2016 年 2 月 14 日

・説教 ヨハネの福音書18章12-27節「アンナスの尋問と主の弟子ペテロ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:18

 

2016.2.14

鴨下 直樹

 
 今週からレントに入ります。また私たちはこの礼拝にまさにレントにふさわしい聖書の箇所を聞きました。主イエスの裁判が行われるところです。主イエスが弟子のユダの裏切りによって捕えられ、裁判にかけられます。今日のところはローマの裁判というよりも、ユダヤ人たちによる裁判と言ったらいいでしょうか、尋問というべきかもしれませんけれども、アンナスによる取り調べをうけるところです。

 先週の木曜日、前任の浅野牧師のお子さん、Y君の記念会が行われました。亡くなって10年を今年で迎えました。私はその時ドイツにおりましたので葬儀にでることはできませんでした。浅野先生たち家族がY君を支えられた生活は本当に厳しいものだったのだろうと想像します。また、教会のみなさんも、そのために祈り支えてこられたのだろうと思います。この記念会で浅野先生がコリント人への手紙第二、第四章16―17節のみ言葉を紹介してくださいました。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

 この聖書の箇所は、Y君が病を再発して動揺していた時に、聖書を読んでほしいと頼んだそうですけれども、読む箇所、読む箇所、そこじゃない、そこじゃないと言っていたんだそうです。ところが、このみことばを読んだとたん、「もう大丈夫」と言って落ち着きをとりもどしたのだそうです。

 まだ10歳という若さで、自分の病と闘いながら、死と向き合うというのはどういうことだったのだろうかと、改めて考えさせられました。そんなことを考えながら、今日の説教のために、この箇所を読んでいたのです。
 そうしたら、金曜日の昼に、Nさんから電話がありまして、妻のHさんが心筋梗塞で、今から救急で県病院で治療を受けるので祈って欲しいという電話をいただきました。電話をいただいてすぐ病院に向かいました。Hさんは、四か月前、祈祷会の最中に急に胸が苦しいと言って倒れられ、救急車を呼んで、治療を受けたばかりです。「大動脈解離」という、心臓から出ている大動脈という血管が縦に裂けてしまう大変な病だったのですが、治療している間に血管の傷が塞がっていきまして、その時は手術をしないでも良いということで回復したわけです。今回、また心臓ということで、とても心配しながら病院に行ったのですが、幸いにも、大事には至りませんでした。心臓の痛みを覚えたそうですが、血液をサラサラにする薬を飲んだところ、痛みは消えたのだそうで、今は原因を探りながら、薬で症状を改善できるように調べているということでした。
 思わぬ事態というのは、どこか遠いところにあるのではなくて、本当に私たちの日常というのは、常に死と隣り合わせのところにいるのだということを、改めて認識させられています。 (続きを読む…)

2016 年 2 月 7 日

・説教 ヨハネの福音書18章1-11節「誰を捜しているのか」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:03

 

2016.02.07

鴨下 直樹

 
 私事で始めて恐縮ですが、みなさんは散歩をされることがあるでしょうか。私は長い間飼っていた犬が死んでからすっかり散歩をしなくなってしまいました。けれども、まだドイツにおりました時は、必ず一日、小一時間犬と一緒に散歩に出かけました。私の住んでいた村はオーバディルフェンという小さな村です。人口も1000人いるかどうかというような村で、家の通りを500メートルも歩きますとすぐに森に入ります。毎日、ほぼ同じ道を、ドイツ語の単語帳片手に午後3時頃から歩き始めるというのが日課でした。今でも、その時のことを時々思い出して、懐かしく思う時があります。

 主イエスもまたエルサレムにおられた時に、いつも決まったコースを歩きながら祈りに出かけられたようです。弟子たちであれば、みなその道を知っていました。弟子たちにとってその道は特別な道です。ケデロンという、冬の間だけ水が流れて川になった谷がありまして、その川筋にそってオリーブ山と言われる所へとつながる道です。ヨハネはそのことをここでしっかりと記録しています。特別な思いがあったのでしょう。あるいは、その弟子たちにとって特別な場所が、裏切り者のユダによって汚されてしまったのだという悲しい気持ちが込められているのかもしれません。
 ユダはそこに一隊の兵士たちと、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れてきています。数百人というものものしい人数で、夜だったのでしょう、たいまつと、おのおの武器をもってその道に集まって来ているのです。

