じように言っておきたいのは、「思うべき限度を超えて思い上がってはいけません」と続くのです。

 そう聞くと、少し私たちは肩透かしを食らったような思いになるかもしれません。思い上がれるほど、自惚れてはいない。むしろ、自分はダメだなと思う方が多いので、この言葉はあまりピンとこないという思いがあるかもしれません。

 もちろん、これは個人差があるかもしれません。私は時々「鴨下先生って変に自信がありますよね」と言われることがあります。「変に」ってなんだ? と思わなくもありません。ただ、そういう見方をすれば、思い上がっているタイプの人間に私は分類されるかもしれません。あるいは、その反対で、自分のような人間はダメでという思いになる方も少なくないと思います。

 ここに、「神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて」という言葉が続きます。どういう意味か、いろんな理解があるようですが、「神が各自に分け与えた」とありますから、神が私たちの教会の一人ひとりに分けてくださったという意味です。一つのものをみんなで分けあっているわけです。その分けられた量りに応じて、「慎み深く考えなさい」と勧めているのです。岩波訳の聖書では「慎み深さに導く思いを持つべきである」となっています。

 その「慎み深さ」って何かということになるわけですが、カトリックのフランシスコ会訳では「自分を評価し、程よく見積もるようにしなさい」と訳されています。

 つまりここでパウロが言っているのは、高慢になるなということと同時に、一人ひとりに賜物が分け与えられているので、自分を軽く見積もるような、正しく評価できない自己卑下ということをも、戒めているということなのです。

 高慢になるのでもなく、自己卑下するのでもなく、私たちは一人ひとりが互いに神から与えられたものがあるので、それを正しく受け止めるようにとパウロはここで勧めているのです。

 そのことを一つのたとえで表現しているのが、4節と5節の言葉です。

一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。

 ここでも、パウロは、私たち一人ひとりが集まって教会なのであって、教会に集う私たちは、誰かが高慢でもいけないし、だれかが自己卑下するような性質のものなのではなくて、私たちはみんなでひとつのからだなのだと言うのです。

 一人ひとりには違う役割があって、それぞれがそれこそ誰かの言葉にあるように「みんな違ってみんないい」という働きをしているというのです。これを、パウロはコリント人への手紙でも同じことを言っていますが、パウロの教会理解の大切な部分を表していると言えます。教会の急所ともいえる部分なのです。 (続きを読む…)

2022 年 5 月 1 日

・説教 ローマ人への手紙12章1-2節「心を新たに」

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2022.05.01

鴨下直樹

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この世と調子を合わせてはいけません

 この言葉を読むだけで、いろいろと頭の中で思いが浮かんできます。もちろん、パウロがここで言おうとしていることは、それほど難しいことではありません。私たちは、この世に調子を合わせることが、どれだけ信仰の歩みにとって危険を伴っているか理解しているからです。ただ、問題は程度問題です。「どこまでが良くて、どこからがダメなのか」

 この基準は、みなそれぞれが心の中に持たなくてはなりません。そして、それがもっとも難しいことです。

 現代社会と、聖書の時代とはかなり生活習慣が違います。何十年か前は、クリスチャンはトランプや映画もダメだと考えた時代がありました。特に、「敬虔主義」といいますが、福音派の教会のルーツには、「クリスチャンは敬虔に歩むべきだ」という考え方が強くあったのです。その中には禁酒禁煙というものも含まれています。

 みなさんの中の多くの世代の方々は、何度も、その教えを耳にしたことがあると思います。そして、誰かが教会で良くないと言われている行為をすると、こぞってその人を裁くということが起こったのです。

 一方で、性的な誘惑に関していうと、現代はさらに誘惑の多い時代になりました。不貞を働くことさえも、罪ではないというような世の中の流れがあるなかで、インターネットやメディアではセクシャルなテーマを扱うコンテンツはすぐに簡単に見つけ出すことができます。

 あるいは、もっと進んでLGBTQと言いますがレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、Qはクイアと言って「不思議なとか、風変りな」という意味があるそうです。あるいは、クエスチョニング「性的少数者」のことを含めて、これらの頭文字でLGBTQを認めていこうという流れも出てきています。

 「この世と調子をあわせてはいけません」という言葉の中に意味されるものは、実に多くのテーマが含まれています。そして、簡単に白黒つけることの難しいテーマであることを私たちは知っています。

 ですから、ここでもそんなに踏み込まないでさらっと「みなさん、分かるでしょ。何がいいたいかは」と言って、次に進むことも簡単にできることですが、やはり避けて通ることのできるテーマとはしないで、考え方は理解できるようにしておくのがよいと私は思います。

 私たちは、「この世」に生きています。この世界の外側から眺めているのではなくて、どっぷりとこの世界に浸かって生きています。

 ここで「調子をあわせてはいけません」という言葉があります。少しこの言葉のニュアンスを他の聖書の翻訳で掴んでみたいと思います。新共同訳聖書は「この世に倣ってはなりません」となっています。「倣う」「真似をする」と訳しました。また、さらに新しくなった協会共同訳も同じ翻訳です。では岩波訳ではどうなっているかというと「あなたがたはこの世と同じ姿かたちにさせられてはならない」としました。またカトリックのフランシスコ会訳だと「自分をこの世に同化させてはならない」となっています。

 もともとの言葉は簡単に言うと「型にはまる」という意味になります。この世の型にはめられていく姿を、描き出しています。流行を追い求める。それは、現代人の一つの生活の姿です。自分なりにおしゃれをしたい、常に最先端でありたい、時代についていかないとと思っている。気が付くと、世の中の型にはめられてしまっているというのです。

