2011 年 11 月 6 日

・説教 マタイの福音書16章21-28節 「わたしについて来なさい」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 22:05

召天者記念礼拝

2012.3.18

鴨下直樹

 今日は召天者を覚える主の日です。そういうこともあって特別に今朝はこの礼拝に共に出ておられるという方もあります。そういう特別な礼拝ですから、特別にそのために聖書の個所を選んで説教をするということもできると思いますけれども、この朝は、いつもに引き続いてマタイの福音書から御言葉を聞きたいと思います。
 マタイの福音書はこの十六章で大きな山場を迎えます。内容的に、もっとも大事だと言われることがここに書かれているのです。それが、先週お話ししました、この前の聖書の個所から続く、この朝私たちに与えられている聖書の個所です。そして、この個所はまさに召天者記念の礼拝に聞くにもっとも相応しい聖書の個所だと言っていいと私は思っています。 (続きを読む…)

2011 年 10 月 30 日

・説教 マタイの福音書16章13-20 「この岩の上に」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

2011.10.30

鴨下 直樹

 先週の金曜日のことですけれども、二週間半の間、教会からおゆるしをいただいて、ドイツの研修旅行に行かせていただいて、無事に帰ってくることができました。この研修旅行に私たちの同盟福音教会から九人の牧師たちが参加いたしました。

 ドイツにある自由福音教会の中に、アライアンス・ミッションと言う海外宣教のための宣教団体があります。ことのきっかけは、このアライアンス・ミッションの宣教局長にエアハルト・ミヒェル先生が就任したことにあります。エアハルト先生は、昨年私たちの教会の礼拝で説教してくださった先生ですから覚えておられると思います。この方は、もともと海外宣教の働きをしておられたわけではありません。その前はドイツの国内宣教の局長をしておられたのです。そして、東西ドイツ分裂の時代から統一されて、もう一度ドイツ中に教会を建て上げようという願いを持って、特に東ドイツを中心に多くの教会を建て上げて来ました。そのプロジェクトの中心的な人です。

 そして、今海外宣教の責任者になっても、教会を建て上げることは基本的に同じではないかということで、日本の牧師たちにもドイツでどのような教会を建て上げているのか是非とも見て、学んでもらいたいということで、日本の牧師たちを招待してくださったのです。

 ですから、今回は特に旧東ドイツの教会をいくつも訪ねました。そのほとんどが開拓途中の教会です。もちろん、歴史的に古い教会もありますけれども、自由福音教会の歴史というのはそれほど古くはありません。古くても百五十年位でしょうか。しかし、それでも日本のプロテスタント教会の歴史よりも長いのです。東ドイツの教会を見て回りながら、宗教改革者ルターの訪れた地にもいくつか訪問しました。明日の31日は宗教改革記念日です。いたるところに、2017年は宗教改革記念五百年の祝いが行なわれるというポスターがすでにルターゆかりの地の教会には張り出されておりました。ドイツのそのような古い伝統的な教会も、また新しくうみだされたばかりの自由福音教会も、こうして日本の岐阜の地で今年で三十年を迎えたこの芥見キリスト教会も、同じ信仰を告白している教会なのだということを改めて考えさせられてきました。

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2011 年 10 月 2 日

・説教 マタイの福音書16章1-12節 「天からのしるし」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 17:27

 

2011.10.2

 鴨下直樹

 

 今朝、説教のタイトルを「天からのしるし」としました。いつも散歩をする時に、教会堂の前に張り出されている掲示板を見るのですが、この説教題を見ながら色々なことを考えます。この教会の前を通った人はこの題を見て、何を考えるのだろうかと想像してみるのです。「何だろう?」とただ疑問に思うだけかもしれません。そこから色々な想像が始まるかもしれません。色々と考えているうちに、なぜ、こんな題をつけたんだろうかと、題をつけた人は一体何を考えているんだろう、何を考えさせたいんだろうというところまで考えがめぐると、我ながらおかしな気分になるのです。自分でもなぜ、こんな題にしたんだろうかと、自問自答がはじまってしまいます。 (続きを読む…)

2011 年 9 月 26 日

説教:マタイの福音書15章29-39節 「神の言葉の世界へ」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 20:30

2011.9.25

鴨下直樹

先週と日曜日から月曜日にかけてこの芥見教会のキャンプが行なわれました。今年の年間聖句であるローマ人への手紙十二章二十一節の「悪に負けてはいけません。かえって善を持って悪に打ち勝ちなさい」という御言葉をもう一度思い出しながら、この御言葉について一緒に考えてみたいと言う試みでした。

教会の教育部の方々が大変良く準備をしてくださって、予想外に豊かなキャンプとなりました。予想外になどと言われると、準備をした方々は何事かと思われるかもしれませんけれども、本当にいくつもの興味深いテーマでこの御言葉をみんなで味わうことができたと思っています。と言いますのは、こういうテーマを掲げて誰かが発題を頼まれてしますと、多くの場合当たり障りの話をして終わってしまうことが多いと思います。ところが、誰もが例外なしに、そこで話された発言はこの御言葉に深く根差した意見ばかりでした。