 今日のこの箇所は主イエスが逮捕されたところが記されています。新共同訳聖書ではここに小見出しがついていまして、「裏切られ、逮捕される」と書かれています。聖書を読み進めていくなかで、読む人にショックを与える箇所と言えます。けれども、聖書を読む時にとても大事なことは、このヨハネの福音書はまさに、人々がショックを受けるところで、何を語っているかということです。

 先日も、ニュースで有名な野球選手が覚せい剤で逮捕されたというニュースが報道されました。そうしますと、いたるところで、あの人は昔からちょっと問題があったというような発言がどこからともなく飛び出してきまして、もうそんなことばかりが報道で取り上げられます。捕まえられる人間というのは、どこかに問題をかかえている弱い人間なのだと、それまでとはまるで手の平を返したような言葉で一斉に攻撃を始めます。
 私たちはそういう人間の弱さを見ると、まるで鬼の首を取ったかのように、突如として攻撃的になります。不快だと感じるのです。不快だと感じるので、そういう人を攻撃しながら、自分はそうではない、そういう弱い人間ではないのだとことさらに語ろうとします。

 しかし、このヨハネの福音書をみていますと、ここで捕えられようとしている主イエスの姿はちょっと異なります。4節よみますと、主イエスの方から、出てこられて「誰をさがすのか」と問いかけられているのです。そして、5節と6節を見てみますとこのように記されています。 (続きを読む…)

2015 年 11 月 22 日

・説教 ヨハネの福音書17章20-26節「主にあって一つとなる」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 09:32

 

2015.11.22

鴨下 直樹

 
 11月14日、私たちの教会で特別講演会を行った日に、フランスのパリで同時多発テロが起こりました。日本でははじめあまり取り上げられていませんでしたけれども、ヨーロッパではかなり大きな問題として人々は捉えています。毎日の生活が脅かされているのです。多くの人々は今、とても不安な中で毎日を過ごさなければなりません。それと同時に平穏な生活というのは常に脅かされる危険があるのだということを、誰もが身に沁みて感じています。

 このヨハネの福音書には「世」という言葉が何度も出てきます。「コスモス」という言葉です。それ以外にも聖書には「世」と言う言葉は何種類かあるのですが、この「コスモス」という言葉は、神に敵対する世界という意味でこのヨハネの福音書では使われています。神の救い、神の支配、神の国、色々な言い方で聖書では書かれていますけれども、この神の救いの世界に相対する世界が「世」と聖書では言っています。それは、こういうふうにも言うことが出来るのですが、神の救いのない世界という意味です。

 聖書を読む時に、私たちはいつも、この世界に生かされているということを念頭においている必要があります。そして、前にも話しましたけれども、この救いのない世界に私は生きているということ、この世と自分とは無関係ではないということ、自分も世そのものとなっているという部分を認めなければなりません。

 テロが起こったので、この世界は危ないということではありません。テロが起きてしまう世界、誰でも自分の正義を持ちうるこの世界そのものは、神の正義とは違うところで生活が営まれている世界なのです。私たちは、11月14日以前からどうしようもないほど危ない世界に生きています。神の救いのない世界に生かされているのです。

 なぜ、この世、この世界には救いがないのか。そのはっきりとした答えが、今日の聖書の中に記されています。それは、主イエスがこの世界におられないからです。いや、この世が、この世界が主イエスを殺してしまった。神がこの世界にもたらそうとした救いを、この世界は拒みました。それが、主イエスの十字架です。ここに、この世界の罪があります。神の救いがなくても、この世界で幸せに生きられるのだと人々は考えているのです。 (続きを読む…)

2015 年 11 月 15 日

・説教 ヨハネの福音書17章6-19節「主のみもとに」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 16:02

 

2015.11.15

鴨下 直樹

 
 今日は、主に11節を中心にこのみ言葉に耳を傾けてみたいと思います。

わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。

 ヨハネの福音書の第十七章は主イエスの祈りが記されているところです。しかも、最後の祈り、主イエスが十字架で死ぬ直前の祈りです。弟子たちへの最後の別れの言葉を伝えたあとで、主イエスが弟子たちと別れる前に、祈った祈りです。その祈りは、この世に残される弟子たちを守って欲しいという祈りです。

 今日は召天者記念礼拝です。今日は共に先に天に送った私たちの家族、信仰の友として生きられた方々のことを思い起こしながら、礼拝を捧げています。礼拝では順にヨハネの福音書からみ言葉を聞き続けていますけれども、まさに、この箇所は召天者記念礼拝にふさわしい箇所です。けれどもよく考えてみますと、私たちは毎週の礼拝において既に天にあげられた主イエスのことを思い起こしつつ礼拝をささげているのです。