 いや、もう私たちはそういう最先端というものからはすでにほど遠い世界に生きているという思いもあるかもしれません。そうであったとして、この世の型というものがやはりそこにも影を落としているのです。

 毎日の生活を振り返ってみると、さまざまなテーマがあることに気が付きます。どこの病院がいいのか。どんな薬がいいのか。健康食品はどれがいいのか。便利な車は何か。もう、そういうものから解放されたと思ったとしても、はやりこの世と調子を合わせている自分の姿に気づかされることになります。

 問題は、それらの一つ一つは直接的に罪と結びついてはいないということです。けれども、そのようなものを、楽な生活というものを追い求めていく先にキリストの姿は見えてこないのです。

 ここまで来ると、この言葉の意味するところが見えてきます。「この世」と「主イエス」を対比させているわけです。キリストのようになろうとしていくのか、この世界と一つになっていこうとしているのかということです。 (続きを読む…)

2022 年 4 月 24 日

・説教 ヨハネの福音書1章43ー51節「芥見から何の良いものが出るだろうか…」

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2022.04.24

舛田友太郎

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証詞「会堂建設の恵み」下斗米利男


説教「芥見から何の良いものが出るだろうか…」舛田友太郎


 

2022 年 4 月 17 日

・説教 ローマ人への手紙12章1-2節「神に喜ばれる礼拝」

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2022.04.17

鴨下直樹

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 イースターおめでとうございます!

 この主のよみがえりを記念するイースターの礼拝に、こうしてみなさんと顔を合わせて礼拝することができることを感謝します。

 今日はこの後で、聖餐を行います。四月の第一主日の礼拝にも聖餐を祝いました。そして、先週の聖金曜日と呼ばれる、受難日の礼拝でも聖餐をいたしました。今日の礼拝でも聖餐をいたします。一か月に三度も聖餐をすることを、驚かれる方もあるかもしれません。本当なら、毎週の礼拝におこなっても良いくらいだと私は思っていますが、今日も私たちは聖餐の食卓に招かれています。

 私たちは毎週礼拝をささげています。その礼拝も、聖書に記された礼拝を考えると、ずいぶん形が変わりました。創世記に出てくる礼拝は、祭壇を築きまして、そこで神様に犠牲の供え物を捧げて火で焼いて、おささげするというのが礼拝の形でした。その後、出エジプトの頃になりますと、イスラエルは幕屋というものを作りまして、その幕屋でやはり犠牲をささげておりました。ところが、イスラエルが神にあまりにも敵対したために、イスラエルは滅亡してしまいまして、幕屋の代わりに造られていた神殿も崩壊してしまいます。こうして、近隣の国々に支配されるようになりますと、この犠牲を献げる礼拝はできなくなってしまいます。代わりに、会堂、シナゴーグと呼ばれるところで聖書の教えを聞くという、安息日の過ごし方が生まれてきます。そして、イースターの出来事が起こってからは、教会はパン裂きと言いましたが、聖餐をするために、初代の教会は安息日に代わって、主の日、つまり日曜になると聖餐をするようになっていったのです。

 ところが、そのような聖餐をする礼拝が何百年か続きましたが、宗教改革が起こってプロテスタントの教会になりますとその肝心の聖餐をしない礼拝というのが行われていくようになります。これは、宗教改革者ルターが言い出したことでもあるのですが、ルターは、それまでカトリックで定めていた7つの典礼のうち2つが大事と言って、洗礼と聖餐を典礼、神様が定められた儀式だとしました。ところが、そう言いながらプロテスタント教会ではこの典礼ではない礼拝をしているという不思議な現象が起こっているのです。

 つまり、み言葉の礼拝というのを、礼拝と呼んでいるのです。さまざまな礼拝の本がでていますが、実は、このプロテスタント教会で行っているみ言葉を聞くことを中心とする礼拝を、どう考えるのかという議論はあまり行われておりません。自然に受け入れられていったのです。

 ただ、宗教改革者ルターは、典礼の中心はキリストであり、キリストに与ることがサクラメントであり、典礼だと考えました。そして、「キリストとは神の言葉のことだ」とも言ったのです。これは『教会のバビロン捕囚』という書物の中で書いています。そして、この本が、プロテスタント教会の典礼理解の鍵になっている書物でもあります。

 それこそ、ルターやカルヴァンという宗教改革者の時代は、毎週聖餐をおこなっていたのですが、改革派教会の中からツヴィングリという指導者が出てきます。この人が、プロテスタントの聖餐はカトリックのような功徳を積む行為という理解がない、単なる記念、象徴なので、毎回行わなくてもいいのではないかと言い出して、それから、月一度の聖餐というように定着してきたわけです。

 ただ、そうすると、今やっている礼拝は何かということになってしまいます。ルターは、先ほどいいました『教会のバビロン捕囚』という本の中で、キリストに与ることが礼拝だと言いました。それは、もともとは聖餐を意味していたのですが、キリストとは神の言葉であるとルターが言った考え方が、みことばの礼拝の根底にあるということになります。つまり、みことばを聞くことが、キリストに与ることだという理解が生まれたということになるわけです。そこで、私たちがもう一度考えないといけないのは、神の言葉とは、聖書のことであるという理解は、その中には含まれていないということです。

 なぜ、こういう礼拝の話をこの説教でしたかというと、このローマ人への手紙の第12章からは、パウロがいよいよ、キリスト者の具体的な生き方の話をしているところだからです。そこで、パウロは礼拝ということを第一に語っているのです。

 礼拝というのは聖書の話を聞くことと思われる方があるかもしれません。そう考えてしまうと、私たちの具体的な毎日の生き方が、まるで見当違いなものになってしまいかねません。 (続きを読む…)

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