この御言葉をめぐって実にさまざまな発題がなされました。“悪に負けないためのそれぞれの信仰の戦いの姿について”お話し下さった方もおります。“私たちの行いではなくて、主は心の中の動機を問われるのではないか”“復讐の心のまま祈ると言うことはどういうことか”“怒りの感情、裁きの感情というものは聖書ではどのように考えられているのか”“そもそも悪と言うのは自分にとって悪いことなのか”本当に実にさまざまなことをこの御言葉から促されてそれぞれ語り合いました。退屈するなどという暇はないほどです。目の前に出されていたお茶菓子に誰も手をつけないほど、真剣な語り合いが行なわれました。本当に皆が毎日どれほど真剣に御言葉と共に歩んでいるか良く分かりました。 (続きを読む…)

2011 年 9 月 18 日

説教:マタイの福音書15章21-28節 「りっぱと主に言われた祈り」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 13:32

2011.9.18

鴨下 直樹

 先週の水曜日と木曜日の祈祷会の時に、長い間アメリカで牧師として働いてこられた田中啓介牧師から「仏教と信仰」というテーマでお話くださいました。実は私もその時まで知らなかったのですけれども、この田中牧師は岐阜の高山に陣屋というところがありますけれども、そのすぐ近くにあります大きなお寺の息子として青年時代までを過ごしたということでした。そして、アメリカにわたって信仰を持ち、牧師になった。ところが、アメリカに住んでいる多くの日本人たちが日本に住んでいる日本人以上に仏教を熱心に信じる姿をみながら、必然的に仏教についてもう一度学びなおす必要があったのだそうです。それは良く分かることです。先週も、実に明確に仏教について、特に、ブッタが教えて信仰について教えてくださいました。

 そのお話の中で私が特に面白く聞いたのは、日本の仏教に限らず、人が祈る時に何を祈るのかということをお話になりました。祈りの内容を大きく分けると、家族が無事であること、病気や災いから守られること、お金の必要が満たされることの三つだと言われました。家内安全、無病息災、商売繁盛というわけです。その話をなさりながら田中牧師が問われたことのは、この三つの祈りの祈りと私たちの祈りのどこが違うかということでした。私たちも同じように祈っているのではないかということを問いかけられたのです。 (続きを読む…)

2011 年 9 月 11 日

説教:マタイの福音書 15章1-20節  「神の言葉によって」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 20:16

2011.9.11

鴨下直樹

「食事をする前には手を洗いましょう」と私たちは小さな時から聞かされています。大事なことです。今から何年か前のことですけれども、夏に学生の長期キャンプというのを行なっていました。マレーネ先生と共に、二十名ほどの学生たちを連れて色々なところに出かけました。そこで、二週間ほどのキャンプをするのです。その年は割合に近いところ、岐阜県の白川郷でキャンプを行ないました。いつもは北海道とか、沖ノ島というような遠い所に出かけますから帰りの準備をするのは大変なのですけれども、白川郷はそれほど遠くありません。それで、キャンプが終わる最後の昼食はバーべキューをして帰ることになったのです。もちろん、みな楽しく食事をしまして、車に乗り合わせて高速道路を走って帰ります。すると、私のお腹の調子が良くない。すぐにお腹が痛くなってしまってトイレに立ち寄ります。パーキングを出て少し走るとまたお腹が痛くなる。私が何度もトイレに走る姿を学生たちはずいぶんと楽しそうに見ていました。誰かが「食中毒ではないか?」と言いだします。食事の準備をしたマレーネ先生としてはそんなことは聞き逃せません。そんなに変なものを出したつもりはないというわけです。すると、別の学生が言うのです。「いや、鴨下先生だけは手を洗わないで食べていた」と。

家に帰ってすぐに病院に行きましたら、残念ながら本当に食中毒ということでした。他の誰もなっていないのに、私だけです。食事をする前に手を洗うというのがどれだけ大事なことなのかを身を持って体験することになったわけです。

しかし、この聖書の物語を読んで慰められるのは、食事の際に手を洗わなかったのは、主イエスの弟子たちだけでのことではなかったようです。どうも主イエスも手を洗っておられなかったのです。主イエスが手を洗っておられたとすれば、その弟子たちも当然手を洗ったはずです。そうしますと、手を洗わなかった私としては少し慰められるところです。 (続きを読む…)

2011 年 8 月 28 日

・説教 マタイの福音書14章22-36節 「恐れに立ち向かわれる主」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 12:39

 

 

2011.8.28

 鴨下直樹

 

 今、信徒交流月間ということで、毎週行なわれている祈祷会で信徒の方々が色々な話をしてくださっています。今年はほとんどの会に参加することができていますけれども、本当に毎週大変楽しみにしています。先々週のことですけれども、医師をしているTさんがお話くださいました。この方は外科医をしていまして、腫瘍が専門です。そうすると、どうしても死を目の当たりにしている方々と関わることになります。そこで、ひとりのキリスト者の医師として、死にある患者に対して自分がどういう思いで接することができるかということをお話くださいました。