 昨日のことですけれども、私たちの教会で特別講演会を行いました。名古屋にあります中京大学の安村仁志学長をお招きいたしました。講演のテーマはすこし長いのですけれども、「人とは何者なのでしょう。人はどこに向かっているのでしょう。ほんとうに大切なものは何でしょう」というテーマでした。安村先生自らがつけてくださったテーマです。

 この講演で安村先生は、「パスカルの原理」で知られるフランスの自然哲学者でもあり、思想家でもあるブレーズ・パスカルの話をもとにお話しくださいました。このパスカルという人はパンセという本を書いたことで知られています。あの「人間は考える葦である」と言った人です。私も昨日とても興味深く聞いたのですが、このパスカルがどんなふうに人間を見ていたのかというところから講演をしてくださいました。もちろん、ここで昨日の講演を繰り返すつもりはありませんけれども、パスカルは「人間が偉大なのは、自分が悲惨だということを知っている点においてである」と考えたのだそうです。それは、自分の存在が不確かなものだというところからきているわけです。このパスカルが悲惨さをどこに見たのか、いくつかあるようですけれども、人間は死んでしまう存在だということ、そして、無知であるということです。人は必ず死ななければならないというところから生じる悲惨さ、知らなければならないことも知っていない悲惨さ。けれども、その悲惨さを受け止めることができるなかに人間の偉大さがあると考えたのです。多くの場合、人はその自分の悲惨さに目を止めようとはしません。それで人間は何をするのかというと「気晴らし」をするのだとパスカルは考えたのだそうです。どういう気ばらしかというと、死ぬとか、無知だとかいうことを考えなければ幸せでいられるというわけです。思い当たるところがたくさんある気がします。それで、パスカルは神を知らなければその人間の悲惨さからは解放されないのではないかと考えたということでした。 (続きを読む…)

2015 年 11 月 8 日

・説教 ヨハネの福音書17章6-19節「悪い者から守られ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:32

 

2015.11.08

鴨下 直樹

 
 先日、子どもを幼稚園に乗せていく途中、娘が急に質問をしてきました。「ねぇ、神様は誰かがつくったの?」と言うのです。いつも、この世界にあるすべてのものを神様がお造りになられたという話をしているので、何かのきっかけがあって急に疑問がわいたのでしょう。私が、「神様は誰からもつくられていないの。はじめからおられたんだよ」と答えました。「ふーん。」と少し納得したのか良く分からなかったのですが、しばらくしてまた別の質問をしてきました。指を上にあげて「これの上には何があるの?」というのです。私は、「車の屋根? 屋根のこと? 屋根の上には何にも載ってないよ」と答えますと、「違う、あれ!」と空を指差すのです。「ああ、空? 空の上のこと? 空の上には宇宙が広がっているの」と教えます。そうすると「宇宙って何?」と聞いてきます。そこで、私は何と答えたのかというと、「ほら、この間、お父さんが見ていた映画、スターウォーズの世界だよ」と答えてしまったのです。我ながら、後々になっても後悔しているんですが、空のうえには「天があって神様がおられるところ」と答えればよかったのに、私ときたらよりによってスターウォーズはないだろうと・・・。反省しました。

 ここからはいつもの親ばかですけれども、しかし、三歳ですでに時間概念、空間概念の質問ができるとは我が子ながら、天才ではなかろうかと、娘を幼稚園に送ったあとで一人でほくそ笑んでおりました。
 この金曜日も東海聖書神学塾で今、説教学を教えているのですが、塾生に説教の導入は大切だと教えているのですけれども、こういう話で説教を始めることが、いったい今日の説教のなにかに役立っているのか私にも少し分からなくなります。

 もちろん、小さいながら意図はあるのです。今日のヨハネの福音書は主イエスの祈りです。とても重要なところですので、今週と来週と二回に分けて話をする必要があると思っています。この主イエスの祈りは、ちょっとこの時間概念と空間概念が超越しています。もちろん、ここでそんな何とか概念という難しい話をするつもりもありません。娘の質問にあった神様が世界を創られた以前のことや、あるいは、父がおられるところと、主イエスが今おられるところという意味だけわかっていだければそれで充分です。

 これは主イエスの祈りです。まさに父なる神と、御子イエスの親しい交わりの姿がここに描き出されています。そこには「わたし」と「あなた」という主イエスの深い父なる神に対する親しい語りかけの言葉だけが記されています。色々なことが語られていますけれども、少し注意深く読んでみますとそれほど難しいことが祈られているわけではありません。主イエスのことを弟子たちはこの祈りの前の部分でついに主イエスを理解して、信じました。けれども、主イエスは今から天に戻られるので、どうか、この弟子たちを守ってやって欲しいということが祈られているのです。 (続きを読む…)

2015 年 10 月 18 日

・説教 ヨハネの福音書17章1-8節「永遠のいのちを」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:48

 

2015.10.18

鴨下 直樹

 
 今日から、ヨハネの福音書の第17章に入ります。ここは、主イエスの告別説教の結びの部分でもあります、主イエスの告別の祈りがささげられているところです。この17章はすべて主イエスの祈りですが、少し分けてこの主の祈りに耳を傾けたいと思います。
 今日の箇所は冒頭の一節にこのように記されています。

イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください」

 この時、主イエスと一緒にいた弟子たちはこの主イエスがなさる祈りを傍らで聞くことができました。主の祈りの姿を直に見ることが出来たのです。そして、私たちはここにこの祈りが記録されているので、私たちも、まるで弟子たちと共に、主の傍らにいるかのようにして、主の祈りを聞くことがゆるされています。

 先週の木曜日の祈祷会の時に、ある方が人の前で祈ることが苦手だという話をされました。何人かの方が同じように感じておられるようで、おそらく、ここにも同じような思いの方がおられると思います。その時に、ある方が、「先生はどういう祈りがいい祈りだと思われますか」と率直に質問してくださいました。みなさんとしても、どういう祈りがいい祈りなのかと興味のある方があるかもしれません。私はすぐに、「主に、直接語りかけているような祈りは、いい祈りだと思いますねぇ。」と答えました。祈るときに、どうしても、うまく祈りたいと思う。立派な祈りをして、他の人にあの人はこんな立派な祈りをすると思ってもらいたいというような下心がある。あるいは、反対に、せめて恥ずかしい祈りだとは思われたくないという思いがあるのかもしれません。けれども、祈りは私たちにゆるされている、父との深い交わりの時です。先週の説教でもいいましたけれども、私たちは、主イエスに取りなしてもらってやっと祈ることができるという関係ではなくて、もう、直接父よと祈ることができる関係にされているのです。

 弟子たちはこの時、主イエスと父なる神との会話をすぐ横で聞くかのようにして、主の祈りの交わりを目の当たりにしました。それは、弟子たちにいいところをみせようとか、かっこ悪い姿を晒さないようになどということがまったく入り込む余地のないほど深い交わりでした。ある人が、「受話器の向こう側の声が聞こえてきそうだ」と言いましたが、まさに、そのような深い交わりの祈りがここに記されています。 (続きを読む…)

2015 年 10 月 11 日

・説教 ヨハネの福音書16章25-33節「主イエスを知る日」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:02

 

2015.10.11

鴨下 直樹

 
 今、名古屋で教えております東海聖書神学塾で、この10月から説教学を教え始めました。先週の金曜日で二回目の授業です。先週いきなり宿題を出しました。創世記1章1節からの説教を800文字で書いて来るようにという宿題です。それで、この金曜日に今学んでおります8名の神学生に、順番にこの短い説教を読んでもらいました。まだ、何も学んでいない状態で、いきなりの宿題ですからずいぶん手こずるだろうと思っていました。実にバラエティに富んだ説教が出てきました。そこで、説教の分析をするために大切なことを少しお話ししました。

 こういう話を礼拝でしてしまうのは自分の説教の手の内を明かしてしまうようなものですが、説教には大きく分けて四種類の言葉があります。一つは聖書を説明する言葉です。これは説明はいらないと思います。この聖書はこういう意味だという言葉は必ず説教の中に入ります。二番目は聞き手を解く言葉です。説教を聞く人々の心を解く言葉、たとえば、この箇所を読むとこう思うかもしれませんがとか、人にはこういう考えがありますなどといいながら、人の心に寄り添いながら、み言葉を語っていくわけです。もう一つは説教者の言葉というものがあります。いまやっているこの冒頭からの言葉はみんな説教者の言葉といってもいいかもしれません。最後に、神の名による宣言があります。神はあなたにこう言われるという神の言葉を宣言する。この言葉が説教のもっとも大事な部分です。金曜日に、神学生たちの何人かの説教を取り上げまして、一つ一つの文章を丁寧に読みながら、ここで何を意図して説教をしようとしているのか、四つの色で色分けしながら、その説教の内容を分析していくわけです。私はこの説教分析という作業はとても好きです。色々な説教を読みながら、そういう視点で読んでいきますと、語り手の言いたいことというのが、つかみやすくなるからです。
 