 死と向かい合うというのは、誰もが避けては通れない道です。その中でTさんは、多くの癌患者が初めは非常に激しい抵抗を見せるけれども、誰もがしばらくすると、どこか腹が据わってくるようで、自分の与えられた命の時間を受け止めて行くのだということをお話し下さいました。これは私には非常に興味深いことでした。その人の中で何かが起こるというのです。Tさんはその人の中で何が起こっているのか聞いてみたいけれども、なかなかそれはできないということでした。 (続きを読む…)

2011 年 8 月 21 日

・説教 マタイの福音書14章13-21節 「貧しい食卓の幸い」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 12:41

 

2011.8.21

 鴨下直樹

 

 今お聞きしましたこのマタイの福音書の物語は「五千人の給食」と呼ばれて非常に多くの人々に親しまれている出来事です。福音書のなかにはいくつもの奇跡物語が記されていますけれども、十字架と復活の出来事と同じように、この物語だけはすべての四つの福音書に記されています。

 それは、それだけ、この出来事が人々の心に残ったということでしょうし、また、この出来事の持つ魅力は多くの人々の慰めになったのだろうと思います。

 

 五つのパンと二匹の魚で男の数だけで五千人の人々が食べて満腹したという奇跡の物語です。多くの人々はこの物語にさまざまな魅力を感じてきました。その中でも特に代表的なものは、このような奇跡を通して神様はその時の必要を満たしてくださるお方だというように理解されることが多いのです。あるいは、少ししか持っていなくても、神様の手によれば何倍にも祝福されて増えるという理解です。

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2011 年 8 月 14 日

・説教 マタイの福音書14章1-12節 「喜びの食卓の中の悲しみ」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 12:42

 

 

2011.8.14

 鴨下直樹

 

 今朝、私たちに与えられている聖書の個所は多くの画家たちによって描きだされ、あるいは、戯曲やオペラの映画などのテーマにもなっている良く知られた物語です。そこではこの少女の名前「サロメ」というテーマがつけられることがほとんどです。

 ところが、すでにお気づきの方も多いと思いますけれども、今お聞きになられた聖書の中には、この「サロメ」という名前は一度も出てきておりません。これは、マタイの福音書のみならず、他の福音書にも記されていないのです。けれども、このヘロデヤの娘の名前はサロメであるということは、もはや誰もが知っています。といいますのは、この時代の歴史学者のヨセフォスが、このバプテスマのヨハネの殉教の物語をずいぶん詳しくその歴史書の中で記しているからです。そこに、このヘロデヤの娘の名前がサロメであったということがはっきり記されているのです。

 サロメという名前は、へブル語のシャロームという名前に由来する言葉です。平和という名前なのです。しかも、ここでは少女であると記されています。十代の半ばであっただろうと考えられています。十五、六歳の平和という名前の少女です。そのような名前を持つ少女がここで、「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言ったと言うだけでも確かに人の心をひきつけるものがあるのかもしれません。そして、この考えられないような非日常的な出来事に、多くの人々が想像力を掻き立てたのです。

 そのような想像力は、最後にはまだ少女であったこのサロメがバプテスマのヨハネを愛していたのではなかったかというところまで膨らんで行きます。そして、その愛が叶わないのであれば、首を求めるものによってまでして、自分のものにしようとしたという、女の恐ろしいばかりの愛の執念というモチーフが多くの芸術家のかっこうの題材になったのでした。 (続きを読む…)

2011 年 7 月 31 日

・説教 マタイの福音書13章53-58節 「味わい見よ、神の御言葉を!」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 12:49

 

 

2011.7.31

 鴨下直樹

 

 

 今日、私たちに与えられている聖書の個所には大変有名な言葉があります。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、自分の家族の間だけです。」

 この「預言者は自分の郷里では敬われない」という言葉は色々なところで使われました。例えば牧師が、自分の故郷で伝道すると言う時には、必ずと言ってもいいほど引用されます。「イエス様だってできなかったんだから、自分にできるはずがない」と言うのです。

 

 私が神学生のころに、比較宗教学という授業がありました。その中で、当時世間を騒がせていた宗教団体、無差別殺人を企てるような反社会的な宗教のグループがありまして、その教祖の書いた物をレポートするという課題がありました。それで、その教祖の書いた本を手にとって読んだのですけれども、どうしてこんな稚拙な文章しか書けないような人物のところに、多くの学歴の高い人々が虜になったのか良く分からいくらいでした。

 その本の中にはいくつもの聖書の言葉を引用しています。その中でも特に印象をもったのが、この「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、自分の家族の間だけです」という言葉を用いて、自分は自分の故郷にいくと、敬われていないのだと述べて、だから自分はメシヤなのだという論理で書き記しているのです。故郷の人や、家族と言うのは、本当の自分のことを分かってくれないのだ、見抜けないのだというのです。メシヤにはそのような苦しみがあるのだと言っているのです。 (続きを読む…)

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