 今日の聖書の言葉は、そういう意味でもとても興味深い箇所です。今まで主イエスは何度も何度も同じ話をなさってきたわけですが、今日のところで、ついに、弟子たちは「今、はっきりと分かった」と言ったのです。それで、私は主イエスのこの言葉を分析してみるわけですが、どの言葉で弟子たちは主イエスのことがようやく分かるようになったのか。
 分かったと言っているのは29節ですからその前の言葉ということになります。つまり、今日の25節から28節までの言葉を聞いて、どうも弟子たちは分かったらしい。けれども、そう思いながら、この部分を注意深く見てみても、この言葉かなというのは見えてきません。
 先週説教をしました、18節で、弟子たちは「分からない」と言っていますから、少し箇所を広く見たとしても19節から28節までが重要な言葉であることが分かります。
 また、先週のところからお話しするつもりはありませんので、先週のところと、今日のこの前半部分は弟子たちにとって決定的な意味をもつ言葉であったということは少なくとも分かるわけです。
 そこで、今日のところで、25節にこう書かれています。

これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。

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2015 年 10 月 4 日

・説教 ヨハネの福音書16章15-24節「悲しみから喜びへ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:52

 

2015.10.4

鴨下 直樹

 
 先週の日曜日、私たちは教団の日を共に祝いました。私は先週、みなさんと共に礼拝を祝うことは残念ながらできませんでしたけれども、午後に教団の日の集いが稲沢教会で行われ、そちらで一緒に教団の日の祝いをいたしました。四年前から、この教団の日の集いを地区別の主催にいたしました。そのために、その地区の教会の方々は本当に大変な準備をして、どのようにしたらこの日を一緒に祝うことができるのかと考えながら毎年のことですけれども、大変素晴らしい集会を計画してくださいます。今年は、稲沢の教会に270名以上の方々が集まったようで、懐かしい方々と一緒に教団の日を祝う礼拝をするというというのは本当に嬉しいものです。

 特に、今年は講師を招きました。大学生の伝道をするKGKという団体がありますが、このKGKの副総主事をしておられる大嶋重徳先生が説教をしてくださいました。非常に情熱を込めた説教をしてくださり、エレミヤ書からですけれども、主に喜んで仕えていきましょうと語ってくださいました。私もずいぶん色々なチャレンジを受けました。来年はこの同盟福音の宣教が始められて60年を迎えようとしています。そういうなかで、もう一度地域に伝道していくことの大切さを共に心にとめていきたいと思っています。

 先週の祈祷会でも、この芥見教会の伝道も来年で35年になるのではないかということを話していました。来年何か記念集会でもするかどうかという意見もありましたが、やはり40年がいいのではないかと思っています。そこでつい口に出したのですけれども、「荒野の40年」というテーマがいいのではないかと言ってしまいました。40年というと、まずやはり出てくるのは聖書の中では患難を示す数字です。40年の宣教は大変であったということをやはり表現するべきなのではないかととっさに思ったからです。けれども、もちろん、まだそれまでには5年あります。その間に主の再臨がないとも限りませんし、その間にもまだまだ色々な歩みがあるはずです。一言で、それを「荒野の40年」という言葉でまとめることもできないなと思います。

 今朝、私たちに与えられているみ言葉は、主イエスが「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます」と弟子たちに向かって語りかけられたところです。もう何度も、主イエスはご自分がこの地を去ることを語り続けておられます。けれども、この主イエスが弟子たちに向かって語り続けてこられたことは、弟子たちにはまだはっきりと何を意味するのか、分かってはいなかったようです。それが続く17節にありますが、弟子たちは互いに、主が何を言っておられるのか、これはどういうことなのだろうと、語り合っていたとあります。主イエスが去って行かれるということが理解できなかったのです。弟子たちはもはや直接、主イエスに尋ねることもできないほどに、悲しみに支配されてしまったようです。そこで、主イエスはそのような弟子たちが抱いている悲しみをとてもよく理解してくださいました。21節ではその悲しみ、苦しみをこんな言葉で表現されています。21節。

女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。

とても興味深い言葉です。 (続きを読む…)

2015 年 9 月 20 日

・説教 ヨハネの福音書16章4-15節「聖霊の示す真理」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:31

 

2015.9.20

鴨下 直樹

 
 今、私たちは主イエスの告別説教といわれる言葉を聞き続けています。14章から16章までで、主イエスは弟子たちに別れの言葉を告げておられます。特に、今日のこの短い箇所の中にも、何度も、私は去って行くのだという言葉が語られています。5節、「今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうと」、7節「わたしが去って行く」「もしわたしが去って行かなければ」「しかし、もし行けば」とあります。10節にも「わたしが父のもとに行き」と言われています。もう、わたしは行くのだ、去るのだという言葉を弟子たちはどのような思いで聞いたことでしょう。主イエスと弟子たちが一緒に過ごした期間は3年であると一般にいわれています。このヨハネの福音書を読む限りですと、一年ほどの期間しかなかったような書き方になっています。一年であろうと、三年であろうと、寝食を共にし、実に中身の濃い時間を過ごした人との別れというのは心に大きな穴をあけてしまいます。どんな教師や牧師であってもなしえない、実に豊かなものを主イエスと共に生きた弟子たちは味わうことができたはずです。

 それで、主イエスは言われました。5節の後半部分です。「あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません」。もちろん、弟子たちは何度も主イエスに尋ねたのです。13章の最後のところではペテロがイエスに命がけで「あなたの行くところに私はついて行きます」と言いました。14章ではトマスが「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちには分かりません」と言っています。はじめのうち弟子たちは主イエスに尋ねていたのですが、だんだんと主イエスの行かれるところに自分たちはついていけないこと、そして、主イエスを失った後迫害があること、けれども互いに愛し合うことなどを主イエスから聞かされました。そうこうするうちに弟子たちは悲しみに支配されてしまったようです。ですから6節で主イエスはこう言われました。

かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。

 弟子たちにしてみれば主イエスと一緒に歩み、寝食を共にしながら、毎日慰められ、生きる望みが与えられ、これこそが人の生きるべき姿なのだということを味わってきました。そして、これから自分たちがどのような生き方をすることになるのかを心躍る思いで毎日過ごしていたに違いないのです。この主イエスと共に生きることが、自分の生きる喜びそのものだったのです。それが、ここに来て、急に主イエスが別れの言葉ばかりを告げられるようになってきたので、もう弟子たちには続けて主イエスに尋ねる気持ちが失われてしまうほど悲しみにくれていたのです。それは誰もがよく分かることなのだと思います。

 しかし、主イエスはそのような弟子たちに向かって語りかけられます。7節。

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。

と。
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2015 年 9 月 13 日

・説教 ヨハネの福音書15章18-16章4節「信仰の戦い」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

 

2015.9.13

鴨下 直樹

 
 この水曜日から祈祷会でレビ記を学び始めました。レビ記というのは、おそらく聖書を読み始められた方が、創世記と出エジプト記を何とか読み終えた後で、最初にぶつかる壁になる場合があります。こまかな戒めの規定がいくつも書かれていますので、レビ記で挫折してしまったという方の話をよく聞きます。けれども、注意深く読んでいきますと、なかなか面白い箇所です。神がどれほど細やかな配慮をしていてくださるのか、ご自身の民がどのように生きることをねがっておられるのか、そういう神の心をつかみとることのできる箇所です。この水曜日と木曜日の学び会に比較的多くの方が集ってくださったことを嬉しく思っていますけれども、これからすこしずつ丁寧に学んでいきたいと思います。先週は最初でしたので、レビ記というのがどういうことを目的として書かれたのかという話をしたのですが、一言でいうと「聖さ」です。主はご自身の民に聖くあることをねがっておられることが、レビ記を読んでいきますと分かってきます。この「聖い」という言葉は、その時もすこし説明をしたのですけれども、私たちがイメージする「聖さ」というのは、「純粋」とか「ピュア」、汚れがないということを連想しがちですが、「違う」という意味で理解してくださるとよいと思います。主は、ご自分の民に、この世の人とは違うことを求めておられる。ですから、「聖い」というのは、「この世のあり方とは違う」という意味です。

 今日、私たちに与えられている箇所は、この「世」があなたがたを憎むということが書かれています。19節にはこうあります。

もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。

 旧約聖書に記されている神の民であるイスラエルも、主イエスの弟子も、まさに、主からこの世の者とは違う者、聖い者として召し出されます。だから、世はあなたがたを憎むのだと主イエスは言われているのです。 (続きを読む…)

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